【バイト、しようと思うの】(その1) それは、晴天の霹靂だった。
眞一郎と比呂美が付き合いはじめて10日。学校帰りに比呂美のアパートに寄るのは眞一郎の日課となっていた。 バスケの練習があるため、普段の比呂美の帰りは遅い。最初の頃はアパートや学校の外で彼女の帰りを待っていたのだが、結局、学校の図書室で時間をつぶした後、一緒に下校する事で落ち着く事になった。 わざわざ時間を合わせてまで一緒に登下校など、当人達以外にとっては無駄な事にしか見えないだろう。だが今は、並んで歩くだけでも心がときめいたり安らいだりしてしまう。そういう幸せを二人は満喫していた。
「熱いねぇ…」 呆れたように評したのは、他人の事は言えない三代吉である。「店員がこんなに熱くて、客入るのかよ」とは眞一郎の弁。あからさまに虫のついた看板娘など、看板にならないからだ。 冷やかし混じりの忠告を受けてから、三代吉も店内では色々と自重するようになったようだ。 それとは別に、眞一郎が”あいちゃん”に寄る機会は、ここの所だいぶ減っている。薄れては来ているが、複雑な事情があり、今はまだ頻繁に自分が寄るのは好ましくない。もう少ししてお互いが落ち着いたら、また気軽に寄れるようになるだろう。 そう、一連の事件が終わっても、二人は親友のままだった。親友のままでいられた。それが何より大事な事だった。
学校の中では、眞一郎と比呂美の日常に、それほど変化はなかった。 教室で特に雑談する事もない。一緒にお弁当を食べる事もない。お互いの連絡事項は(家だけでなく、二人のプライベートな事すらも)気軽に話すようになったのだが、それだけ。 あとは、暖かい視線が頻繁に交錯するぐらい。アイコンタクトだけは急増していた。
だが、二人の”雰囲気”の変化は、一緒に過ごすクラスメート達が敏感に察知した。当人に直接聞くわけにもいかず、三代吉や朋与が質問攻めに合う事になったのは仕方のない所である。「あの二人、どうしたんだよ」「なんだかすごくいい雰囲気なんだけど」「湯浅さんすごく落ち着いて、いい感じというか、大人の色気っていうか…」「仲上ってあんなに堂々としてたっけ」「例のイスルギノエはどうしたんだよ」「一緒に駆け落ちしたっていう4番は? 別れたの?」 当人達がいないと、もう大変である。 三代吉も朋与も、二人が付き合いはじめたことまでは聞いている。だが、友人のプライバシーをそうそう話すわけにもいかない。「見ればわかるだろ」「まあ、そういう事」等と言って済ませていた。 実際、見ればわかるのだ。 元々、意識しすぎと家庭の事情によってくっつけなかっただけ。当人達以外は誰もが半ばカップル視していた二人である。 おさまる所におさまっただけだとクラスメートが認識し、それが学年中、学校中に伝わるまでに、さほどの時間は必要としなかった。
今日も、眞一郎にとって変わった事はなかった。そのはずだった。「眞一郎くん、お待たせ」 比呂美の少し高い声が、遠慮気味に閲覧室の入り口から聞こえてきた。 自分から迎えに行くのは比呂美の迷惑になるからと、彼はバスケの終わりを図書室で待つ事にしていた。 比呂美はただでさえ目立って注目の的である上、4番との駆け落ち事件で停学したばかりなのだ。短期間で男を変えたなどと言われたら比呂美のためにならないとの配慮である。「ああ」 眞一郎は席を立った。比呂美の明るい顔を見て、沈みがちだった気分が少し軽くなる。「比呂美…」 ”一連の事件”の残雲が、少しだけ眞一郎にある。おそらく比呂美にもあるだろう。二人はまだ、”一連の事件”について、深く話はしていない。 二人の関係は、落ち着くべき所に落ち着いたものだと、二人も認識している。だが、まだ少しだけ、ほんの少し何かが足りないのだ。 晴れ渡った空の一角に、1点だけ雲が残っている事を、眞一郎は感じていた。「うん、なに?」 比呂美は大きな目で正面から見つめてくる。 その愛らしい表情に一瞬抱き寄せたくなるが、あいにくここは学校。 眞一郎は、かわりに頭を撫でて言った。「帰ろうか」
「眞一郎くん、今日ね――」 比呂美の声色は、話す相手によって変化する。友達と話す時、トモヨと話す時、自分の両親と話す時。少しずつ違う。(眞一郎くん、か…) 自分と話す比呂美の声が、そのどれとも決定的に異なっている事に、眞一郎が気付いたのはいつだっただろう。 特に気に入っているのは、「眞一郎くん」と呼びかけてくる時の声だった。少し遠慮がちに、少し高めで、そして比呂美以外の他の誰にも出せない発音…。 それに気付いた時、彼は恋に落ちたのだ。「――でね、トモヨったら…。ちょっと、眞一郎くん!」 眞一郎は突然比呂美に手首をつかまれた。「あ」 気が付くと、赤信号を渡りかけていた。「危ないよ、ぼーっとして」「いや…。比呂美、あのさ」「どうしたの?」「あのさ…。手、つないでいいかな」「…うん」 真っ赤になった比呂美と手をつなぎ、二人は信号を待った。
「ちょっと待っててね、コーヒー出すから」 比呂美は制服のまま厨房に立ち、少量の水を入れたヤカンをコンロにかけた。すぐに湧いたそれを眞一郎用のマグカップに注ぎ、手早くインスタントのコーヒーを淹れる。「どうぞ」「うん、ありがとう」 コーヒーにはすでに、眞一郎が好む分量のミルクが入れてある。(なんだか新婚みたいだな…) 眞一郎は目を細めた。「ケーキは一緒に食べようね」「ああ」「シャワー浴びてくる」 比呂美はいつものように着替えを持ってユニットバスに消えていった。 衣擦れの音がして、やがてバスタブを水が叩く音が始まる。今日は鼻歌まで聞こえてきた。(今日はなんだか嬉しそうだな…) ドア一枚の向こうに裸の比呂美が居る。 実の所、意識しないわけではない。心臓は高鳴り、体の一部はごく自然に男としての反応を見せてもいる。 入ろうと思えば、いつでもバスルームの中に入れるし、押し倒そうと思えば押し倒せる。「外で待たせるわけにはいかないから」眞一郎を部屋に入れたままシャワーを浴びるのだと比呂美は言うが、彼女も意識していないわけではないだろう。それが信頼なのか、誘われているのか、眞一郎にはわからない。 いや、比呂美にもわからないのかもしれない。 甘美な誘惑と、いつでも手の届く妄想に浸りながら、眞一郎は比呂美を待った。 髪を乾かすドライヤーの音が聞こえてきて、眞一郎はヤカンを火にくべる。「ごめん、おまたせ」 風呂上りの比呂美は、少し上気して、つややかな肌がしっとりと綺麗だった。「お湯、わいてるよ」「ありがと。すぐ用意するね」 一緒に買ったケーキを手早く皿にわけ、今度は紅茶を二人分淹れなおすと、はい、と出してくれた。 小さなテーブル。座るのは距離のある対面ではなく、いつも側面。 そして何気ない、日常会話。 お茶を飲んで雑談しながら比呂美の横顔を見るのは、眞一郎にとって一日で最高の時間だった。 そのはずだった。あの言葉までは。
「バイト、しようと思うの」 それは、晴天の霹靂だった。「なんで突然、そんなこと」 贅沢さえしなければ、生活費には不自由していないはずだ。 一緒に食べるお菓子や、夕食を共にする時などは、自分が食費をもったりもしている。それなのに。「燃えちゃった4番のバイク、弁償しなきゃいけないから」 紅茶を美味しそうに飲みながら、比呂美はあっさりと言った。
------------------------------------------------乱文を読んで下さってありがとうございました。
書いているうちにえらく長くなったため、分割します。先輩方には及びませんが、楽しんでいただければ幸いです。
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