ファーストキス-3

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▲[[ファーストキス-2]] ――第三幕『キスの、呪いか?』――  愛子の店を出ると、眞一郎はすぐ左右を確認した。少しの離れた街灯の下で立っている 乃絵をすぐ見つけることが出来た。眞一郎は、早足で向かったが、乃絵が眞一郎が追いつ くのを待たずに歩き出したので、さらに足を急がせた。 「どこ、行くんだよ」 「防波堤」 「あそこか?」 「うん」  乃絵は、前を向いたまま答えた。  それから、眞一郎は、黙って、乃絵の後ろをついて歩いた。  乃絵の背格好は、半年前と変わりない。ただ、夏服で腕が露になっている分、少し小さ く見えたが、足取りは以前の数倍は力強いように感じられた。  乃絵も、ずっと黙っていた。さきほどまで愛子の店で気軽に話していたというのに……。  今の眞一郎と比呂美の間に、乃絵の入り込む隙間はなかった。乃絵もそれを実感してい ることだろう。なのに、眞一郎の心のどこかで、乃絵との一切の恋愛沙汰を拭いきれない のは、乃絵が比呂美とは違った大人びた部分を時折、自分に見せる所為かもしれないと眞 一郎は思った。 ……おれは、どうして、比呂美と乃絵とで接し方がこうも変わるのだろうか。   それは、おれにとってまずいことなのか? 比呂美にとってまずいことなのか?  眞一郎は、歩きながら、そういう疑問と格闘したが、頭がすっきりするような答えを導 き出せなかった。とりあえず、今は、乃絵に隙を作ってはいけないと考えた……決して信 用していないわけではなかったが。  やがて、ふたりは、交差点にさしかかった――。  比呂美がさきほど迷いからの脱却を図った場所。  そして、このふたりも、横断歩道を渡ったのだ。  比呂美は、海岸線の道をゆらゆらと進んでいた。全身を包む潮騒の律動に身を任せてい るという感じだった。夜は、海鳥たちの励ましの言葉も聞こえない。曇っていて、夜空に 語らう星たちも見えない。ただ、色のない、風と、海と、そして自分の足音が聞こえるだ けだった。  この海岸通りには、外灯が50メートルくらいの間隔で点々と灯っている。  比呂美が、寂びそう――とそれらに同情を向けても、愛情を返してくれるものは近くに 何もなかった。時折、脇をすり抜ける自動車さえも、比呂美には冷たく当たっているよう に感じられた。  交差点を渡ってからどれほど時間が経ったのだろう。冷静になって考えれば、簡単に弾 きだせるのだが、その答えを信じられなければ意味がなかった。  比呂美が見失った時間軸を引き寄せようといていると、前方の道路の海側に屋根付きの 小さい建物が目に入った。海岸線を走る路線バスの停留所だ。もうこの時間に、バスは走 ってない。あったとしても最終バスだけだろう。  やがて、比呂美はその停留所に辿り着くと、待合室の扉を開け、中に入った。そして、 心に溜まったガスを抜くように大きく鼻で息を吐くと、体の向きを180度変え、全身の 力を抜くようにベンチへすとんと腰を落とした。  室内では、潮騒の音が少し和らいだ。  さっきまでの音を一気に絞られて物足りなさを感じた比呂美は、スニーカーを少し滑ら せて、じゃりっと音を立てた――嫌な音だった。 ……さびしいよぉ。   眞一郎くんに、会いたい、会いたい、会いたい――会いたいっ……  心の底から湧き起こる欲求に反応して比呂美の目に涙が溜まると、それは比呂美の頬を 伝わずに、一滴だけ、落下した。そして、それがコンクリートの床に達すると、ぴちっと 音を立てた。 ……もう、いやだ、いやだ、いやだ。   わたしが、わるい、わるい、わるい。   いするぎのえは、関係ない。   わたしが、わるいんだっ! 「思いっきり……泣いてやる……」  比呂美は、吐き捨てるように呟くと、顔を伏せ、肩を震わしだした。  目頭が急に炎のように熱くなり、堪えきれずに顔をしかめると、両頬に無数の涙が走っ た。そして、それらは顎の輪郭を辿って、顎先の一点に集まっていった。比呂美は、それ を右手の甲で拭って、口を付けた。淡いしょっぱさを感じた。  比呂美は、目の涙は拭わなかった。流れるだけ流れろといった感じに、目を少し開いて は閉じ、開いては閉じ、最後の一滴まで絞り出すようにその動作を繰り返した。  その度に、両頬に無数の涙の道が出来た。  しばらくして、涙の噴き出す量が極端に落ちた。頬で繰り広げられてきた涙の狂乱劇も 終わりが近づいている。もういいだろう、もう充分だろう、帰る用意をしなければ。そう 思った比呂美は、大きく鼻で呼吸を繰り返した。  すーはー、とかすれた鼻息が室内にこだました。  やがて落ち着きを取り戻した比呂美は、お腹の筋肉の強張りを感じた。それに、目と、 頬と、顎もヒリヒリして冷たい。  比呂美は、ようやくジーパンのポケットからハンカチを取り出し、自分から溢れ出た情 動の跡を静かに拭った。でも、拭ってやりたくても出来ないところがあった。  おもむろに、足元に目をやると、お茶をこぼしたような可愛らしい水溜りが出来ていた。 先ほどまで、比呂美の中にあったもの――比呂美はそれを見て、ごめんね、と小さく謝っ た。 ……とにかく、眞一郎くんに謝ろう   そして、今の気持ちを話そう   なにも、くよくよすることなんかない……  前向き思考に切り替えた比呂美は、勢いよく立ち上がり、待合室の外に出た。  そのとき、一台の車が、右から左へ通り過ぎた。  つられるようにヘッドライトの光を目で追うと、一瞬、二人の人影が目に入った。  目を凝らす。――若いだ男女だ。  こっちへ歩いてきている。もうすぐしたら、外灯の下を通過する。そこではっきりする。  比呂美は、無意識の内に少し後ろへ下がり、待合室の扉のそばに立った。  まもなく、二つの影が、明かりの中に突入する。  男と女。  学生服。  女は、よく知っているブルーのスカート。  麦端高校の制服。  あれは、石動乃絵。  そして……仲上眞一郎!  体の中に湧き起こる熱いものと同時に比呂美の唇が、細かく震えだした。 ……愛ちゃんの店で、会うんじゃなかったの?   帰りを送るにしたって、石動乃絵の家はこっちじゃない!  比呂美は、乃絵ではなく、眞一郎を睨みつけた。  そして、一歩前へ進むと、体をふたりへ向け仁王立ちになった。 ……わたしは、逃げない。   どういうことなのか、全部、吐かせてやる……  唇の震えから両腕の震えへと拡大していった比呂美の体内の血流は速まった。  比呂美は、近づいてくるふたりに視線を縫いつけ、じっと待った。  比呂美と眞一郎たちの距離は、ちょうど50メートルを切ったところ。顔の表情は分か らなくても、ふたりの雰囲気が伺える距離だった。  よく目凝らして見ると、比呂美は意外なことに気づいた。ふたりが――眞一郎と乃絵が、 まったく会話をしていないことに。それは、比呂美には、とても想像しがたい光景だった。  ふたりに何があったんだろう――と比呂美が思いを巡らせていると、乃絵は、右腕を水 平に持ち上げ、海の方を指差した。ふたりは、突堤(とってい:海に突き出た格好の防波 堤)へ進路を変えた。そうなると、ふたりは比呂美の方へは来ないことになる。  道路から突堤に入るとすぐに下りの階段があるので、ふたりの姿は下の方へ移動してい き、道路の防波壁の影に隠れた。比呂美はすぐに防波壁に近づき、やや斜め下を見て、す ぐにふたりの姿を捉え直した。  ふたりは、突堤の先端に向かっている。やがて、到達して止まった。  道路から突堤の先端まで約50メートル。表情は分からないが、仕草がなんとなく分か る距離。比呂美は、突堤の根元までそろりと移動して、防波壁に身を隠した。    突堤の先端まで3メートルというところで、乃絵と眞一郎は向かい合った。乃絵が、先 端側に立っている。足を止めると、視覚ではっきりと捉えられない波の音が、四方から襲 いかかってきた。眞一郎は、それらに平衡感覚を狂わされ、黒い海へ引きずり込まれそう な錯覚に囚われた。そんな中でも、乃絵は、微動だにせず、踏ん張っていた。  眞一郎には、乃絵のその姿が、海を照らす灯台のように大きく、明るく見えた。  やがて、乃絵は、この世に別れを告げるみたいに話しだした。 「――わたしが、このことを知ったのは、たぶん、わたしに、あなたに話さなくてはいけ ない使命があるからだと思うの……」 「…………」  乃絵らしい切りだし方だな、と眞一郎は思った。 「西村先生から聞いたの、この話――。先生には、まだ、仲上君に教えるなっていわれた けど、わたしは、それは違うなと思ったの……だから……あなたに連絡したの。――聞く 覚悟は出来てる?」 ……西村先生だって?  その名前に首を傾げた眞一郎は、自分との接点を確認した。  西村先生というのは、眞一郎の所属するデザイン部の顧問で、父のヒロシと麦端高校の 同期であった人物である。比呂美の両親とも親しかったことを眞一郎は聞かされていた。  とういうことは、また兄妹疑惑のときのように親たちが絡んだ話なのか、と眞一郎は眉 間に皺を寄せた。 「そこまでいわれたら、もう後には戻れないだろ? おまえから電話があった時点で、も う、おれには選択の余地がなかったんじゃないのか?」  眞一郎は、少し強がってみせた。  それを感じた乃絵は、眞一郎の緊張を少しほぐすつもりで、こう返した。 「そうね……じゃあ、あなたへのお礼のつもりで話すわ」 「お礼……? ……ま、いっか。で、なんだよ?」  お礼の意味がよく分からなかったが、眞一郎はとりあえず、つづきを促した。 「ある建物のロビーにある絵を、ひとりで、見てほしいの。必ず、ひとりで」 「絵? ある建物って?」  眞一郎には、まだ、『ひとりで』というキーワードが心に引っかからなかった。  が、乃絵は構わずつづけた。 「町役場のとなりの建物。商工会館という建物だったと思うけど……」 「ああ~赤レンガのような壁の……」  この地域のほとんどの人が知っている場所で、駅へ向かう国道沿いにある建物だ。 「うん、その建物。そして……」 「ん?」  乃絵は、背中に背負った鞄を下ろし、胸の前で抱きかかえると、鞄の中から手紙らしき ものを取り出した。掌くらいの大きさの白っぽい封筒だった。 「その絵をみたら、この手紙を読んでほしいの」 といって、乃絵は、その手紙を眞一郎に手渡した。 「手紙って、西村先生の?」  乃絵は、首を横に振った。 「ちがう。これは、わたしが書いたの、先生から聞いた話を元に……」  乃絵は、急に黙ったが、次の言葉は用意している感じだった。眞一郎はそれを待った。 「そして……向き合ってほしいの、ひとりで。あなたのために……そして、湯浅比呂美の ために……」 「え?」  今度は、いきなり、『湯浅比呂美』という名前だ。  眞一郎は、キーワードを頭の中で並べてみた。 ……『西村先生』……『絵』……『手紙』……『湯浅比呂美』……  西村先生――デザイン部の顧問で、父のヒロシと同期。つまりヒロシの学生時代の友人。  絵と手紙――乃絵が先生から聞いた話が、この手紙に書かれてある。絵の説明も含めて。  湯浅比呂美――比呂美と西村先生の間に直接的な接点はないはず。  比呂美の両親と関係があるというのか?  出生の秘密が本当にあったとか……そう考えると眞一郎の鼓動が高鳴った。  嫌な過去を思い出して顔をしかめた眞一郎は、逃げ出したい気持ちになったが、それを 察知した乃絵は、すぐ先回りして、言葉で釘を刺した。 「逃げないでね」 「待て、どうして比呂美が出てくるんだよ」  眞一郎は、先を見透かしたようなことをいう乃絵に食ってかかったが、乃絵は、 「とにかく、絵を見てからよ。わたしからの大事な話はこれでお終い」 といって、ぴしゃりと終了宣言をした。 「…………」  つまり、スタートラインに立て、ということなのだろうか、と眞一郎は思った。 「ここからは、もう、あなた自身の問題」 「問題って……」  戸惑いを隠せない眞一郎。それもそのはず、比呂美と兄妹かもしれないという疑惑に、 比呂美と共に追い詰められたことのある眞一郎にとって、両親の若かりし頃の話は、ある 種のトラウマになっていた。  急に塞ぎこんでしまった眞一郎。  そんな眞一郎に、このまま話を終わらせるのはまずいと感じた乃絵は、さらに用意して いた言葉を眞一郎に話すことにした。 「いいわ、少しサービスして教えてあげる」 「…………」  眞一郎は、目だけ乃絵に向けた。 「あなたと湯浅比呂美は、もう、恋愛から一歩進んだ関係になりつつある。だから、あな たにとって、湯浅比呂美という存在が、ときには重荷になり、ときには逃げ道なる。だか ら今、あなたは、ひとりで、このことを受け止めなくてはいけない。わたしは、そう思う の。わたしが、ひとりで失恋から立ち直ろうとしたように……」  眞一郎は、乃絵を真っ直ぐに見た。   『恋愛から一歩進んだ関係』 『湯浅比呂美』 『ひとりで』 『失恋から立ち直ろうとしたように』    頭の中で繰り返される乃絵の言葉。  それは、つまり……。 ……『西村先生』+『絵』+『手紙』は、『親父』に関係したこと? ……『湯浅比呂美』は、『結婚』ということ?  眞一郎は、そう直感した。 「いいたいことは、なんとなく分かったよ」 「……うん……」  乃絵は、小さく頷き、優しく微笑んだ。 ――坊波壁の影で。   ここまでの二人のやりとりは、比呂美の位置からでは、まるで分からなかった―― 「ねぇ?」 「ん?」  乃絵は、いつもの無邪気な調子で話を変えた。 「西村先生っておもしろい人だよね」  眞一郎の脳裏に、メガネをかけ、頭が海坊主のようにつるつるに禿げた中年男の像が浮 かび上がった。 「そうか……顧問の先生、一緒だったよな。おまえ、演劇部に入ってんだろ?」 「うん。来月ね、お芝居するの」 「へ~おまえも出るのか?」 「うん」  今年の三月、乃絵は、演劇部に入部した。まだ足は完治していなかったが、西村先生が、 傷心から抜け出せない乃絵を励まそうと画策したのだった。何か打ち込めるものがあれば、 立ち直りも早いだろうと。眞一郎がその話を西村先生から聞いたのは、四月になってから のことだった。それで、また眞一郎と乃絵の接点が、増えることになったが……今のとこ ろ、悪い方には転んでいなかった。 「どんな芝居? たぶん、おれも舞台美術で駆り出されると思うんだけど、まだデザイン 部には大道具の話が来てないな~」  演劇部の舞台セットは、顧問が同じということもあって、デザイン部がほとんど担当し ていた。眞一郎もことあるごとにそれに携わった。 「ようやく脚本が上がったから。……へへ、キスをテーマにした話……」  乃絵は、途中で照れくさそうに笑った。 「キス?」 と眞一郎の声は、裏返った。 「そう、キス」  乃絵はそういうと、目をぱちくりと開いて、眞一郎に一歩近づいた。  眞一郎は、思わず上体を反らし、顔をしかめたが、たった今珍しく照れくさそうに笑っ た乃絵に、ある想像をしてしまった。 「キスって、まさか、するの?」 「そりゃ~するよっ。でもね、女の子同士しか、しないから」 「ええ~」  マジかよ~と眞一郎は、嘆きの声を上げた。女の子同士の恋愛の劇なんかを学校でやっ ていいのかと反対論者のように心配していると、乃絵は、すぐさま、眞一郎の想像を健全 な方へと導いた。 「そのね、そういう話じゃないけど、女の子が男の子役もするの。演じるのは、みんな女 子っていうだけ」 「そりゃそうだろう。下手すれば停学になるぞ」  演劇部に男子部員がいないことを知っていた眞一郎は、まあ、そんなことだろうな、と 吐き捨てるようにいった。 「ねぇ?」 「ん?」  こんど、乃絵の口調は、恋人に話しかけるような甘い調子に変わった。  眞一郎は、すぐ気を引き締めた。 「最初のキスって、どんなだった? 参考までに聞かせて」  乃絵は、眞一郎の両腕をつかんで、顔を近づけた。 「な、なんで、おまえにそんなこと教えなきゃいけないんだよ」  眞一郎はそういうと、すぐ乃絵の両手を振りほどいて冷たくあしらった。 「あら、さっき、あ~んな大事なことを教えてあげたのに、キスの話くらい、いいじゃな い。それだけでもまだ釣り合わないわ」 と、手を広げて目を輝かせる乃絵に、「ええ~そんなバカな」と眞一郎は嘆いた。  不満たっぷりな眞一郎にふてくされた乃絵は、容赦なく、核心に迫った。 「ねぇ~ねぇ~湯浅比呂美とのキスは、どんなだった?」 「あっ……」  乃絵の口からまた『湯浅比呂美』という名前が飛び出してきて、眞一郎の思考は、思わ ず止まってしまった。  眞一郎の最初のキスは、愛子――。乃絵は、自分を踏み台にして比呂美と交際を始めた 眞一郎の初めてのキスの相手は、当然、比呂美――だと思っている。自分に面と向かって、 憎たらしくも「比呂美が好きだ」と告白したのだから、そう思わないと、あの三角関係は なんだったのだ、ということになる。乃絵がそう思い込んでも仕方がなかった。  つまり、眞一郎は、ウソをつくか否かの瀬戸際に立たされたのだ。  眞一郎は、しばらく黙った。口が開けなかった。そして、そのことに、しまった、と思 い、乃絵から顔を背けたが一歩遅かった。。 「なに?」  乃絵は、眞一郎の変な態度に、目を丸くした。 「いや、そ、そうだな~」  眞一郎は、とにかく、比呂美とのキスを思い返すフリを精一杯するが……。 「もしかして……」  乃絵は、もう、眞一郎のウソを感じていた。 「え~と、比呂美とは……」 「湯浅比呂美じゃないの?」  乃絵が眞一郎の言葉をさえぎると、眞一郎は、声を荒げて、 「なに言ってるんだよ、比呂美とだよ」 と乃絵の疑念を吹き飛ばそうとしたが。 「ウソ! 嘘、言わないで!」  乃絵も、叫びした。  乃絵を一度深く傷つけてしまった眞一郎にとって、乃絵のこの言葉は、いわせてはいけ ないものだった。眞一郎は、凍りついた。 「…………」  万事休すだった。  乃絵に見抜かれてしまっては、もう眞一郎にはどうすることも出来ないのだった。   ――坊波壁の影で。   比呂美には、「ウソ!」という言葉だけ届いた――  やがて、逆に、乃絵の方が思い詰めたような顔になった。 「湯浅比呂美は、知っているの? このこと……」 「……いや」  乃絵は、眞一郎の返事を聞くと、目を固く閉じて、とても切ない表情をし、首を小さく 横に振った。そして、目をゆっくり開いて……。 「それじゃ、あなたとのキスを初めてって思ってるかもしれないってこと?」 「……たぶん」  乃絵の顔が、段々と怒りに満ちてくる。 「あなた、それ、裏切りだわ」 「裏切りって……」 「……どうして、好きな人に、そんな、酷いことが出来るの?」  この言葉は、もう眞一郎へ向けられていなかった。自分の中で反芻している感じだった。  乃絵の顔は、やがて絶望に変化していって、乃絵は眞一郎に事の真相を問うた。 「だれなの?」 「…………」  眞一郎は、乃絵から顔を背けていた。  その態度に、乃絵は語気を強め、繰り返し問うた。 「だれなの? 初めての相手」  乃絵はそういうと、眞一郎の顔を自分に向かせた。  怒りと絶望が入り混じったような乃絵の顔。その表情は、眞一郎に、木から飛び降りて 骨折した直後の乃絵を思い起こさせた。また、こんな顔をさせるなんて――と眞一郎の胸 はぎゅっと締め付けられ、乃絵からこの表情を取り去るには、自分が正直に話す以外ない と眞一郎は思った。その気持ちが、眞一郎の口を動かした。 「……愛ちゃん」  乃絵は、予想外、といった感じに目を大きく瞬かせた。 「……愛子さん……本当なの?」 「あぁ……」  眞一郎は、首を横にひねり、吐き捨てるように返事をした。 「…………愛子さん、踊りの稽古を見にいったときに、話してくれたことがあったの。眞 一郎のことがずっと好きだったって……それで…………」 「…………」  眞一郎は、――もう、その頃は、キスしたあとだったんだよ――といいかけたが止めた。 「仲上君、あなた、愛子さんの気持ち知ってたの?」 「……いきなり……キスされて……知ったんだ」 「いきなり?」  乃絵は、眉間にしわを寄せ、首を少し傾げた。 「……乃絵が好きだ、とおまえに告白した日、帰りに愛ちゃんの店に寄って、そこで…… 乃絵と付き合うことになったっていったら、急に……」 「こんな風にされたんだ……」  乃絵はそういうと、眞一郎に体を寄せて胸の高さまであるコンクリートの壁に眞一郎を 押し付け、眞一郎の頭の後ろに両手を回した。 「あっ、おまえっ!」  眞一郎はもう仰け反ることも出来ず、眞一郎の唇は、すぐに乃絵の唇に捕らえられた。  乃絵の腕にさらに力がこもり、眞一郎は、自分に顔を合わせている乃絵を簡単に引き剥 がすことができなかった。   ――坊波壁の影で。   比呂美には、これが、キスをしている光景にしか見えなかった―― 「おまえ、なにすんだよ!」  乃絵の力が緩まると、眞一郎は乃絵を軽く突き飛ばして、物凄い形相で睨みつけた。 「あなたに、そんな顔をする資格はないわ。でも、今のキスで許してあげる。忘れなさい。 それから、湯浅比呂美にちゃんと話、することね」  乃絵は、眞一郎の表情など物ともせず、眞一郎にそう忠告した。 「…………」  眞一郎の激昂は治まる気配を見せなかった。  再び乃絵にウソをつこうとしたり、乃絵との交際をスタートさせた直後に別の女の子と キスをしたりと、乃絵に対して怒るというよりもむしろ罪悪感を感じなければいけないと いうのに、乃絵とのキスに未だ自分に対する執着みたいなものを感じた眞一郎は、乃絵の 行為を簡単に受け入れることが出来なかった。  眞一郎の態度に一歩も引く気を見せない乃絵は、さらに眞一郎を追い詰める言葉を浴び せた。 「湯浅比呂美は、一生、許さないかもね。……あの子は、そういう女よ……」  乃絵は、そういい放つと、じゃ、と短く発して、道路の方へ駆け出した。  眞一郎は、乃絵の浴びせた言葉に、一歩も動くことが出来なかった。  この言葉が、心深くに刺さってしまって。 ……一生、許さない……  乃絵から渡された手紙は、眞一郎の手の中でくしゃくしゃに握りつぶされていた。  乃絵の足音は、徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。  眞一郎は、その場に立ちつくし、漆黒の海に、愛子、比呂美、乃絵とのキスを映し出し た。  愛子の店で、カウンターに押し付けられて、キスをされる自分。  あの砂浜で、比呂美の吸い込まれるような瞳に体を縛られ、キスをされる自分。  そして、この防波堤で、自らの罪の罰として、キスをされる自分。  自分を想ってくれたこの三人の女性との初めてのキスは、すべて、奪われたものになっ てしまったのだ。  滑稽だった、自分というものが……。  一度あることは、二度ある? 三度あったら、なに? 「くっそー、キスの、呪いか?」  眞一郎は、顔を天へ向け、自分の男としての不甲斐なさを嘆いた。 ▼ファーストキス-4
▲[[ファーストキス-2]] ――第三幕『キスの、呪いか?』――  愛子の店を出ると、眞一郎はすぐ左右を確認した。少しの離れた街灯の下で立っている 乃絵をすぐ見つけることができた。眞一郎は、早足で向かったが、乃絵が眞一郎が追いつ くのを待たずに歩き出したので、さらに足を急がせた。 「どこ、行くんだよ」 「防波堤」 「あそこか?」 「うん」  乃絵は、前を向いたまま答えた。  それから、眞一郎は、黙って、乃絵の後ろをついて歩いた。  乃絵の背格好は、半年前と変わりない。ただ、夏服で腕が露になっている分、少し小さ く見えたが、足取りは以前の数倍は力強いように感じられた。  乃絵も、ずっと黙っていた。さきほどまで愛子の店で気軽に話していたというのに……。  今の眞一郎と比呂美の間に、乃絵の入り込む隙間はなかった。乃絵もそれを実感してい ることだろう。なのに、眞一郎の心のどこかで、乃絵との一切の恋愛沙汰を拭いきれない のは、乃絵が比呂美とは違った大人びた部分を時折、自分に見せる所為かもしれないと眞 一郎は思った。 ……おれは、どうして、比呂美と乃絵とで接し方がこうも変わるのだろうか。   それは、おれにとってまずいことなのか? 比呂美にとってまずいことなのか?  眞一郎は、歩きながら、そういう疑問と格闘したが、頭がすっきりするような答えを導 き出せなかった。とりあえず、今は、乃絵に隙を作ってはいけないと考えた……決して信 用していないわけではなかったが。  やがて、ふたりは、交差点にさしかかった――。  比呂美がさきほど迷いからの脱却を図った場所。  そして、このふたりも、横断歩道を渡ったのだ。  比呂美は、海岸線の道をゆらゆらと進んでいた。全身を包む潮騒の律動に身を任せてい るという感じだった。夜は、海鳥たちの励ましの言葉も聞こえない。曇っていて、夜空に 語らう星たちも見えない。ただ、色のない、風と、海と、そして自分の足音が聞こえるだ けだった。  この海岸通りには、外灯が50メートルくらいの間隔で点々と灯っている。  比呂美が、寂びそう――とそれらに同情を向けても、愛情を返してくれるものは近くに 何もなかった。時折、脇をすり抜ける自動車さえも、比呂美には冷たく当たっているよう に感じられた。  交差点を渡ってからどれほど時間が経ったのだろう。冷静になって考えれば、簡単に弾 きだせるのだが、その答えを信じられなければ意味がなかった。  比呂美が見失った時間軸を引き寄せようといていると、前方の道路の海側に屋根付きの 小さい建物が目に入った。海岸線を走る路線バスの停留所だ。もうこの時間に、バスは走 ってない。あったとしても最終バスだけだろう。  やがて、比呂美はその停留所に辿り着くと、待合室の扉を開け、中に入った。そして、 心に溜まったガスを抜くように大きく鼻で息を吐くと、体の向きを180度変え、全身の 力を抜くようにベンチへすとんと腰を落とした。  室内では、潮騒の音が少し和らいだ。  さっきまでの音を一気に絞られて物足りなさを感じた比呂美は、スニーカーを少し滑ら せて、じゃりっと音を立てた――嫌な音だった。 ……さびしいよぉ。   眞一郎くんに、会いたい、会いたい、会いたい――会いたいっ……  心の底から湧き起こる欲求に反応して比呂美の目に涙が溜まると、それは比呂美の頬を 伝わずに、一滴だけ、落下した。そして、それがコンクリートの床に達すると、ぴちっと 音を立てた。 ……もう、いやだ、いやだ、いやだ。   わたしが、わるい、わるい、わるい。   いするぎのえは、関係ない。   わたしが、わるいんだっ! 「思いっきり……泣いてやる……」  比呂美は、吐き捨てるように呟くと、顔を伏せ、肩を震わしだした。  目頭が急に炎のように熱くなり、堪えきれずに顔をしかめると、両頬に無数の涙が走っ た。そして、それらは顎の輪郭を辿って、顎先の一点に集まっていった。比呂美は、それ を右手の甲で拭って、口を付けた。淡いしょっぱさを感じた。  比呂美は、目の涙は拭わなかった。流れるだけ流れろといった感じに、目を少し開いて は閉じ、開いては閉じ、最後の一滴まで絞り出すようにその動作を繰り返した。  その度に、両頬に無数の涙の道ができた。  しばらくして、涙の噴き出す量が極端に落ちた。頬で繰り広げられてきた涙の狂乱劇も 終わりが近づいている。もういいだろう、もう充分だろう、帰る用意をしなければ。そう 思った比呂美は、大きく鼻で呼吸を繰り返した。  すーはー、とかすれた鼻息が室内にこだました。  やがて落ち着きを取り戻した比呂美は、お腹の筋肉の強張りを感じた。それに、目と、 頬と、顎もヒリヒリして冷たい。  比呂美は、ようやくジーパンのポケットからハンカチを取り出し、自分から溢れ出た情 動の跡を静かに拭った。でも、拭ってやりたくてもできないところがあった。  おもむろに、足元に目をやると、お茶をこぼしたような可愛らしい水溜りができていた。 先ほどまで、比呂美の中にあったもの――比呂美はそれを見て、ごめんね、と小さく謝っ た。 ……とにかく、眞一郎くんに謝ろう   そして、今の気持ちを話そう   なにも、くよくよすることなんかない……  前向き思考に切り替えた比呂美は、勢いよく立ち上がり、待合室の外に出た。  そのとき、一台の車が、右から左へ通り過ぎた。  つられるようにヘッドライトの光を目で追うと、一瞬、二人の人影が目に入った。  目を凝らす。――若いだ男女だ。  こっちへ歩いてきている。もうすぐしたら、外灯の下を通過する。そこではっきりする。  比呂美は、無意識の内に少し後ろへ下がり、待合室の扉のそばに立った。  まもなく、二つの影が、明かりの中に突入する。  男と女。  学生服。  女は、よく知っているブルーのスカート。  麦端高校の制服。  あれは、石動乃絵。  そして……仲上眞一郎!  体の中に湧き起こる熱いものと同時に比呂美の唇が、細かく震えだした。 ……愛ちゃんの店で、会うんじゃなかったの?   帰りを送るにしたって、石動乃絵の家はこっちじゃない!  比呂美は、乃絵ではなく、眞一郎を睨みつけた。  そして、一歩前へ進むと、体をふたりへ向け仁王立ちになった。 ……わたしは、逃げない。   どういうことなのか、全部、吐かせてやる……  唇の震えから両腕の震えへと拡大していった比呂美の体内の血流は速まった。  比呂美は、近づいてくるふたりに視線を縫いつけ、じっと待った。  比呂美と眞一郎たちの距離は、ちょうど50メートルを切ったところ。顔の表情は分か らなくても、ふたりの雰囲気が伺える距離だった。  よく目凝らして見ると、比呂美は意外なことに気づいた。ふたりが――眞一郎と乃絵が、 まったく会話をしていないことに。それは、比呂美には、とても想像しがたい光景だった。  ふたりに何があったんだろう――と比呂美が思いを巡らせていると、乃絵は、右腕を水 平に持ち上げ、海の方を指差した。ふたりは、突堤(とってい:海に突き出た格好の防波 堤)へ進路を変えた。そうなると、ふたりは比呂美の方へは来ないことになる。  道路から突堤に入るとすぐに下りの階段があるので、ふたりの姿は下の方へ移動してい き、道路の防波壁の影に隠れた。比呂美はすぐに防波壁に近づき、やや斜め下を見て、す ぐにふたりの姿を捉え直した。  ふたりは、突堤の先端に向かっている。やがて、到達して止まった。  道路から突堤の先端まで約50メートル。表情は分からないが、仕草がなんとなく分か る距離。比呂美は、突堤の根元までそろりと移動して、防波壁に身を隠した。    突堤の先端まで3メートルというところで、乃絵と眞一郎は向かい合った。乃絵が、先 端側に立っている。足を止めると、視覚ではっきりと捉えられない波の音が、四方から襲 いかかってきた。眞一郎は、それらに平衡感覚を狂わされ、黒い海へ引きずり込まれそう な錯覚に囚われた。そんな中でも、乃絵は、微動だにせず、踏ん張っていた。  眞一郎には、乃絵のその姿が、海を照らす灯台のように大きく、明るく見えた。  やがて、乃絵は、この世に別れを告げるみたいに話しだした。 「――わたしが、このことを知ったのは、たぶん、わたしに、あなたに話さなくてはいけ ない使命があるからだと思うの……」 「…………」  乃絵らしい切りだし方だな、と眞一郎は思った。 「西村先生から聞いたの、この話――。先生には、まだ、仲上君に教えるなっていわれた けど、わたしは、それは違うなと思ったの……だから……あなたに連絡したの。――聞く 覚悟はできてる?」 ……西村先生だって?  その名前に首を傾げた眞一郎は、自分との接点を確認した。  西村先生というのは、眞一郎の所属するデザイン部の顧問で、父のヒロシと麦端高校の 同期であった人物である。比呂美の両親とも親しかったことを眞一郎は聞かされていた。  とういうことは、また兄妹疑惑のときのように親たちが絡んだ話なのか、と眞一郎は眉 間に皺を寄せた。 「そこまでいわれたら、もう後には戻れないだろ? おまえから電話があった時点で、も う、おれには選択の余地がなかったんじゃないのか?」  眞一郎は、少し強がってみせた。  それを感じた乃絵は、眞一郎の緊張を少しほぐすつもりで、こう返した。 「そうね……じゃあ、あなたへのお礼のつもりで話すわ」 「お礼……? ……ま、いっか。で、なんだよ?」  お礼の意味がよく分からなかったが、眞一郎はとりあえず、つづきを促した。 「ある建物のロビーにある絵を、ひとりで、見てほしいの。必ず、ひとりで」 「絵? ある建物って?」  眞一郎には、まだ、『ひとりで』というキーワードが心に引っかからなかった。  が、乃絵は構わずつづけた。 「町役場のとなりの建物。商工会館という建物だったと思うけど……」 「ああ~赤レンガのような壁の……」  この地域のほとんどの人が知っている場所で、駅へ向かう国道沿いにある建物だ。 「うん、その建物。そして……」 「ん?」  乃絵は、背中に背負った鞄を下ろし、胸の前で抱きかかえると、鞄の中から手紙らしき ものを取り出した。掌くらいの大きさの白っぽい封筒だった。 「その絵をみたら、この手紙を読んでほしいの」 といって、乃絵は、その手紙を眞一郎に手渡した。 「手紙って、西村先生の?」  乃絵は、首を横に振った。 「ちがう。これは、わたしが書いたの、先生から聞いた話を元に……」  乃絵は、急に黙ったが、次の言葉は用意している感じだった。眞一郎はそれを待った。 「そして……向き合ってほしいの、ひとりで。あなたのために……そして、湯浅比呂美の ために……」 「え?」  今度は、いきなり、『湯浅比呂美』という名前だ。  眞一郎は、キーワードを頭の中で並べてみた。 ……『西村先生』……『絵』……『手紙』……『湯浅比呂美』……  西村先生――デザイン部の顧問で、父のヒロシと同期。つまりヒロシの学生時代の友人。  絵と手紙――乃絵が先生から聞いた話が、この手紙に書かれてある。絵の説明も含めて。  湯浅比呂美――比呂美と西村先生の間に直接的な接点はないはず。  比呂美の両親と関係があるというのか?  出生の秘密が本当にあったとか……そう考えると眞一郎の鼓動が高鳴った。  嫌な過去を思い出して顔をしかめた眞一郎は、逃げ出したい気持ちになったが、それを 察知した乃絵は、すぐ先回りして、言葉で釘を刺した。 「逃げないでね」 「待て、どうして比呂美が出てくるんだよ」  眞一郎は、先を見透かしたようなことをいう乃絵に食ってかかったが、乃絵は、 「とにかく、絵を見てからよ。わたしからの大事な話はこれでお終い」 といって、ぴしゃりと終了宣言をした。 「…………」  つまり、スタートラインに立て、ということなのだろうか、と眞一郎は思った。 「ここからは、もう、あなた自身の問題」 「問題って……」  戸惑いを隠せない眞一郎。それもそのはず、比呂美と兄妹かもしれないという疑惑に、 比呂美と共に追い詰められたことのある眞一郎にとって、両親の若かりし頃の話は、ある 種のトラウマになっていた。  急に塞ぎこんでしまった眞一郎。  そんな眞一郎に、このまま話を終わらせるのはまずいと感じた乃絵は、さらに用意して いた言葉を眞一郎に話すことにした。 「いいわ、少しサービスして教えてあげる」 「…………」  眞一郎は、目だけ乃絵に向けた。 「あなたと湯浅比呂美は、もう、恋愛から一歩進んだ関係になりつつある。だから、あな たにとって、湯浅比呂美という存在が、ときには重荷になり、ときには逃げ道になる。だ から今、あなたは、ひとりで、このことを受け止めなくてはいけない。わたしは、そう思 うの。わたしが、ひとりで失恋から立ち直ろうとしたように……」  眞一郎は、乃絵を真っ直ぐに見た。   『恋愛から一歩進んだ関係』 『湯浅比呂美』 『ひとりで』 『失恋から立ち直ろうとしたように』    頭の中で繰り返される乃絵の言葉。  それは、つまり……。 ……『西村先生』+『絵』+『手紙』は、『親父』に関係したこと? ……『湯浅比呂美』は、『結婚』ということ?  眞一郎は、そう直感した。 「いいたいことは、なんとなく分かったよ」 「……うん……」  乃絵は、小さく頷き、優しく微笑んだ。 ――坊波壁の影で。   ここまでの二人のやりとりは、比呂美の位置からでは、まるで分からなかった―― 「ねぇ?」 「ん?」  乃絵は、いつもの無邪気な調子で話を変えた。 「西村先生っておもしろい人だよね」  眞一郎の脳裏に、メガネをかけ、頭が海坊主のようにつるつるに禿げた中年男の像が浮 かび上がった。 「そうか……顧問の先生、一緒だったよな。おまえ、演劇部に入ってんだろ?」 「うん。来月ね、お芝居するの」 「へ~おまえも出るのか?」 「うん」  今年の三月、乃絵は、演劇部に入部した。まだ足は完治していなかったが、西村先生が、 傷心から抜け出せない乃絵を励まそうと画策したのだった。何か打ち込めるものがあれば、 立ち直りも早いだろうと。眞一郎がその話を西村先生から聞いたのは、四月になってから のことだった。それで、また眞一郎と乃絵の接点が、増えることになったが……今のとこ ろ、悪い方には転んでいなかった。 「どんな芝居? たぶん、おれも舞台美術で駆り出されると思うんだけど、まだデザイン 部には大道具の話が来てないな~」  演劇部の舞台セットは、顧問が同じということもあって、デザイン部がほとんど担当し ていた。眞一郎もことあるごとにそれに携わった。 「ようやく脚本が上がったから。……へへ、キスをテーマにした話……」  乃絵は、途中で照れくさそうに笑った。 「キス?」 と眞一郎の声は、裏返った。 「そう、キス」  乃絵はそういうと、目をぱちくりと開いて、眞一郎に一歩近づいた。  眞一郎は、思わず上体を反らし、顔をしかめたが、たった今珍しく照れくさそうに笑っ た乃絵に、ある想像をしてしまった。 「キスって、まさか、するの?」 「そりゃ~するよっ。でもね、女の子同士しか、しないから」 「ええ~」  マジかよ~と眞一郎は、嘆きの声を上げた。女の子同士の恋愛の劇なんかを学校でやっ ていいのかと反対論者のように心配していると、乃絵は、すぐさま、眞一郎の想像を健全 な方へと導いた。 「そのね、そういう話じゃないけど、女の子が男の子役もするの。演じるのは、みんな女 子っていうだけ」 「そりゃそうだろう。下手すれば停学になるぞ」  演劇部に男子部員がいないことを知っていた眞一郎は、まあ、そんなことだろうな、と 吐き捨てるようにいった。 「ねぇ?」 「ん?」  こんど、乃絵の口調は、恋人に話しかけるような甘い調子に変わった。  眞一郎は、すぐ気を引き締めた。 「最初のキスって、どんなだった? 参考までに聞かせて」  乃絵は、眞一郎の両腕をつかんで、顔を近づけた。 「な、なんで、おまえにそんなこと教えなきゃいけないんだよ」  眞一郎はそういうと、すぐ乃絵の両手を振りほどいて冷たくあしらった。 「あら、さっき、あ~んな大事なことを教えてあげたのに、キスの話くらい、いいじゃな い。それだけでもまだ釣り合わないわ」 と、手を広げて目を輝かせる乃絵に、「ええ~そんなバカな」と眞一郎は嘆いた。  不満たっぷりな眞一郎にふてくされた乃絵は、容赦なく、核心に迫った。 「ねぇ~ねぇ~湯浅比呂美とのキスは、どんなだった?」 「あっ……」  乃絵の口からまた『湯浅比呂美』という名前が飛び出してきて、眞一郎の思考は、思わ ず止まってしまった。  眞一郎の最初のキスは、愛子――。乃絵は、自分を踏み台にして比呂美と交際を始めた 眞一郎の初めてのキスの相手は、当然、比呂美――だと思っている。自分に面と向かって、 憎たらしくも「比呂美が好きだ」と告白したのだから、そう思わないと、あの三角関係は なんだったのだ、ということになる。乃絵がそう思い込んでも仕方がなかった。  つまり、眞一郎は、ウソをつくか否かの瀬戸際に立たされたのだ。  眞一郎は、しばらく黙った。口が開けなかった。そして、そのことに、しまった、と思 い、乃絵から顔を背けたが一歩遅かった。。 「なに?」  乃絵は、眞一郎の変な態度に、目を丸くした。 「いや、そ、そうだな~」  眞一郎は、とにかく、比呂美とのキスを思い返すフリを精一杯するが……。 「もしかして……」  乃絵は、もう、眞一郎のウソを感じていた。 「え~と、比呂美とは……」 「湯浅比呂美じゃないの?」  乃絵が眞一郎の言葉をさえぎると、眞一郎は、声を荒げて、 「なに言ってるんだよ、比呂美とだよ」 と乃絵の疑念を吹き飛ばそうとしたが。 「ウソ! 嘘、言わないで!」  乃絵も、叫びした。  乃絵を一度深く傷つけてしまった眞一郎にとって、乃絵のこの言葉は、いわせてはいけ ないものだった。眞一郎は、凍りついた。 「…………」  万事休すだった。  乃絵に見抜かれてしまっては、もう眞一郎にはどうすることもできないのだった。   ――坊波壁の影で。   比呂美には、「ウソ!」という言葉だけ届いた――  やがて、逆に、乃絵の方が思い詰めたような顔になった。 「湯浅比呂美は、知っているの? このこと……」 「……いや」  乃絵は、眞一郎の返事を聞くと、目を固く閉じて、とても切ない表情をし、首を小さく 横に振った。そして、目をゆっくり開いて……。 「それじゃ、あなたとのキスを初めてって思ってるかもしれないってこと?」 「……たぶん」  乃絵の顔が、段々と怒りに満ちてくる。 「あなた、それ、裏切りだわ」 「裏切りって……」 「……どうして、好きな人に、そんな、酷いことができるの?」  この言葉は、もう眞一郎へ向けられていなかった。自分の中で反芻している感じだった。  乃絵の顔は、やがて絶望に変化していって、乃絵は眞一郎に事の真相を問うた。 「だれなの?」 「…………」  眞一郎は、乃絵から顔を背けていた。  その態度に、乃絵は語気を強め、繰り返し問うた。 「だれなの? 初めての相手」  乃絵はそういうと、眞一郎の顔を自分に向かせた。  怒りと絶望が入り交じったような乃絵の顔。その表情は、眞一郎に、木から飛び降りて 骨折した直後の乃絵を思い起こさせた。また、こんな顔をさせるなんて――と眞一郎の胸 はぎゅっと締め付けられ、乃絵からこの表情を取り去るには、自分が正直に話す以外ない と眞一郎は思った。その気持ちが、眞一郎の口を動かした。 「……愛ちゃん」  乃絵は、予想外、といった感じに目を大きく瞬かせた。 「……愛子さん……本当なの?」 「あぁ……」  眞一郎は、首を横にひねり、吐き捨てるように返事をした。 「…………愛子さん、踊りの稽古を見にいったときに、話してくれたことがあったの。眞 一郎のことがずっと好きだったって……それで…………」 「…………」  眞一郎は、――もう、その頃は、キスしたあとだったんだよ――といいかけたが止めた。 「仲上君、あなた、愛子さんの気持ち知ってたの?」 「……いきなり……キスされて……知ったんだ」 「いきなり?」  乃絵は、眉間にしわを寄せ、首を少し傾げた。 「……乃絵が好きだ、とおまえに告白した日、帰りに愛ちゃんの店に寄って、そこで…… 乃絵と付き合うことになったっていったら、急に……」 「こんな風にされたんだ……」  乃絵はそういうと、眞一郎に体を寄せて胸の高さまであるコンクリートの壁に眞一郎を 押し付け、眞一郎の頭の後ろに両手を回した。 「あっ、おまえっ!」  眞一郎はもう仰け反ることもできず、眞一郎の唇は、すぐに乃絵の唇に捕らえられた。  乃絵の腕にさらに力がこもり、眞一郎は、自分に顔を合わせている乃絵を簡単に引き剥 がすことができなかった。   ――坊波壁の影で。   比呂美には、これが、キスをしている光景にしか見えなかった―― 「おまえ、なにすんだよ!」  乃絵の力が緩まると、眞一郎は乃絵を軽く突き飛ばして、物凄い形相で睨みつけた。 「あなたに、そんな顔をする資格はないわ。でも、今のキスで許してあげる。忘れなさい。 それから、湯浅比呂美にちゃんと話、することね」  乃絵は、眞一郎の表情など物ともせず、眞一郎にそう忠告した。 「…………」  眞一郎の激昂は治まる気配を見せなかった。  再び乃絵にウソをつこうとしたり、乃絵との交際をスタートさせた直後に別の女の子と キスをしたりと、乃絵に対して怒るというよりもむしろ罪悪感を感じなければいけないと いうのに、乃絵とのキスに未だ自分に対する執着みたいなものを感じた眞一郎は、乃絵の 行為を簡単に受け入れることができなかった。  眞一郎の態度に一歩も引く気を見せない乃絵は、さらに眞一郎を追い詰める言葉を浴び せた。 「湯浅比呂美は、一生、許さないかもね。……あの子は、そういう女よ……」  乃絵は、そういい放つと、じゃ、と短く発して、道路の方へ駆け出した。  眞一郎は、乃絵の浴びせた言葉に、一歩も動くことができなかった。  この言葉が、心深くに刺さってしまって。 ……一生、許さない……  乃絵から渡された手紙は、眞一郎の手の中でくしゃくしゃに握りつぶされていた。  乃絵の足音は、徐々に小さくなり、やがて聞こえなくなった。  眞一郎は、その場に立ちつくし、漆黒の海に、愛子、比呂美、乃絵とのキスを映し出し た。  愛子の店で、カウンターに押し付けられて、キスをされる自分。  あの砂浜で、比呂美の吸い込まれるような瞳に体を縛られ、キスをされる自分。  そして、この防波堤で、自らの罪の罰として、キスをされる自分。  自分を想ってくれたこの三人の女性との初めてのキスは、すべて、奪われたものになっ てしまったのだ。  滑稽だった、自分というものが……。  一度あることは、二度ある? 三度あったら、なに? 「くっそー、キスの、呪いか?」  眞一郎は、顔を天へ向け、自分の男としての不甲斐なさを嘆いた。 ▼[[ファーストキス-4]]

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