【置いてかないで…】 比呂美のバイト その7(改)
「比呂美?」 眞一郎が棺と比呂美が居る部屋に戻ろうとドアを開けた時、比呂美は入ってくる自分を"見て"いた。比呂美が動いている…?「ごめんな。帰りが遅くなった」 彼女はまたすぐに顔を伏せた。それが自分の言葉に反応してのものかどうなのか、眞一郎にはわからなかった。 目にすがるような光が浮かんでいたように見えたのは、気のせいだろう…。彼女とはそこまで何かを期待できる関係ではないのだ。
眞一郎は比呂美の隣に座り、穏やかに語りかけた。「覚えてるか? お前、子供の頃、絵本が好きだっただろ」 返事はない。 わかっている事だ。構わず続けた。「おばさんに『ママ、本読んで』ってよく言ってたよな」 持って来た一冊の絵本を比呂美の前に置く。「ほら、これ。お前が大好きだった絵本。俺が遊びに行くと、いつも持ってた」 眞一郎は絵本を広げた。 比呂美の目が見開かれた。
そして、眞一郎は絵本を読みはじめた。 この部屋はなんて暗いのだろう。 電気はきちんとついているのに、光は足りているはずなのに、字を読む事がつらい。声を出すのがきつい。空気が重い。腰まで漬かった泥の中を歩くような気分だ。 短い絵本を読む、ただそれだけの事なのに、ひどく消耗する。 それでも眞一郎は絵本の朗読をやめなかった。 ゆっくり、一言ひとこと。心をこめて。 比呂美の心に届くように。それだけを願って。
「お母さん…」 比呂美がつぶやいた。 昨日の朝から、眞一郎が初めて聞く声だった。 その声に勇気づけられ、読み進める。「お母さん…。置いてかないで…」 眞一郎は、なんとか絵本を最後まで読み終える事ができた。心が汗をかいているように思った。涙かもしれない。息切れしていないのが不思議だった。 だが、心地よい疲労感でもあった。 比呂美のために何かをする時は、いつもそうだ。どんなに苦労しても、疲れても、心の中にある温かいものがそれを癒してくれるからだ。 そっと閉じて、絵本を比呂美に手渡す。 比呂美は…。絵本を受け取った。
「置いてかないで…」 絵本をしっかりと抱き締め、比呂美は繰り返した。「オイテカナイデ…」「比呂美、駄目だ」 比呂美は母の後を追いかけていたのだ。眞一郎はそれに気付いた。「お母さん…」「お前はまだ、行っちゃいけない」 彼は、懸命に比呂美に訴えかけた。「なんで…?」
引き止める眞一郎を、比呂美が睨んでいた。「なんでよ。お母さんしんじゃったのに。お父さんもいないのに!」 比呂美の目に光が戻ってきた。「両親の分まで、ちゃんと幸せにならなきゃ」 酷いセリフだ。こんな事しか言えない自分がいやになる。 だが、どんなに下手でも、大した事が言えなくても、呼びかけをやめるわけにはいかない。やっと言葉が通じるようになった、今、引き戻さなければならない。「いい加減なこといわないで!」 比呂美は手を握って、拳の底で眞一郎の胸をドンと叩いた。「比呂美…」 続けて、ドン、ドンと。(比呂美の痛み…) 本気で殴り合うような、強いものではない。力など強くない。 それなのに、実際の衝撃以上の、心に直接響くような痛みがあった。 だから眞一郎は叩くに任せる。一緒に痛みを感じられるなら、本望だと思った。そうでなくば比呂美に言葉が届くことはないはずだ。
「お母さん…」 力は急速に抜けた。 眞一郎の胸に拳を止め、比呂美の目から一筋の涙がこぼれた。 慌てて彼女はそれを拭う。「泣いちゃだめなのに、泣いたらお母さんが…」 いなくなってしまう。本当に死んでしまう。 眞一郎は比呂美の心の叫びを聞いたような気がした。「比呂美、悲しい時は泣いていいんだよ」 彼女は必死で自分の涙を拭い続けた。「イヤ」 次々とあふれ出る涙は、拭っても拭っても止まらない。「いいお母さんだったよな…」 こらえきれない、悲鳴のような細い声が、比呂美の喉から漏れた。 眞一郎の服を掴み、彼の胸に顔をうずめるようにして、母を失った娘は声をあげて泣いた。しゃくりあげて泣いた。「比呂美。うちにおいで。父さんがそう言ってくれてる」 眞一郎は、そっと比呂美の肩を抱いた。 比呂美が泣き疲れて眠るまで、眞一郎はその身体を支え続けていた。
翌朝。比呂美の伯母がその部屋を見た時、比呂美はきちんと敷かれた布団で寝ていた。昨日の異常な様子からは不思議なぐらい、安らかな寝顔だった。 驚いた事に、隣には仲上の息子が寝ている。こちらは比呂美の布団の外だった。 敷き布団も掛け布団もない、毛布やタオルケットも一切まとわず、彼は畳の上に転がっていた。 そして比呂美は、仲上の息子の手を両手でしっかりと握りしめて眠っていた。彼の右手だけが比呂美の布団の上にあった。 艶っぽい話でない事は、見ればすぐにわかる。どうやら比呂美を寝かしつけて力尽きたらしい。
昨日、彼がずっと比呂美についてやっていたことは知っていた。 彼だけではない。比呂美の心身の消耗と衰弱を、誰もがそれぞれに心配していた。だが、会話も何も成立しない状態だった。その朝に両親を失った娘としては、仕方のない事だろう。 だが、あの状態の比呂美をどうやってきちんと寝かしつけたのだろう、という驚きがあった。昨日の比呂美は誰の手にも余ったからだ。だからこそ皆が避けていた。それなのに。 ともあれ、そろそろ二人をこの場から動かさなくてはならない。 風聞もある…。伯母はまず仲上の息子を起こしにかかった。
眞一郎が比呂美を寝かしつけた話は、湯浅の親戚一同、および仲上の両親にすぐ伝わった。 実のところ、湯浅の親戚はメンツと面倒を天秤にかけ、比呂美を仲上に渡すか湯浅で引き取るかを迷っていた所だったのだ。 昨日の様子を見て、親戚達は比呂美を引き取るのは相当な難事だと思い知らされていた。いずれは回復するとしても、心のショックが大きすぎて、どんな行動を起こすか知れない。とても責任を取りきれないような事件が起きるかもしれない。 あまりにリスクが高すぎ、できれば引き取りたくなかったのが本音であった。
「比呂美が息子さんをこれほど頼りにしているなら、特別に、仲上さんに引き受けてもらっても良いのではないだろうか」 都合の良い言い訳である。これならば湯浅一族ののメンツを潰さずに、比呂美を手放す事ができる、それだけの。 仲上の主人は湯浅の親戚の葛藤と、醜い打算を知っていた。腹も立てていた。だが、そんな事はおくびにも出さず、彼は頭を下げた。「比呂美を、引き取らせて頂きます」 あとは本人の選択と気持ちだけである。 だが、半年近くもめていた引き取る家の問題は、比呂美が寝ている間に、ほぼ解決していたと言って良かった。 この件について、理恵子は何も言わなかった。肯定も否定も、何も。
比呂美が目を覚ましたのは、母の棺の隣の部屋だった。 太陽は高く、すでに昼を過ぎている。エアコン全開で室温は低く、少し身震いしたが、それは事情が事情だけに仕方のない事ではあった。 眞一郎に取りすがって泣いた事までは覚えている。その後は記憶がない。どうやらそのまま寝てしまったようだった。部屋が違うのは寝た後に動かされたのだろう。 深い悲しみと喪失感は薄れる事はない。だが、母親の後を追いたいと思う気持ちだけは抜けていた。いっぱい泣いたおかげだと思った。
比呂美が起きてしばらくすると、物音を聞き付けた伯母が部屋に入ってきた。この伯母は、親戚一同の中では唯一、比呂美に心から同情的だったのだ。「比呂美ちゃん。起きたのね」「伯母さん…」 まだ弱々しいものの、比呂美の目には光が、唇には言葉が戻っている。「眞一郎くんは?」 比呂美の最初の言葉がそれだった。「仲上の息子さんは、朝まであなたに付き添っていたけれど、今は家に帰ってるわ」 朝に引き続き、伯母の驚きは大きい。比呂美は驚異的な立ち直りを見せている。原因については語るまでもなかった。「そうですか…」「比呂美ちゃん。あのね」 湯浅一族の比呂美に対する扱いは、伯母から見ても酷いものがあった。昨晩は自分の夫に散々怒りをぶつけ、自分の家で引き取ると話をまとめかけてもいた。 だが、伯母は、比呂美が行くのにもっと相応しい家がある事を、今ここで理解した。「仲上さんから、あなたを引き取りたいという申し出がありました。一人で暮らしていけるわけではないから、誰かの家に行く事になるのだけれど…。仲上さんの事、考えておいて」「…はい」 比呂美は一応、返事をした。 彼女にとって、今はそんな事はどうでもよかった。この場に居て欲しい人がいない事だけが問題だった。
眞一郎が湯浅の家に戻ってきた頃には、もう陽がだいぶ傾いていた。 きちんと学生服に着替えて、通夜に備えている。彼は比呂美の姿を見つけ、小走りに駆け寄ってきた。「比呂美、大丈夫か?」 軽く咳き込んだ。体を冷やしたせいかもしれない。「眞一郎くん…」 比呂美の表情はまだ硬かった。母をなくしたばかりだ。笑顔など望めるわけもない。 それでもこうして起き、動き、しっかり会話もできるようになっている。それが眞一郎には何より嬉しかった。「昨日は、ごめん…」 様々な想いがある。それを伝えきる術を、比呂美は知らなかった。「俺の方こそ、何もしてやれなかったのに」 眞一郎は本気でそう思っていた。 彼にとっては、比呂美を泣かせ、現実に引き戻して立ち直らせたのは、自分ではなかった。 自分の絵で比呂美の心を動かす事はできなかった。それができたのは、母との思い出がつまった、比呂美の絵本だった。 彼はそう思い込んでいた。「眞一郎くん、今はまだ、つらくて…。きちんとお礼言えない…」「お礼なんか」「もうお母さんいないけど…。昨日は死にたかったけど…。生きていこうと思う…」 うん、と眞一郎が笑顔で答えた。泣きたいほど嬉しかった。「なあ、比呂美」「何?」「絵本っていいな…」 眞一郎はしみじみと言った。「…そうだね」 比呂美にはなぜ絵本がいいのかは、良くわからなかった。 彼女は、一生懸命語りかけてくる眞一郎の顔を、目を、唇を、ずっと見続けていた。
「お前が小さな頃に好きだった絵本があったから。それを読んだ。覚えてるよ」 眞一郎は言った。「眞一郎くんが絵本を読んでくれたおかげで、こうして生きてこれたのよ」 絵本のおかげで、ではない。それが眞一郎に通じているだろうか。「大げさだな」 今日"倉庫"に来てはじめて、苦笑気味の比呂美だった。彼は鈍いのだ。時として腹が立って仕方がないほどに。
「それでもこの家具は諦めてたんだけどね。おじさんが、私が大人になるまでとっておいてくれるって。そのためにこの部屋を借りてくれたのよ。ほら、アパートにあるテレビと机は、ここから」「そうだったのか…。どこから持ってきたんだろうって不思議だった」 比呂美は洋服ダンスを開けた。「ほら。服もあるのよ。おかあさんの服、今なら着れるかなあ…」 この家に入った時の寂しそうな影は、もう比呂美の上には見られなかった。
--------------------------------------------------------------改稿版について。
大筋は同じですが、表現を多少変えてあります。
以前は時間がなく、中途半端な状態でアップしてしまってすみませんでした。あれを残してある事が恥ずかしかったのですが、とても手が回らず…。やっと修正できました。
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重い話につき合わせてしまって、すみません。
なんでこんなに長くなるんだろう…。でも、商業作品じゃないから、いいよね。と自分を慰めてます。orz
たぶん、前回の引きで予想された方は多かったと思います。絵本でした。「なぜ、眞一郎は絵本作家を目指すのか」これを書いてみたかったのです。
本編では乃絵との絡みで語られる事が多かった絵本ですが、本編の構図そのままだと、絵本は乃絵方面、酒蔵は比呂美方面という方向性が生まれます。比呂美と眞一郎がくっついたとしても、お互いの方向を潰し合う関係になりかねないわけです。(潰しあう関係については、三代吉に否定させてみました)
だからこそそこでの葛藤は物語にできるわけですが、そこを「絵本を描くのも、元々比呂美のためだった」という話にしてみました。 比呂美スレ的な解釈としては、「絵本作家をめざすのは比呂美のため」とするのは、考え方の一つになると思います。
葬式後、眞一郎は自分の「絵」については、ダメだと思い込んでいます。 そして比呂美の心を動かした「絵本」の力を認めました。(眞一郎らしい誤解です) だから比呂美に「絵」は見せる事はなくなり、影で努力して「絵本作家」を目指すわけです。比呂美のために。 比呂美に「絵」を見せていたのは、病院での短期間だけとなります。
それから「なぜ比呂美が眞一郎の事をこれほど想うのか」の部分。
他にも、母の死で比呂美は心を閉ざしかけますが、ここは乃絵との対比。 乃絵の場合は4番にそこまでの度量がなく、泣く事を肯定してくれなかった事になります。眞一郎の「未完の大器」論から、そう導きました。
また、過去の同様な経験は、なぜ乃絵が泣けない事に眞一郎があれほど対応しようとしたのかにも繋がってきます。
細かい事ですが、本編設定は2010年としてあります。 それなら(2007~8年産の)大型テレビもアリでしょう。
本編補完設定は色々仕込んでいますが、ネタバレはこのへんで…
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