ある日の比呂美6

「ある日の比呂美6」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

ある日の比呂美6」(2008/05/08 (木) 00:17:33) の最新版変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

前:[[ある日の比呂美5]] 眞一郎との約束の日は、この季節らしい曇天だった。 今にも雪が零れ落ちそうな……そんな空を、部屋の窓からボンヤリと見つめる。 朋与は今日、登校していない。 母が出勤したあとで、担任と部活の顧問に自分で連絡を入れ、『風邪』をひいたという事にしてしまった。 《湯浅が代わりに何とかするだろ。ちゃんと休んで、早く治せよ》 顧問の先生は、そう言葉で見舞ってくれるのと共に、比呂美が昨日の無断欠席を謝罪に来た事も教えてくれた。 (……比呂美は学校に来てる……) ……あれほど憔悴しきっていたというのに…… 迷っている時のあの娘は、とても弱い。平気な顔で日常を営むことなど出来ないはずだ。 ……比呂美も答えにたどり着いたのだな……と朋与は理解した。 分かるのだ。だって『親友』だから。 そして朋与は、『友情』という思考を閉じて、比呂美の事を考えるのを止める。 比呂美の想いを気遣って……などという言い訳はしたくなかった。 このあと起こる出来事に比呂美は関係ない。これは自分と眞一郎の問題なのだ。 ………… 壁の時計に目をやる。もうすぐ眞一郎がやってくる頃だった。 (…………もう時間か……) 仮病の電話をしてからこれまでの時間、朋与は意図的に何もしないで時をやり過ごした。 テレビも観ないし、ネットも繋がない。漫画も文庫本も読まないし、音楽も聴かない。 時折、脚に纏わり付いてくる猫のボーも無視した。 何かに集中することで、時間が早く過ぎてしまうのが怖かったのだ。 もちろん、そんなことで物理的に時間が延長されるわけはない。 ……それでも……朋与は自分の中で燻る『恋心』の要求を、完全に抑え込むことは出来なかった。 『終わりの始まり』を遅らせたい…… 少しでも長く、眞一郎を好きな自分でいたい…… ………… だが、現実はどこまでも朋与に対して残酷だった。 部屋の窓に切り取られた、彩度の失せた世界。その隅にライトグリーンの点が現れる。 何度か目にした事のある、特徴的なデザインのコート。 「変な趣味」とからかったことを思い出し、朋与は泣きそうになった。 (……なんで……約束どおりに来るのよ……) 少しくらい遅れて来れば良いのに。時間なんて守れない……いい加減な男になればいいのに…… …………いい加減な男に……なってくれれば…… そうすれば……比呂美と自分のあいだを……器用に立ち回って……そして…… ………… 「ハハ……馬鹿じゃないの、私」 乾いた声を出して、間の抜けた妄想を笑う。 眞一郎がそんな男なら、自分も比呂美もこんなに彼を愛したりしない。 ……こんな……胸の奥にある大切なモノが砕かれる苦しみを……味わうことはない…… ………… (……始めよう……) 朋与は窓から離れると鏡の前に立ち、今日の天気の様に曇った自分の顔に、ピシャっと平手で喝を入れた。 表情筋を想いとは逆に動かし、無理矢理に笑顔を作る。 自室を出て階段を降り、玄関へ。そしてチャイムが鳴るのを待っていると、ほどなく、眞一郎はやってきた。 朋与は呼び鈴と同時にドアを開け、満面の笑みで出迎える。 「……あ…」 眞一郎が口を開くよりも早く、その身体を中へ引っ張り込み、ドアを閉めてから乳房を押し付けるようにして抱きつく。 「……待ってたよ……」 眞一郎の反応は無い。平坦な表情を変えることも無く、朋与のしたいように身体を任せていた。 「来て、早く」と眞一郎の耳元で囁いて、一年前と同じ様に袖を引いて階段を上がる。 ………… 朋与は気づいていた。 眞一郎が、自分と同じ様に感情を押し隠す『仮面』を付けていることに。 お互いに涙を隠す仮面を被って演じる、観客のいない二人だけのお芝居…… ……そして……その仮面を外した時……自分と眞一郎は…… ………… (大丈夫……私は……大丈夫……) 覚悟はとっくに出来ている…… その固い決意とは裏腹に、笑顔の仮面の裏側で、朋与の心は泣いていた。 (変わってないな……) 朋与の部屋は『あの時』のまま、時間が止まっているかのようだった。 その景色はまるで、無意識に凍結させていた自分と朋与の気持ちが、形になって現れたように眞一郎には思えた。 「さぁ、しよ」 ドアの側から動かない眞一郎を放置して、朋与は服を脱ぎはじめ、あっという間に下着だけになってしまう。 ライトグレーのスポーツブラに包まれた朋与の乳房が眼にとまり、思わず視線を逸らす眞一郎。 朋与はクスッと笑いながら「今更なに照れてんの」と、幾分成長した胸を持ち上げてみせる。 そして机の引き出しを開けて中を漁ると、小さな箱を取り出して見せた。 「じゃ~ん!これ、買っておきました~!」 誇らしげに眞一郎に突き出される、高級スキンの箱。 朋与のテンションは上昇を続け、ニコニコしながら手にした物の説明を始める。 「これ凄いんだって。『つけているのに、つけてない感触』らしいよ」 薄々だよ~、きっと気持ち良いよ~、などと上機嫌な様子の朋与に、眞一郎は意を決して近づいていった。 見るからに不自然な浮かれ方をしている朋与から、スキンの箱を取り上げ、部屋の隅に投げ捨てる。 射抜くような眞一郎の視線に捕らえられ、朋与の動きがピタリと止まると、その顔から笑みが消えた。 …………そして………… 目の前まで迫った眞一郎の胸に、もたれ掛かるように身を預ける朋与。 「…………いいよ……眞一郎がつけたくないなら……そのまましてもいい……」 好きにしていい…… また中に出してもいい…… 妊娠したって……構わない…… そう囁いて、朋与は腕を眞一郎の背中へと滑らせる。 だが、その手が眞一郎を抱きしめる前に、朋与の身体は強い力で引き離された。 「…………眞一郎……」 「分かってるはずだ。俺が……何をしにここへ来たか」 朋与の瞳の色が濁り、眞一郎の眼差しが苦痛だと言わんばかりに眼を逸らす。 「……分かんない」 「朋与!」 「分かんないよッッ!!」 再び向けられた朋与の双眼は、悲しみに満ち溢れていた。 「…………比呂美なんて……眞一郎に相応しくないじゃん……」 朋与の口から漏れ出す、比呂美を罵倒する口汚い言葉の数々。 ちょっと可愛いからって調子にのってる…… 先に眞一郎に出逢ったからっていい気になってる…… いつも眞一郎を悲しませるクセに…… いつも眞一郎を苦しめるクセに…… 瞳を真っ赤に充血させて比呂美を罵る朋与を、眞一郎も悲しみに染まった眼で見つめる。 「……ひ…比呂美なんてッッ!!!」 「もうよせッ!!」 眞一郎の両手が朋与の肩を鷲掴みにして、正気に戻れとばかりに、その身体を揺さぶった。 「『俺に嫌われるための芝居』なんて、しなくていいッッ!!」 「!!!!」 朋与の唇が半分開いたまま止まり、小刻みに震え出す。 ……眞一郎には分かっていた。黒部朋与は、そんなことを考える人間ではないと。 …………朋を与えると書いて『朋与』………… その名のとおり、『朋』……友情を宝として、周りを気遣い、そして与え続ける…… そんな優しい少女…… それが眞一郎の知る『黒部朋与』だった。 ……もう……彼女を自分のために苦しめてはいけない……彼女に甘えては……逃げてはいけない………… 「俺がちゃんとするから。……ちゃんと……『終わらせる』から……」 その眞一郎の言葉を聞いて、苦しげに顔を歪め「嫌だ嫌だ」と首を振る朋与。 言いたくない。聞かせたくない。朋与を傷つけたくない。 ……でも…… 言わなきゃ飛べない。進めない。自分も、朋与も。 ………… 眞一郎は覚悟を決め、朋与の心を切り裂くナイフを抜き放った。 眞一郎が何か言っている…… 眼を潤ませながら、何か言っている…… 目の前にある唇が動くたびに、頭から血の気が失せて、視界が黒く濁っていく…… (……あぁ……始まっちゃった……) 掠れそうな意識の中で、朋与は眞一郎の言葉を噛み締めていた。 二人が心の片隅に隠していた想い……その終わりを告げる言葉を。 鼓膜が働くことを拒否しているので、眞一郎の声自体は、あまり良く聞こえない。 でも何が言いたいのか……何を言おうとしているのか……それは分かる。 眞一郎の唇が生み出す優しい言葉たちは、最後に自分の想いを粉々にするだろう。 …………もう……二度と元に戻れなくなるほど粉々に………… そして眞一郎は苦しみを一人で背負い込もうとしている。『自分を想ってくれる人を傷つける』という苦しみを。 (大丈夫だよ…… それ半分、私が背負ってあげるから……) 二人で始めた事だから、責任は半分づつだ。そして二人で終わらせよう。 眞一郎にだけ苦しい思いなんてさせない。自分も同じだけ苦しみたい。 ……だって好きだから…… ……だって……愛しているから…… ………… ………… 悲しみで靄の掛かっていた朋与の瞳が、スッと閉じられる。 そして、すぐに開かれた両眼には、萎えかけていた強固な意志が蘇っていた。 「……朋……」 突然、変化した朋与の様子に、眞一郎は一瞬だけ怯んだ。 朋与は肩に掛けられた眞一郎の手を払い除け、目線の高さにあるコートの襟元を締め上げるように掴む。 「!」 驚いている眞一郎を無視し、身体の反動を利用して、すぐ右側にあるベッドへ向かって眞一郎を投げ飛ばす朋与。 眞一郎の華奢な身体は突然の投げ技に逆らえず、無様にベッドの上で仰向けになってしまった。 「な、なにを…」 眞一郎が動転している僅かな隙に、朋与はブラとショーツを脱ぎ捨て、最後に髪留めを外し放り投げた。 壁に弾かれ床を跳ねる髪留めが、カツン、カツンと乾いた音を立てる。 眞一郎がその行方に気を取られた瞬間、朋与は眞一郎の腹に馬乗りになり、強引に唇を奪った。 「ッ!!」 眞一郎の口元全体を舐め回す様に味わったあと、朋与は唇を離してニヤリと笑う。 「ゴメンね……私、乃絵じゃないから……そんなのポエムみたいなこと言われても分かんない」 「……え……」 「それに……面倒くさいのも嫌い」 朋与の豹変ぶりに、眞一郎は言葉を失った。 そして乳房を眞一郎の目の前にチラつかせたまま、朋与は扇情的で下品な言葉の羅列を浴びせかける。     《見て……おっぱい、大きくなったでしょ?》         《眞一郎のこと考えて……ずっと一人でシテたの……》     《忘れられないよ…… だって凄かったんだもん、眞一郎のアレ……》         《ねぇ、しよ。もう濡れてるの…… 早く挿入れて……》 蛇が獲物を絞め殺すような動きで、自らの裸体を眞一郎に絡ませるはじめる朋与。 「しちゃおうよ…… そしたら全部忘れられるよ…… 比呂美のこともさ……」 舌で上下の唇をペロリと舐め上げ、フフフと笑う朋与が視界いっぱいに広がった時、眞一郎の心がキレた。 「やめろォォォォっっ!!!!」 絶叫と共に朋与の身体を突き飛ばして跳ね除け、眞一郎はベッドから転げ出る。 肺の中の空気を全て消費してしまったのか、呼吸がハァハァと荒くなっていた。 「…………」 起き上がり、体勢を立て直した朋与は、男を求める眼から一転して、侮蔑するような視線を眞一郎に向ける。 「なに格好つけてんのよ……本当はヤリたいんでしょ?」 「違うッッ!!」 即座に否定する眞一郎を、朋与はゴミでも見るかのように蔑み、そして笑った。 「フフ……おかしい。チンチン硬くして、なに言ってんの?」 さっきから勃起しっぱなしじゃない、気づいてないとでも思ってる?と眼を細める朋与。 「…………よせって言ったろ。そんな芝居」 「芝居? 何のこと? 随分と私のこと買い被ってるみたいだけど……勝手な妄想は迷惑なのよね」 馬鹿じゃないの?と吐き捨ててから、朋与の『口撃』は尚も続く。 あの時、優しくしてやったのは、上手くたらし込めば玉の輿に乗れると思ったから。 仲上酒造といえば、麦端で一二を争う名家だ。 ちょっと早いかな、とは考えたが、金持ちの家に転がり込むチャンスは、そう何度もやって来ない。 相手は失恋したての童貞バカ息子。相談するフリをして近づけば、簡単に堕とせる。 いい具合に妊娠でもすれば、後の人生、左団扇で暮らしていける。 「上手く行けばって軽い気持ちで始めたのに、それがこんな面倒なことになるなんてね~」 ハハハと乾いた笑いを漏らした朋与は、話を聞く眞一郎が全く表情を変えていないことに気がついた。 「!! ……な、何とか言ったらどうなのよッッ!!!」 瞬時に顔を険しくして、眞一郎に噛み付く朋与。 その朋与の様子を見て、眞一郎は両眼から大粒の涙を溢れさせる。 「! ……また……お、男のクセにッ!!」 もうこれで三度目…… 何度、自分の前で泣けば気が済むのか!! そう声を荒らげて罵倒する朋与に、眞一郎は静かに言った。 「……じゃあ……お前のソレは……何だよ…………」 「!!」 頬の違和感に気づき、ゆっくりと顔をなぞった朋与の指先が、水分を吸ってしっとりと濡れる。 (……私……泣い…て…………) いつからだろう…… いつから…… これでは台無しだ…… せっかく……上手く行って………… 眞一郎を…… 眞一郎を……解放して…… ………… 「もういい……もういいから……」 泣きながら微笑む眞一郎の声を合図に、ゆっくりと壊れていく朋与の表情。 涙は眼球全体を覆いつくし、その眼に映る眞一郎の像を歪める。 「朋与……」 床に倒れ込んでいた眞一郎が、ゆっくりと立ち上がるのが、ぼやけて見える。 横隔膜が痙攣をはじめ、呼吸が途切れ途切れになっていく。 …………限界が近い…………  そう感じた朋与は、眞一郎に向かって、声を絞り出すように懇願した。 「……言って……私…私が……壊れちゃう前に……ちゃんと!……言ってッッ!!」 その悲痛な叫びを耳にし、眞一郎は震える両脚を踏ん張り、拳を固く握り締めて朋与に向き合う。 そして……涙で透明に塗装された朋与の顔を真っ直ぐに見つめながら、眞一郎はその『想い』を切り裂いた。     『俺が愛してるのは……『朋与』じゃないッ!『比呂美』だッ!!           これから先、ずっと側にいて欲しいのは……『湯浅比呂美』だッッ!!!」 ………… ………… 一瞬の……眞一郎と朋与にとっては、永遠とも思える静寂が訪れる…… ……そして、それを破ったのは、地を這うような朋与の笑い声だった。 「……ハハ……ハハハ……」 再び顔を伏せ、狂ったように笑いながら、朋与が眞一郎に向かって最初に投げつけたのは枕だった。 虚ろな表情のまま、破壊された心を表現する様に、ベッドの近くにある物を次々と眞一郎めがけて投げ続ける朋与。 文庫本、CDケース、ぬいぐるみ……朋与が手に取れる、ありとあらゆる物が眞一郎に向かって飛んでくる。 眞一郎は身体に命中するそれらを黙って、ただ黙って全身で受け止めていた。 「……ハハハ……そんなこと……そんなことね…………」 右手に目覚まし時計を手にした瞬間、朋与はグシャグシャに崩れた顔を眞一郎に向け、そして叫んだ。 「…………最初からッ…分かってるわよおおおッッッ!!!!」 弓のようにしなった朋与の右腕が、プラスチックの塊を放り投げる。 壁に叩きつけるつもりで投げたそれは、真っ直ぐに眞一郎の顔面に向かい、ガツッと音を立てて額に直撃した。 それは微動だにしない眞一郎の気力で跳ね返され、硬い床の上で部品を撒き散らしながら転げ回る。 「!」 眞一郎の額……その左側に赤いものが滲むのを見て、朋与はハッとなった。 瞬間、怪我を案じる表情を浮かべ、ベッドに沈みかけていた身体を半分立ち上げる。 「……あぁ……」と声にならない声を漏らしながら、朋与は手を眞一郎に伸ばしかけるが、瞳を伏せて思い止まる。 ……もう……『眞一郎』に近づいてはダメ……触れてはダメ…… 今度は……私が『眞一郎』を……解放してあげる番………… ………… 眞一郎に差し出した手の平をギュッっと握り締め、朋与はそれをベッドに向けて垂直に打ち付けた。 ドスッという鈍い音に反応して、眞一郎の視線が僅かに動く。 ベッドにめり込ませた自分の拳を見つめながら、震える声で朋与は言う。 「…………消えろ…………」 「…………」 動くことも、口を開くことも出来ずにいる眞一郎。 その気配を感じた朋与は、最後の涙を溢れさせて叫んだ。 「…………私の中から消えろッッ!! 仲上眞一郎ぉぉぉッッ!!!!」 朋与が眞一郎に向けて放った最後の言葉…… それに込められた悲しみと苦しみが眞一郎の『想い』を貫き、粉々に砕け散らせた。 そして眞一郎も最後の別れを告げる。 止め処なく流れる涙を隠すこともなく、拭うこともなく、顔を上げない朋与の姿を目に焼き付けながら…… ……最後の言葉を…… 「…………さよなら……『朋与』…………」 朋与からの返事は無い…… もう二度と呼ぶことはない『朋与』という名前…… 眞一郎は身体に残った想いの断片を、その一言の中に全て込めた。 ……終わったのだ…… ……もう自分はここに……朋与の側に居てはいけない…… 眞一郎はもう一度、肩を震わせて心の崩壊に耐えている朋与の姿を脳裏に焼きつけて、部屋のドアを開けた。 「!」 戸口をくぐりかけた時、廊下に鎮座していた朋与の愛猫、ボーの睨むような視線に、眞一郎は捕まってしまった。 「シャアアアーッッ!!」 ボーは眞一郎の姿を確認するなり、全身の毛を逆立てて牙を剥く。 ……朋与を泣かせる奴は、この家から出て行け!!…… そう叫ばれた気がして、眞一郎の胸は更に深く抉られた。 ドアを開けたまま固まっている眞一郎の横をすり抜け、ボーは主人の元へ急ぐ。 眞一郎が静かにドアを閉めると、中から朋与を慰めるような、ボーの甘い鳴き声が聞こえてきた。 そして……眞一郎がドアから離れ、一階へと向かう階段に脚を踏み出した時…… 「……うぅ…うわあああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」 壁を突き抜けて、朋与の激しい慟哭が、眞一郎の背中に突き刺さった。 それに呼応するように、眞一郎の眼からもまた、大粒の雫が零れ落ちる。 「……うぅ……ううぅぅっ……」 声を堪えるのが精一杯だった。拭っても拭っても、その雫の噴出は止まる気配を見せない。 それはまるで涙腺が意思を持ち、『人が人を想う気持ち』の不可解さと尊さを、眞一郎に教えているかのようだった つづく
前:[[ある日の比呂美5]] 眞一郎との約束の日は、この季節らしい曇天だった。 今にも雪が零れ落ちそうな……そんな空を、部屋の窓からボンヤリと見つめる。 朋与は今日、登校していない。 母が出勤したあとで、担任と部活の顧問に自分で連絡を入れ、『風邪』をひいたという事にしてしまった。 《湯浅が代わりに何とかするだろ。ちゃんと休んで、早く治せよ》 顧問の先生は、そう言葉で見舞ってくれるのと共に、比呂美が昨日の無断欠席を謝罪に来た事も教えてくれた。 (……比呂美は学校に来てる……) ……あれほど憔悴しきっていたというのに…… 迷っている時のあの娘は、とても弱い。平気な顔で日常を営むことなど出来ないはずだ。 ……比呂美も答えにたどり着いたのだな……と朋与は理解した。 分かるのだ。だって『親友』だから。 そして朋与は、『友情』という思考を閉じて、比呂美の事を考えるのを止める。 比呂美の想いを気遣って……などという言い訳はしたくなかった。 このあと起こる出来事に比呂美は関係ない。これは自分と眞一郎の問題なのだ。 ………… 壁の時計に目をやる。もうすぐ眞一郎がやってくる頃だった。 (…………もう時間か……) 仮病の電話をしてからこれまでの時間、朋与は意図的に何もしないで時をやり過ごした。 テレビも観ないし、ネットも繋がない。漫画も文庫本も読まないし、音楽も聴かない。 時折、脚に纏わり付いてくる猫のボーも無視した。 何かに集中することで、時間が早く過ぎてしまうのが怖かったのだ。 もちろん、そんなことで物理的に時間が延長されるわけはない。 ……それでも……朋与は自分の中で燻る『恋心』の要求を、完全に抑え込むことは出来なかった。 『終わりの始まり』を遅らせたい…… 少しでも長く、眞一郎を好きな自分でいたい…… ………… だが、現実はどこまでも朋与に対して残酷だった。 部屋の窓に切り取られた、彩度の失せた世界。その隅にライトグリーンの点が現れる。 何度か目にした事のある、特徴的なデザインのコート。 「変な趣味」とからかったことを思い出し、朋与は泣きそうになった。 (……なんで……約束どおりに来るのよ……) 少しくらい遅れて来れば良いのに。時間なんて守れない……いい加減な男になればいいのに…… …………いい加減な男に……なってくれれば…… そうすれば……比呂美と自分のあいだを……器用に立ち回って……そして…… ………… 「ハハ……馬鹿じゃないの、私」 乾いた声を出して、間の抜けた妄想を笑う。 眞一郎がそんな男なら、自分も比呂美もこんなに彼を愛したりしない。 ……こんな……胸の奥にある大切なモノが砕かれる苦しみを……味わうことはない…… ………… (……始めよう……) 朋与は窓から離れると鏡の前に立ち、今日の天気の様に曇った自分の顔に、ピシャっと平手で喝を入れた。 表情筋を想いとは逆に動かし、無理矢理に笑顔を作る。 自室を出て階段を降り、玄関へ。そしてチャイムが鳴るのを待っていると、ほどなく、眞一郎はやってきた。 朋与は呼び鈴と同時にドアを開け、満面の笑みで出迎える。 「……あ…」 眞一郎が口を開くよりも早く、その身体を中へ引っ張り込み、ドアを閉めてから乳房を押し付けるようにして抱きつく。 「……待ってたよ……」 眞一郎の反応は無い。平坦な表情を変えることも無く、朋与のしたいように身体を任せていた。 「来て、早く」と眞一郎の耳元で囁いて、一年前と同じ様に袖を引いて階段を上がる。 ………… 朋与は気づいていた。 眞一郎が、自分と同じ様に感情を押し隠す『仮面』を付けていることに。 お互いに涙を隠す仮面を被って演じる、観客のいない二人だけのお芝居…… ……そして……その仮面を外した時……自分と眞一郎は…… ………… (大丈夫……私は……大丈夫……) 覚悟はとっくに出来ている…… その固い決意とは裏腹に、笑顔の仮面の裏側で、朋与の心は泣いていた。 (変わってないな……) 朋与の部屋は『あの時』のまま、時間が止まっているかのようだった。 その景色はまるで、無意識に凍結させていた自分と朋与の気持ちが、形になって現れたように眞一郎には思えた。 「さぁ、しよ」 ドアの側から動かない眞一郎を放置して、朋与は服を脱ぎはじめ、あっという間に下着だけになってしまう。 ライトグレーのスポーツブラに包まれた朋与の乳房が眼にとまり、思わず視線を逸らす眞一郎。 朋与はクスッと笑いながら「今更なに照れてんの」と、幾分成長した胸を持ち上げてみせる。 そして机の引き出しを開けて中を漁ると、小さな箱を取り出して見せた。 「じゃ~ん!これ、買っておきました~!」 誇らしげに眞一郎に突き出される、高級スキンの箱。 朋与のテンションは上昇を続け、ニコニコしながら手にした物の説明を始める。 「これ凄いんだって。『つけているのに、つけてない感触』らしいよ」 薄々だよ~、きっと気持ち良いよ~、などと上機嫌な様子の朋与に、眞一郎は意を決して近づいていった。 見るからに不自然な浮かれ方をしている朋与から、スキンの箱を取り上げ、部屋の隅に投げ捨てる。 射抜くような眞一郎の視線に捕らえられ、朋与の動きがピタリと止まると、その顔から笑みが消えた。 …………そして………… 目の前まで迫った眞一郎の胸に、もたれ掛かるように身を預ける朋与。 「…………いいよ……眞一郎がつけたくないなら……そのまましてもいい……」 好きにしていい…… また中に出してもいい…… 妊娠したって……構わない…… そう囁いて、朋与は腕を眞一郎の背中へと滑らせる。 だが、その手が眞一郎を抱きしめる前に、朋与の身体は強い力で引き離された。 「…………眞一郎……」 「分かってるはずだ。俺が……何をしにここへ来たか」 朋与の瞳の色が濁り、眞一郎の眼差しが苦痛だと言わんばかりに眼を逸らす。 「……分かんない」 「朋与!」 「分かんないよッッ!!」 再び向けられた朋与の双眼は、悲しみに満ち溢れていた。 「…………比呂美なんて……眞一郎に相応しくないじゃん……」 朋与の口から漏れ出す、比呂美を罵倒する口汚い言葉の数々。 ちょっと可愛いからって調子にのってる…… 先に眞一郎に出逢ったからっていい気になってる…… いつも眞一郎を悲しませるクセに…… いつも眞一郎を苦しめるクセに…… 瞳を真っ赤に充血させて比呂美を罵る朋与を、眞一郎も悲しみに染まった眼で見つめる。 「……ひ…比呂美なんてッッ!!!」 「もうよせッ!!」 眞一郎の両手が朋与の肩を鷲掴みにして、正気に戻れとばかりに、その身体を揺さぶった。 「『俺に嫌われるための芝居』なんて、しなくていいッッ!!」 「!!!!」 朋与の唇が半分開いたまま止まり、小刻みに震え出す。 ……眞一郎には分かっていた。黒部朋与は、そんなことを考える人間ではないと。 …………朋を与えると書いて『朋与』………… その名のとおり、『朋』……友情を宝として、周りを気遣い、そして与え続ける…… そんな優しい少女…… それが眞一郎の知る『黒部朋与』だった。 ……もう……彼女を自分のために苦しめてはいけない……彼女に甘えては……逃げてはいけない………… 「俺がちゃんとするから。……ちゃんと……『終わらせる』から……」 その眞一郎の言葉を聞いて、苦しげに顔を歪め「嫌だ嫌だ」と首を振る朋与。 言いたくない。聞かせたくない。朋与を傷つけたくない。 ……でも…… 言わなきゃ飛べない。進めない。自分も、朋与も。 ………… 眞一郎は覚悟を決め、朋与の心を切り裂くナイフを抜き放った。 眞一郎が何か言っている…… 眼を潤ませながら、何か言っている…… 目の前にある唇が動くたびに、頭から血の気が失せて、視界が黒く濁っていく…… (……あぁ……始まっちゃった……) 掠れそうな意識の中で、朋与は眞一郎の言葉を噛み締めていた。 二人が心の片隅に隠していた想い……その終わりを告げる言葉を。 鼓膜が働くことを拒否しているので、眞一郎の声自体は、あまり良く聞こえない。 でも何が言いたいのか……何を言おうとしているのか……それは分かる。 眞一郎の唇が生み出す優しい言葉たちは、最後に自分の想いを粉々にするだろう。 …………もう……二度と元に戻れなくなるほど粉々に………… そして眞一郎は苦しみを一人で背負い込もうとしている。『自分を想ってくれる人を傷つける』という苦しみを。 (大丈夫だよ…… それ半分、私が背負ってあげるから……) 二人で始めた事だから、責任は半分づつだ。そして二人で終わらせよう。 眞一郎にだけ苦しい思いなんてさせない。自分も同じだけ苦しみたい。 ……だって好きだから…… ……だって……愛しているから…… ………… ………… 悲しみで靄の掛かっていた朋与の瞳が、スッと閉じられる。 そして、すぐに開かれた両眼には、萎えかけていた強固な意志が蘇っていた。 「……朋……」 突然、変化した朋与の様子に、眞一郎は一瞬だけ怯んだ。 朋与は肩に掛けられた眞一郎の手を払い除け、目線の高さにあるコートの襟元を締め上げるように掴む。 「!」 驚いている眞一郎を無視し、身体の反動を利用して、すぐ右側にあるベッドへ向かって眞一郎を投げ飛ばす朋与。 眞一郎の華奢な身体は突然の投げ技に逆らえず、無様にベッドの上で仰向けになってしまった。 「な、なにを…」 眞一郎が動転している僅かな隙に、朋与はブラとショーツを脱ぎ捨て、最後に髪留めを外し放り投げた。 壁に弾かれ床を跳ねる髪留めが、カツン、カツンと乾いた音を立てる。 眞一郎がその行方に気を取られた瞬間、朋与は眞一郎の腹に馬乗りになり、強引に唇を奪った。 「ッ!!」 眞一郎の口元全体を舐め回す様に味わったあと、朋与は唇を離してニヤリと笑う。 「ゴメンね……私、乃絵じゃないから……そんなのポエムみたいなこと言われても分かんない」 「……え……」 「それに……面倒くさいのも嫌い」 朋与の豹変ぶりに、眞一郎は言葉を失った。 そして乳房を眞一郎の目の前にチラつかせたまま、朋与は扇情的で下品な言葉の羅列を浴びせかける。     《見て……おっぱい、大きくなったでしょ?》         《眞一郎のこと考えて……ずっと一人でシテたの……》     《忘れられないよ…… だって凄かったんだもん、眞一郎のアレ……》         《ねぇ、しよ。もう濡れてるの…… 早く挿入れて……》 蛇が獲物を絞め殺すような動きで、自らの裸体を眞一郎に絡ませるはじめる朋与。 「しちゃおうよ…… そしたら全部忘れられるよ…… 比呂美のこともさ……」 舌で上下の唇をペロリと舐め上げ、フフフと笑う朋与が視界いっぱいに広がった時、眞一郎の心がキレた。 「やめろォォォォっっ!!!!」 絶叫と共に朋与の身体を突き飛ばして跳ね除け、眞一郎はベッドから転げ出る。 肺の中の空気を全て消費してしまったのか、呼吸がハァハァと荒くなっていた。 「…………」 起き上がり、体勢を立て直した朋与は、男を求める眼から一転して、侮蔑するような視線を眞一郎に向ける。 「なに格好つけてんのよ……本当はヤリたいんでしょ?」 「違うッッ!!」 即座に否定する眞一郎を、朋与はゴミでも見るかのように蔑み、そして笑った。 「フフ……おかしい。チンチン硬くして、なに言ってんの?」 さっきから勃起しっぱなしじゃない、気づいてないとでも思ってる?と眼を細める朋与。 「…………よせって言ったろ。そんな芝居」 「芝居? 何のこと? 随分と私のこと買い被ってるみたいだけど……勝手な妄想は迷惑なのよね」 馬鹿じゃないの?と吐き捨ててから、朋与の『口撃』は尚も続く。 あの時、優しくしてやったのは、上手くたらし込めば玉の輿に乗れると思ったから。 仲上酒造といえば、麦端で一二を争う名家だ。 ちょっと早いかな、とは考えたが、金持ちの家に転がり込むチャンスは、そう何度もやって来ない。 相手は失恋したての童貞バカ息子。相談するフリをして近づけば、簡単に堕とせる。 いい具合に妊娠でもすれば、後の人生、左団扇で暮らしていける。 「上手く行けばって軽い気持ちで始めたのに、それがこんな面倒なことになるなんてね~」 ハハハと乾いた笑いを漏らした朋与は、話を聞く眞一郎が全く表情を変えていないことに気がついた。 「!! ……な、何とか言ったらどうなのよッッ!!!」 瞬時に顔を険しくして、眞一郎に噛み付く朋与。 その朋与の様子を見て、眞一郎は両眼から大粒の涙を溢れさせる。 「! ……また……お、男のクセにッ!!」 もうこれで三度目…… 何度、自分の前で泣けば気が済むのか!! そう声を荒らげて罵倒する朋与に、眞一郎は静かに言った。 「……じゃあ……お前のソレは……何だよ…………」 「!!」 頬の違和感に気づき、ゆっくりと顔をなぞった朋与の指先が、水分を吸ってしっとりと濡れる。 (……私……泣い…て…………) いつからだろう…… いつから…… これでは台無しだ…… せっかく……上手く行って………… 眞一郎を…… 眞一郎を……解放して…… ………… 「もういい……もういいから……」 泣きながら微笑む眞一郎の声を合図に、ゆっくりと壊れていく朋与の表情。 涙は眼球全体を覆いつくし、その眼に映る眞一郎の像を歪める。 「朋与……」 床に倒れ込んでいた眞一郎が、ゆっくりと立ち上がるのが、ぼやけて見える。 横隔膜が痙攣をはじめ、呼吸が途切れ途切れになっていく。 …………限界が近い…………  そう感じた朋与は、眞一郎に向かって、声を絞り出すように懇願した。 「……言って……私…私が……壊れちゃう前に……ちゃんと!……言ってッッ!!」 その悲痛な叫びを耳にし、眞一郎は震える両脚を踏ん張り、拳を固く握り締めて朋与に向き合う。 そして……涙で透明に塗装された朋与の顔を真っ直ぐに見つめながら、眞一郎はその『想い』を切り裂いた。     『俺が愛してるのは……『朋与』じゃないッ!『比呂美』だッ!!           これから先、ずっと側にいて欲しいのは……『湯浅比呂美』だッッ!!!」 ………… ………… 一瞬の……眞一郎と朋与にとっては、永遠とも思える静寂が訪れる…… ……そして、それを破ったのは、地を這うような朋与の笑い声だった。 「……ハハ……ハハハ……」 再び顔を伏せ、狂ったように笑いながら、朋与が眞一郎に向かって最初に投げつけたのは枕だった。 虚ろな表情のまま、破壊された心を表現する様に、ベッドの近くにある物を次々と眞一郎めがけて投げ続ける朋与。 文庫本、CDケース、ぬいぐるみ……朋与が手に取れる、ありとあらゆる物が眞一郎に向かって飛んでくる。 眞一郎は身体に命中するそれらを黙って、ただ黙って全身で受け止めていた。 「……ハハハ……そんなこと……そんなことね…………」 右手に目覚まし時計を手にした瞬間、朋与はグシャグシャに崩れた顔を眞一郎に向け、そして叫んだ。 「…………最初からッ…分かってるわよおおおッッッ!!!!」 弓のようにしなった朋与の右腕が、プラスチックの塊を放り投げる。 壁に叩きつけるつもりで投げたそれは、真っ直ぐに眞一郎の顔面に向かい、ガツッと音を立てて額に直撃した。 それは微動だにしない眞一郎の気力で跳ね返され、硬い床の上で部品を撒き散らしながら転げ回る。 「!」 眞一郎の額……その左側に赤いものが滲むのを見て、朋与はハッとなった。 瞬間、怪我を案じる表情を浮かべ、ベッドに沈みかけていた身体を半分立ち上げる。 「……あぁ……」と声にならない声を漏らしながら、朋与は手を眞一郎に伸ばしかけるが、瞳を伏せて思い止まる。 ……もう……『眞一郎』に近づいてはダメ……触れてはダメ…… 今度は……私が『眞一郎』を……解放してあげる番………… ………… 眞一郎に差し出した手の平をギュッっと握り締め、朋与はそれをベッドに向けて垂直に打ち付けた。 ドスッという鈍い音に反応して、眞一郎の視線が僅かに動く。 ベッドにめり込ませた自分の拳を見つめながら、震える声で朋与は言う。 「…………消えろ…………」 「…………」 動くことも、口を開くことも出来ずにいる眞一郎。 その気配を感じた朋与は、最後の涙を溢れさせて叫んだ。 「…………私の中から消えろッッ!! 仲上眞一郎ぉぉぉッッ!!!!」 朋与が眞一郎に向けて放った最後の言葉…… それに込められた悲しみと苦しみが眞一郎の『想い』を貫き、粉々に砕け散らせた。 そして眞一郎も最後の別れを告げる。 止め処なく流れる涙を隠すこともなく、拭うこともなく、顔を上げない朋与の姿を目に焼き付けながら…… ……最後の言葉を…… 「…………さよなら……『朋与』…………」 朋与からの返事は無い…… もう二度と呼ぶことはない『朋与』という名前…… 眞一郎は身体に残った想いの断片を、その一言の中に全て込めた。 ……終わったのだ…… ……もう自分はここに……朋与の側に居てはいけない…… 眞一郎はもう一度、肩を震わせて心の崩壊に耐えている朋与の姿を脳裏に焼きつけて、部屋のドアを開けた。 「!」 戸口をくぐりかけた時、廊下に鎮座していた朋与の愛猫、ボーの睨むような視線に、眞一郎は捕まってしまった。 「シャアアアーッッ!!」 ボーは眞一郎の姿を確認するなり、全身の毛を逆立てて牙を剥く。 ……朋与を泣かせる奴は、この家から出て行け!!…… そう叫ばれた気がして、眞一郎の胸は更に深く抉られた。 ドアを開けたまま固まっている眞一郎の横をすり抜け、ボーは主人の元へ急ぐ。 眞一郎が静かにドアを閉めると、中から朋与を慰めるような、ボーの甘い鳴き声が聞こえてきた。 そして……眞一郎がドアから離れ、一階へと向かう階段に脚を踏み出した時…… 「……うぅ…うわあああああああああああぁぁぁぁぁ!!!!」 壁を突き抜けて、朋与の激しい慟哭が、眞一郎の背中に突き刺さった。 それに呼応するように、眞一郎の眼からもまた、大粒の雫が零れ落ちる。 「……うぅ……ううぅぅっ……」 声を堪えるのが精一杯だった。拭っても拭っても、その雫の噴出は止まる気配を見せない。 それはまるで涙腺が意思を持ち、『人が人を想う気持ち』の不可解さと尊さを、眞一郎に教えているかのようだった つづく [[ある日の比呂美7]]

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。