前回 はじめての外泊-3 《 四 ふるえちゃった……》 比呂美にはその三文字が、太古で使われた記号のように見えた。視覚で捉えていても、無数に枝分かれした脳の回路が、千年前の記憶を辿っていくみたいにすぐには繋がらず、ちっとも解析が進まない感じなのだ。それほどに意表をつかれた三文字だった。 携帯電話のディスプレイには、次のように表示されていた。ト、モ、ヨ、と。┏━━━━━┓┃ トモヨ ┃┃ 0:29┃┗━━━━━┛ でも、その混乱はほんの一瞬のことで、比呂美はすぐに自分の大失敗に気づき、胸のど真ん中に風穴ができるのを感じた。比呂美は携帯電話の筺体(きょうたい)を開いて、まっさきに「ごめんなさい」と謝ろうとしたが、そうする前に、相手の音声が小型スピーカーから飛び出してきた。樹木をなぎ倒す雪崩のような轟音を伴った感じで。『おっそぉ――――いっ、もうっ!』「ご、ごめん……なさい」 朋与の声はすでに怒りを通り越していて、比呂美を心配する口調に変わっていた。比呂美にはそれが分かるのだ。比呂美の両親が亡くなったあとずっと比呂美のそばにいてくれた朋与のことだからこそ、間違えることはない。罪悪感が肌に突き刺さるのを感じ、比呂美はただただ謝るしかなかった。比呂美にとって朋与は、岬に立つ灯台のように見失ってはならぬ存在で、そんな彼女に心配をかけるということは、片翼をもがれる鳥の絵を見て感じる悲痛と同じくらい心が痛むことなのだ。「ほんとうに、ごめん……。ごめん……」比呂美は繰返し謝り、肩をすぼめた。 朋与は、しばらく言葉を失っていた。その沈黙がなにを意味するのか比呂美には分からなかったが、朋与に複雑な感情が渦巻いていることは想像ついた。眞一郎と同じように、比呂美に「ごめん」と何度もいわせてしまったことを後悔しているのかもしれない。 おふくろじゃないの? と眞一郎が比呂美の肩越しに声をかけると、比呂美は慌てて振り返り、ひとさし指を立てて口の前にもっていった。そして携帯電話のディスプレイを眞一郎に見せた。 電話をかけてきた相手が、母の理恵子じゃないと分かると、眞一郎は切り倒される大木のように布団に突っ伏した。眞一郎の股間で薄膜をまとった根幹がしぼんでぷらぷらと揺れるのを、比呂美は横目でちらっと見てから電話に集中した。『なにしてたのよぉ―――、比呂美らしくない。約束すっぽかすなんてっ』 気を取り直したみたいで、ようやく朋与は口を開いた。言い方はきつくても、比呂美に何かあったわけではないと分かって、朋与の声から緊張感が取り払われていく。それを感じて、比呂美もほっとする。「ごめん、朋与……。こんど、なにかおごるから」『いいわよ、そんなことしなくても』朋与としては比呂美にお金を使わせるのはあまりいい気がしない。『あっ、でも、夏休みの課題は見せてぇ』と慌てて思い直した。これでチャラにするつもりなのだ。「抜け目ないんだから」と、比呂美はいつもながら呆れた。電話の向こうでは朋与が、にひひ、と笑っている。気味の悪い笑い方だけど、硬直しかけた空気をほぐす力だけはもっている。 比呂美は、今夜九時過ぎに電話することを朋与に約束していた。このアパートに無事着いたあとに電話入れるつもりでいた。例の、朋与が幹事を務める、女バスの三年生の引退セレモニーの件である。その会場として仲上家の客間を使わせてもらえないかと、比呂美はヒロシに尋ね、その結果を報告しなければいけなかったのだ。『で、どうだった?』と、朋与が早速切りだしてきた。「そ、それが~、ね……」『なに、その口ぶりだと、まだってこと?』「うん、話しそびれちゃって……。ごめん」と、比呂美は軽くおどけって言ったが、それが返って朋与を心配させた。少し間をあけて、『もしかして……』と、おそるおそる善くない事を確かめるように朋与は話しだした。『やっぱり、言いにくいのかな、こういうことって……』比呂美に嫌なこと押し付けてしまったと、反省しているような口ぶりだ。さらにつづけた。『わたしが直接、話そうか? 比呂美のその……、なんていうか……、立場を考えると、ちょっとどうかな、とは思ったんだけど、比呂美がわたしに任せてっていうから……。ほら、引退セレモニーていったって、女の子がワーワー、キャーキャー、ドンチャン騒ぎやるわけだし……』 比呂美は慌てて言葉を返す。「朋与、ちがう、ちがうって。言いにくいとか、ぜんぜんそんな心配いらなから。きのうは、ほんとうにバタバタしていて、話すタイミングがなかったの。それだけのことよ」『…………』朋与は比呂美の喋り方から本心を確かめているようだ。「それに、眞一郎くんのお母さんにはインターハイのあと、この話、したし。お父さんのほうには正式にお伺いを立てていないだけなの。ただそれだけ。場所提供に関しては問題ないんだけど、ほら、親戚事と重なるとちょっとまずいでしょ? ドンチャン騒ぎやるわけだし」 比呂美が眞一郎のほうに目をやると、案の定、眞一郎も比呂美のほうを見ていた。なんのこと? という風にきょとんとした顔をしている。なにか言いたそうでもあったので、比呂美は再度ひとさし指を立てて口の前にもっていった。こんな夜中に眞一郎と一緒にいることが知れたら、朋与はどんな悪知恵をはたらかせるやら――。『ほんとうに、それだけぇ?』と、まだ疑っている朋与。「わたしが心配しているのは、眞一郎くんの鼻の下がのび、わっ」『どうしたのっ! 比呂美ぃー』 眞一郎が比呂美のスポーツバッグの横にあったティッシュペーパーの箱を取ろうとして身を乗りだしたのを、眞一郎が抱きついてきたと比呂美が勘違いしたのだ。こんどは、眞一郎がひとさし指を立てている。比呂美は眞一郎の背中にもみじ饅頭(※平手によるアザ)を作ってやろうかと思ったが、思いとどまった。相当すごい音が響くはずだから。(当然、眞一郎の奇声も)「なんでもない、なんでもないっ」比呂美は慌てて取りつくろう。「片足でストレッチしてて、バランスくずしただけっ」『ふ~ん』なんでまたこんな夜中にストレッチ? と朋与はいぶかしげにうなずいた。 ゴマかしきれたかどうか、注意深く朋与の反応に耳を澄ませている比呂美の横で、電池を逆に入れた子犬のロボットみたいに眞一郎が這って後退していく。右手にはティッシュ、左手にはトランクスが握られ、股間のアレはまだ晒されたままだ。どうやら、眞一郎は洋室へ撤退するようだ。「『ロ○キー』見てたら、なんか体、動かしたくなって」と、比呂美はさらに理由をでっちあげた。(この一言が墓穴を掘ることになるとも知らずに)『○ッキー? スタ○―ンのアレ?』「そうそう、映画」(そうそう、その調子、その調子。うまくゴマかせそう)『たしかに、気に入らないヤツ、ぶん殴りたくなるよね、あれ見てると』「べつに、そこまでは……」と比呂美は苦笑した。『……あれぇ~、もしかして、仲上君と一緒に見てたんじゃないの?』比呂美が妙に連れない返事をしたので、朋与はそう勘ぐらずにいられなかった。 ドキンッ!! 比呂美は息をのんだ。なんの前触れもなく、ずばり言い当てられて言葉が出てこない。いや、なにを言っても暴かれるような気がしたのだ。どんなに巧妙に否定しても、朋与が次々と確たる証拠と突きつけてくるように思えた。なにせ、ずばり言い当てるだけの勘の鋭さを朋与がもっているから。でもそれはあっさり杞憂に終わった。朋与の次の一言があっさり終わらせた。『あ、そんなわけないか。仲上君、金沢に行ってるんだっけ』「うん、そうそう」(朋与、えらいっ! よく思い出したっ) 比呂美は、当たり前の事実のように平淡にうなずいたが、心臓はバクバク鳴ったっきり治まる気配をみせない。何事もなく早く電話が終わることを比呂美は祈った。『どうしてるだろうね、旦那は』「寝てるんじゃないの?」眞一郎のことを旦那と呼ばれることには、もう比呂美は慣れている。いや、諦めている。朋与は、はぁ~、とため息をついた。『そういうことを言ってるんじゃないの。遠く離れていても、比呂美のことをちゃんと想ってるだろうか~、って言ってるの』 この言葉には、少女漫画の一コマを思わせるロマッチックな情感がわざとらしく加えられていた。「そんなこと、わかってるわよ」と比呂美は達観したように返した。「わたしからのろけ話を引き出そうとしているくらい」『あはは、バレたか。聡明な比呂美さまには敵いません』朋与はお代官さまにひれ伏すように素直に魂胆を認めたが、そのあといきなり声のトーンを落とした。『でもぉ、ちゃんと連絡とってる? 大学生に囲まれてのボランティアなんでしょ? ちょっと強引なお姉さんだったら簡単に押し倒されちゃうんじゃない、仲上君の性格だと』 比呂美は少し意表をつかれた。朋与が考えていることは、こっちのほうだったのだ。眞一郎が浮気するということ。比呂美のそばから眞一郎が一週間もいなくなることを朋与なりに心配していたのだ。ただ、眞一郎が浮気をしていないかということが気になったわけではなく、それよりも、比呂美が孤独感を感じていないかということのほうが気になっていたようだ。朋与がそこまで考えているとは、いまの比呂美には想像つかなかったが……。「どうかな~。でもけっこう、ああ見えても頑固だよ。譲らないところは、譲らないし、強引なところは、強引だし」『それって、エッチの話?』「ばかっ。せ、い、か、く、の話でしょ。油断も隙もないんだから」 比呂美は洋室のほうに目をやったが、眞一郎の姿は見えなかった『でも、キスマークがどこかに残ってないかくらい、さりげなくチェックしておいたほうがいいと思うけどな~』とおもしろがって朋与はいう。「ご忠告を、どうも」(もうチェック済みですよ~) 朋与は、ほっとしたように鼻を鳴らした。『そういえば、さっきから気になってたんだけど、電話の声、いつもより遠く感じない?』「え、ぜんぜん、気にならないけど……」 どこまでこの女は抜け目ないんだろう、と比呂美は思う。朋与がカマをかけてそういってきたのか、ほんとうにそう感じたのかは分からないが、ほんとうに油断も隙もない。『そう、気のせいか。じゃ、そろそろ』「うん。ごめんね、すっぽかしたりして」『もう、いいって』といって朋与はそのあと黙った。そして、ヒミツを打ち明けるみたいに口を開いた。『……比呂美、あのさ……』「なに?」比呂美は、朋与の中の微妙なざわめきを感じたが、気づかないフリをしてそっけなく訊き返した。『いや、なんでもない。夏休みの課題、よろしくぅ』「はいはい」 お互いに「おやすみ」といって電話を切った。 やっと終わった、と比呂美は肩の力を抜いた。携帯電話をスポーツバッグの上に置くと、コーヒーの匂いに鼻をくすぐられて、比呂美は振り返った。眞一郎が紙コップ片手に戸のところに立っていた。濃いグレーに深緑の線の入った新しいトランクスに穿き替えている。上半身はまだ裸だったが、股間のアレの部分は盛り上がってはいなかった。「女バスの話?」と眞一郎は尋ねた。「う、うん」後半はあなたの話だったけど、と比呂美は心の中で付け加えた。「三年生の引退式を――ていっても堅苦しいものじゃなくて、その女バス集まりの会場として、眞一郎くんちの客間を使わせてもらえないかと思って、おじさんにお願いすることになってたんだけど、話しそびれちゃて……。朋与にそのこと、今晩電話することになっていたの。それで……」 そういっている途中で眞一郎がはっきりと顔をしかめたので、比呂美は「なに?」と訊いた。「比呂美の家でもあるんだから……」 どうやら、眞一郎も朋与と似たような心配をしたらしい。正直なところ、仲上夫妻に対して遠慮する気持ちは比呂美にはあった。それは、誰がなんと言おうとも、一生消えることのない気持ちだろう。でも、その気持ちはもう、以前ほどの強い気持ちではない。全身の筋肉を収縮させてしまうほどのものではなくなっていた。でも、心の中でその蟠りが薄まっていても、まだ言葉や態度の端々で露見してしまっているのも事実だろうと比呂美は思った。だから、こうして朋与も眞一郎も反応するのだ。「あ、う、うん、それはわかっているんだけど……」眞一郎の気持ちをあまり逆なでしないように比呂美は言った。「法事とかと重なるとまずいじゃない、だから、きちんと話、しなきゃと思って」「そんなの大丈夫だよ、いつだって。比呂美は身内なんだし、それにキャプテンになるんだろ?女バスのみんなのスケジュール合わせるのだって、大変なことなんだし」「そうだね」 比呂美は、肩にかかっているタオルケットを滑らせ、脇の下に通した。眞一郎は、慌てて顔を背ける。風呂上りにバスタオルを体に巻きつけるように、タオルケットを巻きつけると、比呂美は立ち上がった。タオルケットの丈が長いため、その一部は畳についてしまう。いま自分はとても不恰好な姿をしているだろうなと比呂美は思った。比呂美は試しに、その場で立ったまま眞一郎を真っ直ぐ見つめてみた。(なんて言ってくるだろう、いまのわたしを見て)「どうした?」眞一郎はその一言だけ発した。 眞一郎がいま飛びかかってこないかな、と比呂美は思った。タオルケットをむしり取り、自分を押し倒し、コンドームを着けずにいきなり挿入する。眞一郎がそうしてくればいいのにと思った。自分の肉体に夢中になる眞一郎を見てみたいと思った。なぜ急に、こんな率直な妄想に取りつかれたのか、比呂美には分からなかったが、体の芯が熱くなるような悔しさを感じていることは分かった。悔しさには、かすかに怒りのようなものも混じっている。「わたしにも、コーヒーちょうだい?」 比呂美はそういうと、眞一郎に近づいていった。タオルケットの端を踏んで軽くつんのめりそうになったが、すぐコツをつかんで足を運ばせた。 眞一郎はコーヒーの入った紙コップを比呂美のほうに差し出す。比呂美は左手で胸のタオルケットを押さえたまま、右手でそれを受け取ろうとしたが、止めた。「飲ませて」比呂美は軽く笑顔をつくってそういった。「えぇ?」 驚きと、どういう方法で? という表情が同時に眞一郎の顔を支配した。それらをはっきり感じていながら、比呂美はあえて何も言わなかった。「く、口移しでってこと?」 眞一郎は、声が裏返りそうになるのをぐっと堪えて、そう尋ねた。そんくらいなんでもないぞ、という含みをいくらか込めて。比呂美は一瞬それでもいいかなと考えたが、そこまでしてもらうつもりはなかった。眞一郎の手を握って飲みたかっただけなのだ。以前、一回だけしたときのように。そのことを眞一郎に思い出してほしかったのだ。 比呂美は、タオルケットが下へ落ちないようにその端を調整してから、紙コップを差し出している眞一郎の右手を両手でつつんだ。そのとき、眞一郎の顔が変化する。どうやら、あのときのことを思い出したようだ。そして、「口移しで」と言ってしまったことを恥ずかしく思っている。 一口飲んで、比呂美は眞一郎の手を引き戻した。眞一郎は比呂美の顔をじっと見たまま、比呂美が何か言ってくるのを待っている。比呂美の言葉に対して、男らしい返答をいくつか考えているようだ。 比呂美の唇が、蕾から次の段階へ移るための準備をするように軽く開く。それを見て眞一郎は何か言いかけたが、口をつぐんだ。奥へ押し戻したその言葉が限りなく求愛の言葉に近いことは、比呂美には分かった。眞一郎は、おそらく吟味しているのだ。比呂美のいまの気持ちに対して最も相応しい言葉がどれかを。でも、なかなか眞一郎の口からその言葉は出てこない。「もう、終わりにする?」 比呂美はわざと「終わり」という言葉を使った。「終わり?」といわれれば、必ずムキになってそれを否定してくる。眞一郎はそういう性格なのだ。断れない。 洋室の灯りで逆光になっているせいで、眞一郎の顔や胸など体の前面は薄暗い。その代わりに体の輪郭が際立って、多くの情報が集まっているような気がする。内部の血管の収縮具合が読み取れるほどに。眞一郎の血流の一部が再び下半身に向かうのを比呂美は感じた。こんなにもはっきりと分かるものなんだ。 そうそう、それでいい。まだまだ、わたしたちの夜は終わらせない――。比呂美は心の中で、静かに、そして熱くつぶやいた。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ ┃ ┣━┻┳━━╋━眞━┫ ┃ ┃ ┃ 比 ┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― ◇ どうも腑に落ちない。あの比呂美が約束をすっぽかすなんて。個人的なことならまだしも、女バスに関するかなり重要なことをだ。それに、比呂美のほうから任せてほしいと言い出したことをだ。朋与は、勉強机の椅子に座ったまま体を反らせ、天井を睨んだ。椅子のサスペーションがギギっという軋み音を悲鳴のように発しても、朋与は気にしなかった。むしろ、痛めつけてやりたい気分だった。その原因は、どうやら比呂美が何か隠し事をしているということにあった。もともと比呂美は、異性関係についてべらべら喋るタイプではなかった。親友である朋与に対してもだ。それはそれで、そういう性格なのだから、朋与としても無理に秘密を暴いたりする気などなかったが、比呂美の中で別の誰かとのふたりだけの思い出がどんどん増えていくかと思うと、すがりようのない寂しさを感じた。たとえ、これが一時的な感情であって、そのうちふたりのことを素直に応援できるようになると分かっていても、親友を横取りされたような感覚にときどき見まわれて眞一郎を恨めしく思ったのは一度や二度ではなかった。朋与には、比呂美がどれだけ眞一郎のことを好きかは分かっても、眞一郎がどれだけ比呂美のことを好きかはまだよく分からなかったのだ。 朋与は右拳を天井に向けて突き上げた。むしゃくしゃした気持ちが少しでも晴れればいいと思って。ふっと、あのメロディが頭の中に浮かんだ。比呂美がさっき見たといった『ロ○キー』のテーマ曲だ。朋与は、イントロのあとから始まるトランペットのフレーズを口ずさんでみた。「♪ パッパァ~パァ――、パッパァ~パァ――……」 数小節すすんだところで、なにか心にひっかかるものがあった。記憶と照らし合わせてみたが、音程やリズムが間違っているわけではなかった。もともと複雑なフレーズではない。間違いようがない。それ以外のことで何かがしっくりこないのだ。このトランペットのフレーズが、頭の中で何かとショートする感じがする。朋与は、壁にかかったカレンダーに目をやった。もう日付が変わってしまったから、今日は土曜日だ。昨日は、金曜日――。「ああっ、そうだ!」 金曜ロードショーだ。数時間前、民放で放送されていたのは、『ロ○キー』ではない。『となりのトト○』だ。朋与はそのことを思い出したのだ。朋与はその放送を見ていなかったが、トイレにいくときに居間で母が見ているのを目撃していた。そのとき『猫バス』のシーンだった気がする。てっきり、比呂美は金曜ロードショーで『ロ○キー』を見たのだと思い込んでいたから、記憶が少し混乱したのだ。 そうなると、比呂美は『ロ○キー』を民放以外のチャンネルで見たことになるのか。あるいは、ケーブルTVとか、衛生放送とか。録画したものだったり、レンタルDVDということもある。案外、ほんとうに比呂美は眞一郎と一緒に見たことがあったのかもしれないと朋与は思った。眞一郎が金沢に行っていなければ、どんな映画だって一緒に見れるのだ。金沢に行っていなければ……。 朋与は、中学のときにバスケの練習試合で金沢にいったことを思い出した。比呂美の両親が亡くなる前のことで、もちろん、比呂美も一緒だ。比呂美は三年生に交じってすでにレギュラー選手で、朋与は補欠だった。帰りの電車で、騒ぎすぎて顧問や先輩に叱られたけど、とても楽しかったのを覚えている。その思い出がとくに輝いていたので、楽しい思い出ばかりがそうやすやすと続くものではないと分かったとき、怒りのやり場がどこにも見つからず発狂しそうだった。いまでも突然、激しい怒りに身が震えることがある。唇を噛みしめた朋与は、目の前の空気にパンチを繰り出した。比呂美に訪れた『不幸』というヤツを殴り飛ばしたかったのだ。でも、やはり、いつやっても、何度やっても、手応えはぜんぜんなかった。もともと怒りのやり場なんてものはないのだ。いくら探しても、ないものは、ないのだ。そのことを、朋与はいつも確認させられるだけだった。朋与の拳は力なく振り下ろされ、机の上に落ちた。(そういえば、『ロ○キー』、最近見てないな~) 比呂美が体を動かしたくなるのも分かる気がするなと思った朋与は携帯電話で、〈ロ○キー〉と入力して、なんとはなしに検索をかけてみた。数秒後、検索結果がディスプレイに表示された。 第一番目は、配給会社のホームページ。第二番目は、DVD商品の通販のページ。第三番目は、テレビの番組欄だったが、どこの放送局は分からなかった。朋与は、第三番目のリンクへとんだ。そこには、次のような番組案内があった。――――――――――――――――【8月の金曜ロードショー】 8/○○ 夜九時より『ロ○キー』 主演:シルヴェスター・スタ○ーン 愛知TV、岐阜TV、金沢TV他―――――――――――――――― 金沢TV――に目が留まる。ふだんはこの文字に目が留まることなどないが、この夜、このときだけはそうではなかった。「金沢TV? きのう、金沢では見れたんだ……」 そう呟いた途端、朋与の頭の中でカチッと音がしてもおかしくないくらいに、はっきりと何かがつながった。比呂美と眞一郎に関する情報が、その連結された太い筋に沿って一気に整理されていく。・眞一郎は金沢に泊りがけで行っている。金沢にだ――。・比呂美は『ロ○キー』を見ていた。・『ロ○キー』は金沢でついさっき放送されていた。・さっき交わした比呂美との電話が、いつもと違って遠く感じた。 これって、もしかして――。「比呂美は、金沢にいるってことぉーっ?」 だとしたら、まさか!! 朋与は、その先の仮説を軽々しく口に出すことはできなかった。その言葉は、針の先でつつけば飛び出てしまうくらいのところまで来ていたけれど。いや、待て、落ち着け落ち着け、と朋与は首を振る。否定的な要素を見つけるのだ――朋与は椅子から立ち上がり、部屋の中をぐるぐる回りだした。そして考えた。でも、いくらいくら考えても、否定的な要素は何ひとつ出てこなかった。観念した朋与は6周したところで立ち止まり、両ももをぴしゃりと叩いて叫んだ。「ああっ、もうっ! なんにも思い浮かばねぇーつーのっ」 比呂美が金沢にいることを否定する要素は、朋与の頭の中には存在しなかった。いや、朋与の頭の中だけでなく、実際にどこにも存在しないだろう。これっぽちも。朋与は、比呂美が金沢にいることを前提として――さらに仮説を発展させて――眞一郎のそばにいることを前提として、さきほどの比呂美との会話を振り返ってみた。比呂美の喋り方、息づかいを蘇らせてみた。比呂美と電話で会話しているときにも妙だなと感じていたが、改めて思い返してみても蘇った印象は同じだった。いつもの比呂美ではない――そう考えざるを得ない。そして、朋与の勘は、朋与自身にこう告げた。比呂美と眞一郎はセックスをしていた、と――。 他人のセックスのことなのに、どうして体がむずむずしてくるのだろう。朋与の右手は、何かが取りついたような手つきで、パジャマ越しに自分の秘部をなぞった。皮をむいたバナナのような肉棒がこの中に入ってくる妄想を、朋与は止めれなかった。痛いのだろうか、気持ちいいのだろうか。そのことを比呂美はすでに知っている。眞一郎を使って今夜も確認したはずだ。「たしかに。ストレッチには違いないわ……」 見事というべきか、迂闊というべきか、この比呂美のゴマかしように朋与は苦笑いした。それと同時に、眞一郎への怒りがふつふつと湧き起こってきた。比呂美に約束をすっぽかせた原因はこの男にもある。この男が比呂美を狂わしたのだ。比呂美は狂ってなどいないと否定するだろうが、乃絵との一件以来、比呂美に妙な言動や行動が見受けられるようになり、比呂美が嘘をついたのは、事実だ。 そうだ、あの男にひと肌脱いでもらおう。仲上家の客間は彼に押さえてもらおう。そうすれば、比呂美は重荷から解放される。そう考えた朋与は、携帯電話を手に取り、アドレス帳で眞一郎を探す。比呂美になにかあったときのために、眞一郎の番号とメール・アドレスは聞いてある。すぐに眞一郎のページが表示される。あとは、ダイヤルボタンを押すだけ。深夜だろうが寝ていろうが構うものか。さっきまでセックスしていたなら、まだ起きているはずだ。だが、朋与はダイヤルボタンを押しかけたところで手を止めた。あることが頭の中で閃いたのだ。仲上眞一郎に一泡吹かせないことには、この高ぶった気持ちを抑えられそうもなかった。 朋与は、リングに上がるボクサーのような足取りで部屋を出ていった。 ◇ 「もう、終わりにする?」 比呂美にまたこんなセリフを言わせてしまった、と眞一郎は顔しかめた。『終わり』なんていう言葉は、どういう意味で使われようが、比呂美に口にさせたくないし、比呂美の口から聞かされたくないのだ。眞一郎がそう思っているのを比呂美も知っているはず。それなのに、比呂美はあえて使った節がある。眞一郎が何かをためらっていることに対して遠まわしに抗議しているのだろう。しかし、眞一郎がはっきりとした態度を取れなかったのは、もちろんそれなりに理由があった。絶頂を迎えた比呂美が、体が動かせないほどの放心状態になるなんて思っても見なかったからだ。さきほど、勢いに任せて比呂美に二回目の挿入を求めてしまったが、時間を置いて冷静に考えてみると、短時間に何度も挿入することに対して抵抗を感じないわけにはいかなかった。「だって、おまえ……」 だって、おまえ――これだけ聞けば、眞一郎が何を思っているのか比呂美には十分だった。でも、眞一郎のそんな優しさは今は欲しくなかった。それに、終わりにするか否かを訊いているのだ。その答えは、『イエス』か『ノー』のどちらかしかない。やりたいのか、やりたくないのかだ。 比呂美は、力を抜いたように腰を落とし、その勢いを利用して眞一郎の足元に滑り込む。眞一郎に考える余裕など与えないほどの素早さで。バスケットでディフェンダーをドリブルで抜き去るときのフットワークを使えば、こんなことは比呂美にとって朝飯前だ。眞一郎の股間は簡単に目の前だ。比呂美は、眞一郎のトランクスにためらいなく両手をかけ、ペニスが現れる寸前のところまでトランクスをずらした。ここでセックスを終わりにして、果たして眞一郎の下半身が納得して治まるのかどうかを問いただすためだ。。「わっ! ば、ばかっ」 眞一郎は慌てて後ろへ飛び退こうとしたが、コーヒーの入った紙コップを持っていることに気づき、右足を半歩引いて踏ん張るしかできなかった。「だれが、バカだって?」比呂美は、下から眞一郎を睨み上げる。「い、いや……つい、ごめん」と言いながら眞一郎は、左足も引いて体のバランスを保った。「ど、どうするんだよ」と眞一郎は比呂美に尋ねる。「これからキスするようにでも見える?」「そうじゃなくて。コーヒー、こぼれるだろう?」 妙なところで冷静なんだから、と比呂美は鼻をならして笑った。でも、眞一郎の問いかけには耳を貸さずに、トランクスを膝のところまで下ろした。勃起したペニスに引っかからないように、トランクスの前面を持ち上げなら素早くだ。「あ゛――っ! たんま、たんまっ」と叫んだところで比呂美が言うこと聞きそうになかったので、眞一郎はコーヒーを一気に飲み干し、紙コップをくしゃくしゃに潰してからちゃぶ台のほうに放り投げた。そして、膝まで下げられてトランクスをつかもうと手を伸ばしたが、その手を比呂美につかまれ、トランクスをずり上げるのを阻止された。「往生際がわるいぞぉー、眞一郎くん」 比呂美はそういうと、眞一郎のペニスをトライアングルを鳴らすみたいに軽く指で弾いた。もちろん、ちーん、という音は発しないが、その衝撃は眞一郎の体内を確かに伝播していった。それと同時に、ペニスの充血がさらに促進され、眞一郎のペニスは指揮者のタクトのように小刻みに、リズミカルに震えることになる。「こんなになっちゃって……、ふふっ」「おまえ、少しヘンだよ」「どこがヘンよ。こんどはわたしが舐めてあげる番でしょ?」と、眞一郎が比呂美の乳首や陰芽をさんざんいたぶった仕返しをしてやるという風に比呂美はいった。「そ、そんなのいつ決めたんだよ」眞一郎の喉がごくりと鳴る。 眞一郎は一刻も早く比呂美の手を振りほどきたかったが、ちょっとでも抵抗すれば比呂美がすぐにでもペニスに喰らいついてきそうだったので動けなかった。眞一郎のソレは比呂美の鼻先にあり、比呂美がソレを制圧したも同然だった。眞一郎は、比呂美の口で性棒を愛撫されるのが嫌だったわけではなかった。比呂美に完全に主導権を握られたまま、されるのが嫌だったのだ。でも、この体勢からの形勢逆転は望めそうにない。いや、待てよ、これは……。比呂美の本格的なフェラチオを体験できるという好機かもしれない。比呂美みずから進んでそうしようとしているのだ。比呂美に強要することをはばかられた行為をだ。そう考えているうちに、眞一郎の体は先走って反応し、先端の口から愛汁を漏れ出させた。でもこれは、もともと二回目の挿入の準備をしていたのだから、お預けを食らったペニスのごく当たり前の反応といえるだろう。 いままさに、比呂美の唇は眞一郎のペニスを求め、眞一郎のペニスは比呂美の唇を求めている。お互いの意思を無言のまま確認し合い、ふたりとも覚悟を決めた。 比呂美は眞一郎の手を放すと、右手でペニスの根元を握り、左手を眞一郎の腰にやって自分の体を支えた。比呂美の口が開いていくと、あたかもその光景をみているかのようにペニスが上下にぴくついた。比呂美は右手に力を込めてその動きを止める。締めつけたことで先端から愛汁がさらに噴き出して垂れ、比呂美の手にかかった。いまは透明な液体だけど、このままペニスを刺激しつづければ、やがて白濁の精子が出てくる。そのときどのようにして受け止めようかと比呂美が考えていると、眞一郎の両手が比呂美の側頭部に触れ、指先が比呂美の髪の中にもぐってきた。眞一郎は決して比呂美の頭を引き寄せるように力を加えなかったが、比呂美の唇は、眞一郎のペニスめがけて吸い寄せられていった。こんなカッコの悪い体制で性棒を舐められるのは眞一郎にとって本意ではないだろうと比呂美は思いつつも、体の内側から激しく突き上げてくる衝動はもうどうしようもなかった。 いま眞一郎の股間で行われようとしているランデブー(連結)は、宇宙空間で行われるものに比べたらちっぽけなものかもしれないが、ふたりにとっては歴史的な一歩となることは間違いないだろう。 とうとう、ぱんぱんに膨れた亀頭が完全に比呂美の口に覆われる。思ったより大きい――これが比呂美の第一印象だ。それに、マッシュルーム・カットの頭をした小人のような格好をしていても、女性の性器の中を押し広げようとする力を内包しているのを比呂美は感じた。口の中をいっぱいいっぱいに使わないといけなくなりそうだ。やはり、アイスーバーを舐めるのとは大違いだ。比呂美はいったん口を離し、眞一郎を顔を見上げた。けど、眞一郎は横を向いて比呂美と目を合わせない。いまさらそんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないかと比呂美は思ったが、眞一郎が顔を背けた原因をすぐに目にした。眞一郎の亀頭から比呂美の唇にかけて愛汁が糸を引いていたのだ。こういう光景を見慣れないうちは、目を背けたくなるかもしれない。眞一郎の手がわずかに振るえ、いまからでも比呂美の頭を引き戻そうかどうかと考えているのが比呂美の頭に伝わっていく。それを感じた比呂美は、タオルケットをはぎ取りながら立ち上がった。そして、眞一郎が比呂美の乳房の揺れるのを眺める間もなく、全裸のまま眞一郎の体に抱きついた。あまりにも唐突だったので、比呂美の体の生温かい感触が、いったいなんのか眞一郎にはうまく呑み込めなかったが、比呂美の下腹を押すペニスの居心地の悪さが、この体の密着という状況を眞一郎に理解させた。「ごめん……。いやだった?」と比呂美がつぶやいた。「べつに、いやじゃないよ……。ただ、この格好はなんか情けないっていうか……」 それを聞いて比呂美は、ふふっと笑うと、もう一度「ごめん」とつぶやいた。「ねぇ、眞一郎くん」「ん?」 比呂美の瞳がいったん右に揺れてからまた眞一郎のほうに戻る。その細かな表情を眞一郎は見ることができなかったが、公園のブランコが一往復するくらいの間のあと比呂美が囁いた。「こんどはさぁ……」 比呂美はそこでいったん言葉を止める。当然のことながら、なに? と眞一郎はつづきを促そうとした。そのときだった――。 ピピピピ………… ピピピピ………… またしても、密着したふたりを引きはがそうとする音が鳴った――。 いまからいいところ、っていうときに二度も邪魔が入るとなると、もう盗聴でもされているのではないかと思えてくる。「おれのケイタイだ……」と苦いものを食べさせられたときのように眞一郎がうめいた。 愛想のない電子音が、槍の先でつつくみたいに全身の肌を攻撃しつづける中で、携帯電話の電源を切っておくことができたらどんなにいいだろうとふたりは思った。でも、今夜は、眞一郎の両親に外泊を許してもらった手前、そうすることはできなかった。親の目の届かないところであってもこそこそなんかしない、という眞一郎の意地でもあったし、比呂美の信念でもあった。それでも、比呂美は眞一郎に電話に出てほしくなかった。自分以外のことは無視してほしかった。 無情にも、眞一郎の体重が携帯電話のほうに移動しだす。「いやっ」といって比呂美は抱きつく力を強め、眞一郎をとどめようとする。眞一郎も比呂美の気持ちが痛いほど分かったが、電話をかけてきた相手を確認しないわけにはいかなかった。「事務局の人かもしれないし……」 その説明を聞いて、比呂美は腕の力を緩めた。その直後、なんて自分勝手なんだろう、という自己嫌悪が鉄砲水のように比呂美を襲った。眞一郎は素早くトランクスを上げ、比呂美が呆然としていたので、床に落ちたタオルケットを拾って比呂美に握らせた。眞一郎がそうしてくれたことで、比呂美はいくらか落ち着きを取り戻せた。比呂美はちゃぶ台に向かった眞一郎の背中を見つめた。いつもより大きく見えるなと眺めていると、凍ったタオルを押しつけられたように眞一郎の肩がぶるっと震えた。だれなの? と比呂美が尋ねるより先に、眞一郎は電話の相手を口にした。「黒部さんだ……」「朋与っ?」 比呂美の驚きの声に振り向いた眞一郎は、比呂美が何かつづきを言うのを待った。電話に出ないほうがいいだろうかという思いが眞一郎の頭の隅をかすめたが、比呂美の表情は、そうしてほしいとは訴えていなかった。もっと別のことに考えを巡らせているようだった。眞一郎の知らない、比呂美と朋与のあいだの女同士の事情がたくさんあるのだろう。比呂美がすぐには何も言いそうにないので、眞一郎は携帯電話の筺体を開いて、通話ボタンを押した。 鳴りつづけていた電子音が止んでも、ふたりを取り巻く空気は緊張したままだ。その緊張は、その度合いを維持したまま有音から無音に形態を変えたにすぎなかった。眞一郎が携帯電話を耳にあてるのが目に入ったことで、比呂美は考えるのをいったん止め、全神経を眞一郎に向けながら手探りだけでタオルケットを体に巻きつけなおした。そして、背を向けている眞一郎に近づいた。「はい」と眞一郎が電話に応える。『あ…………』という声だけが眞一郎の耳に届き、そのあとの沈黙が戸惑いを物語っていた。朋与は、電話に出てもらえないとほとんど諦めていたのだろう。その諦め際で眞一郎が電話に出たので、気持ちを切り替えるの少し時間が要ったのだ。『仲上くん? 黒部です。黒部、朋与……』「う、うん」 電話で聞く朋与の声は教室で聞くものとはずいぶん印象が違ったので、眞一郎は妙に身構えてしまった。初対面の女の子と話すような気分になった。そのせいか、自分は電話がかかってきたほうなのに、なぜだか後ろめたさを感じだ。そう感じたのはたぶん乃絵とのことが関係しているのだろうと思ったとき、そばまで来た比呂美の気配を感じて眞一郎は振り向いた。「どうしたの? こんな時間に」乃絵と、比呂美と、朋与の三人から詰め寄られているみたいで、眞一郎は思わず声が上ずってしまった。『ごめん。もしかして寝てた?』――そりゃ、別の意味で、寝てたわよね、と内心つぶやく朋与。『あしたでもよかったんだけど、ちょっと気になることがあって。比呂美のことで……。いま、話せる?』「…………」眞一郎はいったん比呂美の顔を見てから答えた。「うん、いいよ。なに?」 用件はどうやらおまえのことだぞ、と眞一郎は比呂美を指差して教えた。そうだろうね、と比呂美は苦笑した。 ――朋与は今、自分の携帯電話を左手に持って話している。そして、右手にはもうひとつの携帯電話が握られている。片手でその筺体を開き、ボタン配列を目で確認した。 『大したことじゃないんだけどね。わたしが気になりすぎてるだけかもしれないんだけど……。仲上くんにも協力してほしいと思って』「うん……」えらく慎重な前置きだな眞一郎は思う。『インターハイ予選が終わって、三年生が引退するでしょう? それで、その引退パーティーと新キャプテンの就任式を仲上君の家でやらせてもらえないかな~と思って。ほら、比呂美が次期キャプテンじゃない? だから、そのぉ……』「うん、知ってる。その、女バスの謝恩会でしょ? 比呂美から聞いてる」『そう。知ってるなら話が早い』 眞一郎の受け答えを聞きながら比呂美は頭の中で何かがひっかかった。こんなことで朋与が眞一郎に電話をするだろうか。緊急な用件ならまだしも、こんな夜中にだ。さっきの電話で朋与の心配が逆に膨らんだのだろうか。それで、眞一郎に協力してもらおうと朋与が思いつき、眞一郎に電話した。即実行タイプの朋与らしいといえば朋与らしいけれど、そもそも、こんな時間に電話をかけてお願いするような内容でもないのだ。なにか、別の用件があるはず。もしくは、別の企みが。比呂美は眞一郎に、油断しないで、と目で訴える。眞一郎は小さく頷く。 ――朋与の右手は、携帯電話のボタンを押しはじめる。〈1〉、〈8〉、〈4〉、………… 利き手の右手で操作しているのに、ひとつひとつの動作を確認して強く右手に命令しないとボタンを押せなかった。そのぎこちなさのせいで手が震えたが、その震えは、朋与の心の奥から発せられた警鐘であることに朋与自身はまだ気づけないでいる。 『そういえば、仲上君、いま金沢にいるんだっけ?』「……うん、あした帰るけど……」 いきなり話題が変わって眞一郎は不思議に思った。 ――眞一郎の返答に朋与は無性に腹が立った。あした帰る、ということは、今晩はそこにいる、ということだ。比呂美と一緒に……。いま金沢にいるの? って訊かれたら、ふつう、あれ、なんで知ってるの、と驚いたりとかするではないか。それが、いきなり「いついつ帰る」という返答だったから、眞一郎に他意はなくても、どうしても何か後ろめたいことがあるのではないかと勘ぐってしまう。 朋与の指が迷いを振り切り力強く番号を押していく。〈0〉、〈9〉、〈0〉、………… 『ふ~ん。…………』 朋与はそれっきり黙った。「黒部さん? 謝恩会のことだけど、おれからも親父に頼めばいいんだよね? 比呂美ひとりじゃ頼みにくいって心配しているんだろ?」『……ふふ』と朋与が不敵に笑う。『仲上君って、けっこう鈍いよね』「え? それって、なんのこと?」眞一郎は朋与の声色が変わったのを感じた。 ――朋与の右手に持たれた携帯電話のディスプレイには、比呂美の携帯電話の番号が表示されている。そして、発信ボタンに親指がかかる。 『となりに、比呂美がいるでしょう?』文末のイントネーションを下げた断定的な問いかけ。「……………………」 比呂美以外の辺りのものが、すーっと何も見えなくなっていくのを眞一郎は感じた。そんな中で、比呂美の顔を凝視することはできた。自分を見失わないために、他に見つめるべきものがなかったからだ。比呂美が世界の中心であるように思え、また、ここがどこなのかを教えてくれる『しるし』のようにも思えた。 バレたの? と比呂美が眞一郎の腕を揺すりながら無言で必死に訊いてくる。でも眞一郎は答えることができなかった。そうできるほどに精神的衝撃から開放されていなかった。ただただ比呂美の顔を見つめ、落ち着きを取り戻すまでじっと堪えるしかなかった。そこで眞一郎は、はっと気づく。(堪えるだって? 何に堪えるんだ? いまのおれに堪えるべきものがあるのか?) ずっと堪えてきたのは、これからずっと堪えつづけていくのは、比呂美ではないか。 硬直してしまった眞一郎にいてもたってもいられなくなった比呂美は、とうとう眞一郎の肩をつかんで揺すった。そうせずにいられないほど眞一郎の顔は血の気が引いたように青くなっていたが、でもすぐに赤らみを取り戻していった。(朋与は、なんて言ったのっ!!) 比呂美は声こそださなかったが、口をはっきりと動かし、そう叫んだ。 眞一郎はようやく周囲の景色を認識できるようになり、比呂美の顔が真っ青になっていることに気づいた。比呂美はなぜこんな顔をしているのか? 比呂美にこんな顔をさせてはいけない。眞一郎がまっさきに思ったことはそのことだった。だから、比呂美の顔からこの不安と恐怖の入り混じったような表情を一刻も早く取り払わねばと焦った。 眞一郎は、携帯電話を耳にあてたまま右腕で比呂美を抱き寄せた。そして、電話の向こうにいる朋与に聞こえないように小さな声で「ごめん、大丈夫」と囁いた。眞一郎がどうやら自分を取り戻したようなので比呂美は少しほっとしたが、同時に嫌な予感がした。こういうときの眞一郎は、とてつもなく素直になるのだ。比呂美は眞一郎の胸を押して体を離そうとしたが、眞一郎はそれをさせまいとさらに腕に力を入れた。比呂美にこの言葉を一番近くで伝えたくて。「……うん。いるよ……。比呂美はとなりにいるよ。ずっと、そばにいる」 比呂美は口を開けたまま固まる。電話の向こうで朋与が固まるのも眞一郎は感じた。数秒後、携帯電話のスピーカーからゴトンという固いものの落ちる音が聞こえた。『それ、なら、ますます、話は、早い……』ひくつきながら、朋与はなんとかそう言うことができた。「比呂美に、代わる?」 眞一郎のその言葉で比呂美は我に返る。そして、拳で眞一郎の胸を叩いた。比呂美が電話に出なければまだゴマかせるかもしれないのだ。でも、眞一郎にはその気はないらしい。比呂美は振り向いて眞一郎から離れようとしたが、眞一郎はそんな比呂美を背中から片腕で抱きしめた。比呂美はその腕から逃れようと思えば簡単に逃れられたが、そうはしなかった。眞一郎が無言で、ここにいろ、という意思がはっきりと伝わってきたからだ。『あ、あんた、バカじゃないのっ?』比呂美の怒りを代弁するかのように朋与が怒鳴った。『わたしが、カマかけているかもしれないじゃない。どうしてあっさり認めるのよっ?』「黒部さんはそんなことしないよ」『なんでそんなこと言えんのよ。わたしの何を知ってるっていうのよっ!』「比呂美がここにいる、という確信があったから、こんな時間に電話してきたんだろう?」『ぁ…………』 こんどは朋与が言葉を失った。図星だった。でもそれは、眞一郎が指摘したそのことだけだった。他に、比呂美と眞一郎の行為の邪魔してやろうとか、弱みを握ってふたりを利用してやろうという気はさらさらなかった。あえていうなら、セックスへの関心はあったかもしれない。頭の中で想像していた比呂美と眞一郎の行為を、万分の一でも覗いてみたいという好奇心はあったかもしれない。「黒部さん」と、眞一郎はおそるおそる呼びかけた。朋与が電話の声に集中する気配がしてから、取り返しのつかない言葉をつづけた。「……おれたち、もう、そういうカンケイなんだ……」『!』 ――床に転がった携帯電話の画面のバックライトが消えるのを、朋与は呆然と見つめていた。 もうゴマかしきれないだろう。眞一郎の決定的で致命的な一言で、朋与は確信したに違いない。眞一郎の性格を少なからず知っている朋与だからこそ、確信することができるのだ。そうなると、比呂美はこのあとのことを考えなければならない。電話の向こうで朋与は混乱しているに違いない。いろんな感情が複雑に渦を巻き、その中で朋与は友情の方向を見失いかけているだろう。比呂美は眞一郎の左手から携帯電話を奪い取ろうとしたが、眞一郎は比呂美のその手をつかみ、そうはさせなかった。眞一郎の目は、自分でけりをつける、と訴えていて、比呂美には一瞬だけ眞一郎が眞一郎には見えなかった。正確には、眞一郎がこんな態度を取る理由がまるで読めなかったのだ。こんなことは初めてだったので、いつもは押しの強い比呂美もこのときだけは弱気になってしまった。直感で押しすぎてはダメだと感じたのだ。 朋与の沈黙は、それほど長くはなかった。それでも、心の動揺はうまく隠しきれずに声と一緒にこぼれてしまうことになった。『まいったな、もう……。あなた、ほんとうに仲上くん?』 朋与も眞一郎が普段とは違うと感じている。冗談でもいうような口調でも、声はどうしてもひくついてしまう。この声も眞一郎が朋与から初めて耳にするものだった。男性のように低い声で、一言では表現できないほどに朋与の抱いた感情が凝縮されている感じがした。それで、眞一郎はとてもつもない不安に見舞われた。自分としては、偽りなく正直に今現在の比呂美との関係を話したつもりでも、それと同時に、朋与や、比呂美を傷つけてしまったのではないかという気がしたのだ。いくら親しい仲の相手に秘密を打ち明けるにしても、段階や手順というものがある。それを間違えると、友情を壊すことだって有り得るのだから。それを思うと、眞一郎はこのあと朋与に対してなんて言ったらいいのか分からなくなってしまった。「えっと……、その……」 必死に言葉を探そうとすればするほど、物音に驚いて四方八方に飛び立つ鳩の群れのように遠のいていく。眞一郎は焦った。目の前では比呂美が難しい顔をしている。比呂美も戸惑っているのだ。ミラーハウスで迷子になったら、こんな気分になるのではないだろうかと眞一郎は思った。出口は見つからない。比呂美の姿は見えても、比呂美はそこにはいない。頭がくらくらしてきそうだ。しかし、比呂美の大親友である朋与はそんな迷宮に屈するほどヤワではなかった。『バカッ!! それでも男かッ!』 雷が間近に落ちたような振動が、眞一郎の鼓膜を打った。それで、眞一郎はようやく目が覚めることができた。『あんたたちが、エッチしようが何しようがあたしの知ったことじゃないわよ。でもね、比呂美だけはこれ以上悲しい思いをさせないでっ。比呂美がもしそばにいるんだったら、今のあんた、サイテーよ。比呂美を幸せにする気あるのっ!』「あるよっ!」朋与の剣幕に一瞬たじろいだが眞一郎はすぐさまそう返した。『ないねッ!』思いのほか眞一郎が堂々と答えたので、朋与はいじわるしてやろうとムキになる。「あるよっ!」『ないねッ!』「っ…………」 このままじゃ埒が明かないと感じた眞一郎は別の言葉を探す。自分と比呂美が交際を始めて、どれだけ比呂美が本来の明るさを取り戻していったかを言おうとしたが、そんなことを言おうものなら、それはあなただけの功績ではないと朋与は一蹴するだろう。比呂美を幸せにできるのかと、真正面から問いただされると、正直言って、今の眞一郎には返す言葉はなかった。眞一郎はそのことを改めて思い知らされたが、そう簡単に引き下がれない。いずれ、自分の親ともこういうやりとりをせねばならない。自分の発言に確固たる根拠がなくても、朋与相手にくじけてはいられないのだ。「あるよっ!」『いまの間(ま)はなんなのよ』「黒部さんには教えられないよ」とさらりと眞一郎は言った。『な……』朋与の脳天がカッと熱くなる。もし目の前に眞一郎がいたら朋与は飛びかかっていったかもしれない。眞一郎のこの一言で朋与は自分の感情の源を見失いつつあった。なぜ、眞一郎に腹がたったのか、そして腹がたつのか。 眞一郎がいきなり携帯電話に向かって卓球のラリーのように吼えだしたので、比呂美は割って入って止めるべきかどうかおろおろした。でも、ここでどうやら眞一郎も朋与も治まったようなので、大きくため息をついてから眞一郎の顔の前に右手を突出し、携帯電話を渡すように無言で訴えた。比呂美がむすっとした顔をしていたので、こんどばかりは眞一郎も携帯電話を渡さないわけにはいかなかった。「ト、モ、ヨ」子供を叱るようときのように比呂美は一音ずつ区切って朋与の名前を呼んだ。 比呂美の声が聞こえて朋与は一瞬目を見開いたが、すぐに顔をしかめて唇をかんだ。この時点で真実になったわけだ。比呂美と眞一郎がいま一緒にいるということが。『あ、ひ、比呂美?』「そうよ。あなたのよく知っている比呂美よ」『仲上くんに変なことされてない?』「ばか……」『……んなわけないよね。あはははは……』「あんた、なんか企んでたでしょう?」『え?』朋与は床に転がった母親の携帯電話に目をやった。『……べつに』「ま、いいけど」比呂美は肩を上下させて一息吐いた。「いろいろ心配してくれるのはうれしいけど、ほんとうに引退式の件は大丈夫だから。それと……」比呂美は携帯電話を左手に持ち直して眞一郎に背を向けた。「眞一郎くんにあんまりつっかからないでほしいの。朋与の目から見たら頼りなく見えるかもしれないけど、それでも、わたしの、好きになった人だから」 朋与は黙っていた。比呂美は構わずつづけた。「朋与がいつもわたしのことを気にしてくれるのはすごくうれしいよ。でもね、同じように心配してくれているのは眞一郎くんも同じ。ちょっと抜けてるけど」 眞一郎は、んー、と咳払いをする。『そ、そこが心配なのっ』 比呂美に堂々と「眞一郎が好き」と言われて、そのことぐらいしか朋与はつっこめなかった。でも、心のどこかでほっとしたのは確かだった。比呂美の声からいつもの凛々しさを感じることができたからだ。この調子なら眞一郎も比呂美にへたなことはできないだろう。なにせ体力では比呂美のほうに分があるのだから。そこで、朋与はふと思う。セックスの未経験の自分が経験済みの比呂美のそういう心配をするなんて、まるでトンチンカンではないかと。「あした、夕方にはそっちに帰るから」出稼ぎの母親が娘に電話をしているみたいだと比呂美は思う。『そう……。ねぇ、もしかして毎晩そっち行っていたの?』「は?」比呂美は朋与の質問の意味がすぐには分からなかったが、朋与が好奇心でそういう質問をしてくるなら、朋与に与えた情報の修正をするチャンスだと思った。「そんなわけないでしょ。今晩だけよ。部屋もべつべつ」 比呂美は眞一郎のほうを向いて肩目をつぶった。確かに部屋はべつべつだ。『部屋』の捉え方しだいではウソは言ってない。「おばさんの命令なの。眞一郎くんがぜんぜん家(うち)に電話しないから、様子を見てきてちょうだいって」と比呂美はつづけた。これもウソではない。『じゃ~、さっき、なんでウソついたのよ』と朋与は悪態をついてくる。でも、比呂美は全く動じなかった。「ウソ?」『え~と、ほら。……あれ? 思い出せないー』 胡散臭いことがありすぎて朋与は逆にこれといって比呂美を屈服させることを思いつけなかった。詰めの甘い朋与に比呂美はしめしめと思う。「わたし、ウソ言ったかな~。朋与の勝手な思い込みでしょ、いつもの」と比呂美は平然とかわす。『くっーッ』と朋与は露骨にうなった。 正確にいうと比呂美は、ウソは一つしか言っていなかった。片足ストレッチでバランスを崩したということだけだ。でも、朋与が心底悔しがっていたので、眞一郎とは実際どういう仲なのか自分の口から少しずつ話してもいいかなと比呂美は思った。「朋与……、眞一郎くんの言ったことはあまり気にしないでね。わたしたちは、なんていうか……、お互いのことを、想い合っているの。だから……」 朋与は比呂美の言葉に耳を澄ませている。「だから……その……、自然に、だんだんと、お互いを求めていくの。朋与をびっくりさせたことは悪いと思っているけど……」 朋与は黙っている――。黙らないでよ、何か言ってよ、と比呂美は頭の中で怒鳴る。このとき、比呂美は朋与の気持ちが分かったような気がした。いつもそばにいた存在がある日突然に遠のいていく感じなのだろう。以前、眞一郎が石動乃絵に惹かれていったときのように……。遠い地に引っ越して離ればなれになるわけでもないのに、心の距離が無理やりぐーっと引き伸ばされていく。そして、それは決して元には戻らない。もし仮にその距離を縮めることができたとしても、もうふたりの間には見えない壁が存在する。壁という強固なものでなければ、薄い膜のようなもの、とにかく何かが存在するのだ。石動乃絵の一件以来、比呂美も眞一郎に対してそれを感じるようになった。 朋与、ごめん、と比呂美は声に出さずにつぶやいた。『なーに気ぃつかってんのよ。比呂美の弱みを握ってやろうと思ったけど、だんなに邪魔されたって感じでがっかりしているだけ』「ほら、やっぱり何か考えてたんじゃない」 朋与は強がってみせたが、頭の中では比呂美の言葉が繰り返されていた。 お互いを求めていくの……、お互いを求めていくの……、お互いを求めていくの…… つまり、エッチをしていたと認めるわけね、と朋与は思った。『とうぜんよ。いちゃいちゃしているのが分かってて、なんか、からかってやろうと思うじゃない、ふつう。あっ、仲上くんに比呂美の力になってもらおうというのは本当よ』「ありがと」『……………………。じゃー、電話切るね』 ちょっとした間のあと、朋与のほうから切りだした。泣きそうになるのが自分でも分かったからだ。「うん。念のため言っておくけど、また電話してきても無駄よ。電源切っておくから」『読まれてか、あははは。おやすみ』「おやすみ……」 電話が切れたあとも比呂美はしばらく携帯電話を握り締めていた。朋与なら、裏の裏をかいてもう一度電話をかけてきそうだったからだ。でも、朋与は電話をかけてこなかった。このことが、比呂美と朋与の友情関係が、新たな関係へと変わってしまったことを物語っていた。 比呂美は振り返り、眞一郎に携帯電話を返した。「さーて、問題発言をした眞一郎くんの懺悔の時間です」 比呂美はそう言うとにやりと笑ったが、すぐに「冗談よ……」と言って自分の発言を霧散させた。 まるでボールが放り投げられたみたいに朋与はベッドに倒れこんだ。倒れこむ勢いに完全に身を任せたので、朋与の体はベッド内に仕込まれたスプリングの反発力をもろに食らってバウンドした。揺れが治まると、携帯電話を持った左腕を天井へ突き上げ、そのあと真横へ、ベッドの外へ腕を倒した。その勢いで手から携帯電話が滑り落ちた。落ちたところにはちょうど先に落としてしまった母親の携帯電話があったらしく、プラスチックの物体同士が弾かれる音がして、それから携帯電話が床を転がる音がした。「……なに、いらついてんだろう……」 もう朋与にはこの苛立ちの原因が分かっていた――。『嫉妬』と『焦り』だ。それに、単純な『嫉妬』や『焦り』ではないことも分かっていた。比呂美が自分のことを考えてくれる時間が徐々に削られていき、その代わりに眞一郎のことを思う時間が増えていくという危機感と、自分に男性と付き合った経験がほとんどないために、比呂美がそのうち抱く恋愛や性の悩みの相談にすぐにのってあげられないという無力感が、朋与の心の形を棘を持ったものに変えていった。朋与自身、比呂美との関係がいつまでも今のままではいられないと頭では分かっていても、比呂美に一番そばに居続けてきた自分が、いざというときに何もしてあげられないことに、ただただ朋与は悔しかったのだ。そればかりか、その悔しさのはけ口も、まだうまく見つけられないでいた。「ずっと前から比呂美が仲上くんのこと好きなの分かっていたのに……、だから、ずっと、ふたりがうまくいけばいいと思っていたのに……。今のあたし、ぜんぜんあべこべじゃない。ふたりのこと冷やかしたりしていても、本心じゃ別のこと考えている」 朋与はふっと乃絵の顔が目に浮かんだ。なんで、こんな唐突に乃絵のことが頭に浮かんだのか分からなかったが、徐々に朋与はそれが必然であることに納得した。乃絵にまつわる噂は数多くあっても、それらは不思議と噂から真実に変わることはなかった。乃絵と関わった者が、頑なに事実を語らなかったからだ。比呂美も、眞一郎もそうだ。だから、麦端祭りに乃絵が骨折するまでの経緯を恋愛事情を絡めて正確に把握している者は、当事者以外だれもいなかったのだ。三人が心に痛みを抱えていると容易に想像がついた朋与は、噂好きな連中から比呂美たちを守る役に徹していたが、内心は、比呂美が親友である自分だけにはほんとうのことをぽろっと漏らさないかと耳を澄ませていた。それでも、比呂美は核心めいたことを一言すら喋らなかった。そのことで、比呂美たち三人は『心の痛み』を越えて、三人の間で『共通の理解』のようなものを持ったのではないかと朋与は推察した。そのことが朋与にはショックだったのだ。当然のように石動乃絵に無二の親友を奪い取られたような気分になった。しかし、簡単に逆上してしまうほど朋与は単純ではなく、比呂美が何かしら劣等感を感じている乃絵の内面もしっかり見ようとした。「石動乃絵はこんなことしない、こんなこと考えない、はず……。だから、比呂美は特別視してたんだ。比呂美にとっても石動乃絵は特別な存在……」 改めてそう考えると、背筋がぞわぞわと痺れるのを朋与は感じた。そのあと冷や汗が全身ににじみ出て吐き気が軽く襲った。堪らず朋与は体を横に向けてベッドの上で縮こまった。顔が横を向いたせいで、気づかないうちに両目に溜まっていた涙がこぼれた。頬を伝うことなくベッドを濡らす涙。サイアク、と自嘲気味に朋与はつぶやいた。 そのとき、携帯電話が鳴った――。まったく予期していなかったので、暴走族でも来たのかと朋与は思ったが、身を乗り出して確認した携帯電話のディスプレイには『ひろみ』の文字を確認すると、慌てて携帯電話に飛びつき通話ボタンを押した。「もしもし――」と言ったところで朋与は、泣いていたことが悟られそうだったので口をつぐんで気持ちを落ち着かせた。『――ごめん……、朋与……』 比呂美がいきなり謝ってきたので、泣いていたことがバレてしまったと朋与は思ったが、そうではなかった。『――電話、かけてくるな、みたいなこといって……。ごめんなさい』「ああ、そのこと……」朋与は内心ほっとして立ち上がる。「比呂美、気にしすぎだって。わたしたちの仲でしょ?」と朋与は努めて明るく言ったが、比呂美にはその計らいが通じなかった。『――なんか、その……、いやな予感がして……』「は? なにそれ。地震でもきそうだっていうの?」『――茶化さないで』 朋与はとぼけていても内心では、比呂美はさすがに鋭いなと感心していた。部屋の窓に歩み寄った朋与は、右手の甲で涙を拭いながら「……ごめん」と返した。泣いていることを悟られないように。 でも、比呂美には分かっていた。朋与がどんなときに涙がこぼれそうになるのかが。だから、朋与に電話をかけたのだ。『――眞一郎くんは、眞一郎くん。朋与は、朋与だから』と、比呂美は朋与の心にすり込むように言った。そんな言い方しなくても、朋与には十分だった。比呂美が電話をくれたことだけで十分だった。「わかってるって。いじわるして、ごめん。旦那にも謝っておいて」『――やだ。自分で言いなよ』 とても優等生とは思えない駄々っ子のような比呂美の言いぐさ……。比呂美がこんな喋り方をするのは自分相手だけだろうなと朋与は目細めた。そして、思いっきり鼻水をすすってみせた。「イジワル」と朋与がダミ声でうらめしそうに言うと、ふたりはころころと笑い出した。 電話越しに朋与と笑い合う比呂美の後姿を見ているうちに、腹の底に滲み出てきた嫉妬心が眞一郎に汗をかかせた。そして、なんだか落ち着かない気持ちになる。胸のど真ん中に、べろっとペンキでも塗られたような気持ち悪さだ。(おれと話しているときよりも、楽しそうだ……) 皮肉にも、比呂美と付き合いはじめて頻繁にそう思うようになった。だからどうだというのだ。自分だって、男子同士でふざけあっているときのほうが気楽ではないか。女子だって同じようなことを言う。そういうものなんだ、と何度も自分の心を説得してみても、女子同士で談笑しているときにしか拝めない比呂美の表情や低い声が、眞一郎は気になってしかたがなかった。こういうことも、セックスと同じように慣れていくものだろうと思っても、まだその切欠は訪れてはきていないようだった。とにかく、胸がちくちく痛むのだ。比呂美がほんとうに安らげる相手は自分ではないのではないかと。(こんなことを比呂美に訊いたら、あいつ、怒るだろうか……。それとも、笑うだろうか……) 朋与との電話を終えた比呂美が振り返って眞一郎を見たとき、眞一郎は俯いていて、まるで地中の鉱脈を透視しているように冷ややかだった。「どう、したの?」比呂美は少し身構えて尋ねた。「えっ」糸で引っ張られたように顔を上げた眞一郎は、自分でもどうしていたんだろうという風に左右の景色を確認したあと、「いや、なんでも……」と苦笑した。このリアクションは何かゴマかそうとしていると思った比呂美は、眞一郎を問いただそうと勢いよく立ち上がった。どうも、今日の眞一郎はおかしなところがある。しかし、ここで一気に吐かせてやると意気込んだ比呂美の踏み出した一歩は、体にかけていたタオルケットの端をふんずけてしまい、つるんと滑った。 比呂美の体が前へつんのめる。反射的に床を着こうとした両腕に比呂美が自覚したとき、胸元を隠していたタオルケットは下へ引っ張られていて、乳房のみならず陰毛までもが晒される結果となった。「やっ」と声を上げて四つん這いの姿勢に倒れた比呂美は、背中を丸めて縮こまったが、お尻だけは隠しきれなかった。眞一郎の居た洋室の灯りが比呂美のお尻の二つの輪郭を照らし、眞一郎の視線もどうしてもそこへ誘導されてしまう。が、眞一郎はすぐにそれを断ち切った。「お、おまえ、いい加減に、ふ、服、着ろよ」 冷静に言ったつもりでも、眞一郎の笑い袋はすでに破けていた。眞一郎の声が震えていたことに気づいた比呂美は、タオルケットで胸元を隠しつつ上体を起こした。そして、眞一郎の目線から自分の格好がどう映っていたのかを想像してみた。眞一郎には当然のことながら非はないけれど、何か文句のひとつでもを言わずにいられなかった。でも、比呂美が顔を上げたときは、眞一郎は背を向けていて、液晶テレビのリモコンを手に取ろうとしていた。眞一郎にしてみれば、比呂美が下着を身に着けるところを見ないようにするためだが、今の比呂美には逆に癇に障った。このまま、ふたりとも眠りにつき朝を迎えてしまったら、このひと夏の夜の熱い思い出が、自分の大失態で締めくくることになってしまう。そんなことに気が回らない眞一郎に、比呂美は信じられない思いになる。テレビのチャンネルを操作する眞一郎の背中を焦げるように見つめながら、比呂美は生唾を飲みこんだ。 スポーツ番組らしき映像が液晶テレビに映し出されたところでチャンネルを切り替えるのをやめた眞一郎は、すでに敷いてあるマットレスに腰を下ろした。比呂美に背を向け無関心を装いつつも、両耳で比呂美の動きを気にかけていた。畳の上を歩く足音を何歩分か捉えた。このあと比呂美は下着を着け、Tシャツかなにかを着るはずだ。そう予想して待つものの、そうした音は届いて来なく、和室のほうは静まりかえった。不思議に思った眞一郎は振り返りかけたが、比呂美が全裸だったらまずいと思い、もうしばらく待つことにした。でもその待ち時間はすぐに解消された。「眞一郎くん……」比呂美のほうから声をかけてきたのだ。その声は、普段ほとんど聞くことのない低いほうの声だったので、眞一郎の背中の筋肉が反射的に強張った。あまり好くない兆候だと判断したのだろう。眞一郎は、比呂美の姿が目に入らない程度に首をひねり、「どうした?」と軽く返した。比呂美が何か訴えかけてきているのをわざと気づかないフリをしたのだ。でもすぐに、そうしたことはまずかったと眞一郎は後悔した。「こっち、向いてほしい」と比呂美が言ってきたからだ。比呂美には眞一郎が演技したのがわかったのだろう。 眞一郎は、すぐに振り返った。比呂美は洋室との境の手前で、タオルケットをまとったまま突っ立っていた。無言の表情は、明らかに『大事な話がある』と訴えていたので、眞一郎は慌ててテレビのスイッチを切って、再び比呂美を見た。そうすると、比呂美は洋室に一歩入ったところでぺたんと座った。比呂美の膝頭は、眞一郎の座っているマットレスにかかり、ふたりの距離は腕を伸ばせは簡単に届く距離となった。 比呂美は決して深刻な顔をしていなかったが、若干、相手を追い詰めるような威圧的な表情にならないようにしようという努力が見て取れた。それと、ほんの少し、何かに怯えているような細かな震えが体の芯から発せられているようだった。眞一郎にはそう感じられたのだ。「どうした? 比呂美」と眞一郎は優しく促したが、ちょっと空気が重たくなりそうだったので、冗談を飛ばした。「おまえ、いっしょの布団で寝たいとか言い出すんじゃないだろうな」と。 比呂美は無言で口元だけ笑って、視線を斜め下に落とした。ちょっとつかみどころない仕草だった。そうしたいのはあなたのほうでしょ、とも取れるし、そんなわけないじゃない、とも取れるし、どうしようかなと迷っているようにも取れた。比呂美がこんなに分かりにくく曖昧な反応を見せるのは珍しいなと眞一郎は思った。だから、冗談のつづきがうまい具合に浮かんでこなかった。「ねぇ」眞一郎の顔に視線を戻した比呂美が呼びかける。「ん?」「わたしが今、何を考えているのか、当ててみて?」「え……」 比呂美にズバリそう言われて眞一郎は思った。比呂美はさっき、わざと自分の気持ちを悟られないようにしたのだと。それにしても、どうしてそんなことをする必要があるのだろう。比呂美からの質問を考えるよりも、そのことがどうしても気になったが、そう簡単に納得できそうもなかったので、先に比呂美の気持ちを考えてみることにしたほうがよさそうだ。 眞一郎はとりあえず、ここでの出来事を遡ってみた――。比呂美が何の連絡なしにこの部屋に訪れ、一緒にサンドイッチを食べ、比呂美はシャワーを浴び、それから交わった。二回目に突入しようかというときに黒部さんから電話がかかってきて……。ざっと思い返しただけでも、すぐに引っかかることがあった。つまり、『二回目の途中だ』ということ。そのことを比呂美は指摘したいのか。確かに比呂美は中途半端なことが嫌いだけども、だからといってこんな回りくどいことをするだろうか。眞一郎はどうしても腑に落ちず、比呂美の顔を掲示板に張り出された自分の受験番号を確かめるような心境で見た。「わ、わかった?」眞一郎があまりにも自信なさげな表情をしていたので比呂美は思わずふきだしてしまった。「えっと~」と眞一郎は口ごもる。セックスのつづきをしたいのか、と改めて面と向かって言うのはかなり恥ずかしかった。だが、こういうときだからこそ『男らしく』しないとダメなんだという気持ちが盛り返す。「だから、その~、んだな……」まだ眞一郎は恥じらいの壁を飛び越せない。いっそのこと、続きの言葉を口にせず、目の前にいる比呂美をこのまま押し倒して行為を再開したほうがいくらかマシだと思った。そう思ったとき、眞一郎の中で何かが閃いた。この部屋にはふたりだけ。誰の目も気にすることなくやりたか放題というこの状況なんだから、セックスをもっと満喫したいというのなら比呂美のほうから飛びついてきたっていいはずだ。そういう風におねだりすることは今まで何回かあったのだ。全然なかったわけではない。それなのに比呂美は回りくどいというよりも、あえて慎重に何かを進めようとしている。比呂美の心の奥底に潜んでいる真意は分からないけれど、今ははっきりと言葉にしないといけないときなのかもしれない。「答えるよ」と早口で言ったあと、眞一郎はひとつ息を吐いた。そして、答えを言った。「えっちの途中だから、つづきをしたいし、止めにするなら、そうはっきり言ってほしい……かな?」 比呂美は眞一郎の答えを聞いても表情ひとつ変えなかった。これでは、満足にいく回答だったかどうか分かりようもない。眞一郎はしばらく比呂美のリアクションを待つ。比呂美の顔から少し視線を落とすと、タオルケットを右手で押さえている比呂美の胸元がある。呼吸に合わせて、その胸元が静かに上下する。何回くらいそれを眺めていただろうか。たぶん、5回くらいしたあとに、比呂美は口を開いた。「……あたり」と。でも、つづきがあった。「でも、半分だけ」 半分こね……。半分だけあげる……。半分ちょうだい……。ショートケーキを目の前にした比呂美はよくそんなことを言って眞一郎をドキドキさせた。だから、甘酸っぱい記憶だけを持った言葉だったのだ、『半分』は……。でも今その言葉は、とても残酷な響きにしか聞こえなかった。それに、フルマラソンを走りきりゴールテープを切ったかと思えばそこはまだ中間地点でしたと告げられたような絶望感も襲ってくる。ただ、今までとのギャップのせいだろうか、それとも、あまりにも残酷すぎたせいだろうか、それが返って眞一郎を開き直らせた。もうお手上げだ、という風に。逆にそれが救いだった。「ごめん……。なんか、おれ、ぜんぜんおまえのこと分かって……」「ちがう。ちがうのっ」眞一郎の自虐的な態度に、比呂美は慌てて眞一郎の言葉を端折った。眞一郎にそんなことを言わせるつもりは毛頭なかったのだ。「わたしのほうこそ、ごめん……。いじわるな質問だったよね。ごめん……」 眞一郎は比呂美の目を見つめなおし、つづきを促した。「眞一郎くんの答えは、ほんとうは満点なの。満点だったから、なんだか悔しくて、わたしのほうが採点基準を上げたと……」「なにか、言いたいことがあるんだろ?」めずらしく眞一郎が比呂美の言葉を途中で遮った。 眞一郎が少し強引な態度を取ったことで、比呂美は話が切り出しやすくなったと思った。でも、「あのね……」と言ったところで比呂美の心臓がばくばくと躍りだす。比呂美は思わず俯いてしまい、胸元を隠しているタオルケットを押さえなおすフリをして呼吸を整えようとした。だが、この至近距離でそんなことが隠せるわけがなかった。眞一郎は比呂美の異変に容易に気づいた。それでも、比呂美が自分から話しだすまで待った――。 なんか妙な沈黙だった。眞一郎も比呂美も、そう思った。眞一郎が感じる時間の流れがあって、比呂美が感じる時間の流れがある。それにふたりに関係なく流れる時間の流れがある。その三つの時間の流れが、お互いの秒針の動きを意識している。監視していると表現してもいい。そして、三つの時間の流れのすべての秒針がきっちり重なる瞬間を待つ。そんな沈黙だった――。きたるべきその瞬間をじっと待つ。そのとき、何かが開錠されて新たなステージへと進む。ふたりはそこに立たされることになるのだろう。まもなく、その瞬間が過ぎ去ったのを感じた比呂美は、意を決して口を開いた。比呂美が今まで生きてきた中でもっとも勇気を必要とした瞬間だった――。「つけないで、したいの」 まるで自分とは別の誰かが喋ったような感じだった。つけないで、したい――比呂美はもう一度心の中で繰り返し、さきほど自分の発した言葉の響きと、心の中で繰り返した言葉の響きを比べてみた。間違いない、同じ言葉の響きだ。そう確認すると比呂美は全身の力を少し緩めることができた。あとは、眞一郎がこの言葉をどう受け取ったかどうかだ。眞一郎は、「え……」と反射的に声を漏らしてからまだ反応を見せていないのだ。こう表現すると数十秒くらい経っているように受け取られてしまうかもしれないが、実際はまだほんの数秒のことだ。それだけ今の比呂美にとってコンマ何秒かがとてつもなく長く感じられた。「え……」と声を漏らしたあと「つけないって、何を?」と比呂美に訊き返すのを、眞一郎は寸前のところで噛みころせた。だが、それに安堵するよりも、もし訊き返していたらどうなっていたかと思うと、身ががくがくと震えそうになった。いや、実際に震えたのだ。全身の毛が逆立つのを感じ、背中にはたった数秒でびっしょりと冷や汗を掻いたのだ。 確かに、比呂美は突拍子もないことを言った。反射的に訊き返しても致し方ないかもしれないが、話の流れや、比呂美の態度をきちんと把握していれば、比呂美の発した言葉が何を意味するのかは一発で判断できなければいけないのだ。それに、ふたりとも今まで何度もきちんと避妊具を使ってきたのだ。そう考えると、訊き返すことは『男』としてあまりにも情けなかった。しかし、本当の試練はこの後だったのだ。比呂美に何と言って返すのか、それが問題なのだ。なぜなら、どう見たって比呂美は大マジで、コンドームをつけないで交わりたい、と言ってきたのだ。それを簡単に「ダメだ」と拒否したところで、比呂美はそう簡単に納得しないだろうし、そもそもそんな拒否の仕方は乱暴すぎだ。とにかく、もっと比呂美の気持ちを引き出さないといけないようだ。どんなつもりで、そうしたいと思ったのか。拒否するのは、それからでも遅くないはずだ。 逆に「わかった」と返せたらどんなに楽だろうかと、一瞬、眞一郎は思ったが、すぐにそういう気持ちを心の奥の奥の角を曲がった直接光の届かないところに押しやった。押しやったところで、眞一郎は比呂美の顔をあらためて見た。澄んだ瞳が、眞一郎の答えを待っている。そして、その奥に確かな『覚悟』が宿っていた。眞一郎にはそれが分かった。その『覚悟』が意味するものは何か分かっている。でも、前面に押し出された『覚悟』に隠れて、『余裕』もかすかに宿していたことに眞一郎は違和感を覚えた。そのことで、言葉だけでは比呂美の気持ちを引き出せそうにないなと思った。 眞一郎が膝立ちなって比呂美に近づこうとすると、比呂美は眞一郎の行動が予想外だったらしく、上体を少し後ろへ引いて身構えた。それでも眞一郎は構わず比呂美をゆっくりと押し倒した。比呂美が後頭部を打たないように右手を回してカバーをした。眞一郎がキスをしてくることを予想して比呂美は顔の筋肉を強張らせたが、いっこうにキスをしてくる気配がなかったので、「なにか、言ってよ」と口をとがらせた。それでも、眞一郎は表情を変えなかったので、比呂美は不機嫌そうに目を閉じ横を向いた。そして、本音を眞一郎にぶつけだした。「なんか変だよ、きょうの眞一郎くん。いつもと違もん」そう言い終わると比呂美は目を開けて眞一郎を睨んだ。「へん? ちょっとまって。えっと~」眞一郎の頭の中は混乱した。コンドームをつけないで交わりたい、という話をしていたはずなのに、どうして自分の態度がいつもと違うという話に飛んだのか、その関連性がまだうまく見つけられないのだ。比呂美に説明を求めようとしたとき、比呂美のほうが先に攻めてきた。「ぜったい、なにかあったでしょう?」と比呂美は両目を細めて疑いの眼差しを送る。「はぁ?」「わたしが気づいていないとでも思ったの」比呂美はそう言うと、眞一郎の首に両腕を絡ませて思いきり引き寄せた。眞一郎は、首にかかった比呂美の重みで自分の体を支えきれずに比呂美の体の上にのしかかる結果となった。すぐに両手を床につきなおして上体を起こそうとしたが、比呂美がさらに締め上げて眞一郎の動きを封じた。それでも、下半身だけは膝を立てて浮かした。おそらく勃起しかけていたことは比呂美にバレてしまっていただろうが。「さ、白状しなさい」と比呂美の声が眞一郎の右の鼓膜をダイレクトに刺激した。 どうしてこんな展開になるんだろう。眞一郎はいまだ比呂美の言動が理解できぬまま、比呂美の首元から漂う色香に負けまいと歯を食いしばった。 比呂美がこうして多少強引な手を使わないと、眞一郎は自分の内面を語ろうとしないところがあった。けっして眞一郎は、比呂美に対して秘密をつくろうとか、自分の気持ちを口に出すのが恥ずかしいとかというわけではなかったが、これ以上比呂美を傷つけまいという強い気持ちが深層心理で働いていたようだ。だから、眞一郎から本音を聞きだそうとするときは、眞一郎の心にどうにかして勢いをつけさせるしかなかった。 しかし、今日の眞一郎は、いつもと違った。比呂美の予想範囲からよく飛び出した。おそらく、この一週間のボランティア活動で大学生に交じって作業したことが相当な刺激になったのだろう。あるいは、この『完璧にふたりっきり』という状況が眞一郎の男性本能に何かしら火をつけたのかもしれないが、眞一郎とその大学生とのあいだに何らかの色恋沙汰があったのではないかとは比呂美は疑っていなかった。眞一郎はそういう隠し事が平気でできるタイプではないのだ。疑ってはいなかったが、眞一郎のこのあとの行動が比呂美の心に波紋をおこさせた。 眞一郎にやましいことがあるとすれば、あのことしかない。たとえ夢の中のこととはいえ、比呂美の下着がつまった引き出しを開けてしまったこと。ただ、そのことはここで白状し、あやまるべきことではないように思える。比呂美は、現実的なことで疑いをもっているのだ。ここで夢の中での出来事を打ちあけてしまえば、逆に疑念を深めることになるかもしれない。(あ、この香り……) 比呂美の首元からかすかに、あの引き出しを開けたときの魅惑の香りが漂ってきた。汗ばんだ臭いの中から、眞一郎の嗅覚を通して一本の鎖が眞一郎の本能に繋ぎとめられた感じだ。眞一郎はそれに逆らえなかった。眞一郎が気がついたときには、眞一郎の唇が比呂美の首筋に押しあてられていた。数回、音を立てて吸う。それから、舌を出して首筋を上へ舐めあげていき、右耳のみみたぶをしゃぶって引っ張る。「ああっ! やっ!」 まるっきりこのことを予想していなかった比呂美は、声の音量を抑えられず悶えた。間違いなく、壁を突き抜けて隣の部屋まで聞こえただろう。階下まで聞こえたかもしれない。だが、その第一声以降は比呂美は歯を食いしばって堪えた。その代わり、「んぅぅ~」と木戸が軋んだような甲高いうめき声とともに、比呂美の体は痙攣したようにバタつき、何度か踵で床を叩いてしまった。そうしなければ、叫びたくなるのをやり過ごせなかったのだ。眞一郎はこのまま『行為』に持ち込むつもりなのだろうか。そうなった場合、どこで止めさせようかと比呂美が考えていると、眞一郎の攻撃対象が、みみたぶから少し下がってあごのラインに移った。「ご、ごま、かさ……ないでっ……」 生理的こそばゆさから少し解放された比呂美は、反射的に飛び出す吐息をなんとか抑えて眞一郎に抗議する。それを聞き入れたのかどうかは分からないが、眞一郎の愛撫が止まって顔がすっと離れた。離れたといっても、いつ唇が重なってもおかしくはない距離だ。ふたりはその距離でいったん動きを止めて、お互いを目で牽制し合った。眞一郎の腰はいつのまにか比呂美の体の上に乗っかっていて、比呂美の胸を隠していたタオルケットはいつのまにかずれていて、右の乳房が半分だけ露になっていた。それでもふたりは、それらを取り繕うとはまったくしなかった。ふたりを取り囲む空気も息を堪えて固まってしまったように感じられた。身動きできないような息苦しさがある。でも、このまま見つめ合ったままではどうしようもないと、比呂美のほうが口を開きかけると、それを察した眞一郎は比呂美の唇を塞ごうと顔を近づける。比呂美は顔を背けてかわす。今はキスをしている場合ではないのだ。眞一郎が戸惑ったように動きを止めたスキに、比呂美は眞一郎の腰に両腕を回して思いきり引き寄せた。「うっ」不意打ちをくらった眞一郎はうめき声を上げて、比呂美の体の上で腰砕けになった。だが、眞一郎は目が覚めたようだ。眞一郎が反撃してこないことが、それを物語っている。比呂美はしばらく待ってから、腕の力を緩めて落ち着いた口調で眞一郎に言った。「……ちゃんと、答えて」「わかってるよ。わかってるけど、おれだって、びっくりしてるっていうか……いきなりっていうか……」眞一郎はとりあえずそう返した。比呂美がどっちについて先に答えを求めているかまだ分からなかった。コンドームをつけないで交わりたい、ということなのか、何かやましいことがあったのではないか、ということなのか。もしかしたら、どちらが先でもいいのかもしれない。比呂美にとっては、この二つは『ひとくくり』なのかもしれない。眞一郎にはまだこの二つの関連性が見えなかった。 眞一郎は両手を床について上体を起こし、比呂美の体の上から離れると、比呂美の右腕をとって比呂美を起きあがらせた。そのとき比呂美は左手でタオルケットを引っ張りあげたので、はみ出した乳房が大きく揺れることはなかった。再び向かい合ったふたり。ふりだしに戻ったような感じだったが、ふたりとも大きくて深い呼吸を繰り返していたことだけが違っていた。それに、相手の体の感触がまだ残っている。その感触が徐々に薄れていくなか、比呂美がぽつりとつぶやいた。「……もう、だれにも奪われたくない……」「え?」眞一郎はさすがにこれは訊き返さずにはいられなかった。奪うってなんだ? ――その疑問文がいくつも目の前でぐるぐる回る。同時に、頭の中では比呂美が何を想像しているのか必死になって考えた。目の前にいる比呂美が、ほんとうはどこか別の場所にいるような錯覚さえ覚えた。このままではいけない。このままにしていてはいけない、と心の中で何度も繰り返す眞一郎の手は汗でぐっしょりに濡れた。眞一郎が焦燥に駆られるなか、比呂美はいったん眞一郎の顔を見つめてから視線を斜め下に落とした。これから比呂美が何かを話しだす、と眞一郎は固唾をのんだ。「正直いうとね、不安だっだの……」ここで比呂美の口元が少し緩んだ。「朋与の言うことを真に受けるわけじゃないけど……、お互いにどんどん自分の世界を広げていって、誘惑もどんどん増えていくわけじゃない? だから……その場で足踏みしたくないっていうか……」少し落ち着いた表情で比呂美は再び眞一郎を見つめた。「それって……」眞一郎の頭の中で急速に情報が繋がりだした。朋与の言ったこと、というのは分からなかったが、比呂美が想像していたことは案外単純なことだったようだ。「……おれが、大学生のお姉さんと何かあったって疑ってんのかよ。この部屋には、おれが以外だれも入ってきてないぜ」「疑ってなんかなかったよ」語気を強めて比呂美が否定する。「……なかったけど、眞一郎くんがいつもと違うと……、急に変わっちゃうと、わたしだって、焦っちゃうの。……いきなり、コンドームある? なんて言ってくることなかったのに……」「まてまて。そんなことで、おれに何かがあったって思うのかよ」と眞一郎は半分ふきだしかけた。「それだけじゃないよ」と比呂美は拗ねたように言う。「だって、それって一番大事なことじゃないか。ここは比呂美の部屋じゃないんだし。おれ、その……持ってきてなかったし。あっ、逆に持ってたら、だれと使うつもりだよってなっちゃうよな」 眞一郎は苦笑いをして頭を掻いた。でも、同時に頭の中を埋め尽くしていた疑問がすーっと解けていきだした。「比呂美の気持ちは、だいたい分かったよ」眞一郎はそう言うと、比呂美の顔をいったん見てから視線を落とした。照れるフリをして股間の状態を確認した。中途半端に勃起した状態が続いていたが、意識しはじめたせいでだんだんに硬くなりだした。それでも、比呂美にきちんと話さなければならないと眞一郎は思った。少し遠回りしたけれども、お陰で比呂美の気持ちをどうにか引き出せたようだ。つまり、比呂美は、今までずっとコンドームをつけて交わってきたことを逆に気にしていたのだ。眞一郎がしっかりコンドームをつけることを守りつづけてきたことが、比呂美にある種の焦燥を膨らませたのだ。生(なま)で、コンドーム無しで交わることを、ほかの女性に奪われるかもしれないと……。今回のように眞一郎が一週間もそばから離れてしまうと、比呂美の中の危険信号がけたたましく点滅して、いてもたってもいられなくなったのだろう。 それでも、比呂美を妊娠させるわけにはいかない――。「わかったけど……」と言ったところで眞一郎は比呂美を見た。比呂美はじっと眞一郎の言葉を待っている。それ以外まるで感じることができないといった感じに神経を集中させていた。「できたらどうすんだよ。卒業するまでに生まれるだろうし……。ま、そのまえに退学になるだろうけど……」セリフの後半は比呂美の顔をまともに見ることができず、眞一郎は尻すぼみぎみになったが、比呂美はまったく動じることがなかった。「できなかったらいいじゃない」あっけらかんと比呂美は言った。「なんだよそれ。おれ、まじめに話してるんだぜ」「落ち着いてって」と眞一郎を制すると、比呂美は肩の力を抜いて息を吐いた。「わたしの話を聞いて」 比呂美が妙に落ち着いていたので、眞一郎は眉間に少ししわを寄せて首を傾げた。「あのね……。口に出して言うの、ちょっと恥ずかしんだけど、笑わないでね」「笑うわけないだろ」と眞一郎はきっぱりと言う。「あの、……いれるだけで、いいの。……なかに出しちゃうのは、眞一郎くんの言うとおり、もっと先のことよね。それはわたしも分かってるよ。ただ……、ちゃんと、つながっておきたいの。これだけは、だれにも譲れない。わたしと眞一郎くんだけのもの」 比呂美はそこまで言うと、俯いて両頬に手をやった。その仕草を見て、眞一郎はおそるおそる確認した。「いれるって、いれるだけ? あれ? なんか日本語になってないかな。……えっと、つまり、比呂美の中にいれて、すぐ出すってこと? あ、射精するって意味じゃなくて、抜くってことだけど」 比呂美は黙ってうなずいたが、そのあとぼそっと付け加えた。「できれば、すこし……。がまんできるまでってことで」 射精が近づくまではつながっていていたい、ということらしい。眞一郎は、天井を仰いだ。比呂美がそんなことを考えていたことに、まったくていうほど気づけなかった自分が、ぺらぺらの紙のような存在の薄いものに感じられて情けなかった。でも、比呂美が思いきって口にだしてくれたお陰で何かふっきれるものがあった。比呂美がそういう欲求をぶつけてくるということは、信頼の証でもあったからだ。しかし、比呂美の要求は口で言うほどそう簡単なものではないのだ。「あのさ、知らないかもしれないけど……」「なに?」「その~。……精子っていうのは、射精の前でも出てくることがあって…………。だから、やっぱり、まずいっていうか……」 そう言っているあいだに、眞一郎は比呂美ががっかりする表情を想像した。仕方ないのだ。だれが悪いわけでもない。ふとりにとってまだ早いだけのことなのだ。 沈黙が訪れたが、ふたりには明らかに温度差があった。眞一郎は当然のことながら、申し訳ないという表情をしている。しかし、比呂美は平然としていた。眞一郎は、自分の説明が比呂美にうまく伝わっていないのではないだろうかと思った。でも、そんなことはなかった。「大丈夫よ。大丈夫なの……」 まるで失敗した子供を安心させるような口調で比呂美はそう答えた。「大丈夫なわけないだろう。たったひとつの精子でも、たどり着けば妊娠してしまうぞ」「たどり着けばね」「?」比呂美は何が言いたいのだろうと眞一郎は眉をひそめた。「眞一郎くんが、わたしのことちゃんと大切に思ってくれているってわかったから、話すね」「う、うん」とりあえず眞一郎は曖昧にうなずいた。「女の子の生理は知っているよね。だいだい四週間でやってくるの。その周期の中で、妊娠しない期間があるの。そのあいだは、精子は卵子にたどり着けない」「安全日っていうやつ?」「そう」と答えたあとから、比呂美はうつむいてしゃべった。「いままで、眞一郎くんとエッチしたときは、ほどんど安全日の期間だったの…………」 しばらく黙ったあと、ぼそっと付け加えた。「わたしだって、眞一郎くんを大切に思っているんだから……」 そして顔を上げて、「大丈夫だから……」と念を押した。 比呂美がこんなにも凛々しい顔をするのは、あのとき以来のような気がする。比呂美が仲上家の玄関で堂々と眞一郎に告白したとき、こんな顔をしていた。そのとき比呂美は、ちゃんと向き合ってほしいと言った。そんな比呂美が、ここでちゃんとつながりたい、何の隔たりなしにつながりたい、というのは、そのことがふたりにとって必要なことだと比呂美自身が感じているからではないだろうか。比呂美だって、単純に性的快感を求めることはあるだろうが、それだったら、眞一郎に気づかれないように安全日にエッチを重ねるようなことはしないはずだ。比呂美は、比呂美なりにお互いの性欲を慎重にコントロールしてきたのだ。そして、今も、これからも続けようとしている。「……わかった」と眞一郎はつぶやいた。比呂美が何も心配していないのであれば、もう拒否する理由が見当たらなかった。あとは、男らしく振る舞い、男をまっとうするだけだ。眞一郎ができるのはそれだけなのだ。それが比呂美のほんとうの願いなのかもしれない。「……と、その前に……」眞一郎は自分の荷物をあさってバスタオルを引っ張り出した。「ちゃんと、洗ってくるよ」と言って、眞一郎は立ち上がり、バスルームに向かった。 眞一郎の背中が見えなくなって脱衣所のドアが閉まると、比呂美は大きく息を吐いた。一週間分のもやもやが一緒に吐き出された感じだった。「がんばって……」窓の外に目をやりながら、比呂美はぽつりとそうつぶやいた。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ ┃ ┣━┻┳━眞╋━━━┫ ┃ ┃ ┃ 比 ┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― 比呂美が洋室にいないことを祈りつつ、眞一郎は脱衣所のドアを静かに開けた。子猫の鳴声のようなドアの軋み音にひやりとしながら、首だけ出して洋室の様子を窺う。比呂美の姿は見えない。予想通り、和室に移動したらしい。眞一郎はほっと溜息をつき、自分の股間に目を移す。シャワーのお湯をかけて洗いだした途端に、そこは凍ったバナナのようにかちんこちんに固くなってしまったのだ。何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせても、そこだけはまるで完全な独立自治区のように振る舞い、固くなったままの形状を崩すことはなかった。このまま元に戻らないんじゃないだろうかと思うほどだった。過去最高に固くなったペニスは、トランクスの布地を内側から押し出し、腰のゴムの部分も持ち上げていた。眞一郎が下を向けば、隔たりなくそれと見つめ合うことができる。こんな状態を比呂美に見られたくはなかった。自分の股間がコントロールの効かない領域に達していることを悟られたくはなかった。それを知れば、比呂美は不安がるかもしれない。挿入を断念するかもしれない。男としてそれはあまりにも情けない結末だ。 脱衣所を出て、眞一郎はそろりと台所を進む。和室の引き戸が目に入ったところで立ち止まる。引き戸が閉められていたので、眞一郎は胸をなでおろす。さすが比呂美だ。気配りが行き届いている。もちろん、眞一郎(正確にいえば眞一郎の股間)がこんな状態になることを予想していたわけではないはずだ。比呂美には比呂美の身だしなみがあってのことだろうが、今の眞一郎にはそんなことを考える余裕はまったくなかった。比呂美の中に挿入する前に一回射精して、ペニスを落ち着けたところで挿入したほうがいいかもしれない。そんな安全策を考えはじめていた。 眞一郎は和室にいるはずの比呂美を意識しつつ、自分のスポーツバッグのところまで移動した。バスタオルをとりあえずバッグの上に置こうと身をかがめた瞬間、ガマン汁が一気に噴き出し、トランクスのペニスを覆っている部分が、水鉄砲で水をかけられたみたいに盛大に濡れた。一瞬、射精したのではないかと思うほどの勢いだった。でも、このお陰で、股間とその周辺の緊張がほんの少し緩んだような気がした。眞一郎は、トランクスをずり下ろして脱いだ。ペニスは相変わらずコンクリートのように固かったが、下腹に力を入れると、ペニスが縦方向に細かく反応した。独立自治区が歩み寄りの姿勢を示したのだ。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ 眞 ┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃ ┃ ┃ 比 ┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― さて、これからだ。眞一郎は大きく息を吸って吐いた。そして、ティッシュの箱を探すが、こっちの部屋にはない。仕方なく、ガマン汁が垂れたペニスをバスタオルで拭いた。下腹に力を入れると、まだガマン汁が溢れ出てくる。替えのトランクスを履いても、またすぐにさっきのようになるのは目に見えていた。それならいっそのこと履かないほうがいい。どうせすぐ脱ぐことになるのだし、比呂美の裸を見る前からトランクスの前を盛大に濡らしているなんて情けないではないか。これからやることは決まっているのだから、堂々と丸裸で登場したほうがむしろ男らしいしカッコいいはずだ。このときの比呂美の反応もなんだか見てみたい気もする。たまには、クールな比呂美を慌てさせてやりたい。 眞一郎はすっくと立ち上がった。その反動で下のほうも立ち上がっては揺れた。そして、引き戸の前に立ち、股間を見下ろした。亀頭の先が少し濡れているが、問題ない。このまま引き戸を開けて進めば、比呂美が最初に目にするのは、いつもより激しく勃起したペニスの先端かもしれない。なんか80年代の下ネタのコントのようで、眞一郎は声を立てずに笑った。治まったところで比呂美に声をかけた。「比呂美、あけるぞー」「あ、うん……」 引き戸の向こう側から聞こえた比呂美の声が、なんだか固いぞ、と眞一郎は思った。笑っている場合じゃない。比呂美が今どんな気持ちで待っているのか、それを考えなければいけないのではないか。比呂美だって、緊張はするだろうし何かしら不安を抱くだろう。平気なわけがない。今までと違った、今までやらなかったセックスをするのだから。でも、だからといって、眞一郎は今からトランクスを履いてペニスを隠そうという気にはならなかった。比呂美を安心させるには、目のやり場とか順序とか細々と気配りするよりは、男として堂々としていたほうがいいと考えたからだ。 眞一郎は息を吸い込んだところで引き戸の取っ手に手をかけ、息を吐きながら戸を滑らせた。ころころと響く軽やかな音に反して戸は重たく感じ、比呂美のいる和室の空気がこっち側の空気とはまるで別もののような気がした。不意に、仲上家の比呂美の部屋に初めて足を踏み入れたときの記憶がよみがえる。壁も床もタンスも机も、そこにあるもの全部が比呂美の一部のような気がして落ち着かなかったことが思いだされた。 背中にべっとりと貼りついた粘着テープを引き剥がすように眞一郎は一歩を踏み出す。眞一郎の右足の裏が和室の畳を踏みしめ、まもなく左足が追いかけてくる。その動作の途中で、比呂美の視線が劇的に変化するのが眞一郎には分かった。眞一郎が比呂美の全身の姿をはっきりと捉えたとき、すでに比呂美は左90度、真横を向いて、眞一郎の正面にある壁を睨んでいた。「ちょ、ちょっと……」恥ずかしいというより、信じられないといった口調で比呂美がつぶやく。 眞一郎が素っ裸で登場するとは微塵も思っていなかったようだ。だから、動揺を隠すためにあえて怒ったような態度をとったのかもしれない。でも、すぐに頭を切り替えられるのが比呂美だ。比呂美はすぐに――眞一郎のペニスを目撃してからすぐに、なぜ眞一郎が裸で現れることを選択したのか考えた。いくつかの理由が頭に浮かぶ。その理由を確かめるために、比呂美は顔を戻して、眞一郎の見事に勃起したペニスを数秒間凝視したあと眞一郎の顔を見た。そして再び、ゆっくりと歩み寄ってくる眞一郎のペニスに目をやった。 比呂美はしっかりと体にバスタオルを巻きつけて、敷布団の上にタオルケットを広げたその上にちょこんと座っていた。白とピンクの縞模様――このバスタオルは比呂美の一番のお気に入りだ。横に走った縞模様は、比呂美の体の胸から太ももの半分くらいのところまでの起伏をかたどっていた。でも、眞一郎の目を引きつけたのは、バスタオルでくるまれていない部分で、膝頭や両腕、肩のラインや首すじのほうだった。いままでずっと比呂美がタオルケットにくるまっていたせいで、素肌が白く輝いて見えたのだ。そして、眞一郎を一番ハッとさせたのは、ほどかれた髪だった。それに気づいた途端、懐かしさが込み上げてくる。そのシルエットを目にするのは、一週間ぶりなのだ。ようやく、ほんとうの比呂美が、比呂美の実態のすべてがこの場所に到着したような錯覚さえ感じた。 比呂美は、眞一郎の下半身から目を離さない。怒っているのだろうか? 眞一郎の目の位置から比呂美の顔を見下ろすとそんな風に見えた。そういう意味で内心ドキドキしながら、眞一郎は比呂美の正面にしゃがんで膝立ちになり、ゆっくりと踵にお尻をのせた。すると、比呂美は顔を上げて、めずらしくはにかんだ。「……なんか、いつもより大きくなってない? ここ……」比呂美はまた下半身に目をやる。「い、いや……なんていうか、はは……」とゴマかし笑いをしながら眞一郎は頭の後ろを掻いた。比呂美はすぐ顔を上げ、どうしたの? という風に首を傾げる。自分から素っ裸で登場してきておいて、何をいまさら照れているのと思っているのかもしれない。それとも、あえて眞一郎に恥ずかしい言葉を言わせようと意地悪しているのかもしれない。きょとんとした比呂美を見ていると、何もかも見透かされているような気がしてくる。眞一郎は急に息苦しさを感じ、何もかもぶちまけてしまったほうがいいように思えてきた。たぶん、そうしたほうが比呂美も安心できるのではないだろうか、と。「あのさ、正直言うとさ……」「うん、正直に話して」比呂美は待ち構えていたように笑った。なに話してくれるのかな~といった感じだ。「なんていうか、すごく緊張しているというか……。あっ、でも変な意味で興奮しているとかじゃないんだ。ここはこんなだけど……」と言って、眞一郎は股間のほうにちらっと目をやった。「……お、男の子のことはよくわからないけど、ふつう、緊張しすぎるとこんな風に……」 眞一郎がどぎまぎ話しだしたせいだろうか、比呂美は少し困ったようすで眞一郎を庇おうと口を開いたが、眞一郎はそれを遮ってつづけた。「こんな風になったの、おれも初めてで……。あ、でも、大丈夫。もうだいぶ落ち着いたから。……こわいか?」「えっ?」いきなり尋ねられてドキッとした比呂美は慌てて首を振った。そして、知らず知らずのうちに不安そうな顔をしていたのだろうかと、それを隠すために俯いて頬の筋肉の力を抜いた。「シャワーで洗ってるとさ、急にこんなになっちゃって。勝手に人工衛星でも打ち落とすんじゃないかって焦ったよ」 眞一郎がそう冗談を言うと、比呂美は半分意味が分からないという顔をして「ふふっ」とふきだし、「触ってもいい?」と尋ねた。「だめだめだめ」「なにそれ」「いまはだめ」「……じゃ~、握ってもいい?」と簡単にあきらめない比呂美。「それ、おんなじことじゃん」 比呂美は口を尖らせて「うー」と不満そうに唸った。眞一郎は、駄々っ子のように睨んでくる比呂美に呆れる表情を見せながらも、内心では比呂美に感謝していた。表に出さなくても比呂美が必死になって自分の緊張をほぐそうとしているのが分かったからだ。比呂美のそういう気配りや振る舞いについて、いつも脱帽させられる。いじらしいとさえ思うこともあった。「時間、稼ぎたいから……」と、眞一郎は触らせられない理由を呟いた。「時間? なんのこと?」 意味が分からず目を丸くした比呂美は訊き返した。そのことが――比呂美に理由が伝わらなかったことが眞一郎には意外だった。比呂美がまた意地悪しようとしているのではないかと思ったが、比呂美はほんとうに意味が分からないようすだった。「いや、ほら……」眞一郎はひとつ咳払いをして、言わなくても分かるだろう? という風にもじもじした。比呂美は、え? なに? そんなに恥ずかしいことなの? と眞一郎の言っていることが分からずやきもきした。「だから、おまえが言ったじゃん」「ええっ、わたし? わたし、そんなに恥ずかしいこと言った?」「恥ずかしい? ……くはないけど、女の心理としてはそうかな~というか……」 女の心理? と書かれた風船が比呂美の視界の中でふわふわ浮かんだ。そして弾けた。「ああ!」と、比呂美は喉のつっかえ棒が取れたような声を上げた。眞一郎が言おうとしているのは、比呂美の中に入っている時間――ペニスを挿入している時間のことなのだ。そのことがようやく分かったのだ。比呂美は、コンドームをつけないで交わろうと眞一郎に求めたとき、自分は何て言ったのかを急いで思い返した。でも、正確に思い出せなかった。長くつながっていたい、などとストレートに要求してはいないはずだ。なのに、眞一郎が『あれ(射精)のときまでの時間』を気にして、どうもプレッシャーを感じていたことに、男と女の根本的な違いを感じた気がした。 男は、愛を施すことだけを考え、 女は、その愛を受け止めることだけを考える。 そういうことなんだろうか……。そう思って、あらためて見た眞一郎の顔、そして体は、なぜだか男らしく見えた。比呂美は、眞一郎が伝えたがったことはあえて口に出さずに、もうわかったよ、という風に微笑んでみせた。その代わり、自分から恥ずかしいことを言ってやろうという気になった。「……なんか、新婚、初夜……みたいだね……」 その直後、眞一郎が前屈みになって、むせた。眞一郎は必死になってそのときの光景を頭の中から振り払おうとした。でも、想像の川のすでに決壊してしまっていた。次々と、比呂美とこうなりたいという願望が湧き起こってきて、どうしようもなくなった。 新婚旅行で海外になんか行きたくない――眞一郎はそう思っている。人里離れた山奥の小屋に一週間くらいふたりきりで生活し、そこで、比呂美と契りを交わす。それが眞一郎の夢のひとつだった。これには、確固たる動機が眞一郎にはあった。それは、比呂美はふたりきりにならないとなかなか本心を表さないということだった。だから、できるだけ完全な『ふたりきり』という状況を作って、比呂美がほんとうの自分を見せたときに子ども作りたい。それに、ほんとうの比呂美を見てみたい気がする。いまの比呂美はまだ17歳だけど、比呂美の『女』としての『本性』はこんなものではないはずなのだ。眞一郎を驚かせないために比呂美はまだ自分を隠している。眞一郎は薄々そんな気がしていたのだ。 いきなり眞一郎の妄想を打ち消したのは、眞一郎の右手首に加わった感触だった。眞一郎がそこに目をやるやいなや、あれよあれよという間に、眞一郎の右手は、比呂美の左手に掴まれてもっていかれた。やがて、眞一郎のその掌は比呂美の左側の鎖骨のあるところに押し当てられた。この部分はバスタオルで覆われていない。比呂美の素肌の感触が、条件反射的に眞一郎の右腕を引っ込めさせようとした。でも、比呂美はそれをさせなかった。眞一郎は堪らず声を上げた。「どうするんだよ」 そう言った直後は、眞一郎はそう言ったことを後悔した。何もそこまでうろたえるようなことでもないのだ。いきなりなこととはいえ、なんだか情けないなと思ったが、比呂美は眞一郎のそんな態度に全然気にするようすもないし、眞一郎の問いかけにも答えず、ただじっと、眞一郎の胸のあたりに視線を落としていた。仕方がない、比呂美の出方を窺ったほうがよさそうだと、眞一郎はそのままじっとしていた。 眞一郎の動揺が治まったのを察して、比呂美はようやく口を開いた。「眞一郎くんだけじゃ、ないよ……」「え……なんのこと?」 眞一郎がそう訊き返すと、比呂美は眞一郎の顔を見つめた。「緊張しているのは、わたしもおんなじ」「…………」 何て返したらいいのか分からず眞一郎が黙っていると、比呂美は掴んだ右手を下へずらしていった。バスタオルを押しのけ、掌は比呂美の乳房の柔らかな感触で支配される。それだけではない。バスタオルは、比呂美の背後で誰かが引っ張ったんじゃないかというくらい、ものの見事にはだけて、比呂美の背中側にきれいに落ちてしまった。バスタオルの演出も重なって、あらためて比呂美の裸体の美しさに眞一郎は息を呑まずにいられなかった。でも、眞一郎はまだ冷静でいられた。それは、比呂美が執拗に性的に誘惑してくる素振りではなかったからだ。比呂美の顔の表情はそういうものではなかったし、いま眞一郎の右手は比呂美の心臓のあるところに押し当てられているのだ。「わかる? わたしも、かなりドキドキしてる」と言って、比呂美は自分の胸に押し当てている眞一郎の右手を見た。「……う~ん、よくわからない」 眞一郎自身、いまもなお半端なくドキドキしているのだ。掌で感じる振動が比呂美のものなのか、自分のものなのか、判別できるほど余裕はなかった。 比呂美は、眞一郎の反応に半分は不満そうに、半分は納得したように微笑んで、眞一郎の右手を離した。このあと慌てて手を引っ込めるのも可笑しな感じなので、眞一郎は極力自然な風を装って、さりげなく腕を戻した。でも、眞一郎がほっとしたのも束の間だった。 比呂美はお尻を浮かすと、眞一郎に抱きついてきたのだ。両腕を眞一郎の背中に回して力を込める。たちまち、眞一郎のペニスは、主(あるじ)の下腹と比呂美の下腹でサンドイッチになった。固くなったペニスの何ともいえない異物感を比呂美も同じように感じているのだろうか。眞一郎はそう思うと、比呂美の乳房が容赦なく押し当てられているのも忘れて恥ずかしくなったが、比呂美が首元でゆったりと呼吸しているのを感じて、すーっと心の中に安心感が広がるのを感じた。不思議な感じだった。傍から見るとどうみてもエッチな『行い』なのに、当の本人たちは安らぎを得るためにそうしている。眞一郎は、いまそう思ったことを口に出してみた。「なんだか、安心する……」眞一郎は比呂美をさらに抱き寄せた。「これしかないな、って思ったの……」「…………」眞一郎が黙っていると比呂美がさらにつづけた。「だって、こうやって抱きしめられると、わたし、すごく安心できたんだもん」「……そ、そうなんだ」眞一郎に思い当たる節がないわけではなかったが、意外そうにそう答えた。比呂美の感想をもっと聞きたかったのだ。「だから、たぶん、眞一郎くんも、おんなじなんじゃないかって思って…………。でも、男と女では感じ方は違うよね。エッチな気分になる?」「いいや」眞一郎はきっぱりと否定すると、比呂美は、ふふふっと気持ちよさそうに笑った。「よかった……。もし、エッチな気分になってたら、いまごろ押し倒されてるもんね」 眞一郎はそんな比呂美の冗談には付き合わず、「ありがとう」とつぶやいた。「え、なに?」比呂美は訊き返す。「ありがとうって言ったんだ。わかってたよ、おまえがおれを何とか落ち着かせようとしているの」「…………」比呂美は黙っていた。比呂美の体が一瞬こわばるのを眞一郎は感じた。「ごめん。不安だったんだろう? いきなりおれが裸で出てきたから」「あはははっ」比呂美はこんどは弾けるように笑った。 眞一郎は比呂美の後頭部に手を回し、比呂美の顔を自分の体に押し付けた。そのとき触れた比呂美の後ろ髪がひんやりしていたことに、びくっとなった。堪らず、比呂美の髪を撫でた。山奥で湧き出た清流に手を突っ込んでいるような感覚だった。心がさらにすーっと落ち着くのを感じた。比呂美は満足げに吐息を漏らす。比呂美の髪に触(さわ)れるのはこの世の男性で自分だけだ。眞一郎が強くそう思うと、体の芯がいままでとは違った熱気を帯びるのを感じた。激しいけれども揺らめかない炎、そんな炎が灯った感じだった。 比呂美の髪の感触を楽しんだあと、眞一郎は静かに言った。「比呂美、ひとつお願いがあるんだけど」「なに?」あらためてそう言われて、比呂美はきょとんとなった。「その、ちょっと言いにくいんだけど……」「だから、なによ」男らしくないな~という感じで、比呂美は少し口を尖らせる。「あんまり……。これから、あんまり、なるべく、エッチな声を出さないでほしい、んだけど……」「はあー?」比呂美は思わず眞一郎から体を離し、眞一郎の顔を覗き込んだ。眞一郎が何を言いたいのかまるで分からなかったのだ。「いや、だからさ、さっきも言ったろ。できるだけ、その、長くさ……」 そう言われて、比呂美はようやく意味を理解した。理解したのはいいけれど、なんだかまた急に恥ずかしくなって、眞一郎の胸をバチンと叩いた。自分がエッチな声を漏らすと、射精を迎えるのが早くなると眞一郎は言っているのだ。眞一郎の提案を歓迎すべきなのか、抗議すべきなのか、比呂美は分からなくなって、眞一郎に向かってこう口走っていた。「ばかみたい」と。―――――――――――――――― ふたりの位置 ┏━┳━━━┳━━━┓玄関┃ ┃ ┃ ┣━┻┳━━╋━━━┫ ┃ ┃ ┃ 眞比┃ ┗━━┻━━┻━━━┛―――――――――――――――― 窓から秋を思わせる涼しい風が入ってきた。笹の葉で作った二艘(そう)の小船をとんと押して、水面よりとび出た草葉に引っかかってたのをようやくほどいた。そして、揃って下っていく。 ばかみたい、と言われた眞一郎は、いつものように苦笑いした。この言葉にはあまりいい思い出が結びついていないのだ。でも、それは今日で最後だと思った。眞一郎の顔がすぐに真顔になって比呂美を見つめる。眞一郎の立ち直りがあまりにも早かったというか、半分冗談のつもりで抗議した言葉が眞一郎によって横に置かれてしまったことに、比呂美はどう反応していたらいいのか分からなかった。はっきりしていることは、眞一郎はもうその気になっているということ。それなら……と思い、比呂美はキスを求めようと目を閉じかけた。眞一郎も比呂美に近寄ってくる。でも、眞一郎のこの接し方は、キスするつもりではないらしい。右手を比呂美の後ろ髪の中に入れて頭部を支え、左腕を比呂美の腰にしっかりと巻きつけた。そして、比呂美の体をゆっくりと寝かした。まるで陶器の人形を箱に仕舞うような感じだった。比呂美の頭が枕につく前に、眞一郎は比呂美の後ろ髪をかき上げて、比呂美の背中の下で挟まれないようにした。比呂美は自分の肩先の畳の上から聞こえるぱさぱさという音にこそばゆくなった。こういうシチュエーションでないと聞けない音だろうなと思う。このあと、眞一郎はキスをしてくれるはずだ。たぶん、それが、その先への合図になるはずだ。目を閉じて、比呂美は待ち構えた。 でも、眞一郎の体が遠ざかる気配に比呂美は目を開けた。比呂美の目に飛び込んできたのは、自分の脚の内側に手を入れようとする眞一郎の姿だった。膝の裏側を持ち上げられる感触に、比呂美は反射的に両手で自分の性器を隠した。少し意表をつかれた感じだった。それでも眞一郎はまったく構わない素振りで、比呂美の太ももを垂直に立てたところで、それぞれ外側へぐっと押し広げ、さらに前に押した。「ゃ……」両脚をMの字にされた比呂美は思わず声を漏らしてしまう。それにはっとなった眞一郎は比呂美の顔を見て、何かに気づいたように口を半開きにした。どうしても頭の中をよぎってしまったのは、この土壇場になって比呂美の気が変わり、生のペニスを受け入れるのを拒否しだしたのではないか、ということだった。でも、そういう懸念ははっきりいって間抜けすぎるし、比呂美に対して失礼のような気もした。コンドームなしで交わることを比呂美は十分に考え、慎重に眞一郎に求めてきたのだ。比呂美の覚悟ははじめから決まっている。だから、比呂美の気が変わるなどと考えることは、比呂美のことを信じきっていない証拠だといえる。そのことに気づいた眞一郎は、比呂美の顔をまっすぐに見れず、視線を落とした。二の腕に挟まれ、お互いに寄せられた比呂美の二つの乳房。さらに下のほうに目をやると、秘部を隠す比呂美の両手。比呂美の心と体のすべてが、眞一郎を待っている。いまの比呂美の姿は、眞一郎にはそうとしか映らない。なのに、眞一郎はほんの一瞬だけ気持ちが揺らいでしまった。 これ以上、比呂美を待たせてはいけない。待たせた分だけ、比呂美を信じていないことになる。そう自分に言い聞かせた眞一郎は、もう一度比呂美の顔を見て、いくよ、と無言の合図を送る。比呂美はまばたきだけしてそれに答えた。 比呂美の右手を包み込むように優しくつかむ。そこで、眞一郎は「ごめん……」とつぶやいた。何を謝っているのだろう。そう訊き返す寸前で比呂美は声を押し堪えた。いま、その質問をしないほうがいいような気がしたのだ。それに、あとになってからも、それはしないほうがいいように思えた。眞一郎が自分ひとりで心の中でケリをつけたことなのだろう。どうしても比呂美に対して謝らずにいられなかったことなのだろう。ともかく、眞一郎は先へ進みはじめている。比呂美も眞一郎のすべてを信じるしかなかった。 右手、そして左手という順番で、比呂美の両手はゆっくりと引き剥がされた。比呂美はその手をどこに落ち着けたらいいものかと考えたすえ、とりあえず、自分の乳房のしたあたりに軽く握りこぶしを作って留めた。そうこうしているうちに、眞一郎がいまの姿勢からさらに腰を落とし、自分のペニスを近づけてくる。比呂美はそっちのほうには目をやらないようにして、ゆったりと深く息をした。 眞一郎は、自分の性器と比呂美の性器が縦に並んでいるのを真上から見下ろしている。その光景に、何かが決定的に足りないような気がしてならなかった。コンドームひとつがセックスをする上でどれだけ安心感を与えていたことにあらためて思い知ったのだ。 このまま、挿(い)れるつもりなのか……とどこからともなく声がする。肉体が主(あるじ)の意思に抵抗しているような感覚に眞一郎は見舞われた。でも、眞一郎は心の中で大声で言い返してやった。(おれと、比呂美の、ふたりで決めたことなんだ! おれは比呂美を信じている。比呂美もおれを信じている。 だから、おれは比呂美とつながりたい。比呂美もおれとつながりたがっている。 これは、男と女の、とても自然なことなんだ……) ざわめきがぴたりと止んだ――。ただ黙ってしまっただけではなかった。眞一郎の熱弁に目を覚まされ、眞一郎の意思を後押ししようとする空気を漂わせた。比呂美のことを幼いころから知っている眞一郎は、心の片隅で、セックスをするたびに『比呂美を傷つけている。比呂美を汚している』と思っていた。でも、比呂美はそうは感じていなかった。セックスをするたびにお互いの信頼感が深まっていくことにこの上ない喜びと安らぎを感じていたのだった。眞一郎はようやくそれに気づき、比呂美に対する優しさから生まれていた『迷い』を拭い去ることができたのだ。(比呂美を待たせてはいけない)と噛み締めるように眞一郎はつぶやいた。 いつの間にか、全身が軽くなったような気がした。手も足も思い通りに動かせる。それを確認した眞一郎は、比呂美の秘部を見定めた。二つの花びら、小唇陰は合わさっていて、その奥を窺うことはできない。それでも構うものかと、眞一郎は腰を進め、ペニスの先・亀頭の部分をその花びらに咥えさせた。この段階では比呂美からの締め付けはない。ペニスをぎゅっと握っていないと花びらの外に飛び出てしまう。すぐに、膣口を探る。比呂美の体のことはもうだいだいわかっているので、亀頭を膣内に簡単に落とし込めた。このとき、比呂美が一瞬体を振るわせた。 ペニスが比呂美の膣にひっかかったところで、眞一郎は比呂美の胴体の両脇に両手をついて、さらに腰を進ませた。比呂美の膣内は十分に性液で濡れていたので、ペニスを簡単に奥まで進ませていけそうに思えたが、すぐに支えてしまった。ペニスはまだ三分の一くらいしか入っていない。数回細かく出し入れをしてみたが、複雑な形状をした膣の内壁がペニスを皮を押し戻すだけだった。コンドームを着けていたせいで、いままで滑りがよかったのだろうか。でも今さら着けるわけにはいかない。たぶん挿入の角度が悪いのだろうと眞一郎は思い、ペニスが抜けないように注意しながら比呂美の体に覆いかぶさって、少し斜め下方向に突いてみた。比呂美は眞一郎の背中に腕を回し、わずかに心配そうな顔をした。比呂美に笑顔で答えて、眞一郎は強めに突いた。くちゅ、という音を立ててペニスが奥へ滑り込んでいく。「ぁあ……」と思わず喘いでしまった比呂美は、すぐに「ごめん……」付け足した。律儀に眞一郎からのお願いを守ろうとしている。 ペニスが三分の二くらい入ったところからは、しっかりと押し込むようにしないと奥へ進んでいかなかった。比呂美の膣のほうも充血して普段より膣内が狭くなっているようだった。でも、比呂美は痛がったようすは全く見せなかった。眞一郎は、足先と膝頭でしっかりと踏ん張り、比呂美の肩に手をかけて、比呂美の奥を目指した。比呂美の息が次第に荒くなってくる。声を我慢している分、余計に荒くなっているのかもしれない。それでも眞一郎は構わずペニスを進め、とりあえず、その丈の全てを比呂美の中に捧げるまでに至った。 白無地の敷布団の上にタオルケットを敷いて若い男女が性を交わらせている。ふたりはいま、その典型的な格好をしているが、体を重ねたままじっとしていると、性交とは無縁なものに見えてくるから不思議だ。でも、性的快楽を求めようと激しく動き合わなくても、ふたりにとってこの瞬間は、彗星が地球に衝突したのと同じくらい衝撃的なものだった。傍からはそうは見えなくても、ふたりはそのことをお互いに心でしっかりと確かめ合っていた。神秘的で、かけがえがなく、愛に包まれているような感じ……。 しばらく無言でいると、どうしても相手の声を聞きたくなる。相手の気持ちを聞きたくなる。時間が経つにつれ、これ以上ないというくらいしっかり抱き合っているのにどうして無言でいられるのだろう、と思うようになる。こういうとき必ず痺れを切らすのが比呂美だ。「……ねぇ、眞一郎くん……」 久しぶりに名前を呼ばれたような気がして、眞一郎はくすぐったいような気持ちになる。「……ん、どした?」「……ど、どうもしないけど……」 比呂美は自分の名前を呼んでほしいとつづけようとしたが、とっさに切り替えた。もっといいことを思いついたのだ。でも、比呂美がそれを求める前に眞一郎が思いがけなくそれをしてきた。「キ……」と比呂美が発したところで、比呂美の唇を眞一郎がふさいだのだ。いつもこのくらい気が利いてくれたらな~と内心思いつつ、眞一郎の優しく丁寧なキスに比呂美は応えた。もっと激しい口付けを求めようかと比呂美は思ったが、いまはそれは相応しくないような気がした。たぶん、眞一郎も同じことを思っているにちがいない。だから、眞一郎は生まれたての赤ちゃんの頬に口づけるみたいにしてくる。気持ちが高揚しているからといって、必ずしも激しいほうに流されていっていいわけではない。眞一郎にはそれが分かっている。あるいは、抑制できている。でも、比呂美はこの高ぶりを何かに吐き出さずにはいられなかった。比呂美は熱くなった下腹に意識を集中させた。そして、思いっきり力を込めて、動きの止まった眞一郎のペニスに圧力を加えてみた。ふだん意識的にあまりやらないことだから、うまくいくかは分からなかったが、無性にやってみたくなったのだ。「ふぁ……、くっ……」と眞一郎が締りのない声を上げる。そして、すぐさま背中を反らして比呂美から顔を離す。ペニスに濡れタオルを巻きつけられて締め上げられたような感じに堪らなくなったのと同時に、射精へと急激に加速しないか焦ったのだ。そんな中、ふふふ、と比呂美の気持ちよさそうな笑い声が飛び込んでくる。「……おまえ、いま……」比呂美がわざとやったことに、眞一郎は少しむすっとして抗議した。「だって、声だしゃちゃいけないっていうから……」と比呂美も口をとがらせたが、顔の表情は笑顔そのものだった。それを確かめたとき、眞一郎は桃色に染まった比呂美の頬に気づいた。恥ずかしいときに顔を赤らめるのとは違った、比呂美が性的興奮のときだけに見せる身体の変化のひとつだ。いまは、その度合いがふだんの数倍といったところだ。でも、頬を桃色に染めた比呂美は逆に幼く見えて、眞一郎はなんだか懐かしい気持ちにさせられた。「もしかして、おれ、顔赤い?」「もちろん、お猿さんみたいに」間髪いれず比呂美は答えた。「まっぱ(真っ裸)で登場してきたときから、真っ赤だったよ。どうして?」「いや……とくに意味はないんだけど……」眞一郎はそう濁そうとしたけど、比呂美には分かっていた。自分の頬が性的興奮で桃色に染まっていて、眞一郎はそのことを指摘しようとしたけれど、とっさに眞一郎自身のことに話をすりかえたのだろうと。女の子が身体的特徴や変化を指摘されるとあまりいい気分にならないと眞一郎は考えたのだろう。それは比呂美にとって嬉しいことだけど、そんなことよりも、いま、比呂美は眞一郎に訊きたいことがあるのだ。いましか訊けないこと、いましか眞一郎が話してくれないようなことが……。「ねえ……」「……なんだ?」比呂美が少し真顔になったのを感じて、眞一郎はやさしい口調で訊き返した。「いま……、どんな感じがする? どんな気持ち? ……聞かせてほしい。エッチなことでも全部話して……ほしい……」と言いながら比呂美の顔が引き締まっていく。 比呂美がなぜこんな質問をしてきたのか、眞一郎には何となく分かった。いまお互いに抱いている気持ちの中で、少しでも誤解を残したままにしておきたくないのだ。どんなに些細なことでもすれ違ったままだといやだと比呂美は思っている。眞一郎はそう感じ、全部話さないわけにはいかないなと思った。でも、言葉にするのは難しいな、とも思った。「そうだな……。うまく表現できないかもしれないけど……」 比呂美は黙ってうなずく。「結論から言うみたいだけど……、このことは、ちゃんとしたときにとっておきたい、と思った」 眞一郎のこの言葉を聞いて、比呂美の瞳がわずかに潤んだ。たったこれだけの言葉でも、比呂美にはその意味が分かっているのだ。「だから、その~。……ほんとうにそうするときまで、とっておきたいっていう意味になるんだけど……。無闇に体を重ねて、ほんとうの大事なときに気持ちが盛り上がらなくなるのはまずいなーって。そのことに気づけて、比呂美に感謝している」 比呂美は満足げに大きくうなずいて、眞一郎の話の続きを待つ。「コンドーム無しで挿(い)れるって決めてから、すごく興奮した。やばいくらい狂いそうになった……。念のため言っとくけど、いままでコンドーム無しでエッチしなかったことに不満なんかこれっぽっちも感じてないよ。逆に、安心して比呂美を感じることができて、よかったと思う。そんなところかな、いま思っていることは……」 たぶんまだ言葉不足だろうなと眞一郎は比呂美の顔を窺った。比呂美は喉の奥を軽く鳴らして鼻から息を吐いた。比呂美は話のつづきを待っている、と思った眞一郎は、もっと具体的に表現しようと頭の中で言葉を選びはじめた。でも、その途中で比呂美がぽつりとつぶやいた。「……おんなじ……」「……え?」と眞一郎は訊き返した。「わたしも、おんなじ」比呂美はそう言うと、眞一郎の背中に回した腕に力を入れて眞一郎の上半身を引き寄せた。眞一郎は比呂美の胸を圧迫しないように配慮しつつ、それに従った。「おまえはどう思ったんだよ」と、こんどは眞一郎が訊いた。「だから、おんなじだって」と比呂美は答えると、ふふふっと笑った。「だから、くわしくおねがいします」眞一郎はいたずらっぽく求めた。「わたしにエッチなこと喋らせたいの?」まるで小学生をやさしく叱るような口調で比呂美が抗議すると、眞一郎は「おまえの声、もっと聞きたいんだ」と比呂美の耳元で囁いた。 こんなことを眞一郎に言われたら、比呂美はこれ以上抵抗するわけにはいかなくなかった。ふだんあまり多くを望まない眞一郎のこの瞬間の望みなのだ。逆らえるわけなく、比呂美の本性もそれを許さない。「しょうがないな~」と比呂美は大げさに苦笑してみせた。内心は喋りたくてしかたがないのだが。「しょうがないってなんだよ」「もう、おこらないの。でもね、さっき眞一郎くんが言ったこととほとんどおなじだよ」 うん、かまわないよ。眞一郎の優しげな瞳がそう答えていて、比呂美は胸の中に清々しいものが広がっていくの感じた。この人に出会えてよかった。八年間ずっとスキだった男の子が、こんなに優しい男性に成長してくれてよかった。比呂美は心底そう思った。 今、何時何分だろう、と眞一郎はふと思った。が、あいにくこの状況では簡単に確かめられないから時間のことは諦めるしかない。それに、比呂美がいまから話そうとしてくれていることに比べたらどうでもいいことのはずだ。でも、どうして急に時間が気になったのだろうと眞一郎は不思議に思いながら比呂美が話しだすのを待った。 こうして肌と肌を密着させていると、言葉や顔の表情とは別の、相手の気持ちを知る新たな手立てに気づく。それは全身の筋肉の硬直ぐあいだ。硬くなったり柔らかくなったりするのが面白いようによくわかる。眞一郎に今の気持ちを逆に質問された比呂美は、全身を硬直させた。眞一郎からの不意打ちであったのもあるが、もともと比呂美はエッチな単語を口にすることに非常に羞恥心を感じる性格なのだ。いくら眞一郎にせがまれても、いきなりべらべらとそういうことを喋れるはずがない。どうしよう、と最初は焦り、やがて仕方なく言葉を選びはじめる。そういう比呂美の心情の変化を筋肉による表情で眞一郎は読み取ることができた。比呂美がなかなか全身の硬直を緩めずにいたので、眞一郎は少し意地悪な気持ちで比呂美に質問したことをまずいを思いはじめていたが、比呂美の声を聞きたかったのは本心だし、いまお互いに明け透けに気持ちを伝え合う必要性があるように思えた。 しばらくして、ようやく比呂美の腹筋に変化が表れる。喋りだすようだ。「その~、男の子とこういうことするのは初めてなわけだし……」照れくさそうに比呂美は話しだした。「毎回、初体験みたいなものなのよ」「そうだよな」と比呂美が話しやすくするために眞一郎はやさしく頷く。「でも、だんだんに慣れていって、新たな発見がなくなっていって、感じなくなったりして……。そうなると男の子の欲求ってどんな風になるんだろう、わたしにはその先何ができるんだろうとか考えちゃって。そういうこと考えていたら、いつかは……コンドームなしでしてみたいって眞一郎くんが言いだすことになって、そのときわたし、なんて答えたらいいんだろうって……。やだ、なんかわたし、変……」そこまで言うと比呂美は真横を向いて壁を睨んだ。「ずっと……ずっと悩んでたんだ……」「べ、べつに悩んでたっていうほど、悩んでたわけじゃないけど……。いつかは、そういう時がきてしまうよねっていう話。それで、わたしのほうから決めちゃおうって思って……。眞一郎くん、びっくり。した?」比呂美は顔を戻して眞一郎の横顔を見た。「ま~、びっくりしたっていえば、びっくりしたけど……」少しおどけて眞一郎が返すと比呂美はふっと全身の力を抜いて、ふふふっと笑った。「でも、こういうことって相談すると却ってぎこちなくなったりするでしょ?」「んー、たしかに、そうかもな……」「だから、いまだ、今日しかないって、あははは……」比呂美はころころと笑いだした。「わ、笑い事かよ」眞一郎は比呂美に呆れてぼやいた。「ご、ごめんなさい。なんか急におかしくなって。だって、わたしたちって、その真っ最中なのよ」「そ、そういえば……」「もう、緊張感なさずぎ」こんどは逆に比呂美が眞一郎を非難する。「さっきのわたしの気持ち、わかるでしょ?」「おれだって考えなかったわけじゃないけど、女性の口からそういうこと言われるとなんか切実っていうか、重いっていうか……」「重い?」「いや、重いっていうか、深いかな。ひとつひとつのことを比呂美は丁寧に考えているんだな~ってあらためて思った」「…………」比呂美は言葉を返さない。「どうした?」なにかまずいことでも言ったのだろうかと考えつつ眞一郎は尋ねた。「あのね……」比呂美の全身が一瞬硬くなって、すぐに柔らかくなる。何かを決心したように……。「なに?」「もうひとつ、お願いしてもいいかな……」「なにを?」 比呂美はひとつ大きく深呼吸した。「ぐっと、ついてみて」と比呂美は眞一郎に求めた。「は?」毎度のことながら眞一郎にはすぐに理解できない。でも、比呂美はそのことに不満を表さず、やさしい口調でつづけた。「ぐっと奥のほうに力を入れて、ついてみてほしいの」 他に思い当たることがなく、二度目の言葉で眞一郎は比呂美の言っていること理解した。「でも、いま、いっぱいいっぱい入ってるし、これ以上は、ほとんど進まないっていうか……」「大丈夫。勢いつけてもいいから」 眞一郎は戸惑いを隠せなかった。比呂美の求めていることは分かるが、その真意がいまひとつ掴めなかったからだ。それを察知した比呂美は、率直に説明してあげた。「その、子宮に当たるの、わかるかな~って」「おまえ、そんなことして痛くないのかよ」「たぶん大丈夫だと思う。いままでも当たったことあるし……」 比呂美の真意が分かっても、眞一郎は内心首を傾げずにはいられなかった。でも、比呂美はなんだか嬉しそうにしているし、ここであれこれ考えてもしようがなかった。「それより、眞一郎くんのほうは大丈夫?」「え?」 眞一郎が不安な顔を見せたのを比呂美は射精の心配のことだと思ったらしい、「だから、眞一郎くんのアレ」「あ、う~ん、いまんとこ。なんとか大丈夫そう」自信なさげに眞一郎が答えたもんだから、比呂美は、しっかりしてよね、という意味を込めて眞一郎の背中をぽんと叩いた。 ふたりとも「大丈夫」という言葉を使ったけれども、このあとふたりにはとんでもないことが待ちうけていた。そんなこととは知らずに、眞一郎は比呂美のさらに奥に向かって力を入れ、比呂美はそれをしっかりと受け止めようとしていた。 眞一郎はゆっくりペニスを引き戻した。といってもほんの数センチだけだ。あまり戻しすぎると、再度深く挿入するときペニスを刺激しすぎて射精が一気に始まりそうだった。できることなら、比呂美のこの最後のお願いを無事に何事もなく叶えてやりたい。ただ、男の下半身というものは一度坂を下り始めたら主(あるじ)ですらどうすることもできないという暴走ぶりを発揮する。だから、慎重に事を進めなければいけない。 ペニスを戻すとき思いのほか力を要した。比呂美の膣の内壁が絡みついたように締まっていたからだ。まるでペニスを引き戻させまいとしているかのようだ。そこで眞一郎はハッと気づいた。さっき無性に気になった時間というのは、比呂美とつながっている時間のことだと思い至った。どれくらいの時間だろうか。長く感じるが、せいぜい数分しか経っていないだろう。あのペニスの硬直を考えれば、非常によくがんばったほうだ。いや、奇跡的といっていい。それもおそらくもう少しの辛抱だ。 ペニスを一番深く挿入したときの位置を想像しながら、腰の位置や足の踏ん張り具合を整えた。眞一郎が上半身を離して比呂美の顔を確かめると、比呂美は意外にも無表情に近かった。どういう顔をしたらいいのか分からないといった感じだ。あるいは、子宮のほうに神経が集中していて余裕がないのかもしれない。それと不安も少しはあるかもしれない。でも。これからやろうとすることは比呂美が望んだことなのだ。そのことに眞一郎は同意した。これからすることは、ふたりの気持ちが一緒にならないとできないことなのだ。「比呂美、いくよ」まとわりつく弱気を断ち切るように眞一郎が合図をする。思いのほか声がかすれていて、比呂美の名前を正確に発音できたかどうか分からない。それでも比呂美は黙ってうなずいた。 ペニスをゆっくりと動かしはじめてすぐに加速する。ペニスの根元が比呂美の大唇陰に到達しても眞一郎はさらに奥へ力を込める。比呂美の言うとおりにしてみたのだ。当然予想される比呂美の体の筋肉からの反発力に押し負けまいと身構えていたが、意外なことに、あっけなくペニスはさらに奥へ沈み込んていった。膣口周辺の筋肉が驚くほど柔らかくなり、眞一郎のペニスを一番を奥へと招き入れたのだ。でも、眞一郎が女性の体の不思議を実感するのも束の間、その瞬間から一気に事が始まってゆく。「んはッ……」風船でも割れたようにいきなり比呂美が大きな声を上げ、全身を大きく振るわせた。比呂美にとっても予想外のことがあり、声を抑えきれなかったようだ。おまけに、比呂美が体をビクつかせたせいで、比呂美と眞一郎の体がほぼ同時に敷布団越しに畳を打つことになる。 その直後だった。眞一郎の射精へのプロセスが、檻から放たれた猛獣のように猛ダッシュで始まった。 ペニスの根元の奥のほうで急激に何かが膨らむ感覚がある。その時点で眞一郎は、もうダメだ、限界だ、すぐに抜かないとダメだ、と判断を下す。眞一郎の意識がはっきりしていたのはこの時点までだった。反射的に体が動いて、比呂美の膣からペニスを完全に引き抜くことには成功したのだろうが、同時に、下腹に力を入れて精子が飛び出すのを少しでも遅らせようとしていた。全身の皮膚に感電したときのような痺れ。耳の下の首筋が熱くなり、いやに物音がはっきりと聞こえすぎるようになる。体内の音なのか体外の音なのか区別が付かず、サーという高周波の音がだんだんに支配してくる。心臓は、鉄鎚で石を叩いたような鼓動を打つ。自分が今、どのような格好をしているのかも分からない。ただ認識できるのは、自分の体中から外へ次々に飛び出していくものの感覚だけ。飛び出すごとに、宙に浮くような上昇感を味わい、今まで心と体を締めつけていた呪縛が開放されていく。天に昇るときって、こんな感じかもしれない。そう思ってしまうほどの心地よさ。 でも、それは永遠にはつづきはしない。誰かが、音も景色も皮膚の感覚も現実へと塗り替えていく。決してそれには抗えない。いい思いをしたのだから、これで良しとすべきだと自分に言い聞かせるしかない。そして、現実の世界で待っている愛しい人を思うことに専念していくのだ。 愛しい人―― ユ ア サ ヒ ロ ミ…… 湯浅 比呂美 比呂美の姿を完全に思い出せたところで、眞一郎の意識が完全に現実とつながった。(おれは、ちゃんと、できたのか?)最初に頭に浮んだのはこの疑問だ。 射精する前に、コンドームを着けていないむき出しのペニスを比呂美の性器から引き抜くのが今回の最大なミッションだったわけだ。 ハッとなり、眞一郎は比呂美を見下ろした。
眞一郎はどんな体勢で自分の子宮を突こうとしてくるのか。比呂美にはそのことが気になった。眞一郎の腕が両脚の太ももをがっしりと掴んだ体勢だと脚を外側へ大きく開けず、眞一郎のペニスの先端が子宮の入り口部分をしっかり捉えることは難しくなってくる。眞一郎にそのことを事前に伝えてもいいのだが、こういうことは男性自ら体位を決めさせたほうがいいように思われた。女性の言われるままにやるというのは、男性にとって心のどこかで嫌なものだろうから。眞一郎なら優しく比呂美の言ったとおりにするだろうが、眞一郎ももう『男』なのだ。眞一郎の優しさにいつまでも甘えてはいけないし、男のプライドを傷つけてはいけないと比呂美は思った。 比呂美の予想通り、眞一郎は比呂美の胴の両脇に両手をつき、腰の動きと脚力を利用してペニスを深く挿入するつもりだ。これだと比呂美の両脚は自由になり、比呂美はほっとする。比呂美はゆっくりとさりげなく両脚を付け根から折り曲げながら外側へめいいっぱい開いた。膝頭が敷布団に触るくらいまで。おそらく自分の両脚はきれいな『M』の字になっているはずだ。比呂美はなんだが嬉しい気持ちになる。そのとき膝頭が眞一郎の両腕にあたる。そこまで比呂美の両脚は開ききり、性器を完全に眞一郎へ突きだす格好になった。だが、そこで終わりではなかった。眞一郎が比呂美の両膝の裏側に手を差し込み、さらに比呂美の肩のほうへ持ち上げたのだ。確かにそのほうが眞一郎としても体勢がいいようだ。(わたしだからできる体位かもしれない)比呂美は自慢げに密かにつぶやいた。 眞一郎が何かを囁く。だぶん、「比呂美、いくよ」と言ったのだろうと思って、比呂美は黙ってうなずいた。 次の瞬間――この世の時間軸から離脱してしまったような感覚に見舞われた。そうとしか表現しようがなかった。 子宮を中心に放射状に次々と細胞が生まれ変わっていき、再びこの世の時間軸にその存在を繋ぎとめていく。その直後、比呂美は何とも表現しがたい幸福感に包まれた。大きな掌に自分の体がすくい上げられているような感じだった。ずっとこのままでいたいと願望が当然のように生まれてきたが、すぐに何か大事なことを忘れているようで落ち着かなくなる。 そうだ、眞一郎だ。(眞一郎くん、どこ?)そう思って、比呂美は眞一郎の顔を探す。眞一郎の顔はすぐそばにある。手を伸ばせば届く距離。でも、目の前にあった愛しい人の顔に安堵するのも束の間、事態は一気に急変する。眞一郎の様子がおかしい。おかしいと言うよりもアレが来てしまったのか――その推測が比呂美の頭の中をかすめたときには、眞一郎は苦しそうに唸り、ペニスを一気に引き抜いた。「ぅんご、めん……」(ごめん、って謝ったの?) 眞一郎が何て言ったのか知りたくても、比呂美には前屈みに俯いてしまった眞一郎の頭のてっぺんしか見えない。だが、どうしたのものかと考える間もなく、眞一郎の全身は大きく振るえ、眞一郎は何かを産み落としたかのような悲痛な声を上げた。鋭く三回。「ぅぅあッ……ああッ……んくあぁッ……」 比呂美が反射的に眞一郎の下半身に目をやったときには、その白いモノが眼前に迫っていて、比呂美は顔を逸らすことできず、目をつむるしかなかった。 第一射目は、左目から鼻頭にかけて、第二射目は、鼻全体を覆い、第三射目は、唇からあごにかけて見事に命中した。水鉄砲を顔のそばでやられたときのような勢いで、しかも水と違ってその白い固まりはずしりと重かった。それに、男の象徴でもあるあの臭い。鼻の穴のほとんどが白い固まりに塞がれてしまったので、口を少し開いて比呂美は息をした。 第四射目以降は、お腹の辺りに点々と痕跡を残した。 比呂美の瞼の裏に、何度も、白い固まりの動画が繰り返される。その白い固まりはおそらく細長く紐のような形をしているはずだが、真正面から見ていた比呂美には、アメーバーが一気に襲ってくるように見えた。時間が少し経って全身の緊張がほぐれてくると、白い固まりが命中したときの衝撃というか感触が甦ってくる。愛情も優しさもなく、ただ物理法則に従った運動によって生み出された衝撃。こんなのイヤだ、と比呂美は叫びたくなったが、自然法則、自然の摂理の中にこそ、人知を遥かに超えた命の仕組みがあるのだということに思い至る。この白い固まりは、眞一郎と自分とが愛し合った証であり、命の仕組みの一端なのだ。まぎれもなく、まちがいなく。 でも、これからどうしよう。眞一郎が射精後の恍惚とした余韻から抜け出すまで待つしかないのだろうか。顔の表面で眞一郎の精液が徐々に広がっていっている。できるだけ垂らさずに布団などを汚さないようにしたい。ん~どうしよう。「……ん~」比呂美のわずかに開いた口から心の声が漏れてしまった。でも、それで眞一郎がタイミングよく正気に戻ることができた。「ぁ? ぁぁーぁあーああー、わあーーーッ」 眞一郎の声のボリュームがだんだんに上がっていく。比呂美は必死に笑いを堪えつつ、目が開けられなくて慌てふためく眞一郎を見れなくて残念だと思った。「ご、ごめん、比呂美…… えっとー、どこだ、ティッシュ、ティッシュ…… そのままでいろよ、いま拭いてやるから…………」「ん~~」(早く拭いて)
精液を顔にぶっかけたお詫びに腕枕をしろ、と比呂美が冗談半分で命令すると、眞一郎は神妙な顔をして素直に従った。もはや眞一郎には冗談は通用しなかった。比呂美としては、気にしないでほしいという意味を込めたつもりだったが、眞一郎としては『大失敗』には違いなかったのだろう。比呂美の膣内で射精(中出し)しなくてもだ。 眞一郎の性格からすると、こうなっては眞一郎はなかなか立ち直れないので、比呂美は眞一郎に変に気を遣うの止め、ありのまま話すことにした。「ものすごい勢いだったよ。当たった瞬間、顔が痛かったもん」「……すまん」眞一郎がしかめっ面で謝ると、比呂美は眞一郎の腕の中で笑い転げた。「笑うなよっ」さすがに眞一郎はかちんときたらしい。「だって、想像してみてよ」比呂美は涙目を拭きながら眞一郎にそう求めた。「何を?」「何をって……コンドームの中で、あれだけのことが毎回起こっているっていうことよ。怖くならない? わたし、正直、怖くなってふるえちゃった。だからね、なんかね、わたしたち、なにやってんだろう、わたしたち、まるで自分たちのこと分かってないと思って。でも、ちゃっかりやることはやっている。それでおかしくなったの」「そ、そうだな……」比呂美の言うことに感心したように眞一郎はうなずいた。もしかしたら、笑うところだったかもしれないが、眞一郎は一言付け加えた。「気をつけないとな」 眞一郎のその最後の一言が、比呂美は無性に気になり、腹が立った。「わたし、いままでどおり、眞一郎くんとエッチしたい。さっきのことで、変に臆病になるのってなんか違うと思う。あんくらいのことで、コンドームが簡単に破けてるなら、社会問題になっているわよ。それと、わたしのことも信じてほしい。わたしは、絶対、眞一郎の苦しむ顔をみたくない、わたしのことで、眞一郎くんを苦しめたくない。そのために、わたしはいつも準備をしているの。今夜の事だって……」 比呂美はここまで一気に喋ると、バツが悪そうに眞一郎から目を逸らした。ちょっとした一言にどうして噛みついてしまったのか分からないといった感じに。 ときどき、こうした比呂美の感情の起伏に付いていけないと感じることが眞一郎にはあったが、今回の眞一郎の一言は不用意な発言だったことは否めない。愛し合うということ、子供ができてしまうということは、気をつけるという程度の心と体の準備で済むような話ではないのだ。比呂美が言いたいのはそういうことなのだろう。 比呂美に謝る意味を込めて、腕が痺れて完全に感覚がなくなるまで腕枕をしてやろうと眞一郎は心の中でささやかに誓った。比呂美に、バカみたい、ってあとで言われても構わないと思いつつ……。 はじめての外泊-5 へつづく ――次回予告《 五 ふりきっちゃった……》『女』を曝け出すことに、快感を覚える比呂美。 比呂美の潜在能力は、再び眞一郎を驚かす。 眞一郎は、比呂美の性の抑制を解き放つことができ安堵するが、 比呂美の心の奥深くに潜むものに気づけないでいた……。
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