乃絵と比呂美のあいだに


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「ある日の比呂美」が放置状態なのにアレなんですが…
自分の精神安定の為に、仮想最終回「乃絵と比呂美のあいだに」を書き始めてしまいました。
内容は……

  • 比呂美ENDの最終回です。乃絵派の方にはお薦めできません。
  • 12話までの眞一郎の行動を、最大限好意的に解釈しています。
  • 非エロです。エッチなシーンは全くありません。
  • 「ある日の朋与」から繋がる世界です。朋与が無駄に活躍します。
  • 思わせぶりな題名に意味はありません。適当に付けました。

7割くらい書けてますので、本編より先に結末へ辿り着けると思います。
殆どの方は興味ないと思いますので、どうぞスルーしちゃって下さい。


救急病院の待合室に、石動純が駆け込んでくる。
眞一郎はその姿を見つけると、ソファーから立ち上がった。
「乃絵の…乃絵の様態は?」
純の動揺はかなりのものだったが、それでも乃絵の携帯を使って連絡した時よりはマシだった。
「大丈夫。雪がクッションになってくれたから、奇跡的に軽い打撲だけで済んだ」
ただ頭を打っているので、検査のため入院が必要な事と、今日は面会できない事を、眞一郎は純に伝えた。
「そうか……すまなかった」
純は眞一郎に深々と頭を下げると、入院の手続きを済ませ、東京で働いているという母親へ連絡をつけた。
眞一郎は特にすることも、出来ることも無かったが、黙って純の横についていた。
一人でいるよりはマシだろう……そう考えたのだ。
手続きやら、担当医の話やらが終わると、二人は病院を後にした。
とりあえずは乃絵が軽傷らしいという事で、付添い人の宿泊は認められなかったのだ。
…………
…………
海岸通りを、会話も無く歩く眞一郎と純。
途中の自販機で、純はショート缶のコーヒーを二本買うと、ひとつを眞一郎に投げて寄こした。
どちらからともなく、砂浜へ降りるための円形階段に腰を下ろし、コーヒーを煽る。
「お前には……謝らなきゃならない……」
唐突に、純が話を切り出す。
乃絵と付き合えと言ったこと、比呂美と付き合ったこと、その裏に隠してきた己の真意。
妹を……実の妹を愛してしまったことを……。
「おかしいだろ?……でもな……気持ちだけは……自分じゃどうにも出来ない……」
純は乃絵に『禁断の告白』を口にしてしまった事を白状し、自嘲気味に笑う。
だが眞一郎は笑えなかった。もし、自分と比呂美が本当の兄妹だったら……。
そう考えると、純の苦しい胸の内が痛いほど理解できた。
「だから……もう、契約は終わりだ」
もういい、お前の気持ちも、比呂美の気持ちも、知っていて自分はそれを踏み躙ってきた。
許して欲しい。そして自分たちの本当の気持ちに、お前たちも向き合って欲しい……そう純は言った。
コーヒーの残りを一気に飲み干すと、眞一郎は力強く告げる。
「俺、比呂美が好きです」
でも、乃絵とも契約だから付き合っていたんじゃない。乃絵は比呂美とは別の、大切な何かであると。
その乃絵が自分に向けてくれる好意と向き合い、自分の気持ち伝えなければならない……。
それを眞一郎は、比呂美に対するのと同じく、「ちゃんとする」という表現で純に伝えた。
純は暫く羨望の眼差しで眞一郎を眩しそうに見ていたが、フッと笑うと、自分もコーヒーを飲みきった。
「乃絵がお前に惹かれた訳……なんとなく分かった気がする」
そう言うと純は立ち上がって、空き缶を海に向かって投げた。
眞一郎も立ち上がり、それに習う。いけない事だとは思ったが、なぜかそうしたい気分だった。
真っ暗な闇の中に、波音だけが静かに響き、そこが海なのだと知らせている。
その中で立ち尽くす二人の少年は、さっきまで互いに嫌悪していた相手に、今は奇妙な友情を感じていた。

眞一郎は比呂美を置き去りにした場所に戻ってきた。
祭りの喧騒は消え、もう誰もいない。
戻ってきても比呂美がいない事は承知していた。
だからこそ、眞一郎は戻ってきたのだ。
……自分の選択を、もう一度、自らの心に問うために……。
…………
「打ち上げに行く」と言った自分の嘘を、比呂美は見抜いていただろう。
乃絵に会いにいった事も、分かっているに違いない。
きっと傷ついている……泣いている……。
そして比呂美は誤解するだろう。自分は捨てられたのだ……眞一郎は乃絵を選んだのだと……。
(こんなやり方しか出来ない俺を、比呂美は許さないかもしれない……)
恐ろしかった。比呂美を…一番大切な人を失うかもしれないのだから。
……一番……大切な人を……。
(だから……一番大切だからっ!!)
今はまだ、比呂美と向き合うことは出来ない。
乃絵に自分の気持ちを告げるまでは……『ちゃんと』出来るまでは……その資格はない。
自分の覚悟をしっかりと再確認した眞一郎は、踵を返してその場を立ち去ろうとする。
「?」
視線の端に、見覚えのある何かが映った。
(……これ……比呂美の履いていた……)
先端がビニールカバーに覆われた婦人物の下駄が、片方だけ比呂美の立っていた場所に残されていた。
拾い上げて両手で包み込む。
比呂美の温もりが残っているはずもないが、彼女の悲しみは確実に残留している気がした。

…………置いてかないで…………置いてかないで…………

耳残る幼い日の比呂美の泣き声。眞一郎には、それが今もハッキリと聞こえる。
(ゴメン、比呂美。……すぐに……すぐに戻るから……)
眞一郎は駆け出す。
今までの様に、何かから逃げる為に走るのではない。
比呂美の元に、少しでも早く戻る……そんな願いを両脚に込めて、眞一郎は走った。

祭りの翌日、比呂美の姿は麦端高校の体育館にあった。
たった一人、ジャージに着替える事もせず、ひたすらシュートを放ち続ける比呂美。
周りには何十個ものバスケットボールが転がり、比呂美のその行為が長時間に及んでいる事を示してた。
身体に充満した苛立ちを少しでも吐き出すため、比呂美はボールを放ち続ける。
(…………置いてかないで……)
気を緩めると、すぐに頭に浮かんでしまう、その言葉…………
外見の鬼気迫る様子とは裏腹に、比呂美の精神は崩壊寸前だった。
麦端踊りの時に見せ付けられた、二人の気持ちの繋がり……
自分を置き去りにして、石動乃絵を追いかけていった眞一郎の姿……
乃絵は、自分と眞一郎が積み重ねてきた『時間』など、苦もなく飛び越えてしまった……
……そして、眞一郎も……
悲しみ、怒り、妬み……比呂美に内在する不の感情が溢れ出し、その手元を狂わせる。
もう何十本もシュートを打っているのに、リングを通過したのは、ほんの僅かだった。
…………
「全然ダメじゃん。フォームが目茶目茶……」
その声にハッと我に返る。入口に顔をしかめて腕組みしている朋与が立っていた。
「いつから居たの……全然気づかなかった」
「連続で五本はずして『クソッ』って毒づいた辺りから」
やれやれ、という風に軽く笑いながら、朋与は散乱したボールを片付け始める。
誰にも今の自分を見られたくない……そんな風に考えていたつもりだったが、
唐突に、自分の真意がそうではなかった事に気がつく比呂美。
体育館にいれば朋与が来てくれる。無意識に、その事が分かっていたのかもしれない。
(朋与に訊いて欲しかった……私…朋与を待っていた……)
一通り片付けを終えると、朋与は無言で視線を向けてくる。比呂美が話し出すのを待っているようだった。
「昨日の麦端祭り……来ればよかったのに……面白いものが見れたよ……」
「?」
醜く歪む比呂美の口元。比呂美は自分で自分を笑っていた。
祭りでの出来事を、比呂美は朋与に話し始める。
踊りの前から眞一郎の様子がおかしかった事。石動乃絵に眞一郎との別れを懇願した事。
麦端踊りの事。眞一郎がその時、誰の為に踊り、誰の為に舞ったか……気づいてしまった事……。
「……フラれちゃった……」
手にしたボールを構え、出鱈目なフォームでシュートする。当然のごとく、ボールはリングに掠りもしない。
「もう信じられないってこと?仲上くんのこと」
眞一郎を信じるとか、信じないとかではない。問題は自分自身……眞一郎に頼りきっている……自分の弱い心。
「私ね…こんな自分…嫌なの…………こんなの……もう……」
…………
暫しの沈黙の後、朋与はボールを手にした。
二、三度ドリブルの真似事をしてから、胸の前に構える。パスの合図だった。
比呂美が構えると、迷いの無いパスが一直線に飛んでくる。
(……朋与……)
素早く身体をバックボードへと向ける比呂美。
全身を一旦沈み込ませ、そして飛び上がる!膝から……そして左手は添えるだけ……!
フェイダウェイ気味に放たれるシュート。
そして……朋与の強い意志を載せたボールは、美しい弧を描いてリングへと吸い込まれていく。
シュッと心地いい音を立ててネットを通過すると、ボールはそのまま下に落下し、数度のバウンド経て動きを止めた。
静寂が訪れるのを待って、朋与が口を開く。
「言うのよ比呂美。その口で。仲上くんに『好きだ』って」
朋与の態度は真剣を通り越して、もはや脅迫の域に達していた。
だが、そんな親友の真摯な姿を見ても、比呂美はまだ逃げることを止められない。
「無駄よ……だって眞一郎くんは…」
「無駄でも言うのよ!じゃなきゃ変われない!!」
朋与は比呂美の胸倉に掴みかかった。
「アンタいつもそればっかり!自分の気持ちくらい……自分で決めてケリつけなよ!!」
怒りに任せて比呂美を突き放すと、朋与はその場から去っていく。
期待していた朋与の慰めを得られず、また一人になった比呂美は、ただその場に立ち尽くしてた。

黄昏の病室で、乃絵は空を見ていた。
海に近い事もあり、目線の高さに海鳥が数羽、潮風に煽られながら飛んでいる。
一人でいる時、自分にはする事が何も無いな、と改めて思う。
アブラムシの唄を口ずさむ気分でもない。
……ただ……時が過ぎていくのを……流れていくのを見ているだけ……
何も分からない、何も気づかない、何もしない自分なのだから、そうしているのがお似合いだ……
そう乃絵は思った。

…………コン、コン…………

ドアがノックされた。乃絵が返事をすると、扉はゆっくり開き、眞一郎の姿が眼に入ってくる。
「……眞一郎」
「よぉ。…………二つ目の約束……果たしに来た……」
眞一郎の手には、もう見慣れたスケッチブック…「雷轟丸と地べたの物語」が握られている。
赤い実の木から飛び降りた自分を助けてくれたのが眞一郎であることは、兄から聞いて知っていた。
そして眞一郎が、そう遠くない日に乃絵の病室を訪れるであろう事も……。
二つ目の約束が果たされた時……自分と眞一郎がどうなってしまうかも……乃絵にはハッキリと分かっていた。
一つ目の約束……麦端踊りの舞台に立つ眞一郎を見た時に……嫌というほど分かってしまったのだ……。
「描き上げたんだ……『雷轟丸と地べたの物語』……お前に見て欲しい……」
無言でそれを受け取り、縛られた紐を解く乃絵。
表紙を開き、噛み締めるようにページをめくって、乃絵は絵本を読み進めていく。
…………
…………
雷轟丸が飛んでいた。
自分の意志で、誰のためでもなく、自分自身の思いのままに、力いっぱい、大空へ…………
…………
…………
乃絵は絵本を閉じると、暫くその余韻に浸るように、目を閉じて静止していた。
「どうだ?」
「……飛べたね……雷轟丸…………」
そして眞一郎も……そう言いかけて、乃絵の唇は動きを止める。
まだだ……眞一郎が本当の飛翔を乃絵に見せるのは……これから……。
(でも……私は……)
怖い。飛ぶのが怖い。そうしなければならないのに、選ぶのが怖い。進むのが怖い……。
目を閉じて震える乃絵。そんな彼女の耳に、眞一郎の柔らかな囁きが届く。
「乃絵……お前も飛べる。……だってさ……俺と雷轟丸を飛ばせてくれたのは……お前なんだから……」
「…………」
優しい声に、乃絵の瞳がゆっくりと開いていく。
窓辺に立つ眞一郎はオレンジの入射光をその身に纏い、まるで金色の翼を広げている様に、乃絵には見えた。
「俺と一緒に飛ぼう、乃絵」
傍から見れば、それは愛の告白のように聞こえたかもしれない。
だがそうではない……乃絵にはそれが分かっていた。
「…………えぇ、私も眞一郎と飛びたい」
飛ぶ……眞一郎と飛翔する……。泥のようにまとわり付いてた恐怖が、心から洗い流されていく。
それは乃絵が子供だった自分に決別した瞬間だった。

湯浅比呂美を愛している……ずっと昔から……。そう眞一郎は乃絵に告げた。
その声色は優しく、柔らかで、眞一郎の比呂美への想いが、そのまま音になったようだった。
乃絵は視線を逸らさずに、黙って聞いている。
眞一郎は淡々と話し続ける。これまで比呂美との間にあったことを……。
幼い日に胸に刻まれた思い出、そして二人を隔てた大きな壁、
それでも……障害に阻まれても消えることが無かった互いの気持ち……。
…………
残酷なことをしている……その自覚が眞一郎にはあった。
でも止める事はできない。そう自分で決めたから。
真剣な想いを向けてくれる少女に、自分の真剣な…正直な気持ちで応える。
それが『飛ぶ』ということ……
自分で決めて、前へと進む勇気を持つ……眞一郎が見つけた『飛ぶ』という事の答え。
…………
…………
「だからもう……乃絵には逢えない」
眞一郎の告白が終わると、乃絵は少しのあいだ目を伏せてから、再び向き直る。
笑顔だった。初めて出会ったときよりも眩しい、輝くような笑顔だった。
「次は、私の番!」
乃絵の想いは簡潔だった。
眞一郎が好き。大好き。
赤い実の木の上から、初めて眞一郎を見てから……『好き』がどんどん積み重なっていった。
どんどん、どんどん、どんどん…………
乃絵が好きだ、と言ってくれた時……石文字で書いてくれた時……凄く嬉しかった……泣きたいほどに……
でもすぐに気がついてしまった。
自分が……自分の事しか見ていない子供だということに……。
純の気持ちにも、比呂美の気持ちにも、…………眞一郎の本当の気持ちにも気づかない…子供だったことに。
どうすればいいか分からなかった。何をすればいいか知りたかった。
…………つい、さっきまでは…………。
でも今は違う。眞一郎と雷轟丸が、どうすれば『飛べる』のかを教えてくれた。
答えは最初から乃絵自身の中にあったのだ。
相手の気持ち、周りにいる…自分を包んでくれる人たちの想いを真心で感じて……そして自分で決める。
それが乃絵の辿り着いた『飛ぶ』という事の答え。
…………
…………
「私も……もう眞一郎には逢えない」
眞一郎に真っ直ぐに向けられた乃絵の表情には、迷いも、諦めも、後悔もない。
乃絵は誰かのために、自分の想いを犠牲にしたのではない。
それは乃絵が自分の意思で、自分の為にした決断。
愛する人の……眞一郎の本当の想いを遂げさせたい……それが乃絵の、偽りのない気持ち。
「行って、眞一郎。あなたが『本当に』飛ぶところは……ここじゃない」
眞一郎は黙って頷くと、出口へと向かった。
「眞一郎!!」
乃絵の呼びかけに、扉を横にスライドさせた眞一郎の動きが止まる。
「…………ありがとう」
眞一郎は振り返らなかった。前に向かうだけだった。
その姿が視界から消えても、乃絵は何度も「ありがとう」と遠ざかる背中に向かって呟き続けていた。

「雷轟丸……あなたにもお礼を言うわ……ありがとう…」
そう言って、乃絵は眞一郎の書いた題字を指でなぞる。
「でも、あなたは飛ぶ事を選んだんだから、ここに居てはいけないの」
乃絵はベッドから立ち上がると、ハンガーに掛けてあった赤いコートを羽織った。
眞一郎が残していったスケッチブックを再び開き、そのページを一枚一枚、丁寧に剥がしていく。
(雷轟丸……空へ……空へ帰るのよ)
バラバラになった絵本を、乃絵は一つ一つ、心を込めて折り上げていく。
ベッドの上は、あっという間に沢山の紙飛行機でいっぱいになった。
窓を開けると、病室の中に海からの風が『雷轟丸』を手招きするように吹き込んできた。
海鳥たちが上昇気流に身を任せて滑空している。
それもまた、「早く来いよ」と『雷轟丸』を呼んでいるかの様に、乃絵には感じられた。
「さぁ、飛びなさい!雷轟丸っ!!」
乃絵は紙飛行機…いや、『雷轟丸』を金色の大空へと飛び立たせた!
次々と『雷轟丸』たちをオレンジが落ちていく世界へ送り出す乃絵。
『雷轟丸』は風に乗り、どんどん遠くへと飛んでいく。
それらは不思議と墜落することもなく飛び続け、海鳥たちと共に雄大な飛翔を乃絵に見せてくれた。
…………
風が頬を優しく撫でてきた時、部分的に体温が奪われる感覚がして、乃絵は自分が泣いていることに気がついた。
いつの間にか、暖かな雫が乃絵の頬を伝って、次々と零れ落ちている。
それは無意識のうちに閉じ込めていた自分の心が、開放された証なのだと、乃絵にはすぐ分かった。
羽織っている赤いコートの襟元を、まだ幼さの残る掌でギュッと掴む。
「お婆ちゃん……眞一郎が……ううん…みんなが……私に涙をくれたわ……」
乃絵は暫くのあいだ、流れる涙を拭うこともせずに窓際に立ち、離れていく『雷轟丸』と海鳥たちを見ていた。
担当の先生と話をしていた純が戻ってきたことにも気づかず、黄昏の世界に見入っている。
純は黙って、その乃絵の背中を見つめた。
昨日までの乃絵とは違う……漠然とだが、純にはそう感じられた。
きっと仲上が来たに違いない。そしてアイツが乃絵を変えた……変えてくれた……。
乃絵は今、泣いている。気高い涙を流している。昨日までの乃絵は……もう居ない……。
自分が愛した少女が消えてしまったというのに、何故か純は悲しくなかった。
みんな変わる……変わっていく……そして自分も……。その事が純には良く分かっていたから……。
(……婆ちゃん……俺も……)
天国の祖母に呼びかけようとして、純は自分もまた泣いていることに気がついた。
悲しいわけではない……なのに涙は止まらなかった。
《乃絵は大人になったの……それを喜んであげなさい……》
そう呟くお婆ちゃんの声がする……そんな気が、純にはしていた。

眞一郎と乃絵が黄昏の中で邂逅していた頃、比呂美はひとり、仲上家へと向かっていた。
「比呂美ちゃ~ん」
後ろから聞き覚えのある声がする。
振り向くと、手を振ってこちらへ駆けて来る愛子の姿が見えた。
同じ街に住んでいながら、何年も顔を合わせなかったというのに……。
祭りを境に、また縁が結ばれたのだろうか?
自然に自分の横に並んでくる愛子を見て、比呂美はそんな事を考えていた。
「うわ~大きな風呂敷。何それ」
「お祭りの時に着てた着物。眞一郎くんの家に返しに行くの」
祭りの話はしたくなかったが、疎遠になっていた愛子とは、麦端祭りの事しか話題が無い。
着物や自分たちのした仕事の話でお茶を濁そうとする比呂美だったが、それは無駄なことだった。
愛子は躊躇い無く、比呂美が触れられたくない所に斬り込んで来る。
「眞一郎と……付き合ってるって言ってたよね、昨日」
「…………」
彼女は私です……そう比呂美は愛子に言った。
でもそれは事実ではなく、比呂美がそう思いたかっただけ……。
黙り込んでしまった比呂美を見て、愛子は三人の関係がまだ、複雑に絡みあったままなのだと気づいた。
そして比呂美は恐れている。どうすればいいかは分かっているのに……もたらされる結果が怖い。
(ちょっと前のあたしだ……)
眞一郎にフラれる前の、三代吉とやり直す前の自分が……今、比呂美の姿をして目の前にいる。
だとしたら……する事はひとつしかない…………愛子はそう思った。
…………
「諦めるの? 眞一郎のこと」
「!!」
思わず愛子の顔を睨みつけてしまう。認めたくない答えをあっさり示されて、比呂美は不愉快だった。
「……眞一郎くんの気持ちは……石動乃絵さんにあるの……彼女は……凄い娘だから……」
眞一郎と比呂美のあいだに流れた大切な時間……それを無かったことに出来るほど……乃絵は魅力的だった。
素直で、純粋で……天使のような娘……。勝てるはずが無い……比呂美はそう思った。
…………
「それがどうしたの?」
「!?」
搾り出すように吐露した苦悩に『それがどうした』と切り返されて、比呂美は心底驚いた。
愛子は自分の話を聞いていないのだろうか。
再び口を開き、乃絵がどれほど眞一郎の心を掴んでいるか説明しようとする比呂美。
だが、愛子がそれを遮る。
「そうじゃなくて……比呂美ちゃんは『どうしたい』の?」
愛子が放つ追及の刃は、容赦無く比呂美の心へと突き刺さっていった。

眞一郎が自分から離れていく……その予感を感じた時から、比呂美はずっと考えていた。
一体どうすればいいのか…自分は何がしたいのかを……。
「私……私は……」
比呂美は朋与が指摘したとおり、眞一郎にちゃんと『想い』を口にした事はない。
不意打ちでキスを奪ったことはある。……でもそれは……『想い』を伝えたことになるのだろうか?
眞一郎の告白を誘うための……ズルいやり方ではなかっただろうか?
…………
思えばいつも、自分は眞一郎の手の届くところまで近づいていって、彼が見つけてくれるのを待つだけだった。
それではもうダメな事は分かっている……変わりたい……そう思っている……。
…………でも…………怖い……。
…………
答えを口に出来ない比呂美を見ても、愛子は責める気にはならなかった。
簡単に決断できるほど軽い想いなら、比呂美がこんなに苦しむはずがない。
(分かるよ、比呂美ちゃん……あたしも……そうだったから)
自分の役目はここまでだ、と愛子は思った。
この後、比呂美が自分で決断するか、それともまた誰かが小石を投げ入れて波紋を起こすのか……。
それは神様だけが知っていること。三人の運命に、自分はこれ以上、口出しするべきではない。
…………
そろそろ店に着くな、と思い視線をあげる愛子。店の前で待っている三代吉が目に入る。
「それじゃ比呂美ちゃん、あたしここで!」
愛子は、自分だけの世界に入り込んでしまった比呂美から離れ、三代吉のいる方へと駆けていく。
そのまま離れていくかと思われた愛子の脚が、店と比呂美の中間で止まった。
比呂美の方に振り向き、大声で叫ぶ愛子。
「比呂美ちゃん!」
思考の深遠に嵌まり込んでいた比呂美の意識が、愛子の声で現実に引き戻される。
そして愛子は比呂美の瞳を真っ直ぐ見据えて言った。
「自分で決めるのよ。眞一郎が決めるのは眞一郎の事だけ。自分の事は自分で決めるの」
それだけ告げると、愛子は再び三代吉に向かって駆け出した。


「ごめ~ん、待った?」
一応謝って見せるが、少しくらいの遅刻で三代吉が腹を立てるわけが無いと、愛子には分かっていた。
三代吉が何か訊きたそうにしていたが、無視してポケットをゴソゴソと漁り鍵を探す。
「一緒のいたの湯浅さんだろ?……何…話してたの?」
我慢できずに三代吉が口を開く。きっと眞一郎に関係があると思ったのだろう。彼はいつも眞一郎を気に掛けている。
愛子は三代吉のそんなところが大好きだったが、こればかりは話す訳にはいかなかった。
「女同士の話。……いから、入ろう!」
店の中に三代吉を押し込むと、愛子は比呂美のいた方を見た。
(がんばれ!比呂美ちゃん!)
乃絵には申し訳ないが、やっぱり眞一郎は比呂美と結ばれて欲しい……。
愛子はそう願って、心の中でエールを送った。

「ごめんください」
比呂美が戸を開けると、「はぁ~い」と愛想のいい声がして、おばさんが顔を見せる。
が、相手が比呂美だと分かると、おばさんの顔はすぐ不機嫌になった。
「紛らわしいわね。お客様じゃないんだから、向こうの玄関を使いなさい」
「え……は、ハイ……」
また怒られてしまった。比呂美はそそくさと来客用の玄関を出て、家人用の玄関へと廻る。
おばさんが自分を家族として見てくれている……それは嬉しい事だった。
比呂美の顔が自然にほころぶ。
だが喜びに気持ちが緩んだのもつかの間、比呂美の表情はすぐに悲しみで曇った。
眞一郎との関係が終われば、この家に来る事も出来なくなる……。
それもまた、比呂美の決断を鈍らせている原因のひとつだった。

「これ、ありがとうございました」
居間に入り、風呂敷包みをおばさんに差し出す。
貸してくれた着物は、おばさんが若い頃に着ていたお気に入りの物らしい。
「あげても良かったんだけど……やっぱり、ちゃんとした箪笥がないとね」
着る時はどうせ私が着付けるんだから、とおばさんは笑う。
「あの……すみませんでした。下駄、片方なくしちゃって……」
頭を下げ謝罪する比呂美。
……本当は無くしたのではない。わざと置いてきたのだ。
あの幼い日の思い出にすがれば……眞一郎が見つけてくれる……そう思い込みたかったから……
(そんな魔法みたいなこと……あるはず無いのに)
滑稽だ。自分で自分が嫌になる……。
そんな事を考え、比呂美が気分を沈ませていると、おばさんは意外な事を言った。
「あぁ、あれなら眞ちゃんが持って帰ってきたわよ。境内にあったって」
「え……」
眞一郎が下駄を見つけた……眞一郎が……あの場所に戻ってきた……。
辻褄の合わない事実に、激しく揺さぶられる比呂美の心。
眞一郎は乃絵のところへ行ってしまったはずなのに……どうして……。
…………
「比呂美、どうしたの?」
おばさんの呼び掛けでハッとする。また混乱して思考が停止していたらしい。
「なんだか変よ。今お茶淹れるから、少し待ってなさい」
「いえ、私…今日は……」
席を立とうとする比呂美だったが、おばさんの有無を言わせぬ態度に押し留められてしまう。
「話したい事もあるし……ちょっと位いいでしょ」
おばさんは台所へと向かってしまい、結局、比呂美は退出するタイミングを逃した。

(何してんだろ……私……)
比呂美は不思議な気分だった。
あれほど憎いと思ったこの人と、自分は今、差し向かいでお茶を飲んでいる。
ささくれ立っていた気持ちが、僅かに潤った気もするが、
土砂降りの雨が小雨になった、という程度で、やはり晴天には程遠い。
「顔…凄く怖いわよ」
「え……そうですか?」
おばさんと二人だと、やっぱり緊張します…などと言って誤魔化そうとする比呂美。
だが……相手はそれほど甘くはなかった。
「捨てられた女の顔ね」
「!!!!」
言われた瞬間、比呂美は幻聴を聞いたのかと思った。
だが、目の前のおばさんの顔は氷のように冷たい。……そう、最初にこの家に来た時の……あの顔……。
間違いない。この人は言った。比呂美は捨てられた女だと。
全部知ってるんだ……どうやって知ったかは分からないが……おばさんは知っている!
(……敵だ……この人はやっぱり敵なんだ!……)
比呂美の内部に蓄積されていた怒りに火がつき、瞬く間に爆発する。
「……元はといえば…………全部おばさんのせいじゃないですかっ!!!」
ガタッと音を立てて立ち上がり、おばさんを見下ろす体勢を取ってから、溜めていた思いをぶちまける。
「私がっ……眞一郎くんの事、好きなの知ってて!!……兄妹だなんて言うからぁっ!!!」
心の中を全て搾り出したような比呂美の叫び。
そう……おばさんがあんな嘘を言わなければ……自分と眞一郎は……もっと自然に触れ逢えた……。
石動乃絵なんかに……割り込ませたりしなかった!!
「全部おばさんが悪いの!おばさんが邪魔しなければ…私っ!……私はっ!!!」
おばさんは目線を逸らさない。そして涼しい顔で訊いてくる。
「『私は』……何?……どうするの?」
……どうする……おばさんが…邪魔しなければ……自分はどうした……というのか……
一瞬で比呂美の毒気は抜け去ってしまった。
ハァ、とため息をを吐き、比呂美を見つめ直したおばさんの顔は、『昔』ではなく『今』のものだった。
「私には本音が言えるのに、どうして眞一郎には言えないの」
……のせられた……。全て比呂美の本心を引き出す為の芝居だったのだ。
再び席に着き、俯いてしまう比呂美。……恥ずかしいというより…情けなかった。
「……傷つくのが…怖いの?」
「え!?」
図星をつかれて、比呂美はハッと顔を上げた。

「怖いです……眞一郎くんに捨てられたら……ここにも、もう来れないし……」
「屁理屈はおやめなさい」
おばさんはどこまでも厳しかった。
比呂美と眞一郎がどうなろうと、比呂美が『仲上』の子供である事は変わらない……
そう断言して、比呂美が持つ『最後の逃げ道』を断つ。
「で、でも……」
この期に及んで、まだ比呂美の心の壁は抵抗を止めない。
おばさんはまた、深くため息を吐くと、呟くように言った。
「かわいそうね……あなたの『想い』……」
比呂美には意味がよく分からなかった。『想い』がかわいそう?
「だってそうじゃない。その気持ちは、この先もずっとあなたの中に閉じ込められたままなんでしょ?」
大事に育ててきたのに……どこにも出られず……感じてもらえない……
それはとても哀しいことだ、とおばさんは言った。
「……でも……眞一郎くんには……もう私の気持ちは邪魔なだけ…」
「眞一郎は関係ありません」
またしても、バッサリと斬って捨てられる比呂美の言い訳。
「あなたの『想い』はあなたの物よ。眞一郎がどう応えるかは関係ない。あなたがその『想い』をどうするか」
…………関係ない…………眞一郎の気持ちは………
…………
「あなたは……抱え込み過ぎるのよ」
吐き出してしまえばいい。自分に向けて、そうしたように。
道が開かれるか閉ざされるかは、やってみなければ分からないことなのだ。
「言ってしまいなさい。自分の正直な気持ちを。……それで駄目なら……」
その時、また二人で考えましょう…そう言っておばさんは微笑んでくれた。
比呂美に……比呂美だけに向けられた柔和な笑顔。
…………
(あぁ…………そうか……)
比呂美はようやく理解した。朋与の、愛子の言いたかったことを。
相手の気持ちは関係ない。眞一郎が今、誰を愛していても関係ない。
(私は今、眞一郎くんを愛している)
そうだ…自分の想いは偽物じゃない。眞一郎を愛している。愛しているんだ。
傷ついてもいい。目茶目茶になってもいい。ボロボロになってもいい。でも…このままじゃ終われない。
大切に…大切に育んできた眞一郎への気持ち……こんな形で終わらせる事は……それだけは出来ない!
…………
「あの、眞一郎くんは……」
「お友達のお見舞いだって出掛けて行ったわ。たぶん病院じゃない?」
病院……友達……石動乃絵
「だいぶ前に出掛けたから、そろそろ帰ってくるでしょ。待つ?」
比呂美は首を横に振った。
「私、行きます」
そう、とだけ言って、おばさんはまた湯飲みを口に運んだ。立ち上がり、居間の戸に手を掛ける比呂美。
「……おばさんは……凄いですね」
「あなたより二十年以上も永く『女』をやっているのよ。当たり前でしょ」
振り向く比呂美。その顔は先程までとはまるで違う『晴天』の顔だった。
「凄いです。尊敬……しちゃいます」
「そぉ?…………ありがとう」
おばさんの微笑みに背中を押されて、比呂美は駆け出す。
止まらない気持ちを解放するために!眞一郎へ向かって!



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