春雷-5

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――第五幕『幸せをひとつひとつ』――  仲上家を出た眞一郎と比呂美は、ゆっくりとした足取りで比呂美のアパートへ向かって いた。車道に出てしばらくすると下り坂になり、正面には夜の海が広がっている。その手 前で、赤く光るものがある。三叉路の信号機。  比呂美は、自分が今のアパートに引っ越すときに、眞一郎が自転車で追いかけて来てく れたことを思い出していた。  比呂美に追いつく前に滑って、自転車から転げ落ちる眞一郎。  眞一郎の元へ辿り着く前に滑って転び、眞一郎に体当たりする比呂美。  傍目からではとても感動的なシーンには映らないな、と比呂美は心の中で噴き出したが、 ふたりの関係は、あの日、あの場所、あの台詞から変わっていったのは間違いなかった。 「眞一郎くん、ごめんね、私……」 「いや、俺の方こそ…そのぉ……」  眞一郎は、比呂美が何のことで謝っているのかすぐに分からず曖昧に返した。 「うぅん。私、ちょっと浮かれてた。もちろん、その……いやらしい気持ちで……渡した んじゃないけど、鍵……その……少し期待はしていたかも……」  ごめんねの意味は、合鍵を渡して困らせてしまったことらしい。  比呂美は少し肩をすぼめた。  そんな比呂美の様子に、比呂美は今、自分の正直な気持ちを話しているのだろうと眞一 郎は感じた。 ……浮かれていた……少し期待をしていた……それは俺も同じだ 「比呂美……」  眞一郎は、自分も同じ思いだったことを伝えようとした時、比呂美は立ち止まり、両腕 を組んだまま頭の上へ持っていって背伸びをした。そして、星を見上げたまま、話はじめ た。 「今でもね……たまに……考えるときがあるの……。眞一郎くんいなかったら……私どう なってたんだろうって……。それ考えると、急に目の前が真っ暗になって……深い深い闇 に沈んでいく感じがして……」  眞一郎が初めて耳にする比呂美の心の闇の話だった……。  私は、暗闇の中に立っている。いや、浮かんでいるという感じ。  遠くで、潮騒が聞こえる。  ここは何処だろう? 麦端の海岸? それとも……  お母さんのおなかの中?  潮騒はだんだん、大きくなってくる。  すると、今度は、遠くで男の子の声が聞こえた。  無邪気に笑う声、痛がって泣く声。その声もだんだん、近くなってくる。  あなたは、だれ?  おねえさんと、お話ししましょう?  男の子の背中が見えてきた。この方向で間違いない。男の子に近づいている。肩まで手 が届きそう。手を伸ばして、その子の肩をつかむ、すると。 「ひろみの、ばぁーーか」  振り向いてあかんべぇをすると、男の子は走り出した。 「待って!」  姿はもう見えない。潮騒も聞こえない。  しばらく、何も見えないけど、辺りをきょろきょろしていると、  8才の男の子の声がした。「泣くな、いっしょに歩いてやる」  9才の男の子の声。「やぁーい、なきむしぃー」  10才の男の子の声。「おんなと、遊べるかよぉ」  11才の男の子の声。「バスケット、始めたんだ」  12才の男の子の声。「髪、伸ばしてるのか?」  13才の子の声。「一緒の、クラスだな」  14才の子の声。「おれ、ばかだからさ」  15才の子の声。「みんな、そばにいるから」  16才の子の声。「全部、ちゃんと、するから」 「眞一郎くん?」  天井の方に、何か白いものが見える。先が5つに分かれて。『手』?  その手がだんだん、下りてくる。 「比呂美ィ、つかまれっ」 「眞一郎くん! 私はここっ!」 「つかまれっ!」  私は、必死に右腕を上へ、眞一郎くんの手に向かって伸ばす。だんだん距離が縮まる。 「ここだ、もっと伸ばして」 「んーーーーもう少しぃぃ」  一度指先が触れ合う。もっと、もっと腕を伸ばす。大丈夫、今度はつかめる。  もう一度眞一郎くんの手の位置を確認して、全身を使って眞一郎くんへ伸ばす。 (よし! つかんだ。…………………………あ!!!)  眞一郎の手が透け、比呂美の手が空を切る。  ぃいややあぁぁぁぁーーーーーーーー  そう叫んだ途端、比呂美はものすごい速さで下へ引っ張られる。一瞬で眞一郎の手が見 えなくなる。  眞一郎くん! 眞一郎くん! 眞一郎くん!  待ってぇぇーーーー!  いやぁぁーーーーーーーー!  離れたくない!  誰か助けてぇぇーーーー!  おとうさん!  おかあさん!  ひとりにしないでぇぇーーーー!  お願い!  おねがい!!  かみさまぁぁぁぁーーーーーーーー! 「――んはっ!!」  比呂美は辛うじて現実に引き戻された。ようやく何かの許しが出たように。  目の周りに何かがこばり付いていて瞬きが出来ない。全身も強張って硬直したまま。  しばらくして、眼球を左右に少し動かすことが出来た。左へ、右へ。右の方を見たとき、 何か黒いものが垂直に立っているのに気づいた。  何だろう。よく観察してみる。先が5つに分かれている。『手』? 私の手。  そうか、さっき、眞一郎くんをつかめなかった手だ。  力を入れてみる。動かない。もう一度やってみる。動かない。  諦めかけると、垂直に立っていた比呂美の腕が足の方へ倒れていき、ドスンという音を 響かせた。その衝撃で全身の緊張がようやく解けた。 「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」  呼吸を実感する。 (私、生きてる) ……ここは……わたしのアパートだ……  体を少し起こし、フロアに目をやる。月の光が微かに差し込んでいる。  今度は携帯電話の画面を見る。  4月17日(木) 4:16 (夜明け前……もう一眠りしなきゃ) ……でも……怖くて……眠れない…… (ここは、現実だよね? 眞一郎くんの居る世界だよね?) 「そうなると、もう眠れなくなって……部屋中の明かり全部付けて、テレビも付けて、朝 が来るの待つの……」  あまりにも生々しい比呂美の告白に眞一郎の胸に熱いものが込み上げてきた。 「そうして……私の名前が書いてあるものを片っ端から探すの。生徒手帳、預金通帳、教 科書に書いた名前、後輩からもらった寄書き、眞一郎くんからもらった絵本……」 ――――――――――――――  ゆあさ ひろみ のために 『君の なみだを』   なかがみ しんいちろう ――――――――――――――  眞一郎の目から涙がこぼれ出した。 「比呂美……比呂美……そういう時は、電話しろ。いつだっていい。夜遅くてもいい、夜 明け前でもいい。いつでも会いに行くよ……そばに……ぅ……いてやる……ぅぅ……ぅッ ……」 「もう~泣いてるの?」  眞一郎の泣き顔を覗き込むと、比呂美は少し呆れた顔をした。 「だって……おれ……比呂美を支えられてない。まだまだ支えられていない」 「そんなことないよ……いっぱい、いっぱい守ってもらってる……こうして今も……」  比呂美は、体の向きを変え歩き出した。眞一郎も涙を拭いながら後につづいた。 「そういえば、さっき、眞一郎くんのお父さん、カッコ良かったね。思わず、お父さんっ て呼びそうになっちゃった」 「今度、お父さんって呼んでみな。顔、真っ赤になるぜ」 「……それはまだ……」 (先の……話かな……)  比呂美は眞一郎に聞こえるか聞こえないかくらいの声で呟き、笑顔を星達に見せた。 「え、なんて?」 「ううん、なんでも」 「……それと、母さんのことなんだけど……」  そんな比呂美の横顔を見ながら、申し訳なさそうに眞一郎は切り出した。 「分かってる。おばさんは正しいもの、それに……ちょっと嬉しかった……叱ってくれて ……」 「うれしい?」 「おじさんも、おばさんも、私のこと、想ってくれている。こんなに温かい気持ちになっ たの、父さんと母さんが亡くなってから初めてかも」 「そうか……」 「なんか幸せをひとつひとつ取り戻せていけそう……」  比呂美は噛み締めるようにそう囁いた。  いつもよりずっと長く感じられた比呂美のアパートへの道のり。  比呂美が、いまだに訪れる心の闇を告白してくれたことに、最初うれしさを覚えた眞一 郎だったが、星を見上げる比呂美の横顔を隣で見ていると、徐々に『不安』と『後悔』が 押し寄せて来た。比呂美のそういうところに全く気付いてやれなかった自分に、比呂美を 守ってやることが出来るのかと。  比呂美は、何か『信号』を発していなかっただろうか? ……『合鍵』   これは、純粋に闇に対する抵抗の『表れ』。   俺が、夢の中まで駆けつけることが出来なくても、   この鍵さえあれば、物理的に立ちはだかる扉を開け、   比呂美を、抱きしめ、包み込むことが出来る。   比呂美は、この鍵を渡すことで、   自分が決して闇に取り残されない、と確信することが出来る。  『明るい場所』への道標。   比呂美は、いまだに『孤独感』を感じている。   両親が生きている俺には、理解できない感じ……『孤独感』……   俺は、どうすればいい? 何をしてあげられる? 「ありがとう」 「うん、じゃ、おやすみ」  眞一郎が踵を返し、二、三歩進んだところで、比呂美は、 「眞一郎くん、待って」と呼び止めた。 「ん?」  比呂美は、コートのポケットから鍵を取り出し、特に慌てる風でもなく開錠してドアを 開けた。ドアノブに手をかけたまま、首だけ眞一郎へ向け、表情の無い瞳で眞一郎を中へ 誘った。 「入って」 「え、でも……」  眞一郎は、どうするか迷った。  こういう状況は、幾度と経験していた。たぶん、今までそうだったように、比呂美はキ スしてくるだろう。だが、こういう時に比呂美は何か『信号』を発しているんじゃないだ ろうか、とふと思った。今まで自分がすぐ浮かれてしまい、それに気づかないだけで…… ……比呂美は、何か『信号』を発している?  何かを警戒するように沈黙している眞一郎に、比呂美は、大丈夫よっと少し微笑んで、 「入って」と再びいった。  その言葉に反応したように眞一郎は、ロボットのように足を動かした。  比呂美は、眞一郎が自分の誘いに従ったことを確認すると、ドアの向こうへ移動し、眞 一郎も後につづいた。  比呂美は、靴を脱ぐ動作に入らず、背中を壁に付け、眞一郎を招き入れるスペースを確 保した。やがて、眞一郎が比呂美の正面にやって来る。  誰も手をかけていないドアが閉まり始め、通路側から差し込む光の束は徐々に細くなり、 そして線になり、まもなくバタンと音が響いた。  その音を合図に、比呂美は眞一郎の肩に手をかけ、顔を寄せ、唇を押し付けた。  ほのかにアップルパイの甘酸っぱさと香ばしさが、鼻をくすぐる。  なんてロマンティックなんだろう、私たち少女漫画してる――と自分達のキスが可笑し く思えてきた比呂美は、ゆっくりと唇を離した。  眞一郎も同じこと感じたのではないだろうかと、顔を覗き込んだ眞一郎の目は、青白く 光って比呂美を見据えていた。眞一郎は、瞬きせずに比呂美を見ていた。  様子のおかしい眞一郎に「どうしたの?」と比呂美が言おうとすると、眞一郎の中で、 何かが弾けた。  突然、比呂美の肩を両手で壁に押し付けると、こんどは眞一郎の方から比呂美に顔近付 け、唇を押し付けた。その様子は、もはや押し付けるという行為ではなかった。口と口の 衝突と表現した方が正しかった。  口を相手の口にぶつけては離し、首の角度を変えてまた口をぶつける。  比呂美は、目を見開いたまま動けない。何ひとつ反応できないでいたが、眞一郎の格好 をした目の前にいる『男』のやっている行為に驚きはしたものの、『恐怖』は感じなかっ た。  眞一郎は、五、六回、比呂美の唇をしごいたあと、動きを止めた。  比呂美の唇の裏側にわずかに鉄の味が広がる。眞一郎の眼光は、まだ、青白く鋭い。  初めて見る恋人の姿なのに、比呂美は、落ち着いていた。この年頃の女の子なら、ふつ う、ガタガタ震えてへたり込んでしまうだろう。だが、比呂美は違った。眞一郎の知らな いことがまだ沢山ある、自分に見せない表情がまた沢山あると感じていた比呂美は、何で もいいから、眞一郎の新しい『何か』を獲得したかったのだ。  今は、正にそのチャンス。 ……眞一郎、来るなら、来なさい……私が、受け止めてあげる……  その心の声が聞こえたように、眞一郎は、比呂美の腰に腕を回し、引き寄せ、物凄い力 で、締め付けた。比呂美は、「あふ」と声を漏らし、一瞬呼吸が出来なかった。  そして、眞一郎は少し腰を落とすと、比呂美を持ち上げ、靴を履いたまま、リビングへ 動き出した。  流しを通り越し、リビングに入ると、眞一郎の足と比呂美の足が絡まり、一体となって いたふたりは、バランスを崩し、床にバタンと音を立てて倒れこんだ。  眞一郎は、一緒にその衝撃を受けた比呂美をまったく気にする素振りを見せず、両手で 比呂美の両肩を床に押さえ付けた。  比呂美の髪が放射状に広がり乱れた。 ……眞一郎、さあ、どうする?……もっと、私に見せてくれる?……  眞一郎は、今まさに、『ウサギ』を捕らえた『野生の狼』そのものだった。欲望のまま この『ウサギ』を喰らうことが出来る。どこからかぶり付こうか舌なめずりをしている状 態。  比呂美は、『狼』そのものの眞一郎をじっと観察していた。そして、頭の中で、眞一郎 の次なる動作にどう応じようか冷静に考えていた。  どうやったら、もっともっと眞一郎を引き出せるか。  全身の力を抜く、そうすると自分に覆い被さっている眞一郎が少し沈み込んできた気が した。  静かだった。この季節に虫の声は聞こえない。風の気配もない。月の光がカーテンの隙 間から差し込んで来ているだけ。 ……わたしたち……これから、やっちゃうんだ……  この『狼』はじっとしているが、何か葛藤しているのだろうか。比呂美が大きく瞬きを すると、『狼』次の行動に移った。  比呂美の肩を押さえていた手が、両胸をつかんだ。数回、強い力で上下させると、眞一 郎は、その膨らんだ胸の間に鼻を埋(うず)めた。そして今度は力を抜き、優しく、感触 を確かめるように揉み出した。 ……眞一郎くん……コート脱がした方が、もっと気持ちいいよ……  比呂美は、眞一郎の背中にゆっくり手を回した。そうすると、この『狼』の存在が、 『男』へと変化したように感じた。 ……私、下腹の奥の方が、熱くなってきている。濡れてきている?   私、生まれて初めて、『男』というものを意識している。  『男の子』ではなく『男』。   私の体に、新たな生命、『赤ちゃん』を宿す切欠になる存在、『男』。   私のお母さんが、そうだったように。   私を、母親にする存在、『男』…… ……私が、初めて好きになった『男』、『仲上眞一郎』。   私を心配してくれる、守ってくれる、大切にしてくれる。   私は、彼が初めて好きになった『女』。   今、こうして『私』を、求めている。   お互いに、初めての『行為』。これは、奇跡? それとも必然?   私は、この『男』に捧げてもいい、『女』を。   たとえ、たとえ、この先、結ばれることがなくても、   私は、この『男』に捧げてもいい、捧げたい。   一生、後悔しない。絶対に、後悔しない。   絶対に……  比呂美の目から涙が溢れ、やがてこぼれ、耳へ到達した。比呂美の胸を愛撫しつづけて いた眞一郎は、眠りから覚めたように顔を上げ、手を離して床に付きゆっくりと体を起こ した。が、まだ、比呂美の涙にまったく反応を示さなかった。 ……どうだった? ……さあ、つづきをしましょう……  比呂美の無言で誘ってみたが、眞一郎は、その甘い誘いを無視するように、いきなり比 呂美の制服のスカートの中に右腕を滑り込ませた。  比呂美は、一瞬何がはじまったのか分からず、無防備にその進入を許してしまった。  眞一郎の右手は、何の躊躇いもなく、比呂美の太ももをガイドに秘部へ直行した。間も なく到達すると、中指を立て、下着越しに割れ目の形状を確認しだした。  比呂美は、咄嗟に眞一郎の右腕を自分の利き腕でつかむが、まるで歯が立たない。上半 身を起こし、もう一方の腕を加勢に回し、何とか眞一郎の手を引き剥がそうとした。  その時、比呂美は、眞一郎の『獣』のような目を見てしまった。  そして、比呂美は、大変なことに気付く。 ……眞一郎くんが、このまま『自分』を取り戻さず、私を犯してしまったら、どうなる? ……初体験が、『湯浅比呂美』と『仲上眞一郎』ではなく、  『湯浅比呂美』と『狼男』になってしまう。   眞一郎くんは、『私を傷つけない』と、心に誓っている。   もし、自分を見失っている状態で『私』を傷つけてしまったら、   彼は、一生、後悔するだろう。心の傷になるだろう。   私が、どんなに、彼を許しても、彼は、『自分』を許さないだろう。   そうなると……私を見てくれなくなる、見られなくなる。   それは、ダメ! せっかく、お互い好きになったのに。   それは、ダメ!   なんとかしなきゃ。   とにかく、この『獣』を『仲上眞一郎』に戻してあげなくては。   それから、愛し合わなくては……  比呂美は、ありったけの力を両腕に込めて、眞一郎の腕を引き剥がそうとする。  眞一郎も両腕を使い、欲望に身を任せた行為をつづける。  比呂美のスカートは捲れあがり、足の付け根まで露になっている。ドタバタと靴が床を 叩く音が不規則に響いた。 「眞一郎くん、待って!」  比呂美の声は眞一郎の心にまだ届かない。 「もぅ……だ…め……いゃ……」  比呂美は、拒絶の言葉を使うか迷う。もう腕が痺れてきていて抵抗を続けられないと感 じていた。そして、仕方なく、ありったけの力を込めて叫んだ。  ぃやめてえぇぇぇーーーーーーーー!!!  その悲鳴は、部屋に反響し何倍にも増幅した感じがした。おそらく、3部屋隣くらいま で聞こえただろう。  眞一郎は、電源を強制的に落とされたロボットのように、ピタッと動きを止めた。まる で、彼の『時』が止まったかのように……  とりあえず比呂美の声は、眞一郎の心に届いたようだ。しかし、まだ予断を許さない。 何が切欠となって、眞一郎が先ほどの状態に戻るか分からない。  比呂美はおそるおそる眞一郎の下から抜け出す。ゆっくりと眞一郎の両腕を動かし、自 分の両腕を床に付いてお尻を滑らす。  眞一郎はまだ動かない。  比呂美は、スカートの乱れを直しつつ立ち上がり、眞一郎の居る場所と反対側のテーブ ルの向こう側へ移動した。眞一郎の様子をしばらく立ったまま観察する。  眞一郎は動きを見せる気配はなかったが、雰囲気は『眞一郎』に戻りつつあった。  比呂美は、このまま眞一郎を帰してはいけない気がしていた。先ほどの『獣』の正体も 『眞一郎』の一部には違いない。その証拠に比呂美は、驚きはしたものの、恐怖はまるで 感じていなかった。 『男の本性』だと理解していた。  ただ、『男の本性』と『女の本性』を剥き出しにしたからといって、お互いに何か得る ものがあるのだろうか? 絆が深まるというのだろうか? 比呂美はそう疑問に思った。  それは、まるで『動物』ではないか。 『人』には『心』がある、『感情』がある。  その上で結ばれなければ、私たちの『関係』は、終わる……。 ……いま、彼を、優しく包んであげなくては……  比呂美は、コートを脱ぎ二つに折って、テーブルの上へ置いた。  左脇にある制服のスカートのファスナーに手を伸ばしはじめて気付いた、靴をまだ履い ていることに。出来るだけ音を立てずにその場で脱ぐ。そして、スカートのファスナーを 下ろす。  チーーーーーー  その音が部屋に広がると、眞一郎は、ハッと顔上げ比呂美を見た。 「あっち、向いてて」  眞一郎は、体勢はそのままに首だけクリッと反対側の壁に向けた。比呂美は、スカート を脱ぎ、コートの上に重ねる。次にブラウスのボタンに手をかけた。  まず、袖のボタン、そして、体の前のボタンを上からひとつ、ふたつと外し、肩を剥き 出させる。両腕を少し後ろに回して、ストッとブラウスを落とすと、下着を胸と腰だけに 身につけた少女が、差し込む月の光に浮かび上がった。  比呂美は、ロフトへの梯子に手をかけ上りだし、数段上がったところで留まった。 「服、脱いで、きて……」  その言葉に眞一郎はまたハッとし体ごと比呂美に向け、上がっていく比呂美を目で追っ た。比呂美はロフトの奥へ進み、布団の中へ潜り込む。  そして、上半身だけ布団から出し、枕元の奥に置いてあるティッシュペーパーの隣のコ ンドームの箱をつかみ、開封した。  眞一郎は、全身、冷や汗を掻いていた。先ほど、この床で繰り広げられた自分の行為が フラッシュ・バックしてきた。 ……おれは、好きな女の子を、犯そうとしたんだぞ……  比呂美に許しを請いたくてロフトを見上げても、彼女の姿は見えない。全身がガタガタ 震えだした。 ……親父との約束は、何だったんだ。   それより、ずっと、自分に言い聞かせた気持ちは? 偽物か?   俺は、未熟だ。俺は、未熟だ。俺は、未熟だ。   比呂美を守る? 比呂美を傷つけない? 比呂美を大切にする?   できてねぇーじゃん、おれっ!   なにをやってるんだ、おれっ!   こんなに好きなのに、どうして傷つけてしまうんだ、いつもいつも!   だれか…   だれか、教えろぉーー! 「比呂美ッ!!」  いきなり静寂を破る声が響く。  比呂美は、力強く自分を呼ぶ眞一郎の声にびっくりして、つまんでいたコンドームの袋 を落としてしまった。  次の瞬間、ドタドタとけたたましい音が、フロアから響いてくる。 「許してくれっ!」  比呂美は慌ててロフトから身を乗り出し、どうしたのか確認したが、眞一郎の姿はもう そこにはなかった。  バタン  入り口のドアが、虚しく嘆いた。  ぁあぁぁーーーー 帰してしまったぁーーーー  比呂美は、布団の上に大の字に横たわり、額に手を当てた。 「ぐあぁぁーーーー」  大失敗感。バスケの試合で、このフリースローを決めれば勝負が決する時に外したよう な感じだった。  でも、今ここでのことで、ようやくはっきりしたのだ。眞一郎が抱えているものが、は っきり比呂美に分かったのだ。 「はやく……早く……眞一郎くんの呪縛を……解いてあげないと……ね……コンドームく ん?」  比呂美は、耳元にあったコンドーム袋を、ポイッと、フロアへ放った。  ペチッ  その音は、何の慰めにもならなかった。

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