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「ある日の比呂美・台風編3」(2009/10/29 (木) 12:38:25) の最新版変更点
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竹林のトンネルを抜けて比呂美のアパートへと辿り着いたとき、眞一郎の全身はずぶ濡れになっていた。
家を出たときに持ち出した傘は既に風で飛ばされ、眞一郎は嵐の中を雨具無しで駆け抜けてきたのだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
乱れた呼吸を整えながら、二階の窓を見上げる。
目的の場所……比呂美の部屋だけが、淡い明かりを灯していた。
その暖かな光を目にして、雨粒のせいで〈しかめっ面〉だった表情が緩んでいく。
「……比呂美」
思わず愛しい名を呼んでから、最後の一踏ん張り。
疲れの溜まった両脚を心で鞭打ち、眞一郎はまた駆け出す。
だが、建物の角……二階へ上がる階段の手前で、その脚は止まってしまった。
階段の途中……薄暗い照明の中に人影が見える。
……誰だ?と考えるまでもない…… 決まっているではないか。
「…………」
声が出せなかった。
こちらを見据える湯浅比呂美の様子に、只ならぬモノが感じられたのだ。
「あ……あのさ……」
何か話し掛けようと試みるものの、上手く言葉が出てこない。
無表情に見つめてくる比呂美の視線も、眞一郎の思考を混乱させる。
(怒ってる……んだよな、多分……)
事ここに至って、眞一郎はようやく、己の行動の無謀さを自覚した。
〈伊勢湾台風〉並みと報道された災害の当日…それも深夜に外出するなど、冷静に考えれば正気の沙汰ではない。
何よりも、電話を切ってから自分の姿を確認するまでの数十分……比呂美がどれ程の心労に苦しめられたことか。
ちょっと考えれば分かりそうなものなのに…………
「比呂……」
口から飛び出しかけた謝罪の言葉は、比呂美が階段を下りて来る、カン、カン、という音で遮られた。
風が唸る音を突き抜けてくる、その甲高さが、場を緊張させて眞一郎の動きを止める。
雨風は全く収まる気配がなかったが、比呂美はそれに動じることなく、眞一郎に近づいていった。
二人の距離はどんどん縮まり、遂には互いの手が届く距離になる。
「……眞一郎くん」
眞一郎は口を噤み、平手打ちを覚悟して奥歯を食いしばったが、いつまで待っても衝撃は襲ってこなかった。
代わりに、温かくて力強い抱擁が眞一郎に与えられる。
そして耳朶を打つ「……よかった……」という囁き。
眞一郎の記憶が巻き戻され、比呂美が石動純と逃避行を図ったときのイメージが脳裏を埋めた。
あの時と立場を入れ替えた……今の状況。
怒っていたのに。 見つけたら引っ叩いてやろうと思っていたのに。
……無事な姿を見たら、もう〈引き寄せる〉以外のことが考えられなくなっていた。
……〈抱きしめる〉以外のことが考えられなくなっていた。
……雪の発する冷気も、赤く燃えるバイクも、そして…石動乃絵の存在すらも、意識の外に飛ばしていた……
…………
「ごめん…」
かつての比呂美と同じセリフが、口をついて飛び出す。
それ以外に、自分の思慮の浅さと愚かさを詫びる術が、眞一郎には思い浮かばなかった。
比呂美を守るとか泣かせないとか、いつも偉そうに言っているくせに、自分は一体何をしているのか……
ちゃんと判断できていれば、正しい選択は他にあったはずなのに。
(結局、独り善がりなんだ……俺は……)
二年前の麦端踊りの時だってそうだ…… 肝心なときに、自分は比呂美の気持ちを思い遣ることが出来ない。
悔しさと歯がゆさが、身体の内側に広がっていく。
(何やってんだ……俺っ!)
不甲斐ない己に眞一郎が内心で喝を入れた瞬間、比呂美は何かを感じ取り、顔を上げた。
反応して目線を絡ませた眞一郎の視界を、比呂美の澄んだ表情が埋め尽くす。
「……比…!!」
眞一郎に比呂美の名前を呟く間は与えられない。
眞一郎の口が開くよりも早く、比呂美の唇がそれを塞ぎ、漏れ出ようとする悔恨を押し戻していた。
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