前回 はじめての外泊=2 《 三 あせっちゃった……》 (やっぱり、わたしたち……。まだまだ、子供だ……) 台所を通って、脱衣所のドアを閉めた比呂美は、いつのまにかに少しずつ溜まった心のもやを一気に吐き出すようにため息をついた。ため息をついた直後、比呂美自身も驚いてしまう。こんなにも緊張していて、ストレスを溜めていたことに。(どうして、こんなに、疲れてるんだろう) 自問する比呂美。知らず知らずのうちに必死になっている自分がいる。確かに、眞一郎への想いは真剣だし、嘘偽りない。眞一郎のことがいつも心の真ん中にある。だからといって、いまさら眞一郎によく思われたいなどと思って自分を作ったりはしない。そうする必要はないし、それ以前にそんなことをするのは嫌いだ。でも、なにか、なにか心の奥底に引っかかるものがある。ずっと、ずっと奥に、意識の光が直接届かない窪んだところになにかある。たぶん、ひとつではなく、いくつかあるんだ。石動乃絵とのこともそのひとつなのかもしれない。(いするぎ、のえ? なんで思い出してんだろう?) 比呂美は顔を上げ、辺りを見渡した。壁にあるスイッチの常夜灯を頼りに灯りをつける。今どきの建築コストをケチったアパートと違って、脱衣所が広く感じられる。ドアを入って突きあたりに洗濯機が置かれ、左手に洗面台がある。右手が風呂場になっている。洗濯機の天蓋の上に胸の前に抱えたものを置き、洗面台の鏡を見る。自分がいる。『女』がいる。湯浅比呂美という『女』がいる。鏡に映る自分を見て、比呂美は自分のことを『女』だと認めざるを得なかった。明らかに、自分の姿はもう『少女』ではなかった。どんなに幼いフリをしてもそれにはもう戻れないのだ。そう思うと、自分の背中の向こう側にあった、今まで歩んできた道が消し飛んでしまったような感覚が襲ってきて、全身がぶるっと震えた。まるで崖に背を向けて立っているような気分だ。振り返れない。振り返ったら、体の重心が移動して崖から落ちてしまうかもしれない。比呂美は鏡に右手をついて体を支えた。鏡に寄りかかっていれば少なくとも後ろへは倒れない。その代わりに鏡の向こう側の自分との距離がおのずと縮まる。ふと理恵子の言葉が頭の中をよぎった。――わたしがそのくらいのことで、おたおたするとでも思ったの?(おたおた?) 比呂美は鏡に映る自分の目を見つめる。右目と左目を交互に確認する。その度に小刻みに瞳が揺れる。定まっていない気持ちを表すかのように。歯痒さがこみ上げてきて顔をしかめる比呂美。(わたしは、おたおたしている? もしそうだとしたら、なぜ?) その問いかけに対して、比呂美は明確な答えを導き出すことはできなかったが、漠然とだが、ひとつ閃いたことがあった。理恵子の言葉を思い出したことが、その憶測を生んだ。 金沢行きを直談判したとき理恵子は、金沢行きを許す条件として、初体験の有無を比呂美に白状させた。ふつうに考えれば、眞一郎に無理やり体を求められ、最悪な初体験を比呂美にさせたくないという思いやりからだろうが、よくよく考えれば、いや、よくよく考えるまでもなく、眞一郎と体の関係をもっていることは早い段階でバレバレなはずなのだ。理恵子は巧妙にそのことに気づかないフリをしてきたに違いない。 だとしたら、いまさら比呂美に初体験を告白させる理由がどこにある? 保護者としての最低限の義務? 比呂美のことはちゃんと気にかけているという意思表明? おそらく、こういうことなのだろう――。 比呂美みずから性体験について語るということに意味がある。比呂美がそのことについて一度でも口にしてしまえば、理恵子としては比呂美に対してセックスについて言及しやすくなる。暴露してしまったことを隠そうとすることは意味がないし、不自然だからだ。でも、眞一郎との秘密をひとつ打ち明けたからといって、比呂美の気持ちが楽になるかといえばそうではない。比呂美は理恵子に対して今後正直に話さなければならなくなり、性体験において間違った方向に進展しないようにしなければならなくなるのだ。つまり、比呂美は理恵子にはっきりと、セックスについての責任を背負わされたことになる。理恵子は、比呂美の性格を熟知した上で、比呂美が自発的に性に対する抑制をもつように誘導したのだ。(おばさんは、最初からそのつもりで……) 比呂美は、三つ編みを体の前にもってきて、毛先を縛っている飾りゴムを外した。もともと三つ編みのクセをもっていないストレートの髪が、花びらが開くように広がった。三つの髪の束を毛先のほうから順々にほぐしていく。大海に放たれた魚のようにピチピチと髪がはじけ、三つ編みにするときは大変苦労したのに、そのことが嘘のように比呂美の髪は元どおりになった。「せきにん……。責任……」と比呂美はつぶやいてみた。「責任をもって、育てます。か……」以前、理恵子が言った言葉も自然と口から出てきた。 傍から見るとある程度の放任とも取れるヒロシと理恵子の態度だが、いろんなところにふたりの熟慮の痕跡があった。こんどは……、これからは、自分たちが考えて行動していく番だと、比呂美のことを冷静に見ているもうひとりの比呂美が耳元でささやいた。 ワンピースの一番上のボタンにかけた手が止まり、しばらくその形状をなぞった。その仕草はためらいからくるようなものではなく、すぐ先の未来にある選択肢のひとつを手繰りよせるような動きに見える。やがて、指はそのボタンに衣服に設けられたスリットをくぐらせようとする。思いのほか簡単に第一番目のボタンが外れた。布地が左右にはだけることによって、胸元への道が開かれたように感じられる。比呂美は、鏡を見てはだけた部分に目をやる。そのあと、鏡に映る自分の姿の印象を確認する。急に体の芯が熱くなるのを感じ、一気にこのあとのことの妄想が膨らむ。いずれ裸になり、眞一郎がそばにいることが脳裏に描かれる。さらに次々とイメージが滝のようになだれ込んできたが、さきほど耳元でささやいたもうひとりの比呂美がその流れを断ち切ってしまった。(早く、シャワー、すませなきゃ……) 二番目、三番目と、ボタンを次々に外していき、胸から下腹まで完全にワンピースがはだけた。比呂美は、後ろに両手を回して蝶々結びになっている帯を解いてから、ワンピースを足先のほうへするすると下ろしていって脱いだ。スリップも同じ要領で脱いでしまうと比呂美の体をまとっているものは、ブラとショーツだけになった。淡いオレンジ色の上下お揃いの下着。比呂美がオレンジ系統の色の下着をつけるのは初めてだった。夏休みに入ってすぐに新調したもので、まだ眞一郎の目には触れていない。比呂美は鏡に背を向けて、自分の後姿を確認する。海水浴のあとの日焼けにまだなじめないような違和感を覚える。オレンジ色って似合わないのだろうかと、考えながら鏡に体の正面を向ける。 この鏡の向こうは、和室。比呂美は耳を澄ましてみる。――静かだ。眞一郎が何かしている気配は伝わってこない。もう寝てしまったんだろうか。大きく深呼吸してから比呂美は下着を脱ぎ、風呂場に入った。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ 眞 ┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃ ┃比呂┃ ┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― ゴーというガス湯沸器の働く音が壁を伝って届いてきた。その直後、サーというお湯の噴き出す音がだんだんと、はっきりと聞き取れるくらいの音量になった。それは窓から飛び込んでくる虫の声や街の雑踏に似た周波数だったため、シャワーの音の聞きはじめに聴覚が軽い混乱を引き起こしたが、それらの音源の方向がまるで正反対だったので、すぐに耳が慣れてシャワーの音に耳を澄ますことができた。やがて、ちゃぱちゃぱと水の塊がはじける音が混じりはじめる。いま、比呂美の裸体に無数の水滴が素肌のラインをスキャンするように着陸して離陸していく。もし、『水』というものに『記録』という能力があれば、比呂美の体を完全に再現することができるだろう。そう思えるほどの無数の水滴が、比呂美の体を舐めていく。 もう、いいだろう。比呂美が風呂場に入るのを待っていた眞一郎は、立ち上がった。もうだいぶ前から感じていた下半身の立ち上がりを直すため、トランクスの中に手を入れて『それ』をきれいに垂直にした。完全な勃起まではまだまだだったが、明らかに膨張の一途をたどっていた。 今夜――比呂美はどれくらいのことを許してくれるだろうか。どれくらいのことを許すつもりでいるのだろうか。ふっと眞一郎の頭の中にそんなことがよぎったが、基本的にクールに努めている比呂美の気持ちを探るのは、難しい。そのことで眞一郎はいつも頭を悩ませていた。そっけない態度をしていたかと思えば、いきなりスキンシップを求めてきたり、少しリーダーシップを発揮しようとすれば、妙につっかかってきたりした。とにかく、比呂美は多感でころころと表情を変えた。このことは比呂美自身も自覚しているらしく、度が過ぎれば素直に謝ったので、仲をこじらせることはなかった。 それに、眞一郎の中にはまだ、小学生のころの純真で天真爛漫な比呂美のイメージが多くそのままで残っていた。だからどうしても、まだつかみきれない比呂美の気持ちと、もともと比呂美がまとっていた清純なベールを汚してしまわないかと、眞一郎は比呂美に対して何かをするにしても無意識的に恐れを抱き、一歩手前のところで抑制していたのだ。その枷を外すのはいつも、比呂美が表す明確な意思だった。ただ、急速に体の発育が進む時期にさしかかっているふたりは――特に眞一郎は――そういうことに居心地の悪さを感じはじめていた。なにか違う、なにか不自然だと。この部屋を訪ねてきた比呂美の姿をはじめて目にしたとき、ほんの一瞬、なにか自分が非難されているような感じを覚えたのがその証拠だ。素直に喜べないものがあった。 ちゃぶ台の上に目を移せば、紙コップがひとつと紙皿がひとつ残されている。急に喉の渇きを覚え、新たにコーヒーを注いで飲んだ。馴染みのコーヒーの香りが眞一郎の緊張をほぐしていく。(比呂美は、いつもひとりで話をつける。アパートに引っ越すときも、きのうも……) やれやれという感じに軽く鼻から息を吐いた眞一郎は、ちゃぶ台の上を片付けだした。残っているカツサンドは冷蔵庫にしまっておいたほうがいいだろう。紙コップは流しに持っていってすすいだ。それから、ちゃぶ台を壁に寄せてマットレスを敷くスペースを作った。 シャワーの音は変わりなくつづいている。その音よりも大きな物音を立ててはならないような気持ちが湧き起こる。この音は、いま比呂美が無防備でいることの象徴なのだから、常に意識していなければならないのだ。 そういえば、比呂美は三つ編みをしたままシャワーを浴びるのだろうか――眞一郎は、ふとそう思った。長い髪をしていながら、比呂美は髪型をいじりたがらないことも思い出した。比呂美の母親も今の比呂美と同じようにさらさらの長い髪をしていたので、なにか特別な想いが秘められているのだろうと思い、眞一郎は髪の話を持ち出すことはしなかったし、ふざけているときも比呂美の髪だけは乱暴にいじったりしないように注意していた。 小学五年生の比呂美が三つ編みにしてきた日――比呂美が妙に落ち着きがなかったのを眞一郎はなんとなく憶えていた。比呂美が珍しく三つ編みにしてきたので、比呂美の周りの女の子たちは寄ってたかって似合う似合わないだのわいわいやっていた。そのせいで比呂美の微妙な変化に気づくものはいなかったかもしれないが、その頃すでに比呂美に対して淡い恋心を芽生えさせていた眞一郎はそうではなかった。その比呂美の異変が決定的になったのが、その日の学校帰りのことだった。比呂美を偶然見かけて(今になって思えば、比呂美は故意に眞一郎を待っていたのかもしれないが)学校での様子を比呂美に訊こうとしたまさにそのとき、比呂美はすごい勢いで走り去ってしまったのだった。そのあと、当然のことながら眞一郎は、ほんとうに失恋したみたいに落ち込んでしまった。――そんな幼い頃の記憶の輪郭をなぞりはじめたとき、急に首から上が熱くなるのを感じた。その熱気は胸へ下りていき全身へ広がっていった。眞一郎はとんでもないことを思いついてしまったのだ。男女の性についてある程度の知識と経験を得たから分かること――その日、比呂美が三つ編みにしてきたのは、『女の子』にとって特別な意味があったからではないかと。 おそらく、比呂美の体が『女の体』としてはじまった日――。三つ編みは、比呂美の母親が記念として結ってあげたのだろう。それでは、『今日』という日に三つ編みをしている意味はなんなのだろう。眞一郎は、いつのまにか右手の拳であごをさすり、部屋の真ん中で突っ立ったまま考え込んでいた。 大事なことは、眞一郎あての何らかのメッセージが三つ編みにあるかということだ。 昨日、比呂美は、ヒロシと理恵子に外泊の許しをもらった。比呂美の語ったことがほんとうにしろ、そうではないにしろ、相当な覚悟をもっていたことは間違いないだろう。許しが下りなくてもほんとうにここまで来ていたかもしれない。眞一郎との恋愛関係について理恵子の気持ちを確かめたかったと比呂美はいったが、いま冷静になって考えてみればそれだけではない気がしてならない。理恵子の本音を引き出すのには、鋭くて大きな矢のような気持ちをぶつける必要があって、ちょうどタイミングよく眞一郎が泊りがけででかけるという状況になったことは比呂美にとって願ってもないチャンスだったのだろうが、なにかぽっかりと穴が開いた部分があると眞一郎は思った。そう、眞一郎には何の相談もなかったことがそれだった――。比呂美が外泊のことを思いついたのは昨日今日のことではないはず。おそらく、金沢でのボランティアの話が出たときから、いや、もっと以前から比呂美は機会を待っていたのだろう。 それでも、比呂美がひとことも相談しなかった理由を眞一郎はなんとなく分かった。比呂美は理恵子と完全に一対一で対峙したかったのだ。だとしたら、三つ編みは、比呂美なりのなにかのけじめ、なにかと決着をつけた証なのかもしれない。女性は失恋のあと髪を切ることがよくあるというように、髪型を一時的に変えるということだけでも、女性にとっては深い意味がありそうだ。もっと時間の幅を広げて考えてみたほうがいいかもしれないと眞一郎は思った。 比呂美の三つ編みについて、流れをみてみよう――。 小学五年生、おそらく初潮があった。 比呂美の母親に手伝ってもらうかして、三つ編みにした。一日だけ。その日、比呂美は眞一郎を避けたが、単に恥ずかしかったのだろう。 高校生になり、眞一郎に長年の想いを告白。交際をはじめ、初体験。 その事実を、外泊の許しと引き換えに、母親(理恵子)へ告白。 次の日、三つ編み再び。 そして、いままさに比呂美の望みどおりの、ふたりきりの、はじめての外泊――。(比呂美……。まさか……) 比呂美は、女の子にとっての一大事に三つ編みにしている。初体験のときは、まだ理恵子との関係が微妙な時期で精神的余裕がなかったのかもしれない。 眞一郎は顔を上げ、シャワーの音がする方を向いた。虫たちの声が薄れていき、どくんどくんという鼓動が頭蓋骨に響いた。胸が締めつけられるように息苦しい。どうしてこんなにも苦しいのだろう。全身にかかる重圧を眞一郎は感じた。この緊張感は、性的興奮からくるものでは決してなかった。その証拠に眞一郎は今、勃起していない。以前この感覚に陥ったときのことを眞一郎ははっきりと憶えている。それもごく最近の出来事。そう、あの、ヒロシにいきなり殴られたときのことだ。 知らぬ間にちゃぶ台で打ったあごをさすっていたことに気づき、眞一郎はハッとなった。夢のときみたいに、いきなり部屋の中にだれかが現れたりしていないか、部屋をひと通り見回した。音を消したままの液晶テレビ、壁に寄せられたちゃぶ台、眞一郎のスポーツバッグ、比呂美がもってきたバスケット。となりの和室には、比呂美のスポーツバッグが戸の近くに置かれてある。そして、白い敷布団。だれかが新たに現れた痕跡はどこにもない。この部屋には、眞一郎と比呂美以外はだれもいない。眞一郎と比呂美だけしかいない。比呂美のアパートのように理恵子が不意に訪ねてくることもない。 シャワーの音がいったん止んだ。比呂美が体をこすっているのだろうか。比呂美がいつも使っているボディ・シャンプーの匂いがほのかに漂ってきた気がした。 眞一郎は、再び比呂美のスポーツバッグに目をやった。(比呂美、もってきているんだろうか……) 比呂美が金沢に来ることをまったく想定していなかった眞一郎は、コンドームを持ってきていない。比呂美はどうだろうか。普段の比呂美なら間違いなく準備してくるだろうが、理恵子に体の関係を告白したあとで、理恵子と何らかの約束を交わしていたら、そうではないことも考えられる。(あれ? 前にもこんなことが……) 眞一郎は、既視感にとらわれた。比呂美がここに来る前のうとうとしていたときに見た夢みたいではないか、と眞一郎は思った。比呂美がいないところで、コンドームの有無を確認しようとする。夢の中ではプライバシーを侵してその存在を確認したが、いまもそうすべきだろうかという考えが渦を巻いた。だが、眞一郎はすぐ、それを振り払った。(いいわけないじゃないかっ) 比呂美のスポーツバッグから視線を切って、眞一郎は和室の押入れへ向かった。マットレスとタオルケットを取り出したところで、シャワーの音が再び聞こえてきた。押入れの向こうは、脱衣所をかねた洗面所。さらにその向こうで、比呂美は全身にまとった香りのしゃぼんを洗い流しているのだろう。眞一郎は、押入れの戸にそっと手をかけ、音を立てないようにゆっくりと閉めていった。ここまで神経質になっている自分がおかしく思えてきたが、こうすることで比呂美を気遣っていることを確認したいのだ。完全に戸を閉めてしまうとひとつ充足感に満たされた。 眞一郎はマットレスを洋室に広げると、和室の戸もゆっくりと閉めた。閉めてしまったあとで、戸の位置がずれていないかも確認した。これで、比呂美に和室を安心して使ってもらえる。だけど、鍵もないし、音もほどんど筒抜けの状態。こんな状態で安心もなにもないだろうが(眞一郎もそんなことは分かっているが)、『比呂美をちゃんと守る』という配慮を少しでも比呂美に見せることが大事なのだ。いまから後の展開しだいでは、そんなのことは無意味になるかもしれないが、安心感を比呂美に少しでも感じてもらえるのが、なんだか嬉しく思えてくる。眞一郎は、テレビの音量をほんの少し上げた。スポーツニュースの音が、もんもんとした空気を部屋の外へ押し出していく感じがした。眞一郎は、マットレスの真ん中にどっかと腰を下ろしてテレビの画面を見た。(おれが、どっしり構えてなきゃ……) シャワーから出てくれば、比呂美は何かはっきりと態度で示すはず。それまで待っていればいいんだ、いつものように……。でも、今回はいつもといろいろと状況が違う気がする。なにか自分だけ取り残されたような感じがするのなぜだろう。その原因はいろいろと自分自身にあると思った眞一郎は苛立ちと腹立たしさを覚えたが、とにかく今はそれらを心の中で噛み殺すしかなかった。(なにか、居心地がわるい……) 比呂美はこの格好で出ていくことにほとんど迷わなかった。でも、眞一郎がイヤな顔をしないだろうかという気がかりは当然あった。不意をついて素肌が露出した光景を見せられると、眞一郎はいつも困惑したように顔を背けていたからだ。これは、どうやら比呂美が仲上家で生活していた間にしみついてしまった条件反射のようなもので、同い年の男の子の家に暮らすことになった比呂美の気持ちを眞一郎なりに極度に気遣った結果だった。この癖は、高校生としてある意味ではまともなのだけど、お互いの体のことを知ってても、もともとシャイな眞一郎にはそう簡単に拭い去れそうにもなかった。(マンガとかだったら、眞一郎くんに目をつぶってもらうのかな……。 脱衣所から顔だけひょっこり出して、『着替え忘れちゃったの。目、つぶっててくれる?』とかお願いしたりして……) あり得ん。自分はそんなキャラじゃない、と比呂美は苦笑いして、クールなのがわたしよ、と顔を引き締めて洗面台の鏡を見た。比呂美が脱衣所に持ってきそこねたのは、綿素材の白い短パンのみ。ブラジャーはもともと寝るときにつけるつもりはなかったので、比呂美の今の格好は、紺色のショーツにTシャツを着ただけ。Tシャツは丈の長いフリーサイズのものなので、ショーツは見えるか見えないかのぎりぎりところで隠れてしまうが、Tシャツの裾をさらに下へ引っ張ってパンチラ・ガードを強化すると、胸に二つの頂がくっきりと形成される。おまけに乳輪が識別できる程度に透ける。このノーブラにTシャツという光景を眞一郎に見せたことがあるだろうかと比呂美は思い返してみた。たぶん、ないはず。それにしても、改めて鏡に映して自分のこんな格好を見ると、ブラジャーひとつだけのほうが清純で控え目に思えてくる。ノーブラ&Tシャツは、明らかに胸の部分はいつもと違う挑発的な形になるし、このまま歩けば、抑制が取り払われている乳房がいつも以上に揺れる。比呂美はつま先立って体を上下に揺すり、胸の部分の変動を確認してみた。二つの頂が、まるで『M』か『N』の字を書くペン先のように動いた。「うわ~」と、比呂美は惨事を目の当たりにしたときように思わず声をもらした。 これは、まだ眞一郎に見せないほうがいいだろう。自分の体のこととはいえ、あまりの卑猥さに首元がかっと熱くなるではないか。いくら体を許しあった仲であっても、急に交際相手の目の前でこういうことに無頓着になるのは『女』としてどうだろうかと比呂美は考えた。恥じらいがあるからこそ、女なのだ。そうでないと、眞一郎に早い段階で飽きられてしまう。 でも正直言うと、この格好を見た眞一郎がどんな反応を示すか見てみたい気もした。今の比呂美には、恥じらいよりもこっちの好奇心のほうが強い。それは、眞一郎がまだまだ自分を抑えているところがあったからだ。いままで眞一郎がいきなり乱暴なことをすることはなかったので、ふたりきりになっても身構えなくて済んだけれども、男の子ってこんなものなのだろうかとささやかな懸念を抱きはじめたのは付き合う前からだった。ガツガツしないところが、眞一郎のいいところだし、比呂美としても好きなところだったけれど、だんだんと、眞一郎の性的嗜好は実際のところ、どんなものなのだろうかと考えるようになった。(これって……物足りなさを感じてるってことなのかな……) 比呂美はそう思うと、ハッとなった。眞一郎のことよりも、自分の性的嗜好はどうなのだろうかと。眞一郎が自分の性欲についてどのような感想をもっているのか考えてみたことがなかった。いつも眞一郎を満足させているという自信があったからだ。でも、その自信はどこからくる? 眞一郎との『行為』の最中、比呂美はわりと、自分の気持ちに正直にものを言ってきた。痛いときは、『いたい』と言い、嫌なことは、『イヤ』と言った。また、自分たちのやっていることが、同世代のカップルと比べて進んでいるのか、遅れているのかを考えるのは無意味だと思っていた。当人同士の意思疎通が出来ていれば、何の問題もないと思っていた。それに、ふたりの関係が、周りの人間にどう映っているのかなど、さほど気にならなかった。しかし、その周囲の目に対する無関心ぶりのせいで、理恵子は多くのことをキャッチしていた。 理恵子は、実の息子の眞一郎のことは当然ながらよく知っているし、夫・ヒロシの性格からもそれを裏づけることができる。また、比呂美の母親のこともよく知っている。比呂美よりも、比呂美の母とかかわった時間のほうがだんぜん長いのだから。そのことから、比呂美の性格も充分把握しているところがある。理恵子が比呂美だけに、セックスについて釘をさしてきたのは、比呂美の傾向を見通した上でのことではないのか。(わたし、普段から、いやらしいと思われているのかな……) 比呂美は、鏡に映る自分に対して肩をすぼめた。理恵子にすべて見透かされていそうで落ち着かない。麦端から遠く離れていても、不意に理恵子が訪ねてきそうな感じがする。こんなにも見えない鎖につながれたような感じがするのは、精神的にまだまだ子供だということなのだろう。眞一郎も、比呂美も、自らの全ての行動に対して責任をとることは、現段階では難しい。またしても、比呂美の脳裏に『責任』の二文字が浮かび上がった。この脱衣所を飛び出して、眞一郎に抱きつけば、間違いなく『性の交わり』がはじまるという、そんな瀬戸際の状況だというのに、こんなにも心にブレーキをかけるものがあるなんて……。(このブレーキが、おばさんのいう責任の果たし方なんだ)「責任をもって育てます」といわれても、比呂美の心には漠然としたものしかなかった。たしかに、経済的なこととか、保護者としての責任については充分理解できるし、一生かけてもお礼しきれないことだと比呂美は思っているが、平たくいえば、それらはお金の問題なのだ。しかし、理恵子は、比呂美の理性の教育までしっかり踏み込んできている。有言実行しているのだ。 比呂美の体がぶるっと震えた。理恵子の圧倒的な存在感に心が怯えたような、そんな寒さを感じた。そして、頭の中は混乱の渦と化した。 そもそも、理恵子の、ほんとうに言いたいこととは何なのだろうか。ほんとうに比呂美に分かってほしいこととは何なのだろうか。ふとそういう疑問が湧き起こった。 表面的には、セックスはまだ早い、避妊は絶対にしなさい――とういうことだろうが、真意は別なところにあるような気がする。だいたい、こんな外泊を許すなんてことはあり得ないのだから。それを許したということは、理恵子は比呂美に、あるいは、ふたりに何かを求めているに違いないのだ。 混乱しているけれども比呂美の頭の中にはすでに、その答えのもととなる、もやもやとしたものがあった。これが理恵子の求めるものだという気がしていた。昨日、理恵子と一対一で話をして、何も感じていないはずがないのだ。おそらく、理恵子が口にした『覚悟』という言葉が、答えへの道標なのだろう。けれど、もう少しのところで答えに辿りつけない。ほんの少し何かが足りないのだ。(眞一郎くんは、どう思ってるんだろう……) 比呂美は、無性に眞一郎の気持ちが知りたくなった。比呂美の独りよがりな作戦とはいえ、半分は親がセッティングしたこの外泊。親の存在が見守る中で、ふたりきりで夜を過ごすという気持ちを知りたい。でも、もしかしたら、このことを眞一郎に尋ねれば、今夜はセックスしないでおこうという結論に至るかもしれない。その確率は少なくないような気がする。さらに比呂美は、自分からアクションを起こせば、今夜のことは壊れてしまいそうな予感を感じた。そうなると、あとは眞一郎に頼るしかない。(眞一郎くん、わたしの気持ちに気づいてぇー) 比呂美は、鏡におでこをつけて眞一郎へ向けて念波を送った。非科学的なことだと分かっていても、眞一郎なら気づいてくれるかもしれないという望みを捨てきれない。捨てたくない。(絶対に、捨てなくない) 比呂美は、洗濯機の上の服やらバスタオルやらをひとまとめにして、胸の前で抱きかかえた。脱衣所のドアを開けたら、現実とつながったような気がしてほっとしたが、下がパンツ一枚だということを思い出したのは、眞一郎が振り向いたあとだった。 ふたりの間になにも起こらないまま、日付が変わってしまった。比呂美の髪を乾かすドライヤーの音が鳴り止むと、肌をちくちく刺激するような静寂がふたりのいるそれぞれの部屋を支配した。いや、正確に表現するならば『沈黙』という言葉が適切だろう。虫たちの声は変わりなく続いていて、眞一郎も比呂美も、明らかにお互いの息づかいを意識していたのだから。ふたりとも意識的に黙っていた。比呂美は、髪を乾かしたあとトイレにいったときも眞一郎に声をかけなかった。眞一郎も寝転んでテレビを見つめたまま比呂美に声をかけなかった。ふたりとも『おやすみ』のひとことすら言わなかった。その言葉を発してしまうと、ほんとうに終わってしまう気がしたのだ。なにが? なにがだろう。ふたりには、なにかと戦っているような感覚がずっと続いていた。たぶん、その戦いに終止符が打たれ、敗北を認めてしまうことになると感じていたのだ。そうならないための打開策を無意識のうちに探っていたのかもしれない。 この小康状態を打破せずにこのまま霧散させ、エッチすることを先に諦めかけたのは意外にも比呂美のほうだった。同情や罪滅ぼしのために眞一郎との恋仲を応援されているという蟠り(わだかまり)を理恵子と一対一で対峙することで払拭して、眞一郎に濃密なスキンシップを求めて、17歳の夏の思い出を作ろうと胸躍らせていた比呂美のほうがである。悶々としているうちに、打算的な考えが比呂美を襲ってきたのだ――。無理やり眞一郎をセックスに引きずり込むのは簡単なことだった。比呂美が一芝居打てば、眞一郎もしぶしぶ応じざるを得なくなる。でも、当然のことながら、比呂美としてはそんなことはしたくない。そうすれば心にほろ苦いものが残り、しばらく引きずることになるだろう。もっとも、眞一郎に愛撫させる以前に、眞一郎が比呂美の誘いを拒否するという可能性を今回の場合は否定できないだが。最悪場合は、喧嘩になるかもしれない。それが、比呂美としては一番こわかった。それならいっそうのこと、危ない橋を渡ろうとせずに流れに身を任せたほうがいいのでは。離れた地で外泊して、ふたりで電車で帰ってくる――それだけでも充分、上等なデートなのだから、それで良しとしようと。わざわざ妙なすれ違いを起こそうとせずに、眞一郎に気分よく金沢での奉仕活動を終えさせたほうがいいのでは。恋人としては、それを優先、応援すべきではないかと比呂美は考えた。 しかし、眞一郎の心中は、比呂美の静観姿勢とはまるで反対で、感情が沸騰しかかっていた。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ 眞 ┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃ ┃ ┃ 比呂┃ ┗━━┻━━┻━━━┛――――――――――――――――(おれが比呂美をハズカシめるとは、これっぽっちも思わないのだろうか……) もうずいぶん前から――比呂美、理恵子、ヒロシの三人に対して、そのような疑問を眞一郎は感じていた。恋人同士とはいえ、比呂美はなんのためらいなく眞一郎をアパートに招くし、ヒロシと理恵子も、眞一郎が比呂美のアパートに出入りしていると知っておきながら、ふたりきりなることにまったく抵抗を示さない。それどころか、理恵子に関しては、比呂美のアパートまで眞一郎におかずなどを届けさせるしまつだ。ふつうならこうだ――比呂美と恋愛関係になった事実をヒロシと理恵子に告げてしまえば、そういったことに口うるさくなり、厳しい目を向けるだろう。そう予想していた眞一郎は、拍子が抜ける思いだった。ただ一度だけ、ヒロシが眞一郎を殴りつけたことを除けば、仲上夫妻には監督意識がないように見えた。このことは、眞一郎のことを充分に信用していると受け取っていいのだろうか。おそらく、それだけではない。この『信用』には何かがくっついていると眞一郎は感じていた。そして、急速に心と体の成長が進む眞一郎には、その正体がだんだんと分かってきた。(おれが比呂美に対して『そんなことはしない』と同時に、『そんなことはできない』と思っているんだ) 比呂美が筋金入りのしっかり者だということもあるだろうが、眞一郎にはまだ、自分の性欲に正直に突っ走る『度胸』や『勇気』がないと思っている。そう見ている。そうだと仮定すると、比呂美、理恵子、ヒロシの三人の言動や行動が、悔しいことに眞一郎には納得できた。(おれは、安全な草食動物ってか?) 17歳の男子高校生がそんなレッテルを貼られることに抵抗を感じないわけがはない。眞一郎だって例外ではない。眞一郎は、いま自分のおかれている状況を、映画のスクリーンにひとつひとつ丁寧に映し出すように振り返ってみた――。 おれは、この部屋にひとりで寝泊りしていた。一週間。明日帰るので、今晩は最後の夜だ。 そこに、比呂美がやってきた。しかも、堂々と、おやじとおふくろに外泊の許しをもらったというではないか。『――眞ちゃんのそばにいるのが一番安全じゃない』とかあさんはいった。 安全って、なんだよ。『――こうなること、予想していなかったわけじゃないの』と比呂美はいった。 おまえは最初から一緒の部屋に泊まることを考えていたんだよな。それに、どうなってもいいと思っている。ほんとうにそう思っているのか? そういえば、サンドイッチを食べたな。ニンニク風味、カツサンド。ニンニクってどうよ。 比呂美は、シャワーを浴びにいく。ノーブラ&Tシャツで出てくる。『――パジャマ、忘れちゃった』と比呂美はいった。 けろっとしていうじゃないか。下は、紺色のショーツ一枚だというのに。 おれが絶対、暴走したりしないと思っているんだな。もしそうなっても、強く拒絶すれば、おれが手を止めてくれると思っているんだな。 だんだん分かってきたぞ、おやじがおれを殴った理由。比呂美と恋愛関係になったと言ったすぐあと、なぜ、おやじが殴ったのか。一発殴ってびびらせておけば、比呂美に手出しできないと考えたんじゃないのか? だから、おやじは外泊をすんなり許せたんじゃないのか。 かあさんは、おやじが殴った意味を考えろと電話でいった。おやじが殴った日から時間がだいぶ経っているから、思い出させて、再度プレッシャーをかけたんだ。 おれはまだ、安全な草食動物なんだ。比呂美に危害を加えない草食動物なんだ。 それなら、それでもいいさ。じゃー、草食動物で、比呂美を守っていけるのか。 おれは、比呂美をただ癒しているだけじゃないのか。 癒し動物がそばからいなくなったから、比呂美は我慢できなくなってここまでやってきたんじゃないのか。 このままじゃダメだ。 男を見せなきゃ、男を見せなきゃ、男を見せなきゃ。 比呂美を守れる『男』を見せなきゃ。 比呂美を守るためには、『男』でなくては。 比呂美は『女』なのだから、おれが『男』でなくては、結ばれることはない。 そうでないと、比呂美を裏切ることになる……。 おぎゃぁ…… おぎゃぁ……、おぎゃぁ……、おぎゃぁ……。 かつて口にした呪文が、眞一郎の口を自然と動かした。それは口を動かしただけで声にはならなかった。比呂美をびっくりさせてはいけないという抑制が無意識に働いたのかもしれないが、心の底からふつふつ湧き起こってくるものを、もはや止めることはできなかった。重力に逆らうように上へ駆け上がってきたものは、ほぼ完全に眞一郎の脳を支配した。 眞一郎は静かに身を起こした。下半身に感じた突っ張った部分に目をやると、当然だよなという風に目を細めた。もう迷いなく固くなっている。じんじんと血液が脈を打っているのが分かる。 眞一郎は静かに立ち上がった。まだ比呂美を驚かせてはいけないと気遣っている。体にしみついた比呂美を気遣う習慣を、こんなときにはっきりと自覚することになるなんて、ちょっとした皮肉だった。いままさに比呂美を犯そうとしているのだから。いや違う。犯そうとしているのではない。眞一郎のほうから比呂美を、比呂美の体を求めようとしているのだ。もし比呂美が強烈に嫌がれば、断念するだけの心の余裕を眞一郎は残している。眞一郎の性本能は、そこまで侵食することはできなかった。眞一郎にとって大事なことは、自分のほうから比呂美を求めるということ。そのことを行動で比呂美に見せ、伝えることができればいいのだ――。 眞一郎はTシャツを脱ぎ、短パンも脱いでトランクス一枚になった。窓からのわずかな空気の流れが非常に心地よかった。それだけ眞一郎の体は火照っていたのだ。 眞一郎はちゃぶ台にあるティッシュペーパの箱をつかみ、和室への扉を睨んだ。(比呂美、思い出をつくってやるよ。一生忘れないような、思い出を……) 眞一郎が和室へ踏み出した一歩は、眞一郎にとって、ここにいるふたりにとって新たな一歩となろうとしていた。 比呂美は敷布団の上で仰向けになっていた。お腹のところまでしかかけていなかったタオルケットを、胸が隠れるところまで引っ張りあげた。どうも乳首が気になってしかたがなかった。朝起きたときのことを考えて、いまからでもブラジャーを着けようかと思ったが止めにした。でもやっぱり着けようか――そんなことを考えていたとき、となりの部屋から眞一郎の呼ぶ声がした。「比呂美……」 しっとりとした、落ちついたような声だった。いつもの、相手の様子を伺ったような声ではなかった。戸を挟んでいたのでそう聞こえたのかもしれない。でも、比呂美は胸騒ぎがした。いろんな意味で胸騒ぎがした。本能的に警戒のスイッチを入れた。「なに?」と比呂美は平静を装って返し、上半身を起こした。 ふたりを包む緊張感とはまるで関係なしに戸が開かれる。速くもなく、ゆっくりでもなく、荒々しくでもなく、静かにでもなく、ただ単にすっと横へスライドした。あまりにもそのことが淡々としていたので、比呂美が次に目にするものとのギャップが際立った。比呂美の視線が、戸の向こうから現れてくるものを待ちわびる。待たせることなく眞一郎は姿を現したが、その格好は比呂美の予想を大きく裏切った。 まず目に留まったのは、上半身の裸。眞一郎の胸。寝るときに脱いだのかもしれないが、視線を下へもっていくと、トランクス一枚なのだ。単なる体温調整で脱いだのではないことは明らか。それに、右手にティッシュペーパーの箱をつかんでいる。もう一度トランクスに目をやると、勃起による隆起がある。眞一郎がいま何を考えているのか、充分すぎるほど分かった。比呂美は目のやり場に困って視線を落とした。 その仕草を見て、眞一郎は比呂美へ近づいていった。「あれ、もってきている?」歩みながら眞一郎は比呂美に訊いた。だが、比呂美の脳には届かない。急に体の芯が熱くなり、血液が激しく脈打ちだしていた比呂美には、眞一郎の言葉がうまく理解できず、眞一郎の問いに反応を示せなかった。比呂美が黙ったままだったので、眞一郎ははっきりと言うことにした。「コンドーム、ある?」「ぁ、ん……」比呂美はようやく問いに気づき、なんとか返せた。 眞一郎は、比呂美の右側に腰を下ろそうとしていた。比呂美はそれを横目でちらっと確認して、和室の奥に、比呂美の左側に移動していたスポーツバッグに身を近づけた。そのとき、タオルケットが胸からずり落ちないようにすることを忘れなかった。バッグの中をあさっているとき、膝を畳につけた眞一郎の視線をはっきりと感じた。下着も入っているんだからそんなに見ないでよ、と抗議してやろうと比呂美は思ったが、そんな余裕はなかった。いつ眞一郎が飛びついてくるか分からなかった。それほど、眞一郎にまとわりついていた求愛のオーラが濃かった。 比呂美はコンドームの箱を取り出すと、体を布団の上へ戻し、眞一郎にそれを差し出そうとしたが、腕を伸ばす前に眞一郎がそれを取りあげてしまった。比呂美は思わずその手を引っ込めてしまう。 眞一郎は、ティッシュペーパーの箱とコンドーム小箱を敷布団の縁近くに、布団の上から手を伸ばせば簡単に届くところに置いた。その置き方は、非常に丁寧だった。比呂美に、ここにちゃんとあるから大丈夫、と念を押しているようだった。 比呂美がいつになく緊張し、警戒しているのが眞一郎にも分かった。当然だろうと思った。それでも構うものか。比呂美がはっきりと拒絶するまでは止めるわけにはいかないのだ。 眞一郎は四つん這いで移動して、比呂美の二本の足をまたいで膝立ちになった。そして、比呂美をまっすぐ見た。比呂美も覚悟をしたらしく見つめ返した。俯くと、準備を終えた眞一郎の性棒が目に入るので顔を上げるしかなかった。瞳に警戒の色を残したまま。 眞一郎の目を見て、木彫りの人形のようだなと比呂美は思った。微動だにしないのだけども、しっかりと作り手の魂が宿っているみたいな、愛に満ち、温かさがあった。そのことで比呂美は少し落ち着けた。眞一郎はこれからどうしてくるのだろう、と考える余裕が生まれた。(ここまでびっくりさせておいて、なにもしなかったらキンタマ蹴ってやるから) そんな比呂美の気持ちを感じたのだろう、眞一郎が口を開いた。「むしょうに……。比呂美のこと、いじめたくなった」「なにそれ」比呂美はわざとむすっとして横を向いた。すぐに首を戻すと、「変なことしたら、引っぱたくから」といって、スローモーションで眞一郎の頬を叩く動作に入った。 眞一郎は、比呂美の右手が自分の頬に到達するをじっと待っている。最後までそうしていると比呂美は思い込んで疑わなかったが、そうではなかった。比呂美の手があと10センチくらいに近づいたところで、眞一郎はその手首をつかみ、上へ引っ張り上げながら比呂美の体に覆いかぶさろうとした。比呂美の左手はタオルケットを胸のところで押さえたまま。両手がふさがっていた比呂美は上半身を支えることができず、見事に背中のほうへ押し倒されてしまった。 眞一郎は比呂美の右手首をつかんだまま、比呂美の唇を奪った。今日、三度目のキスだ。いや、日付がもう変わっているから、今日最初のキスだ。そう思うと、なんだか気分がよかった。 眞一郎が唇を押しあてたまま目を開けると、比呂美も目を開けていた。しかもずっと開けていたような感じだった。漠然とした視線がそこにあった。眞一郎の瞳を追い求める動きがない。そんな比呂美の瞳から比呂美の気持ちをくみ取ることができず、眞一郎は不安になった。比呂美は怒っているのだろうか、嫌がっているのだろうか、なにやってんのこのバカと思っているのだろうか。まったくわからなかった。 眞一郎は唇を離して、比呂美の手首を自由にした。そうしたら、比呂美の瞳に変化が表れた。比呂美が眞一郎の気持ちを探っている瞳の動きだ。「ねぇ~どうしたの?」と、かすれた声で比呂美は言う。「なんか眞一郎くん、変だよ」 比呂美は真剣に眞一郎のことを心配している風ではなく、半分はおもしろがっているような感じだった。「変にもなるさ。比呂美に一週間会えなかったんだから――。おまえは平気だったのかよ」 眞一郎の問いかけに比呂美は少しむっとなった。「そんなわけないじゃない。どうしてわたしがここにいると思ってるの?」 その問いに眞一郎は答えない。代わりに、唇をまた押しあてた。こんどは強く、比呂美の唇を包み込むように絡めた。その情愛に反応して、比呂美の両腕が、まるで食虫植物の触手のように眞一郎の頭部を巻き込んだ。 あぁ、ようやくここまで辿りつけた――。比呂美は涙が出そうになったけれど必死にこらえて、眞一郎の唇をまさぐった――これで、『責任』をふたりで分かち合うことができると頭の片隅で思いながら……。いま、比呂美の頭の中で何かがひらめきかけたが、それを考えるのはあとにしようと比呂美は思う。眞一郎がこんなにも激しく口づけを求めてくるので、それどころではなかったのだ。 野生の本能に目覚めたような眞一郎。苛ついたようなに吸い付いてくる眞一郎の唇の攻撃に、比呂美は必死に応戦した。いまのところ、断然、眞一郎のほうに勢いがあった。それに、比呂美が少しでも慌てたり、たじろいだりすると、眞一郎はそれを察知して執拗に攻めてくるのだ。なんて思いやりがないんだろう、と比呂美はムッとしながらも、反面、感激せずにはいられなかった。初めてだったのだ、こんな無理やり奪われるような行為に快感を覚えたのは。お互いの気持ちがひとつになった先に、究極の快感というものがあると考えていたのに、どうやらそうではないらしい。『男』は『雄(おとこ)』に目覚め、『女』は『雌(おんな)』に目覚めないと新しい扉は開かれないようだ。 雌(おんな)に目覚めるって、どういうことなんだろう――。 比呂美がそう思ったとき、眞一郎の顔が離れていった。時間にしてそれほど長いキスではなかったけれども、ふたりの息は荒かった。ふたりの口もとには、お互いに付け合った唾液が溢れ、光っていた。比呂美は、眞一郎がまた顔を近づけてこないかと身構えている。比呂美の視線が鋭かったので、眞一郎は顔をさらに遠ざけた。「そんな、こわい顔するなよ」「へ?」 眞一郎の思わぬ指摘に比呂美は内心ドキッとした。どんな顔をしていたのだろう。眞一郎があえて指摘したくらいだ。眞一郎がはじめて目にする比呂美の表情にかなり近いものがあったのかもしれない。「べ、べつに、怒ってなんかないよ。ちょっと、くるしかっただけ……」「そっか」といいながらも、眞一郎は特に気にしている風でもない。すでに次のことを考えている。眞一郎は体を起こすと、比呂美の腕をとって比呂美に上半身を起こさせた。ここでも比呂美は胸のタオルケットを押さえることを忘れない。比呂美がノーブラであることを知っている眞一郎は、思わず口もとがにやっとなったが、まだそのことは言わない。もう少し、楽しみは先に取っておくのだ。 比呂美は、ひとつに束ねた後ろ髪を前にもってきて、くしゃくしゃになっていないか点検し、また後ろへはらった。「比呂美が三つ編みにしたの、二回目だね」「うん……。なんか、そんな気分だったの……」比呂美はまた、後ろ髪を前にもってきて毛先をいじった。その仕草が眞一郎には、あかちゃんをあやすように見える。聡明で快活な比呂美が、とても女らしく見える瞬間だ。「比呂美……」胸元から響いてきたような眞一郎の声。「ん?」と、喉の奥を鳴らして、比呂美は答えた。顔からは先ほどの緊張が取れ、いつもの、眞一郎だけにしか見せない笑顔が戻っていた。「おぎゃぁ……」と眞一郎はつぶやく。「おぎ、や?」比呂美は訳が分からず訊き返す。「おぎゃぁ……、おぎゃぁ……、おぎゃぁ……」だんだんと語気を強めていく。「なにそれ?」比呂美は堪らずふきだした。「おまじないさ」 眞一郎はそう説明すると、比呂美が胸のところで押さえているタオルケットを引っ張り下ろし、Tシャツの上から比呂美の右側の乳首に吸いついた。 まさかっ!! まさか、眞一郎にじっくり見られるより先に、いきなりこのまま吸われることになるなんてっ。いっぺんにさまざまな感覚が襲い、比呂美はくすぐったいやら、おかしくて笑いたいやら、訳が分からなくなる。「わっ、ちょ、ちょっと、……あははは。……い、やぁ……」 比呂美は身をよじりながら眞一郎の頭を軽く数回たたき、心の準備をさせてとお願いしてみたが、眞一郎はもう比呂美の乳首に夢中。口をさらに広げて、いっそう強く吸い出す。だれかに横取りされたくないというような必死ぶりだ。 眞一郎が迷わず胸の突端に吸いついたということは、ノーブラだということを知っていたということか。いつ、そんなことをチェックしたのだろう、ちゃんと隠していたのに。眞一郎が意外に目ざとかったことに比呂美は複雑な思いになる。眞一郎もそういうところばかり気にしている男子高校生のうちの一人だということは分かっていても、あまり素直に認めたくはないのだ。眞一郎にとって自分だけが特別な存在だと思っていたいから。 眞一郎の右腕が比呂美の背中にしっかりと回されている。比呂美は上半身を起こされたまま、体の前後から挟み込まれたかたちになっている。胸側からは眞一郎の顔で、背中側からは腕で、しがみつかれている。両腕が自由な比呂美は、右手で拳をつくり、眞一郎の背中をけっこう強く叩いてみた。たん、という音とともに、眞一郎が顔をあげる。「……なんだよ」邪魔するなよ、とでもいいたげに眞一郎は答える。「なにって……、Tシャツのびるじゃない」 眞一郎が吸いついた部分の布地が、できたてのソフトクリームの先のように立っている。「おれ……今、あかちゃんなんだ」「はぁ~?」 さっきの『おぎゃぁ』といい、いったい何なのだと比呂美は眉間を狭める。反対に、眞一郎は愉快な顔をしている。小学生の頃のやんちゃな面影が溢れている。でもすぐに真顔になって、「おれのやりたいように、したい……」と比呂美に求めた。それを聞いて比呂美は言葉を失った。「ぇ……」 固まってしまった比呂美の返事を待たずして、眞一郎は、こんどは左の乳首に吸いついた。そのときの勢いで、比呂美を仰向けにもする。さきほどの体勢と違って、こんどは眞一郎の両手がフリーになっている。その手は、ためらいなく比呂美の乳房をつかんで捕らえた。Tシャツ越しだけども、そんなものはもはや何の妨げにもならないといった感じで、その柔らかな感触を楽しみだした。「…ぁ……、…ゃ……。……ぅな……」(あ……、いや……。……そんな……) 衝撃の渦に突き落とされた比呂美は、うまく声がだせない。やりたいようにしたい、という眞一郎の言葉が、まだ頭の中で繰り返されている。 やりたい……、やりたい……、やりたい……。したい……、したい……、したい……。 どういう心境の変化だろう。いままでこんな風に、相手の気持ちを置き去りにして体を求めてきたことなどなかったのに……。いきなり、コンドームあるか? と尋ねてくるなんて、いままでの眞一郎ではあり得なかったこと。いったんこの状況をブレーク(中断)して、眞一郎の気持ちを確かめたほうがいいだろうかと比呂美は迷った。でも、どういうつもりなの、と眞一郎に尋ねれば、おれのこと信用していないのかよ、とつっかかってくるかもしれない。比呂美としては、眞一郎にそんなことを、これっぽっちも言わせたくない。いまは、眞一郎の様子を見るしかないのか。乳房への愛撫が激しいからといっても、いまのところ眞一郎が我を忘れて乱暴なことをしてくる気配はないのだから。それよりも、眞一郎には明確なイメージがあるように思われた。比呂美をどうしたい、比呂美をどうしてあげたい、というような。だから、比呂美は戸惑ってはいたが、ヒロシと理恵子を裏切ってしまうことになるかもしれないという不安はなかった。 ようやく比呂美の両手は、眞一郎の肩から腕にかけてさすりはじめた。その感触がいつもとは違ったので、比呂美は眞一郎に目をやった。眞一郎の頭のてっぺんが目の前にあり、乳首を引っ張ろうとするたびに頭が上下する。幼稚に見える動きであっても、その動きを作る眞一郎の肩、腕、背中にはたくましさが宿っていた。比呂美は、眞一郎の背中に手を回して、もっと体の情報を得ようとした。間違いない、眞一郎の体は大きくなっている。ほんのわずかだけども、眞一郎と裸で抱き合ったことのある比呂美には、それがはっきりと分かった。それは、比呂美にしか分からないことなのだ。 眞一郎はまた比呂美の右の乳首を吸いだした。眞一郎の唾液のせいで、比呂美の肌にTシャツがぴったりくっついていて、乳房から突端の乳首までの形状を浮かび上がらせている。赤みを帯びた乳輪まだはっきりと透けている。 眞一郎の唇や舌先の動きを感じながら、比呂美はふと思った。『おぎゃぁ』といったり、『あかちゃん』といたっり、眞一郎がなぜ、突然変なことを言い出したのか。それは、おそらく――眞一郎の中でいままでの自分を変えたいという気持ちの表れもあるだろうが、それ以前に、眞一郎ならではの照れ隠しなのだろう。比呂美をリードすることに慣れていない眞一郎には、みずから比呂美にエッチな行為をしようとする羞恥心と、比呂美に嫌がられるのではという不安感を突き破る『勢い』が、なんでもいいから欲しかったに違いない。 比呂美が眞一郎の後頭部に手を回すと、眞一郎が顔をあげた。比呂美のことを心配するような面持ちだった。「黙ってるけど……。きもち、わるかったりする?」「ううん、そんなことない」 比呂美は思いっきり首を振って否定したが、内心、しまった、と思った。眞一郎がこんなことを訊いてくるということは、眞一郎はすでに、比呂美がほんの少しだけども抱いてしまった不信感を感じ取っているからなのだ。「もう。びっくりしただけ。このTシャツ着れなくなっちゃう」とむくれながら、比呂美は眞一郎の吸ったあとを指で確信した。「となりの部屋……」「え?」比呂美は意味が分からず訊き返す。「となり、だれも泊まっていないから、大丈夫だよ」「……?」比呂美は首を傾げて、目だけで訊き返す。 眞一郎はなんのことを言っているのだろう。すぐには分からなかったが、比呂美は気づいた。となり近所にエッチな声を聞かれないために比呂美は声を抑えていた、と眞一郎は勘違いしているのだ。そう思っているのなら、それでもいいただろう。比呂美はそんなこと気にも留めていなかったのに、眞一郎が意外に冷静だったので、おかしくてふきだしそうになった。「あぁ……」と比呂美はわざと気づいたフリをする。「そういうことは、早く言って欲しいな~」といって、眞一郎の胸を軽く叩いた。眞一郎は、ごめんも何も言わずに、申し訳なさそうに顔をゆがめて笑った。そして、黙ったまま比呂美のTシャツの裾を探りだした。 眞一郎に引っ張り下ろされたタオルケットのえりは、比呂美のおへその辺りにある。まだ、比呂美の下半身はきれいに隠されたままだ。Tシャツをはぎ取ると、比呂美はもうショーツ一枚だけになってしまう。そのせいか、眞一郎の手は、暗闇の迷路をさまよっているような慎重さで、タオルケットの中へもぐっていく。ふたりともほぼ同時に生唾を飲み込む。これからがほんとうの『愛の戯れ』のはじまりなんだ。二ヶ月ぶりの……。 眞一郎の右手が比呂美のTシャツの裾をつかんで上へ滑らそうとすると、比呂美はおしりを浮かせた。それを見て眞一郎は、両手を使ってTシャツをたくし上げていき、乳房の下辺りでいったん止める。眞一郎が舐めまわしたところは、頑固にも比呂美の素肌に張りついている。比呂美のおっぱい形状をかたどってしまったかのようだ。それは、眞一郎が容赦なしにしゃぶったことを物語っている。眞一郎は思わず、湿地帯と化した部分に指をはわせる。「きゃ……えっち……」台本の棒読みのような単調で低い声を比呂美はもらした。「もう一度……」していいか? と眞一郎がいいきる前に、比呂美は「ダメっ」と断わる。比呂美が子供を叱りつけるような鋭い目つきで睨んできたので、眞一郎は残念という感じに鼻を鳴らして、比呂美のTシャツをさらにまくった。 比呂美のふたつの乳房が露になる。こんどは何の隔たりなしだ。比呂美の肌の色はそのまま比呂美の肌の色だし、比呂美の乳房の形はそのまま比呂美の乳房の形だ。今いる和室の蛍光灯が消されていても、常夜灯と、洋室の灯りと、網戸越しに差し込んでくる外灯の光で、それらを充分に調べることができる。 比呂美は背中を浮かして、早く脱がせてと眞一郎に無言で急かす。いつのまにか比呂美のペースになりつつあるなと眞一郎は思いながら、Tシャツの胴の部分を滑らせていく。まず比呂美の頭が首穴を通り抜け、つづいて比呂美の腕が袖を抜ける。そして最後に、長い後ろ髪がするすると滑り抜けた。 眞一郎は、はぎとったTシャツを表返しにし、簡単にたたんでティッシュペーパーの箱のさらに遠いところに置いた。眞一郎が再び比呂美の上に体を戻したとき、比呂美は両手で胸を隠していた。動物の生態を観察するように比呂美はじっと眞一郎を見ている。それを感じた眞一郎は、比呂美を驚かせてやろうと思い、比呂美のおへその上辺りに顔を埋めた。 その途端、「あはははははっ」と、こそばゆさに堪えきれないといった笑い声が弾ける。 このケースを全然予想していなかったのだろう、比呂美は眞一郎の顔を弾き飛ばさんばかりに体をよじって悶え、両手で眞一郎の頭を押しのけようとする。胸の防御が離れたこの隙に、眞一郎の両手が比呂美の乳房を包む。「ぁあ、ぃやっ」比呂美の声色が、一気になまめかしくなる。 眞一郎は、比呂美の乳房を数回大きく回したあと、右側の乳首に吸いついた。「ばかぁ……」と比呂美は罵声を上げたが、その声に力はなく、むしろ眞一郎の行為を促しているように聞こえる。快感に震えているのだ。 それを聞いて、眞一郎は何か思い立ったように顔を上げる。比呂美の乳房が目の前にあり、乳首は眞一郎の目に一番近いところにある。それは、まじまじと見ていると何かのボタンのようにも見えてくるし、苺のクリームのかかったお菓子にも見えてくる。そう思えるほど、比呂美の胸は人並みはずれた美しさと、女体としての極まりがあった。 まず、しなやかさ――。バスケットで鍛えられた良質の筋肉とは明らかに違うものが、比呂美の胸を形作っていた。ただ柔らかいだけでなく、一度力を加えればずっと振動していそうな弾力を持ち合わせていた。つぎに、かたち――。比呂美の乳房の大きさは、17歳の女の子のとしては平均的なものだが、見た目が大きく見えた。それにはふたつの要因がある。一つ目は乳輪の形で、乳輪部分が乳房の曲率のままで形成されているのではなく、そこだけがさらに盛り上がっていたのだ。汁物のお椀を伏せた上に、半分にしたマスカットの実を重ねたといった形に近い。二つ目は乳首の形で、これが分かりやすい形をしていて、丸鉛筆のような円柱に近い形なのだ。だから、比呂美の胸を間近で見ると自分に向かって伸びてきそうな印象を受ける。おまけに、乳首を唇で挟んで引っ張りやすいということもあった。 眞一郎が比呂美の胸に見惚れていると、比呂美は上半身を一度振るって、その振動で乳首を揺らした。吸わないの? と眞一郎を挑発したのだ。このやろう、と眞一郎は無言で返して、いままでやったことがないくらい激しく、比呂美の乳房をいたぶりだした。比呂美が「いたっ」と声を上げたが、もうそんなのはお構いなしだ、という感じに。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ ┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃ ┃ ┃ 眞比┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― 眞一郎は、比呂美の乳房をスイカやメロンなんかと勘違いしているのではないだろうか。溢れ出る果汁を一滴も逃しやしないという感じに口を大きく開けて吸い上げている。比呂美の乳房と眞一郎の唇とか縫いつけられてしまったかのようだ。呼吸を整えるために眞一郎が口を離すと、比呂美の乳房は広範囲にわたって唾液でキラキラ光り、肌の色が赤くなっているのが分かる。それでも、眞一郎の両手は休みなく、それぞれに捉えた乳房の形をさまざまの方向へ押しつぶして楽しんでいる。いや、むしろ、楽しむというよりも何らかの義務でそうしているようにも見える、いまのところは。まだまだ準備運動といった感じなのだ。 こんなに強く、激しく、乳房を吸われるが初めてだった比呂美は、もっと痛いことにならないかと、眞一郎のやり方に内心びくびくしていた。だって、「いたい」と訴えたぐらいでは眞一郎はそう簡単にやさしくしてくれそうもないのだ。困ったことになった、と比呂美は思った。でも、その心配はすぐに解消されることになった。眞一郎の愛撫の仕方が、力から技へ、剛から軟へ切り替わったのだ。しかも、比呂美の快感のツボをつつくように攻めてきだしたのだ。 比呂美の乳房を力任せに吸い上げたあと、眞一郎は比呂美の唇に軽く口づけをした。「がまんしなくていいから……」口づけのあと眞一郎はそうつぶやいた。「痛くしないで……」と比呂美は切実に訴えたが、「そういう意味じゃないよ」と眞一郎は返した。「え? ……?」声と視線の二段階で比呂美は訊き返す。 この流れからして、ちょっとやりすぎたと思った眞一郎が、痛みを素直に訴えれない比呂美を気遣っているのだとだれもが思うだろう。でも、眞一郎はそれを否定した。眞一郎は何かを企んでいる。いや、正確に表現するならば、何かに挑戦しようとしているといった感じか。眞一郎がティッシュペーパーの箱を片手に現れたときから薄々と感じていたことだが、比呂美はようやくそれをはっきりと捉えた。でも、なにを? 眞一郎はなにをしようとしている? 比呂美の問いかけを無視して、眞一郎は再び、比呂美の顔に自分の顔を近づけていく。またキスかと思いきやそうではなく、自分の頬と相手の頬をすり合わせるようにくっつけたのだ。頬同士の口づけといった感じた。一見、外国人が親愛の情を込めてよくする挨拶のように見えるが、眞一郎が今しているのは、織物の一本一本の糸をひとつひとつ丁寧に愛でるような触れ方だ。とても親愛の情などという言葉で片付けられるもではない。幼い頃に出会ってから今までに積み上げられてきたお互いの気持ちの層と層を絡み合わせるような、もっと形がはっきりした愛し方のように思える。「……ぁあ……」と、比呂美の口から自然と声が漏れた。比呂美はそれを我慢できなかったのだ。いや、違う、比呂美の中のどこか別の神経が反応して声を出させたのだ。 心の深層で湧き立つものを感じはじめた比呂美は、無意識のうちに眞一郎の背中にしっかりと腕を回していた。比呂美のからだ自体が、眞一郎のからだを求めているようだ。頬と頬を接地させたことによって、心と心の交流だけでなく、体と体の交流がはじまろうとしていた。「やわらかいね……」と眞一郎はつぶやき、名残惜しそうにゆっくりと頬を離した。比呂美の瞳はすぐ眞一郎の顔の動きを追う。次は何をしてくるのだろうという期待に満ちている。 眞一郎の次のターゲットは比呂美のおでこだった。眞一郎は、右手で比呂美のおでこにかかっている前髪をかき上げる。その途端に比呂美の顔を幼く見え、眞一郎にあの祭りの日のことを思い起こさせる。おそらく、その日は眞一郎と比呂美の恋の出発点。あのとき手をつないで一緒に歩いたからこそ、ふたりに今この時があるに違いない。 朝顔の図柄が描かれた桃色の浴衣を着た比呂美を想像しつつ、眞一郎は比呂美のおでこに唇を押しあてた。「うふふ……」と比呂美が笑う。眞一郎がおかしいのではなく、純粋に嬉しいのだ。次々と眞一郎が、比呂美に新たな発見をプレゼントしてくるからだ。『頬ずり』や『でこチュー』で、こんなにも、深海の潮の流れのように落ち着いた気持ちになるなんて、比呂美はいままで考えもしなかったが、眞一郎は考えてくれていたのだ。 眞一郎は、比呂美のおでこからそっと唇を離し、どうだった? と目で比呂美に問いかける。よかったよ、と比呂美はゆっくりとひとつ、まばたきして答えた。比呂美の緊張感がかなりほぐれてきたなと感じた眞一郎は、ちょんと触れるようなキスを比呂美の唇にして、比呂美の首筋に顔をうずめた。耳下部から肩にかけてあまがみすると、比呂美の全身が再び騒ぎはじめた。「ぅむぉ~、ゃだったらぁ……」ふだんの比呂美からは到底聞くことのできない舌足らずな声だ。 構わず眞一郎は比呂美の耳たぶにしゃぶりつく。「……くぅぅぅぅぅぅ……」と、どうやって発しているのか分からないようなかすれた声を比呂美は上げ、首を小刻みに震わせた。それから、堰を切ったように「あぁっ」と声を上げて大きく息を吐いた。単にこそばゆいのではなく、比呂美の性的の興奮度がさらに増したようだ。その証拠に、比呂美の視線はどこを見ているのかわらないほど、ゆらゆら揺れている。目の前にある眞一郎の横顔や肩口を捉えているとはとても思えない。いま、眞一郎を捉えているのは、比呂美の両眼ではなく比呂美の両腕だけ。眞一郎の体を感じているのは、比呂美の胸と腹、そして両脚だけだった。 眞一郎は、唇を比呂美の素肌に押しあてたまま、下のほうへ滑らせていく。首すじを下りていき、首の付け根に到達。肩のラインを一往復したあとさらに下へ、鎖骨のでっぱりを通り過ぎて、二つの乳房の中間地点で止まる。また乳房を狙っているようだ。「ゃん」と比呂美は子犬のような声を上げる。 比呂美の乳房は、さきほど眞一郎が強く吸いすぎたせいで、乳輪の外側の回りも充分に桃色がかっていた。べっとりついた眞一郎の唾液はとっくに乾ききっていたが、濡れていなくても、比呂美の素肌は輝きを放ているように瑞々しさに満ちている。眞一郎は首をひねり、右耳を比呂美の胸の真ん中辺りにくっつけた。その瑞々しさの根源を聞きたい――そう思ったのだ。比呂美の鼓動が眞一郎の頬に伝わってくる。その振動は、バスケットコートを40分間走り回れる心臓とはとても思えないほど、可愛らしく感じる。「……あぁ……ひろみ……」 この音を一生聞いていたい。そう思った眞一郎は思わず声が漏れてしまった。「なぁにぃ」眞一郎の髪に指をもぐらせ、くしゃくしゃにしながら比呂美は答えた。「……ひろみぃ……」と再び眞一郎は名を呼ぶ。「……しんいちぃろぉ、くぅぅん……」比呂美も負けじと愛情たっぷりで呼び返す。たった一回、お互いに名前を呼び合っただけなのに、ふたりとも急に胸が熱くなるのを感じた。ふたりの間では、名前を呼ぶ行為ですら、唇などで体を愛撫するのと同じくらいの力を持っているようだ。 比呂美の乳房に頬ずりをしたあと、あるべき場所に戻っていくような自然の流れで眞一郎の唇が比呂美の乳首を覆う。眞一郎の手はすでに比呂美の乳房を揉みほぐしだしている。こんどは、前みたいに乱暴にしたりはしない。眞一郎の舌先は、まるで水彩画の最終仕上げをしている筆先のように乳首の表面をいとおしくなぞる。でも、それだけではない。刺激を与えることも忘れない。やさしく舌先で転がしたあと、唇で乳首を挟み、垂直にゆっくりと持ち上げていく。どこまで伸びるか試すみたいに。やがて、乳首をつかんでいる圧力が、乳房を元に戻ろうとする力に耐えられなくなると、伸びきった輪ゴムを離したときのように眞一郎の唇から乳首が離脱する。しかし、比呂美の乳房が解放の喜びに震えるのも束の間、眞一郎の唇はすぐそれを追いかけて捕まえる。もうどこにも逃げ場所などないのだ。「……くぉあ~、ひぇんたぁぃ……」(……こら~、変態……) もう比呂美が何を言っているのか分からない。でも、比呂美にしてみれば、この状況で正確に自分の言葉を伝える必要はないのだ。次々と湧き起こる衝動に、身も心も完全に委ねていればいいのだ。なにか言葉が頭の中に湧き起これば口から発すればいいし、眞一郎の体を感じたければ腕や脚を絡めていけばいい。たとえ見っともなくてもそうすればいい。 眞一郎は、くねくねと身をよじる比呂美を両腕と両脚の間に閉じ込めたまま愛撫しつづける。なんでもないようなことに見えるかもしれないが、鍛え上げられた肉体をもった比呂美の体をじっとさせるのは容易なことではない。比呂美の全身の筋力は、細身の眞一郎の体など簡単に持ち上げることができる。比呂美が感じだすと、まるでプロレスでもしているような感じになるのだ。だから、比呂美をおとなしくさせるためには、眞一郎も本気で全身を使わなくてはならない。比呂美の体に全体重をかけて覆いかぶさり、両腕をつかむというように。そうすることで、比呂美も少しは我に返ることができるのだ。「んぅぅ~」と比呂美が息苦しそうな声を上げる。眞一郎にあまり体重をかけないでと求めている合図だ。 比呂美の乳房のアンダーラインを唇でなぞったあと、眞一郎の顔は徐々に比呂美の下半身の方へずれていく。みぞおちを舐め、さらに下へいって、おへその周りの肉を吸い上げて遊ぶ。「ひゃぁっ……、あぁっ……」比呂美の声が一気に複雑な表情に変わる。こそばゆさに加え、もうすぐ秘部に眞一郎の軍勢が到着することに対する期待と、戸惑いと、恥じらいと……、ごっちゃになったような感じだ。 比呂美は、首や背中を反らし、背中で敷布団を叩くようになる。それでも、眞一郎は比呂美の乳房を弄びながら、唇を肌に押しあてたままさらに下へ進ませる。ゆっくりと、みちくさをわざとしながら比呂美をじらす。この眞一郎の策略に感づいたのか、比呂美の手が眞一郎の頭をぐっと下へ押しやる。早く行けといわんばかりに。もちろん、これは比呂美が無意識でやっていること。比呂美がそう急かさなくても、目的地はすぐそこ。眞一郎の唇は、タオルケットをずらしながら、比呂美のショーツのウエストラインに到達する。 比呂美のショーツの色が予想とは違ったので、眞一郎は思わず顔を上げた。一瞬、穿き替えたのかと思ったくらいだ。比呂美の後姿を見て、てっきり紺色だと思っていたのに、少し青みがかった鮮やかな紫色だった。眞一郎はタオルケットをずらして比呂美のショーツを露にする。なるほど、下腹部を覆う部分だけデザインが違うのだ。じっと見惚れるてしまうくらい、その部分は細かい刺繍で花柄が描かれている。あまりにも細かいので、紫が単なる紫には見えないほど色彩感覚が狂わされる。 それにしても、いま眞一郎は、いままで感じたことのないほど胸が高鳴っていた。気が変になりそうなくらい頭がくらくらした。腹のそこから、いままでじっと息を潜めていた何かが横隔膜を激しく叩いて息が苦しくなった。こうなったのも、紛れもない、比呂美のこのショーツのせいだ。比呂美の体を一気に大人の女へと演出したせいだ。はじめて見る下着ということもあるだろうが、このデザインは反則だ、と眞一郎はそのセリフを喉元で何度もかみ殺した。おそらく、比呂美がもっているショーツの中でいちばん布きれの面積が小さく、いちばん官能的なデザインだろう。腰骨の辺りを通るサイドの帯(ショーツのウエストラインの一部)は、2センチにも満たないほど細く、切れやしないかと思う。だから、比呂美の体がますます美しく、いやらしく見えてしようがない。『勝負下着』という言葉が、なぜこの世に存在するのか眞一郎は判った気がした。だって、どうしようもないくらい、比呂美をめちゃくちゃにしたいという衝動に駆られてしまったのだ。このショーツのせいで、男の本能という名の箱の蓋が開けられてしまいそうだった。(やばい、このままでは、射精してしまう) びくんびくんと脈打つ性棒を感じながら、先延ばしにする策を必死に考える。挿入する前に果てるなんてカッコ悪すぎるではないか。比呂美を先にイかしてやろうと思ったのに、パンツを脱がす前に自分がイってしまなんて、情けないにもほどがある。そんなの『男』じゃない。 下着からふわっと漂う、あの甘い香りを嗅がないように息を止め、眞一郎は比呂美の両腕をつかんで引っ張った。「あっ、なに? ……」 いきなり上半身を起こされた比呂美は、目に見えない何かを突っ込まれたみたいに口を開け、目をくるくるさせた。眞一郎は、比呂美の裸を見ないようにし、大きく乱れた息を整えようとしている。眞一郎が顔を背けていたので、比呂美は視線を眞一郎の下半身に移した。トランクスの前の部分は、いまにも中から性器が飛び出してきそうなくらいぱんぱんに膨れている。それに、濡れている部分があった。 まさか! と比呂美は思った。もしかして射精してしまったのだろうか。それで眞一郎はバツが悪そうにしているのだろうか。こんなとき、なんて言葉をかけたらいいのだろうか。比呂美は必死に考えるが、その途中で眞一郎が動き出す。それも意を決した顔つきで。 眞一郎は、比呂美の左側を這っていき、背中側に回り込んだ。そして、比呂美が今している格好と同じようにおしりをついて脚を前に投げ出し、比呂美の背中に自分の胸をつけた。「ごめん……、比呂美……」と眞一郎は比呂美の耳元で囁いた。 ごめん、ということは、もう出てしまった、ということ? 比呂美は振り返って眞一郎の顔を伺おうとしたが、それよりも先に眞一郎が比呂美の体に腕を絡め、うなじに顔を埋めてきた。「ね~、わたし、べつに……、その……」つづきに、そんなの気にしないよ、と比呂美は言おうとしたが、眞一郎の手が、利き手が、比呂美の秘部をたどってきたので、それを伝えることができなかった。「そ……、な……。……ぁあっ」と言うのがやっとだった。 眞一郎の指先は、ショーツの上から比呂美の秘部を縦方向に一往復しただけだった。それなのに、比呂美は、頭の中で劇的に何かのスイッチが入ったのを感じた。目の前で閃光が走ったのような感じでもあったし、全身の皮膚にドライアイスを当てられたような感じでもあった。その衝撃に堪えられなかったのか、比呂美の意識とはまったく関係なしに、比呂美の太ももは、ぱちんと平手のような音を立てて閉じてしまった。そんな音が鳴るほどに、すごい勢いでだ。比呂美自身、なぜ自分の体がこんな反応をしてしまったのか分からなかった。いきなり触られてびっくりしたのは確かだったが、いずれは開かれてしまう扉なのだ。恥じらいはあっても、嫌なことではないし、むしろ、身も心も求めていることなのだ。それよりも、いま一番に気にしなくてはならないのは、このことを眞一郎がどう受け止めたかだ。 眞一郎の指先は、太ももが閉じたあと無理に進入しようとせず、お腹に沿って上へあがり、乳房の先をいじりだした。まずい、と比呂美は思った。比呂美が『それ』を拒んだ、と眞一郎は受け取ったに違いない。だが、比呂美はすぐにその誤解を解こうとすることができなかった。触って、と口に出すこともできなかったし、太ももを開いてアピールすることもできなかった。強烈に、何かがブレーキをかけるのだ。どうしよう、と比呂美の全身に焦りが満ちようとしていたとき、眞一郎が声をかけた。「がまん、しなくていいから……。大丈夫だから……」 がまんしなくていい――またそれ? 眞一郎がどういう意味か教えてくれなかった言葉だ。比呂美は訳が分からず、いやいやと首を振る。ちゃんと説明してよと顔を歪めると、その表情が見えるはずもないのに見えたかのように、眞一郎は囁いた。その声は、比呂美の骨にまで沁みてくるような、力強さと渋みがあった。「ふたりで、エッチになろう」「……………………」 ふたりで、エッチに、なろう。だって? たったいま耳元で囁かれた言葉は、ほんとうに眞一郎の言葉なのだろうか。その疑念が湧き起こるのと同時に比呂美の頭の中で何かが弾けた。いや、正確に表現するならば、何かが急速に冷めていき、何かが急速に熱くなった感じだった。それによって渦が生まれ、なにかが上昇していく。上昇していっているのは、血液かもしれない。 ほんの一瞬、比呂美はこんなことを考えてしまった。夕暮れ時の学校――生徒の義務としてきれいに並べられた机も椅子もなく、先生の教壇もない教室で、たった一つだけ机が教室の真ん中にぽつんとあって、その机の上に真っ裸になって立っている。そして、眞一郎が下から見上げている。その机の周りを回り、全方向から比呂美の体を確認する。いま、それに近い状況ではないだろうかと比呂美は思った。理恵子にもそうだったように、眞一郎にも全てを見透かされているような感じ……。もう、隠しようがないところまできてしまっている。おそらく……。 いつの間にか、眞一郎の両腕が比呂美の体を包むように回されていた。さっきまで乳房をいじめていたというのに、その行いの痕跡が微塵も残されていない。ただ比呂美の体を包んでいる。 ふたりは、動きを止めた。じっとしたが、呼吸による胸の上下や鼻腔から漏れる息は、お互いに感じている。ふたりとも深くて大きな呼吸だ。 比呂美が何か言葉を探している最中、眞一郎は比呂美の長い後ろ髪を見つめていた。不思議だと思った。さっきの狂いそうだった興奮が、比呂美の後ろ髪を見た途端、急速に治まっていったのだ。といっても、性的な興奮、比呂美とやりたいという欲求は切れているわけではなく、暴走領域を見定め、しっかりと理性が踏ん張っている感じなのだ。自分の体を意のままに操れるところにしっかり留まっているという自覚が眞一郎にはあった。 眞一郎が比呂美の膝頭に目をやると、拳ふたつ分くらい開いていた。力が少し抜けたみたいだ。 眞一郎は、利き手を下ろしていく。ショーツのウエストラインにあたったところで、比呂美がつぶやいた。「…………にならないで……」「え?」はじめのほうが聞き取れず、眞一郎は訊き返した。「きらいにならないで」「なにいってんだよ」といって眞一郎は微笑む。「逆に、どうやったら比呂美のこと、きらいになるか言ってみろよ」こんどはムキになって眞一郎は言った。「いや、教えない」比呂美の体の強張りが、ふっとゆるむ。それを見計らって、眞一郎はとうとう比呂美のショーツの内側に指先をもぐらせた。「えっち」と比呂美がなじってくる。眞一郎はさらに指を進める。「はんざぁーい」(犯罪)比呂美は子供っぽく声を上げる。まるで、小学生の女の子がスカートめくられたあとに、めくった男の子を大人ぶって非難するときみたいに。眞一郎は構わず手を進ませ、陰毛をまさぐる。「じゃー、いまから罪をつぐなうよ」 眞一郎はそういうと、比呂美の首筋に吸いつき、一気に秘部をねらった。比呂美はこのタイミングを予想していたらしく、「う~」と唸っただけで奇声を上げなかった。 前にも述べたように、バスケットで鍛え上げられた比呂美の肉体は、とにかくすごい。水中でマグロと格闘するよりも手ごわいのではと眞一郎は何度も思ったことがあった。いま、その比呂美を背中から羽交い絞めにしている。というよりは、振り落とされないように比呂美の背中にかじりついているといったほうが近いかもしれない。右手が秘部に専念している中で、左腕とあごを使って比呂美の体を押さえつけるしかないのだ、両脚が使えるとしても。この体勢で比呂美の体と対峙するのは到底無理な話だけども、そのことは比呂美も分かっているらしく、眞一郎の懐から飛び出そうとは決してしない。眞一郎の射程圏内でうまい具合に暴れてくれる。でも、それもしだいに治まっていく。眞一郎の掌が秘部全体を撫ではじめたときこそ、柔らかい体を思いっきり反らせたりしてのたうったものの、やがては甘い吐息を漏らしてしおらしくなる。比呂美自身も勝手に反応してしまう体をどうしようもできなかったのだろう。そして、比呂美の体が落ち着いたところで、ほんとうの愛撫がはじまる。 ショーツを着けたまま、その中に手を入れて秘部とその周辺をいじるのは初めてのことだった。確かにそうだと、眞一郎は今までのことを振り返って思った。もちろん、下着越しにワレ目を撫でたり舐めたりしたことはあったが、下着が汚れるからいや、といって比呂美は長い時間そうされることを許さなかった。どちらかというと、比呂美は下着をすぐ脱がせてもらいたがるほうだった。でも、いまの眞一郎にはそうするつもりはなかった。 刈り込まれず自然のままに育てられた芝生のような陰毛部のさらに下には、背中などのつるつるとした素肌とはまるで違った、一言では表現しがたい湿地帯がある。はじめて比呂美の秘部を目にしたとき、ユリの花のツボミのようだと眞一郎は思った。いまにも花開かんとする、ふっくらしたツボミだ。でも、これは比呂美の膝が閉じている状態での光景。比呂美の脚をゆっくり広げていくと、ツボミは真っ二つに割れ、新たに肉厚の花ビラのようなものが現れる。朝露に濡れたようにてかてかと光っているようでもあり、一度くしゃくしゃに丸められてから伸ばされたような細かなヒダが走っているようでもあった。そのとき眞一郎は、比呂美の体の内側を見せられたような気分になり、凝視することができなかった。そんなことを思い出しながら、眞一郎は漠然と秘部を掌でなでる。どこかに集中するのではなく、まず、比呂美の形を再確認するのだ。「……う~ん……」 相変わらず比呂美の甘い吐息がつづけている。眞一郎には、早く下着を脱がせてほしいと不満を漏らしているようにも聞こえるが、眞一郎はそれを無視する。 比呂美が背中で眞一郎の胸をぐいぐい押してくる。なにかを要求しているようだったので、眞一郎は体を後ろへちょっとずらして、比呂美の上半身を少し背中側へ傾ける。比呂美の頭が眞一郎のあごの下にくると、比呂美は振り返って眞一郎の顔を見上げ、あごをつき出した。どうやら、キスをしてほしいらしい。この体勢ではしてやることができないので、眞一郎は比呂美の頭が左上腕のところにくるように体をずらした。比呂美は眞一郎の瞳を真っ直ぐに覗き込んでくるが、いつアレをいじられるのだろうかという警戒の色が顔に出ている。でも瞳は眞一郎のことを信じきっている。そのことにちょっぴり罪悪感を感じながら、眞一郎は口づけした。比呂美は激しく求めてきたが、眞一郎は柔らかく求めた。その代わりに眞一郎は、秘部の花ビラを、人さし指と中指で挟んで引っ張った。「ぁっ!」 わき腹をつつかれたときのような声を上げた比呂美は、無理に引きちぎるように唇を離した。すぐに首のひねりを戻して眞一郎を睨む。キスしているときにそんなことする? と目で訴えている。「ぬれてる……ね……」 眞一郎はそういって、花ビラの内側を指の腹で叩いて、溢れ出ている粘液の音をさせる。思った以上に、ぴちゃぴちゃという音が響き、比呂美は早口で口をぱくぱくさせ顔を背けた。ばか、あるいは、やだ、と言ったみたいだ。最後の抵抗という感じで口だけが辛うじて強がってみせている。オーガズム(絶頂)へ一気に駆け上がってしまわぬように、比呂美も必死に抵抗しているのだろう。でも、そうはさせない、と眞一郎は目論む。眞一郎としては、比呂美が駆け上がったところを見てみたいのだ。ずっと、そう思ってきたのだ。 比呂美のこめかみ辺りに口づけしたあと、眞一郎は秘部を攻撃している自分の手に目をやった。当然のことながら、その手は比呂美のショーツの内側に隠れて、直接目で捉えることはできない。その代わり、陰毛の草原がほぼ見渡せる。指先を使いやすいように手首を曲げているため、下腹部を覆うショーツの布切れが思いっきり持ち上げられているのだ。つられて、ショーツのサイドが伸びきり、比呂美の肌に食い込もうとしている。これを見ると、ショーツを早く脱がせてあげたほうがいいかなと眞一郎は思うが、まだそうするつもりはない。 比呂美の頭を支えていた眞一郎の左腕が下りていき、胴に巻きついたことから、いよいよアレだ、と比呂美は身構える。このタイミングでショーツを脱いだほうがいいかなと比呂美は考えるが、眞一郎の指が次の目標に動きだしていたので、堪えることにした。 花ビラを辿りながら、上へずれていく眞一郎の人さし指と中指。左右の花ビラの結合点間近にくると、人さし指と中指は股を開いたように別れ、アレのあるところを素通りし、陰毛の茂みに潜っていく。下腹部の柔らかな感触を楽しんだあと、また花ビラへ戻っていこうとするが、アレの部分はを避けて通る。これを数往復やったところで、比呂美が「ぅん~……」と不満げに喉を鳴らした。今まで比呂美主導のセックスばかりだったから、あからさまに比呂美が焦れるのは初めてだ。『女』なら誰しももっている淫らな部分を見せたがらなかった比呂美が、その抑制を解きかけている。それを解いてやるのは、自分しかいない。そのための自分なんだ――と眞一郎は思った。 比呂美の体をしっかりと抱き寄せた眞一郎は、比呂美の背中に胸をぴったり合わせる。いっそのこと比呂美を寝かせたほうが愛撫しやすいだろうが、それでは比呂美の体と正面で向き合うことになって、挿入したいという気持ちを押さえきれなくなる、間違いなく。それに、比呂美が反撃してこないとも限らないし。 眞一郎は、陰毛の茂みに隠れている指先を真っ直ぐ下へ滑らせていく。すぐに盛り上がった部分を感じ、その上を辿っていく。指腹が捉える肌の感触が、秘部特有のねっとりした感じに変わっていく。指先に吸いついて絡まってきそうだ。まもなく、柔らかな球面を感じた。人さし指で、その球面を覆う皮膚を上へずらし、中指で、やっと中から顔を覗かせた薄桃色の萌芽――陰芽に触れる。愛液で濡れているせいで、本来の感触を味わうことはできないが、直径5ミリくらいの真珠が埋め込まれたような感触が確かにある。「さわられると、海中に浮かんでいるような感じになるところ……」と初めてのセックスで比呂美が説明してくれたところだ。 陰芽をまさぐる眞一郎の右腕に比呂美の両腕が絡んでくる。眞一郎の腕を引きはがしたいのか、もっと攻めてとせがんでいるのか判別できないくらい、それらは狂ったように動く。でも、比呂美はまだ大きな声を上げず我慢している。それも束の間、絵の具を指で掻き混ぜる要領で陰芽を激しくこすると、その我慢は脆くも崩れた。「ぃいやあぁぁーっ」 半分ベソを掻いたような甲高い声に眞一郎の耳はつんとなる。それでも眞一郎はひるまず、手を緩めない。さまざまな指の動きを陰芽に対して試していく。水晶玉を磨くように動かしてみたり、往復ビンタをするように弾いたり、とにかく容赦はしない。すぐそばにある比呂美の口から吐き出される喘ぎ声から、最も比呂美が感じるやり方を見つけるまでは止めるわけにはいかない。でも、陰芽ばかりいじっていては比呂美が慣れてしまうので、膣口や、花ビラのもっと外側の肉の部分、上にあがって陰毛、といった具合に愛撫の場所をときどき変えた。ショーツから手を出して太ももの内側をなぞることもあった。場所が変われば、比呂美の声もおもしろいように変わった。その声を頼りに、比呂美に余裕が生まれつつあるなと思えば、再び陰芽に指を向かわせた。そうこうしているうちに、愛液がどんどん溢れ出てくる。秘部をいじっているというよりは、ねっとりとした愛液を塗りまわしているという感じになり、その粘液のせいで陰芽を指で探り当てるのがだんだんと難しくなっていった。 こんな感じに眞一郎の愛撫に身を委ねていた比呂美も、ささやかではあるが、反撃を思い描いていた。眞一郎によって快感の泉に突き落とされ、溺れさせられたような感じだったが、自分もお返しをしなければという感情が湧き起こったのだ。お返しになにをする? それはもちろん、これしかない。秘部をまさぐっている眞一郎の手が陰芽から別の場所へ移動するときを見計らって、比呂美は体をひねり、右手を後ろへ回した。目で確認しなくても、比呂美の予想どおりに、ソレはそこにあって、一発で探り当てた。木刀のように固くなった眞一郎のペニスをトランクスの上から比呂美は握り締めることができたのだ。「あぁっ! ちょ、ちょっ、まった」 眞一郎は思わず比呂美の右手を払い、腰をおしりひとつ分引いた。「な、なによ……」せっかく意を決してかわいがってあげようとしたのに、それはないんじゃない? と比呂美は裏切られたような気持ちになる。「もしかして、でちゃった?」「え?」比呂美の言っていることが分からなかったが、すぐに射精のことだと眞一郎は気づく。「ま、まだ、なんとか……」「…………」比呂美はなにも言わずに、眞一郎のほうへにひねっていた体を元に戻した。それからすぐに、ショーツのサイドの、あの細い帯の部分に両手をかけた。そう、ショーツを脱ごうとしているのだ。眞一郎は慌てて比呂美の背中に再び密着し、比呂美の手首を掴んでそれを阻止する。「あっ……」なんでこうされるのか分からず、比呂美はもう一度振り返る。「あの、ぬれちゃってるから……」と比呂美は説明したが、眞一郎はそれを無視して、右手をショーツにもぐらせた。眞一郎の指はすぐに陰芽を捉え、少し萎えかけた比呂美の興奮を引き戻していく。右手だけなく、比呂美の乳房や下腹をなでる左手や、首筋に吸いついた唇もそれを加勢する。あともう一息のはずだ、比呂美がオーガズムへ到達するのは……。ここで挿入の行為に移れば、間違いなく眞一郎が先に果て、比呂美はそれを感じることなく終わってしまうのが目に見えている。眞一郎の考えた『男を見せる』ということは、比呂美に『女を剥き出しにさせる』ということでもあるのだから、まだこの段階での挿入はあり得ないのだ。もっと、もっと比呂美を狂わせていかなくては、いま眞一郎が考えているのはそのことだけだ。 とうとう、眞一郎の指が――中指が比呂美の膣内に忍び込む。まるでゆるく固まったゼリーに指を突き刺したような感触だ。「……ぅぅぅぅぅぁあっ」比呂美の声にも、苦しみに悶えるような色合いが増す。吐き出される息も規則的な間隔を保てないでいる。眞一郎の指が内壁を引っかくたびに、心臓のリセットスイッチが押されているような感じだ。 比呂美の膣口を広げるように指を回したあと、人さし指も膣内に入れ、こんどは二つの指先で内壁をこする。それと同時に、親指の腹で陰芽をこねくり回す。「ぁぁぁあああぁぁっ……」喘ぎ声をはるかに通り越した叫び声が部屋の壁を打つ。でもすぐに、比呂美は口をつぐむ。大きな声を上げすぎた、とどうにか自覚できたのだろう。その代わりに、首を大きく振ってそのエネルギーを発散させた。 比呂美の体を必死になって抱きよせていた眞一郎は、比呂美の変化に気づく。痙攣にも似た、細かで不規則な筋肉の伸縮が現れてきたのだ。不規則なパルスで電気ショックを受けているような感じだ。近い――そのときは近い、と眞一郎は直感で感じる。比呂美の体は、比呂美自身どうしようもできないところまで来ている。眞一郎がそう思ったとき、比呂美がはっきりとした言葉で訴えてきた。最後の力を振り絞るという感じで。「まって、ダメっ」これは眞一郎に向かって言ったようだ。でも次のは……。「まだ……、まだ、イきたくないっ」これは、自分自身に言ったようだ。 そのあと、膣内で愛液をかき混ぜる音が、ふたりを包んだ。最後の言葉を吐き出してしまった比呂美は、全身を引きつかせている。眞一郎も、ここまできてはもう後に引けないという風に、ひたすら指を出し入れする。眞一郎が比呂美の瞳に目をやると、比呂美も視線を眞一郎に向けた。いままでどこを見ていたのか分からなかった視線が、眞一郎の瞳に収束したのだ。 ちょうど一年前は、比呂美と同じ屋根の下で暮らしていたというのに、ろくに口も利けないでいた。そんな状態がまるで嘘のように、いまは、比呂美の内側に入り込んでいる。ちょっと異常じゃないかと考えなくもなかったが。いま、こうしているのは、紛れもなく、ふたりの選んだ道なのだ。そのことを比呂美の瞳が語っていた。 あなたになら、どうされったっていい――。 わたしは、あなたのために生まれてきた、おんな――。 眞一郎はたまらなくなって、比呂美の唇に口づけしたが、比呂美にはそれに応える余裕はなく、ただ少しあごを動かしただけだった。 眞一郎が顔を離すと、途端に比呂美の表情が強張った。なにかを必死に堪えているように歪む。 そして、まもなく、それがはじまった。「……ぁぁぁああ……」と比呂美が脱力したような声をあげるのと同時に、眞一郎の掌には何か液体が噴射された。ねっとりとした愛液と違って、これはさらさらとした感触だ。二回、三回と立て続けに眞一郎の掌を打った。四回目の噴射が終わり、五回目のとき、比呂美は眞一郎の胸をどついて眞一郎の腕の中から飛び出した。体がうまくいうことをきいてくれなかったみたいで、半ば崩れ落ちるように比呂美の体はどすんと畳を叩いた。それから、上半身を敷布団からはみ出させて横たわったまま、大きく息をして呼吸を整えた。「比呂美……。比呂美、大丈夫?」「…………」比呂美はなにも答えない。まだなにも答えられないのかもしれないが、眞一郎は、どうしてやればいいのだろうと考えたのち、とりあえず目についたタオルケットを比呂美にかけてあげることにした。だが、腕を伸ばしてタオルケットを手繰りよせている途中で、いきなり比呂美が跳ね起きた。 比呂美は眞一郎からタオルケットを奪い取ると、それで自分の胸から下を隠した。その直後、比呂美は右手で眞一郎の胸を思いっきり叩いた。拳をつくっていたので、かなりの衝撃を眞一郎は感じた。「いってぇぇー」完璧に不意打ちだったため、眞一郎は体を屈さずにはいられなかった。でも、一番のショックだったのは、比呂美が本気で怒っていることだった。いや、違う。比呂美がここまで怒っていることに自分が気づけなかったことだった。強引にやりすぎたのだろうかと後悔の念が渦巻く。おそるおそる比呂美の顔を伺う。正直いうと比呂美の顔を見るのが怖かったが、謝るためにも見ないわけにはいかなかった。しかし、比呂美の表情は、さらに眞一郎を困惑の渦に陥れた。 泣いているのか? 怒っているのか? それとも、恥ずかしがっているのか? 嬉しく思っているようにも見える。表情をつくる筋肉がパニックを起こしているみたいに、どうとでも取れるような顔を比呂美はしていた。ひとつはっきりとしていたことは、目に涙を溜めているということ。でも、こんな顔をされたら、嬉し泣きなのか、悲しくて泣いているのかよく分からない。「比呂美……」 眞一郎は、とにかく比呂美を抱きしめてやろうと腕を伸ばすが、比呂美はくるっと背を向けてタオルケットを頭から被った。そのあと、片腕だけを伸ばして、スポーツバッグを手元に引き寄せた。 拒否するような比呂美の態度に、眞一郎は歯痒く思ったが、比呂美にしてみれば、秘部が大変なことになっていて、それどころではないのかもしれない。そう考えると、タオルケットを頭から被りたくなるのも分かる。比呂美はバッグからビニール袋を取り出しているようだ。それからすぐにショーツを脱ぎだす。タオルケット越しでもそれはじゅうぶん分かった。いや、完璧に分かるのだ。だって、乱暴に被ったタオルケットの端から比呂美のおしりが半分はみ出していたからだ。眞一郎は、タオルケットの端を引っ張ってそれを隠してやり、ティッシュペーパーを二、三枚、自分のために取り出したあと、比呂美に箱ごと差し出した。「ティッシュ……」 比呂美は無言でそれを受け取った。 比呂美がこのあと、どういう態度を取るのか分からなかったが、とりあえず準備をしておこうと眞一郎は考えた。一回くらいは、比呂美は受け入れてくれるはずだ。あんなに濡れていたのだから。そこで、眞一郎はふと思った。さっきの掌にかかってきた愛液のことを。(あれが、『潮吹き』っていうやつなんだ……) 眞一郎はいままで、『潮吹き』というものを、女性が絶頂感に到達したときの心理的な描写のことだろう思っていた。男の射精のように、実際に何かが噴き出されるものではなく、文学的な誇張だと捉えていたのだ。眞一郎の手を見ると、指先にはねっとりとしたもの、たなごころにはさらさらとしたものがまとわりついていて、布団に垂れていた。眞一郎は、濡れている手をトランクスで拭いたあと、トランクスを脱いだ。やっと解放された自分のペニスを見て、やれやれと苦笑いする。こっちも相当ひどいことになっていた。ペニス全体がみずから噴き出した愛汁でべとべとだった。ティッシュペーパー二、三枚ぐらいでは、どう見ても拭いきれそうにない。いまさら比呂美からティッシュの箱を返してもらうのはあまりにも無神経な気がしたので、仕方なく脱ぎ捨てたトランクスで拭いた。下半身に力を入れると、まだ愛汁から噴き出してくる。比呂美の中に挿入したら、すぐに射精するに違いない。それは避けられそうもないようだ。でも、とにかく比呂美を先にイかすことができたのだから、これ以上カッコつけなくてもいいだろうとも思う。 コンドームの箱をかさこそいわせると、比呂美が一度びくっと体を震わせた気がした。比呂美のほうもだいだい後始末が終わったらしく、肩を小刻みに震わせるだけになっていた。泣いているのかどうかは分からないが、とにかく肩を不規則に上下させていた。 コンドームを着け終えると、しぼみかけたペニスがまた元気を取り戻していった。ペニス自体が過去のセックスの記憶を思い出し、比呂美の中の感触と光景を待ちわびているかのようだ。 比呂美は、まだ黙ったままだ。眞一郎は、声をかけてみることにした。「比呂美……」「…………」比呂美の肩が少し揺れたが、無言のまま。「比呂美……、おれさ……その……。いままでみたいに、ふつうに比呂美を抱いていたら、たぶん、いつもと同じように、おれが先に……先に、イくことになってて……。それがさ、なんかいやで……。比呂美は、いつも満足しないままなんじゃないかって思ってて……。だから、その……」「…………ないよ……」比呂美がようやく口を開いた。でも正確に聞き取れない。「え?」「わけわかんないよぉーっ」何かを振りきるように比呂美は叫んだ。当然のことながら、眞一郎は自分のことを非難されていると思う。「自分でもわからないの……」「え?」自分でも、ってどういうことだろう。「自分でもわからないのっ」と、語気を強めて比呂美は繰り返す。「比呂美……」「泣きたいくらい恥ずかしいのに、……ぜんぜん」そこで比呂美の口が止まる。 眞一郎は、言葉のつづきを待ったが、なかなか出てこない。でも、おそらく比呂美はいま、何か大切なことを訴えようとしていることだけは眞一郎にも分かった。「ぜんぜん? なに?」と眞一郎はつづきを促した。「……ぜんぜん、おさまらないの……」「え……?」 眞一郎が、「なにが?」と尋ねようとしたとき、比呂美がまた叫んだ。「ほしくて、たまらないのっ」 たぶん、このときの感じを漢字で表したら『衝撃』になるだろう。 欲しくて、たまらない――これは、眞一郎が比呂美に対していつも抱いていた感情。その感情をこんどは比呂美がはじめて口に出した。 眞一郎の頭の中で閃光が走った――。心臓の心拍数が跳ね上がったせいで、時間の流れが速く感じたり、遅く感じたり、訳が分からなくなる。眞一郎は、タオルケットを被せたまま比呂美を押し倒す。比呂美の頬には涙が伝った跡があり、髪の毛が張りついている。比呂美はタオルケットで前をしっかり隠したまま眞一郎の目をじっとみている。眞一郎は比呂美の反応を伺ったが、なにも意思を表に出さなかったので、タオルケットの端をつかんで、迷いなく左右に開いた。当然のことながら、全裸の比呂美がそこにあった。 たぶん、ここは海の中だと思う―――。 そうでなければ、なにかの液体の中だ。『液体』という言葉の響きは、なにか無機質な感じがするけれど、いま、わたしの周りを満たすものは生命の躍動に満ち溢れている感じがする。たった一匹の魚が泳いでいなくても、たった一つの泡(あぶく)が見当たらなくても、視覚や聴覚を超えて、皮膚で、心で、生の営みを感じるのだ。ほんとうは、たくさんの生き物がそばでウヨウヨしているのに、わたしには見えていないだけなのかもしれない。 ああ、ここは、なんて透き通ったところなんだろう――。 濁りというものがまるでない。ずっと、遠くの遠くまで見渡せる。光の損失というものをまるで感じさせない。水やガラスの透明感とはぜんぜん違うのだ。それらは幾重に重ねていくとだんだんに色が現れてくるが、この海はまるで違う。雨上がりの五月の空みたいに澄みきっていてもなお、それ以上に透明だと感じずにはいられない。微粒子ひとつすら存在していないのではないかと疑いたくなる。おそらく、光が届くところまで、ずっと変わらず透明なのだろう。裏切りのない透明。 いまのところ、この世界は、単なる光の明暗しかない――。 色というものの認識ができない。かといってモノクロな世界というわけではなさそうだ。わたしの目で捉えれる物体がいまのところ何一つとして見当たらないので、色というものの認識ができないだけで、この海にも色というものが存在するはず。光と色は、根本は同じものと思うから。光があれば色は存在し、色があればそこには光が存在する。 わたしは、そんな海の中に漂っている。光のあるほうを上とするならば、仰向けになって浮かんでいる。下のほうを見ると、だんだん光の束が少なくなって暗くなり、闇になっている。黒、ではなく、闇だ。無、といってもいい。とても、深い深い闇。おそらく、この海は底というものがないのだろう。もしくは、光が届くのに時間がかかるくらい深いかだ。もし、底というものがあったとしても、この世の誰一人としてそれを確認することはできないだろう。だから、底なんかないと割り切ったほうが気分的にすっきりしそうだ。この海には、底なんかない。 わたしは、ちょっとずつ、下へ落ちていっている感じがする。どうしてそう感じるのかは分からないけれど、そう感じるのだ。まだ目で確認していないけれど、ひとつの境界として存在しているはずの海面からここまでの距離はちょっとずつ離れていっている。そう思うと、胸が苦しくなる。絶望と表現してもいい。なにしろ、下は底のない闇で永遠に落ちつづけることを約束されているのだから。 わたしを救うものは、なにかないの? あっ、声が聞こえる――。 声、なのかな。おそらく声だと思う。言葉ではないけれど、人の息づかいを感じる。もっとよく耳を澄ませてみる。なんだか荒々しい息づかいだ。でも、わたしは、この息づかいを知っているようだ。だって、こんなにも切なくなるんだもの。それは上から聞こえてくる。上だ。光のあるほうだ。 上へいきたい――。 どうやったら、上へいけるのだろう? 上へいって、その人に会いたいと思う。 わたしは、必死になって手足で掻いてみた。ぜんぜん手応えがない。水を掻いている感触も、上へあがる感触もない。泡ひとつ立っていないし。どういうことなの? わたしは、その人のところにいかなくてはいけないの。こんなところで落ちていくわけにはいかないの。 だんだんと声が、上から聞こえてくる息づかいが大きくなってきている。 ああ、どうしたらいいの。歯痒い。上へいく方法は、なにかあるはず。声が聞こえるのだから、その人の世界とわたしのいる世界はつながっているはず。 そうか! わたしも声を出せばいいんだ。お互いの世界がつながっているのだから、わたしの声はきっと届くはず。それにここは、こんなにも澄みきっているところだから、光だけでなく、音も、わたしの声も、損なわれることなく伝わっていくはずだ。 さあ、いうぞ。 しん いち ろう くぅん ……………………。 声、届いたのかな。 そういえば、わたしたち、なにをしていたんだろう。眞一郎くんは、わたしの脚を広げるとすぐにわたしの中に入ってきた。コンドーム、着けていないんじゃないかと思って、あせっちゃった……。でも、ちゃんと着けててくれた。眞一郎くんはふだん頼りなくても、いざというときは、ちゃんとしてくれる。わたしのほうが、いざというとき、ダメかも。 ふっと横を見ると、いつの間にかイルカがいた。わたしの身長の倍くらい大きなイルカだ。そのイルカはわたしをしばらく観察したあと、わたしの体を鼻先でつつきだした。頭、首、肩、背中、おしり、脚など、体の至るところをつつきだした。 もう、なんなの。くすぐったいたら。やめてよ。でもイルカはお構いなしにつついてくる。 あなたと遊んでいる場合ではないの。わたしには、いくところがあるの。そう念じると、イルカはぴたっとつつくのを止めて寄り添ってきた。 ククク、とイルカが鳴いた。 わたしに、乗れっていうの? またがれっていうの? イルカはまた、ククク、と鳴いた。 よくわからないけど、そういうことなら、いってもらおうじゃん、上へ。わたしは、イルカにまたがる。イルカに頬ずりすると、イルカの肌はしっとりしていて、上等な絹の衣のようだ。 イルカの体が縦方向に波打って、ゆっくりと前へ進みだす。視覚では進んでいる感じはないけれど、心ではそう感じている。心がしっかり座標を認識している感じだ。 だんだんと加速。さらに加速。わたしは、慌ててイルカの胴にしがみついた。どんどん加速。そして、上へ進路を取る。 いけぇ――っ! たぶん、ものすごいスピードなんだろうけど、ぜんぜん苦しくない。でも、しっかりつかまっていないと振り落とされるのは間違いなさそうだ。 ぐんぐん上へ近づいていく。あ、やっぱり海面がある。なにか細かな飛沫のようなものが広がっている。その光景で、そこが海面だと分かる。 遠くから聞こえていた息づかいは、はっきり聞き取れるようになっていて、ほぼ規則的に発生する飛沫と同調していた。 ひろみ……、ひろみ……、ひろみ…… わたしの名前だ。わたしの名前を呼んでいる。わたしを求めている声だったんだ。 イルカは、天井知らずに加速を続けている。だんだん光で目が眩しくなって、目を凝らさずにはいられなくなる。うっすらと開けた目で、海面を捉える。その向こうには、人影が見えた。 イルカとわたしは、一直線に海面を目指す。こんなスピードで海面に出たらどうなるのだろう。おそらく、ものすごくジャンプするはず。でも、大丈夫。その人が受け止めてくれるから大丈夫。なんの心配もいらない。心配いらない。 ラストスパートだ。海面はすぐそこ。そこまで来た。 わたしは、その人のもとへ、いける――。 必ず、いけるっ。 比呂美が脚を広げるのと同時に、眞一郎はその脚の間に入り込む。どちらかが合図したわけでもないのに、「はい」と号令をかけたように息がぴったりだ。自信さえ感じる。眞一郎はすぐに比呂美の膝の裏に手をかけて持ち上げていく。持ち上げたところで、さらに比呂美の脚を開く。比呂美の股関節は柔らかいので、膝頭が敷布団に付きそうになるくらい太ももは付け根から反転して、秘部がぐっと眞一郎の顔へ突き出された感じになる。白い皿にのせられた野生の果実を勧められているみたいだ。前戯でさんざんいじった花ビラは開ききっていて、膣の入り口とその内側の一部がはっきりと分かる。洋室からの灯りが、秘部の様々な稜線で反射し、秘部を妖しく浮かび上がらせる。 眞一郎がペニスの先端を入れようとしたとき、膣口付近の肉がうごめき、中から愛液がひと筋垂れ出てきた。比呂美がわざとやったんじゃないかと眞一郎は思う。でも、そのことに何らかのメッセージがあろうがなかろうが、眞一郎にはそのことを考える余裕などもうない。頭の中は、過去の挿入の記憶と、挿入についての傾向と対策でぱんぱんだ。比呂美が痛がるんじゃないかとか、そういうことは、そうなったときに考えればいいことだと割り切っている。(比呂美、ごめん。覚悟しろよ。加減できそうもないから……) 眞一郎は、亀頭を膣口にあてがい、一気に中に進ませる。いつものように、ゆっくりと進ませたりはしない。比呂美がオーガズムを一歩手前で持続しているというのに、弱気になって、それを後退させてはいけないではないか。でも、比呂美の体はまたしても、眞一郎の侵入を嫌がって全身を使って抵抗してくる。まるで押さえつけられたウナギのように体をくねらせ、眞一郎の体を弾き飛ばそうとする。心では眞一郎を受け入れようとしていても、十七歳の若い肉体はまだ、子宮を守ろうとする本能が根強く残っている。だからといって、眞一郎はめげてはいられない。比呂美の腰が浮いた隙に、眞一郎は両腕を比呂美の腰に回して締め上げる。これでもう、比呂美は逃げられない。眞一郎は、自分の体の軸と比呂美の体の軸を意識しつつ、比呂美の膣奥を目指して腰を突き上げた。「ぃゃあああああぁぁぁ――っ」 割れんばかりの比呂美の声が、鼓膜からだけでなく、比呂美の胸と腹からも伝わってくる。それでも眞一郎は、間をおかず、繰返し腰を動かす。突きは速く鋭く、戻しはすこしやさしく。それから、膣の内壁をこするように、ペニスの角度を毎回変えていく。はじめてのセックスじゃないのだから、いままで密かに考えていたテクニックを試してみようと眞一郎は考える。でも、射精のプロセスに入る一歩手前のこの状況ではそれは難しい。とにかく腰を突き上げることに専念する。 ふたりの体のリズムが安定しだしたころ、比呂美は髪の毛が逆立つくらい勢いよく首を振りだした。下腹部で受けた刺激がようやく脳天に到達したようにだ。その様子が快感を通り越したもののように思えた眞一郎は、自分の頬を比呂美の頬に押しつけて首の動きを鎮めようとした。「しんいちろぉー、くぅーんっ」 比呂美は、迷子の子供のように心細そうに名前を呼んできた。だが、そのあと、比呂美の体にいままでとは違った力がこもった。眞一郎から逃れようとする力が反転したのだ。比呂美の両腕は眞一郎の首に回され、両脚は眞一郎のおしりの辺りに巻きついた。そして、膣の内壁が一気に縮まった。「うっ、わぁ――っ」 体を締め付けられ、そしてペニスまで締めつけられた眞一郎は、思わず奇声を上げる。それから、焦る。腰が動かせないのだ。そんな眞一郎の心の内を見透かしてか、比呂美は、早く動かしてとわざと急かしたように言う。「しんいちろぉー、くぅーんっ」さっきとは違う甘ったるい声だ。(こりゃ、どうしたらいいんだ?) 眞一郎が腰を戻そうとしても、木の枝にしがみつくモモンガみたいに比呂美の体がぴったりくっついていて、ペニスと膣穴の相対位置が変えられない。かといって、比呂美に力を緩めてくれと頼むのも情けない話しだ。比呂美の顔を窺ったら、うっすらと笑っているようにも見える。(おまえな~、わざとやってるのかよ~) 眞一郎は呆れて全身の力を抜く。そのとき、眞一郎の頭の中に流星のごとく名案が浮かんだ。すぐ決行することにした。 眞一郎は、ゆっくり膝を伸ばしていき、両脚をピンと真っ直ぐにする。それから、比呂美のおしりが布団から離れて浮くまで、自分のおしりを垂直に持ち上げる。眞一郎の体は真横から見ると『へ』の字になった格好だ。眞一郎の作戦にまだ気づいていない比呂美は、眞一郎にしつこく絡みついたままだ。眞一郎が悪あがきをしていると思っているのだろう。 眞一郎はひとつ深呼吸してから、一気に腰を振り下ろし、比呂美のおしりを敷布団に叩きつけた。眞一郎の全体重に、比呂美のおしりが布団を打ったときの反動が加わり、眞一郎のペニスが比呂美の膣奥にかつてないほどめり込んだ。「きぃやぁん――っ」 比呂美の甲高い声とともに、比呂美の全身の力が緩む。そのあと、比呂美の体はぶるぶると不規則に震えだす。期待をはるかに超えた眞一郎の突き上げに、比呂美のからだ自体が感激に打ち震えているという感じだ。(比呂美、ごめん) 内心謝りつつも、このチャンスを逃すまいと、眞一郎の腰は激しく前後運動を始める。「ゃっ、や、あ、いやっ、あぁっ……」 応戦一方になった比呂美の声が、眞一郎の動きに合わせて漏れ出す。比呂美の身体能力の高さを逆に利用した眞一郎の必殺技がかなり効いたらしく、反撃できないでいる。眞一郎にしがみついていても、前ほどの力はない。眞一郎の一撃で、比呂美の体は完全にねじ伏せられてしまったのだ。 このときを境に、ふたりは絶頂へと一気に駆け上がっていく。 比呂美は、眞一郎のペニスが突き上げる度にのたうちまわる自分と、その感覚とは離れて物事を冷静に見つめる自分の両方を感じていた。冷静なほうの比呂美は、自分の体の動きをはじめ、眞一郎の一挙手一投足を観察している感じだ。眞一郎も同じような感覚でいた。自分の体と比呂美の体の動き、そして状態を静かに観察していた。ずっと続いていた性的興奮状態に脳が慣れて、五官が冷静さを取り戻し、いろいろと気配りができる余裕が生まれたようだ。だから、そのような感覚に陥ったのかもしれない。そうなると、相手の体がますますいとおしくなる。 眞一郎は、自分のおでこを比呂美のおでこにくっつけた。口を半開きにして激しく息を飛ばす比呂美はかすかに微笑む。眞一郎も微笑み返す。そして、片目だけ目を細めて、射精が近いことを比呂美に教える。果たしてこの合図で比呂美にそれが伝わるのか疑問だが、いまのふたりには、十分すぎる情報なのだ。言葉などで明確な合図を送らなくても、通じてしまうのだ。眞一郎も、比呂美がオーガズムの手前まで来ていることを感じている。比呂美の吐息、頬の色、目の潤み、体の筋肉の躍動、膣内の感触などから総合的に感じることができるのだ。 眞一郎は、おでこを離し、再び頬を比呂美の頬にくっつける。そして、両足を踏ん張って、腰の動きをより鋭く、より意思のこもったものにする。同時に神経をペニスに集中させ、比呂美の内壁の粘膜を掻きだす感触を強める。「ぁぁ、ぁあ、ぁぅ、ぁあっ……」 比呂美の声はもうすでにかすれてしまって、空気を吐き出す音の一部と化している。代わりに、眞一郎が声を上げた。とにかく、声によるさらなる気持ちの高揚がほしかったのだ。「ひろみ……、ひろみ……、ひろみぃーっ……」 自分の名前を繰り返されて、眞一郎の背中に回した比呂美の腕の力が強まる。掌を這わせるなど余計なことはせず、手形がつきそうになるくらいにしっかりと眞一郎の背中をつかむ。ただ、両脚のほうは踵が宙に浮いてしまっていて、膝から下がぷらぷら揺れている。もう眞一郎の体に脚を絡ませたりせずに、眞一郎のペニスを締めつけるためだけに、力を膣に集中させている。でも、足先の指が拳を作ったように曲がるのはどうしようもなかった。「おれっ、もうっ、いく――ッ」と、眞一郎の自己申告に対して、「きてぇ――っ」と、比呂美が答える。 この比呂美の声が引き金となった――。直後、ペニスの根元の奥で、ゆるい塊が動きだしたのを眞一郎は感じた。射精プロセスに突入だ。もうこうなったら、眞一郎自身ですらそれを引き戻させることはできない。このときだけ性器は独立して働き、精子をまもなく発射する。でも、精子が外へ飛び出すまでにはまだ時間が残っている。わずかだけどもこの短い時間を無駄に過ごしたりはせずに、より多くの精液を送り出し、心地よい射精感を味わうために、ペニスを比呂美の内壁に惜しみなくこすりつける。来て、と叫んだのだから、比呂美もそうしてほしいはずなのだ。 まもなく、内部を走る精子群は爆発的に加速し、出口めがけて突き進んだ。眞一郎はもう腰を振ることができず、比呂美の一番奥深くにペニスを押しあてたままだ。眞一郎がそうしたことで、比呂美の子宮から放射状に伝令が走る――眞一郎が来る、と。そのメッセージを脳が受け取ると、比呂美は一気に全身が蕩けるような感覚に襲われる。 とうとう、眞一郎の精子が連なって外へ飛び出し、コンドームの薄膜を容赦なく叩く。「あっ、あぁっ、ぐあああぁぁぁ――――ッ」 精子が引き出される感覚に眞一郎は身震いするが、脱力感が襲う中、力を振り絞って、飛び出す精子にさらに勢いをつけるべく腰を振った。まだ内部を移動している精子が、全開の水道の蛇口のように切れ目がなく飛び出してくる。まるで、比呂美の膣が、眞一郎のペニスをストロー代わりに精子を吸い上げているみたいだ。「ぅぁぁぁああぁぁぁ――っ、 んくぅぅううぅ――っ」眞一郎は内部の混濁を吐き出すように叫ぶ。精子が管を通るときのムズムズ感と、最後の一滴まで絞りだそうとする力み(りきみ)が、眞一郎の全身を細かく振るわせる。それに呼応したように、比呂美の腰も小刻みに動く。 そしてついに、比呂美も子宮で弾けた絶頂のエネルギーを外へ放出するため、眞一郎にそれを伝えるため、声を上げた。 イルカにまたがったまま、最高速で比呂美が海面を突き破った瞬間だ――。 ……ぁぁぁぁぁ――っ、 ぁあああぁ――っ、 ぁぁぁはあああぁぁぁあああぁぁぁん――――っ ……………………。比呂美の声が辺りを黙らせたように感じた。ふたりの喘ぎ声、肌と肌がぶつかる音、布団のすれる音、愛液が掻き混ぜられる音、コンドームがしごかれる音、どれもが確かに止んだが、蒸気機関車のようなふたりの呼吸音だけがこの部屋で許されたみたいだ。 雌として純粋な叫びを聞き遂げて、眞一郎は目を閉じた。まだ比呂美の声の振動が余韻として眞一郎の体の中で響いている。眞一郎は目を開け、比呂美の腰を締め上げていた両腕を解き、比呂美の頭をやさいくなでた。比呂美は、浜に打ち上げられたばかりの魚のように息をしている。時折、終わりかけの線香花火の火花のように体の筋肉をぴくつかせる。 比呂美がほぼ一定のリズムで息を吐いていることにほっとした眞一郎は、自分の股間に意識をもっていく。そういえば、さきほど射精の終わりというものを感じなかったよう気がすると思い出す。切れ目なく精子が流れ出ていったので、何回くらい精子の塊が飛び出していったのか、いつ射精が完了したのかよく分からなかったのだ。もしかしたら、管は閉じずに通じていて、まだゆっくりと射精しているのかもしれなかった。 眞一郎は、ペニスをゆっくりと抜いていった。ペニスを抜いたところで、突然、ものすごい脱力感に襲われる。崩れ落ちそうになる体を必死に支えて、比呂美の横に、仰向けになった。天井が果てしなく遠くに感じられた。二、三回、大きく深呼吸して、上半身を起こし、ペニスに目をやる。その光景に、眞一郎は一気に肝の冷える思いをする。 とりあえずコンドームは大きくずれたりせず、ほぼ着けたときのままで被さっている。しかし問題は、ペニス全体に付着し、この白濁した泡のようなものがなんなのか分からなかったということだ。精子が漏れ出たのかと一瞬考えたが、それは大丈夫のようだった。精子は、ビー玉くらいに膨らんだコンドーム先端から、亀頭のカリのところまでに留まっていた。ということは、この泡の正体は、比呂美の愛液ということなのか。膣内の愛液を眞一郎のペニスでむちゃくちゃにかき混ぜた結果ということなのか。そうなると、比呂美の秘部のほうも、これと似たような光景になっているはずだ。 眞一郎は、比呂美に目をやった。脱力しきった比呂美が、静かに息をしていた。少し心配になって、眞一郎は比呂美の体に寄り添い、顔を覗き込んだ。「比呂美……。大丈夫?」 比呂美はぴくりとも反応を示さない。眞一郎は、まずい、と思った。目が開いていても、気絶している場合もあるかもしれないと考えた。「比呂美、比呂美」語気を強め、眞一郎は再び呼びかけてみた。 比呂美のまぶたが、一ミリくらい閉じかけてまた元に戻った。どうやら、眞一郎の声は届いているようだ。「比呂美……、ごめん……」といって、眞一郎が涙ぐむと、比呂美の瞳が眞一郎のほうへ向いた。 このとき眞一郎は、以前雑誌で読んだハウ・トゥー・セックスのことを思い出した。女性を絶頂へと導いたあと、男性は女性のそばに寄り添い、思い切りやさしくすること――と確か書いてあった。いまが、まさにこのときではないか。でも、放心状態の比呂美にどうやってやさしくしたらいいのか眞一郎には分からなかった。おそらく、乳房や秘部を愛撫することではないはずだ。眞一郎は、改めて比呂美の全身を眺める。比呂美の両脚がまだ宙ぶらりんのままだったので、とりあえず、脚を伸ばさせてあげることにした。 眞一郎は、比呂美の足先に回りこみ、比呂美の両脚をつかもうとしたが、どうしても秘部に目がいってしまう。眞一郎の予想通り、比呂美の秘部とその周辺は、眞一郎のペニス以上のあり様だった。卵白を泡立てたような塊が、秘部を中心に吹きつけられている感じだ。勢い余って太ももや下腹まで飛び散っている。比呂美の肌と眞一郎の肌が激しくこすれ、ぶつかったことを物語っていた。(どうする……。『ぬぐって』あげたほうがいいよな。比呂美、いやがるかな……) 秘部をこのままにしたまま、脚を伸ばさせても気持ち悪いだけだろうと思い、眞一郎はこの泡立った愛液を拭ってあげることにした。比呂美のスポーツバッグの横にあったティッシュペーパーを数枚取り出し、まず、太ももや下腹部を拭った。ティッシュを新しく替えてから、秘部を拭った。そうしている間、比呂美は身じろぎひとつしなかった。そのことが、眞一郎をほっとさせるよりも不安な気持ちにさせた。比呂美の具合がよくないということなのだから。 比呂美にタオルケットをかけてあげ、眞一郎はとりあえず先に、自分の性器の後始末をすることにした。使ったゴムや、ティッシュは比呂美が用意していたビニール袋に入れて軽く縛った。それからすぐに、比呂美に寄り添い、比呂美の頭を持ち上げて左腕で腕枕をしてあげた。そうすると、比呂美の体がいくらか生気を取り戻したように感じられた。「比呂美、ずっと、こうしててあげるから。なんでもしてあげるから……」 眞一郎は、比呂美の耳元でそう囁いた。比呂美の反応をとくに期待していなかったが、比呂美は鼻から息をはっきりと吐いた。どうやら、笑ったみたいだ。眞一郎は、比呂美の髪をなで、頬に口づけた。しばらくの間、そうしつづけた。 時間にして30秒くらいあとだろうか、比呂美がなにかを言いだした。「…………ぃ、…………して……」「え……? なに?」「……ぅり、……も、……し、て……」 うりもして? 何のことだ? 比呂美の言葉の意味がまだよく分からない。「どうしてほしいの?」 眞一郎が、もう一度訊き返すと、比呂美は一音一音区切ってこう呟いた。「……く、……り、……と、……り、……す」そのあと比呂美は小さく、うふふ、と笑った。(マジかよぉぉぉ――っ!!) 比呂美は、陰芽をなめてほしい、と言っているのだ、間違いなく。 絶叫したくなるのを眞一郎はぐっと堪えた。なんでもしてあげる、と言った手前、「ウソだろう?」とか、「ほんとに、いいのかよ……」と訊き返すことなどできない。それに、男として比呂美にもう一度「クリトリス」と言わせることも許されない。おそらく、九十九パーセント、比呂美はジョークのつもりでそう言ったのだろうが、かといって、比呂美が口にしたお願いを無視するわけにもいかない。眞一郎は、比呂美の口から「冗談よ」という言葉が出てくるまで従うしかなかった。比呂美のお願いを叶えようと行動するしかなかった。 眞一郎は、比呂美の頭から腕を外し、比呂美の下半身のほうへ体をずらしていく。タオルケットに手をかけたところで、比呂美の顔を窺う。比呂美は、顔を背けて、眞一郎に顔を見せないようにした。比呂美は、純粋に恥ずかしがっているようだ。(比呂美、本気なんだ……) 眞一郎は、そう思うしかなかった。どう考えても、比呂美はまだジョークを飛ばせるような状態ではないのだから。オーガズムがまだ続いている比呂美は、恍惚の狭間からうまく抜け出せないでいるのだ。それなのに、性交に勝手に区切りをつけてしまっていることに気づかされた眞一郎は自分に腹を立てた。全然、男らしくないじゃないか。比呂美に「やめてっ」と言わせるくらいじゃないとダメだというのに。 タオルケットが再び左右に開かれ、比呂美の脚が持ち上げられていく。眞一郎は、比呂美の秘部に顔を近づけながら、比呂美の手を握った。比呂美もわずかに握り返す。まだ張りを保った秘部が眞一郎を睨んでくる。いきなり陰芽に口づけるのは、デリカシーに欠ける気がしたので、眞一郎は、まず太ももに口づけ、柔らかな内側の肉を吸い上げた。比呂美の両脚が眞一郎の頭を挟んでくる。思ったより力がこもっていたので、比呂美の状態が回復しつつあると感じることができた。眞一郎の手を握る力も増してきている。 太ももに挟まれた眞一郎の頭が、脚の付け根へねじ込まれていく。陰毛に口づけたあと、眞一郎は顔を下げていく。そうしながら、比呂美の手を離し、太ももに両腕をしっかり巻きつけた。眞一郎の網膜に秘部の色と形状がじりっと焼きつきそうになり、眞一郎は思わず顔をしかめた。濃密で混じりけのない比呂美の性の源流に、呑み込まれてしまいそうだった。 比呂美の陰芽は膨らみを保ち、剥き出しになっている。みずから迫り上がってきたような感じだ。それを、眞一郎は鼻先でそっとつついた。数回つついたあと、こんどは、鼻先でこすった。「……ぁぁ、……ぁあっ」 比呂美の発する快感の発露が、眞一郎の耳にも届く。性への昂ぶりが一気にふたりを包む。両頬で太ももの感触を感じながら、眞一郎は舌先で陰芽を舐め上げた。予想通りに比呂美は、おしりが跳ね上がるほど体を反らした。上品に舐めている場合ではなくなった眞一郎は、陰芽を口に含んだ。そして、振り払われないように強く吸った。陰芽が持ち上がり、柔らかな球体を舌で感じることができる。「……ん、な……の……、……やっ」(そんなの、いや) 比呂美がはじめて拒否反応を示すが、これは眞一郎の行為を褒めていることの裏返しだ。眞一郎にもそのことがよく分かっている。比呂美は内心嬉しいとき、よく「いや」と言うのだ。「ゃっ、やっ、あっ、やっ、ぁあ、ぁ~、ぅ~、……」 でも、だんだん比呂美がベソをかきはじめてきたので、眞一郎は口で吸い上げるのを止め、舌先で陰芽を転がすやり方に切り換えた。いくらか余裕の生まれた比呂美は、「もう~」と大きく息を吐いた。「いたいじゃない……」 比呂美はそういうと、眞一郎の頭をぽんと叩いた。このことが、治まりかけた眞一郎の性欲に火をつけてしまった。また比呂美の中に挿入したいと気持ちが一気に膨れ上がっていったのだ。一度想像すると、欲望が加速していく。すでに固くなっているペニスが、さらに固くなろうと震えだす。眞一郎は、胸が苦しくなり、この苦しみを和らげる手立てを考える。とにかく、下半身で一気に膨張するエネルギーをなんらかの形で外へ放出するしかないようだ。だから、眞一郎は顔を上げ、比呂美に「いれたい……」と訴えた。 比呂美は、戸惑った。放心状態をついさっき経験したばかりで、正直いうと怖かったのだ。それと一緒に、眞一郎の性欲を受け止めなくてはという使命感も強くあった。激しい射精のあとで眞一郎もそれほど強く求めてこられないだろうと高をくくり、比呂美は眞一郎を受け入れることにした。「……いい、よ…………」 その言葉を聞いて、眞一郎はしばらく比呂美の瞳を覗き込んでいた。比呂美が痩せ我慢をしているのではないかと見極めているようだ。眞一郎が顔を少し上げると、比呂美の目線に眞一郎の股間でそびえ立つペニスが飛び込んできた。眞一郎がこのまま腰にしがみついてきたら、挿入を阻止できないかもしれないと比呂美は警戒し、遠まわしにコンドームを着けるよう促した。「はやく……」「あ、ぅ、うん……」 もしや、眞一郎はゴムを着けないで挿入することを想像していたのではないか。我に返ったような眞一郎の反応が、比呂美にそう思わせた。 眞一郎は、突先よりすでに溢れ出ている愛汁をティッシュで丁寧に拭ってから、コンドームを着けた。その作業を隠さず比呂美に見せた。そうしたことで、言葉で急かしたことに対して眞一郎がむっとしたのではないかと比呂美は思ったが、コンドームを着けるとすぐに亀頭を押しつけてきたので、眞一郎はペニスを挿入することでいっぱいいっぱいになっていたのだと分かった。眞一郎の全身の筋肉が、挿入という目的のためだけに動いているように見えた。 しばらく浅くペニスを出し入れして比呂美の愛液をペニスにまとわりつかせる。こんなことをしなくても比呂美の膣内は十分すぎるほど濡れているのは分かっていたが、ルーチン・ワーク(決まり手順)のようにそうしないわけにはいかなかった。それに、立て続けに行う二回目の挿入であっても、比呂美にも心の準備がいるはずだ。なにせ一番デリケートなところなのだから。 眞一郎は、腰の動きを止め、大きく鼻から息を吐く。深くいれるぞ、という合図だ。比呂美も喉を鳴らして、いいよ、と答える。 眞一郎は、膝の踏ん張りを確認しつつ、亀頭ぎりぎりのところまでペニスを引き戻し、比呂美の肩に両手をかける。窓から吹き込んできた爽やかな風が、眞一郎と比呂美の体の間を滑りぬけていく。一回目の性交の匂いを部屋の隅に押しやり、真っさらで清らかな空間をふたりに提供しようとした。いまからふたりがやろうとしている行為は、淫らなことであっても、汚れたことではないはずだ。ふたりが同時にそう考えたとき、ふたりの肉体が『静』から『動』へ切り替った。 しかしだ――。 その折り返した頂点のところで、これからの愛欲の時間を、ふたりの未来をも引きはがそうとするような変化がこの部屋に生じた。ふたりにとっては、この部屋で起こった最大の異変といってもいい。そんなことは起こるはずがない――ふたりとも、なんの根拠もなくそう思い込んでいたのだ。 ふたりとも上半身を起こし、同じ場所に目をやる。困惑と非難の入り混じった視線を比呂美のスポーツバッグに注ぐ。 鳴りつづける、比呂美の携帯電話。比呂美の好きなロックバンドの着うたが、1フレーズ流れ、頭に戻り二回目を再生しだす。「比呂美、はやく取ったほうがいい……」焦りに体が震える中、眞一郎は声をなんとか絞り出す。 そう、電話を早く取ったほうがいいのだ。そうしないと、性交していたことがバレてしまうかもしれないからだ。いくら外泊が許されたからといっても、セックスに明け暮れていいはずはないのだから。 比呂美は慌ててスポーツバッグへ這っていく。その後ろから、眞一郎はタオルケットを比呂美の体に巻きつけてあげる。比呂美の見事なおしりを目の前にしながらも、眞一郎のペニスはくたびれたように垂れ下がってしまった。 あの人からの電話に、どのように受け答えたらいいものか――。携帯電話を取り出すまでの短い時間に、比呂美は必死になってシミュレートしようとしたが、こめかみがどくんどくんと脈打って、それどころではなかった。比呂美はすぐに諦めた。考える時間は短いし、頭の中は混乱しているし、それ以前に、あの人をそう簡単に欺けるわけないのだ。この部屋に充満している淫らな空気を受話器越しに感じるくらいのことは、あの人にとって朝飯前なのだ。嘘をついてもダメ、芝居をしてもダメなのだ。かといって、いままさにハメていました、と正直に言う勇気もまだなかった。下腹が凍りつきそうで、比呂美は身震いした。 あの人は、最初からこのつもりだったのだろうか――。温かく見守るフリをして、やはり鋭く睨みつづけていくつもりなのだ、眞一郎との仲を――。『責任をもって、育てます――』 あの人の――理恵子のこの言葉を、比呂美はいま、恨めしく思った。 はじめての外泊-4 へつづく ――次回予告《 四 ふるえちゃった……》 比呂美の提案に、眞一郎は戸惑う。 それは今ここでやっておかなければならないことだ、と比呂美は訴える。 比呂美にはまだ打ち明けていないことがあった。 愛し合うことの新たな扉を、ふたりは開こうとしていた……
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