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「ある日の比呂美4」(2008/04/24 (木) 01:52:32) の最新版変更点
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《あら、お夕食もいらないの?》
「あの……練習試合が近くて……ミーティングが長くなりそうなんです」
比呂美は仲上の家に、夕食を断る電話をしていた。
おばさんに教わった料理の練習もしてみたいし、などと、もっともらしい事も付け加える。
《……わかったわ。もし自分で作る時間が無かったら言いなさい。おかずだけでも持って行ってあげるから》
ちゃんと食べるのよ、と最後に釘を刺し、おばさんは電話を切った。
(…………)
自分が嘘を吐いていることに、おばさんは気がついている。……そう比呂美は思った。
今までどれ程忙しくても、眞一郎の側にいる時間を削ったことのない自分が、
急によそよそしい態度を取れば、おかしいと思わないはずがない……
それでも……おばさんは素知らぬフリをしてくれる…… その心遣いが胸に沁みた。
…………
今、比呂美は噴水公園のベンチに一人で座っている。
午後の授業には出席したが、バスケ部の練習は誰にも連絡することなく休んだ。
……朋与から逃げたのだ……
おばさんに言ったことは全部『嘘』。
蛍川との試合はかなり先のことで、ミーティングなどありはしないし、
仲上の味を覚える練習だって、するつもりもない。……もう必要ない…かもしれないのだから。
(…………眞一郎くんの……好きな味…………)
眉間にシワを寄せながら、携帯の画面を見つめる比呂美。指が勝手に動き、アドレスから眞一郎の番号を呼び出す。
左手に洗顔フォーム、右手に歯ブラシを握って笑う眞一郎の写真。
恥ずかしいから別のにしてくれ、と言われたのが、随分遠い日のような気がする。
身体の……いや、『湯浅比呂美』の中心が締め付けられるように痛い。
…………
言われてみれば、朋与の言う通りだ。
『兄妹かもしれない』と思っていたあの頃に、眞一郎が誰と愛し合おうと、自分にはその事を糾弾する資格は無い。
黒部朋与や石動乃絵に愛情を傾けたとしても、それを理由に『今』の眞一郎を責める事は出来ない。
(……それなのに……私は……)
つまらない嫉妬と独占欲に囚われて、眞一郎と朋与の中に燻っていた小さな種火を煽ってしまった。
朋与が必死になって押し殺してきた想いを……燃え上がらせてしまった……
だが……後悔してみても遅い。全て自業自得……
決して消えることは無いと思っていた眞一郎との絆。それが自分自身の心の弱さが原因で崩れ去ろうとしている。
変われたと思っていたのに…… 何も変わってはいなかった……
自分はあの頃のまま…… 何も変わらない『湯浅比呂美』のままだ……
…………
ぐぅ~
胃袋が縮み上がって、何でもいいから食べ物を身体に入れろ、と要求してきた。
そういえば、朝も昼も食べ物を口にしていない。
(…………はぁ……)
比呂美は内心で溜息を吐き、自分の図太さに呆れかえった。
これほど……死にたい程に苦しんでいるというのに、食欲だけは消えないなんて……
…………
……でも思い出してみれば、両親が死んだ時も食事が喉を通らない、ということはなかった。
『あの頃』の一時期、石動乃絵を避けて昼食を取らなかった時も、後でちゃっかりパンをかじったりしていた。
食欲を満たすことで、精神の安定を保つ…… 自分はそういうタイプなのかもしれない……
考えが飛躍し過ぎな気もするが、それで少しの間でも忘れられるなら、それでもいいか、と比呂美は思った。
そういえば今日は、この地区で唯一の大型スーパー『セフレ』の特売日だ。
扇情的なものを想像させる名前が好きではなかったが、比呂美はよくそこを利用していた。
(何か買ってこなきゃ……)
最近は仲上の家で食事を採ることが多かったので、部屋には今、アイスとスナック菓子くらいしかない。
気持ちを強制的に切り替えた比呂美は、ベンチから立ち上がって、スーパーへと向かった。
ジャガイモ、人参、ブロッコリー…… 買い物カゴに次々と入れられていく野菜たち。
仲上家での『修業』の成果か、比呂美の食品を見分ける眼は確かだった。
値段と鮮度を天秤に掛け、一番良い物を的確に選び取っていく。
(何でもいい。他の事を考えていよう…… でなければ……)
自分はきっとおかしくなってしまう…… 恐ろしい事を考えてしまう…… それが……怖い。
内側から滲んでくる闇に呑まれるイメージが頭の中に広がる…… 気持ちの裏に潜んでいる闇に……
…………
「湯浅さん」
後ろから突然声を掛けられて、比呂美はハッと我に返った。
振り返ると、買い物カゴを下げた野伏三代吉が目の前に立っている。
「野伏君……あの……こんばんわ」
自分と同じく、食料品の買出しに来たようだ。手には山盛りの特売品が詰まったカゴを下げている。
「眞一郎は?」
一緒にいる、と思ったのだろう。キョロキョロと視線を巡らし、近くにいるはずの親友の姿を捜す三代吉。
「あの……今日は家で用があるって……」
比呂美は咄嗟に嘘を吐いた。
彼は眞一郎の親友ではあるが、自分とはそれほど親しい訳でもない。……適当にやり過ごそう…… そう思ったのだ。
「一人なの? ……だってさ……その山盛りの材料、どう見ても二人分だろ?」
三代吉に指摘され、比呂美は初めて気がついた。自分が無意識に眞一郎の夕食を用意しようとしていた事に。
新鮮な野菜と豚の角切り肉…… それに眞一郎の好きなメーカーのシチュールー……
(……私……何してるの……)
眞一郎の大好きなシチュー…… そんな物を作っても……無駄なのに……意味は無いのに……
…………馬鹿みたい…………
…………
「! ちょ…… ど、どうしたんだよ」
カゴを肘にかけたまま、俯いて大粒の涙を零しはじめた比呂美の様子に、三代吉は慌てた。
周りにいる買い物客たちが、チラチラと二人に視線を向けて、小声で「なにかしら」と話し出す。
「違います、違いますから」と通り過ぎる人たちに弁解しながら、三代吉はポケットからハンカチを取り出した。
そして、黙ってそれを比呂美に差し出す。
『親友の彼女』にしてやれる事はこのくらい、ということなのだろう。
ハンカチはちゃんと持っていたが、比呂美はそれを……三代吉の優しさを借りることにした。
「ご、ごめんなさい。眼にゴミが入っちゃった」
いぶかしむ三代吉に、量が多いのは一週間分買い溜めしているからだ、とまた嘘を言って誤魔化す。
すぐに泣き止んだ比呂美は、そのまま二人分のシチューの材料を買ってスーパーを出た。
三代吉も「もう暗いから途中まで送る」と言って、その後に続く。
比呂美はその申し出を丁寧に断ったのだが、三代吉は聞き入れなかった。
「何かあったら俺、眞一郎に殺されちまうよ」
そう言って、三代吉は比呂美の持つレジ袋をサッと奪い、一歩先を歩き始めた。
「…………」
そんな事ないわ、と内心で呟きつつ、比呂美もその斜め後ろについて歩き出す。
…………
…………
三代吉は何も訊いてこなかった。
ただ黙って比呂美の前を、眞一郎の代わりに盾となって歩いている。
ゴミが眼に入った、なんて見え透いた嘘を信じたとは思えない。
眞一郎との間に『何か』があったことは察しているはずなのに……
(…………野伏君に……話してみようかな……)
誰かに話せば……楽になれるかも…… ふと、比呂美はそう思った。
この問題には直接関係が無く、それでいて眞一郎の心に近い野伏三代吉なら……丁度良いかもしれない。
…………
「……あの……」
「ん? なんだ?」
訳の分からない事を言おうとしている。その自覚はあった。……それでも、話してしまいたい……
一人で抱え込むのは……もう限界だった。
「…………『友達』の彼氏がね……」
何の脈絡も無く始まる比呂美の話……
声に反応した三代吉が肩越しに振り向くのを見て、比呂美はあさっての方向へ視線を逸らした。
「……元カノと……寄りを戻しそうなんだって…………」
「…………ふ~ん……」
三代吉が脚を止める。比呂美も立ち止まり、眼を合わせないまま話を続ける。
『友達』の事と偽って語られる、比呂美と眞一郎、そして朋与の今……
それを黙って聞く三代吉の瞳は、とても透明で穏やかだった。
そんな話には興味がない、といった風でも、聞かされても迷惑だ、という感じでもない。
比呂美が全てを語り終えるまで、三代吉は一言も発せず、真剣に耳を傾けていた。
…………
「話してしまえば楽になる」というのは本当なのだな、と比呂美は思った。
あくまで他人事を装ってはいたが、閉じ込めた秘密を解放することで、僅かながら心が軽くなった気がする。
(……でも……その後は……)
重たい荷物を少し下ろす代わりに、強烈な自己嫌悪がすぐに襲い掛かってくる。
……眞一郎に『あの秘密』を告げた時もそうだった……
(……もう止めよう……口にするべきじゃなかった……)
比呂美は話を切り上げるために、答えようが無い事を承知で、三代吉に訊いてみた。
「相談…されちゃった。…………野伏君なら……なんて答える?」
さぁな、とでも言って突き放してくれればいい。この話題は……もうお終いだ。
だが、比呂美の予想を越えて、三代吉の口からサラリと明快な回答が飛び出す。
「待つしかねぇな」
……比呂美は呆気に取られてしまった。あまりに単純で消極的に思える、その答えに。
「だってさ、その娘が今、出来ることって……それくらいだろ」
彼氏と元カノがどうなるか、どうするか。それは二人の心の問題だから、『友達』が口を出してはいけない。
たとえ好きな相手でも、親友でも、二人の想いは二人のモノだから。
なら、今は自分自身が出来ることを考えればいい。
(…………)
そんな答え、納得できない…… だってそれじゃ……
不満そうな比呂美の顔を見て、三代吉は話の切り口を変えてきた。
「バスケってさぁ、敵が自分より強い奴だったら、試合止めちゃってもいいの?」
「……え……」
即座に返せない比呂美。三代吉は構わずに続ける。
1on1の勝負……敵は凄い奴だ。そいつはバスケを始めたのは遅いのに、今では自分より上手い。
……勝てない…… 間違いなく抜かれる!! そんな時、どうする?
「…………自分の力を信じて……自分なりのプレーを全力で……する」
比呂美の答えは、三代吉を満足させるモノだったらしい。三日月の様に細められた眼が「そうだ」と言っている。
「元カノはさ……その『友達』を抜き去って、今、シュート体勢に入ってる」
それを後ろから突き飛ばしたり、脚を引っ掛けたりするのって反則じゃね?と三代吉は言った。
シュートが決まるか、ボールがリングから零れるか…… ちゃんと見届ける。
「リバウンド、狙うのはそれからっしょ」
「…………」
比呂美の心の隙間に、三代吉が投げ込んだ答えがストンと嵌まり込んだ。
バラバラに断線していた思考が繋がり、想いが修復されて『あの頃』に戻っていく。
…………
比呂美は、眞一郎がなぜ、野伏三代吉を『親友』と呼ぶのか分かった。
……この少年は凄い…… 眞一郎が信頼を、愛子が愛情を寄せる理由が……今なら理解できる。
本当は分かっているのに……分からないフリをして…… それでいて、ちゃんと行く方向を教えてくれる。
…………
「凄いね、野伏君…… 話してみて良かった」
「惚れるなよ。俺、愛子一筋だかんな」
と、おどけて見せる三代吉。
「私だって……眞一郎くん一筋……だよ」
恥ずかし気も無く切り返す比呂美の表情は、スーパーにいた時とは別人の様だった。
比呂美は三代吉と途中で別れ、また誰もいない噴水公園に戻ってきた。
ベンチにレジ袋を置き、街灯を見上げる。
(……とりあえず、ここでいい)
大好きなあの漫画のように公園にゴールがあるといいのだが、贅沢はいえない。
暗闇をほのかに照らす明かりを背にし、何も無い空間に視線を向ける。
…………
……そこに浮かび上がる幻…… 『黒部朋与の幻影』が、ドリブルをしながらゆっくり近づいてきた。
比呂美の眼が鋭く輝く。
だがそれは、昼間のような憎悪に曇ったものではなかった。
『朋与』が体勢を低く構え、左右に動きながら接近する。
比呂美もそれに応じ、ディフェンスの構えを取った。
……抜かれる…… それは分かっている…… でも、勝負はそのあと!!
ダムッダムッというドリブル音が激しく脳内に響くと、『朋与』の体が比呂美を惑わすように揺れる。
(…………来いっ!!!)
比呂美が一段、腰を落とし込んだ瞬間、『朋与』が仕掛けた!
見事なフェイントで、比呂美の読みを裏切って、反対のコースを抜き去る!
(!!)
振り向いた時には、『朋与』は光の中心に向かってシュートを放とうとしていた。
ヒュッ
両手首のスナップに押し出され、『朋与』から離れていくボール。
それは美しい放物線を描き、光のゴールに吸い込まれていく……かに見えた。
(まだっ!)
リングに弾かれるボール。比呂美と『朋与』は同時に飛び上がり、それに向かって手を伸ばした。
邪魔はしない。でも遠慮もしない。自分もあのボールが……眞一郎が欲しいから。
朋与に勝っているとは思わない。でも、負けているとも思わない。
…………だから勝負する……全力で……真正面から!!…………
…………絶対に……諦めたくないから…………
…………
着地した時、そこはもう公園に戻っていた。『朋与』の姿も消えている。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸が激しく乱れるほどの緊張。イメージの中の朋与との闘いは、比呂美を疲労させた。
しかし、答えを見つけたその顔は、どこか晴れ晴れとしている。
(……そうだ……私が揺らぐ理由は……何も無いんだ……)
眞一郎が好き…… 『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』が好き……
眞一郎が何をしていたとしても、これから何をしても、『想い』は変わらない。
自分の真ん中にある、この『想い』……それを糧にすればいい。
…………そして今は待つ…………
朋与が眞一郎と向き合うというのなら、眞一郎はそれに答えるだろう。
真剣に朋与に向き合うだろう…… その答えを……自分も待つ…… 今はただ……待つだけ……
…………
…………
重たいレジ袋に手を伸ばし、アパートへと比呂美は歩き出す。
その瞳には、取り戻した想いに裏打ちされた光が宿り、怯えと妬みは完全に消え去っていた。
つづく
[[ある日の比呂美5]]
前:[[ある日の比呂美3]]
《あら、お夕食もいらないの?》
「あの……練習試合が近くて……ミーティングが長くなりそうなんです」
比呂美は仲上の家に、夕食を断る電話をしていた。
おばさんに教わった料理の練習もしてみたいし、などと、もっともらしい事も付け加える。
《……わかったわ。もし自分で作る時間が無かったら言いなさい。おかずだけでも持って行ってあげるから》
ちゃんと食べるのよ、と最後に釘を刺し、おばさんは電話を切った。
(…………)
自分が嘘を吐いていることに、おばさんは気がついている。……そう比呂美は思った。
今までどれ程忙しくても、眞一郎の側にいる時間を削ったことのない自分が、
急によそよそしい態度を取れば、おかしいと思わないはずがない……
それでも……おばさんは素知らぬフリをしてくれる…… その心遣いが胸に沁みた。
…………
今、比呂美は噴水公園のベンチに一人で座っている。
午後の授業には出席したが、バスケ部の練習は誰にも連絡することなく休んだ。
……朋与から逃げたのだ……
おばさんに言ったことは全部『嘘』。
蛍川との試合はかなり先のことで、ミーティングなどありはしないし、
仲上の味を覚える練習だって、するつもりもない。……もう必要ない…かもしれないのだから。
(…………眞一郎くんの……好きな味…………)
眉間にシワを寄せながら、携帯の画面を見つめる比呂美。指が勝手に動き、アドレスから眞一郎の番号を呼び出す。
左手に洗顔フォーム、右手に歯ブラシを握って笑う眞一郎の写真。
恥ずかしいから別のにしてくれ、と言われたのが、随分遠い日のような気がする。
身体の……いや、『湯浅比呂美』の中心が締め付けられるように痛い。
…………
言われてみれば、朋与の言う通りだ。
『兄妹かもしれない』と思っていたあの頃に、眞一郎が誰と愛し合おうと、自分にはその事を糾弾する資格は無い。
黒部朋与や石動乃絵に愛情を傾けたとしても、それを理由に『今』の眞一郎を責める事は出来ない。
(……それなのに……私は……)
つまらない嫉妬と独占欲に囚われて、眞一郎と朋与の中に燻っていた小さな種火を煽ってしまった。
朋与が必死になって押し殺してきた想いを……燃え上がらせてしまった……
だが……後悔してみても遅い。全て自業自得……
決して消えることは無いと思っていた眞一郎との絆。それが自分自身の心の弱さが原因で崩れ去ろうとしている。
変われたと思っていたのに…… 何も変わってはいなかった……
自分はあの頃のまま…… 何も変わらない『湯浅比呂美』のままだ……
…………
ぐぅ~
胃袋が縮み上がって、何でもいいから食べ物を身体に入れろ、と要求してきた。
そういえば、朝も昼も食べ物を口にしていない。
(…………はぁ……)
比呂美は内心で溜息を吐き、自分の図太さに呆れかえった。
これほど……死にたい程に苦しんでいるというのに、食欲だけは消えないなんて……
…………
……でも思い出してみれば、両親が死んだ時も食事が喉を通らない、ということはなかった。
『あの頃』の一時期、石動乃絵を避けて昼食を取らなかった時も、後でちゃっかりパンをかじったりしていた。
食欲を満たすことで、精神の安定を保つ…… 自分はそういうタイプなのかもしれない……
考えが飛躍し過ぎな気もするが、それで少しの間でも忘れられるなら、それでもいいか、と比呂美は思った。
そういえば今日は、この地区で唯一の大型スーパー『セフレ』の特売日だ。
扇情的なものを想像させる名前が好きではなかったが、比呂美はよくそこを利用していた。
(何か買ってこなきゃ……)
最近は仲上の家で食事を採ることが多かったので、部屋には今、アイスとスナック菓子くらいしかない。
気持ちを強制的に切り替えた比呂美は、ベンチから立ち上がって、スーパーへと向かった。
ジャガイモ、人参、ブロッコリー…… 買い物カゴに次々と入れられていく野菜たち。
仲上家での『修業』の成果か、比呂美の食品を見分ける眼は確かだった。
値段と鮮度を天秤に掛け、一番良い物を的確に選び取っていく。
(何でもいい。他の事を考えていよう…… でなければ……)
自分はきっとおかしくなってしまう…… 恐ろしい事を考えてしまう…… それが……怖い。
内側から滲んでくる闇に呑まれるイメージが頭の中に広がる…… 気持ちの裏に潜んでいる闇に……
…………
「湯浅さん」
後ろから突然声を掛けられて、比呂美はハッと我に返った。
振り返ると、買い物カゴを下げた野伏三代吉が目の前に立っている。
「野伏君……あの……こんばんわ」
自分と同じく、食料品の買出しに来たようだ。手には山盛りの特売品が詰まったカゴを下げている。
「眞一郎は?」
一緒にいる、と思ったのだろう。キョロキョロと視線を巡らし、近くにいるはずの親友の姿を捜す三代吉。
「あの……今日は家で用があるって……」
比呂美は咄嗟に嘘を吐いた。
彼は眞一郎の親友ではあるが、自分とはそれほど親しい訳でもない。……適当にやり過ごそう…… そう思ったのだ。
「一人なの? ……だってさ……その山盛りの材料、どう見ても二人分だろ?」
三代吉に指摘され、比呂美は初めて気がついた。自分が無意識に眞一郎の夕食を用意しようとしていた事に。
新鮮な野菜と豚の角切り肉…… それに眞一郎の好きなメーカーのシチュールー……
(……私……何してるの……)
眞一郎の大好きなシチュー…… そんな物を作っても……無駄なのに……意味は無いのに……
…………馬鹿みたい…………
…………
「! ちょ…… ど、どうしたんだよ」
カゴを肘にかけたまま、俯いて大粒の涙を零しはじめた比呂美の様子に、三代吉は慌てた。
周りにいる買い物客たちが、チラチラと二人に視線を向けて、小声で「なにかしら」と話し出す。
「違います、違いますから」と通り過ぎる人たちに弁解しながら、三代吉はポケットからハンカチを取り出した。
そして、黙ってそれを比呂美に差し出す。
『親友の彼女』にしてやれる事はこのくらい、ということなのだろう。
ハンカチはちゃんと持っていたが、比呂美はそれを……三代吉の優しさを借りることにした。
「ご、ごめんなさい。眼にゴミが入っちゃった」
いぶかしむ三代吉に、量が多いのは一週間分買い溜めしているからだ、とまた嘘を言って誤魔化す。
すぐに泣き止んだ比呂美は、そのまま二人分のシチューの材料を買ってスーパーを出た。
三代吉も「もう暗いから途中まで送る」と言って、その後に続く。
比呂美はその申し出を丁寧に断ったのだが、三代吉は聞き入れなかった。
「何かあったら俺、眞一郎に殺されちまうよ」
そう言って、三代吉は比呂美の持つレジ袋をサッと奪い、一歩先を歩き始めた。
「…………」
そんな事ないわ、と内心で呟きつつ、比呂美もその斜め後ろについて歩き出す。
…………
…………
三代吉は何も訊いてこなかった。
ただ黙って比呂美の前を、眞一郎の代わりに盾となって歩いている。
ゴミが眼に入った、なんて見え透いた嘘を信じたとは思えない。
眞一郎との間に『何か』があったことは察しているはずなのに……
(…………野伏君に……話してみようかな……)
誰かに話せば……楽になれるかも…… ふと、比呂美はそう思った。
この問題には直接関係が無く、それでいて眞一郎の心に近い野伏三代吉なら……丁度良いかもしれない。
…………
「……あの……」
「ん? なんだ?」
訳の分からない事を言おうとしている。その自覚はあった。……それでも、話してしまいたい……
一人で抱え込むのは……もう限界だった。
「…………『友達』の彼氏がね……」
何の脈絡も無く始まる比呂美の話……
声に反応した三代吉が肩越しに振り向くのを見て、比呂美はあさっての方向へ視線を逸らした。
「……元カノと……寄りを戻しそうなんだって…………」
「…………ふ~ん……」
三代吉が脚を止める。比呂美も立ち止まり、眼を合わせないまま話を続ける。
『友達』の事と偽って語られる、比呂美と眞一郎、そして朋与の今……
それを黙って聞く三代吉の瞳は、とても透明で穏やかだった。
そんな話には興味がない、といった風でも、聞かされても迷惑だ、という感じでもない。
比呂美が全てを語り終えるまで、三代吉は一言も発せず、真剣に耳を傾けていた。
…………
「話してしまえば楽になる」というのは本当なのだな、と比呂美は思った。
あくまで他人事を装ってはいたが、閉じ込めた秘密を解放することで、僅かながら心が軽くなった気がする。
(……でも……その後は……)
重たい荷物を少し下ろす代わりに、強烈な自己嫌悪がすぐに襲い掛かってくる。
……眞一郎に『あの秘密』を告げた時もそうだった……
(……もう止めよう……口にするべきじゃなかった……)
比呂美は話を切り上げるために、答えようが無い事を承知で、三代吉に訊いてみた。
「相談…されちゃった。…………野伏君なら……なんて答える?」
さぁな、とでも言って突き放してくれればいい。この話題は……もうお終いだ。
だが、比呂美の予想を越えて、三代吉の口からサラリと明快な回答が飛び出す。
「待つしかねぇな」
……比呂美は呆気に取られてしまった。あまりに単純で消極的に思える、その答えに。
「だってさ、その娘が今、出来ることって……それくらいだろ」
彼氏と元カノがどうなるか、どうするか。それは二人の心の問題だから、『友達』が口を出してはいけない。
たとえ好きな相手でも、親友でも、二人の想いは二人のモノだから。
なら、今は自分自身が出来ることを考えればいい。
(…………)
そんな答え、納得できない…… だってそれじゃ……
不満そうな比呂美の顔を見て、三代吉は話の切り口を変えてきた。
「バスケってさぁ、敵が自分より強い奴だったら、試合止めちゃってもいいの?」
「……え……」
即座に返せない比呂美。三代吉は構わずに続ける。
1on1の勝負……敵は凄い奴だ。そいつはバスケを始めたのは遅いのに、今では自分より上手い。
……勝てない…… 間違いなく抜かれる!! そんな時、どうする?
「…………自分の力を信じて……自分なりのプレーを全力で……する」
比呂美の答えは、三代吉を満足させるモノだったらしい。三日月の様に細められた眼が「そうだ」と言っている。
「元カノはさ……その『友達』を抜き去って、今、シュート体勢に入ってる」
それを後ろから突き飛ばしたり、脚を引っ掛けたりするのって反則じゃね?と三代吉は言った。
シュートが決まるか、ボールがリングから零れるか…… ちゃんと見届ける。
「リバウンド、狙うのはそれからっしょ」
「…………」
比呂美の心の隙間に、三代吉が投げ込んだ答えがストンと嵌まり込んだ。
バラバラに断線していた思考が繋がり、想いが修復されて『あの頃』に戻っていく。
…………
比呂美は、眞一郎がなぜ、野伏三代吉を『親友』と呼ぶのか分かった。
……この少年は凄い…… 眞一郎が信頼を、愛子が愛情を寄せる理由が……今なら理解できる。
本当は分かっているのに……分からないフリをして…… それでいて、ちゃんと行く方向を教えてくれる。
…………
「凄いね、野伏君…… 話してみて良かった」
「惚れるなよ。俺、愛子一筋だかんな」
と、おどけて見せる三代吉。
「私だって……眞一郎くん一筋……だよ」
恥ずかし気も無く切り返す比呂美の表情は、スーパーにいた時とは別人の様だった。
比呂美は三代吉と途中で別れ、また誰もいない噴水公園に戻ってきた。
ベンチにレジ袋を置き、街灯を見上げる。
(……とりあえず、ここでいい)
大好きなあの漫画のように公園にゴールがあるといいのだが、贅沢はいえない。
暗闇をほのかに照らす明かりを背にし、何も無い空間に視線を向ける。
…………
……そこに浮かび上がる幻…… 『黒部朋与の幻影』が、ドリブルをしながらゆっくり近づいてきた。
比呂美の眼が鋭く輝く。
だがそれは、昼間のような憎悪に曇ったものではなかった。
『朋与』が体勢を低く構え、左右に動きながら接近する。
比呂美もそれに応じ、ディフェンスの構えを取った。
……抜かれる…… それは分かっている…… でも、勝負はそのあと!!
ダムッダムッというドリブル音が激しく脳内に響くと、『朋与』の体が比呂美を惑わすように揺れる。
(…………来いっ!!!)
比呂美が一段、腰を落とし込んだ瞬間、『朋与』が仕掛けた!
見事なフェイントで、比呂美の読みを裏切って、反対のコースを抜き去る!
(!!)
振り向いた時には、『朋与』は光の中心に向かってシュートを放とうとしていた。
ヒュッ
両手首のスナップに押し出され、『朋与』から離れていくボール。
それは美しい放物線を描き、光のゴールに吸い込まれていく……かに見えた。
(まだっ!)
リングに弾かれるボール。比呂美と『朋与』は同時に飛び上がり、それに向かって手を伸ばした。
邪魔はしない。でも遠慮もしない。自分もあのボールが……眞一郎が欲しいから。
朋与に勝っているとは思わない。でも、負けているとも思わない。
…………だから勝負する……全力で……真正面から!!…………
…………絶対に……諦めたくないから…………
…………
着地した時、そこはもう公園に戻っていた。『朋与』の姿も消えている。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸が激しく乱れるほどの緊張。イメージの中の朋与との闘いは、比呂美を疲労させた。
しかし、答えを見つけたその顔は、どこか晴れ晴れとしている。
(……そうだ……私が揺らぐ理由は……何も無いんだ……)
眞一郎が好き…… 『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』が好き……
眞一郎が何をしていたとしても、これから何をしても、『想い』は変わらない。
自分の真ん中にある、この『想い』……それを糧にすればいい。
…………そして今は待つ…………
朋与が眞一郎と向き合うというのなら、眞一郎はそれに答えるだろう。
真剣に朋与に向き合うだろう…… その答えを……自分も待つ…… 今はただ……待つだけ……
…………
…………
重たいレジ袋に手を伸ばし、アパートへと比呂美は歩き出す。
その瞳には、取り戻した想いに裏打ちされた光が宿り、怯えと妬みは完全に消え去っていた。
つづく
[[ある日の比呂美5]]