【私は…満足してるわ…】 比呂美のバイト その6
比呂美の言う"倉庫"の中は、確かに倉庫然としていた。 小さな二部屋の中には様々な家財道具が所狭しと並べられている。通路は確保されているものの、布団一枚置くスペースもない。水まわりには使用感がなく、ゴミもない。生活の気配は全くなかった。 掃除自体は行き届いている。空気もよどんでいないから、きちんと換気も行われている。おかげで倉庫等に特有のカビ臭さも無いのは立派な管理だとは言える。 だが、この部屋自体が完全に荷物を置くだけの場所、つまり"倉庫"として使われているのは明らかだった。 実家の近所なため、建物そのものにもちろん見覚えはある。だが、眞一郎の中で、この建物に何らかの意味を持つ記憶はない。友人知人が住んでいた事もないし、もちろん比呂美が母親と住んでいた家とも違う。 それでも眞一郎の記憶にひっかかるものがある。何か違和感…いや、既視感を覚えるのだ。「ここは…」 奥に入っていく比呂美を目で追いながら考えていた眞一郎は、奥にあるテーブルや椅子を見て、やっとその既視感の正体に気づいた。「比呂美! これってまさか」「そう…。私の家にあった物」 比呂美がどこか遠くに聞こえる声で、小さく言った。
眞一郎が湯浅の家に遊びに行った記憶は、小学生の頃にまでさかのぼる。 湯浅家の父親は比呂美が幼稚園の頃に亡くなっていた。だから、"湯浅のおじさん"の記憶は、眞一郎にはほとんど無い。湯浅のおばさんはいつも若々しく、綺麗で、比呂美との仲も良かった。比呂美が中学生頃には、年の離れた姉妹にさえ見えたものだ。 そのおばさんが倒れたのは、二人が中学2年の早春だった。 それから数カ月。看病の甲斐なく、美しく優しかったおばさんはあっという間に亡くなってしまったのだ。 病気が発見された頃には、すでに手遅れだったらしい。それまでの無理が祟ったんじゃないかと両親が話しているのを、眞一郎は聞いた記憶がある。それを話す父の顔は、深い苦悩に満ちていた。 入院中のおばさんの姿は、今にも死に行こうとする人にはとても見えなかった。見舞いに来た眞一郎に、逆に色々と気を使ってくれたほどだ。比呂美の表情が段々暗くなる事だけが、病状の悪化を示していた。
「前の家、借家だったから。お母さんが死んで、出ていかなければならなかったの」 眞一郎に背中をむけたまま、比呂美が言った。「でも、家具なんてどこも引き取ってくれないよね。私には、両親との思い出がつまった、大事な家具なの。でも、私以外の人にとってはそうじゃない。場所を取るガラクタにすぎないわ…」 語る声は明るかった。だが、無理に明るい声を出しているのが眞一郎にはわかる。これほど痛切な響きの比呂美の声は、あまり聞いた事がない。「親戚の人たちは、お母さんが生きてるうちから、私を誰が引き取るかで押しつけあっててね」「ああ…」 比呂美までの数歩の距離が、あまりに遠かった。少し落とした、その肩に触れてやる勇気が、今の眞一郎には持てなかった。「ねえ。お葬式の時、眞一郎くんはずっとそばにいてくれたよね」「何もできなかったけどな…」 眞一郎にとって、それは苦い記憶だった。「ショックで心が動かなくなった私に、何をしてくれたか。覚えてる?」
湯浅夫人の死去は親戚や一部の関係者に静かに受け止められた。わかっていた事であるから、驚かれる事だけはなかった。 一番哀れなのは、残された比呂美だった。すでに祖父母も亡く、両親もいない。 両親の兄弟、つまり比呂美の伯父や叔父が引き取られるしかないのだが、一向に引き取り先が決まらなかったのだ。 誰が引き取るかという話を、親戚一同はそもそもしたがらなかった。下手に言い出して、自分が引き取る羽目に陥る事を恐れていた。それどころか、ババを引く事を恐れて病院にすら近づかなかった。 比呂美自身も自分が望まれていない事は良くわかっていて、親戚に何かを期待することもなかった。 だから、比呂美にできるのは、ひたすら奇跡を信じる事のみだった。
「もしもの事があったら、俺の家で比呂美を引き取る」 親戚同士の押し付け合いの状況の中、そう言ってくれた男が、一人だけ居た。仲上家の家長、ヒロシである。 仲上と湯浅は学生時代からの親友同士である。元は家族ぐるみの付き合いがあり、子供同士も仲がよかった。夫人同士の仲はここ数年で急速に冷え込みつつあったが、決定的な決裂にまでは至っていない。ヒロシにとって比呂美は親友の忘れ形見、いやそれ以上のものだったのだ。「これ以上、あなたに迷惑はかけられないわ」 ヒロシが申し出た時、湯浅夫人は笑って拒絶した。「比呂美は強い子だから。もし私がいなくなっても、一人で立派に生きていける。私はそう信じてる…」 湯浅夫人の言葉は、仲上夫人に比呂美を託す事を恐れた部分があったのかもしれない。実際の親戚でもない事を考慮しただけかもしれない。今となってはわからない。 だが、奇跡が起こらない事は、誰の目にも明らかだった。何より湯浅夫人本人が、死を受け入れていた。 ヒロシはそれでも、数日と開けずに見舞いを続けた。見舞いには息子の眞一郎を伴う事が多かったが、その眞一郎は、気が付くと病院に入り浸るようになっていた。
比呂美は病院にずっといて、日に日に弱っていく母の姿を見続けていた。 自分の衰弱にあわせて比呂美の言葉が少なくなり、明るかった表情が暗くなって行く事が、何より湯浅夫人には辛かったのだが、娘にしてやれる事は、もうなかった。そのはずだった。 湯浅婦人の残された時間はあまりにも少なかった。面会時間が終わって比呂美が帰ると、自分の事より娘の事を思って、彼女はよく泣いていた。まさか自分が比呂美に最大の贈り物を与えてやる事になるとは、この時の彼女は知らなかったのである。
眞一郎は(比呂美の前では特に)口下手で、病院に毎日来てはいても、比呂美と大して話す事もできなかった。 比呂美も、他の友達と明らかに違う態度を眞一郎に見せていた。親しいどころか、その態度はあまりに素っ気なく、冷たいようにすら思えた。 険悪なわけではない。だが、小さな頃はあんなに仲が良かったのに、と湯浅夫人が不思議に思うぐらいだった。 それでも眞一郎は、なぜか病院に通い続けた。
ある日の事である。突然、眞一郎が病床の横で絵を描きはじめた。その絵は、同じ年ごろの子供と比べても下手な絵で、何でも器用にこなす比呂美の絵に比べると、悲しいほどの出来栄えだった。 だが、それを見せられた比呂美は、なぜか少し嬉しそうだった。湯浅夫人は久々に比呂美の笑顔を見たと思った。「眞一郎君。比呂美があなたの絵を見て、とても喜んでいたわよ」 比呂美が席を外した時、彼女は何気なく言った。「僕の絵なんか、下手ですよ…」 描きはしたものの、さすがに下手の自覚はある眞一郎である。「絵はね、技術よりも心だから。比呂美はずっとここに居て、笑顔をなくしてしまっていたのに。あなたの絵がよっぽど良かったのね」 おだてが半分以上入っていたのは事実である。だが、これが眞一郎と比呂美の運命を決定づける会話となったのだ。
眞一郎は、それから毎日、病院で絵を描いた。スケッチブックと鉛筆を持って離さず、毎日、ずっと、下手な絵を書き続けたのだ。 比呂美とも相変わらず大した会話はできないが、それでも絵を通した会話が生まれつつあった。眞一郎が帰った後も、比呂美は楽しそうにその事を語って聞かせるようになった。気が付くと比呂美に笑顔が戻っていた。 その頃になると湯浅夫人にもこの二人の関係が見えていた。二人とも、意識しすぎて素直になるキッカケを失っているだけなのだ。互いに、相手に対してデリケートすぎ、内気すぎたのである。何とも可愛らしい、子供達の想いであった。
眞一郎の絵は、たった数カ月という湯浅夫人の入院期間に、驚くほどの上達を見せた。あれほど下手だった子供が、しまいには大人も感心するような鉛筆画を描くようにまで至ったのである。 実は、生半可な努力ではなかった。病院にいる間も、家でも、授業中でも。寝ても覚めても描き続けた事が、秘めていた才能を急激に開花させる引き金になったのだ。 眞一郎は誰にも語らなかったが、比呂美の笑顔を見たいがための、それだけのための努力だった。(この子達は…) 湯浅夫人は、驚きをもって二人を見ていた。
湯浅夫人の容体が急変したのは、7月の末のある夜だった。 この頃になると病院側もわかったもので、遠方の親戚より先に、まず仲上に連絡が行った。湯浅の親戚は役に立たないだけで口うるさく、仲上を通した方が話が早かったのだ。 その時眞一郎は湯浅夫人の肖像を描いて帰った後で、入れ替わるようにヒロシが飛び込んできた。 湯浅夫人は、ゆっくりと目を開けた。さすがに頬はこけ、顔はやつれてはいたものの、依然美しかった。「ヒロシさん。そろそろお別れみたい」 その声は細く、息は荒かった。「馬鹿な事をいうな。まだ見込みはある」 ヒロシは、自分で信じてもいない言葉を言った。いや、信じたかったのだ。 だが、湯浅夫人はかすかに笑って否定した。「自分の体の事はわかるわ…。比呂美」「はい」 比呂美の表情は凍り付いていた。つい1時間ほど前、眞一郎がいた時は、笑顔まで見せていたというのに。「お母さん、大事な話があるの…。ちょっとの間、外に出ていてくれない?」「イヤよ」「比呂美。あなたも女なら、聞き分けなさい。お別れを言わなければならないの」 冷や汗まで浮かせた母のどこに、こんなに強く言葉を言う力があったのか。その時の比呂美にはわからなかった。「…はい」 比呂美は従わざるを得なかった。小康状態になったものの、母にはもう時間がなかったからだ。やりたいようにさせるしかなかった。
「やっと…二人きりになれたわね…」 湯浅夫人は微笑んだ。比呂美に強く言った事で、また少し消耗しているように見えた。「ああ」 ヒロシにはわかっていた。これが二人で話す、最後の機会であると。「前に断っておいて、悪いのだけれど…。比呂美をお願いできないかしら…」「心配するな。そのつもりだ」 最後まで娘の事を心配する母親に、ヒロシは即答した。何ヶ月も前からそうすると、心で決めていた事だ。「眞一郎君…すごいわね。立派に仲上の血を引いてるわ…」 湯浅夫人の話は、意外な所に飛んだ。「出来の悪い息子だよ。ずっと入り浸っているようだったが」「そこにあるスケッチブック、見てみて…」 今したいのは、眞一郎の話などではないのに…。だが、そこに描かれている絵は、ヒロシを驚かせた。「これを眞一郎が描いたのか? 確かあいつ、絵は全然駄目なはずだが」「それね…。比呂美のために…描いたのよ…」 湯浅夫人は、病院の天井を見通すような、遠い目で言った。「…。そうか。そういう事か…」 しばらくの沈黙の後、ヒロシはつぶやいた。ヒロシにも二人の関係が見えたのだ。「なんだか…夫婦みたいなの…。よほど相性がいいのね…」 比呂美の母親は、渾身の力でヒロシの目を見つめ、そう言った。 比呂美を頼みます、と。その瞳が語っていた。「本人同士の話だ。先の事は保証できないぞ?」 湯浅夫人は、ヒロシの言葉に、かすかに頷いた。(未来はあの子達が決める事だから…)「遺書は比呂美に…渡してあります…。仲上さんに預けたいと…」「仲上は大切な人間を見捨てない。決して。それが仲上だ」 その言葉は、かつて湯浅夫人が何度か聞いた言葉だった。そして、その言葉が裏切られた事は、一度もなかった。
ヒロシは、湯浅夫人の手を握り、その名前を呼んだ。姓ではなく、名を。「何…?」「俺は後悔してるんだ。お前とあの時別れた事を。俺が本当に好きだったのは…」「私は…満足してるわ…。間違って結婚していたら…、この年で貴方を…一人にする所だったのよ」 その時見せた彼女の最後の笑顔は、今までに見たことがないほど、美しいとヒロシは感じていた。 ヒロシは、そっと彼女に口づけた。
「比呂美ちゃん、済まなかったね。病室に戻ってやってくれ」 ヒロシが病室の外に出ると、部屋のすぐ外に比呂美はいなかった。同じ階の少し離れたベンチにその姿を見つけ、話しかけた。 比呂美の表情からは、何も伺い知る事はできなかった。「いえ…。失礼します」 比呂美はそれだけ言って、病室に戻っていった。
「比呂美…」 母の顔は、今までになく安らいで見えた。「はい」「眞一郎君を大事にしなさい。絶対放しちゃだめよ…」 驚くほど強い声で、母は比呂美に語りかけた。「眞一郎くんはそんなのじゃ…」 比呂美が慌てて否定する声を聞いた時、母は笑ったように見えた。「お母さん?」
車のエンジン音が止み、ヒロシは「ただいま」の挨拶もなく玄関に入ってきた。いつもきちんとしているヒロシには珍しい事だった。 出迎えた理恵子は驚いた。表情は険しいというどころではない。何者かに対する憎悪を目に宿しているかのようだった。初めて見る夫の貌だった。「あの…。あなた。おかえりなさい」 理恵子はやっとの事で出迎えの言葉を絞りだしたが、ヒロシは答えなかった。「湯浅さんは…?」「挨拶、してきた」 理恵子は息を飲んだ。つまり…そういう事だ。「あの…」「済まない。今は一人にしてくれ」 ヒロシは言い捨てて家に上がった。 その背中には、妻の自分でさえ、とても声をかけられるものではないと感じられた。触れれば斬られるような、殺気に近いものが夫の後ろ姿から立ち上っていた。複雑すぎる感情が心をかき乱し、理恵子はしばらく立ち尽くしていた。 それを動かしたのは、感情でも思考でもなかった。「喪服、用意しなくてはね…」 理恵子は耳で誰かの言葉を聞き、それが自分の声であることに驚いた。彼女は自分が主婦である事を改めて知った。
翌朝未明、昏睡状態にあった湯浅夫人は、息を引き取った。 仲上家の3人は総出で駆け付け、それぞれが自分のすべき仕事を行った。 理恵子は葬儀その他の当面の処理について湯浅の親戚と話をし、ヒロシは湯浅の親戚の男性陣と比呂美の引き取りについての話をしていた。二人ともに涙はない。あくまで冷静に、自分のすべき仕事に徹する姿勢だった。 そして眞一郎は比呂美の横にいた。比呂美は泣いていなかったが、母親の棺の横から離れず、食事も睡眠も取っていない様子だった。誰が話しかけてもほとんど反応はなく、心が消し飛んでしまったようにさえ見えた。 比呂美の女友達が数人来たが、比呂美の様子を見ると、形ばかりのオクヤミを述べて、すぐに立ち去っていった。周りの大人達も、長く比呂美の相手はしなかった。いや、とてもできなかったのだ。眞一郎だけが、何もできないままで、彼女の横に一日中ついていた。
夕方になり、夜になっても、比呂美は凍り付いたままだった。無表情な真っ白な顔で、まるで人形みたいに、座り込んでいる。母親と一緒に、比呂美までどこかにいってしまいそうで、眞一郎は怖かった。 元気づけようと手を握ろうとした時、比呂美はものすごい顔で眞一郎を睨み、その手を振り払った。それでも、眞一郎は比呂美の横に居続けた。 理恵子が眞一郎の所に軽食を運んだ時、息子はそれを拒否した。「比呂美が食べたら、俺も食べる」 眞一郎はそう言って聞かなかった。
「比呂美、食べられないのは仕方ない。とにかく寝てくれ。体がもたない」 時計は午前0時を回ろうとしていた。ほとんど無反応、無動作の比呂美は、その言葉にも、やはりほとんど反応を見せなかった。 だが、昨晩から一睡もしていないはずだ。(このままじゃいけない…) 眞一郎はふと思い付き、スケッチブックと鉛筆を手に、絵を描きはじめた。
だが、何の絵を描いても、見せても、それは比呂美の心に届く事はなかった。自分の絵では駄目なのだと、眞一郎は思った。 彼は初めて、自分の絵に無力さを感じた。「ごめん、ちょっとトイレいってくる」 嘘をついて、眞一郎は隣の部屋に移った。彼の目から涙がこぼれた。深く傷ついた比呂美に何もしてやれない悲しさのためだった。 涙でぼやけた彼の目に、本棚がうつった。何とはなしに本だなを眺めるうち、彼はある物を発見し、それを持って比呂美の部屋に戻った。 時はすでに夜が白みはじめる頃だった。
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ごめんなさい。超暗くなりました。
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