memories1988 事実と真実

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「……わかった。手配しておこう」  俺はそう請合った。比呂美の決意は固い。今まで、俺が何度一人暮らしを勧めても首を 縦に振らなかった比呂美が今頃になって一人暮らしをしたいと言う。何がきっかけかわか らないが、一度決めれば説得は難しい。外見はともかく、性格は決して香里に似ていると は思わないが、この頑固さだけは母親譲りだ。 「ありがとうございます」  比呂美はそういって立ち上がり、話はそれで終わりだった。が、比呂美はその場に立ち、 何かを言うべきか迷っているようだった。しかし、すぐに決心し、口を開いた。 「・・・・あの、本当に――」  そこまでしか言わない。いや、言えないのだ。答えを聞くことを怖れている事が伝わっ てくる。 ――本当に、母を愛していたのですか?  俺は何も答えなかった。それは、懐かしい記憶の底に沈む想い出の一つだった。彼女の 問いはある意味では正しく、ある意味では正しくない。理恵子からどんな風に聞いたのか、 あるいは聞かなかったのか、少なくとも俺にとっては答えにくい問いだった。俺はただ、 あいまいに笑う事しかできなかった。  だが、比呂美はそれで満足したようだった。 「――よろしくお願いします」  立ち去る比呂美を見送りながら、俺は言葉にできなかった答えを反芻していた。 ――俺がどれだけ想おうと、お前の母さんの心に俺の入り込む余地なんてなかったんだよ。 例え俺が、お前の父親以上に彼女を愛していると自信を持って言えてもな。  一九九六年、冬―― 「あなた!比呂志さん!」  理恵子が酒造所に飛び込んできた。らしくもなく取り乱している。 「どうした?」  比呂志はあえて簡潔に訊ねた。落ち着けと言うよりも、落ち着いて見せる方が相手を落 ち着かせるにはいい。  理恵子は青ざめた顔のまま、震える声で伝えた。 「今、電話があって・・・・眞治さんが……死んだ、て」 ――何?  比呂志はそう訊き返した。理恵子は何も答えようとしない。もう一度訊いたが、理恵子 は沈黙したままだった。 ――落ち着け。ゆっくり、もう一度言ってみろ。湯浅がどうしたって?  なおも黙って自分を見つめる理恵子を見ているうちに、比呂志は理恵子が答えないので はなく、自分の声が出ていない事に気がついた。  比呂志は階段を降りようとしたが、地面が揺れて酷く降りずらかった。ようやく理恵子 の前に立つと、理恵子の両肩を強く掴んだ。 ――本当なのか、それは。何故だ?何故死んだんだ。  理恵子が何か言っている。畜生、何を言っているのか聞こえない。もっと大きな声で言 ってくれ。自分の心臓の音で聞こえない――。 ポン、と頭の上に手が置かれた。我に帰って振り返ると、岳父、つまり理恵子の父が立っ ていた。 「行って下さい。社長には私から伝えておきます」  30分後、比呂志と理恵子は新幹線に乗っていた。 「……さっきはすまなかった。取り乱してしまった」 「いえ…………」  理恵子も言葉が少ない。  比呂志は幾分落ち着きを取り戻していた。湯浅の急死はショックだったが、電話をして きたのが香里だとわかったからだ。まだ詳しい事は何も聞き出していないが、少なくとも 香里の身にまで何かあったわけではないようだ。 「それで、湯浅はなぜ死んだんだ?」  改めて訊ねた。 「白血病……だと思います」 「思う?」 「詳しくは聞けなかったんです。もう完全に放心している感じで……でも、多分」  比呂志は怪訝な表情を崩さなかった。改めて自分の記憶を辿り、湯浅が白血病などとい う話は一度も聞いていないことを確認した。 「お前、湯浅が白血病だなんて、いつ聞いたんだ?」  しかし、理恵子は押し黙ったまま、何も言わなくなってしまった。  仕方なく、比呂志は過去の湯浅の姿を思い出していた。  最後に会ったのは……二年前、家族ぐるみで旅行に行った時か。一時期身体を壊してい たが、大分体調がよくなったからと言って、湯浅の静養も兼ねて高原のコテージを借りて 一週間を過ごした。  あの時の湯浅はどうだった?いや、湯浅は元気だったはずだ。肌は少し青白くなってい たが、その前の入院中に見たときよりは顔もふっくらして、体力も多少だが回復している ように見えた。相変わらずよく笑い、面白くもない冗談を言い、子供達の相手をして遊ん でいた。不治の病にかかった男には、とても見えなかった。 (あるいは、俺が勝手にそう思って見ていただけなのか?」)  わからない。仮に湯浅があの時既に白血病だったとして、理恵子に話して俺に話さない 理由は何だ。いくら考えても、納得のいく説明が思いつかなかった。そして理恵子はなぜ、 今日まで俺にその事を話さなかったのか。今はその理由を考えようにも、彼の前にオープ ンにされたカードはあまりにも少なく、推理を進める事は不可能だった。  とにかく、まずは香里に会おう。香里を力づける事が最優先だ。比呂志はそう結論して、 後はひたすら前を向いていた。 一九八八年、春―― 「比呂志さん、お味噌汁のおかわり要りますか?」  理恵子が訊いてきた。 「いや、いい」  比呂志は簡潔な言葉で申し出を断る。簡潔ではあるが、横柄さは感じない。 「俺はもう出る。リコも一コマ目からなのか?」 「いえ、私は午前中の単位はもう取ってますから、午前中は部屋のお掃除でもしてようか と。よろしければ、比呂志さんのお部屋も片付けますけど」  比呂志はほんの一瞬考えた後、首を振った。 「いや、いい。この前掃除してもらったばかりで、まだ散らかっていないからな。ゆっく り自分の部屋をきれいにしてくれ」 「はい」  理恵子は微笑んだ。  今、二人は高校を卒業し、県外の学園都市にある大学に進学していた。今は同じマンシ ョンの三階と四階に一人暮らしをしている。  比呂志が入学した一年後、理恵子が同じ大学に合格すると、比呂志の両親の手配で比呂 志と同じマンションの空き部屋を紹介された。 「どうせなら知ってる人が近所の方が何かと安心」との話だったが、実際にあまり同郷の いない学園生活で、同じマンションに比呂志がいる事は大いに心強かった。  そしてこの一年、理恵子はこうして比呂志の身の回りの世話をしながら、大学生活を送 っているのである。 「さて、と」  朝食を片付け、掃除機を出して部屋の掃除を始める。と言っても、比呂志を部屋に呼ぶ ために掃除は常にしている。今日は部屋の隅やキッチン回りなど、比呂志の目の届かない 場所が主体だ。  比呂志に一年遅れで入学した理恵子は、比呂志のあまりにも無頓着な生活に驚いた。研 究室に入り浸り、部屋にはほぼ寝に帰るだけ、食事は三食コンビニ弁当の比呂志を見て、 理恵子は比呂志の食事を自ら引き受けたのだった。比呂志は最初こそ遠慮していたものの、 次第に理恵子の料理が自身の心身に与える好影響を認め、今では朝食も理恵子と共に食べ ている。  比呂志は大学に入ってもあまり変わっていなかった。寡黙で篤実、人付き合いは普通だ が、羽目を外す騒ぎ方はしない。行動範囲が大学とマンションの往復でほぼ全てと言うの も高校時代と同じだ。  その真面目さが同世代にはつまらないのだろうか、大学での比呂志はそれほど女子から の人気はないようだった。地元なら名士の息子として、その堅実さや真面目さも魅力の一 つとなるが、遠く離れたここの女子大生にとってはただの若年寄にしか見えないらしい。 むしろ、大学に入ってやや軽薄さを増した湯浅の方がよほど女性からの支持は高かった。 「これでよし、と」  掃除を終えた理恵子が満足げに頷いた。比呂志の部屋も掃除をするつもりでいたので、 時間が余ってしまっている。 「今夜のおかず、何にしようかしら。春キャベツでロールキャベツを……お醤油とお出汁 で和風に味付けすれば……」  比呂志に全く女気がないのは、意外ではあったが同時に嬉しくもあった。学園生活につ いては時折噂で聞いていたものの、比呂志が女性と同棲などしていないか、不安はあった のである。  湯浅はよく頼んだわけでもないのに近況を理恵子に聞かせてくれた。そして最後に必ず こう付け加えた。 「来年こっちに来れば、俺の言う事が事実だとわかるから。だから絶対受かりなよ」  もしかすると、眞治さんは私の気持ちを知っているのかもしれない。どうして知られて しまったのかはわからないけれど、飄々として見えて時折鋭い所を見せる人だ、私のちょ っとした仕草に何かを感じたのかもしれない。  理恵子は財布を持つと、部屋を出た。今夜の献立の材料を買いに行くために。比呂志に 喜んでもらうには、どんなアレンジを加えればいいか考えながら。  四月の大学は、どこか浮ついた空気が漂う。  新入生を勧誘するサークルが屋台のようにキャンパスに並び、一人でも多くの新入生を 引き入れようと声をかける。比呂志はこういう雰囲気も嫌いではないが、早く元に戻って 欲しいという気持ちのほうが強い。 「天気がいいせいか今日は特に多いな」  校門で一緒になった湯浅がのんびりと言う。彼は軽音に所属していたが、この半年は完 全に幽霊部員だった。 「もう俺達が勧誘される心配はないけどな」 「去年はまだ稀に誘われたからな。と言っても俺達よりリコちゃん目当ての勧誘だったけ ど」  湯浅が当時を思い出して笑う。 「少しは慌てたか?」 「慌てる?何を」 「……いや、なんでもない」  湯浅は小さくため息をついた。が、比呂志は気づかない。 「さて、我が軽音は今年はどんな可愛い子に声をかけてるかな?」  気を取り直し、いつもの湯浅に戻った気楽な調子で自分の籍を置くサークルを探す。 「お前はこの半年顔出してないだろうが」 「冬はスキーサークルに変身するから参加しないだけだよ。俺は純粋に音楽を語り合いた いの。可愛い女の子限定で」  全然純粋じゃないじゃないか、と比呂志は思った。  比呂志の学年で、この大学に入ったのは二人だけだった。理恵子の学年は理恵子のみ、 地元の話では今年は三人が合格したらしい。大学のレベルが高い事ももちろんだが、それ 以上に都会とは無縁の立地条件が、受験意欲を殺ぐらしい。 「他にやる事ないからこそ恋の相手も見つけやすいんだがねえ」  湯浅はそう言うが、比呂志の目から見て、湯浅が恋の相手を探しているようには見えな かった。適度に軽くて、話も上手く、長身の湯浅は大学生になってからはよくもてた。当 の湯浅もその内の何人かとは短期的に交際していたようだが、長続きした相手は一人もい なかった。高校時代の湯浅はそんなに即物的な恋愛を楽しむタイプに見えなかっただけに、 比呂志には少し意外だった。 「おい、先に行くぞ」  比呂志が声をかけるが、湯浅は 「まだ大丈夫だろ。そんなに急がなくても」 「こんな所にいても、何の用もないだろう。ゆっくり歩いても周りの邪魔をするだけだ」 「そんなだからお前、もてなくなるんだよ」 「放っとけ」  ぶっきらぼうに比呂志は言い返した。比呂志とて木石ではない。女性との交際に興味が ないわけではなく、ただ、付き合うならば誠意を持って付き合いたいと思っているのに、 周りに同じ考えの女性が現れないのである。 「本当に先に行くぞ」 「――おい、ちょっと待て」 「もう待たん」 「違う、あれ、香里ちゃんじゃないか?」  思わず比呂志が振り返る。  一人の少女がサークルの勧誘に前を塞がれていた。明らかに少女は迷惑そうにしており、 断っているように見えたが、勧誘の男は諦めるつもりはないようだった。  比呂志の位置からは顔はよく見えない。  その時、少女が助けを求めるように周囲を見回した。目は合わなかったが、比呂志にも、 湯浅にもはっきりと顔が見えた。 「小金山さん」 「香里ちゃん」  二人が同時に声を発すると、香里も二人を発見した。地獄に仏といった顔で二人に手を 振ってくる。 「湯浅さん、仲上さん」 「香里ちゃん、うちに来てたのか」 「はい。受験前に皆さんに相談しようと思ってたんですけど、連絡先を失くしてしまって ……よかった、お会いできて」 勧誘をしていた男は横から割り込んできた邪魔者に抗議したげだったが、男二人、しかも 小さくはない体躯の二人を見て、何も言わずに退散した。湯浅は横目でそれを追いながら、 「先生に聞けばOB紹介してくれなかった?俺達は教えてもらったけど」 「あ……気が付きませんでした」  香里の様子が、いかにも「気が付かなかった」という感じだったので、思わず比呂志が 笑ってしまうと、香里が恥ずかしそうに 「笑う事ないじゃないですか」  と言った。比呂志は 「いや、悪い。しかし、ここで会えるとは思わなかった。嬉しいよ」 「私も嬉しいです。ここに入るのが夢だったんです」  湯浅が手帳に何か書き込み、そのページを破いて香里に渡した。 「改めて、これ俺達の連絡先ね。もう一コマ目が始まるから詳しい話はまた後で。 そう だな、昼に学食にいて。積もる話はそこで改めてしよう。ね?」  湯浅の提案により、昼に待ち合わせるという事で、その場は散会した。  理恵子が大学に来たのは、昼休みも終わり近く、午後の講義が始まる前であった。  昼休みは昼休みで勧誘はかなりうるさいのだが、理恵子は構わず歩いている。去年もそ うだったが、理恵子は街で声をかけられる事はあっても、サークルの勧誘はほとんど受け た事がない。彼女の大人びた容姿が、新入生に見えないせいだろう。  教室に入り、テキストを用意していると、同じ講義を取っている友人が声をかけてきた。 「おはよ、今日午後からなの?」 「うん、午前中の講義はほとんど取ってないから」 「いいなあ、あたしなんか朝から経済よ。面白くないくせに出席だけは取るんだから」 「それ、私去年もう取ったわよ」 「……落ちたのよ。皆まで言わせないで」  思わず理恵子が笑い出す。 「ごめんなさい。でも、出席さえきちんとしていれば大丈夫よ、あの先生は」 「そうみたいね。去年それを知ってればなあ。てそんな事話に来たんじゃないのよ」  友人は理恵子の隣に座ると、わざと深刻めいた顔を作った。 「ね、さっき見たんだけど、あなたの彼氏――」 「彼氏じゃないわよ」  理恵子が訂正する。 「はいはい。で、その彼氏じゃない彼氏さんさ、さっき食堂で女の子と一緒だったわよ」 「…ふーん、そう」  かすかな動揺を表に出さないよう努めながら、理恵子は気のない返事をした。 「いつもの友達と一緒に、学食で髪の長い娘と楽しそうに話してたの。見覚えないから新 入生じゃないかなあ。結構可愛い娘だったわよ」 「楽しそう」「可愛い」に力を込めて話す友人の狙いは明白だ。しかし、理恵子の注意は 別の単語にあった。  髪の長い新入生。その時理恵子はある名前が思い浮かんだ。その少女であれば今の話全 てに説明が付く。但し、それは理恵子を安心させる事には、全く役立たない事だった。 「ね、聞いてる?」 「え?あ、ええ、聞いてるわよ。でもそれ、もしかしたら高校の後輩かも」 「なんだ、そうなの?」  とたんに興味が失せたように訊き返す。理恵子は声を慎重に制御しながら 「眞治さんも一緒だったんでしょう?それなら二人が共通で知っている新入生なら、高校 の後輩なら全部辻褄が合うじゃない。今年誰が入ったかは知らないけれど、髪の長い女の 子なら心当たりもあるわ」 「つまんない!」  いすに寄りかかり、本当につまらなそうに友人は言い捨てた。その姿に笑いながら、理 恵子の心は笑っていなかった。 「今日、珍しい人に会ったよ」  その日、夕食を食べる時になって、比呂志は理恵子に今日の事を話した。 「珍しい人、ですか?」  何も知らない風を装い、理恵子が訊ねた。比呂志は彼にしては珍しく、もったいぶった 様に間を置いてから返答した。 「驚くなよ、小金山さんがうちに受かって入って来た」 「香里が?本当ですか」  やはりそうか、と思いつつも、声は意外、といった調子で合わせる。 「ああ、昼に学食で話し込んでしまった。それで、今度一緒にカラオケでも行こうという 事になったんだが、一緒に行くだろ?」  比呂志の問いに、理恵子は即答しなかった。比呂志は恐らく、何も隠し事はしていない。理恵子を誘ったのも、本心からまた四人で集まりたいと思っているのだろう。比呂志 にとって、香里との再会は理恵子に隠す事ではないのだ。それがどんな意味を持つかは別 として。 「いや、一応彼女も未成年だからな。堂々と酒を飲ますのは気が引ける。カラオケなら最 近カラオケボックスとかいうのが出来たろう。あそこなら多少大騒ぎしても問題なかろう ということになってな、そこにした」 「眞治さんのアイデアですね、それ」 「そういうことだ」  比呂志は苦笑しつつ答えた。こういう時、湯浅が一番役に立つなど三年前は思ってもみ なかった。 「出来れば、会ってやってくれ。同性の知人がいれば、それだけ心強いだろう。な?」  そう言って比呂志は微笑んだ。 (そんな風に笑われたら……)  理恵子は笑みを返した。比呂志を困らせないために。 「もちろん、付き合いますよ」  それから、再び四人の交遊が始まった。  香里は少し大人っぽくなった。  湯浅と同じ軽音に入る事になり、以前と同じようにギターを担当した。比呂志と理恵子 は時折開かれるライブを観に行き、打ち上げに合流するようになった。  G・Wが終わり、キャンパスに青葉が輝き、校内に落ち着きが戻る頃には、香里もすっ かり新しい生活に馴染んでいた。 「こんな所にもスーパーがあったんですね」  郊外の大型スーパーでの買い物帰りに香里は理恵子に言った。 「少し遠いけど、安いし、野菜が近所よりいいのよ。だから、時間に余裕があるならこっ ちを使ってるわ」  理恵子が説明する。理恵子もこの店を見つけたのはつい三ヶ月前なのだが、あまり見か けない珍しい食材もあり、この店を利用する事が多くなっていた。 「理恵子さんは、食事はほとんど全部自分で作るんですか?出来合い買ってくるんじゃな くて?」 「ええ、そうだけど」 「凄いなあ。私なんて作れるのはシチューとか、カレーとか、そんなのばっかり。それも 市販のルウ使うだけだし」 「私だってまさかホワイトソースから作るわけじゃないわよ。それに、実は洋食はあまり 作らないの。昔から和食ばかり練習していたから」  そう言って理恵子は笑う。実際、この一年でカレーを作ったのは数えるほどしかない。 ハンバーグに至っては皆無だった。言うまでもなく、比呂志の嗜好に合わせた結果である。 「一人暮らしを一年も続ければ、嫌でもレパートリーは増えるわ。毎日外食も出来ないで しょ?」 「そうなるといいんですけど」  香里はまだ懐疑的である。 「大丈夫。きっとなるから」  理恵子が請合う。香里は言葉を継がず、黙って理恵子を見ていた。やがて、思い切った ようにこう、切り出した。 「理恵子さん、比呂志さんの分まで作るんですよね?」  理恵子の肩が小さく震えた。 「え?ええ、そうだけど」 「よく作るんですか?」 「まあ、大体は」  香里が少し驚いた顔をする。比呂志が飲み会などに参加しない限りほぼ毎日なのだが、 香里はそこまでは知らなかったらしい。 「じゃあ、用意しておいたのに食べに来ない日なんていうのもあるんですか?」 「めったにないわよ。急な用事が入った時は私に言うか、留守電に入ってるし」  本当である。もっとも留守電を聞いた時にはもう材料を買っていることも多いのだが。 「――あの、質問してもいいですか」 「ええ、どうぞ」  香里の質問は予想がついた。出来ればそれはされたくない質問だった。まして、香里に は。  だが、拒否するのも不自然に過ぎる。 「理恵子さん、それでいいんですか?」 「……何が?」 「仲上さんはどう思ってるんですか?」 「ありがとうって必ず言ってくれるから、それなりにはおいしいと思ってくれてるんじゃ ないかしら」  微かな苛立ちを表の出さないように努めつつ、理恵子は答えた。 「いや、そういう意味じゃなくて――」 「あ、食費?比呂志さんのお母さん、お米なんかは私の所に送ってくるの。一人だと食べ 物をダメにしちゃう事も多いし、それほど変わらないわよ」  苛立ちが頭痛に変わってくる。理恵子はさりげなくこめかみに手を添えた。 「結構楽しいわよ?自分の料理に感想が返ってくるのって。その方が上達も早いわ」  言いたい事はわかっている。彼女が訊きたいのはそんな事じゃない。でも――。 「よかったら今度うちに遊びに来なさいよ。いくつかお料理教えてあげるわ」  あなたにだけは心配されたくない。 「それは、少しお節介だね」  湯浅が断言した。 「でも、なんだか理恵子さんかわいそう」  香里は引き下がらない。  軽音の会合の後、二人はファミレスで夕食を摂っていた。共にアルコールも入り、話題 はこの場にいない二人に及んでいた。 「ほとんど毎日比呂志さんの食事作ってあげて、お部屋の掃除もしてあげて、あれじゃま るで仲上さんの身の回りの世話焼くためにこっちに来てるみたいで」 「実際半分はそんな理由じゃないのかな。リコちゃんがここ入学ったの」 「……そうなんですか?」 「本人に直接聞いたわけじゃないけど、俺はそう思ってるよ」  香里は暫く考え、最も直接的な質問を選んだ。 「理恵子さん、仲上さんのこと好きですよね?」  湯浅が思わずビールを噴出す。 「いや、すまない…あまりにダイレクトだったもんで」  むせ返りながらおしぼりでテーブルを拭き、無作法を侘びると、香里を軽く上目遣いで 見た。 「そりゃ、物心ついた時から一緒にいて、まだ世話焼きしようってんだから嫌いじゃない だろうね。こう兄妹みたいなもんだ」 「そういう『好き』じゃない事はわかってるんでしょ?」  湯浅は大きくため息を吐くと、姿勢を正して座り直した。相変わらず笑顔だが、相手を からかうような雰囲気はなくなっている。 「………そうだね、リコちゃんの『好き』はそうじゃない」  香里には湯浅が慎重に言葉を選んでいるように見えた。 「でも、香里ちゃんの考えてるような『好き』とも違うんじゃないかと、俺は思ってるん だ」 「違うんですか?」 「少なくとも今まではね」  湯浅の物言いには何か引っ掛るものがある。だが、それが何かは今の香里にはわからな い。 「香里ちゃん、リコちゃんが比呂志には常に敬語なの、気付いてた?」 「え?ええ。でも、それは湯浅さんにもそうですよね?」 「幼馴染だよ。先輩後輩とは違う」  湯浅はビールに口をつけた。 「あの二人は、最初からずっとああなんだ。リコちゃんのお父さんが比呂志の家の酒造所 で働いてるのは知ってたっけ?」 「聞いたことはあります」  以前、そんな話を聞いたことがある。 「親の関係が、そのまま子供の世代に持ち込まれてるんだ。リコちゃんにとって、比呂志 は兄とか、男とかじゃなく……そうだな、主君、とでも言えばいいのかな」 「主君、て、時代劇じゃあるまいし」  香里の指摘は妥当と言える。 「うん、でも、これが一番しっくりくるんだ」  湯浅は言った。 「リコちゃんは比呂志の身の回りの世話をする事そのものに幸せを感じてる。比呂志から ありがとうと言ってもらえれば十分で、それ以上は期待しちゃいない。比呂志がそれに気 付いてるかはわからないけど、少なくともリコちゃんに感謝する事は忘れた事がない。あ れはあれで、上手く行ってたんだよ」  香里は湯浅の言葉を、ゆっくりと検証しているようだった。手にしたフォークで皿をコ ツコツと叩き、時折窓の外を見ながら考えを纏めていた。  湯浅の言葉は、香里の中にも納得できる部分があった。比呂志と理恵子の関係は、言わ れてみれば確かに主従関係に近いものがある。比呂志は理恵子に身の回りの事をしてもら う事に対して、どこか当然と思っているように見える。香里はそんな比呂志の態度が理恵 子に失礼なんじゃないかと感じるし、それで幸せだという理恵子にも本当にそれでいいの かと言う気持ちもある。それを湯浅は本人がいいと言っているのだからそれ以上何も言う 事はないと言うが、なにかが香里の中に引っ掛るのだった。  湯浅は相変わらず笑顔のまま、言葉を続けた。 「ま、なるようにはなるよ。あいつだってリコちゃんの幸せは願ってるんだから、リコち ゃんを泣かせるような真似しないさ」 「でも、もし仲上さんに好きな人が出来たら、理恵子さん、泣かないですか?湯浅さんの 言う事はわかりますけど、今の理恵子さんの『好き』はそれだけじゃなくなってると思い ますけど」 「だとしても、出来る事はないだろう?それとも俺を好きになれとでも言う?」  湯浅の言葉は完全に冗談だった。香里にも冗談である事は通じた。にもかかわらず、湯 浅の言葉は香里に衝撃を与えた。湯浅が理恵子と付き合うという想像は、香里に激しい拒 否反応を起こさせた。困惑の中で、香里は初めて自分の中の感情に気が付いた。  香里は、湯浅を理恵子に取られる想像を拒絶していた。    それから三ヶ月の間、四人は変わらぬ友情を続けていた。心の奥深くでは微妙な変化を 見せていても、それが決定的に四人の関係を変える事などないと思われた。しかし、一つ の事件をきっかけに、微妙だったはずの心の変化は四人の関係を大きく変える事になった。  香里の両親の事故死である。                           了 ノート 最初書き進めていた時、比呂志が少し鈍感すぎ、またなぜか嫉妬深く感じる書き方になったため、大幅に書き直しています。 アニメ本編で比呂美の両親と眞一郎の両親の過去のいきさつについてはついに語られませんでした。ムック本にある初期案と 照らし合わせても、あの初期案だと最終話の「待つって体力いるのよね」に繋がらない(比呂美母との関係で眞一郎父を待つ ような事態が起きていた場合、それは結婚後になってしまい、眞一郎母の嫉妬と片付けられなくなる)ので、この辺りは完全 に謎のままです。初期案で生きてるのは比呂美の両親が事故で同時に死んだという部分くらいでしょうね。 ここでは、理恵子も全てを知っているわけではない、比呂志しか知らない真実があるという構想で書いています。逆に、比呂志 が知らない事も当然あって、その一つが湯浅の白血病を理恵子だけが知っているという事実です。 正直に言うと、アニメ本編の、それも前半の理恵子が比呂美に嫉妬していた頃に繋がる結末になるため、完全なハッピーエンド にはなりません。ただし、後半の比呂美と和解して、比呂美の味方になる理恵子にも繋げるので、まるっきりアンハッピーエンドでもありません。 上手く表現できるか自信がありませんがよろしければお付き合いください。

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