何度も何度も考えた もっとうまくやれなかったのかと
「眞一郎もいないのか」「ええ・・・・・・」 理恵子の声に力がない。「特に大丈夫とは思うが携帯にはかけたのか?」「それが・・・・電源を切ってるみたいなんです・・・・・」理恵子はいつもの席に座ったが、完全に落ち着きを失っていた。「もし何かあったら、私のせいだわ・・・・・・・」「そんなに心配しなくても・・・・・」 言葉ではそう言ったものの、自分でも声が震えるのがわかった。最悪の想像が頭をよぎった。「私、探してきます!」「待ちなさい!闇雲に探しても!」 だが、理恵子は私の声も聞こえていないようだった。そのままガタガタと玄関で音が聞こえ、出て行ったようだった。 まったく。これでは俺が動くわけにいかないじゃないか。 一人居間に残されて、俺は拳を額に当て、考えをまとめようと務めた。 だが、考えれば考えるほどに、想像は悪い方向にのみ逞しくなっていく。そもそも、この状況で打開策なるものは初めから存在していないのだ。(湯浅、香里、すまん。俺は、お前達に・・・・・!) 俺は今は亡き親友に、詫びる事しか出来なかった。
俺と理恵子、比呂美の両親である湯浅と香里の間に、デリケートな過去があったことは事実だ。 だがそれはどちらもが結婚する前の話であり、結婚後は家族ぐるみの付き合いを続けていた。お互いの子供、眞一郎と比呂美も本当に仲が好かった。 理恵子は出来た女だった。聡明で、公正で、雪国の女らしい情の深い女だった。蔵には住み込みの従業員もいて、中には中学を出たばかりの少年も預かっていたが、理恵子は彼らに対しても家族と同じ優しさで接していた。理恵子が俺と結婚してくれた事に、感謝しこそすれ後悔したことなど一度もない。
香里の死に際に、俺は立ち会うことが出来た。比呂美から連絡を受け、理恵子と病院へ向かい、一人立ち尽す比呂美を支えながら、俺たち三人は臨終に立ち会った。 比呂美は泣いていた。溢れる涙を流れるに任せて、いつまでも、いつまでも泣いていた。 理恵子は涙をこらえていた。複雑な表情をしながら、香里の枕元に立っていた 俺は、泣かなかった
比呂美を引き取りたいと妻に打ち明けた時、俺はすぐに賛成してくれると思っていた。だから理恵子が、「うちには同じ年頃の男の子も何人もいますし、そういう家に女の子を迎え入れるのは、難しいと思います」 と、反対したのは予想外だった。だけど、湯浅の親類は皆遠くて、仲上ならば、少なくとも学校は変わらずに済む。眞一郎や、同級生と離れずにいられるのならば、立ち直りも早いのではないか。そう話すと、最後には納得してくれた。「預かるからは、うちの娘として育てましょう」 そう言ってくれたのは妻だった。俺は理恵子ならやってくれると安心していた。
比呂美のために空き部屋の掃除をし、空気を入れ替え、畳を返す。準備は葬儀と並行するように進めていた。慌しく時間が過ぎ、通夜を終え、俺は祭壇の前に一人取り残されていた。 俺は突然、香里の顔を見ておきたくなった。今日までは別の場所で安置されていたのだが、忙しさにかまけて一度も会いに行っていなかった。祭壇を回り込み、棺に近づいて、窓を開ける。非常識な行為だが、悪い酔い方をしていたのかもしれない。 香里の顔を見たとき、色々な感情が一度に溢れ出てきた。自分でもわからぬまま、俺は声を上げて泣いた。「あなた?そこで何を・・・・・」 顔を上げると、そこに理恵子が立っていた。涙を拭い、一つ深呼吸をしてもう一度顔を上げ「いや、なんでもない」 そう言って窓を閉めた。しかし、遅かった。 理恵子は蒼白になった顔を歪め、瞬きを忘れたように俺を見据えていた。その目から涙が溢れ、頬を流れた時、口を開いた。「あなた、やっぱり・・・・」「何を言ってるんだ?馬鹿なことを口にするんじゃない!」 その時初めて、俺は自分の妻が抱えてきたものを知った。それは事実ではなかった。俺は理恵子に対し常に誠実だった。わかってくれていると思っていた。「ッ・・・・!」 理恵子が走り去っていく。追わなければいけないのに、あまりの衝撃に身体が動かなかった。
それから理恵子は変わっていった。 翌日に比呂美を迎え入れた時の顔貌は「うちの娘として育てる」と言った理恵子ではなかった。 理恵子の変化は従業員も感じ取るところとなった。それまで住み込みの食事は居間で家族と一緒だったものが、下宿に持ち帰って食べるようになったのは、偶然じゃない。 何度となく話をした。しかし理恵子は聞く耳を持たなかった。比呂美に関しては、むしろ逆効果だった。俺はついに、比呂美に近くのアパートを借りてそこに住む事を提案した。「私なら、平気です」 その、一言だった。それ以上は何も言えなかった。 だが、ついに一線を越えてしまったのだ。
警察から連絡が入り、比呂美が保護された事を知ったのは暫らくたってからだった。補導ではなく、このままタクシーで戻ってくるとの事だった。何故か、眞一郎も一緒にいた。 比呂美が帰ってきたまさにその時、あてもなく表を探し回っていた理恵子も戻ってきた。 理恵子は居間にいた時と同じ、セーターにカーディガンを羽織っただけの姿だった。手袋も、マフラーすらもない。 理恵子は比呂美の前に立つと、比呂美の腕をつかみ、乱暴に家に引っ張っていった。眞一郎が後を追おうとする。「待て。大丈夫だ。女は女同士の方がいい」「母さん変なんだよ!比呂美に、変なこと吹き込んでるんだよ」「ああ」「!?じゃあ本当なのかよ!比呂美と俺は兄弟なのかよ!ふざけるな――」 ぱん 眞一郎の頬を払った。「落ち着け」 半分は自分に向けた言葉だ。「そんな訳、ないだろう」 理恵子が比呂美に何を言ったのか、それを知ったのはつい先刻だった。そこまで思考が飛躍していたとは思わず、理恵子の告解を耳にした時はさすがに愕然とした。 それでもなお、今の理恵子なら任せていいと思えた。眞一郎も、比呂美も、理恵子が雪の積もった富山の夜に外出するにはありえない服装だったことに気付いていない。 理恵子の険しい表情が、唇を真っ青にするほどの寒さによるものだと気付いていない。 あれは間違いなく「母親」の顔貌だった もう大丈夫だ。 俺は心の中で、もうこの世にいない親友にそう請合った。今回の事で比呂美に何らかの処分があるだろうが、守ってみせる。 俺は居間に戻り、新聞を手に取った。 日常を取り戻すように
了
あとがき今回少し重い内容で、最後まで読まれた方は少ないかと思います。ありがとうございました今回の話は、ママン視点のttを書こうと思った時に、必ず書きたいと思ったものの一つで、ママンがひろしを疑うようになったきっかけ、ひろしがなぜママンが疑っていると知りながら比呂美を引き取ったのか、その僕なりの解釈(考察)が入っています。あくまで個人的な解釈なので気にしないで下さい。 もう一つの謎、ママンはなぜ比呂美ばかりか死者を冒涜するような事を言ったのかについてはまた別の機会に発表する事になると思います。
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