「どうかよろしくお願いします!」 深々と頭を下げた。比呂美は困った様子で眼を泳がせる。「え、えっと……」「お願いします!俺のモデルになって下さい」 比呂美は助けを求めるように朋与を見た。「いーじゃない、引き受けちゃいなさいよ」「朋与まで――」「それだけ熱心に頼んでるんだもの、写真のモデルくらい安いもんでしょ。ね、仲上君?」「え?あ、ああ、いや、まあ、そうだ、ね……」 事の成り行きを見ていた眞一郎は曖昧に返事をした。「ね、仲上君もこう言ってる事だしさ」 比呂美が眞一郎を少し怖い眼で睨む。しかし眞一郎だってどう返事していいのかわからないのだから仕方ない。 相手は写真部の一年生だった。秋のコンクールに応募するポートレートのモデルになって欲しい、と言うのが「お願い」の主旨である。言うまでもなくモデルは比呂美だ。わざわざ夏休みの学校まで来て、比呂美の部活が終わるまで待った上で頼んでいるのだから本気なのだろう。 比呂美としてもモデルを頼まれる事自体は悪い気分ではない。絵のモデルなら眞一郎に頼まれて何度か経験はある。しかし、今初めて自己紹介されたような一年生に、しかも何か大きなコンクールに応募するような本格的な写真のモデルとなると話が全く違う。 眞一郎にしてみれば自分の恋人を写真に撮りたいなどという男は近づけたくもないが、それを態度に出すのは男としてあまりにも狭量な気もする。結果、曖昧な態度をとらざるを得ないのであった。「いいじゃない、もしそれで賞でも獲れば学校にとっても名誉な事なんだし、まさかこの怖いもの知らずな新人君だって比呂美のヌードが撮りたいわけでもないんでしょ?」「そ、そんなものは撮りません!」「可愛いー、耳まで赤くなってる」「朋与、あんまりからかわないの」 比呂美も赤くなりながら朋与の暴走を止める。それからこの一年生に向かい、「ええっと、その……本当に私でいいの?」「はい、湯浅さんにお願いしたいんです」「そう……それじゃあ、うん、わかりました。場所と時間はもう決めてあるの?」 一年生が顔を上げた。「い、いいんですか?」「でも、あんまり変な事させないでね?」「変な事なんてしません、ただ湯浅さんの笑顔が撮りたいんです」 妙にくすぐったい言葉に比呂美が赤面し、眞一郎が眉間にしわを寄せる。朋与が目ざとく眞一郎に近づき肘でわき腹を小突いた。「あんな事言ってるわよ~。ホントにいの~?」「……比呂美がいいって言うのに、俺が反対する事じゃないだろ」「……ふーん」 なぜか不機嫌になった朋与はそれだけ言って今度は一年生の方に寄っていき、肩を組むようにして「ね?いい写真撮れたら焼き増しして一枚千円で校内販売しない?儲けは半々でいいわ」「朋与!」「やーね、冗談よ、冗談」 絶対冗談じゃない、眞一郎は確信した。
撮影は公園で行われた。 真夏の日差しはかなり暑かったが、少女の笑顔がテーマの写真なら曇天よりは晴れの方がいいのは言うまでもない。「ねー、こんな感じ?」「あ、えーっと黒部さん、もう少し寝かせ気味に当ててもらえますか?」「こう?」「そうです、そうです」 見学に来て勝手に手伝い始めた朋与がレフ板の角度を調整する。眞一郎は少し離れたところで荷物番となっていた。「それじゃ湯浅さん、こちらに目線ください――はいいきます」 一年生とはいえ写真部に入るだけはあり、機材もそれなりのものを持っていた。眞一郎は写真は門外漢だが、技術的にも色々持ってはいるようだ。「湯浅さん、もうちょっと左を向いてもらえますか――はい、そうです。緊張しないで大丈夫ですよ、笑ってみて下さい――はい行きます」 ほぼ途切れる事なく話しかけながらシャッターを切る一年生。見様見真似か、ぎこちないがモデルの緊張を解こうという意図は感じられる。「ねー後輩君、コンクールに応募する写真って人物写真が条件なの?」 レフ板調整するだけの仕事に飽きたらしい朋与が一年生に話しかけた。「いえ?題材は自由ですけど、どうしてです?」「なんか写真部にモデル頼まれてる娘、私の周りにも結構いるのよ」 朋与の話ではクラスでも美希子やあさみ、女バスでも高岡ルミなどがモデルを頼まれていると言う事だった。「だから人物写真が課題なのかと思ってさ」「風景写真や静物写真で勝負する人もいますよ。ただ、静物写真はよほど自信がないと出来ないから……」「そうなのか?」 つい眞一郎が話に加わってしまった。やはり絵と写真と言う事で多少なりとも興味があった。「よほど上手く光源や影の処理を考えないと何が写っているかすらわからなくなるんです。人物のポートレートはモデルの魅力でも底上げできるから……」 さりげなく比呂美を持ち上げる。こいつもしかして相当女の扱いに慣れてるんじゃ、と眞一郎は思った。「しかし度胸あるわよねー。一年生が面識もない比呂美にモデル頼むなんて」「まあ……でも、俺と一緒に入った奴も二年生の石動さんにモデル頼んでたし」「乃絵に?」 眞一郎は声に出した瞬間しまったと思った。ここは反応するべき場面ではなかった。一年生は特に何も気づいた様子もなく頷いた。「ええ。駄目元で頼んだら周りの友達が一緒に説得してくれたおかげで引き受けてくれたって、それで……」「それでそのライバルに負けたくないから、二年生の間でも石動乃絵と男子人気を二分する湯浅比呂美さんにモデルをお願いしたと、そういう事?」「ライバルとか、そんな……」 否定したが、おそらく図星だろう。同級生にモデル選びから差をつけられたくない、と言う心理が働いた結果、彼氏持ちでも構わず比呂美にモデルをと頼ったのだ。 とはいえ乃絵の話をあまり引っ張られても広がりようがないので、眞一郎が少し話題を軌道修正しようとした。「それじゃ、他にもモデル頼まれた人いるんだ。黒部さんも頼まれたり――ヒィ!」 完全に失敗。朋与の噛み付くような視線に眞一郎ばかりか一年生まで脅えてしまった。「モデル頼まれてる人間がこんなとこでレフ板もってアシスタントしてると思う?」「い、いや、すまない、悪気はなかったんだ」 比呂美が思わず口元に手を当てて笑いを隠した。それを見た一年生があっ、と声を出して慌ててカメラを構える。
パシャ
しかし比呂美はカメラを構える様子に驚いた表情になってしまい、一年生はがっかりしたようにカメラを下ろした。「何?ああいう表情が欲しかったの?」 朋与が訊くと、一年生はコクンと頷いた。「だってさ。比呂美、もう一回今の笑い」「無茶言わないで……」「いや、いいんです。またチャンスを待ちますから」 一年生は気を取り直してそう言った。「写真は根気と幸運が大事なんです。自分の一番撮りたいものをしっかりイメージして、それにぴったり合う瞬間が来るのを待ち続ける」「そういうものなの?」「そういうものです」 絵とは逆だな、と眞一郎は思った。絵はまず対象を観察し、頭に焼き付けてからそこに自分のイメージを重ねていく。イメージ通りの笑顔でなくてもクロッキーに写し取る時には自分の理想とする笑顔で表現される。明確なイメージを常に持っていなければならないのは同じでも、その先が違う。 何事か考えていた朋与がポンと手を打った。「じゃあさ、お陽様の下でなくてもいいわけ?ああいう表情が撮れれば」 一年生は少し考えてから答えた。「そう……ですね。夏らしい太陽の下、と思ってましたけど、もし夜でも湯浅さんのああいう表情が捕まえられるなら」「じゃあ、夜に撮ってみない?」 その提案に一同が朋与を見た。「ほら、あのはずれの方の小川、蛍が出てくる季節でしょ?丁度みんなで蛍狩りでもしようかって話してたのよ。そこに君も来てみたら?昼とはまた違った比呂美が撮れるかもよ」「蛍狩り……面白そうですね」「でしょ?そこに来て見なさいよ、浴衣姿の比呂美も色っぽいわよ」 当の比呂美の意見は反映される事なく一年生の蛍狩り参加が決定し、日時を伝えられた。
当日もよく晴れた夜空だった。街中でも東京などに比べればはるかに星のよく見える麦端だが、郊外に出れば尚更月明かりだけが頼りの深い帳に覆われていた。 朋与たち女バスの面々、あさみや真由、下平と言ったクラスメートが川原に集まり蛍が登場するのを待ち構えていた。 比呂美も浴衣に着替え、団扇を持って川原に来ていた。当然のごとく眞一郎もその傍らにいる。 朋与が二人に気づいた。「おお来たねご両人」「こんばんわ」「結構みんな来てるのね」「当たり前だけど他のクラスの人もいるから、かなり多いわね」「こんなに人多いと蛍も出てこないんじゃないのか?」「さあ、それは蛍に訊いてみないと――あ、いた、おーい!」 朋与が一年生を見つけて手を振る。フラッシュ付のカメラを手にした一年生が小走りに近寄ってきた。「黒部さん、どうもです」「よく来たわね。それで撮るの?」「はい、そうですけど?」「フラッシュなんか焚いたら蛍も星も潰れちゃわない?」「あ……」 暗くてよく見えないが、赤面しているらしい。眞一郎がフォローを入れた。「そのカメラならフラッシュなしでも絞りとか調節すれば結構写らないか?」「それは大丈夫ですけど……」 周囲を見回し「どこで撮りましょうか?」 と言った。朋与はにこりと笑って「そういう撮り方じゃないんだな、これが」 そう言うや一年生の腕を引っ張りその場を離れていく。「朋与、どうするの?」「いいからいいから。お二人は好きなようにいちゃついてなさい」 二人から離れた朋与は一年生から手を離した。「よし、ここでいいか」「黒部さん、一体どういう――」「君はここから比呂美を望遠で追いかけるの」「え、でもそれじゃ……」「この前みたいな笑顔が撮りたいんでしょ?」「それは、もう」「なら、お姐さんの言う通りにしなさい。湯浅比呂美の無二の親友、この朋与さんを信用しなさい」 半信半疑のまま一年はファインダーを覗き込んだ。 二人は元の場所に佇んでいた。 白い地に菖蒲の柄の浴衣を藤色の帯で締めた比呂美は、眞一郎と並んで川原を見ていた。他にもカップルは何組かいたが、腕を絡めるほどに密着するでもなく、それでいて手を少し動かせば触れ合う事の出来る距離で寄り添っていた。あまりにも自然な姿。 眞一郎には失礼ながら、それまで一年の目にはやや不釣合いに見えた比呂美と眞一郎が、今は他の組み合わせが考えられないほどにしっくりとくる。しばし一年はファインダー越しにただ二人を追い続けた。「どう?あの二人」 朋与の声に我に返り、しかしファインダーからは眼を離さず、一年は答える。「お似合いですね。何だか最初からお互いの隣には誰も入る余地がないみたいです」「……そんなに昔の話でもないのよ」 一年は朋与を見たが、その顔貌からは何も読み取れなかった。「あ、蛍」 朋与の言葉に視線を戻すと、川原に明滅する淡い光が広がり始めていた。周囲の見物人たちからも声が上がる。「シャッターチャンスよ、見逃さないで」 朋与に言われるまでもなく、一年はカメラを構え直した。比呂美は蛍を追うように、団扇を手に二歩、三歩と前に歩き出した。 眞一郎が何か言葉をかける。比呂美が振り向いて返事をし、微笑みかけた。「あ!!」
これだ、この笑顔だ。一年は夢中でシャッターを切った。そして同時に、彼は何時、比呂美の笑顔を写真に残したいと思ったのか思い出した。
ああ、そうか。
「朋与さんを信じてよかったでしょう?」 朋与が悪戯っぽく、少しだけ自慢げに言った。一年は頷いた。「俺が撮りたかったのは、仲上さんにだけ向ける笑顔だったんですね」 小さな、小さな求愛の光の中で、最高の笑顔が輝いていた。
了
ノート支援になるかわかりませんが、BDAアンケート支援と言う事で。f-factさんの夏の壁紙にインスパイアされて書いたものです。一年の写真の一つがあの壁紙に繋がるようにストーリーを組み立てています。写真を趣味にしていそうなキャラがレギュラーにいなくて珍しくオリジナルをゲストに出しています。レギュラーは比呂美、眞一郎、朋与の3人しかいない異色のSSになっています。朋与はどんなにふざけていても比呂美の最大の味方なので、シリアスでもギャグでもおいしいところを持っていくキャラになってしまいました。
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