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 前:[[ある日の比呂美・番外編2-8]]
 
 
 比呂美の部屋の水周りは、ロフトの下にコンパクトにまとめられていた。 
 狭いながらも浴室とトイレは別になっており、洗面所の横に洗濯機を置くスペースも確保されている。 
 「……はぁ」 
 情事の後片付けを済ませた比呂美は、仕事を始めた洗濯機の横で髪を乾かしながら深く溜息をついた。 
 唸りをあげるドライヤーの温風に栗毛を泳がせながら、数分前の出来事を反芻してみる。 
 (……どうしちゃったんだろう…私……) 
 冷静さ、というより正気を取り戻した今の比呂美には、先刻までの自分が全く理解できなかった。 
 本当に妊娠を望んでいたのか、ただ中に出されたかっただけなのか…… もうそれも思い出せない。 
 (《気持ちいい》ってことに流されやすい……のかな、私) 
 ……そうとしか考えられない…というよりも、そう考えたいと比呂美は思った。 
 眞一郎との約束された未来を破壊する結果を、自分が本心から望むはずはないのだ。 
 先ほどの異常な行動は、膣内射精による快感を欲した肉体の欲求に、精神が屈服しただけ。 
 それはそれで情けないことなのだが、受胎本能に踊らされて社会性を放棄したのだと認めるよりは、幾分マシと言えた。 
 「……だらしない…」 
 小声でそう呟いて、比呂美が内在する牝を罵倒した時、リビングに繋がるドアが外側から軽くノックされた。 
 「な、何?」 
 ドライヤーのスイッチを切って、ドアノブに手をかける。 
 まだバスタオルを巻いただけの姿だったが、居間にいるのは眞一郎だけだ。 別に恥ずかしがる必要も無い。 
 「雨あがったからさ。俺、先に行くよ」 
 そう掛けられた声に応えて扉を開けると、眞一郎は既に生乾きの制服を身につけ、帰り支度を整えていた。 
 今日は夕食を仲上の家で食べる曜日なので、二人が一緒に帰宅しても別段おかしくはないのだが…… 
 「制服の俺と私服のお前が一緒に帰ったら……ちょっとマズイだろ?」 
 「……そう…ね」 
 眞一郎と比呂美の関係が『一線』を越えていることに、眞一郎の両親は気がついている。 
 しかし、たとえそうでも、『そうではないフリ』をするのが子供としての義務だ。 
 学校帰りの不自然な『寄り道』を見せ付けて、両親に要らぬ詮索をさせる訳にはいかない。 
 《二人の『深い関係』を感じさせぬよう注意を払う》  
 それは大人になる前に性を繋いだ眞一郎と比呂美にとって、周囲に対してしなければならない最低限の礼儀であった。 
 「なるべく、暗くなる前に来いよ」 
 アリバイを気にしつつも、眞一郎は比呂美への気遣いを忘れることはない。 
 玄関でスニーカーを履きながら、「なんなら、着替えてから迎えに来るから」と優しい言葉を投げかける。 
 だがその眞一郎の声は、比呂美の耳には届いていなかった。 
 裸体にバスタオルを巻いただけの美しいシルエットが、何かに憑かれたように窓外へと視線を遣っっている。 
 (ホントだ……晴れてきてる) 
 雨は止んだ、という眞一郎の報告どおり、空を塗り込めていた厚い灰色が、所々ひび割れを見せていた。 
 そして、その割れ目から下界へと伸びる光の橋…… 差し込んでくるオレンジの光。 
 (…………きれい……) 
 世界はもう泣き止んだのだ。 もう美しさを取り戻しつつあるのだと、比呂美は理解した。 
 なのに自分の感情は、反比例するように『不』の方向へと変化したまま、薄闇の中に漂っている。  
 『湯浅比呂美』を置き去りにして、明るさを回復しつつある夕空の輝き…… 
 自身でも解読不能な混乱を抱えた今の比呂美には、その煌きが妙に妬ましく感じられた。 
 ………… 
 「比呂美、どうした?」 
 窓の外を向いたまま固まってしまった比呂美の白い背に、玄関から伺うような声が掛けられる。 
 「ううん、なんでもない」 
 肩を小さくすくめてから比呂美は振り向き、眞一郎の元に駆け寄った。 
 明らかな『作り笑顔』を浮かべる比呂美に気づき、少しだけ陰りを見せる眞一郎の表情。 
 微妙な空気と微妙な感情が混濁し、向かい合う恋人たちの間に、気まずい沈黙が停滞した。 
 「……あの……」 
 重い気配を払い除けようと、比呂美の口が取り繕いの言葉を紡ぎだそうとする。 
 だがそれよりも早く、眞一郎の両腕が前に伸び、比呂美の身体を引き寄せようと動いた。 
 
         [つづく]
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+次:[[ある日の比呂美・番外編2-10]]
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