名前とシチュー


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=比呂美と眞一郎が8才の頃…

名前とシチュー


「はい。ここに座って待ってて?」
「うん…」
眞一郎は緊張していた。
放課後「こないだのお礼だから!」と半ば強引に家まで引っ張って連れられて
来たのはいいが、同級生の女の子の部屋は初めてだ。
一人で残されるのは、どうも居心地が悪い。

「早く、早く!」
比呂美は母親の準備を急かしていた。テーブルの縁に手を置き、小さくジャン
プしている姿はとても愛らしい。
「そんなに言っても、紅茶は少し時間がかかるのよ?」
今日、ケーキを予め用意させられた理由が分かり、微笑んでいる。
幼い娘が、初めて男の子の友達を家に招いた。一緒に祭りに行って、嬉しいこ
とがあったと興奮しながら話したのが、数日前だ。以前から話は聞いていたが、
実際に会うのは親としても楽しみにしていた。
「できたら、すぐに持ってきてね?」
それだけ言うと、部屋に大急ぎで戻っていく。パタパタとスリッパの音が遠ざ
かっていった。

「おいしい? 眞一郎くん?」
紅茶とケーキを持ってきた比呂美の母は、何故かそのまま残って一緒に座って
いる。
「お母さん! いいから、戻って!」
先程から何回も言っているのだが、聞いてくれないので、少し比呂美は怒って
いた。恥ずかしいのは、まあ、当たり前だろう。
「あら? いつもみたいに"ママ"って呼ばないの?」
「!」
一瞬で比呂美の顔が真っ赤に染まる。からかう母親の視線を避けるようにして、
目を伏せて眞一郎を見ないようにしていた。
「えぇ~? 湯浅って、まだ"ママ"なんて言ってんだ~?」
気恥ずかしさから、比呂美をからかうが、思わぬ反撃を受けることになる。
「私も、湯浅よ?」
真っ赤な顔で伏せたままの比呂美に代わって、母親が話し始めた。
「え?」
「私も湯浅なの。私は"ママ"なんて言わないわよ?」
怒っているのではなく、微笑んだ表情はそのままで、むしろ眞一郎との会話を
楽しんでいるのが分かる。しかし、少年にとってはそうではない。
「あ、だから…、こっちの…」
少し慌てながら、指差した。
「でもね? ほら…。私と比呂美がいるんだから、ちゃんと言わないと、
 分からないわよ?」
「どう言えばいいの?」
眞一郎は少しきょとんとしながら聞く。
「私のことは、何て呼ぶの?」
あくまでも声は優しい。慌てさせないように気を使っていた。
「お、おばさん?」
恐る恐る言った言葉は、禁句だった。
「あ゛?」
「ひぃぃぃっ!」
一瞬で凄まじい怒りを示す比呂美の母。眞一郎が恐怖に震えた。
「まだ、私は"おばさん"じゃないのよ?」
丁寧で優しくて、とても穏やかな口調。無表情なのが逆に怖い。
「は、はい…」
従順な眞一郎がそこにいた。
「そうねぇ…、私のことはねぇ…、"比呂美のお母さん"、でいいわよ?」
今度は完全に先程の穏やかな笑みを取り戻していた。
「…」
びびる眞一郎は硬直したままだった。
「はいっ、言ってごらんなさい?」
「比呂美の、お母さん…」
従順に指示に従った。
「はいっ、よくできました! じゃあ、こっちで赤くなってるのは? 誰?」
「湯浅」
「違うでしょ?」
声に怒りが感じられた。
「ひぃっ!」
「私は?」
「……比呂美の…お母さん…」
「こっちは?」

「ひ、比呂美…」

これが、初めて眞一郎が名前で呼んだ瞬間だった。
「!」
呼ばれた方は真っ赤な顔を上げ、喜びの表情を見せる。さらに母親が言った。
「それだったら、比呂美も眞一郎くん、って呼べばいいんじゃない?」
作戦の成功を悟り、穏やかな笑みを見せた。部屋に居続けたのはこの為だ。

「う、うん…。……………し、眞一郎くん?」

顔をちらちらと伺いながら、心の中で呼んだ事がある名前を声にした。
「うん…」
こっちも少し顔が赤くなっていた。
「じゃあ、私は夕飯の支度があるから、二人仲良くね?」
そう言ってから、策士は台所へ戻っていく。部屋に残されてからは、しばらく
ギクシャクして会話がないが、少しずつ普段通りになっていった。
二人が名前で呼び合うのはこの日が初めてだった。しかし、これ以降ずっと、
とはいかなかった。すぐに「仲上くん」「湯浅」に戻る。
名前で呼び合うことが増え始めるのは、夏休みに入ってから、"きっかけ"が必
要だった。そして、この日はもう一つ重要な事があった。


「眞一郎くん、今日の夕飯、ちょっと味見する?」
またもや"策士"が比呂美の部屋にやってきた。眞一郎が緊張する。
「は、はいっ!」
既に従順を通り越して下僕の態度。何も言われていないのに、正座。
「はい、どうぞ。比呂美も少し食べる?」
そう言って料理を配ってから、さっさと台所へ戻っていった。
小さい皿に盛られた料理をスプーンで口に運ぶ二人。あっという間に食べ終わっ
た眞一郎が、戻ってきた比呂美の母に向かって、一言。
「すっごく、おいしい!」
その笑顔に、
「もう少し食べる? シチュー?」
「うんっ!」
喜んで両手で皿を差し出した。

この時はまだ、何の工夫もしていない市販のルーを使ったシチューが、どうし
て二人で食べると美味しく感じられたか、そして、どうしてシチューが好きに
なったのか、眞一郎は気付いていない。時間が必要だった。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

その年の夏休み、眞一郎は愛子の家に向っていた。
「愛ちゃーん! いますかー?」
玄関で大きな声で呼ぶと、素早く家の奥から出てきたのは、
「眞一郎! 遅いっ!」
いつも元気な愛子だ。約束の時間よりも過ぎているのを怒っていた。
「何してたのっ!?」
小さい体だが、腰に手をあてて、怒っていることを全身で表している。
玄関なので、眞一郎を見下ろす位置にいることを最大限に利用していた。
「ごめん! 途中でコイツに会って、一緒に来るっていうから…」
言い訳していると、後ろから姿を現したのは、
「こ、こんにちは…」
比呂美だった。
「ん゛? だぁれぇ?」
愛子は警戒心いっぱい。いつからだったか本人は覚えていないが、眞一郎を見
るとドキドキするようになったのは、自分よりも目線が高くなってからのこと
だ。それ以降、眞一郎の周囲には注意している。
「湯浅ってんだ。途中で会って、宿題をするって言ったら、来るって…」
「ふ~ん?」
「だって、来るって、きかないし…」
「ふ~ん?」
今、愛子が気に入らないのは、一人増えたから、ではない、それが女の子であ
ることもそうだが、"眞一郎のシャツの裾を握っている"ことだった。小さくて
も女の子だ。細かい所を良く見ていた。面白くない。
「べっ、別にいいじゃん。さっさと宿題、しようよ!」
「上がれば?」
なんとか、3人で宿題ができるようだった。


テーブルについて、しばらく宿題をしていた。
どことなく緊張感があるのは、きっと気のせいだろう、そうに違いない。
「眞一郎!」
「うっさいなぁ。じゃますんなよー」
「眞一郎! ジュース、飲む?」
「飲む飲む」
先程から、何回も愛子は「眞一郎」と呼びかける。
比呂美は大人しく宿題をしていたが、それが気になっていた。自分は"あの日"
から名前で呼ぶことが恥ずかしくて言っていないのに、幼馴染と聞かされてい
る愛子は遠慮なく眞一郎に接して、呼んでいる。面白くない。
でも、今は呼ばない、愛子がジュースを取りに行っているからだ。

「持ってきたよー!」
小さい手で3本も持っているので、少しゆっくりと運んできた。チャンスだ。
「し、眞一郎…くん…、ここ、分かった?」
"あの日"以来、2回目だが、名前を呼ばれた方は、
「ん? まだ、そんなとこなのか? お前、おっせーなぁ…」
同じ所から宿題を始めたのだが、比呂美は愛子が気になって進み具合が遅れて
いた。しかも、名前で呼ばれたことに気付かなかった。
「あ…」
顔を赤らめて伏せてしまう比呂美。
「ジュース飲もうよ!」
比呂美の呼び方には気付いたが、愛子はそれを無視して眞一郎に話しかけた。
「うん、ほら、湯浅も飲めよ」
まだ、「比呂美」ではない、彼がそうするのは「眞一郎くん」と頻繁に呼ばれ
る様になってからだ。

比呂美は、どうして自分が恥ずかしさを押してまで名前で呼びたくなったか、
そして、どうして愛子が気になったか、気付いている。
この日以来、必ず「眞一郎くん」と呼ぶようになった。理由は明白だ。

― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―

「あれ? もう暑いってのに、今日は"それ"か?」
匂いに気付いて、出来上がった絵本を確認しながら聞いてきた。
「うん、そうだよ?」
いつもの"ルー"を使って、何の工夫もしないで作る料理。火加減を調整しなが
ら答えた。

「比呂美ー、明日、どうする?」
「私は買い物に行きたいなー、眞一郎くんは他に行きたいとこ、あるの?」


お互いを名前で呼び合い、二人でシチューを食べる。


END

-あとがき-
一応、浴衣で行った祭りが夏休み前だったら、ということで書いてみました。

 ありがとうございました。
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