見上げた空はどんよりと灰色を呈していた。
気候上の理由から、冬に富山の空が晴れ渡ることは滅多にない。
春の訪れの兆しはまだ感じられなかった。
眞一郎は、一人暮らしを始めた比呂美のアパートに向かって、凍った道路を歩いていた。
転ばないようにゆっくり踏みしめながら、同時にそこに行く理由を考えていた。
けれど、都合のいい理由を思いつけず、扉の前まで来てやっぱり帰ろうかと躊躇う。
しかし、そんなことできる訳もなく、結局長い逡巡のあとインターホンを押した。
僅かな間が、我慢できないほど不安に感じられた。
開けられた扉から覗いた比呂美の無表情だった顔が、
一気に明るくなるのを見て、そんな不安も吹き飛んだのだったが。
「入って」
招かれるままに部屋に入り、テーブルの傍に座る。
比呂美はお茶を入れてくれるようで、台所に立って湯を沸かしていた。
この部屋には昨日も来たというのに、比呂美は嫌な顔一つしない。
それが嬉しくもあり、その状況に甘えている自分が情けなくもあった。
曖昧でいる自分は、ここに来るべきではないのだ。
それはきっと乃絵も、比呂美も、侮辱していることになるのだから。
だが、ここに来れば比呂美は笑って許してくれる。
比呂美を笑わせるという、心の底からの望みが叶えられる。
それはどんな高価な物品にも代えがたい誘惑で、我慢することはできなかった。
「はい」
コトリと音をたて、目の前に紅茶の入ったコップが置かれた。
「おお、サン――」
顔を上げて礼を言おうとしたところで、目を見開いた。
眼前には比呂美の長い睫毛が小刻みに揺れていた。
唇に、比呂美の唇が押し当てられている。
それを認識し、感触が伝わろるか否かのところで、比呂美は唇を離した。
「…………全く」
比呂美がおかしくてたまらないかのように笑っているのは、
きっと自分が顔を真っ赤にしているからだろうと思った。
「お菓子切らしてたから、代わりよ」と比呂美は冗談めかして言ったが、
こんなお茶請けあっていいはずがない。
もちろん比呂美とのキスは最高級の菓子にも勝る美味なのだが。
昨日の初めてのキスからこっち、比呂美はこちらの隙をついては、所構わず口づけてきた。
この部屋の中ならともかく、眞一郎の実家や、あまつさえ学校でもしてくるのだ。
誰かに見られたらどうしようと慌てる眞一郎が、余計に比呂美をそんな気にさせているのかもしれない。
それでも、文句の一つも言いたくなる。
「なんでそんなにキスが好きなんだよ」
「眞一郎君は嫌いなの?」
紅茶を啜った比呂美が、いじわるそうな目で見下ろしてくる。
嫌いなはずがないと、眞一郎は無言で応答する。
「じゃあ、いいじゃない」と腰を下ろした比呂美を、やっぱりいじわるだと思った。
眞一郎の抗議の真意に比呂美は気づいているのに、あえて関心を示さない。
本当に嫌だったのはキスではない。
その時間がとても短いことと、不意をつかれていることだ。
まるで、犬の目の前に隠していた肉を見せて、それを認識した瞬間にまた隠しているようだった。
そんなことを何度も繰り返されていては、犬の口から涎が滴り落ち、海ができてしまう。
かといって飼い主に牙を剥けないのは、犬にはない複雑な事情が眞一郎を縛っているからだ。
「……はぁ」
それ以上抗議もできず、仕方なく紅茶に口をつけた。
「合い鍵使えばよかったのに」
話をいきなり変えられたため、比呂美が言ったことが理解できなかったが、すぐに理解する。
それは自分もどうしようかとつい先程まで悩んだことだったから。
「ん、ああ」
比呂美には合い鍵を渡されている。
それは数少ない、形に残る比呂美の気持ちの表れだったため、重要なものだった。
それを使って比呂美の部屋に入ることも、とても気分のいいものだと思う。
しかし、やはり後ろめたい気持ちがあって、使うことができなかった。
乃絵のことが一瞬脳裏をかすめ、気分が落ち込む。
それを知ってか知らずか、比呂美はそれ以上そのことについて何も言わなかった。
しかし、眞一郎にはわかっていた。
比呂美は賢者のように泰然としているが、内心はそうでもないことが。
比呂美の内からは、慈愛とは別に、憎悪にも似た激しい焦燥が漏れでているのが感じられた。
何か言わなければ、と思うのだが、一体何を言えばいいのだろうか。
焦る眞一郎の代わりに、言葉を発したのは比呂美だった。
「石動乃絵とは、どうなったの?」
だが、それが望んだ言葉とは限らない。
慈愛より焦燥が大きくなった気がした。
「乃絵とは、間が悪くて、会えていない」
こんなにも酷い言い訳があるのだろうかと自分で思った。
時期が合わないのならば、自分で会いにいけばいいだろうと、
眞一郎が比呂美の立場であったなら責め立てたことだろう。
「そう。大丈夫よ、私待っているから」
字面だけ追えばいじらしく見える。実際その様もそうである。
なのに、半分伏せられた青い瞳の奥に、灼熱の炎が灯っているように見えた。
「比呂美……」
眞一郎はたまらなくなって手を伸ばしたが、比呂美は立ち上がると風のようにそれをすり抜ける。
そして、降ってくる薄い雪を眺めるように、窓際に立った。
その様は、見えた途端に儚く消えてしまう幻のようだった。
「私が、いけないのかな」
ぽつりと呟く。
「……え」
「眞一郎君が、ちゃんとできないのは、私がいけないのかな」
ガツンと、鉄槌で頭を殴りつけられたような衝撃が走った。
そんなことを比呂美に思わせてしまっていたことを知り、自分を引っ叩きたくなった。
眞一郎はすぐ様それを否定した。
「違うよ」
「じゃあ、どうして?」
石動乃絵と別れられないの? と振り返った瞳が続けた。
比呂美の言っていることは絶対に間違っている。けれど、その理由を語れない。
実際に乃絵に縛られたままでいる眞一郎が何を言おうと、説得力がない。
無言で俯く眞一郎に絶望してしまったのか、比呂美はまた背を向けた。
「私が、つまらない女だから。眞一郎君にとってその程度の女だから」
止めてほしかった。そんな自分を徒に傷つけるだけの言葉を吐くのは。
しかし、それは自分が言わせているのだという事実が、
眞一郎に肌を突き破るほど強く自身の腿を握りしめさせた。
「どうすれば、いいのかな……」
比呂美はもう一度こちらを向き、俯いた。
泣かせたくなかったのに、他ならぬ眞一郎のせいで、涙が零れ落ちそうになっていた。
「比呂美……」
比呂美は、名前を呟くことしかできない眞一郎に歩み寄り、隣に座った。
磨かれた鏡のような大きな瞳には、眞一郎の顔だけが映り、視線を容赦なく縫い付ける。
瞳に映った像が段々と大きくなり、視界は闇に覆われる。
唇に柔らかな口唇の感触が広がっていく。
いつもより遙かに長いキスだった。
美酒を浴びせられたように、その感触のみに酔いしらされていく。
「石動乃絵とはこういう事した?」
唇を離した比呂美は無機質な鉄のような声でそう訊いてきた。
突然そんなことを言われたせいで驚き、つい乃絵とのキスを思い出してしまった。
それは、頬に軽く口づけるだけの、乃絵からの一方的なものだったが。
どう答えようかと難儀する間もなく、比呂美は不機嫌そうに言った。
「したんだ?」
顔に出てしまっているらしく、肯定も否定も意味を成さない。
「……ふうん。でも、あの子のことだから子供じみだものだったでしょうね」
馬鹿にしたように比呂美は呟いたが、比呂美の行為も子供のいたずらのようなものが多い。
そんなことを言うのが躊躇われたのは、比呂美を怒らせるのが怖かっただけではない。
比呂美の感情を何も映していない眼差しが、こちらを射抜いていたからだ。
蛇に睨まれてしまった蛙のように、眞一郎は身じろぎもできなかった。
「石動乃絵と私、どっちがいい?」
「……!」
磔られそうになったのを感じ、必死に逃げるように目をそらした。
答えが決まっていたとしても、そんな質問に答えられるわけがない。
無茶すぎている。
しかし、比呂美はそれが不満なようだった。
「はっきり答えられないってことは、そういうことよね」
「……違う」
「ううん、いいよ。分かったから」
比呂美は得心したようだったが、眞一郎は何も分からない。
その心に暗雲が立ち込めていく。
やはりこの状況は何とかしないといけないと思い始めた。
比呂美に甘えることが、比呂美を余計傷つけていくのだと、今の比呂美を見てよく分かった。
帰ろうと別れを告げようとした瞬間、比呂美に再び唇を塞がれた。
強引なキスに戸惑い、振り払わなければと思ったが、眞一郎にはできない。
眞一郎に比呂美の唇を奪う権利はなく、それを得られるのは、比呂美から与えられる時だけ。
ならば、その限りある瞬間は、例えどんな時であっても甘んじたい。
眞一郎は決意した瞬間、欲望に流されてしまった。
「んっ……ちゅ……はぁ」
ようやく唇を離した比呂美は笑んでいた。機嫌を直したなどと思えるはずがない。
その笑みはどこか冷たく、恐ろしく感じられたのだから。
「比呂美……」
呆けたように呟いている間に、比呂美は胡坐をかいている眞一郎の足の上に乗ってきた。
そのまま両腕を鎌のように眞一郎の首にかけ、後ろで結ぶ。
眞一郎の視界にはもう比呂美しか映っていない。
もう何度も繰り返された光景なのに、何故かそれが恐ろしい。
「分かったの。眞一郎君の心の底に石動乃絵が居座っているのなら」
その声は可憐であるのに、奈落の底から響いてくるようだった。
「追い出しちゃえば、いいんだって」
躊躇いもなく、比呂美は言った。
「……比呂美ッ! 俺は――んぐっ」
比呂美のしていることは無駄なことだと伝えたかった。
なぜなら最初から眞一郎の心には一人しかいないのだから。
しかし、発言は許されなかった。
何も聞きたくないと言うかのように、比呂美はキスをすることで眞一郎の言葉を飲み込んでしまった。
「んっ……ちゅっ……はむっ……あむっ……くちゅっ、ちゅっ」
今までのような軽いキスではない、深いキス。
言葉を発しようと開きかけていた口は、容易く比呂美の舌の侵入を許す。
舌はうねうねと蛇のように口内を這いまわり、あらゆる所を舐め上げていく。
口内だけでは飽き足らず、喉まで届かせようとするかのように、
比呂美は何度も顔を左右に振り、深く口付けし直す。
その度に指で水を挟み伸ばすかのような音と、比呂美の苦しそうな吐息が耳に届く。
「はぁ……ちゅっ、ちゅるっ……んっ……はっふ……はむっ」
美食を口にしたかのように、とめどめもなく湧き出た唾液が、口の端から零れ落ちそうになる。
比呂美はそれすら許さないかのように舐めとると、再びキスを続ける。
頭上から激しく攻められていると、自分の存在そのものを犯されているように感じた。
しかし、不快などでは決してなく、一分一秒でもこの瞬間が長く続けばいいと思っていた。
それでも、最後の抵抗だったのか、自分から舌を絡めることはしなかった。
二人の唾液がぐちゃぐちゃに混ざり合い粘度を増したものを、比呂美に流し込まれる。
顎を上げられていたせいで嚥下してしまったが、
そうでなかったとしても、そうしなかったかどうかは自信がない。
長いキスがようやく終わる。
比呂美は未知の洞窟を踏破した冒険者のような、満足げな顔をしていた。
僅かに頬が上気しているが、きっと自分はその比にならないくらい、
赤い顔をしているだろうと思った。
クスクスと笑いながら比呂美は頬をペロリと舐めてくるが、それは慈愛からではない。
これから食べつくす獲物の味を見ているのだ。
「……舌出して」
そして、哀れな獲物の僅かな抵抗は当然看破されていた。
「……比呂美、俺は――」
キスをされる前に言おうとしていたのと同じ台詞。
だが、そこに覇気はなく、続きもない。
比呂美もそれをわかっているからこそ、そこで妨げてきた。
「いいんだよ、気に病まなくて。これは私が勝手にやっていることなんだから。
眞一郎君は仕方なく従っているだけ。……石動乃絵への裏切りにはならない」
耳元で囁く比呂美の声がとても遠くからのように聞こえる。
耳を優しく撫でる言葉に、どんどん思考が支配されていく。
こんなこと間違っていると思いながらも、
これから先に比呂美がしてくれることを想像すると、抗いがたい。
自らそれを願うことは乃絵への裏切りになるだろう。
しかし、裏切りにはならない、という比呂美の言葉が、絶対の真実のように今は思える。
裏切りにならないのならば。
眞一郎はついにおずおずと舌を出してしまった。
良くできました、と子供をあやすかのように比呂美は頭を撫でてくれた。
心に浮かんだ罪悪感は、安らぎとともに急速に薄らぎ、消えていった。
代わりに満たされたは、途方もない快感。
「ちゅっ……じゅるっ、ちゅうっ」
突きだされた舌を、比呂美は思いきり吸いだした。
喉がひっぱりだされるような感覚を覚え、舌は比呂美の中へより深く吸い込まれる。
眞一郎はその中で手厚い奉仕を受けた。
比呂美の舌は、眞一郎のそれより遙かに薄く、
短いものであるにも関わらず、精密な機械のように器用に動く。
眞一郎は絡め捕られたが最後、比呂美の好き放題に愛撫された。
隅々まで舐られ、時折思い切り吸われ、甘噛みされる。
舌を絡めながら、どうして最初からこうしなかったのかと悔やんだ。
与えられる快感と、自分から得ようとする快感は、比べ物にならなかった。
といっても、眞一郎は積極的に動いているわけではなかったのだが。
ただ身を差し出せば、比呂美は十分に快楽を与えてくれたのだ。
「ちゅっ、んちゅ……ちゅちゅっ……あむっ……んはっ」
再び長いキスは終わりを告げた。
自分の顔は、その思考と同様、
熱されたチョコレートのようにどろどろに溶けてしまっているに違いないと思った。
比呂美にそれを見せたら何とからかわれるか分からず、
見せたくなかったが、意外にも比呂美は微笑したのだった。
からかうのでもなく、蔑むのでもなく、先程のような妖艶さもなく、
静かな森の中で安らぐように、とても幸せそうに笑っていた。
そんな笑顔を眞一郎は今まで見たことがない。
最初は呆然としてしまった。何故そんな笑みを見せるのかと。
しかしその笑みの真意にすぐに気づくと、愛しさが心の中で爆発を起こし、
何もかも忘れて、その唇に口づけてしまっていた。
「……え」
ぽかんとしたのは、今度は比呂美のほうだった。
何が起きたのかわからず、口を半開きにし、唇に指をあてている。
「……な、んで」
眞一郎からキスをするなどあり得ないことだと思っていたのだろう。
眞一郎も『ちゃんとする』までは、絶対にしてはいけないと思っていた。
明確に交わされた約束ではないが、二人の中でそれは暗黙の了解だった。
もちろん快楽を得ようとしたキスではないことは、比呂美も分かっているだろう。
比呂美の顔がみるみるうちに赤くなり、破顔していくのが分かった。
年相応の少女らしい反応は、妖艶なそれよりも、比呂美にずっと似合っていると思った。
「……どうして?」
さっきしたキスの方がずっと嫌らしく恥ずかしいものであったはずなのに、
それをした少女は軽く触れるだけのキスで零落し、上目遣いで恥ずかしそうに問いかけてきた。
こんな比呂美を弄ぶチャンスなど滅多にないだろうが、流石にそれはやめておく。
「しちゃいけなかったか?」
ふるふると怯えた小動物のように比呂美は首を横に振った。
「じゃあいいだろう」ともう一度比呂美の唇を奪った。
そうするたびに、乃絵の顔が脳裏をよぎり、断頭台にかけられるような感覚に襲われる。
だが、首を斬られたって構わない。自分はこうしていたいのだ。
未だ納得がいかず不思議そうにしている比呂美を、ぎゅっと胸に引き寄せ抱きしめる。
別に、大層な理由などなかった。
ただ、嬉しかったのだ。
比呂美も自分と同じ気持ちでいてくれていたことが。
相手を幸せにすることが、自分の何よりの幸せだと、感じてくれていたことが。
しばらく言もなく抱き合っていると、比呂美が急に肩を押し離れた。
ドキリとしてしまった。
比呂美は顔をくしゃくしゃにし、ぼろぼろと大粒の涙を流していた。
涙をセーターでごしごしと無理やり拭うと瞼が真っ赤に腫れあがった。
「ああ、もう、ちょっとまて」
たまらず立ち上がり、少し離れた場所に置かれたティッシュ箱を取って戻ると、
まとめて取り出し比呂美の涙を拭ってやる。
鼻水まで流れだし、涙と混じって、比呂美の顔は滅茶苦茶なことになっている。
折角の美人が台無しだった。
比呂美はぐずぐずと泣いており、何か不明瞭に呟いていたが、
とにかく顔をなんとかするのが先決だった。
ティッシュを鼻にあてて、かませてやる。
ちーんと必死で息を出すその姿は、思いがけず可愛い。
それを何度か繰り返すと、ようやく落ち着いてくれたようだった。
そうしている間、比呂美の涙の理由を考えていた。
嫌な感じはしなかったから、きっと嬉し涙だろうと考えてしまうのは、傲慢だったのだろうか。
比呂美は予想に反して、ぷいと顔を背けてしまった。
「……眞一郎君は」
今度ははっきりと聞こえた。
「眞一郎君は、私のこと、泣かせてばっかりだよね」
その通りだったが、嬉し泣きも少しはあるんじゃないか、と反論したくなった。
「反省しろ」
急に振り返り、鼻の頭に指をつきつけられた。
その口調と顔が余りに可愛くて反論は霧散してしまった。
「ああ」
はっきりと比呂美の目を見ながら答えたのが気に食わなかったのか、
むすとした様子でまたそっぽを向いてしまった。
しかし、これで比呂美も眞一郎の気持ちを理解してくれただろう。
ならば、これ以上は何も必要ない。
眞一郎は弛緩した空気の中、帰るために立ち上がろうとした。
だが、突然その腕が思い切り下に引っ張られたため、態勢を崩し、寝転がってしまう。
「ってて……な、にっすんだよ……っ!」
腕を引っ張った主は、それでも不満足とでもいうかのように、勢いをつけて眞一郎に馬乗りになってきた。
「どこへいくの?」
垂れ下がる髪に覆われた闇の中に、比呂美の無表情が浮かんでいる。
こういう時、長い髪は怖いと思う。
「ど、どこへって……帰ろうかと」
それを聞いて、闇の主はニコリと笑った。
一瞬ほっとしてしまったが、それが全くの嘘の笑みであることに気づくのに時間はかからなかった。
「私、言ったよね。石動乃絵を追い出すって」
そんなものどこにも居ないことを比呂美はもう分かっているはずだ。
なのにこういう事をするという事は。
比呂美の髪が鼻をくすぐり、もう何度繰り返したか分からないキスが再び交わされる。
目を開いた時、比呂美の表情は既に妖艶なものへと変わっていた。
「それまでは帰さないから」
無いことを証明するには、あると思われる範囲を、全て虱潰しに探さなくてはいけない。
比呂美はそれを行おうとしている。
しかも探索というのは名目で、実際は、眞一郎の心の中を闊歩し、自分色に染めてしまうことだろう。
それこそ、もう誰も立ち入る気が起きなくなるくらいに。
それは拒むところではなかったが、比呂美は夢魔を連想させるように淫らに笑っている。
これから先の眩暈がするような快楽を想像し、眞一郎は思わず頬を引きつらせてしまったのだった。
―終わり―
最終更新:2008年03月28日 05:36