memories1985 笑顔と素顔

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 湯浅さんが死んですぐ、香里は比呂美を連れて麦端に戻る事になった。  荷造りを手伝う為に、私と比呂志さんは湯浅家を訪れた。  食器や着替えをダンボールに詰め、家具や雑貨を梱包している時、古いレコードを見つ けた。  それは懐かしい、遠い日の想い出。私達四人が初めて揃って過ごした夏の日の想い出。 楽しくて、そして私にとっては寂しい想い出。  湯浅さん、あなたにとってはどんな夏だった?  理恵子は八月の日差しの中、比呂志の家に向かって歩いていた。  ノースリーブのワンピースにつばの広い白い帽子を被っている。 「暑い・・・・」  ハンカチを丁寧に額に当てながら、理恵子は呟いた。  雪国とはいえ、富山の夏は暑い。今日のような晴天になると、気温は容易に真夏日を超 える。こんな日に午前中から外を歩きたくなどないのだが、バンドの練習日である。ボー カルが休むわけにいかない。 「私、何してるんだろ。一緒にいるからって何が出来るわけでもないのに・・・・」  ここ数週間、練習がある度に同じ事を考えている。  ほとんど衝動的にバンドに参加すると言っては見たものの、人前で歌うなど今まで考え た事もない。まして洋楽など理解の範疇の外である。比呂志と香里の間に割って入ると言 っても、比呂志本人が何等の具体的な行動も起さない以上、理恵子が取れる行動もない。  何よりも――認めざるを得ないことに――実際の理恵子には、邪魔する権利などないの だ。 「けど、今更退けない、か・・・・」  最後は憂鬱になる。それもいつもの事である。本質的に彼女は、人と衝突する事を好む 性格ではないのだ。  そうして歩いているうちに、『あんどう』が目に止まった。 「差し入れに買っていけば喜ぶかしら」  アイスの方が喜ばれるだろうが、溶ける事を気にしないでいい分、勝手がよかろう。 「――ごめんください」 「お、いらっしゃい」 「いらっしゃいませー」 「あ、リコちゃん、カキ氷食いに来たの?」  店内に入ると、店長と従業員の女性、それに湯浅が出迎えた。 「湯浅さん、何をしてるんですか?」 「カキ氷食ってる」 「それは見ればわかりますけど」 「いやぁ、比呂志の家に向かってる途中で日射病になりかけてさ、ちょっとここで一休み」 「・・・・身体ひ弱すぎますよ、湯浅さん」  理恵子は呆れてそう言ったが、湯浅は笑ってカキ氷を頬張るだけだった。 「俺、肉体労働担当じゃないから」 「比呂志さんも言ってましたよ。『湯浅は体育の授業になるといつの間にか逃げ出す』っ て。そんなに身体動かすの嫌なんですか?」 「だって、そりゃ――んっ」 頬張りすぎて頭痛がしたのだろう、後頭部を軽く叩きながら、 「――疲れるから」 「年寄みたいな事言ってるな」  店主もつい口を挟んでくる。注文は、と訊かれたので白餡と黒餡を四つずつ注文し、席 に着く。 「土産?」 「ええ、これなら練習の合間に食べられるでしょ?」 「やっぱり気が利くねえ。いい嫁になるよ」 「湯浅さんは、いいお婿さんになれそうにないですね」  湯浅の軽口に軽口で返す。比呂志と同年齢だが、本人の雰囲気もあって、理恵子も比呂 志に比べるとかなり砕けた口調になる。 「俺、独身主義だから」  気にした様子もなく切り返し、オレンジジュースを注文した。店員の女性がジュースを 持ってくると、理恵子に薦める。 「俺のおごり」 「いただきます」  素直に受け取る。湯浅が小声で 「・・・・それくらい素直になればいいのに」 「はい?何か言いました?」 「リコちゃん可愛いって言ったの」 「はいはい」 「はい、お待ちどうさま」  店主が今川焼きを差し出した。10個入っていた。 「店長さん、多いですよ」 「サービスだよ。そっちの虚弱児に体力つけさせてやれ」 「功二さん、またそんな事して」  店員の女性が睨む。店主を名前で呼ぶところからして、そういう関係の女性なのだろう。 「お得意さんは大事に、これからお得意さんになる人はもっと大事に、がうちのモットー だ。文句あるか」 「また月末に赤字だって悲鳴上げても知らないからね」  理恵子は笑って 「また必ず買いに来ます」  と女性に請合った。 「じゃ、そろそろ行こうか。美智子さん、お勘定お願い」  湯浅が席を立ち、女性に会計をしてもらっている間に、店主が理恵子に耳打ちしてきた。 「あの兄ちゃん、本当にどこか悪いんじゃないのか?」 「え?」 「いや、ここに来た時、本当に顔が真っ青だったんだよ。本人は暑さにやられただけだっ て言ってたが、救急車呼ぼうかと思ったよ」 「そんな・・・・持病があるなんて聞いた事はありませんけど」 「それならいいんだけどよ。今の話じゃ体育もまともに受けてねえみてえだし、ちょっと 気になってな」  湯浅の会計が終わり、店主は理恵子から離れた。 「湯浅さんと理恵子さん、遅いですね」  香里が言った。 「湯浅は、いつもの事だがな」  比呂志はそう答える。理恵子が遅れるのは珍しいが、実際にはまだ約束の時間にはなっ ていない。あくまでも理恵子にしては遅い、という話である。 「ところで、ギターの練習は、普段はどうしてるのかな」 「え?してますよ、アンプなしですけど」  香里のギターアンプは、練習場であるこのガレージに置きっぱなしになっていた。練習 になるのか、と比呂志は単純に思ったのだが、香里に言わせれば 「家ではアンプ使うわけに行きませんから、同じ事です」  という事らしい。 「ただ、ギターの実力は私より湯浅さんの方がよっぽど上手いんですけど」 「まあ、あいつの方がギター歴も長いからね。アコースティックなら、俺と会う前から始 めていた」 「それはそうなんですけど、だから余計、私がギターでいいのかなって。せっかく上手い のに」 「だからと言って、ベースができるのが湯浅一人だからね。小金山さん、ベースはもっと 出来ないでしょ」 「でも、リズムは仲上さんがいるから、ベースが欠けても――」 「駄目駄目、俺はジャズばかりやっていたから、俺一人じゃとてもみんなを引っ張ってい けないよ。それに、俺のドラムは表情がないから」 「表・・・・情?」 「正確に刻む、ていう意味なら俺はかなり自信があるんだけどね。メリハリとか、聴いて いる人を乗せていくとか、そういう演奏が出来ないんだ。一人で叩いてただけだから、周 りと会話する演奏が出来ないらしい。湯浅の受け売りだけどね」  湯浅はまだ下手なころから周りに聴かせていたので、その辺りは確かに上手い。比呂志 にもそれはわかる。 「それに、湯浅の目的は人気とって賞金、だからね。小金山さんを目立つギターに据える のはあいつの思惑通りでもある」 「私なんて、そんな」  香里は苦笑した。 「理恵子さんがいるじゃないですか」 「花は一輪より、二輪並べた方が映えるものさ」  いつの間にか湯浅が入り口に湯浅と理恵子が立っていた。湯浅の表情からして、声をか けるタイミングを見計らっていたのだろう。 「すぐ練習にするか?それともリコちゃんの差し入れ先に食うか?」 「差し入れ?すぐに食べた方がいいものなのか?」 「いえ、今川焼きです。これなら好きなときに食べられますから」  理恵子が返答する。 「そうか。なら俺は後でいい。先に練習して、後でお茶でも淹れて食べるとしよう」  気の利かない奴め、と湯浅は小声で毒づいたが、理恵子は気にした様子もなく 「わかりました。湯浅さん、準備しましょ」  と答えた。  文化祭で演劇、合唱などの講堂使用は通常1サークル三十分程度である。MCなどを入れ ても最低三曲は演奏しなければ間が持たない。ましてメンバー中MCの適性があるのが湯浅 一人なのだから、出来れば四曲入れてトークを短くまとめる必要がある。  まだようやく一曲目が通しで演奏できるようになったばかりというところで、先はまだ 長いが、湯浅、香里が揃って、 「一曲コピー出来れば系統は似通ってるから後は速い」  と請合い、理恵子はそんなものかとなんとなく納得した。比呂志は大いに疑念があるよ うだったが。 「じゃあ今日は二曲目いってみようか」  湯浅の提案で新曲の練習に移行し、一度原曲を通しで聴く。 「うわ・・・・・・・・」  理恵子が小さく動揺する。実の所、一番ストレスがかかるのは理恵子であった。  他の三人は楽器のパートであり、楽譜という共通言語で理解できるが、理恵子は英語の 歌詞を覚えなければならない。全く英語が出来ないのならば聴こえた通りに憶えてしまえ ばいいのだが、なまじ英文法がそれなりに出来るだけに、どうしても歌詞カードを目で追 ってしまう。そして洋楽ではよくあることだが、歌詞が必ずしも実際の曲中で歌われてい る通りだとは限らないのである。 「理恵子さん、歌詞カード、自分で作ってしまったらどうですか?」  理恵子の困った顔を見て、香里が提案する。これは比呂志も賛成した。 「そうだな、どうせまともな発音で歌っている歌手ではないから、聴こえた通りに書き出 していった方が速いだろう」 「ですよね?ね、そうしてみませんか、理恵子さん。私も協力しますから」  香里が協力を申し出て、理恵子もその意見を採用した。 「そうね、自分で書き出してみるわ。でも、自分でするから平気。香里さんと私が同じよ うに聴こえるとは限らないもの」  湯浅も理恵子と同意見だった。理恵子の聴こえた通りに歌って、あまりにも感覚的にず れた箇所だけを修正する。何人もこぞってああだこうだと言っても、理恵子が混乱するだ けである。 「でも、あまり根を詰めないでね。最終的にはノリなんだから、適当にシャウトしてごま かしたっていいんだし。それで熱でも出されたら責任感じちゃうからさ」 「お前じゃあるまいし、大丈夫だろう」  珍しい比呂志の軽口に、湯浅はただ笑って黙れというだけだった。香里が不思議そうに 湯浅を見ていたが、誰も彼女に補足説明をする者はいなかった。  それから二時間ほどして、休憩を入れる事になり、理恵子と香里は台所を借りて冷たい 麦茶を用意していた。  四人しかいないので二人で給仕するような必要性は全くない。ただ、香里にしてみれば 最年少の自分が理恵子に給仕させて待っているわけにも行かず、理恵子の言い分としては 他所の台所を借りるのに付き合いの長い自分がするのが当然だと思っている。双方に正当 な主張があり、無理に相手の意見を退けようとするのも不毛な為、二人で台所に向かうの だった。 「理恵子ちゃん、食べるものは何かあるの?」  比呂志の母親が声をかけてくる。 「はい、今川焼きを買ってきました」 「そう、それならカキ氷くらいなら足しても大丈夫よね。氷はあるからそこの氷掻きで作 っていくといいわ。シロップは冷蔵庫にあるから好きなの使って」 「ありがとうございます」  これで理恵子がお茶、香里がカキ氷を運べば、二人で来た意味があると言うものだ。あ るいはそのためにわざわざ気を使ってくれたのかもしれない。 「理恵子さん、仲上さんとのお付き合いは長いんですか?」  付き合い、という単語に理恵子は激しく同様したが、香里は当然そう意味で言ったので はない。知り合ってからの時間、という意味である。 「え!?ああ、そうね、物心ついたころから知ってるわ」 「そんなに長いんですか?幼馴染なんですね」 「父がここの酒蔵で杜氏をしているの。母と知り合ったのも先代の社長の紹介で、仲人も 務めてもらっているし、家族ぐるみでお世話になっているわ」  付き合い、という言葉を使えるほど、対等な関係とは考えていない。社長も奥方も、上 下関係を私生活に持ち込む人物ではないが、石川家の方で己が「分」をわきまえている。 「湯浅さんも昔からなんですか?」 「湯浅さんは、比呂志さんが中一の時の同級生よ。私は自分が中学に入るまで会ってない から、更に一年後からになるけど」  そうなんですか、と言った香里が言葉を継ぐのを待っていたが、黙ったきりになったの で、仕方なく理恵子から質問をした。 「何か気になる事があるの?」 「あ、いえ、えーっと、湯浅さんって、その頃からああいう感じだったんですか?」 「ああいう感じって?」 「上手く言えないんですけど・・・・仲上さんは言行が一貫してて、ぶれない感じがするけど ・・・・湯浅さんは、捉えどころがないと言うか、底が見えないと言うか・・・・私達と違う所 に向かってる気がするんです」 「違う所・・・・」 「変な事言ってますね、私。ごめんなさい。音楽では話が合うのに、それ以外の部分が謎 めいてて、気になっちゃって」 「・・・・直接訊いてみたら?」 「え?」 「言われてみれば、不思議な人だとは思うけど。私はもう慣れちゃったからよくわからな いわ。せっかくだから直接話してみれば?親睦を深めるのは悪い事ではないわ」  理恵子の言葉は多少の扇動が含まれていた。香里がそれに気付いているかはともかく、 理恵子は自分の言葉の奥にある意図を自覚した。それは少しの自己嫌悪を理恵子に感じさ せた。  ガレージでは男二人が女性陣の戻りを待っていた。 「おい、比呂志」 「ん?」 「お前さ、もう少しリコちゃんに優しく出来ない?」 「優しく?してないか、俺?」 「今日の差し入れにしたってさ、ありがとう、とか、悪いね、とか、そういうねぎらいの 言葉の一つもかけてやれば、わざわざ寄り道して今川焼きを買ってきた甲斐があるっても のよ」 「・・・・ああ、そうだな、今度から、気をつける」  湯浅はまだ言い足りない様子だったが、それ以上の追求を断念した。その代わり、別の 話題を持ち出した。 「で、お前の見たところ、この即席バンドはどうだ?俺は予想以上に手応えを感じている んだが」 「そうだな・・・・俺も、悪くないと思う」 「だろ?香里ちゃんも思っていたより上手いし、それ以上にリコちゃんがこんなに一所懸 命になってくれるとは、正直思わなかったよ」 「リコは、一度引き受けたら途中で投げ出す事はしないよ」  湯浅が言い終わると、全く間を開けることなく比呂志が断言した。湯浅は一瞬ぽかんと 口を開けたが、すぐに口元に笑みを浮かべて、 「そうだな、リコちゃんはそういう娘だよな」  と言った。 「だけど、本当に四曲行く気か?ボロが出ないように二曲にして15分で申請した方がいい んじゃないか?」  比呂志の心配はもっともである。一曲目を通しで演奏できるまでにもう一ヶ月半かかっ ている。単純にこのペースなら当日までに後一曲、湯浅の言うとおり二曲目以降はペース が上がるとしても二曲が限度ではないか。  しかし、湯浅は心配ないと言い切った。 「ホント言うと、俺が一番心配していたのはリコちゃんのボーカルだけだったんだ。この バンドはコードは意外とレパートリーが少なくて、ちょっと聴いただけだと同じ曲に聴こ えるようなのが多いから、歌詞で差をつけてるだけなんだよね。その意味じゃ英語の歌詞 を都度暗記しなきゃいけないリコちゃんの負担が一番大きい。でも、やってくれそうだ」 「小金山さんのギターも、あまり変わらないのか?」 「ああ。だから俺がやらなくても大丈夫と判断したんだ」 「そうなのか」 「・・・・お前は公正だな。良くも悪くも」 「何の事だ?」 「いや、言葉通りだ」  それ以上の説明はせず、湯浅は楽譜に目を落とした。 「湯浅さん、家の方角逆じゃないんですか?」  香里が訊ねる。 「逆だよ」  湯浅が答える。 「私、大丈夫ですよ。そんなに遠くじゃないですし」 「いつもは比呂志が送ってるんだろ?その代役」  日が沈む直前まで練習した後、湯浅が理恵子を、比呂志が香里を送るのがいつもの流れ である。今日は解散する時になって、比呂志の母が 「今煮物作ってるの。もうすぐ出来るから持って行きなさい」  と理恵子を呼び止めたため、香里を湯浅が、理恵子を比呂志が送る事になったのである。 「まあ、夕食は昨日のシチュー温めるだけで済むし、これくらいの寄り道はどうってこと ないよ」 「湯浅さん、お母さんも働いてるんですか?」 「いや、いないんだ。俺が十歳の時、病気で死んじゃってさ」  平然と答える湯浅に、香里がしまった、という顔貌をする。  湯浅は笑顔で腕を組んだまま 「悪い事訊いた、とか思ってるだろ?」 「あの・・・・」 「俺が言ってないんだから知らなくても当然だし、今更思い出したから辛くなるって物で もない。そんな風に気を遣われる方が、なんと言うか、困る。だから、気にしないで」 「・・・・はい」  香里は理恵子に言われた事を思い出した。この人の事を知るいい機会だと思った。 「湯浅さん」 「ん?何?」 「湯浅さんって、いつもニコニコしてますよね」 「よく言われるね、それ。半分は地顔なんだけどね」 「怒る事ってないんですか?」 「いや、あるよ。人が並んでる列に横入りされた時とか、政治家の汚職とか」 「また大きい話と小さい話と極端ですね」 「そう?ま、要するに人並みには腹を立てるって事」  やはり捉えどころがない。なんだかわざと話の焦点をずらして答えているような気がす る。 「――怒ってる顔なんて、見たくないでしょ」  湯浅が言った。 「え?――あ、は、はい」 「俺も他人に見せたくない。後から俺の事を思い出す時、『いつも笑ってたな』と思って もらってたいんだよね」 「はあ・・・・」  どこまで真面目に答えているのやら。どうも言う事が極端な人だ。  香里は、この人を食った先輩を少し突いてみたくなった。わざと歯に衣着せぬ言葉を言 ってみれば、もしかしたら笑顔の下の顔を見せるかもしれない。 「・・・・湯浅さん、結構八方美人なんですね」  湯浅はほんの一瞬驚いた顔で香里を見たが、すぐに前を向き、元の笑顔に戻った。 「そう・・・・だね、そう思うよ。他人からこういう風に見られていたいんだ。穏やかで、い つもおめでたい男ってさ」 「はあ」  あまり効果はなかったようだ。香里は少しがっかりした。 「それに、俺が笑いながら話していれば、俺と話している相手も自然に難しい顔はしなく なるだろ?」 「まあ、そうですね」 「俺は出来れば、みんなにも笑顔でいて欲しいんだ・・・・みんな幸せになって、その笑顔を 見ている事が一番嬉しいんだよ」 (あれ?)  その瞬間、湯浅の顔貌が違ったものに見えた。それまでと同じ笑顔である筈なのに、と ても悲しそうに見えた。まるで自分に幸せは訪れる事はない、と言っているようだった。 「えっと・・・・」  何か言わなければならないような気がした。香里の言葉に傷ついたわけではなさそうだ が、心のどこか、香里が考えていたよりも深い部分に触れてしまった気がした。それが何 かは、香里にはわからないが。 「あ、もしかしてここかい?」  湯浅が『小金山』と書かれた表札を指差して訊ねた。いつの間にか自宅の前まで来てい たらしい。 「あ・・・・そうです」 「じゃ、俺はここで。また明後日だね。バイバイ」  湯浅はそう言って立ち去って行った。顔貌から先程の悲しげな様子は失われ、元の掴み どころのない笑顔に戻っていた。  それでも、香里の胸にはあの悲しげな笑顔が深く心に刻まれた。香里がその笑顔の意味 を知るのは、この三年後の事である。                  了 ノート 安藤功二: ・三十歳  今川焼き『あんどう』店主 ・身長   169cm ・家族構成 独身(但し恋人あり) ・趣味   野球 屋台から始めて今年自分の店を持ったばかり。口調はテキヤ調 奥村美智子: ・二十二歳 今川焼き『あんどう』店員 ・身長   155cm ・家族構成 両親、祖母、兄 ・趣味   料理 安藤の恋人。両親は交際をよく思っていない 香里について 香里は外見的なベースは比呂美ですが、性格は結構違います。 比呂美のペシミスト的な部分は、仲上家に引き取られる前からの、彼女の本質的な資質だと思います。香里はそういう部分はなく、 基本的に無邪気な年相応の少女です。ただし、非常に情が深く、愛した相手を思い続ける強さは比呂美に共通しています。 作品中で中々出せませんが、相手と衝突しそうになると自分が悪いと思ってなくても謝ってしまう悪癖があり、理恵子が後に比呂美を 「母親そっくり」となじるのはそういう部分も指しているという解釈です。 1985年という事で、つくば万博に4人を出かけさせようかとも思っていたのですが、あまり盛り上がる事件がおきそうにないので断念。 この話の後行ってるんですけどね。 今回、実は少しややこしい作り方をしています。 memoriesは1985を4話、そのあと1988を5話で構成する予定です。つまり、この第3話は1985の起承転結の「転」に当たりますが、同時に memories全9話の1/3として人物関係を整理する回でもあるため、同じテンでも「転」であると同時に「纏」でもあるという、かなり 性質の違う役割を持たせています。 そのため会話中心で、視点を分散させてキャラの組み合わせを色々と代えながらそれぞれの立ち位置や距離感を見せつつ、今後の 伏線となりそうな新事実をぼかしながら織り込んでいこうとしている為、特に湯浅が忙しく動き回っています。 最重要人物である湯浅は、どう動くのか予想しにくいのでこっちも大変
 湯浅さんが死んですぐ、香里は比呂美を連れて麦端に戻る事になった。  荷造りを手伝う為に、私と比呂志さんは湯浅家を訪れた。  食器や着替えをダンボールに詰め、家具や雑貨を梱包している時、古いレコードを見つ けた。  それは懐かしい、遠い日の想い出。私達四人が初めて揃って過ごした夏の日の想い出。 楽しくて、そして私にとっては寂しい想い出。  湯浅さん、あなたにとってはどんな夏だった?  理恵子は八月の日差しの中、比呂志の家に向かって歩いていた。  ノースリーブのワンピースにつばの広い白い帽子を被っている。 「暑い・・・・」  ハンカチを丁寧に額に当てながら、理恵子は呟いた。  雪国とはいえ、富山の夏は暑い。今日のような晴天になると、気温は容易に真夏日を超 える。こんな日に午前中から外を歩きたくなどないのだが、バンドの練習日である。ボー カルが休むわけにいかない。 「私、何してるんだろ。一緒にいるからって何が出来るわけでもないのに・・・・」  ここ数週間、練習がある度に同じ事を考えている。  ほとんど衝動的にバンドに参加すると言っては見たものの、人前で歌うなど今まで考え た事もない。まして洋楽など理解の範疇の外である。比呂志と香里の間に割って入ると言 っても、比呂志本人が何等の具体的な行動も起さない以上、理恵子が取れる行動もない。  何よりも――認めざるを得ないことに――実際の理恵子には、邪魔する権利などないの だ。 「けど、今更退けない、か・・・・」  最後は憂鬱になる。それもいつもの事である。本質的に彼女は、人と衝突する事を好む 性格ではないのだ。  そうして歩いているうちに、『あんどう』が目に止まった。 「差し入れに買っていけば喜ぶかしら」  アイスの方が喜ばれるだろうが、溶ける事を気にしないでいい分、勝手がよかろう。 「――ごめんください」 「お、いらっしゃい」 「いらっしゃいませー」 「あ、リコちゃん、カキ氷食いに来たの?」  店内に入ると、店長と従業員の女性、それに湯浅が出迎えた。 「湯浅さん、何をしてるんですか?」 「カキ氷食ってる」 「それは見ればわかりますけど」 「いやぁ、比呂志の家に向かってる途中で日射病になりかけてさ、ちょっとここで一休み」 「・・・・身体ひ弱すぎますよ、湯浅さん」  理恵子は呆れてそう言ったが、湯浅は笑ってカキ氷を頬張るだけだった。 「俺、肉体労働担当じゃないから」 「比呂志さんも言ってましたよ。『湯浅は体育の授業になるといつの間にか逃げ出す』っ て。そんなに身体動かすの嫌なんですか?」 「だって、そりゃ――んっ」 頬張りすぎて頭痛がしたのだろう、後頭部を軽く叩きながら、 「――疲れるから」 「年寄みたいな事言ってるな」  店主もつい口を挟んでくる。注文は、と訊かれたので白餡と黒餡を四つずつ注文し、席 に着く。 「土産?」 「ええ、これなら練習の合間に食べられるでしょ?」 「やっぱり気が利くねえ。いい嫁になるよ」 「湯浅さんは、いいお婿さんになれそうにないですね」  湯浅の軽口に軽口で返す。比呂志と同年齢だが、本人の雰囲気もあって、理恵子も比呂 志に比べるとかなり砕けた口調になる。 「俺、独身主義だから」  気にした様子もなく切り返し、オレンジジュースを注文した。店員の女性がジュースを 持ってくると、理恵子に薦める。 「俺のおごり」 「いただきます」  素直に受け取る。湯浅が小声で 「・・・・それくらい素直になればいいのに」 「はい?何か言いました?」 「リコちゃん可愛いって言ったの」 「はいはい」 「はい、お待ちどうさま」  店主が今川焼きを差し出した。10個入っていた。 「店長さん、多いですよ」 「サービスだよ。そっちの虚弱児に体力つけさせてやれ」 「功二さん、またそんな事して」  店員の女性が睨む。店主を名前で呼ぶところからして、そういう関係の女性なのだろう。 「お得意さんは大事に、これからお得意さんになる人はもっと大事に、がうちのモットー だ。文句あるか」 「また月末に赤字だって悲鳴上げても知らないからね」  理恵子は笑って 「また必ず買いに来ます」  と女性に請合った。 「じゃ、そろそろ行こうか。美智子さん、お勘定お願い」  湯浅が席を立ち、女性に会計をしてもらっている間に、店主が理恵子に耳打ちしてきた。 「あの兄ちゃん、本当にどこか悪いんじゃないのか?」 「え?」 「いや、ここに来た時、本当に顔が真っ青だったんだよ。本人は暑さにやられただけだっ て言ってたが、救急車呼ぼうかと思ったよ」 「そんな・・・・持病があるなんて聞いた事はありませんけど」 「それならいいんだけどよ。今の話じゃ体育もまともに受けてねえみてえだし、ちょっと 気になってな」  湯浅の会計が終わり、店主は理恵子から離れた。 「湯浅さんと理恵子さん、遅いですね」  香里が言った。 「湯浅は、いつもの事だがな」  比呂志はそう答える。理恵子が遅れるのは珍しいが、実際にはまだ約束の時間にはなっ ていない。あくまでも理恵子にしては遅い、という話である。 「ところで、ギターの練習は、普段はどうしてるのかな」 「え?してますよ、アンプなしですけど」  香里のギターアンプは、練習場であるこのガレージに置きっぱなしになっていた。練習 になるのか、と比呂志は単純に思ったのだが、香里に言わせれば 「家ではアンプ使うわけに行きませんから、同じ事です」  という事らしい。 「ただ、ギターの実力は私より湯浅さんの方がよっぽど上手いんですけど」 「まあ、あいつの方がギター歴も長いからね。アコースティックなら、俺と会う前から始 めていた」 「それはそうなんですけど、だから余計、私がギターでいいのかなって。せっかく上手い のに」 「だからと言って、ベースができるのが湯浅一人だからね。小金山さん、ベースはもっと 出来ないでしょ」 「でも、リズムは仲上さんがいるから、ベースが欠けても――」 「駄目駄目、俺はジャズばかりやっていたから、俺一人じゃとてもみんなを引っ張ってい けないよ。それに、俺のドラムは表情がないから」 「表・・・・情?」 「正確に刻む、ていう意味なら俺はかなり自信があるんだけどね。メリハリとか、聴いて いる人を乗せていくとか、そういう演奏が出来ないんだ。一人で叩いてただけだから、周 りと会話する演奏が出来ないらしい。湯浅の受け売りだけどね」  湯浅はまだ下手なころから周りに聴かせていたので、その辺りは確かに上手い。比呂志 にもそれはわかる。 「それに、湯浅の目的は人気とって賞金、だからね。小金山さんを目立つギターに据える のはあいつの思惑通りでもある」 「私なんて、そんな」  香里は苦笑した。 「理恵子さんがいるじゃないですか」 「花は一輪より、二輪並べた方が映えるものさ」  いつの間にか湯浅が入り口に湯浅と理恵子が立っていた。湯浅の表情からして、声をか けるタイミングを見計らっていたのだろう。 「すぐ練習にするか?それともリコちゃんの差し入れ先に食うか?」 「差し入れ?すぐに食べた方がいいものなのか?」 「いえ、今川焼きです。これなら好きなときに食べられますから」  理恵子が返答する。 「そうか。なら俺は後でいい。先に練習して、後でお茶でも淹れて食べるとしよう」  気の利かない奴め、と湯浅は小声で毒づいたが、理恵子は気にした様子もなく 「わかりました。湯浅さん、準備しましょ」  と答えた。  文化祭で演劇、合唱などの講堂使用は通常1サークル三十分程度である。MCなどを入れ ても最低三曲は演奏しなければ間が持たない。ましてメンバー中MCの適性があるのが湯浅 一人なのだから、出来れば四曲入れてトークを短くまとめる必要がある。  まだようやく一曲目が通しで演奏できるようになったばかりというところで、先はまだ 長いが、湯浅、香里が揃って、 「一曲コピー出来れば系統は似通ってるから後は速い」  と請合い、理恵子はそんなものかとなんとなく納得した。比呂志は大いに疑念があるよ うだったが。 「じゃあ今日は二曲目いってみようか」  湯浅の提案で新曲の練習に移行し、一度原曲を通しで聴く。 「うわ・・・・・・・・」  理恵子が小さく動揺する。実の所、一番ストレスがかかるのは理恵子であった。  他の三人は楽器のパートであり、楽譜という共通言語で理解できるが、理恵子は英語の 歌詞を覚えなければならない。全く英語が出来ないのならば聴こえた通りに憶えてしまえ ばいいのだが、なまじ英文法がそれなりに出来るだけに、どうしても歌詞カードを目で追 ってしまう。そして洋楽ではよくあることだが、歌詞が必ずしも実際の曲中で歌われてい る通りだとは限らないのである。 「理恵子さん、歌詞カード、自分で作ってしまったらどうですか?」  理恵子の困った顔を見て、香里が提案する。これは比呂志も賛成した。 「そうだな、どうせまともな発音で歌っている歌手ではないから、聴こえた通りに書き出 していった方が速いだろう」 「ですよね?ね、そうしてみませんか、理恵子さん。私も協力しますから」  香里が協力を申し出て、理恵子もその意見を採用した。 「そうね、自分で書き出してみるわ。でも、自分でするから平気。香里さんと私が同じよ うに聴こえるとは限らないもの」  湯浅も理恵子と同意見だった。理恵子の聴こえた通りに歌って、あまりにも感覚的にず れた箇所だけを修正する。何人もこぞってああだこうだと言っても、理恵子が混乱するだ けである。 「でも、あまり根を詰めないでね。最終的にはノリなんだから、適当にシャウトしてごま かしたっていいんだし。それで熱でも出されたら責任感じちゃうからさ」 「お前じゃあるまいし、大丈夫だろう」  珍しい比呂志の軽口に、湯浅はただ笑って黙れというだけだった。香里が不思議そうに 湯浅を見ていたが、誰も彼女に補足説明をする者はいなかった。  それから二時間ほどして、休憩を入れる事になり、理恵子と香里は台所を借りて冷たい 麦茶を用意していた。  四人しかいないので二人で給仕するような必要性は全くない。ただ、香里にしてみれば 最年少の自分が理恵子に給仕させて待っているわけにも行かず、理恵子の言い分としては 他所の台所を借りるのに付き合いの長い自分がするのが当然だと思っている。双方に正当 な主張があり、無理に相手の意見を退けようとするのも不毛な為、二人で台所に向かうの だった。 「理恵子ちゃん、食べるものは何かあるの?」  比呂志の母親が声をかけてくる。 「はい、今川焼きを買ってきました」 「そう、それならカキ氷くらいなら足しても大丈夫よね。氷はあるからそこの氷掻きで作 っていくといいわ。シロップは冷蔵庫にあるから好きなの使って」 「ありがとうございます」  これで理恵子がお茶、香里がカキ氷を運べば、二人で来た意味があると言うものだ。あ るいはそのためにわざわざ気を使ってくれたのかもしれない。 「理恵子さん、仲上さんとのお付き合いは長いんですか?」  付き合い、という単語に理恵子は激しく同様したが、香里は当然そう意味で言ったので はない。知り合ってからの時間、という意味である。 「え!?ああ、そうね、物心ついたころから知ってるわ」 「そんなに長いんですか?幼馴染なんですね」 「父がここの酒蔵で杜氏をしているの。母と知り合ったのも先代の社長の紹介で、仲人も 務めてもらっているし、家族ぐるみでお世話になっているわ」  付き合い、という言葉を使えるほど、対等な関係とは考えていない。社長も奥方も、上 下関係を私生活に持ち込む人物ではないが、石川家の方で己が「分」をわきまえている。 「湯浅さんも昔からなんですか?」 「湯浅さんは、比呂志さんが中一の時の同級生よ。私は自分が中学に入るまで会ってない から、更に一年後からになるけど」  そうなんですか、と言った香里が言葉を継ぐのを待っていたが、黙ったきりになったの で、仕方なく理恵子から質問をした。 「何か気になる事があるの?」 「あ、いえ、えーっと、湯浅さんって、その頃からああいう感じだったんですか?」 「ああいう感じって?」 「上手く言えないんですけど・・・・仲上さんは言行が一貫してて、ぶれない感じがするけど ・・・・湯浅さんは、捉えどころがないと言うか、底が見えないと言うか・・・・私達と違う所 に向かってる気がするんです」 「違う所・・・・」 「変な事言ってますね、私。ごめんなさい。音楽では話が合うのに、それ以外の部分が謎 めいてて、気になっちゃって」 「・・・・直接訊いてみたら?」 「え?」 「言われてみれば、不思議な人だとは思うけど。私はもう慣れちゃったからよくわからな いわ。せっかくだから直接話してみれば?親睦を深めるのは悪い事ではないわ」  理恵子の言葉は多少の扇動が含まれていた。香里がそれに気付いているかはともかく、 理恵子は自分の言葉の奥にある意図を自覚した。それは少しの自己嫌悪を理恵子に感じさ せた。  ガレージでは男二人が女性陣の戻りを待っていた。 「おい、比呂志」 「ん?」 「お前さ、もう少しリコちゃんに優しく出来ない?」 「優しく?してないか、俺?」 「今日の差し入れにしたってさ、ありがとう、とか、悪いね、とか、そういうねぎらいの 言葉の一つもかけてやれば、わざわざ寄り道して今川焼きを買ってきた甲斐があるっても のよ」 「・・・・ああ、そうだな、今度から、気をつける」  湯浅はまだ言い足りない様子だったが、それ以上の追求を断念した。その代わり、別の 話題を持ち出した。 「で、お前の見たところ、この即席バンドはどうだ?俺は予想以上に手応えを感じている んだが」 「そうだな・・・・俺も、悪くないと思う」 「だろ?香里ちゃんも思っていたより上手いし、それ以上にリコちゃんがこんなに一所懸 命になってくれるとは、正直思わなかったよ」 「リコは、一度引き受けたら途中で投げ出す事はしないよ」  湯浅が言い終わると、全く間を開けることなく比呂志が断言した。湯浅は一瞬ぽかんと 口を開けたが、すぐに口元に笑みを浮かべて、 「そうだな、リコちゃんはそういう娘だよな」  と言った。 「だけど、本当に四曲行く気か?ボロが出ないように二曲にして15分で申請した方がいい んじゃないか?」  比呂志の心配はもっともである。一曲目を通しで演奏できるまでにもう一ヶ月半かかっ ている。単純にこのペースなら当日までに後一曲、湯浅の言うとおり二曲目以降はペース が上がるとしても二曲が限度ではないか。  しかし、湯浅は心配ないと言い切った。 「ホント言うと、俺が一番心配していたのはリコちゃんのボーカルだけだったんだ。この バンドはコードは意外とレパートリーが少なくて、ちょっと聴いただけだと同じ曲に聴こ えるようなのが多いから、歌詞で差をつけてるだけなんだよね。その意味じゃ英語の歌詞 を都度暗記しなきゃいけないリコちゃんの負担が一番大きい。でも、やってくれそうだ」 「小金山さんのギターも、あまり変わらないのか?」 「ああ。だから俺がやらなくても大丈夫と判断したんだ」 「そうなのか」 「・・・・お前は公正だな。良くも悪くも」 「何の事だ?」 「いや、言葉通りだ」  それ以上の説明はせず、湯浅は楽譜に目を落とした。 「湯浅さん、家の方角逆じゃないんですか?」  香里が訊ねる。 「逆だよ」  湯浅が答える。 「私、大丈夫ですよ。そんなに遠くじゃないですし」 「いつもは比呂志が送ってるんだろ?その代役」  日が沈む直前まで練習した後、湯浅が理恵子を、比呂志が香里を送るのがいつもの流れ である。今日は解散する時になって、比呂志の母が 「今煮物作ってるの。もうすぐ出来るから持って行きなさい」  と理恵子を呼び止めたため、香里を湯浅が、理恵子を比呂志が送る事になったのである。 「まあ、夕食は昨日のシチュー温めるだけで済むし、これくらいの寄り道はどうってこと ないよ」 「湯浅さん、お母さんも働いてるんですか?」 「いや、いないんだ。俺が十歳の時、病気で死んじゃってさ」  平然と答える湯浅に、香里がしまった、という顔貌をする。  湯浅は笑顔で腕を組んだまま 「悪い事訊いた、とか思ってるだろ?」 「あの・・・・」 「俺が言ってないんだから知らなくても当然だし、今更思い出したから辛くなるって物で もない。そんな風に気を遣われる方が、なんと言うか、困る。だから、気にしないで」 「・・・・はい」  香里は理恵子に言われた事を思い出した。この人の事を知るいい機会だと思った。 「湯浅さん」 「ん?何?」 「湯浅さんって、いつもニコニコしてますよね」 「よく言われるね、それ。半分は地顔なんだけどね」 「怒る事ってないんですか?」 「いや、あるよ。人が並んでる列に横入りされた時とか、政治家の汚職とか」 「また大きい話と小さい話と極端ですね」 「そう?ま、要するに人並みには腹を立てるって事」  やはり捉えどころがない。なんだかわざと話の焦点をずらして答えているような気がす る。 「――怒ってる顔なんて、見たくないでしょ」  湯浅が言った。 「え?――あ、は、はい」 「俺も他人に見せたくない。後から俺の事を思い出す時、『いつも笑ってたな』と思って もらってたいんだよね」 「はあ・・・・」  どこまで真面目に答えているのやら。どうも言う事が極端な人だ。  香里は、この人を食った先輩を少し突いてみたくなった。わざと歯に衣着せぬ言葉を言 ってみれば、もしかしたら笑顔の下の顔を見せるかもしれない。 「・・・・湯浅さん、結構八方美人なんですね」  湯浅はほんの一瞬驚いた顔で香里を見たが、すぐに前を向き、元の笑顔に戻った。 「そう・・・・だね、そう思うよ。他人からこういう風に見られていたいんだ。穏やかで、い つもおめでたい男ってさ」 「はあ」  あまり効果はなかったようだ。香里は少しがっかりした。 「それに、俺が笑いながら話していれば、俺と話している相手も自然に難しい顔はしなく なるだろ?」 「まあ、そうですね」 「俺は出来れば、みんなにも笑顔でいて欲しいんだ・・・・みんな幸せになって、その笑顔を 見ている事が一番嬉しいんだよ」 (あれ?)  その瞬間、湯浅の顔貌が違ったものに見えた。それまでと同じ笑顔である筈なのに、と ても悲しそうに見えた。まるで自分に幸せは訪れる事はない、と言っているようだった。 「えっと・・・・」  何か言わなければならないような気がした。香里の言葉に傷ついたわけではなさそうだ が、心のどこか、香里が考えていたよりも深い部分に触れてしまった気がした。それが何 かは、香里にはわからないが。 「あ、もしかしてここかい?」  湯浅が『小金山』と書かれた表札を指差して訊ねた。いつの間にか自宅の前まで来てい たらしい。 「あ・・・・そうです」 「じゃ、俺はここで。また明後日だね。バイバイ」  湯浅はそう言って立ち去って行った。顔貌から先程の悲しげな様子は失われ、元の掴み どころのない笑顔に戻っていた。  それでも、香里の胸にはあの悲しげな笑顔が深く心に刻まれた。香里がその笑顔の意味 を知るのは、この三年後の事である。                  了 ノート 安藤功二: ・三十歳  今川焼き『あんどう』店主 ・身長   169cm ・家族構成 独身(但し恋人あり) ・趣味   野球 屋台から始めて今年自分の店を持ったばかり。口調はテキヤ調 奥村美智子: ・二十二歳 今川焼き『あんどう』店員 ・身長   155cm ・家族構成 両親、祖母、兄 ・趣味   料理 安藤の恋人。両親は交際をよく思っていない 香里について 香里は外見的なベースは比呂美ですが、性格は結構違います。 比呂美のペシミスト的な部分は、仲上家に引き取られる前からの、彼女の本質的な資質だと思います。香里はそういう部分はなく、 基本的に無邪気な年相応の少女です。ただし、非常に情が深く、愛した相手を思い続ける強さは比呂美に共通しています。 作品中で中々出せませんが、相手と衝突しそうになると自分が悪いと思ってなくても謝ってしまう悪癖があり、理恵子が後に比呂美を 「母親そっくり」となじるのはそういう部分も指しているという解釈です。 1985年という事で、つくば万博に4人を出かけさせようかとも思っていたのですが、あまり盛り上がる事件がおきそうにないので断念。 この話の後行ってるんですけどね。 今回、実は少しややこしい作り方をしています。 memoriesは1985を4話、そのあと1988を5話で構成する予定です。つまり、この第3話は1985の起承転結の「転」に当たりますが、同時に memories全9話の1/3として人物関係を整理する回でもあるため、同じテンでも「転」であると同時に「纏」でもあるという、かなり 性質の違う役割を持たせています。 そのため会話中心で、視点を分散させてキャラの組み合わせを色々と代えながらそれぞれの立ち位置や距離感を見せつつ、今後の 伏線となりそうな新事実をぼかしながら織り込んでいこうとしている為、特に湯浅が忙しく動き回っています。 最重要人物である湯浅は、どう動くのか予想しにくいのでこっちも大変 [[memories1985 親愛と嫉妬 ]]

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