ファーストキス-10

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▲[[ファーストキス-9]] ――第十幕『邪魔されたくないときもある』――  乃絵の電話から、一週間になろうとしていた――。  眞一郎たちにとっては、様々な感情が凝縮されたような一週間だった。  乃絵の天性の勘の鋭さが、事のきっかけとなり、またしても周囲に様々な波紋を広げて いった。  眞一郎は、父の将来の選択のことを知り、否応なく、作家としての挑戦を強いられるこ とになった。  比呂美は、思春期に受けた心の傷を浮き彫りにされ、眞一郎との関係の中で、心の成長 を求められるている。  愛子は、衝動的に犯してしまった眞一郎とのキスのことを暴露せざるを得なくなり、自 分を真剣に想ってくれる三代吉に対して、誠意を尽くさなければならなくなった。  そして、一見、達観したような立場にいた乃絵自身も、彼らとの人間関係を見つめ直さ せられることになった。  またしても、様々な感情がぶつかり合い、それぞれが気持ちを吐き出したことで、事態 は収拾に向かいつつあったが、こんどは、眞一郎の壁絵の制作を中心に、彼らの思いが渦 巻くことになるのだった。 ★六月二十二日(日曜)晴れ――  眞一郎が、時計に目をやると、午後二時を過ぎていた。  三時に学校で西村先生と落ち合い、商店街の壁絵の現場を見に行くことになっている。  昨日のうちに、眞一郎は、壁絵のためのラフスケッチを描き上げていた。パステル(乾 燥した顔料を固めたチョークのような画材)で色までしっかりつけていた。  眞一郎に迷いはなかった。今の自分の気持ちを正直に『絵』にぶつけようと思った。  しかし、初めて描く大きな絵。今まで感じたことのないプレッシャーを感じていた。  眞一郎が今、向き合うべき課題は、眞一郎がひとりで取り組まなければならない。それ は、父・ヒロシの虎の絵が、ヒロシひとりによって描かれたことに対する挑戦であり、眞 一郎が作家として、もっと上を目指すための試練でもあった。  当然、完成させられるだろうか、という底知れない不安が襲ってきた。  それでも、「誰のために、何をするのか」ということがはっきりしていれば、おのずと 結果は満足のいくものに近づくはずだ、と眞一郎は自分を奮い立たせた。 ……誰のために、   何をするのか……  今の眞一郎には、比呂美のことしか頭にない。比呂美の心の傷を、少しでも癒してあげ ることしか……。 ……比呂美のために、描く。  それしかないのだ。  しかし、このことを眞一郎から遠ざけられていた比呂美は、表面的には理解しているつ もりでいても、心の奥では、気持ちがささくれ立っていた。作家を目指す眞一郎のそばに いて力になってあげることと、黙って見守ってあげることの意味を、まだ整理できないで いた。  眞一郎が外出することを伝えに理恵子のいる台所にいくと、比呂美と理恵子は、仲良く プリンを作っていた。 「母さん、ちょっと学校、いってくるよ」 「そう、いってらっしゃい」  理恵子は、特に気に留める様子もなく返したが、比呂美は、違った。  案の定、眞一郎が勝手口で靴を履いていると、比呂美が駆け寄ってきた。 「眞一郎くん。わたしも一緒にいっていい?」 「えぇ? 帰り、いつになるか分からないよ。学校にずっといるわけじゃないし」 「それだったら、わたし、適当に帰るから。いいでしょ? 学校まで……」  比呂美は、すぐには食い下がらなかった。  眞一郎と比呂美は、同じ家に暮らしているとはいえ、お互いクラブ活動をしているので、 登下校を一緒にすることは滅多になかった。お互いがしっかりと約束しないと、それはな かなか叶わないのだ。  ここ一週間ずっと寂しい思いをしてきた比呂美にとっては、外でふたりで過ごす絶好の チャンスだった。しかし、眞一郎の頭の中は、もう、それどころではなかった。大きな絵 を描くというだけで、びびってしまいそうになるのに、父の絵に対抗するというプレッシ ャーが加わり、眞一郎の緊張の度合いは振り切る寸前だった。 「いや……、一人で考えたいんだ……ごめん……」 「ぇ……。……そ、そう……」  比呂美にも、眞一郎の緊張状態が伝わっていた。  これ以上眞一郎に絡むと、眞一郎が困ってしまうと思った比呂美は、冗談めいて、 「じゃあ、この埋め合わせは、いつしてくれる?」 と別の日に約束を取り付けようとしたが、今の眞一郎には空振ってしまう。 「埋め合わせ?」  約束をすっぽかしたわけでもないのにどうして、と返す眞一郎。 「うん。だって……」  比呂美がつづきをいおうとすると、眞一郎は、「何もしないよ……」と遮り、 「邪魔されたくないときだってある」 と迂闊にも口を滑らせてしまった。 「邪魔って……わたし……」  比呂美の顔から一瞬にして笑顔が消え、比呂美は自室へ駆け出した。  眞一郎も、慌てて靴を脱ぎ、比呂美を追いかけた。 「比呂美! ごめん、いい過ぎた。ごめん!」  部屋に飛び込んだ比呂美に、眞一郎はドア越しに声をかけたが、返事が返ってこない。  軽くノックもしてみた。 「今日は、ちょっと大事な打ち合わせがあって、頭がテンパってて……その……」 「ずっと一緒にいたいって、いってないじゃない! 学校までって!」  ようやく返ってきた比呂美の言葉がこれだ。眞一郎は、頭を電柱にぶつけたくなるよう な気分になる。 「だから、ごめんって」 と眞一郎が頼み込むように謝っても、今の比呂美にはとても受け付けられない。 「わたしだって、分かってるよ。眞一郎が何かに、大きなことに、取り組もうとしている のを……。わたしだって、ずっと我慢しているのに。だから、ちょっとの時間でも一緒に いたいなーって」 「ごめん。すまない。ちょっと入るぞ」  眞一郎が、ノブに手をかけようとすると、 「いやぁーッ!」 と比呂美の叫び声が、ドアを突き破ってきた。 「ちょっと、あなたたち、なに夫婦喧嘩みたいなことやっているの」  いつのまにか理恵子が、そばまで来ていた。  眞一郎は、一度理恵子に目をやったが、すぐドアと向かい合う。 「おれ、もう時間がないからいくけど、帰ったらちゃんと話そう」 「いっつもはぐらかしてばっかり」 「まだ言えないことだって、説明したろ?」 「もう、聞きたくない!」 「おまえ、いい加減にしろよな!」 と眞一郎の語気が荒くなると、理恵子が、心配そうに割って入った。 「眞ちゃん、落ち着きなさい」 「帰ったらちゃんと話そう、いいな?」  返事がない。  眞一郎は、大きく肩を上下させて息を吐くと、勝手口へ歩きだした。  理恵子は、眞一郎を引きとめようとしたが、思いとどまり、比呂美の部屋のドアを見つ めると、顔をしかめた。 …………。  三十分後、比呂美の携帯電話にメールが届いた。 『来週 埋め合わせする  いやでも付き合って  もらうぞ         眞一郎』 『わたしの気持ちを  無視しないで         比呂美』 『わかった  正々堂々と申し込むよ  それなら文句ないよな         眞一郎』 『?         比呂美』  そのあとの眞一郎からの返信はなかった。 「どうした? おまえ……」  西村先生は、眉毛を八の字にして眞一郎の顔を覗き込んだ。 「湯浅のやつ、立看のこと、まだ怒ってるのか?」 「いえ……その話は止めましょう……」 「ほら、落ち込んでる暇はないぞ」 と西村先生は、眞一郎の尻を叩き喝を入れた。  学校を出た西村先生と眞一郎は、車で駅前の商店街へ向かった。  関係者専用の駐車スペースに車を置き、歩くこと数分、壁絵の制作現場に着いた。  この駅前商店街は、駅ビルから内陸方面へほぼ南北に延びている。  全長が約五百メートルあり、主路はすべて屋根が付いているという典型的なアーケード 街だった。さらに、ところどころで複雑に枝分かれしていて、お店が鈴なり状態でひしめ き合っていた。  眞一郎のたちの住んでる地域は、昔から漁業の盛んなところで、漁港前の魚市場からこ の駅周辺までは、いつも活気に満ち溢れていた。おまけに、この駅を中心に、愛子の通う 商業高校と眞一郎たちの通う麦端高校、そして蛍川高校と三校もの高校が集中していて、 この駅前商店街は、若者からお年寄りまで偏りなく集う文化のメッカだった。だから、日 曜の午後はいつも、人の波が祭りのときのようにごった返した。  眞一郎の壁絵の現場は、主路のちょうど中間地点にある。  そこは、テニスコートくらいの広さの円形の開けた場所になっていて、ちょうど中心に、 西欧調の噴水が作られていた。その円形広場の外周は、コンクリートのブロックの壁にな っていて、そこに眞一郎たちが絵を描くというのだ。そうして、ここに、老若男女がくつ ろげる憩いの空間に作ろうということだった。  壁の手前には、建物の外壁工事をするときに組まれる鉄製のパイプのやぐらが作られ、 さらに青いビニールシートがきっちりと張りめぐらされていた。完全に作業風景が人目に 触れないようになっている。  壁絵のスペースは、全部で八面あり、眞一郎の描く場所は、駅側の一番端だった。他の 面では、すでに大学生らしき人達が集まっているところもあって、制作が進められていた。  西村先生と眞一郎は、ビニールシートをくぐって、自分たちのブロックの面のそばまで 近づいた。面の中央には、『西村様』と書かれた紙がガムテープで貼られていて、西村先 生は、封を切るようにべりっとそれを剥がした。 「ここだ」 「はい……」 「今は、広く感じるだろうが、その内小さく感じるだろうよ」 「そういうもんですかね」 「そういうもんさ。ここにおまえが色をひとつひとつ重ねるごとに、おまえは大きくなっ ていくんだ」  あからさまに緊張している眞一郎に自信を持たせるため、西村先生は断言するようにい ったが、その緊張は言葉ではどうにもならないことを西村先生は知っていた。 「じゃ~説明するぞ」 「はい」 「期間は、七月月六日の日曜までだ。翌日の七夕、夜七時に解禁となる。だから、ま~制 作に使える時間は、十日ぐらいと考えていたほうがいい。絵の具は、水性の速乾性のペン キだけだ。おまえがいつも使い慣れているやつだから問題ないだろう。電源も近くまで引 いてきてもらっているから、夜の作業も出来るし、エアブラシ用(※)のコンプレッサ (空気圧縮機)も回せる。あした、部室のコンプレッサを持っていけ」 (※液状の絵の具を空気を送って霧状に吹き飛ばす道具。塗料スプレー缶と同じ仕組み) 「はい」 「それと、作業は、おまえは学生なので、夜の十時までにしておけ。家の人にちゃんとい っておけよ」 「はい」 「それで、おまえ、なに描くか決めたのか?」 「はい」  眞一郎は、鞄からスケッチブックを取り出し、西村先生に見せた。西村先生は、にやっ と笑った。 「こりゃ、ちょっとした観光スポットになるかもな」 といいながら、眞一郎の頭を小突いた。  その後、商店街の組織委員の人に挨拶を済ませると、眞一郎たちは学校に戻り、眞一郎 の絵をよりよく映えさせるための作戦を練った。  そのころ仲上家では――。  理恵子は、ふてくされた比呂美の扱いに困っていた。  夕飯の支度のために比呂美を部屋まで呼びにいくと、比呂美はすぐに顔を出したものの、 ひどい顔をしていた。泣き腫らした顔ではなかったが、眞一郎に対する憤りと、眞一郎に 駄々をこねて困らせてしまった自分に対する自己嫌悪と長いあいだ戦い、それに疲れきっ た様子だった。  単純に他の女の子に嫉妬してイライラしてくれた方がまだましだ、と理恵子は思った。  理恵子は、当然のことながら、比呂美をずっと注意深く観察していた。  比呂美は、普段、ヒロシや理恵子の前では、いじめたくなるくらい真面目な子だった。 比呂美の境遇を考えると、致し方ないと理恵子は思ったが、それが、眞一郎のこととなる と、少し人が変わったようになり、言動が子供っぽくなるところが気になっていた。  比呂美のそういう態度は、眞一郎と付き合いだすまでは、まったく見られなかったのに、 交際がはじまり、日を追うごとにエスカレートしているように理恵子には映っていた。理 恵子は、口を出すべきか、眞一郎に任せておくべきか、少し迷っていたが、昼間の眞一郎 とのやり取りを見て、もう放っておくわけにはいけないと思ったのだった。 …………。  今日の夕食の献立は、トンカツ、こふきいも、冷奴に汁物。  理恵子は、トンカツにする豚肉の準備を、比呂美は、キャベツを千切りしていた。  理恵子は、比呂美の作業が終わったところで、話を切りだした。 「比呂美……あなた……」 「……ひどいです」  理恵子が昼間のやり取りのことを切りだしてくると察知していた比呂美は、一言で片付 けようとしたが、喉が渇ききっていたので、まともな声にならなかった。 「え?」  比呂美は、大きく唾を飲み込むと、 「……ひどいです」 と低い声でいい直した。  比呂美の言葉が、予想を遥かに越えて最悪だったので、理恵子は、作業の手を止めた。 「眞一郎のことをいってるの?」 「邪魔だなんて……」  比呂美の口調は、変わらない。 「あなたのことを邪魔者扱いしたわけではないでしょう?」  理恵子は、比呂美に、そんなに思いつめるほどのことでもないでしょう、という感じで 優しく諭そうとしたが、 「同じことです、わたしにとって……」 と比呂美の態度は、変化の兆しを見せない。 「そりゃ、眞ちゃんも、ものの言い方ってものがあるけど……」  こんど、理恵子は、比呂美の味方をする感じで、眞一郎を軽く非難してみたが、 「…………」  比呂美は、その言葉に乗ってこなかった。  比呂美とのやり取りにうんざりしかけた理恵子は、大きくため息をつくと、 「でもね、許してあげてね」 と比呂美の癇に障る言葉を敢えて口にした。 「えぇ!?」  その言葉をストレートにいわれた比呂美は、信じられないという感じに目を見開いて理 恵子を見た。 「おばさんは、わたしの……」 「わたしのなに? 味方をするとでも? バカいうんじゃありません。こんなことぐらい で……」 「…………」  理恵子に軽く叱責された比呂美は、前を向いて俯き、まな板を睨んだ。 「どちらの味方もしないわ」 と理恵子は、決して比呂美に対するフォローではなく、そう付け加えた。 「……でも、わたしを放っていくなんて……」  比呂美が、なにかを噛み殺すようにそう呟くと、理恵子は、比呂美のお尻を思いっきり 引っ叩いた。比呂美は、反射的に「あっ!」と声を漏らし、軽く飛び上がる。  それから、理恵子の攻撃は、トップギア(本格的)に入った。 「こんな体してても、中身はお子様」  優しさの欠片もない理恵子の声に、台所の空気は、一気に冷えきった。比呂美の頭の中 に、理恵子との冷戦状態のことが甦ってくる。 「わたしは、どうせ」 とそっぽを向く比呂美。 「男ってねぇ、女を放っていく生き物なのよ。そのくらい分かってると思っていたけど」 「わたし、まだ子供ですから」  自分の未熟さを認め、理恵子の言葉を弾き飛ばす比呂美。 「あら、そう、じゃあ、子供のあなたに教えてあげる。男はね、自分の女が待ってるって 信じているから、放っていくの。信じてなかったら、放っていかないわよ」  理恵子は、比呂美に対して嘲笑うようにいったが、その言葉には、比呂美の嫌いな言葉 である「信じる」という単語が含まれていた。 「信じる? 信じるって言葉、嫌いです。わたしを二度も裏切ってる……裏を返せば、裏 切る余地があるってことですから……」  比呂美のこの言葉は、比呂美の両親のことを指している。そう理解した理恵子は、一瞬、 自分の発言のいき過ぎを少し悔やんだが、構わず攻撃をつづけた。少し抑えることにした が……。  理恵子は、軽くふふっと笑うと、 「こんな言葉でゴマカされないくらいは、大人なのね。じゃあ、はっきり言ってあげる わ」 と、攻撃も最終段階に突入したことを比呂美に宣言した。 「…………」 「あなた……今、眞一郎の瞳になにが映っているのか、考えたことあるかしら?」 「え?」  比呂美の背筋に電流が走る。 「眞一郎の目の訴えに、あなたは気づいてあげているかしら?」 「目の訴え……」  比呂美の顔が持ち上がり、目が見開かれる。 「もし、そうじゃなかったら……あなた、カノジョ、失格よ」 「!」 ……あなた、カノジョ、失格よ……  眞一郎と比呂美の関係に対して初めて否定的なことをいった理恵子のこの言葉に、比呂 美の全身は、寒気に覆われた。  完全に固まってしまった比呂美。理恵子は、このあと、優しい口調で話した。 「今のままだと、長続きしないわよ。大人になって、いざ決断というときに、眞一郎は、 あの『乃絵』みたいな子を選ぶでしょうね」  比呂美の耳に『乃絵』という音が飛び込むと、比呂美の体はびくっと大きく震えた。 「あの、乃絵って子は、眞一郎の見ているものを一緒に見たいと思っている。恋愛感情は 別として……」 「…………」  比呂美の顔の筋肉の硬直が解かれ、ある方向へと移行していく。 「真正面で向き合っていては、お互いの顔は見えるけど、見ている景色は違うわ。時には、 横に並んで同じ方向を見ることも必要よ。たとえ相手の顔が見えなくても……言葉を交わ さなくても……」 「…………」  比呂美の肩が震えだす。 「意味、分かるでしょ?」 「……はい」  理恵子は、比呂美が返事したことに内心ほっとした。自分のいっていることが、とりあ えず比呂美の心に届いているようだと……。 「今のあなたは、どうなの?」  比呂美の目から涙がこぼれだす。 「泣いても優しくしないわよ」  理恵子は苦笑して、そういった。 「別に……いいです」  比呂美の声は、完全にかすれている。比呂美は、ずっーと鼻水をすすり上げると、手の 甲で涙をぬぐった。理恵子はエプロンのポケットからハンカチを取り出す。 「乃絵って子が感じた失恋の痛みを、今度は、あなたが味わうことになるわよ。一生消え ない、痛みを」 「…………」 「ここはいいから、頭、冷やしてきなさい」  比呂美は、ハンカチを差し出している理恵子の手を押し戻すと、ごめんなさいと小さく 呟いて、とぼとぼと廊下へ歩き出した。  ちょうどそのとき、居間からヒロシがやってきて、比呂美の異変にすぐ気づいた。 「どうした?」  理恵子は、肩を大きく上下させ息を吐くと、 「愛のムチですよ。愛の……」 と、優しさと苛立ちの入り交じったような複雑な顔をして答えた。 「おまえのは痛そうだな~」 と、ヒロシは、のん気に自分の顎ひげをいじりながらぼそっといった。  そのあと、理恵子は、比呂美が落ち着いたころに部屋へ訪れ、自分の方から眞一郎に謝 るようにと助言するのだった。  眞一郎が家へ帰り着いたとき、時計は夜九時を回っていた。  眞一郎が、勝手口の扉を開けるとすぐに比呂美が駆け寄ってきた。 「お、おかえり」  比呂美は、まだどこかぎこちない笑顔をしていたが、眞一郎は、ほっと胸を撫で下ろし た。 「ただいま」 「あの、ご飯は?」 「軽く食べたけど、そういえば、腹へったな~。おかず、なに?」  ふたりは、普段通りに言葉を交わせた。 「すぐ、準備するね。トンカツだから」 「いいよ、自分でするよ」 「まだ油で揚げてないの。揚げたての方がいいでしょ?」  得意げに話す比呂美。 「母さんは?」  眞一郎の問いかけに、比呂美はすぐ返さず、しばらく沈黙がつづいた。  その沈黙に、眞一郎は、靴を脱ぐため屈めた体を元に戻した。 「ちゃんと仲直りしなさいって……」  比呂美がそういったあと、ふたりは同時に話しだそうとしたが、眞一郎の方が構わずつ づけた。 「あっ、その、比呂美、ごめん。出かけるときは……いい過ぎた。ごめん。でも、おまえ のこと邪魔に思ってるわけじゃないよ。むしろ逆だ。なんていえばいいのかな~、比呂美 が悲しい顔していると思うと集中できないというか……」 「ほらね。だから、学校まででも一緒にいくべきだったでしょう?」  いう通りにしないからこうなるのよ、と母親が子供を諭すような口調で比呂美はいった。 「そうだな。こんどそうする」  眞一郎は、比呂美のいい方がぎこちなかったので、噴き出しそうになったが、素直に比 呂美の言うことに頷いた。 「さ、上がって、手洗って」 「お袋みたいなこというなよ」  自分を子供扱いする比呂美に、眞一郎は、ぶつくさというと、 「今は、わたし、おばさんの代わりよ」 と比呂美は食い下がらなかった。  比呂美は、眞一郎が板張りに上がると、台所へ歩きだす。その姿を見つめる眞一郎。 「比呂美は、比呂美だよ」  眞一郎はそう呟くと、小走りに比呂美を追いかけ、比呂美を背中から抱きしめた。 「あっ、やだ……」  比呂美は、背中から回ってきた眞一郎の腕をつかみ、すぐ解こうとするが解けず観念す ると、 「最近、眞一郎くん、大胆すぎない?」 と、少しむくれて、眞一郎に体を預けた。 (しばらく、抱きしめてやれないからな)  眞一郎は、心の中でそう呟いたつもりだったが、比呂美は、 「え? なんていったの?」 と訊き返してきた。 「早く食べたいっていったんだよ」  眞一郎は、トンカツが食べたい、という意味でその言葉をいったのだが、比呂美は、そ の言葉を別の意味で捉えて、びくっと体を震わせた。 「そ、それって、どういう意味?」 と比呂美は、眞一郎におそるおそる尋ねた。 「ぁ……」  眞一郎は、急変した比呂美の態度に、自分がとんでもないことを言ったことにすぐ気が ついた。 「ねぇ、それって、どういう意味?」  比呂美は語気を強め、答えを求める。 「…………」  男の子が女の子を背中から抱きしめ、「早く食べたい」と彼女の耳元でいえば、その女 の子が、『あんなことやそんなこと』を想像するのは必至。  眞一郎は、比呂美から離れると、無言のままずんずんと台所へ歩き出した。股間を気に しながら。 「ねぇってば~」  比呂美は、子猫がじゃれるように眞一郎についていった。  その夜、仲上家のみんなが寝静まったころ、眞一郎は手紙を書いていた。  机の上には、便箋が一枚取り出されている。眞一郎が夕方に文具店で買ってきたものだ。  真っ白の便箋にどの筆記具で文を綴ろうか、眞一郎は悩んだ。その末、一番気持ちのこ もった字が書けると思った2Bの鉛筆を選んだ。  文字を、ひと文字ひと文字丁寧に書いていくと、比呂美と出会ってから今までの記憶が 呼び起こってきた。途中で、涙が出そうになったが、必死に堪えて書いた。 ……生まれて初めて好きになった女の子に、   初めて手紙を書いているんだぜ……  眞一郎は、自分と比呂美の間で失われている大切なものを、しっかりと引き寄せようと していた。 ▼[[ファーストキス-11]]
▲[[ファーストキス-9]] ――第十幕『邪魔されたくないときもある』――  乃絵の電話から、一週間になろうとしていた――。  眞一郎たちにとっては、様々な感情が凝縮されたような一週間だった。  乃絵の天性の勘の鋭さが、事のきっかけとなり、またしても周囲に様々な波紋を広げて いった。  眞一郎は、父の将来の選択のことを知り、否応なく、作家としての挑戦を強いられるこ とになった。  比呂美は、思春期に受けた心の傷を浮き彫りにされ、眞一郎との関係の中で、心の成長 を求められるている。  愛子は、衝動的に犯してしまった眞一郎とのキスのことを暴露せざるを得なくなり、自 分を真剣に想ってくれる三代吉に対して、誠意を尽くさなければならなくなった。  そして、一見、達観したような立場にいた乃絵自身も、彼らとの人間関係を見つめ直さ せられることになった。  またしても、様々な感情がぶつかり合い、それぞれが気持ちを吐き出したことで、事態 は収拾に向かいつつあったが、こんどは、眞一郎の壁絵の制作を中心に、彼らの思いが渦 巻くことになるのだった。 ★六月二十二日(日曜)晴れ――  眞一郎が、時計に目をやると、午後二時を過ぎていた。  三時に学校で西村先生と落ち合い、商店街の壁絵の現場を見に行くことになっている。  昨日のうちに、眞一郎は、壁絵のためのラフスケッチを描き上げていた。パステル(乾 燥した顔料を固めたチョークのような画材)で色までしっかりつけていた。  眞一郎に迷いはなかった。今の自分の気持ちを正直に『絵』にぶつけようと思った。  しかし、初めて描く大きな絵。今まで感じたことのないプレッシャーを感じていた。  眞一郎が今、向き合うべき課題は、眞一郎がひとりで取り組まなければならない。それ は、父・ヒロシの虎の絵が、ヒロシひとりによって描かれたことに対する挑戦であり、眞 一郎が作家として、もっと上を目指すための試練でもあった。  当然、完成させられるだろうか、という底知れない不安が襲ってきた。  それでも、「誰のために、何をするのか」ということがはっきりしていれば、おのずと 結果は満足のいくものに近づくはずだ、と眞一郎は自分を奮い立たせた。 ……誰のために、   何をするのか……  今の眞一郎には、比呂美のことしか頭にない。比呂美の心の傷を、少しでも癒してあげ ることしか……。 ……比呂美のために、描く。  それしかないのだ。  しかし、このことを眞一郎から遠ざけられていた比呂美は、表面的には理解しているつ もりでいても、心の奥では、気持ちがささくれ立っていた。作家を目指す眞一郎のそばに いて力になってあげることと、黙って見守ってあげることの意味を、まだ整理できないで いた。  眞一郎が外出することを伝えに理恵子のいる台所にいくと、比呂美と理恵子は、仲良く プリンを作っていた。 「母さん、ちょっと学校、いってくるよ」 「そう、いってらっしゃい」  理恵子は、特に気に留める様子もなく返したが、比呂美は、違った。  案の定、眞一郎が勝手口で靴を履いていると、比呂美が駆け寄ってきた。 「眞一郎くん。わたしも一緒にいっていい?」 「えぇ? 帰り、いつになるか分からないよ。学校にずっといるわけじゃないし」 「それだったら、わたし、適当に帰るから。いいでしょ? 学校まで……」  比呂美は、すぐには食い下がらなかった。  眞一郎と比呂美は、同じ家に暮らしているとはいえ、お互いクラブ活動をしているので、 登下校を一緒にすることは滅多になかった。お互いがしっかりと約束しないと、それはな かなか叶わないのだ。  ここ一週間ずっと寂しい思いをしてきた比呂美にとっては、外でふたりで過ごす絶好の チャンスだった。しかし、眞一郎の頭の中は、もう、それどころではなかった。大きな絵 を描くというだけで、びびってしまいそうになるのに、父の絵に対抗するというプレッシ ャーが加わり、眞一郎の緊張の度合いは振り切る寸前だった。 「いや……、一人で考えたいんだ……ごめん……」 「ぇ……。……そ、そう……」  比呂美にも、眞一郎の緊張状態が伝わっていた。  これ以上眞一郎に絡むと、眞一郎が困ってしまうと思った比呂美は、冗談めいて、 「じゃあ、この埋め合わせは、いつしてくれる?」 と別の日に約束を取り付けようとしたが、今の眞一郎には空振ってしまう。 「埋め合わせ?」  約束をすっぽかしたわけでもないのにどうして、と返す眞一郎。 「うん。だって……」  比呂美がつづきをいおうとすると、眞一郎は、「何もしないよ……」と遮り、 「邪魔されたくないときだってある」 と迂闊にも口を滑らせてしまった。 「邪魔って……わたし……」  比呂美の顔から一瞬にして笑顔が消え、比呂美は自室へ駆け出した。  眞一郎も、慌てて靴を脱ぎ、比呂美を追いかけた。 「比呂美! ごめん、いい過ぎた。ごめん!」  部屋に飛び込んだ比呂美に、眞一郎はドア越しに声をかけたが、返事が返ってこない。  軽くノックもしてみた。 「今日は、ちょっと大事な打ち合わせがあって、頭がテンパってて……その……」 「ずっと一緒にいたいって、いってないじゃない! 学校までって!」  ようやく返ってきた比呂美の言葉がこれだ。眞一郎は、頭を電柱にぶつけたくなるよう な気分になる。 「だから、ごめんって」 と眞一郎が頼み込むように謝っても、今の比呂美にはとても受け付けられない。 「わたしだって、分かってるよ。眞一郎が何かに、大きなことに、取り組もうとしている のを……。わたしだって、ずっと我慢しているのに。だから、ちょっとの時間でも一緒に いたいなーって」 「ごめん。すまない。ちょっと入るぞ」  眞一郎が、ノブに手をかけようとすると、 「いやぁーッ!」 と比呂美の叫び声が、ドアを突き破ってきた。 「ちょっと、あなたたち、なに夫婦喧嘩みたいなことやっているの」  いつのまにか理恵子が、そばまで来ていた。  眞一郎は、一度理恵子に目をやったが、すぐドアと向かい合う。 「おれ、もう時間がないからいくけど、帰ったらちゃんと話そう」 「いっつもはぐらかしてばっかり」 「まだ言えないことだって、説明したろ?」 「もう、聞きたくない!」 「おまえ、いい加減にしろよな!」 と眞一郎の語気が荒くなると、理恵子が、心配そうに割って入った。 「眞ちゃん、落ち着きなさい」 「帰ったらちゃんと話そう、いいな?」  返事がない。  眞一郎は、大きく肩を上下させて息を吐くと、勝手口へ歩きだした。  理恵子は、眞一郎を引きとめようとしたが、思いとどまり、比呂美の部屋のドアを見つ めると、顔をしかめた。 …………。  三十分後、比呂美の携帯電話にメールが届いた。 『来週 埋め合わせする  いやでも付き合って  もらうぞ         眞一郎』 『わたしの気持ちを  無視しないで         比呂美』 『わかった  正々堂々と申し込むよ  それなら文句ないよな         眞一郎』 『?         比呂美』  そのあとの眞一郎からの返信はなかった。 「どうした? おまえ……」  西村先生は、眉毛を八の字にして眞一郎の顔を覗き込んだ。 「湯浅のやつ、立看のこと、まだ怒ってるのか?」 「いえ……その話は止めましょう……」 「ほら、落ち込んでる暇はないぞ」 と西村先生は、眞一郎の尻を叩き喝を入れた。  学校を出た西村先生と眞一郎は、車で駅前の商店街へ向かった。  関係者専用の駐車スペースに車を置き、歩くこと数分、壁絵の制作現場に着いた。  この駅前商店街は、駅ビルから内陸方面へほぼ南北に延びている。  全長が約五百メートルあり、主路はすべて屋根が付いているという典型的なアーケード 街だった。さらに、ところどころで複雑に枝分かれしていて、お店が鈴なり状態でひしめ き合っていた。  眞一郎のたちの住んでる地域は、昔から漁業の盛んなところで、漁港前の魚市場からこ の駅周辺までは、いつも活気に満ち溢れていた。おまけに、この駅を中心に、愛子の通う 商業高校と眞一郎たちの通う麦端高校、そして蛍川高校と三校もの高校が集中していて、 この駅前商店街は、若者からお年寄りまで偏りなく集う文化のメッカだった。だから、日 曜の午後はいつも、人の波が祭りのときのようにごった返した。  眞一郎の壁絵の現場は、主路のちょうど中間地点にある。  そこは、テニスコートくらいの広さの円形の開けた場所になっていて、ちょうど中心に、 西欧調の噴水が作られていた。その円形広場の外周は、コンクリートのブロックの壁にな っていて、そこに眞一郎たちが絵を描くというのだ。そうして、ここに、老若男女がくつ ろげる憩いの空間に作ろうということだった。  壁の手前には、建物の外壁工事をするときに組まれる鉄製のパイプのやぐらが作られ、 さらに青いビニールシートがきっちりと張りめぐらされていた。完全に作業風景が人目に 触れないようになっている。  壁絵のスペースは、全部で八面あり、眞一郎の描く場所は、駅側の一番端だった。他の 面では、すでに大学生らしき人達が集まっているところもあって、制作が進められていた。  西村先生と眞一郎は、ビニールシートをくぐって、自分たちのブロックの面のそばまで 近づいた。面の中央には、『西村様』と書かれた紙がガムテープで貼られていて、西村先 生は、封を切るようにべりっとそれを剥がした。 「ここだ」 「はい……」 「今は、広く感じるだろうが、その内小さく感じるだろうよ」 「そういうもんですかね」 「そういうもんさ。ここにおまえが色をひとつひとつ重ねるごとに、おまえは大きくなっ ていくんだ」  あからさまに緊張している眞一郎に自信を持たせるため、西村先生は断言するようにい ったが、その緊張は言葉ではどうにもならないことを西村先生は知っていた。 「じゃ~説明するぞ」 「はい」 「期間は、七月月六日の日曜までだ。翌日の七夕、夜七時に解禁となる。だから、ま~制 作に使える時間は、十日ぐらいと考えていたほうがいい。絵の具は、水性の速乾性のペン キだけだ。おまえがいつも使い慣れているやつだから問題ないだろう。電源も近くまで引 いてきてもらっているから、夜の作業もできるし、エアブラシ用(※)のコンプレッサ (空気圧縮機)も回せる。あした、部室のコンプレッサを持っていけ」 (※液状の絵の具を空気を送って霧状に吹き飛ばす道具。塗料スプレー缶と同じ仕組み) 「はい」 「それと、作業は、おまえは学生なので、夜の十時までにしておけ。家の人にちゃんとい っておけよ」 「はい」 「それで、おまえ、なに描くか決めたのか?」 「はい」  眞一郎は、鞄からスケッチブックを取り出し、西村先生に見せた。西村先生は、にやっ と笑った。 「こりゃ、ちょっとした観光スポットになるかもな」 といいながら、眞一郎の頭を小突いた。  その後、商店街の組織委員の人に挨拶を済ませると、眞一郎たちは学校に戻り、眞一郎 の絵をよりよく映えさせるための作戦を練った。  そのころ仲上家では――。  理恵子は、ふてくされた比呂美の扱いに困っていた。  夕飯の支度のために比呂美を部屋まで呼びにいくと、比呂美はすぐに顔を出したものの、 ひどい顔をしていた。泣き腫らした顔ではなかったが、眞一郎に対する憤りと、眞一郎に 駄々をこねて困らせてしまった自分に対する自己嫌悪と長いあいだ戦い、それに疲れきっ た様子だった。  単純に他の女の子に嫉妬してイライラしてくれた方がまだましだ、と理恵子は思った。  理恵子は、当然のことながら、比呂美をずっと注意深く観察していた。  比呂美は、普段、ヒロシや理恵子の前では、いじめたくなるくらい真面目な子だった。 比呂美の境遇を考えると、致し方ないと理恵子は思ったが、それが、眞一郎のこととなる と、少し人が変わったようになり、言動が子供っぽくなるところが気になっていた。  比呂美のそういう態度は、眞一郎と付き合いだすまでは、まったく見られなかったのに、 交際がはじまり、日を追うごとにエスカレートしているように理恵子には映っていた。理 恵子は、口を出すべきか、眞一郎に任せておくべきか、少し迷っていたが、昼間の眞一郎 とのやり取りを見て、もう放っておくわけにはいけないと思ったのだった。 …………。  今日の夕食の献立は、トンカツ、こふきいも、冷奴に汁物。  理恵子は、トンカツにする豚肉の準備を、比呂美は、キャベツを千切りしていた。  理恵子は、比呂美の作業が終わったところで、話を切りだした。 「比呂美……あなた……」 「……ひどいです」  理恵子が昼間のやり取りのことを切りだしてくると察知していた比呂美は、一言で片付 けようとしたが、喉が渇ききっていたので、まともな声にならなかった。 「え?」  比呂美は、大きく唾を飲み込むと、 「……ひどいです」 と低い声でいい直した。  比呂美の言葉が、予想を遥かに越えて最悪だったので、理恵子は、作業の手を止めた。 「眞一郎のことをいってるの?」 「邪魔だなんて……」  比呂美の口調は、変わらない。 「あなたのことを邪魔者扱いしたわけではないでしょう?」  理恵子は、比呂美に、そんなに思いつめるほどのことでもないでしょう、という感じで 優しく諭そうとしたが、 「同じことです、わたしにとって……」 と比呂美の態度は、変化の兆しを見せない。 「そりゃ、眞ちゃんも、ものの言い方ってものがあるけど……」  こんど、理恵子は、比呂美の味方をする感じで、眞一郎を軽く非難してみたが、 「…………」  比呂美は、その言葉に乗ってこなかった。  比呂美とのやり取りにうんざりしかけた理恵子は、大きくため息をつくと、 「でもね、許してあげてね」 と比呂美の癇に障る言葉を敢えて口にした。 「えぇ!?」  その言葉をストレートにいわれた比呂美は、信じられないという感じに目を見開いて理 恵子を見た。 「おばさんは、わたしの……」 「わたしのなに? 味方をするとでも? バカいうんじゃありません。こんなことぐらい で……」 「…………」  理恵子に軽く叱責された比呂美は、前を向いて俯き、まな板を睨んだ。 「どちらの味方もしないわ」 と理恵子は、決して比呂美に対するフォローではなく、そう付け加えた。 「……でも、わたしを放っていくなんて……」  比呂美が、なにかを噛み殺すようにそう呟くと、理恵子は、比呂美のお尻を思いっきり 引っ叩いた。比呂美は、反射的に「あっ!」と声を漏らし、軽く飛び上がる。  それから、理恵子の攻撃は、トップギア(本格的)に入った。 「こんな体してても、中身はお子様」  優しさの欠片もない理恵子の声に、台所の空気は、一気に冷えきった。比呂美の頭の中 に、理恵子との冷戦状態のことが甦ってくる。 「わたしは、どうせ」 とそっぽを向く比呂美。 「男ってねぇ、女を放っていく生き物なのよ。そのくらい分かってると思っていたけど」 「わたし、まだ子供ですから」  自分の未熟さを認め、理恵子の言葉を弾き飛ばす比呂美。 「あら、そう、じゃあ、子供のあなたに教えてあげる。男はね、自分の女が待ってるって 信じているから、放っていくの。信じてなかったら、放っていかないわよ」  理恵子は、比呂美に対して嘲笑うようにいったが、その言葉には、比呂美の嫌いな言葉 である「信じる」という単語が含まれていた。 「信じる? 信じるって言葉、嫌いです。わたしを二度も裏切ってる……裏を返せば、裏 切る余地があるってことですから……」  比呂美のこの言葉は、比呂美の両親のことを指している。そう理解した理恵子は、一瞬、 自分の発言のいき過ぎを少し悔やんだが、構わず攻撃をつづけた。少し抑えることにした が……。  理恵子は、軽くふふっと笑うと、 「こんな言葉でゴマカされないくらいは、大人なのね。じゃあ、はっきり言ってあげる わ」 と、攻撃も最終段階に突入したことを比呂美に宣言した。 「…………」 「あなた……今、眞一郎の瞳になにが映っているのか、考えたことあるかしら?」 「え?」  比呂美の背筋に電流が走る。 「眞一郎の目の訴えに、あなたは気づいてあげているかしら?」 「目の訴え……」  比呂美の顔が持ち上がり、目が見開かれる。 「もし、そうじゃなかったら……あなた、カノジョ、失格よ」 「!」 ……あなた、カノジョ、失格よ……  眞一郎と比呂美の関係に対して初めて否定的なことをいった理恵子のこの言葉に、比呂 美の全身は、寒気に覆われた。  完全に固まってしまった比呂美。理恵子は、このあと、優しい口調で話した。 「今のままだと、長続きしないわよ。大人になって、いざ決断というときに、眞一郎は、 あの『乃絵』みたいな子を選ぶでしょうね」  比呂美の耳に『乃絵』という音が飛び込むと、比呂美の体はびくっと大きく震えた。 「あの、乃絵って子は、眞一郎の見ているものを一緒に見たいと思っている。恋愛感情は 別として……」 「…………」  比呂美の顔の筋肉の硬直が解かれ、ある方向へと移行していく。 「真正面で向き合っていては、お互いの顔は見えるけど、見ている景色は違うわ。時には、 横に並んで同じ方向を見ることも必要よ。たとえ相手の顔が見えなくても……言葉を交わ さなくても……」 「…………」  比呂美の肩が震えだす。 「意味、分かるでしょ?」 「……はい」  理恵子は、比呂美が返事したことに内心ほっとした。自分のいっていることが、とりあ えず比呂美の心に届いているようだと……。 「今のあなたは、どうなの?」  比呂美の目から涙がこぼれだす。 「泣いても優しくしないわよ」  理恵子は苦笑して、そういった。 「別に……いいです」  比呂美の声は、完全にかすれている。比呂美は、ずっーと鼻水をすすり上げると、手の 甲で涙をぬぐった。理恵子はエプロンのポケットからハンカチを取り出す。 「乃絵って子が感じた失恋の痛みを、今度は、あなたが味わうことになるわよ。一生消え ない、痛みを」 「…………」 「ここはいいから、頭、冷やしてきなさい」  比呂美は、ハンカチを差し出している理恵子の手を押し戻すと、ごめんなさいと小さく 呟いて、とぼとぼと廊下へ歩き出した。  ちょうどそのとき、居間からヒロシがやってきて、比呂美の異変にすぐ気づいた。 「どうした?」  理恵子は、肩を大きく上下させ息を吐くと、 「愛のムチですよ。愛の……」 と、優しさと苛立ちの入り交じったような複雑な顔をして答えた。 「おまえのは痛そうだな~」 と、ヒロシは、のん気に自分の顎ひげをいじりながらぼそっといった。  そのあと、理恵子は、比呂美が落ち着いたころに部屋へ訪れ、自分の方から眞一郎に謝 るようにと助言するのだった。  眞一郎が家へ帰り着いたとき、時計は夜九時を回っていた。  眞一郎が、勝手口の扉を開けるとすぐに比呂美が駆け寄ってきた。 「お、おかえり」  比呂美は、まだどこかぎこちない笑顔をしていたが、眞一郎は、ほっと胸を撫で下ろし た。 「ただいま」 「あの、ご飯は?」 「軽く食べたけど、そういえば、腹へったな~。おかず、なに?」  ふたりは、普段通りに言葉を交わせた。 「すぐ、準備するね。トンカツだから」 「いいよ、自分でするよ」 「まだ油で揚げてないの。揚げたての方がいいでしょ?」  得意げに話す比呂美。 「母さんは?」  眞一郎の問いかけに、比呂美はすぐ返さず、しばらく沈黙がつづいた。  その沈黙に、眞一郎は、靴を脱ぐため屈めた体を元に戻した。 「ちゃんと仲直りしなさいって……」  比呂美がそういったあと、ふたりは同時に話しだそうとしたが、眞一郎の方が構わずつ づけた。 「あっ、その、比呂美、ごめん。出かけるときは……いい過ぎた。ごめん。でも、おまえ のこと邪魔に思ってるわけじゃないよ。むしろ逆だ。なんていえばいいのかな~、比呂美 が悲しい顔していると思うと集中できないというか……」 「ほらね。だから、学校まででも一緒にいくべきだったでしょう?」  いう通りにしないからこうなるのよ、と母親が子供を諭すような口調で比呂美はいった。 「そうだな。こんどそうする」  眞一郎は、比呂美のいい方がぎこちなかったので、ふきだしそうになったが、素直に比 呂美の言うことに頷いた。 「さ、上がって、手洗って」 「お袋みたいなこというなよ」  自分を子供扱いする比呂美に、眞一郎は、ぶつくさというと、 「今は、わたし、おばさんの代わりよ」 と比呂美は食い下がらなかった。  比呂美は、眞一郎が板張りに上がると、台所へ歩きだす。その姿を見つめる眞一郎。 「比呂美は、比呂美だよ」  眞一郎はそう呟くと、小走りに比呂美を追いかけ、比呂美を背中から抱きしめた。 「あっ、やだ……」  比呂美は、背中から回ってきた眞一郎の腕をつかみ、すぐ解こうとするが解けず観念す ると、 「最近、眞一郎くん、大胆すぎない?」 と、少しむくれて、眞一郎に体を預けた。 (しばらく、抱きしめてやれないからな)  眞一郎は、心の中でそう呟いたつもりだったが、比呂美は、 「え? なんていったの?」 と訊き返してきた。 「早く食べたいっていったんだよ」  眞一郎は、トンカツが食べたい、という意味でその言葉をいったのだが、比呂美は、そ の言葉を別の意味で捉えて、びくっと体を震わせた。 「そ、それって、どういう意味?」 と比呂美は、眞一郎におそるおそる尋ねた。 「ぁ……」  眞一郎は、急変した比呂美の態度に、自分がとんでもないことを言ったことにすぐ気が ついた。 「ねぇ、それって、どういう意味?」  比呂美は語気を強め、答えを求める。 「…………」  男の子が女の子を背中から抱きしめ、「早く食べたい」と彼女の耳元でいえば、その女 の子が、『あんなことやそんなこと』を想像するのは必至。  眞一郎は、比呂美から離れると、無言のままずんずんと台所へ歩き出した。股間を気に しながら。 「ねぇってば~」  比呂美は、子猫がじゃれるように眞一郎についていった。  その夜、仲上家のみんなが寝静まったころ、眞一郎は手紙を書いていた。  机の上には、便箋が一枚取り出されている。眞一郎が夕方に文具店で買ってきたものだ。  真っ白の便箋にどの筆記具で文を綴ろうか、眞一郎は悩んだ。その末、一番気持ちのこ もった字が書けると思った2Bの鉛筆を選んだ。  文字を、ひと文字ひと文字丁寧に書いていくと、比呂美と出会ってから今までの記憶が 呼び起こってきた。途中で、涙が出そうになったが、必死に堪えて書いた。 ……生まれて初めて好きになった女の子に、   初めて手紙を書いているんだぜ……  眞一郎は、自分と比呂美の間で失われている大切なものを、しっかりと引き寄せようと していた。 ▼[[ファーストキス-11]]

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