比呂美のバイト その7

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比呂美のバイト その7」(2008/05/17 (土) 21:00:57) の最新版変更点

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<p>【置いてかないで…】 比呂美のバイト その7</p> <p><br />  眞一郎が棺と比呂美の居る部屋に戻ろうとドアを開けた時、少し意外だった<br /> のは、比呂美が入ってくる自分を&quot;見ていた&quot;事だった。<br /> 「比呂美?」<br />  比呂美が動いている…?<br /> 「ごめんな。帰りが遅くなった」<br />  彼女はまたすぐに顔を伏せた。それが自分の言葉に反応してのものなのかど<br /> うか、眞一郎にはわからなかった。</p> <p><br />  眞一郎は比呂美の隣に行き、穏やかに語りかけた。<br /> 「覚えてるか? お前、子供の頃、絵本が好きだっただろ」<br />  返事はない。<br />  それはわかっていた。眞一郎は構わず続けた。<br /> 「おばさんに、本読んで、ってよく言ってたよな」<br />  持って来た一冊の絵本を比呂美の前に置く。<br /> 「ほら、これ。お前が大好きだった絵本。俺が遊びに行くと、いつも持ってた」<br />  眞一郎は、絵本を広げた。<br />  比呂美の目が見開かれた。</p> <p> そして、眞一郎は読みはじめた。<br />  この部屋はなんて暗いのだろう。眞一郎は思った。<br />  電気はきちんとついているのに、光は足りているはずなのに、字を読む事が<br /> つらいほど暗く感じる。声を出すのがきつい。空気が重い。腰まで漬かった泥<br /> の中を歩くような気分だ。短い絵本を読むだけなのに、ひどく消耗する。<br />  それでも、眞一郎は絵本の朗読をやめない。<br />  ゆっくり、一言ひとこと。心をこめて。比呂美の心に届くように。それだけ<br /> を願って。<br /> 「お母さん…」<br />  比呂美がつぶやいた。<br />  昨日の朝から、眞一郎が初めて聞く声だった。<br />  その声に勇気づけられ、読み進める。<br /> 「お母さん…。置いてかないで…」<br />  眞一郎は絵本を最後まで読み終えた。<br />  そっと閉じて、比呂美に手渡す。<br />  比呂美は…、絵本を受け取った。<br /> 「置いてかないで…」<br />  絵本をしっかりと抱き締め、比呂美は繰り返した。<br /> 「オイテカナイデ…」<br /> 「比呂美、駄目だ」<br />  比呂美は母の後を追いかけていたのだ。眞一郎はそれに気付いた。<br /> 「お母さん…」<br /> 「お前はまだ、行っちゃいけない」<br />  彼は、必死で比呂美に訴えかけた。<br /> 「なんで…?」</p> <p> 必死で引き止める眞一郎を、比呂美が睨んでいた。<br /> 「なんでよ。お母さんしんじゃったのに。お父さんもいないのに!」」<br />  比呂美の目に光が戻ってきた。<br /> 「両親の分まで、ちゃんと幸せにならなきゃ」<br />  こんな事しか言えない自分がいやになる。だが、どんなに下手でも呼びかけ<br /> をやめるわけにはいかない。<br /> 「いい加減なこといわないで!」<br />  比呂美は手を握って、拳の底で眞一郎の胸をドンと叩いた。<br /> 「比呂美…」<br />  続けて、ドン、ドンと。<br /> (これが比呂美の心の痛み…)<br />  叩かれる痛み以上の、心に直接響くような痛みがあった。<br />  それでも叩くに任せる。一緒に痛みを感じられるなら、本望だと思った。そ<br /> うでなくては、比呂美に言葉が届くことはないだろう。<br /> 「お母さん…!」<br />  叩く力は急速に抜けた。<br />  眞一郎の胸に拳を止め、比呂美の目から一筋の涙がこぼれた。<br /> 「泣いちゃだめなのに、泣いたらお母さんが…」<br />  いなくなってしまう。本当に死んでしまう。<br />  眞一郎は比呂美の心の叫びを聞いたような気がした。<br /> 「比呂美、悲しい時は泣いていいんだ」<br />  彼女は必死で自分の涙を拭おうとした。<br /> 「イヤ」<br />  次々あふれ出る涙を、両手で拭う。<br /> 「いいお母さんだったよな…」<br />  ついに、こらえきれない声が、比呂美の喉から漏れた。<br />  眞一郎の服を掴み、彼の胸に顔をうずめるようにして、母を失った娘は声を<br /> あげてないた。しゃくりあげて泣いた。<br /> 「比呂美。うちにおいで。父さんがそう言ってくれてる」<br />  眞一郎は、そっと比呂美の肩を抱いた。<br />  比呂美が泣き疲れて眠るまで、眞一郎はその身体を支え続けていた。</p> <p><br />  翌朝。比呂美の伯母がその部屋を見た時、比呂美はきちんと敷かれた布団で<br /> 寝ていた。昨日の異常な様子からは不思議なぐらい、安らかな寝顔だった。<br />  驚いた事に、隣には仲上の息子が寝ている。こちらは比呂美の布団の外だっ<br /> た。<br />  敷き布団もかけ布団もない、毛布やタオルケットも一切かけず、畳の上に転<br /> がっていた。<br />  そして比呂美は、仲上の息子の手を両手でしっかりと握りしめていた。息子<br /> の右手だけが比呂美の布団の上にあった。<br />  艶っぽい話でない事は、見ればわかる。どうやら比呂美を寝かし付けて力尽<br /> きたらしい。<br />  昨日ずっと比呂美についてやっていたことは知っていたが、あの状態の比呂<br /> 美をどうやって、きちんと寝かせたのだろう、という驚きがあった。会話が成<br /> 立していたわけでも、説得が成功したようにも見えなかったからだ。<br />  仲上の息子だけではない。昨日の比呂美は誰の手にも余ったのだ。だからこ<br /> そ皆が避けていた。彼が苦労したであろうことは、容易に想像がついた。<br />  それでも、そろそろ二人をこの場から動かさなくてはならない。<br />  風聞もある。伯母はまず仲上の息子を起こしにかかった。</p> <p><br />  眞一郎が比呂美を寝かしつけた話は、親戚一同および仲上の両親にすぐ伝わ<br /> った。<br />  実のところ、湯浅の親戚はメンツと面倒を天秤にかけ、比呂美を仲上に渡す<br /> か湯浅で引き取るかを迷っていた所だったのだ。<br />  昨日の様子を見て、&quot;あの&quot;比呂美を引き取るのは相当な難事だと思い知らさ<br /> れてもいた。できれば引き取りたくなかったのは本音であった。<br /> 「比呂美が息子さんをこれほど頼りにしているなら、特別に、仲上さんに引き<br /> 受けてもらっても良いのではないだろうか」<br />  都合の良い言い訳が出来た。これならば湯浅一族ののメンツを潰さずに、比<br /> 呂美を手放す事ができる。<br />  仲上の主人は湯浅の親戚の葛藤を知っていた。腹も立ててはいたが、そんな<br /> 事はおくびにも出さず、彼は頭を下げた。<br /> 「比呂美を、引き取らせて頂きます」<br />  あとは本人の選択と気持ちだけである。比呂美の心を無視して決まる事はな<br /> い。<br />  だが、半年近くもめていた引き取る家の問題は、比呂美が寝ている間に、ほ<br /> ぼ解決していた。<br />  この件について、理恵子は何も言わなかった。</p> <p><br />  比呂美が目を覚ましたのは、母の棺の隣の部屋だった。太陽は高く、すでに<br /> 昼を過ぎていた。<br />  眞一郎に取りすがって泣いた事までは覚えている。その後は記憶がない。ど<br /> うやらそのまま寝てしまい、寝た後に動かされたようだった。<br />  深い悲しみと喪失感は薄れる事はない。だが、母親の後を追いたいと思う気<br /> 持ちは抜けていた。沢山泣いたおかげかもしれないと思った。</p> <p> 比呂美が起きてしばらくすると、物音を聞き付けた伯母が部屋に入ってきた。<br /> この伯母は、親戚一同の中では唯一、比呂美に心から同情的な伯母だった。<br /> 「比呂美ちゃん。起きたのね」<br /> 「おばさん」<br />  まだ弱々しいものの、比呂美の目には光が、唇には言葉が戻っていた。<br /> 「眞一郎くんは?」<br />  比呂美の最初の言葉がそれだった。<br /> 「仲上の息子さんは、朝まであなたに付き添っていたけれど、今は家に帰って<br /> るわ」<br /> 「そうですか…」<br /> 「比呂美ちゃん。あのね」<br />  比呂美は伯母の顔を見た。<br /> 「仲上さんから、あなたを引き取りたいという申し出がありました。あなたも<br /> 一人で暮らしていけるわけではないんだから、誰かの家に行く事になるのだけ<br /> れど、仲上さんの事、考えておいて」<br /> 「…はい」<br />  比呂美は一応、返事をした。今はそんな事はどうでもよかった。</p> <p><br />  眞一郎が湯浅の家に戻ってきたのは、夕方だった。きちんと学生服に着替え<br /> て、通夜に備えている。彼は比呂美の姿を見つけ、小走りに駆け寄ってきた。<br /> 「比呂美、大丈夫か?」<br />  眞一郎は、軽く咳き込んだ。だがそんなことは気にもしていない。<br /> 「眞一郎くん…」<br />  比呂美の表情はまだ硬い。笑顔など望めるわけもない。<br />  こうして起きて動き、会話もできるようになっている。それが眞一郎には何<br /> より嬉しかった。<br /> 「昨日は、ごめん…」<br /> 「俺の方こそ、何もしてやれなかったのに」<br />  眞一郎は本気でそう思っていた。<br />  彼にとって、比呂美を泣かせ、現実に引き戻して立ち直らせたのは、自分で<br /> はなかった。自分の絵で比呂美の心を動かす事はできなかった。<br />  それができたのは、母との思い出がつまった、比呂美の絵本だった。<br /> 「眞一郎くん、今はまだ、つらいから…。きちんとお礼言えない…」<br /> 「お礼なんかいいよ」<br /> 「もうお母さんいないけど…。昨日は死んでしまいたかったけど…。生きてい<br /> こうと思う…」<br />  そうか、と眞一郎が笑顔で答えた。泣きたいほど嬉しかった。<br /> 「なあ、比呂美」<br /> 「何?」<br /> 「絵本っていいな…」<br />  眞一郎はしみじみと言った。<br /> 「…そうだね」<br />  比呂美は応えたが、なぜ絵本なのかが良くわからなかった。<br />  彼女にとって、もっと、ずっと良いものが別にあったためだった。</p> <p><br /> 「お前が小さな頃、好きだった絵本があったから。それを読んだ。覚えてるよ」<br />  眞一郎は言った。<br /> 「眞一郎くんが絵本を読んでくれたおかげで、こうして生きてこれたのよ」<br />  絵本のおかげで、ではない。<br />  それが眞一郎に通じているだろうか。彼は鈍いのだ。時として腹が立って仕<br /> 方がないほどに。<br /> 「大げさだな」<br />  今日&quot;倉庫&quot;に来てはじめて、苦笑気味の比呂美だった。<br /> 「それでもこの家具は諦めてたんだけどね。おじさんが、私が大人になるまで<br /> とっておいてくれるって。そのためにこの部屋を借りてくれたのよ。ほら、ア<br /> パートにあるテレビと机は、ここから持ってきたの」<br /> 「そうだったのか…。どこから持ってきたんだろうって不思議だった」<br />  眞一郎は、やっと繋がりがわかったようだった。<br />  比呂美は洋服ダンスを開けた。<br /> 「ほら。服もあるのよ。おかあさんの服、今なら着れるかなあ…」</p> <p><br /> --------------------------------------------------------------</p> <p>重い話につき合わせてしまって、すみません。</p> <p>なんでこんなに長くなるんだろう…。<br /> でも、商業作品じゃないから、いいよね。と自分を慰めてます。orz</p> <p>たぶん、前回の引きで予想された方は多かったと思います。絵本でした。<br /> 「なぜ、眞一郎は絵本作家を目指すのか」これを書いてみたかったのです。</p> <p> 本編では乃絵との絡みで語られる事が多かった絵本ですが、<br /> 本編の構図そのままだと、絵本は乃絵方面、酒蔵は比呂美方面という方向性が<br /> 生まれます。比呂美と眞一郎がくっついたとしても、お互いの方向を潰し合う<br /> 関係になりかねないわけです。<br /> (潰しあう関係については、三代吉に否定させてみました)</p> <p> だからこそそこでの葛藤は物語にできるわけですが、そこを<br /> 「絵本を描くのも、元々比呂美のためだった」という話にしてみました。<br />  比呂美スレ的な解釈としては、「絵本作家をめざすのは比呂美のため」<br /> とするのは、考え方の一つになると思います。</p> <p> 葬式後、眞一郎は自分の「絵」については、ダメだと思い込んでいます。<br />  そして比呂美の心を動かした「絵本」の力を認めました。(眞一郎らしい誤解です)<br />  だから比呂美に「絵」は見せる事はなくなり、影で努力して「絵本作家」を<br /> 目指すわけです。比呂美のために。<br />  比呂美に「絵」を見せていたのは、病院での短期間だけとなります。</p> <p> それから「なぜ比呂美が眞一郎の事をこれほど想うのか」の部分。</p> <p> 他にも、母の死で比呂美は心を閉ざしかけますが、ここは乃絵との対比。<br />  乃絵の場合は4番にそこまでの度量がなく、泣く事を肯定してくれなかった<br /> 事になります。眞一郎の「未完の大器」論から、そう導きました。</p> <p> また、過去の同様な経験は、なぜ乃絵が泣けない事に眞一郎があれほど<br /> 対応しようとしたのかにも繋がってきます。</p> <p> 細かい事ですが、本編設定は2010年としてあります。<br />  それなら(2007~8年産の)大型テレビもアリでしょう。</p> <p> 本編補完設定は色々仕込んでいますが、ネタバレはこのへんで… </p> <p> </p>
<p>【置いてかないで…】 比呂美のバイト その7(改)</p> <p><br /> 「比呂美?」<br />  眞一郎が棺と比呂美が居る部屋に戻ろうとドアを開けた時、比呂美は入って<br /> くる自分を&quot;見て&quot;いた。比呂美が動いている…?<br /> 「ごめんな。帰りが遅くなった」<br />  彼女はまたすぐに顔を伏せた。それが自分の言葉に反応してのものかどうな<br /> のか、眞一郎にはわからなかった。<br />  目にすがるような光が浮かんでいたように見えたのは、気のせいだろう…。<br /> 彼女とはそこまで何かを期待できる関係ではないのだ。</p> <p><br />  眞一郎は比呂美の隣に座り、穏やかに語りかけた。<br /> 「覚えてるか? お前、子供の頃、絵本が好きだっただろ」<br />  返事はない。<br />  わかっている事だ。構わず続けた。<br /> 「おばさんに『ママ、本読んで』ってよく言ってたよな」<br />  持って来た一冊の絵本を比呂美の前に置く。<br /> 「ほら、これ。お前が大好きだった絵本。俺が遊びに行くと、いつも持ってた」<br />  眞一郎は絵本を広げた。<br />  比呂美の目が見開かれた。</p> <p> そして、眞一郎は絵本を読みはじめた。<br />  この部屋はなんて暗いのだろう。<br />  電気はきちんとついているのに、光は足りているはずなのに、字を読む事が<br /> つらい。声を出すのがきつい。空気が重い。腰まで漬かった泥の中を歩くよう<br /> な気分だ。<br />  短い絵本を読む、ただそれだけの事なのに、ひどく消耗する。<br />  それでも眞一郎は絵本の朗読をやめなかった。<br />  ゆっくり、一言ひとこと。心をこめて。<br />  比呂美の心に届くように。それだけを願って。</p> <p>「お母さん…」<br />  比呂美がつぶやいた。<br />  昨日の朝から、眞一郎が初めて聞く声だった。<br />  その声に勇気づけられ、読み進める。<br /> 「お母さん…。置いてかないで…」<br />  眞一郎は、なんとか絵本を最後まで読み終える事ができた。心が汗をかいて<br /> いるように思った。涙かもしれない。息切れしていないのが不思議だった。<br />  だが、心地よい疲労感でもあった。<br />  比呂美のために何かをする時は、いつもそうだ。どんなに苦労しても、疲れ<br /> ても、心の中にある温かいものがそれを癒してくれるからだ。<br />  そっと閉じて、絵本を比呂美に手渡す。<br />  比呂美は…。絵本を受け取った。</p> <p>「置いてかないで…」<br />  絵本をしっかりと抱き締め、比呂美は繰り返した。<br /> 「オイテカナイデ…」<br /> 「比呂美、駄目だ」<br />  比呂美は母の後を追いかけていたのだ。眞一郎はそれに気付いた。<br /> 「お母さん…」<br /> 「お前はまだ、行っちゃいけない」<br />  彼は、懸命に比呂美に訴えかけた。<br /> 「なんで…?」</p> <p> 引き止める眞一郎を、比呂美が睨んでいた。<br /> 「なんでよ。お母さんしんじゃったのに。お父さんもいないのに!」<br />  比呂美の目に光が戻ってきた。<br /> 「両親の分まで、ちゃんと幸せにならなきゃ」<br />  酷いセリフだ。こんな事しか言えない自分がいやになる。<br />  だが、どんなに下手でも、大した事が言えなくても、呼びかけをやめるわけ<br /> にはいかない。やっと言葉が通じるようになった、今、引き戻さなければなら<br /> ない。<br /> 「いい加減なこといわないで!」<br />  比呂美は手を握って、拳の底で眞一郎の胸をドンと叩いた。<br /> 「比呂美…」<br />  続けて、ドン、ドンと。<br /> (比呂美の痛み…)<br />  本気で殴り合うような、強いものではない。力など強くない。<br />  それなのに、実際の衝撃以上の、心に直接響くような痛みがあった。<br />  だから眞一郎は叩くに任せる。一緒に痛みを感じられるなら、本望だと思っ<br /> た。そうでなくば比呂美に言葉が届くことはないはずだ。</p> <p>「お母さん…」<br />  力は急速に抜けた。<br />  眞一郎の胸に拳を止め、比呂美の目から一筋の涙がこぼれた。<br />  慌てて彼女はそれを拭う。<br /> 「泣いちゃだめなのに、泣いたらお母さんが…」<br />  いなくなってしまう。本当に死んでしまう。<br />  眞一郎は比呂美の心の叫びを聞いたような気がした。<br /> 「比呂美、悲しい時は泣いていいんだよ」<br />  彼女は必死で自分の涙を拭い続けた。<br /> 「イヤ」<br />  次々とあふれ出る涙は、拭っても拭っても止まらない。<br /> 「いいお母さんだったよな…」<br />  こらえきれない、悲鳴のような細い声が、比呂美の喉から漏れた。<br />  眞一郎の服を掴み、彼の胸に顔をうずめるようにして、母を失った娘は声を<br /> あげて泣いた。しゃくりあげて泣いた。<br /> 「比呂美。うちにおいで。父さんがそう言ってくれてる」<br />  眞一郎は、そっと比呂美の肩を抱いた。<br />  比呂美が泣き疲れて眠るまで、眞一郎はその身体を支え続けていた。</p> <p><br />  翌朝。比呂美の伯母がその部屋を見た時、比呂美はきちんと敷かれた布団で<br /> 寝ていた。昨日の異常な様子からは不思議なぐらい、安らかな寝顔だった。<br />  驚いた事に、隣には仲上の息子が寝ている。こちらは比呂美の布団の外だっ<br /> た。<br />  敷き布団も掛け布団もない、毛布やタオルケットも一切まとわず、彼は畳の<br /> 上に転がっていた。<br />  そして比呂美は、仲上の息子の手を両手でしっかりと握りしめて眠っていた。<br /> 彼の右手だけが比呂美の布団の上にあった。<br />  艶っぽい話でない事は、見ればすぐにわかる。どうやら比呂美を寝かしつけ<br /> て力尽きたらしい。</p> <p> 昨日、彼がずっと比呂美についてやっていたことは知っていた。<br />  彼だけではない。比呂美の心身の消耗と衰弱を、誰もがそれぞれに心配して<br /> いた。だが、会話も何も成立しない状態だった。その朝に両親を失った娘とし<br /> ては、仕方のない事だろう。<br />  だが、あの状態の比呂美をどうやってきちんと寝かしつけたのだろう、とい<br /> う驚きがあった。昨日の比呂美は誰の手にも余ったからだ。だからこそ皆が避<br /> けていた。それなのに。<br />  ともあれ、そろそろ二人をこの場から動かさなくてはならない。<br />  風聞もある…。伯母はまず仲上の息子を起こしにかかった。</p> <p><br />  眞一郎が比呂美を寝かしつけた話は、湯浅の親戚一同、および仲上の両親に<br /> すぐ伝わった。<br />  実のところ、湯浅の親戚はメンツと面倒を天秤にかけ、比呂美を仲上に渡す<br /> か湯浅で引き取るかを迷っていた所だったのだ。<br />  昨日の様子を見て、親戚達は比呂美を引き取るのは相当な難事だと思い知ら<br /> されていた。いずれは回復するとしても、心のショックが大きすぎて、どんな<br /> 行動を起こすか知れない。とても責任を取りきれないような事件が起きるかも<br /> しれない。<br />  あまりにリスクが高すぎ、できれば引き取りたくなかったのが本音であった。</p> <p>「比呂美が息子さんをこれほど頼りにしているなら、特別に、仲上さんに引き<br /> 受けてもらっても良いのではないだろうか」<br />  都合の良い言い訳である。これならば湯浅一族ののメンツを潰さずに、比呂<br /> 美を手放す事ができる、それだけの。<br />  仲上の主人は湯浅の親戚の葛藤と、醜い打算を知っていた。腹も立てていた。<br /> だが、そんな事はおくびにも出さず、彼は頭を下げた。<br /> 「比呂美を、引き取らせて頂きます」<br />  あとは本人の選択と気持ちだけである。<br />  だが、半年近くもめていた引き取る家の問題は、比呂美が寝ている間に、ほ<br /> ぼ解決していたと言って良かった。<br />  この件について、理恵子は何も言わなかった。肯定も否定も、何も。</p> <p><br />  比呂美が目を覚ましたのは、母の棺の隣の部屋だった。<br />  太陽は高く、すでに昼を過ぎている。エアコン全開で室温は低く、少し身震<br /> いしたが、それは事情が事情だけに仕方のない事ではあった。<br />  眞一郎に取りすがって泣いた事までは覚えている。その後は記憶がない。ど<br /> うやらそのまま寝てしまったようだった。部屋が違うのは寝た後に動かされた<br /> のだろう。<br />  深い悲しみと喪失感は薄れる事はない。だが、母親の後を追いたいと思う気<br /> 持ちだけは抜けていた。いっぱい泣いたおかげだと思った。</p> <p> 比呂美が起きてしばらくすると、物音を聞き付けた伯母が部屋に入ってきた。<br /> この伯母は、親戚一同の中では唯一、比呂美に心から同情的だったのだ。<br /> 「比呂美ちゃん。起きたのね」<br /> 「伯母さん…」<br />  まだ弱々しいものの、比呂美の目には光が、唇には言葉が戻っている。<br /> 「眞一郎くんは?」<br />  比呂美の最初の言葉がそれだった。<br /> 「仲上の息子さんは、朝まであなたに付き添っていたけれど、今は家に帰って<br /> るわ」<br />  朝に引き続き、伯母の驚きは大きい。比呂美は驚異的な立ち直りを見せてい<br /> る。原因については語るまでもなかった。<br /> 「そうですか…」<br /> 「比呂美ちゃん。あのね」<br />  湯浅一族の比呂美に対する扱いは、伯母から見ても酷いものがあった。昨晩<br /> は自分の夫に散々怒りをぶつけ、自分の家で引き取ると話をまとめかけてもい<br /> た。<br />  だが、伯母は、比呂美が行くのにもっと相応しい家がある事を、今ここで理<br /> 解した。<br /> 「仲上さんから、あなたを引き取りたいという申し出がありました。一人で暮<br /> らしていけるわけではないから、誰かの家に行く事になるのだけれど…。仲上<br /> さんの事、考えておいて」<br /> 「…はい」<br />  比呂美は一応、返事をした。<br />  彼女にとって、今はそんな事はどうでもよかった。この場に居て欲しい人が<br /> いない事だけが問題だった。</p> <p><br />  眞一郎が湯浅の家に戻ってきた頃には、もう陽がだいぶ傾いていた。<br />  きちんと学生服に着替えて、通夜に備えている。彼は比呂美の姿を見つけ、<br /> 小走りに駆け寄ってきた。<br /> 「比呂美、大丈夫か?」<br />  軽く咳き込んだ。体を冷やしたせいかもしれない。<br /> 「眞一郎くん…」<br />  比呂美の表情はまだ硬かった。母をなくしたばかりだ。笑顔など望めるわけ<br /> もない。<br />  それでもこうして起き、動き、しっかり会話もできるようになっている。そ<br /> れが眞一郎には何より嬉しかった。<br /> 「昨日は、ごめん…」<br />  様々な想いがある。それを伝えきる術を、比呂美は知らなかった。<br /> 「俺の方こそ、何もしてやれなかったのに」<br />  眞一郎は本気でそう思っていた。<br />  彼にとっては、比呂美を泣かせ、現実に引き戻して立ち直らせたのは、自分<br /> ではなかった。<br />  自分の絵で比呂美の心を動かす事はできなかった。それができたのは、母と<br /> の思い出がつまった、比呂美の絵本だった。<br />  彼はそう思い込んでいた。<br /> 「眞一郎くん、今はまだ、つらくて…。きちんとお礼言えない…」<br /> 「お礼なんか」<br /> 「もうお母さんいないけど…。昨日は死にたかったけど…。生きていこうと思<br /> う…」<br />  うん、と眞一郎が笑顔で答えた。泣きたいほど嬉しかった。<br /> 「なあ、比呂美」<br /> 「何?」<br /> 「絵本っていいな…」<br />  眞一郎はしみじみと言った。<br /> 「…そうだね」<br />  比呂美にはなぜ絵本がいいのかは、良くわからなかった。<br />  彼女は、一生懸命語りかけてくる眞一郎の顔を、目を、唇を、ずっと見続け<br /> ていた。</p> <p><br /> 「お前が小さな頃に好きだった絵本があったから。それを読んだ。覚えてるよ」<br />  眞一郎は言った。<br /> 「眞一郎くんが絵本を読んでくれたおかげで、こうして生きてこれたのよ」<br />  絵本のおかげで、ではない。それが眞一郎に通じているだろうか。<br /> 「大げさだな」<br />  今日&quot;倉庫&quot;に来てはじめて、苦笑気味の比呂美だった。彼は鈍いのだ。時と<br /> して腹が立って仕方がないほどに。</p> <p>「それでもこの家具は諦めてたんだけどね。おじさんが、私が大人になるまで<br /> とっておいてくれるって。そのためにこの部屋を借りてくれたのよ。ほら、ア<br /> パートにあるテレビと机は、ここから」<br /> 「そうだったのか…。どこから持ってきたんだろうって不思議だった」<br />  比呂美は洋服ダンスを開けた。<br /> 「ほら。服もあるのよ。おかあさんの服、今なら着れるかなあ…」<br />  この家に入った時の寂しそうな影は、もう比呂美の上には見られなかった。</p> <p><br /> --------------------------------------------------------------<br /> 改稿版について。</p> <p>大筋は同じですが、表現を多少変えてあります。</p> <p>以前は時間がなく、中途半端な状態でアップしてしまってすみませんでした。<br /> あれを残してある事が恥ずかしかったのですが、とても手が回らず…。<br /> やっと修正できました。</p> <p>--------------------------------------------------------------</p> <p>重い話につき合わせてしまって、すみません。</p> <p>なんでこんなに長くなるんだろう…。<br /> でも、商業作品じゃないから、いいよね。と自分を慰めてます。orz</p> <p>たぶん、前回の引きで予想された方は多かったと思います。絵本でした。<br /> 「なぜ、眞一郎は絵本作家を目指すのか」これを書いてみたかったのです。</p> <p> 本編では乃絵との絡みで語られる事が多かった絵本ですが、<br /> 本編の構図そのままだと、絵本は乃絵方面、酒蔵は比呂美方面という方向性が<br /> 生まれます。比呂美と眞一郎がくっついたとしても、お互いの方向を潰し合う<br /> 関係になりかねないわけです。<br /> (潰しあう関係については、三代吉に否定させてみました)</p> <p> だからこそそこでの葛藤は物語にできるわけですが、そこを<br /> 「絵本を描くのも、元々比呂美のためだった」という話にしてみました。<br />  比呂美スレ的な解釈としては、「絵本作家をめざすのは比呂美のため」<br /> とするのは、考え方の一つになると思います。</p> <p> 葬式後、眞一郎は自分の「絵」については、ダメだと思い込んでいます。<br />  そして比呂美の心を動かした「絵本」の力を認めました。(眞一郎らしい誤解です)<br />  だから比呂美に「絵」は見せる事はなくなり、影で努力して「絵本作家」を<br /> 目指すわけです。比呂美のために。<br />  比呂美に「絵」を見せていたのは、病院での短期間だけとなります。</p> <p> それから「なぜ比呂美が眞一郎の事をこれほど想うのか」の部分。</p> <p> 他にも、母の死で比呂美は心を閉ざしかけますが、ここは乃絵との対比。<br />  乃絵の場合は4番にそこまでの度量がなく、泣く事を肯定してくれなかった<br /> 事になります。眞一郎の「未完の大器」論から、そう導きました。</p> <p> また、過去の同様な経験は、なぜ乃絵が泣けない事に眞一郎があれほど<br /> 対応しようとしたのかにも繋がってきます。</p> <p> 細かい事ですが、本編設定は2010年としてあります。<br />  それなら(2007~8年産の)大型テレビもアリでしょう。</p> <p> 本編補完設定は色々仕込んでいますが、ネタバレはこのへんで…  </p>

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