ファーストキス-13B

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▲[[ファーストキス-13]] 「これで、いける……」  眞一郎は、力なくそう呟いた。何かを確信した言葉だというのに、眞一郎の心身は、限 界点のちょうど真上という感じだった。ちょっとでも体の重心がずれようものなら、ずれ た方向に眞一郎の体は倒れていってしまうだろう。眞一郎は、ブルーシートが張り巡らさ れている金属製のパイプの柵に、手を伸ばし、それを伝に、ゆっくりしゃがみこんだ。そ して、近くに転がっていた酸素スプレー缶をつかむと、口元に持っていき、酸素を出して 大きく呼吸を整えた。朝から九時間、ぶっ通しの作業だった。休憩らしい休憩は、昼に、 比呂美の作ったお弁当を食べたときくらいだけだった。  眞一郎の予定していた作業は、一通り済んでいた。壁絵は、見事に奥行きが表現され、 絵の中の空間は、まさしく、三次元の空間と化していた。手前の草原に咲くかすみ草の花 のひとつひとつから、その奥の向き合ったふたりの人物、そして、波打ち際、地平線へま で、奥行き方向の軸でしっかりと貫かれていた。刷毛を数本口にくわえ、片手にはエアブ ラシ、もう一方には、拭き取りようの布を持つという、そんな格好で、絵と対峙しつづけ た。感じるままに、ひたすら、全身を動かしたのだ。だから、眞一郎には、どういう手順 でこの作業を行ったのか、もう思い出せない。 ……親父も、こんな苦しみを味わったのかな……  眞一郎は、心の中でそうぽつりと呟いた。最初は、比呂美のために描くなどとカッコつ けたことを思っていたが、もう、そんな気持ちは、遥か彼方へ吹き飛んでいた。絵を描き つづけるための原動力が、『絵を描きたい、完成させたい』という自分の中で湧き起こる 純粋な気持ちに置き換わっていた。『愛する者のために絵を描く』という気持ちは、モチ ベーションを高めるのには有効なのかもしれないが、一歩間違えば、逆に『妥協』という 逃げ道になってしまうという危険をはらんでいた。眞一郎は、今日はじめて、そのことに 気づいたのだった。 ……愛する者が満足してくれれば、自分は満足なのだろうか。   自分が本当に描きたい絵は、そういう絵なのだろうか。   そういう絵で、果たして、愛する者を幸せにすることが出来るのだろうか。   自分の絵を見た者が、乃絵が、果たして、涙を流すだろうか。   父の絵は、そういう絵ではない。   自らの魂を削って、絵の具に刷り込んだような絵だった。   自分もそういう絵を描きたいんじゃないのか……  眞一郎は、延々とそういうことを考えながら、ペンキを塗り続けたのだった……。  だいぶ意識のはっきりしてきた眞一郎は、携帯電話の時計を見た。  七時半を過ぎたころ――。  眞一郎は、空になった酸素スプレー缶を転がし、新しい酸素スプレー缶をつかむと這い つくばってブルーシートの外に出た。  商店街の通りは、夕飯の買い物や学校、会社帰りの人々で忙しなかった。おまけに雨が 降っていて、いつもより多いようだった。  眞一郎は、20リットルのペンキの缶に腰掛けて、再び酸素を吸った。幾分、手に力が 戻ってきていた。やがて、復活の合図のようにお腹がきゅるきゅると鳴りだした。比呂美 の作ってくれた燃料もとうとう切れてしまったのか、と眞一郎がお腹の友に声をかけてい ると、背後で自分を呼ぶ声がした。 「仲上君」  眞一郎は、おそるおそる振り返った。  乃絵が立っていた。  乃絵は、眞一郎の横にしゃがみこむと、眞一郎の頭に見つけているゴーグルとマスクを 優しく外した。眞一郎は、それを遠慮しようと思ったが、体がうまく動かせなかった。乃 絵は、呆然としている眞一郎の手を取り、はい、といって、酸素スプレー缶を口元に近づ けさせた。眞一郎は、再び大きく深呼吸を繰り返した。  眞一郎は、乃絵に、どうしてここに来たのかと訊こうとしたが、正直、もうどうでもよ かったので、訊かなかった。比呂美がここに来たとしても、もう差し支えなかった。自分 の心の底から強烈に突き上げてくる、絵を描きたいというエネルギーを感じることが出来 たのだから、他に励ましなどもう必要なかったのだ。眞一郎は、ひとりで絵に立ち向かう ということがようやく出来ていたのだ。  しばらく深呼吸していた眞一郎は、目を細め、もういいよ、と乃絵に合図を送った。  乃絵は、眞一郎から手を離し、眞一郎から話しだすのを待った。 「思ったより、大変なんだな……ま、初めて挑戦することだから、当たり前といえば当た り前なんだけど……」 「うまくいかないの?」  乃絵は、料理か何かのことのように軽口でいった。 「いや、そうじゃない。期間内に描きあげる目処はもうついてる。だけど……、心や体が、 どんどん削られていく感じがして、フラフラなんだ」  眞一郎は、燃え尽きたボクサーのようにへへっと笑った。 「ちゃんと、食べてる?」 「ああ、大丈夫、食欲はあるよ」 「そう、よかった」  乃絵の表情が、安堵と深い優しさに包まれた。 「ひとりで、踏ん張るのって、死にそうになるくらい、辛いんだな。おまえのいった意味 が、ようやく分かったよ」 ……だから、あなたにとって、湯浅比呂美という存在が、   ときには重荷になり、ときには逃げ道になる。   だから今、あなたは、ひとりで、このことを受け止めなくてはいけない……  乃絵は、以前、眞一郎にこう忠告したのだった。 「ううん、わたしも、まだよく分かってない。今のあなたを見て、どうしたらいいのか分 からないもの」  乃絵は、首を大きく横に振った。 「比呂美が好きって、おれに言われた後は、こんな感じだったんだろ? だれにも助けを 求めることが出来ずに、だれも助けることが出来ない。ひとりで、ただ、踏ん張るしかな い。ゆっくりと、ゆっくりと浄化されていく辛さにひたすら堪えるしかない。自分にもど うすることもできない」  眞一郎は、両手で頭を抱え、声を詰まらせた。 「そんなこと、考えちゃダメ!」  うなだれる眞一郎に、乃絵は、眞一郎にまとわりつく邪気を振り払うように叫んだ。 「え……」 と眞一郎は、声を漏らして顔を上げると、乃絵は、眞一郎の背中に覆いかぶさるように抱 きついた。そして、乃絵は、低い声で、眞一郎の体の細胞ひとつひとつに語りかけるよう に、こういった。 ……あなたは、飛べるわ。飛べるの。   わたしのために、ちゃんと絵本を描きあげてくれた。   麦端踊りも、ちゃんと踊りきることが出来た。   湯浅比呂美にも、ちゃんと自分の気持ちを伝えることが出来た。 「乃絵……」 「今度も、ちゃんと出来るの」  乃絵の声は、どんどん明るくなり、弾んできた。まるで、坂道を駆け下りるように。 「…………」  乃絵は、立ち上がり、両手を広げた。 「もっと、もっと、翼をひろげて」  乃絵は、天を見た。 「翼を……ひろげる?」 「そう。もっと、もっと、翼をひろげて。風は、ちゃんと吹いているわ。その風に乗るの。 そうすれば、もっと、もっと高く飛べるわ」  昔の乃絵らしい乃絵の言葉に、眞一郎は、懐かしさを覚えた。乃絵は、決して、がんば れ、とか、勇気を出して、という言葉は使わない。なにかを達成したときのイメージしか 語らない。眞一郎は、久しぶりに聞いた「飛べる」という言葉に、乃絵との通信を楽しん でみることにした。 「どうすればいいんだよ……」 「無理して、羽ばたく必要はないの。ただ、感謝すればいいの」 「感謝?」  乃絵の口から初めて聞く言葉のように思えた眞一郎は、思わず訊き返した。 「そう、ありがとうって」 「ありがとう……」と復唱する眞一郎。 「……そう。自分に感謝。眞一郎のお父さんとお母さんに感謝。湯浅比呂美に感謝。西村 先生にも感謝。愛子さんや、野伏くんにも感謝。みんなに感謝」  乃絵は、指をひとつひとつ折りながらそういった。 「おまえにも、感謝、だろ?」  眞一郎は、ひとり忘れているぜ、という感じに乃絵を指差して乃絵の言葉に付け加えた。 「……うん、ありがとう」  乃絵は、満面の笑みを作り、よくできました、と頷いた。 「不思議だな……おまえと話してると、なんだかホッとする。比呂美といるときには、あ まり感じないのに……」 と、眞一郎は、率直な感想を漏らしてしまった。乃絵がそうさせたのかもしれない。 「それは、あなたが、まだ、湯浅比呂美に対して心を閉ざしているからよ」 ……おれが、心を閉ざしているからだって? 「えっ! そんなことないよ」 と眞一郎は、全身で否定したが、乃絵はそれをたしなめるようにつづけた。 「ううん。認めたくないでしょうけど、そうなの。それに、湯浅比呂美は、気付いている わ、そのことに……」 「え……そんな……ばかな……」  おまえになんでそんなことがわかるんだよ、と眞一郎はいおうとしたが、乃絵はそれを 遮った。 「湯浅比呂美は、その寂しさを感じている。学校では凛々しくしているのに、あなたとい るときは、子供のように甘えてくるんじゃない?」  乃絵の言葉は、眞一郎と比呂美の関係を的確に捉えていた。 「おまえ……なんで……」 「当たりみたいね」  比呂美と乃絵が喧嘩したときに、乃絵はいろいろなことを感じたのだろうと、眞一郎は 思った。こうも自分たちの心を読まれたようなことを言われたら、もう開き直るしかなか った。 「これ以上どうすればいいだよ」 「あなた、湯浅比呂美を『女』として見ているでしょう?」 「当たり前だろ? 他にどう見ろっていうんだよ」 「ひとりの『人間』として見てあげて」 「え?」 ……ひとりの、人間? 比呂美を?  それは、今まで眞一郎の頭の中に一度も浮かばなかったフレーズだった。  眞一郎は、急いで、今までの比呂美とのやり取りを思い返そうとしたが、疲れきってい てうまく頭が回らず、こめかみの辺りがずきんと痛んだ。 「そうすれば、もっと、もっと、彼女の見えなかった部分が見えてくるわ」 「ひとりの『人間』……」 「そう……わたしを見ているように……」 (なんだって!)  眞一郎の頭の中はパニックになった。乃絵の口から次々と飛び出てくる衝撃的な言葉に 目が回る感じだった。  つまり、こういうことなのだろうか――。  乃絵に対しては、『人格』を見ていて、比呂美に対しては、まだ『格好』しか見ていな いということなのか。確かに、眞一郎の心の奥でなにかが引っかかったが、今は、思った ことや感じたことの整理がうまく付かなかった。 「湯浅比呂美は、決して心の弱い人間ではないわ。むしろ、わたしより強いと思うの」 「乃絵……」 「あなたも、もっと強くならなきゃ、ね?」  乃絵は、考えるのに必死になっていた眞一郎の頭をぽんと叩いてそういった。 「……ああ」  そして、乃絵は、難しく考えなくていいのよ、というように目を少しおどけさせた。 「わたしと話しているようなことを、彼女にも話してあげるのよ。湯浅比呂美が、興味を 持つとか持たないとか、考えないで……。湯浅比呂美は、喜んで、嬉しくて、あなたに答 えてくれるわ」  乃絵のいっていることは、なんとなく眞一郎にも分かった。 「……そうしてみるよ」 「……うん」 「それじゃ、いっちょ、作業を再開しますか」 といって眞一郎は立ち上がったが、立眩みがして、乃絵の肩を思わずつかんでしまった。 「大丈夫?」 「ごめん。腹へって、死にそうなのを忘れてた」 「地べたでも食べることは忘れないわ。ひとりで立てる?」 「あのさ……乃絵……あっ、いするぎさん、だったな……」  ふふっと笑った乃絵に、眞一郎は、今話してくれたことへのお礼をしたいと思った。 ――そんなふたりから少し離れた人ごみの影に、ふたりを突き刺すような強烈な視線を向 けていた少女がいた。唇をかみ締め、肩を震わせた少女は、躊躇いなく踵を返すと、また 人ごみの中へ消えていった――。  眞一郎が家に帰り着いても、比呂美は部屋から出てこなかった。事前に食事はいらない と電話で伝えていたので、眞一郎は特に気に留めなかった。すぐ風呂に入り、そのあと、 部屋で眠たい目をこすりながら数学の宿題に取りかかった。そのとき、比呂美が部屋を訪 れてきた。 「眞一郎くん」 「おう」  眞一郎がそう返すと、比呂美は、静かに扉を開け部屋の中へ入ってきたが、しばらく扉 の前で黙って突っ立っていた。 「どうした?」  眞一郎は、机に向かったまま声をかけた。 「……うん……」  比呂美は、曖昧な返事をすると、ベッドに歩いていき、その上にうつ伏せになった。  比呂美が勝手に眞一郎のベッドに上がるようなことは今までなかったので、眞一郎は比 呂美の様子が少しおかしいと感じ、ようやく振り返った。  比呂美は、両手を重ねた上に顎を乗せて目をつぶっていた。  大人しくしてくれる分には何の問題もなかったので、眞一郎は、早く宿題を終わらよう と、また机に向った。  それから、比呂美は、ずっと黙っていた。  15分くらい経つと、眞一郎の耳に布団を叩くような音が飛び込んできた。最初は小さ な音だったので、比呂美がベッドの上で体勢を変えているのだろうと眞一郎は思ったが、 その音は段々に大きくなり、どんどんと一階へ響きそうなになった。比呂美は、膝を曲げ て足を振り上げ、それを下ろして敷布団を蹴っていたのだった。 「比呂美! 下に響くだろう?」  眞一郎が堪らずそれをとがめると、比呂美はすぐ、足をバタつかせていたのを止めたが、 その代わりに眞一郎を睨みつけてきた。 「なんだよ」  比呂美は、返事をしなかったが、また足を振り下ろして、一つどすんといわせた。 「やめろって」  比呂美は、ぷいっと壁の方に首をひねった。  眞一郎は、なんだよ、と大きくため息をつくと、再び机に向かった。  比呂美は、また、黙った。  それから10分くらいすると、眞一郎は、首をこくりこくりとやりだした。眞一郎の根 性よりも睡魔の方が勝るようになったのだ。それでも何度かは、はっと目を覚ましたが、 すぐに居眠りモードに突入してしまった。眞一郎の右手に持たれたシャーペンが、ノート に川の氾濫のような文字を書いたあと、眞一郎は幸せそうにぐーぐーと荒い寝息を立てだ した。  比呂美は、しばらくの間、そんな眞一郎のようすを呆れたように見つめていたが、眠り こける眞一郎にだんだん腹が立ってきた比呂美は、身を起こして、枕をつかみ、眞一郎の 背後にそっと近づいた。眞一郎は、まったく起きる気配がない。  比呂美は、眞一郎の背中を憎しみに満ちた目で見つめた。数時間前、この背中に乃絵の 体が合わさっていた。あれほど、ひとりで立ち向かいたいといっていた眞一郎が、いとも 簡単に壁絵の現場で乃絵と談笑をしているではないか。それを見た比呂美は、はらわたが 煮えくり返る思いになった。しかし、眞一郎が自分を現場に近づけなかったということは、 自分が眞一郎にとって特別な存在だという何よりもの証拠だった。 ……比呂美に逃げたくない……  その言葉が、せめてもの救いだった。  乃絵がちょくちょくと現場に顔を出していたのか、今日が初めてなのかは、分からない が、眞一郎の心に浮気な心があれば、間違いなく眞一郎の言動や態度に出ただろう。眞一 郎という人間はそれほど器用ではない。そういうことは、比呂美が一番よく知っているこ とだった。  眞一郎は、自分を裏切ってはいない。  比呂美は、そう確信していたので、今の自分の気持ちを眞一郎にぶつけていいものなの かどうか迷った。  比呂美は、また、眞一郎の背中をしっかりと見つめた。 ……石動乃絵が、包み込もうとするのなら、わたしは、どうするの?   湯浅比呂美は、どうしてあげるの?  比呂美の枕を持ったが腕が上がっていく。やがて頂点に達し、比呂美は、ぴたっと動き を止めた。 ……わたしは、石動乃絵ではない。   彼女のようなことが出来なくても、   わたしにも、わたしにしか出来ないことがあるはず。   今は、それがわからないだけ。   じゃ~あがくしかないじゃない。   眞一郎に、たとえ嫌われたとしても   本当の自分というものが少しでも分かるというのなら、   逃げてはダメなんだ。   そうでないと、一生、眞一郎に、自分を偽りつづけて、   本当の自分を見せないままで終わるかもしれない。   本当の湯浅比呂美を見てもらえないままに……。   それは、とても、悲しいこと……  比呂美の眼光が、なにかを吹っ切ったように鋭くなる。そして、すぐさま、真っ直ぐに 上がった比呂美の両腕は振り下ろされ、比呂美の手に持たれた枕は眞一郎の後頭部を直撃 した。  その反動で、眞一郎の顔は机の上に突っ伏した。教科書やノートは机の上を滑り、シャ ーペンはどこかへ弾き飛ばされていった。  衝撃で目を覚ました眞一郎は、眠りこけて自分で机に顔を打ちつけたのだろうと思った が、後頭部に違和感が残っていたので、すぐ振り返り比呂美を見た。ベッドにいたはずの 比呂美が、枕を持って自分の真後ろに立っていたことで、比呂美が叩いて起こしたのだと 眞一郎はすぐ分かった。 「ご、ごめん、寝てたか?」  眞一郎は、へへっと照れ笑いをしたが、比呂美は、そんな眞一郎に、再び枕を打ちつけ た。かなりの力だったので眞一郎の上体はよろけ、眞一郎は慌てて両手を机について体を 支えた。そして、あきらかに敵意に満ちたような比呂美の行動に、眞一郎は緊張させられ た。 「なんだよ!」  比呂美は、もう一度、枕を眞一郎へ打ちつける。こんどは、それほど強くはなかった。 「比呂美!」  眞一郎は、椅子から立ち上がろうとしたが、またもや比呂美は、枕を打ちつける。眞一 郎は、それを左腕で防御しながら、比呂美に向こうとする。比呂美は、近づく眞一郎に半 歩後退して、また枕で眞一郎を叩く。 「おまえ、いい加減にしろよ!」 と眞一郎の怒号がとうとう飛ぶ。  それから、比呂美の枕攻撃は激しさを増した。力はたいして強いものではなかったが、 眞一郎の両手の防御の隙をつくように、頭、肩、腰、太もも、と枕で眞一郎を叩いた。  やがてだんだん息が上がっていく比呂美に対して、眞一郎は、両手の防御を止め、比呂 美に好きなだけ叩かせた。叩く力は、決して強いものではないが、眞一郎は叩かれるたび に少しよろけ、またすぐに体勢を立て直し、比呂美の攻撃を受け止めた。そんな状態がし ばらくつづき、眞一郎は、比呂美が攻撃を止めるのを静かに待った。  比呂美は、防御しなくなった眞一郎がつまらなくなり、自分の腕も疲れきってしまった ので、ようやく枕攻撃を止め、肩を大きく上下させ呼吸を整えた。 「気が済んだか?」  比呂美は、黙っている。 「おれ、もう寝るぞ」  比呂美は、眞一郎の言葉にまったく反応しない。 「あのさ、今取りかかっている絵のことなんだけど……」 と眞一郎が発すると、比呂美の体にまた力が宿り、枕を持った両腕を大きく振り上げた。 眞一郎は、その瞬間、比呂美の両手首を素早くつかみ攻撃させまいとした。 「いやッ! 離して」  眞一郎に万歳のポーズで固められた比呂美は、全身をくねらせバタバタと暴れだし、し まいには、眞一郎に蹴りを入れてきた。  眞一郎は、そのまま比呂美を吊り上げるようにして、ベッドに移動し、比呂美を手首を つかんだままベッドに横たわらせた。それでも、比呂美は、バタバタと眞一郎の拘束から 逃れようと暴れた。そして、そんな比呂美に、眞一郎は、こういい放った。 「甘えんぼ」  眞一郎のこの言葉に比呂美は、ぴたっと体の動きを止めた。  どこを見るわけでもなく、見開かれた比呂美の目。よく見ると、比呂美の瞳は細かく震 えていた。  比呂美の全身から力が抜けていくのを感じた眞一郎は、比呂美の両手首をつかんでいた 手の力を緩めたが、まだ比呂美の体に四つん這いで覆いかぶさった姿勢のままでいた。  学校を休むことを事前に話さなかったことに対して比呂美が怒っているのだと眞一郎は 考えたが、さきほどの比呂美の様子はとてもそんな風ではなかったので、思いっきり困っ た顔を比呂美に見せた。 「なにか、いえよ。いわないと離さないぞ」  この言葉に、比呂美は、体に力を入れ、くねりだした。 「おまえが悪いんだからな、叩いてくるから……」  眞一郎がそういいきる前に、比呂美はようやく口を開いた。 「あなたが悪いんじゃない! あな、た、が……」  比呂美の顔は、そういっている途中からくしゃくしゃになっていき、比呂美は大声で泣 きだした。口を大きく開け、まるで迷子の子供が母親を探すように……。  幼い子供は、自分の存在を相手に気づかせるために大声を張り上げる泣くという。  今の比呂美も、それと同じ感じだった。  眞一郎は、こんな比呂美の泣き方を見るのは初めてだった。子供の頃はあったかもしれ ないが、お互いに恋愛感情が生まれてからは、間違いなく初めてだった。  ぅうわああぁぁぁぁぁ――― ぅうわああぁぁぁぁぁ―――  まるでサイレンのように繰り返される比呂美の泣き声。  眞一郎は、全身を凍りつかせ、自分の真下で声を張り上げる比呂美に、呆然となった。  それから間もなく、部屋の外で騒がしさが増すのを眞一郎は感じた。母の理恵子にもこ の声が届いたのだろう。  階段を上がってくる足音が、眞一郎の耳に飛び込んでくる。 (このままじゃ、まずい)  眞一郎はそう思うと、比呂美の手首を離して、右腕を寝ている比呂美の背中に潜り込ま せて比呂美を抱き寄せ、自分の体の上に比呂美が乗っかるように体を入れ替えた。比呂美 はそのとき一瞬だけ泣くのを止めたが、下敷きになった眞一郎の胸に顔をうずめると、先 ほどと同じようにまた泣きだした。 「眞一郎? 比呂美はいるの? 入るわよ」 と理恵子は早口でいうと眞一郎の部屋の扉を開けた。  ふたりの姿を見た途端、理恵子は絶句した。  ベッドの上で、眞一郎が下敷きになり比呂美を抱き寄せているのだ。  そんなふたりの体勢に理恵子は驚愕したが、すぐに、比呂美の泣き方に関心がいった。 「どうしたの比呂美は……」  理恵子の口調は、とがめるような強いものではなかった。 「母さん、大丈夫だから……今は、ふたりに……ふたりだけに、してほしい」  ふたりの服装を細かく見たところ、眞一郎が比呂美に無理やりなにかをしようとした風 でもなかった。  深い優しさに染まったような顔をしている眞一郎。理恵子はそんな眞一郎をしばらく見 つめていたが、やがて黙って部屋から出ていった。  眞一郎は、理恵子が自分を信頼して部屋から出ていったのではなく、比呂美を自分の力 でどうにかしなさいと課題を突きつけて出ていったのだと受け取った。  理恵子が階段を下りると、ヒロシが駆け寄ってきた。 「なにがあった」 「いえ、それが……」  理恵子は、ヒロシにありのままを伝えようかどうか迷ったが、眞一郎の気持ちも尊重し たい気持ちだった。息子のあれほど深い眼差しは見たことがなかったのだ。今は、比呂美 をしっかりと抱きとめている眞一郎を信じて任せ、どうにもならないようだったら親であ る自分らが介入しても遅くはないと思った。ただ、内心は、幼い子供のように泣く比呂美 のことが気になって仕方がなかった。 「ふつうじゃないぞ、あの泣き声は」  ヒロシは、理恵子の肩をつかんで詰め寄った。 「じゃ~、あなた、ご自分で見てきたらどうですか?」  そういった理恵子の鋭い視線にヒロシは、たじろいだ。  比呂美の泣き声は小さくなっていたが、まだつづいていた。  ヒロシは、立ちつくしたまま考えた。様子を見に行くべきか、いなか。眞一郎のことは ともかく、比呂美のことは、ずっと理恵子に任せっきりだったので、比呂美にかけるべき 言葉を、まったくといっていいほどヒロシは持ち合わせていなかった。それに、比呂美と 向き合っても、比呂美は自分に訳を話さないだろうと感じていた。比呂美は、自分のこと を絶対甘えてはいけない存在だと言い聞かせているようだったから……。 「眞一郎が、なにかしたわけではなそうだから、大丈夫じゃありませんか?」  ひとりで難しい顔をしていたヒロシを心配して、理恵子は、こんどは、優しい口調でそ ういった。 「子供たちを信じなさい、といったのは、あなたですよ……」  理恵子は、そう付け加えると、ヒロシの腕をつかみ居間へ引っ張っていった。  比呂美は、もう声を上げて泣いてはいなかったが、時折、鼻をすすっては体をひくつか せた。眞一郎は、ベッドの端の小棚に置いているティッシュペーパの箱をつかんで引き寄 せると、中身を二、三枚まとめて取り出し、比呂美に、ほら、といって渡した。比呂美は、 黙って涙を拭いて、洟をかんだあと、こんどは自分から中身をつまみ出し、顔をきれいに 拭いた。顔の取り繕いが一段落した比呂美は、眞一郎から身を起こして離れようとしたが、 眞一郎は、再び比呂美を抱き寄せてそれを許さなかった。比呂美は、大人しく眞一郎の胸 に顔をうずめた。 「きょう、何日だっけ」 「七月二日」  眞一郎の唐突な質問に囁くように比呂美は答えた。 「もう、七月か…………あっという間だったな…………」  眞一郎は、天井をおぼろげに見つめてそう呟いた。 「いきなり学校を休んで、おれがいなかったのでびっくりしたのか?」  比呂美は、小さく首を左右に振った。 「じゃ~あれか…………」  比呂美が、ここまで取り乱す原因は、もうこれしかなかった。  現場で乃絵といるところを比呂美が目撃したということしか。  眞一郎は、さらに力を込めて、比呂美を抱きしめると、比呂美は、うっ、と苦しそうに 息を漏らした。 「おまえには、いつでも見てもらえる。これからずっと、隣にいるんだし……」  眞一郎は、急に語気を強め、あの竹林での言葉を比呂美にいった。  比呂美の体は、その言葉に反応してびくっと震えた。 「おまえ、このあと、アパートに戻ってなんていった?」  比呂美は、黙っていた。 「プロポーズは、お互い大人になってからもう一度してっていったよな?」 「いったよ……」と比呂美は小さく、かすれた声で答えた。 「あれから、おれ、毎日考えるてるよ、そのこと。…………まだ学生なのにな……」  眞一郎は、そういうとへへっ自嘲気味に笑って、さらにつづけた。 「でもな、好きな女の子のことばかり考えていても、道が開けないこともある……。…… 勇気や愛っていう言葉は、聞こえはいいかもしれないが、それだけでは、比呂美を幸せに 出来ない気がするって、きょう、感じたんだ。とにかく、『チカラ』がいるんだよ、『チカ ラ』が…………男は、それをつかむまでは、軽々しく、好きな人について来いなんていっ ちゃいけない…………」  比呂美は、顔を上げ、眞一郎の目を見た。 「石動乃絵が、そういったの?」 「石動乃絵は、関係ない。おれひとりで感じたことだ」 「きょう、あいつ、現場に現れたよ……」 「聞きたくない」 「聞かなきゃダメだ!」  眞一郎は、眼光を鋭くして言った。 「……あいつは、おれを背中から抱きしめて励ましてくれた。おれ、ぼろぼろだったから な。見るに見兼ねたんだろう……。前にも、そういう風にしてくれたことがあった。その ときは、なんて安心出来るんだろう、なんて温かいんだろうって感じて、勇気が湧いてく る感じだったけど…………」  眞一郎の言葉は、そこで途切れた。 「けど?」 「…………きょうは…………きょう、抱きしめられたときは、ただただ、華奢なあいつの 体を感じるだけだった…………」  比呂美は、首を傾げて、どういうこと? と説明を求めた。 「以前感じたような温かさを感じなかったんだ……。……あいつは、勘が鋭く、言うこと も面白い。けど…………本質的に、おれは、あいつを求めなくなった、ということなんだ と思う。むかしは、確かにあいつを見ていると、創作意欲が駆り立てられた。でも、今は、 それほど感じない…………感じなくなった。…………こういう話、つまんないな」 「もっと、話して……」  比呂美はそう呟くと、また眞一郎の胸に顔をうずめた。 「最近、比呂美を見ていると、面白いんだ。こいつ、なんでこんなに面白いんだろうって。 こんなに近くにいるのにどうして気づかなかったんだろうって」 「なにそれ」  比呂美は、くすっと笑った。 「泣くし、切れるし、噛付くし、叩くし。かと思ったら、湯浅さんみたいに可愛くなった りするし……」  比呂美の顔は、みるみるうちにふくれてくる。 「あれが、ほんとうのわたしだもん!」 「はいはい、そういうことにしておきましょう」 「だ~め。その発言は取り消して」 「毎日、湯浅さんみたいに可愛くしてくれたらな~」  眞一郎は、天井に向かってわざとらしくぼやく。 「眞一郎くんしだいでしょ?」 と比呂美はいうと、眞一郎の頬の肉をつまんだ。 「ひはーい(痛ぁーい)」  眞一郎は、比呂美の背中をぽんぽん叩いてギブアップを伝えた。 「でも、あのデートのお陰で……………………」  眞一郎は、ひと呼吸置いて、さらにつづけた。 「いや、比呂美のお陰かな? 比呂美が一週間頑張ってくれたから、おれたち、大切なも のを取り戻した気がする」 「……うん……そうね……」  比呂美もそのことは実感していた。 「絵も、明日には、ほぼ完成する」 「ほんと?」  比呂美が眞一郎の顔を覗き込むと、眞一郎は、大きく頷いた。 「うん」 「……どんなのだろう……」  比呂美は、窓の方に顔を向けて呟いた。  夏の虫の音が聞こえていた。夕方に降っていた雨は、上がっているようだった。 「比呂美……」 「なに?」  比呂美は、再び眞一郎の顔を見る。 「土曜の深夜、正確にいうと日曜の早朝に、おまえに見せたいんだ」 「今度の日曜?」 「そう。一緒に、絵を、見に行こう……」  眞一郎は、低い声で、言葉を区切って丁寧に比呂美に伝えた。 「……わかった……湯浅さんにそう伝えておくね……」 「おまえ……相当気にしているな」  そのあと、比呂美は、眞一郎の鼻にかぶりついた。 ☆七月三日(木曜)雨、のち、くもり――  翌朝、眞一郎は、居間へ入るなり正座をして、いきなり全員に向かって話しだした。 「父さん、母さん。取りかかっていた絵のことなんだけど、明日には完成します。それで、 土曜日は薬品を吹き付ける作業があるので、見せることは出来ないけど、日曜の早朝に、 父さんと母さんにも見てほしい、いや、見に来てください。比呂美には、午前三時に、見 せます。だから、三時半頃に駅前商店街の噴水広場のところに来てください」 「午前三時?」 と、まず比呂美が素っ頓狂な声を上げた。 「人波がない状態で、写真を撮りたいんだ。西村先生が、照明を持ち込んでくれるから大 丈夫」  明るさの問題じゃないよ、と比呂美は思うのだが。 「商店街って、ずっと工事していたところの?」と理恵子。 「うん。今、あそこに円形の広場が出来ていて、そこの壁に絵を描いていたんだ。全部で 8面あって、他は大学のサークルとかが描いている。一度も覗いたことはないけど」 「あなた、どうします?」  理恵子は、おそるおそるヒロシに尋ねた。 「決まってるじゃないか。何時だろうと、息子の晴れ舞台を見てやらないでどうするん だ」  ヒロシは、少し興奮気味に答えた。 「いままでみんなに心配かけて、すみませんでした」 と眞一郎は、深々と頭を下げた。  ヒロシは、そのあと、眞一郎になにも声をかけなかったが、ヒロシが嬉しそうな顔をし ていたことに、家族全員気づいていた。 ▼ファーストキス-14
▲[[ファーストキス-13]] 「これで、いける……」  眞一郎は、力なくそう呟いた。何かを確信した言葉だというのに、眞一郎の心身は、限 界点のちょうど真上という感じだった。ちょっとでも体の重心がずれようものなら、ずれ た方向に眞一郎の体は倒れていってしまうだろう。眞一郎は、ブルーシートが張り巡らさ れている金属製のパイプの柵に、手を伸ばし、それを伝に、ゆっくりしゃがみこんだ。そ して、近くに転がっていた酸素スプレー缶をつかむと、口元に持っていき、酸素を出して 大きく呼吸を整えた。朝から九時間、ぶっ通しの作業だった。休憩らしい休憩は、昼に、 比呂美の作ったお弁当を食べたときくらいだけだった。  眞一郎の予定していた作業は、一通り済んでいた。壁絵は、見事に奥行きが表現され、 絵の中の空間は、まさしく、三次元の空間と化していた。手前の草原に咲くかすみ草の花 のひとつひとつから、その奥の向き合ったふたりの人物、そして、波打ち際、地平線へま で、奥行き方向の軸でしっかりと貫かれていた。刷毛を数本口にくわえ、片手にはエアブ ラシ、もう一方には、拭き取りようの布を持つという、そんな格好で、絵と対峙しつづけ た。感じるままに、ひたすら、全身を動かしたのだ。だから、眞一郎には、どういう手順 でこの作業を行ったのか、もう思い出せない。 ……親父も、こんな苦しみを味わったのかな……  眞一郎は、心の中でそうぽつりと呟いた。最初は、比呂美のために描くなどとカッコつ けたことを思っていたが、もう、そんな気持ちは、遥か彼方へ吹き飛んでいた。絵を描き つづけるための原動力が、『絵を描きたい、完成させたい』という自分の中で湧き起こる 純粋な気持ちに置き換わっていた。『愛する者のために絵を描く』という気持ちは、モチ ベーションを高めるのには有効なのかもしれないが、一歩間違えば、逆に『妥協』という 逃げ道になってしまうという危険をはらんでいた。眞一郎は、今日はじめて、そのことに 気づいたのだった。 ……愛する者が満足してくれれば、自分は満足なのだろうか。   自分が本当に描きたい絵は、そういう絵なのだろうか。   そういう絵で、果たして、愛する者を幸せにすることができるのだろうか。   自分の絵を見た者が、乃絵が、果たして、涙を流すだろうか。   父の絵は、そういう絵ではない。   自らの魂を削って、絵の具に刷り込んだような絵だった。   自分もそういう絵を描きたいんじゃないのか……  眞一郎は、延々とそういうことを考えながら、ペンキを塗り続けたのだった……。  だいぶ意識のはっきりしてきた眞一郎は、携帯電話の時計を見た。  七時半を過ぎたころ――。  眞一郎は、空になった酸素スプレー缶を転がし、新しい酸素スプレー缶をつかむと這い つくばってブルーシートの外に出た。  商店街の通りは、夕飯の買い物や学校、会社帰りの人々で忙しなかった。おまけに雨が 降っていて、いつもより多いようだった。  眞一郎は、20リットルのペンキの缶に腰掛けて、再び酸素を吸った。幾分、手に力が 戻ってきていた。やがて、復活の合図のようにお腹がきゅるきゅると鳴りだした。比呂美 の作ってくれた燃料もとうとう切れてしまったのか、と眞一郎がお腹の友に声をかけてい ると、背後で自分を呼ぶ声がした。 「仲上君」  眞一郎は、おそるおそる振り返った。  乃絵が立っていた。  乃絵は、眞一郎の横にしゃがみこむと、眞一郎の頭に見つけているゴーグルとマスクを 優しく外した。眞一郎は、それを遠慮しようと思ったが、体がうまく動かせなかった。乃 絵は、呆然としている眞一郎の手を取り、はい、といって、酸素スプレー缶を口元に近づ けさせた。眞一郎は、再び大きく深呼吸を繰り返した。  眞一郎は、乃絵に、どうしてここに来たのかと訊こうとしたが、正直、もうどうでもよ かったので、訊かなかった。比呂美がここに来たとしても、もう差し支えなかった。自分 の心の底から強烈に突き上げてくる、絵を描きたいというエネルギーを感じることができ たのだから、他に励ましなどもう必要なかったのだ。眞一郎は、ひとりで絵に立ち向かう ということがようやくできていたのだ。  しばらく深呼吸していた眞一郎は、目を細め、もういいよ、と乃絵に合図を送った。  乃絵は、眞一郎から手を離し、眞一郎から話しだすのを待った。 「思ったより、大変なんだな……ま、初めて挑戦することだから、当たり前といえば当た り前なんだけど……」 「うまくいかないの?」  乃絵は、料理か何かのことのように軽口でいった。 「いや、そうじゃない。期間内に描きあげる目処はもうついてる。だけど……、心や体が、 どんどん削られていく感じがして、フラフラなんだ」  眞一郎は、燃え尽きたボクサーのようにへへっと笑った。 「ちゃんと、食べてる?」 「ああ、大丈夫、食欲はあるよ」 「そう、よかった」  乃絵の表情が、安堵と深い優しさに包まれた。 「ひとりで、踏ん張るのって、死にそうになるくらい、辛いんだな。おまえのいった意味 が、ようやく分かったよ」 ……だから、あなたにとって、湯浅比呂美という存在が、   ときには重荷になり、ときには逃げ道になる。   だから今、あなたは、ひとりで、このことを受け止めなくてはいけない……  乃絵は、以前、眞一郎にこう忠告したのだった。 「ううん、わたしも、まだよく分かってない。今のあなたを見て、どうしたらいいのか分 からないもの」  乃絵は、首を大きく横に振った。 「比呂美が好きって、おれに言われた後は、こんな感じだったんだろ? だれにも助けを 求めることができずに、だれも助けることができない。ひとりで、ただ、踏ん張るしかな い。ゆっくりと、ゆっくりと浄化されていく辛さにひたすら堪えるしかない。自分にもど うすることもできない」  眞一郎は、両手で頭を抱え、声を詰まらせた。 「そんなこと、考えちゃダメ!」  うなだれる眞一郎に、乃絵は、眞一郎にまとわりつく邪気を振り払うように叫んだ。 「え……」 と眞一郎は、声を漏らして顔を上げると、乃絵は、眞一郎の背中に覆いかぶさるように抱 きついた。そして、乃絵は、低い声で、眞一郎の体の細胞ひとつひとつに語りかけるよう に、こういった。 ……あなたは、飛べるわ。飛べるの。   わたしのために、ちゃんと絵本を描きあげてくれた。   麦端踊りも、ちゃんと踊りきることができた。   湯浅比呂美にも、ちゃんと自分の気持ちを伝えることができた。 「乃絵……」 「今度も、ちゃんとできるの」  乃絵の声は、どんどん明るくなり、弾んできた。まるで、坂道を駆け下りるように。 「…………」  乃絵は、立ち上がり、両手を広げた。 「もっと、もっと、翼をひろげて」  乃絵は、天を見た。 「翼を……ひろげる?」 「そう。もっと、もっと、翼をひろげて。風は、ちゃんと吹いているわ。その風に乗るの。 そうすれば、もっと、もっと高く飛べるわ」  昔の乃絵らしい乃絵の言葉に、眞一郎は、懐かしさを覚えた。乃絵は、決して、がんば れ、とか、勇気を出して、という言葉は使わない。なにかを達成したときのイメージしか 語らない。眞一郎は、久しぶりに聞いた「飛べる」という言葉に、乃絵との通信を楽しん でみることにした。 「どうすればいいんだよ……」 「無理して、羽ばたく必要はないの。ただ、感謝すればいいの」 「感謝?」  乃絵の口から初めて聞く言葉のように思えた眞一郎は、思わず訊き返した。 「そう、ありがとうって」 「ありがとう……」と復唱する眞一郎。 「……そう。自分に感謝。眞一郎のお父さんとお母さんに感謝。湯浅比呂美に感謝。西村 先生にも感謝。愛子さんや、野伏くんにも感謝。みんなに感謝」  乃絵は、指をひとつひとつ折りながらそういった。 「おまえにも、感謝、だろ?」  眞一郎は、ひとり忘れているぜ、という感じに乃絵を指差して乃絵の言葉に付け加えた。 「……うん、ありがとう」  乃絵は、満面の笑みを作り、よくできました、と頷いた。 「不思議だな……おまえと話してると、なんだかホッとする。比呂美といるときには、あ まり感じないのに……」 と、眞一郎は、率直な感想を漏らしてしまった。乃絵がそうさせたのかもしれない。 「それは、あなたが、まだ、湯浅比呂美に対して心を閉ざしているからよ」 ……おれが、心を閉ざしているからだって? 「えっ! そんなことないよ」 と眞一郎は、全身で否定したが、乃絵はそれをたしなめるようにつづけた。 「ううん。認めたくないでしょうけど、そうなの。それに、湯浅比呂美は、気付いている わ、そのことに……」 「え……そんな……ばかな……」  おまえになんでそんなことがわかるんだよ、と眞一郎はいおうとしたが、乃絵はそれを 遮った。 「湯浅比呂美は、その寂しさを感じている。学校では凛々しくしているのに、あなたとい るときは、子供のように甘えてくるんじゃない?」  乃絵の言葉は、眞一郎と比呂美の関係を的確に捉えていた。 「おまえ……なんで……」 「当たりみたいね」  比呂美と乃絵が喧嘩したときに、乃絵はいろいろなことを感じたのだろうと、眞一郎は 思った。こうも自分たちの心を読まれたようなことを言われたら、もう開き直るしかなか った。 「これ以上どうすればいいだよ」 「あなた、湯浅比呂美を『女』として見ているでしょう?」 「当たり前だろ? 他にどう見ろっていうんだよ」 「ひとりの『人間』として見てあげて」 「え?」 ……ひとりの、人間? 比呂美を?  それは、今まで眞一郎の頭の中に一度も浮かばなかったフレーズだった。  眞一郎は、急いで、今までの比呂美とのやり取りを思い返そうとしたが、疲れきってい てうまく頭が回らず、こめかみの辺りがずきんと痛んだ。 「そうすれば、もっと、もっと、彼女の見えなかった部分が見えてくるわ」 「ひとりの『人間』……」 「そう……わたしを見ているように……」 (なんだって!)  眞一郎の頭の中はパニックになった。乃絵の口から次々と飛び出てくる衝撃的な言葉に 目が回る感じだった。  つまり、こういうことなのだろうか――。  乃絵に対しては、『人格』を見ていて、比呂美に対しては、まだ『格好』しか見ていな いということなのか。確かに、眞一郎の心の奥でなにかが引っかかったが、今は、思った ことや感じたことの整理がうまく付かなかった。 「湯浅比呂美は、決して心の弱い人間ではないわ。むしろ、わたしより強いと思うの」 「乃絵……」 「あなたも、もっと強くならなきゃ、ね?」  乃絵は、考えるのに必死になっていた眞一郎の頭をぽんと叩いてそういった。 「……ああ」  そして、乃絵は、難しく考えなくていいのよ、というように目を少しおどけさせた。 「わたしと話しているようなことを、彼女にも話してあげるのよ。湯浅比呂美が、興味を 持つとか持たないとか、考えないで……。湯浅比呂美は、喜んで、嬉しくて、あなたに答 えてくれるわ」  乃絵のいっていることは、なんとなく眞一郎にも分かった。 「……そうしてみるよ」 「……うん」 「それじゃ、いっちょ、作業を再開しますか」 といって眞一郎は立ち上がったが、立眩みがして、乃絵の肩を思わずつかんでしまった。 「大丈夫?」 「ごめん。腹へって、死にそうなのを忘れてた」 「地べたでも食べることは忘れないわ。ひとりで立てる?」 「あのさ……乃絵……あっ、いするぎさん、だったな……」  ふふっと笑った乃絵に、眞一郎は、今話してくれたことへのお礼をしたいと思った。 ――そんなふたりから少し離れた人ごみの影に、ふたりを突き刺すような強烈な視線を向 けていた少女がいた。唇をかみ締め、肩を震わせた少女は、躊躇いなく踵を返すと、また 人ごみの中へ消えていった――。  眞一郎が家に帰り着いても、比呂美は部屋から出てこなかった。事前に食事はいらない と電話で伝えていたので、眞一郎は特に気に留めなかった。すぐ風呂に入り、そのあと、 部屋で眠たい目をこすりながら数学の宿題に取りかかった。そのとき、比呂美が部屋を訪 れてきた。 「眞一郎くん」 「おう」  眞一郎がそう返すと、比呂美は、静かに扉を開け部屋の中へ入ってきたが、しばらく扉 の前で黙って突っ立っていた。 「どうした?」  眞一郎は、机に向かったまま声をかけた。 「……うん……」  比呂美は、曖昧な返事をすると、ベッドに歩いていき、その上にうつ伏せになった。  比呂美が勝手に眞一郎のベッドに上がるようなことは今までなかったので、眞一郎は比 呂美の様子が少しおかしいと感じ、ようやく振り返った。  比呂美は、両手を重ねた上に顎を乗せて目をつぶっていた。  大人しくしてくれる分には何の問題もなかったので、眞一郎は、早く宿題を終わらよう と、また机に向った。  それから、比呂美は、ずっと黙っていた。  15分くらい経つと、眞一郎の耳に布団を叩くような音が飛び込んできた。最初は小さ な音だったので、比呂美がベッドの上で体勢を変えているのだろうと眞一郎は思ったが、 その音は段々に大きくなり、どんどんと一階へ響きそうなになった。比呂美は、膝を曲げ て足を振り上げ、それを下ろして敷布団を蹴っていたのだった。 「比呂美! 下に響くだろう?」  眞一郎が堪らずそれをとがめると、比呂美はすぐ、足をバタつかせていたのを止めたが、 その代わりに眞一郎を睨みつけてきた。 「なんだよ」  比呂美は、返事をしなかったが、また足を振り下ろして、一つどすんといわせた。 「やめろって」  比呂美は、ぷいっと壁の方に首をひねった。  眞一郎は、なんだよ、と大きくため息をつくと、再び机に向かった。  比呂美は、また、黙った。  それから10分くらいすると、眞一郎は、首をこくりこくりとやりだした。眞一郎の根 性よりも睡魔の方が勝るようになったのだ。それでも何度かは、はっと目を覚ましたが、 すぐに居眠りモードに突入してしまった。眞一郎の右手に持たれたシャーペンが、ノート に川の氾濫のような文字を書いたあと、眞一郎は幸せそうにぐーぐーと荒い寝息を立てだ した。  比呂美は、しばらくの間、そんな眞一郎のようすを呆れたように見つめていたが、眠り こける眞一郎にだんだん腹が立ってきた比呂美は、身を起こして、枕をつかみ、眞一郎の 背後にそっと近づいた。眞一郎は、まったく起きる気配がない。  比呂美は、眞一郎の背中を憎しみに満ちた目で見つめた。数時間前、この背中に乃絵の 体が合わさっていた。あれほど、ひとりで立ち向かいたいといっていた眞一郎が、いとも 簡単に壁絵の現場で乃絵と談笑をしているではないか。それを見た比呂美は、はらわたが 煮えくり返る思いになった。しかし、眞一郎が自分を現場に近づけなかったということは、 自分が眞一郎にとって特別な存在だという何よりもの証拠だった。 ……比呂美に逃げたくない……  その言葉が、せめてもの救いだった。  乃絵がちょくちょくと現場に顔を出していたのか、今日が初めてなのかは、分からない が、眞一郎の心に浮気な心があれば、間違いなく眞一郎の言動や態度に出ただろう。眞一 郎という人間はそれほど器用ではない。そういうことは、比呂美が一番よく知っているこ とだった。  眞一郎は、自分を裏切ってはいない。  比呂美は、そう確信していたので、今の自分の気持ちを眞一郎にぶつけていいものなの かどうか迷った。  比呂美は、また、眞一郎の背中をしっかりと見つめた。 ……石動乃絵が、包み込もうとするのなら、わたしは、どうするの?   湯浅比呂美は、どうしてあげるの?  比呂美の枕を持ったが腕が上がっていく。やがて頂点に達し、比呂美は、ぴたっと動き を止めた。 ……わたしは、石動乃絵ではない。   彼女のようなことができなくても、   わたしにも、わたしにしかできないことがあるはず。   今は、それがわからないだけ。   じゃ~あがくしかないじゃない。   眞一郎に、たとえ嫌われたとしても   本当の自分というものが少しでも分かるというのなら、   逃げてはダメなんだ。   そうでないと、一生、眞一郎に、自分を偽りつづけて、   本当の自分を見せないままで終わるかもしれない。   本当の湯浅比呂美を見てもらえないままに……。   それは、とても、悲しいこと……  比呂美の眼光が、なにかを吹っ切ったように鋭くなる。そして、すぐさま、真っ直ぐに 上がった比呂美の両腕は振り下ろされ、比呂美の手に持たれた枕は眞一郎の後頭部を直撃 した。  その反動で、眞一郎の顔は机の上に突っ伏した。教科書やノートは机の上を滑り、シャ ーペンはどこかへ弾き飛ばされていった。  衝撃で目を覚ました眞一郎は、眠りこけて自分で机に顔を打ちつけたのだろうと思った が、後頭部に違和感が残っていたので、すぐ振り返り比呂美を見た。ベッドにいたはずの 比呂美が、枕を持って自分の真後ろに立っていたことで、比呂美が叩いて起こしたのだと 眞一郎はすぐ分かった。 「ご、ごめん、寝てたか?」  眞一郎は、へへっと照れ笑いをしたが、比呂美は、そんな眞一郎に、再び枕を打ちつけ た。かなりの力だったので眞一郎の上体はよろけ、眞一郎は慌てて両手を机について体を 支えた。そして、あきらかに敵意に満ちたような比呂美の行動に、眞一郎は緊張させられ た。 「なんだよ!」  比呂美は、もう一度、枕を眞一郎へ打ちつける。こんどは、それほど強くはなかった。 「比呂美!」  眞一郎は、椅子から立ち上がろうとしたが、またもや比呂美は、枕を打ちつける。眞一 郎は、それを左腕で防御しながら、比呂美に向こうとする。比呂美は、近づく眞一郎に半 歩後退して、また枕で眞一郎を叩く。 「おまえ、いい加減にしろよ!」 と眞一郎の怒号がとうとう飛ぶ。  それから、比呂美の枕攻撃は激しさを増した。力はたいして強いものではなかったが、 眞一郎の両手の防御の隙をつくように、頭、肩、腰、太もも、と枕で眞一郎を叩いた。  やがてだんだん息が上がっていく比呂美に対して、眞一郎は、両手の防御を止め、比呂 美に好きなだけ叩かせた。叩く力は、決して強いものではないが、眞一郎は叩かれるたび に少しよろけ、またすぐに体勢を立て直し、比呂美の攻撃を受け止めた。そんな状態がし ばらくつづき、眞一郎は、比呂美が攻撃を止めるのを静かに待った。  比呂美は、防御しなくなった眞一郎がつまらなくなり、自分の腕も疲れきってしまった ので、ようやく枕攻撃を止め、肩を大きく上下させ呼吸を整えた。 「気が済んだか?」  比呂美は、黙っている。 「おれ、もう寝るぞ」  比呂美は、眞一郎の言葉にまったく反応しない。 「あのさ、今取りかかっている絵のことなんだけど……」 と眞一郎が発すると、比呂美の体にまた力が宿り、枕を持った両腕を大きく振り上げた。 眞一郎は、その瞬間、比呂美の両手首を素早くつかみ攻撃させまいとした。 「いやッ! 離して」  眞一郎に万歳のポーズで固められた比呂美は、全身をくねらせバタバタと暴れだし、し まいには、眞一郎に蹴りを入れてきた。  眞一郎は、そのまま比呂美を吊り上げるようにして、ベッドに移動し、比呂美を手首を つかんだままベッドに横たわらせた。それでも、比呂美は、バタバタと眞一郎の拘束から 逃れようと暴れた。そして、そんな比呂美に、眞一郎は、こういい放った。 「甘えんぼ」  眞一郎のこの言葉に比呂美は、ぴたっと体の動きを止めた。  どこを見るわけでもなく、見開かれた比呂美の目。よく見ると、比呂美の瞳は細かく震 えていた。  比呂美の全身から力が抜けていくのを感じた眞一郎は、比呂美の両手首をつかんでいた 手の力を緩めたが、まだ比呂美の体に四つん這いで覆いかぶさった姿勢のままでいた。  学校を休むことを事前に話さなかったことに対して比呂美が怒っているのだと眞一郎は 考えたが、さきほどの比呂美の様子はとてもそんな風ではなかったので、思いっきり困っ た顔を比呂美に見せた。 「なにか、いえよ。いわないと離さないぞ」  この言葉に、比呂美は、体に力を入れ、くねりだした。 「おまえが悪いんだからな、叩いてくるから……」  眞一郎がそういいきる前に、比呂美はようやく口を開いた。 「あなたが悪いんじゃない! あな、た、が……」  比呂美の顔は、そういっている途中からくしゃくしゃになっていき、比呂美は大声で泣 きだした。口を大きく開け、まるで迷子の子供が母親を探すように……。  幼い子供は、自分の存在を相手に気づかせるために大声を張り上げる泣くという。  今の比呂美も、それと同じ感じだった。  眞一郎は、こんな比呂美の泣き方を見るのは初めてだった。子供の頃はあったかもしれ ないが、お互いに恋愛感情が生まれてからは、間違いなく初めてだった。  ぅうわああぁぁぁぁぁ――― ぅうわああぁぁぁぁぁ―――  まるでサイレンのように繰り返される比呂美の泣き声。  眞一郎は、全身を凍りつかせ、自分の真下で声を張り上げる比呂美に、呆然となった。  それから間もなく、部屋の外で騒がしさが増すのを眞一郎は感じた。母の理恵子にもこ の声が届いたのだろう。  階段を上がってくる足音が、眞一郎の耳に飛び込んでくる。 (このままじゃ、まずい)  眞一郎はそう思うと、比呂美の手首を離して、右腕を寝ている比呂美の背中に潜り込ま せて比呂美を抱き寄せ、自分の体の上に比呂美が乗っかるように体を入れ替えた。比呂美 はそのとき一瞬だけ泣くのを止めたが、下敷きになった眞一郎の胸に顔をうずめると、先 ほどと同じようにまた泣きだした。 「眞一郎? 比呂美はいるの? 入るわよ」 と理恵子は早口でいうと眞一郎の部屋の扉を開けた。  ふたりの姿を見た途端、理恵子は絶句した。  ベッドの上で、眞一郎が下敷きになり比呂美を抱き寄せているのだ。  そんなふたりの体勢に理恵子は驚愕したが、すぐに、比呂美の泣き方に関心がいった。 「どうしたの比呂美は……」  理恵子の口調は、とがめるような強いものではなかった。 「母さん、大丈夫だから……今は、ふたりに……ふたりだけに、してほしい」  ふたりの服装を細かく見たところ、眞一郎が比呂美に無理やりなにかをしようとした風 でもなかった。  深い優しさに染まったような顔をしている眞一郎。理恵子はそんな眞一郎をしばらく見 つめていたが、やがて黙って部屋から出ていった。  眞一郎は、理恵子が自分を信頼して部屋から出ていったのではなく、比呂美を自分の力 でどうにかしなさいと課題を突きつけて出ていったのだと受け取った。  理恵子が階段を下りると、ヒロシが駆け寄ってきた。 「なにがあった」 「いえ、それが……」  理恵子は、ヒロシにありのままを伝えようかどうか迷ったが、眞一郎の気持ちも尊重し たい気持ちだった。息子のあれほど深い眼差しは見たことがなかったのだ。今は、比呂美 をしっかりと抱きとめている眞一郎を信じて任せ、どうにもならないようだったら親であ る自分らが介入しても遅くはないと思った。ただ、内心は、幼い子供のように泣く比呂美 のことが気になって仕方がなかった。 「ふつうじゃないぞ、あの泣き声は」  ヒロシは、理恵子の肩をつかんで詰め寄った。 「じゃ~、あなた、ご自分で見てきたらどうですか?」  そういった理恵子の鋭い視線にヒロシは、たじろいだ。  比呂美の泣き声は小さくなっていたが、まだつづいていた。  ヒロシは、立ちつくしたまま考えた。様子を見に行くべきか、いなか。眞一郎のことは ともかく、比呂美のことは、ずっと理恵子に任せっきりだったので、比呂美にかけるべき 言葉を、まったくといっていいほどヒロシは持ち合わせていなかった。それに、比呂美と 向き合っても、比呂美は自分に訳を話さないだろうと感じていた。比呂美は、自分のこと を絶対甘えてはいけない存在だと言い聞かせているようだったから……。 「眞一郎が、なにかしたわけではなそうだから、大丈夫じゃありませんか?」  ひとりで難しい顔をしていたヒロシを心配して、理恵子は、こんどは、優しい口調でそ ういった。 「子供たちを信じなさい、といったのは、あなたですよ……」  理恵子は、そう付け加えると、ヒロシの腕をつかみ居間へ引っ張っていった。  比呂美は、もう声を上げて泣いてはいなかったが、時折、鼻をすすっては体をひくつか せた。眞一郎は、ベッドの端の小棚に置いているティッシュペーパの箱をつかんで引き寄 せると、中身を二、三枚まとめて取り出し、比呂美に、ほら、といって渡した。比呂美は、 黙って涙を拭いて、洟をかんだあと、こんどは自分から中身をつまみ出し、顔をきれいに 拭いた。顔の取り繕いが一段落した比呂美は、眞一郎から身を起こして離れようとしたが、 眞一郎は、再び比呂美を抱き寄せてそれを許さなかった。比呂美は、大人しく眞一郎の胸 に顔をうずめた。 「きょう、何日だっけ」 「七月二日」  眞一郎の唐突な質問に囁くように比呂美は答えた。 「もう、七月か…………あっという間だったな…………」  眞一郎は、天井をおぼろげに見つめてそう呟いた。 「いきなり学校を休んで、おれがいなかったのでびっくりしたのか?」  比呂美は、小さく首を左右に振った。 「じゃ~あれか…………」  比呂美が、ここまで取り乱す原因は、もうこれしかなかった。  現場で乃絵といるところを比呂美が目撃したということしか。  眞一郎は、さらに力を込めて、比呂美を抱きしめると、比呂美は、うっ、と苦しそうに 息を漏らした。 「おまえには、いつでも見てもらえる。これからずっと、隣にいるんだし……」  眞一郎は、急に語気を強め、あの竹林での言葉を比呂美にいった。  比呂美の体は、その言葉に反応してびくっと震えた。 「おまえ、このあと、アパートに戻ってなんていった?」  比呂美は、黙っていた。 「プロポーズは、お互い大人になってからもう一度してっていったよな?」 「いったよ……」と比呂美は小さく、かすれた声で答えた。 「あれから、おれ、毎日考えるてるよ、そのこと。…………まだ学生なのにな……」  眞一郎は、そういうとへへっ自嘲気味に笑って、さらにつづけた。 「でもな、好きな女の子のことばかり考えていても、道が開けないこともある……。…… 勇気や愛っていう言葉は、聞こえはいいかもしれないが、それだけでは、比呂美を幸せに できない気がするって、きょう、感じたんだ。とにかく、『チカラ』がいるんだよ、『チカ ラ』が…………男は、それをつかむまでは、軽々しく、好きな人について来いなんていっ ちゃいけない…………」  比呂美は、顔を上げ、眞一郎の目を見た。 「石動乃絵が、そういったの?」 「石動乃絵は、関係ない。おれひとりで感じたことだ」 「きょう、あいつ、現場に現れたよ……」 「聞きたくない」 「聞かなきゃダメだ!」  眞一郎は、眼光を鋭くして言った。 「……あいつは、おれを背中から抱きしめて励ましてくれた。おれ、ぼろぼろだったから な。見るに見兼ねたんだろう……。前にも、そういう風にしてくれたことがあった。その ときは、なんて安心できるんだろう、なんて温かいんだろうって感じて、勇気が湧いてく る感じだったけど…………」  眞一郎の言葉は、そこで途切れた。 「けど?」 「…………きょうは…………きょう、抱きしめられたときは、ただただ、華奢なあいつの 体を感じるだけだった…………」  比呂美は、首を傾げて、どういうこと? と説明を求めた。 「以前感じたような温かさを感じなかったんだ……。……あいつは、勘が鋭く、言うこと も面白い。けど…………本質的に、おれは、あいつを求めなくなった、ということなんだ と思う。むかしは、確かにあいつを見ていると、創作意欲が駆り立てられた。でも、今は、 それほど感じない…………感じなくなった。…………こういう話、つまんないな」 「もっと、話して……」  比呂美はそう呟くと、また眞一郎の胸に顔をうずめた。 「最近、比呂美を見ていると、面白いんだ。こいつ、なんでこんなに面白いんだろうって。 こんなに近くにいるのにどうして気づかなかったんだろうって」 「なにそれ」  比呂美は、くすっと笑った。 「泣くし、切れるし、噛付くし、叩くし。かと思ったら、湯浅さんみたいに可愛くなった りするし……」  比呂美の顔は、みるみるうちにふくれてくる。 「あれが、ほんとうのわたしだもん!」 「はいはい、そういうことにしておきましょう」 「だ~め。その発言は取り消して」 「毎日、湯浅さんみたいに可愛くしてくれたらな~」  眞一郎は、天井に向かってわざとらしくぼやく。 「眞一郎くんしだいでしょ?」 と比呂美はいうと、眞一郎の頬の肉をつまんだ。 「ひはーい(痛ぁーい)」  眞一郎は、比呂美の背中をぽんぽん叩いてギブアップを伝えた。 「でも、あのデートのお陰で……………………」  眞一郎は、ひと呼吸置いて、さらにつづけた。 「いや、比呂美のお陰かな? 比呂美が一週間頑張ってくれたから、おれたち、大切なも のを取り戻した気がする」 「……うん……そうね……」  比呂美もそのことは実感していた。 「絵も、明日には、ほぼ完成する」 「ほんと?」  比呂美が眞一郎の顔を覗き込むと、眞一郎は、大きく頷いた。 「うん」 「……どんなのだろう……」  比呂美は、窓の方に顔を向けて呟いた。  夏の虫の音が聞こえていた。夕方に降っていた雨は、上がっているようだった。 「比呂美……」 「なに?」  比呂美は、再び眞一郎の顔を見る。 「土曜の深夜、正確にいうと日曜の早朝に、おまえに見せたいんだ」 「今度の日曜?」 「そう。一緒に、絵を、見に行こう……」  眞一郎は、低い声で、言葉を区切って丁寧に比呂美に伝えた。 「……わかった……湯浅さんにそう伝えておくね……」 「おまえ……相当気にしているな」  そのあと、比呂美は、眞一郎の鼻にかぶりついた。 ☆七月三日(木曜)雨、のち、くもり――  翌朝、眞一郎は、居間へ入るなり正座をして、いきなり全員に向かって話しだした。 「父さん、母さん。取りかかっていた絵のことなんだけど、明日には完成します。それで、 土曜日は薬品を吹き付ける作業があるので、見せることはできないけど、日曜の早朝に、 父さんと母さんにも見てほしい、いや、見に来てください。比呂美には、午前三時に、見 せます。だから、三時半頃に駅前商店街の噴水広場のところに来てください」 「午前三時?」 と、まず比呂美が素っ頓狂な声を上げた。 「人波がない状態で、写真を撮りたいんだ。西村先生が、照明を持ち込んでくれるから大 丈夫」  明るさの問題じゃないよ、と比呂美は思うのだが。 「商店街って、ずっと工事していたところの?」と理恵子。 「うん。今、あそこに円形の広場ができていて、そこの壁に絵を描いていたんだ。全部で 8面あって、他は大学のサークルとかが描いている。一度も覗いたことはないけど」 「あなた、どうします?」  理恵子は、おそるおそるヒロシに尋ねた。 「決まってるじゃないか。何時だろうと、息子の晴れ舞台を見てやらないでどうするん だ」  ヒロシは、少し興奮気味に答えた。 「いままでみんなに心配かけて、すみませんでした」 と眞一郎は、深々と頭を下げた。  ヒロシは、そのあと、眞一郎になにも声をかけなかったが、ヒロシが嬉しそうな顔をし ていたことに、家族全員気づいていた。 ▼[[ファーストキス-14]]

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