true MAMAN あなたの代わりになれるかな~完全版~


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「行ってきます」
 学校に行こうとする眞一郎を理恵子が呼び止める。
「あ、眞ちゃん、待って」
「ん?」
「悪いけど、今日は比呂美ちゃんのところでお夕飯食べてもらえるかしら?お母さん、
ちょっと出かける用事があるの」
「あー、それはいいけど、父さんはどうするの?」
「お父さんも、今日は出前か何か頼んでもらえませんか?申し訳ないのですけど」
「・・・・ああ、わかった」
 ひろしは一瞬だけ理恵子の方を見て、すぐに食卓に目を戻しながら答えた。
「なんなら比呂美に来てもらおうか?うちなら台所も使い慣れてるし」
「余計な気は遣うな。俺は、適当に食べるから」
「お父さんもこう言ってるし、二人でお食べなさい。お母さんもそんなに遅くはならない
から」
「わかった。じゃ、そうするよ。行ってきます」
 眞一郎が改めて挨拶をして家を出ると、理恵子は食卓に戻った。
「すいません、急に」
「・・・・いや、いい」
 いつもの通り、ひろしはなにも詮索しない。それは理恵子を信用しているからに他なら
ないが、時として無関心にも見えるのが欠点だ。
 だが、今日に限って言うなら何も訊かれないのはありがたい。



 朝の内に家の用事を済ませ、早目の昼食を取り、着替えをして家を出る。
 初夏と呼ばれる季節も終りに近づき、この時間になると外を歩くだけでも汗が滲んくる。
駅に着き、電車に乗って冷房の効いた車内に入るとほっと一息を吐く。黒の服も暑さの
一因だ。
 目的の駅で降り、タクシーを拾って行き先を告げる。
 ほんの少しだけ、決意が揺れる。弱気な部分が引き返したがっている。
 しかし、ここで引き返すことはしたくない。自分の心に決着をつけるために、引き
返すわけにはいかない。
 程なく目的地に着く。タクシーを降り、階段を登る。
 入り口をくぐって右へ。三つ目の角を左。・・・・七つ、八つ。
 着いた。
「ごめんなさいね。こんな中途半端な日に来ちゃって。でも、大事な記念日よね。
「20回目の結婚記念日、おめでとう」
 湯浅家の墓碑の前に立ち、理恵子は静かに語りかけた。



「私、あなた達が結婚した時、心からほっとしたのよ・・・・」
 墓の掃除を終え、理恵子は再び話し始めた。
「これであの人も完全に未練はなくなる。もうこれからは私一人を見てくれると、その事
が本当に嬉しかった。いえ、疑っていたわけではないのよ。ただ
・・・・いえ、そうね、確か
に信じ切れていなかったわ」
 今まで認めようとしなかった過去を、素直に認める気になったのは、物言わぬ故人の前
だからだろうか。それとも理恵子自身に何らかの変化が起きているのだろうか。
「でも、その時の私は、自分が信じてると思い込もうとしたの。不安や不信を見ないよう
にして、自分はひろしさんを愛しているから、何も心配していないんだと自分に言い聞か
せていた。ひろしさんに確かめるのが怖かったの。
「でも、そのごまかしが、すぐに歪みとなって現れた・・・・」
 湯浅は元々、身体の丈夫な男ではなかった。香里がひろしよりも湯浅を選んだのも、あ
るいはそこに一因があるのかも知れないが、家庭を守る立場と
なった事は、湯浅に気力
や生きがいを与えると共に、負担や気負いももたらした。
 湯浅は身体を壊し、その看病をしながら自らも働く香里を心配し、ひろしは頻繁に香里
の下を訪れ、世話を焼くようになった。
 それはまだ結婚も、同棲もしていない理恵子との時間を犠牲にする事となり、理恵子の
不安は大きく掻き立てられた。親友の家庭を案ずるひろしと、邪推と知りつつ嫉妬を抑え
ることが難しくなっていく理恵子の関係は、次第にギク
シャクしたものになっていった。
 理恵子が自分の身体の変調に気が付いたのは、その頃である。



「あの時は私、初めて神様を信じる気になったわ。だって、こんなタイミング
でなんて、誰か余程意地の悪い人が話を考えない限り、私に起きるとは思えないもの」
 自分の妊娠に気付いた時、理恵子は誰にも告げなかった。
 自分の両親には当然言えない。同性の友人にもそこまで打ち明けられるほど親密な相手
はいなかった。
 ひろしにも言えなかった。言えば何かが終わってしまう気がした。拒絶された時が怖かった。
「馬鹿みたいよね。そんな事あの人がする筈ないのに・・・・」
 だがあの当時、理恵子はひろしがその報せを喜ぶとは思えなかったのだ。
 誰にも、何も言えないままに1ヶ月が過ぎ、生むか、中絶するかの決断を医師から迫られる
ようになった頃、理恵子は倒れた。極度の心労と妊娠中毒による体力の低下だった。
 病室に入ってきたひろしは、困ったような表情だった。理恵子はベッドの中から、その顔貌
をまるで初めて見るかのように見上げていた。
(終りかな・・・・)
 そんな言葉が浮かんだ。自然に涙が溢れてきた。見られたくなくて布団を引き上げた。
 ひろしは布団の隙間から理恵子の頬に触れ、涙を拭きながらこう言った。
『暫らく、安静にしていれば、子供には影響ないそうだ』
 ベッドの脇にいすを置き、腰掛ける。
『・・・・名前を、決めないとな』
 理恵子が布団から顔を出す。ひろしは、不器用に、しかし優しく微笑んで見せた。
『出来れば、今度はもっと普通に驚かせてくれ。心臓が、止まるかと思ったぞ』
 理恵子は泣いた。声を上げて泣いた。ひろしはその涙を拭っていた。
 一ヵ月後、ひろしと理恵子は仲上本宅で式を挙げた。湯浅は来れなかったが、香里も出席した。



「あの時は大変だったわ。麦端じゃ大スキャンダルだったのよ」
 ひろしの母は妊娠が先行しての結婚にショックを隠せず、ひろしからの話を聞いたときには勘当
だと大騒ぎしたが、式が近づくとそれでも理恵子を受
け入れてくれた。旧家である仲上家のしきたりは覚えることも多かったが、義母の厳しくも的確な
教育で少しづつ覚えていった。
 眞一郎が生まれた時、義母も、義父も、ひろしも喜んでくれた。特に義父は跡取りが生まれた喜
びを隠そうともせず、三日間に渡って道往く人に樽酒を振舞った。
 その2ヵ月後に湯浅家に長女が誕生したと言うニュースは、理恵子にはさしたる意味を持たなかった。

 少なくともその当時は



 それから数年は、育児と家業で目の回るような忙しさだった。
 眞一郎は大きな病気もなく健やかに育っていた。長身の2人の子供としては少し小さい
のが気になるが、義母から「息子も最初から大きかったわけではない」と励まされ、気に
病むというほどではなかった。
 結婚当初には「既成事実を武器に仲上の嫁の座を寝取った」という中傷に近い風評も聞
こえていた。それも年月が経ち、口にする者はいなくなっていった。
 変化は眞一郎が4歳の時に訪れた。



 湯浅の病死の報はひろしにとっても、理恵子にとっても衝撃だった。結婚してからはひろ
しも以前の様には湯浅を見舞う事もなく、やや疎遠となっていた。
 たまに電話で話しても体調はいいと話しており、2人にとっては青天の霹靂であった。
 2人で通夜に駆けつけた時、そこには2人の知らない香里がいた。
 泣き腫らし、疲れ果て、少しやつれた香里が、それでも気丈にお悔やみの言葉を告げる
弔問客に一人一人礼を言っていた。傍らには明るい髪の色をした少女が、心配そうに母
を見上げていた。
『香里』
 ひろしが呼びかける。
『ひろしさん・・・・理恵子さんも。遠いところをわざわざありがとうございます』
 香里が頭を下げる。隣で女の子も頭を下げた。
『疲れただろう。少し休んだらどうだ』
『いえ、大丈夫です』
『でも、その子も心配してるわ。誰かに暫らく代わってもらってはどうかしら』
『もう少しですから、このままで』
 それ以上は2人も何も言えず、参列者の席に着いた。
 通夜が終わり、皆が帰った後も、ひろしと理恵子はその場に残った。今夜一晩夫の傍で
線香を絶やさぬようにしたいと言う香里を説き伏せ、家に送り届けた。
 翌日、出棺に際し香里が湯浅の懐に何かを忍ばせた。懐中時計だという。
『あの人、腕時計よりも懐中時計が好きだったから』
 そう言って香里は弱く笑った。

「あの時のあなたは今にも消えてしまいそうで、ひろしさんが『麦端に帰って来い』て言った
時も、それしかないと思ったものよ」
 理恵子は香里に向けて話し続けた。もう自分でも忘れていたと思っていた事柄の一つ一つ
が、まるで昨日の事のように鮮明に再生されていく。



『麦端に戻って来い。働き口なら俺が何とかする』
 ひろしの説得に香里が折れたのは、葬儀が終わって3日が過ぎた時だった。
「もしかしたら、すぐに頼らなかったのは、私に遠慮してたの?」
 理恵子は当時からその疑問を持っていた。口にしたのは初めてだ。
 ひろしは麦端に母娘が生活するアパートを借り、知り合いの会社の事務の仕事を見つ
け、引越しの荷造りも手伝った。荷造りは理恵子も手伝った。
 荷造りの最中、アルバムから一枚だけ写真が飛び出している事に気が付いた。写真は
昔、4人で遊びに行った時の写真だった。香里の顔が切り抜かれていた。
『香里・・・・これは?』
『ああ・・・・主人が切り抜いて、時計の裏に貼ってたんです。その写真の私が、一番いいか
ら、って』
 香里が食器を詰めながら答える。理恵子は少し考えて、
『これ、うちにも同じ写真があるから、交換しない?』
『でも、それじゃ――』
『顔のない写真よりは、顔のある写真の方がいいに決まってるわ。それに、こんな事言う
のは残酷かもしれないけど、もうあなた達2人の写真は増えないのだから、比呂美ちゃん
に見せる写真は多い方がいいでしょう』
『・・・・そうですね。それじゃあ、お願いします』
 香里は理恵子に同意した。
「・・・・あの写真は、後々にとんでもないことしてくれたわ」
 理恵子は苦笑を浮かべた。



「そうして、比呂美ちゃんはうちに遊びに来るようになったのよね」
 昼間働く香里のために、幼稚園が終わった後は比呂美は仲上が預かった。
 眞一郎と比呂美はすぐに仲良くなった。比呂美も眞一郎を頼りにしており、眞一郎の後を
付いて歩いていた。
 ひろしも比呂美を可愛がっていた。仕事が終われば比呂美の相手をするし、休める時は
散歩に連れて行ったりもした。比呂美も父親がいないせいか、ひろしによく懐いており、
ある意味では眞一郎といるよりも親子らしかった。
「少し妬けたわ。自分の子より友達の子の方が可愛いのか、て」
 過去にあった香里への嫉妬やひろしへの疑念が、この時小さな萌芽として再び芽吹いた。
「だけど、この時も私は自分の気持ちを見ないようにした。子供に嫉妬なんてみっともないし、
いまさら蒸し返したくもなかったし」
 時が経ち、眞一郎も比呂美も中学生になる。
 眞一郎が比呂美に対し幼馴染以上の感情を芽生えさせつつある事に、理恵子は気が付
いていた。特に反対する気はなかった。
「やっぱり親子ね、とは、思ったのだけれど」

 そして、今度は香里が倒れたのである。



 ずっと無理をしてきたのだろう。入院した時、既に医者からは手遅れだと告げられた。
 ひろしは比呂美に真実を告げることに反対した。既に父親を亡くした中学生の少女に、
あまりに過酷な現実を突きつけることを躊躇った。
 理恵子はそれでも告げるべきだと言った。現実と向き合い、考える時間が必要だと。そ
れには死んでからでは短すぎると。ひろしの両親は既に他界しており、
『あなたは、お義父さんやお義母さんが助からないとわかっていたからしてあげられた孝行
があったのでは』
 と説かれ、ひろしが折れた。比呂美には理恵子から伝える事になった。
「そのせいかしらね、あの娘の私を見る目が少し険しくなったように感じたのは」
 それから1ヶ月後、香里は逝去した。夫の死から11年後だった。



 香里の入院中から、ひろしは比呂美を引き取りたいと理恵子に相談してきた。理恵子は
初め、反対していた。
『眞ちゃんも比呂美ちゃんも、これから難しい年頃になるんですよ。それでなくてもうちには
若い男の子も多いですし、比呂美ちゃんにとっても気の休まる環境ではないでしょう』
「でも、本当は、あの娘をこれ以上眞ちゃんに近づけたくなかったのよ」
 理恵子は眞一郎を溺愛していた。これ以上比呂美が眞一郎と近しくなることで、自分か
ら離れていくのが嫌だった。
『――だが、もうこちらには、比呂美の近親はいない。うちなら、学校を転校する必要もない
し、現実的な話、引き取るだけの経済力もある。比呂美にとって、これ以上環境が変わる事
が、いい事だとは思えない』
 その通りだった。理恵子にもその事はわかっていた。だから、最後にはひろしの提案を受
け入れた。
『わかりました。預かるからには、うちの娘として育てましょう。大学にも行かして、どこに出
しても恥ずかしくない娘として、うちから花嫁として送り出してあげましょう』
 理恵子の言葉は本心だった。良人(おっと)の親友の忘れ形見を、同情ではなく愛情で
育てよう。そう思っていた。



 葬儀の準備は仲上が取り仕切った。
 元々身内のみで行う予定であり、それほど大規模なものでもなかったが、香里の為に立
派な葬儀をしようと準備した。
 通夜が終り、比呂美をやや強引に寝かしつけた。ここ数日ほとんど寝ていない事はわか
っていた。
 それから、もう一度香里の処に戻った。ひろしと帰るためである。
 控え室にひろしはいなかった。祭壇のある部屋に行くと、ひろしがいた。良人は祭壇を回り
こみ、棺を覗き込んで、香里と対面していた。
 泣いていた。
 肩を震わせ、押し殺したような嗚咽をあげて、ひろしは泣いていた。それは親友の死でも、
親の死でも見せなかった、哀惜の慟哭だった。
 理恵子の中で何かが壊れた。今まで気付かないフリをしてきた事、考えないようにしてきた
事、その全てが同じ仮説に向けて収束していった。

 この人はまだ、香里を愛している。

『あなた?そこで何を・・・・・』
 声が抑制できない。自分でもはっきりと震えているのがわかる。
『いや、なんでもない』
 涙を拭いながら、平静を装って答えるひろし。だが、理恵子の疑念は確信に変わった後
だった。
『あなた、やっぱり・・・・』
 まだこの女を愛してるのね。あなたの心にはこの女がいるのね。
『何を言ってるんだ?馬鹿なことを口にするんじゃない!』
 良人が声を荒げる。後ろ暗い事が心にあるから強く出るんだ。ムキになって否定するのは
私の考えが正しいからだ。
『ッ・・・・!』
 その場から逃げ出した。全てから逃げ出したくなった。今まで自分が幸福と考えていた全
てが虚構だと指摘された心境だった。



「あの時は泣いたわ。香里のためではなく、自分のために」
 何を考えても悪い方にしか進まなかった。信じてきたものが何一つ信じられなくなった。
 そのうち、恐ろしい考えが生まれた。
(あの娘・・・・本当に湯浅君の子供なの?)
 身震いした。想像のおぞましさ、自分の浅ましさに気分が悪くなった。だが、その疑問は
理恵子の心を侵食していった。
 思えば、眞一郎と比呂美は2ヶ月しか違わない。つまり、私が妊娠に気付いた頃に香里
は妊娠した事になる。その頃ひろしは香里の世話を焼いていたではないか。しかも、香里の
良人は身体を壊して療養中だった・・・・。
『そう・・・・だからあの娘もあなたには懐くのね。だからあなたはあの娘を引き取りたいのね・・・・』
 理恵子は独り、声に出した。



「そんなはずないって、本当はわかってた。でも、止められなかった。誰かに止めて欲しい
と思いながら、どうしていいのかわからなくなった――」
 今でも、あの当時の心境を、理恵子は上手く説明できない。正負あらゆる感情が入り
混じり、自分でもどうすればいいのかわからなかった。
 その中心である比呂美に対しては、特に複雑だった。顔を見ると憎しみが募った。だ
が、顔を見ていない時には、身寄りのない14歳の少女だった。良人にとっても、自分にと
っても親友の忘れ形見であり、自分以外に誰も守ってやることの出来ない娘だった。
 その二律背反があの雪の日に爆発した。
「何を言っても言い訳になるのはわかってるの。でも、あの娘を傷つけたり、追い詰めたかっ
たわけじゃなかったのよ。ただ、あの時私は・・・・」
 あの時理恵子は、比呂美を傷つけたかった訳ではない。
 死者を侮辱したかった訳でもない。
『よくもこの家に来られたものね・・・・』
 だが、理恵子は精神的に消耗していた。病みかけていた。
『いい事教えてあげましょうか?・・・・』
 救いを求めていた。求める相手も、手段も考える余裕を失っていた。
『・・・・あなた、本当はうちの人の子供かもしれないわよ』
 理恵子は、誰かに否定してもらいたかったのだ。良人以外の誰かに。
 比呂美に『そんな筈ない』と言って欲しかったのだ
 だが言った瞬間に後悔した。絶対に口にしてはならない言葉だった。
 すぐにその場を立ち去った。最後の比呂美の顔貌が灼きついた。



 それ以来理恵子は、その疑念を口にしたことはなかった。比呂美も何も言わなかった。
理恵子は全てなかったことにしてしまいたかった。
 だが比呂美は理恵子と会話を交わす事を放棄したようだった。何を言っても虚ろな目で
聞き流し、一方的に話を打ち切ることもあった。そのくせこちらが頼んだ事は、例えそれが
不条理であっても断らなかった。
(私の事を軽蔑してるんでしょうね)
 無理もない、とも思う。比呂美からみれば言い掛りも甚だしい。言うに事欠いて死んだ自
分の両親に対する中傷をするような女、相手にする気にもなれないのだろう。
 比呂美に対し、バスケの強豪校、名門校からのスカウトはその頃になっても減る気配を
見せなかった。理恵子はこれで比呂美が出て行ってくれるならそれがいいと思った。もう
比呂美と折り合いを付けられるとは思ってなかった。
 比呂美は全て断った。眞一郎と同じ学校に行きたいのか、とも思ったが、あまり考えな
い事にした。
 高校に入る頃から、町内での噂が気に懸かった。眞一郎と比呂美が付き合っているの
ではないかという声を聞いた。『あの親ならその辺は寛容だろう』と話しているのが聞こえた。
自分のことをまだ言われている事が悲しかった。



『どうして・・・・そんな事言うんですか』
 比呂美が爆発したのは、他所の学校の男とデートしたという日の夜だった。
 交際にも節度を持って欲しい、そう言いたいだけなのに、本意ではない棘のある言葉で
責めるような口調になってしまった、その言葉についに比呂美が限界を越えたのだ。
『私が・・・・私があのお母さんの娘だから・・・・だから私も同じようにふしだらな娘だと言いた
いんですか!?』
 時間が止まった。
 理恵子は心臓が凍てついた手に掴まれたように感じた。何の事を言っているか、わからな
い筈がなかった。
『あなた・・・・まさか、あの話・・・・』
『片時も、忘れた事なんかなかった――』
 眞一郎にその場を見られ、比呂美が飛び出し、眞一郎がそれを追って、理恵子は一人取
り残された。自分もその場を逃げ出したかったが、脚が震えて言う事を聞かなかった。
(何故・・・・何故まだあんな話を信じてるの・・・・?)
 その問いが何度も響く。
 信じているわけがないのだ。あれが自分の妄言に過ぎない事など、常識的にわかる筈
だ。ひろしに訊けばそれで解決するではないか。
 理恵子は、その答えを自分が持っていることに気が付いた。
(ひろしさん以外の人に言ってもらわないと駄目なんだわ)
 自分が比呂美の口から否定してもらいたかったように、比呂美もまたひろし以外の誰か
の言葉で保証して欲しかったのだ。しかも、比呂美は理恵子以上にそんな第三者がいな
かった。ひろしに直接ぶつけたとして、肯定される危険性も、比呂美は抱えていた。
(話をしなくちゃ・・・・)
 この一年の、比呂美の虚ろな目の意味を思って、理恵子は比呂美の誤解を解かねばと
思った。あの卑屈なまでの従順さが、自分に対する負い目から来ているなら、責任は全て
自分にある。
 でも、どうやって?



「この期に及んでも、まだ私は自分が悪者にならない方法を考えてた。弱みがある分、尚
更強く当たった。その度に自己嫌悪に苛まれながら」
 淡々と理恵子は語り続ける。自分を弁護する気はない。自嘲する気もない。
ただ、事実
を伝える語り口だった。
「そんな時に限って、あの写真が出てきたの。今見られるのはまずいと思ったわ」
 だから燃やした。不自然に顔を切り抜かれた写真を見れば、言い分など聞いてはもらえまい。
 それが燃え残ったのは、誰の悪意が働いたのか。
 比呂美はもう何も聞く耳を持たなかった。絶望して家を飛び出して行った。
「そこまでになって、やっと私は全て手遅れになるかもしれないと怖くなったの」
 自分の面子など考えてられる次元は過ぎていたのだ。比呂美を追い詰め続けた事を、
土下座してでも詫びなければならなかったのだ。
 当てもなく外を探して歩き回る間、2度救急車の音を聞いた。形容できない恐怖に囚われ
た。もし万が一があれば、湯浅や香里にどう詫びよう。比呂美の無事と引き換えならばど
んなことでもしますと、初めて心から神に祈った。
 眞一郎が比呂美を連れ帰ったのを見た時、どれほど安心したか。どれほど帰って来て
くれてありがとうと言いたかったか。心配したと抱きしめたかったか。
 だが、何も出来なかった。言葉をかければまた傷つけてしまうのではないかと怖れた。
抱きしめたなら拒絶されると怯えた。結局、出来たのは誰からの視線にも晒されないよう
部屋に連れて行くのと、着替えを手伝う事だけだった。




「謝れたのは結局、学校に謝罪に行く日の朝だったわ。もう許してもらえなくても、恨まれ
続けても構わないから、自分が味方であることをわかってもらわないといけなかったから」
 理恵子は本当は、停学も回避したかった。力及ばず1週間の停学処分となった時、無力
感から比呂美を見ることが出来なかった。ひろしは
『おまえ、立派だったぞ』
 と言ってくれたが、なんの慰めにもならなかった。
「でも、比呂美ちゃんはそれでも私にありがとうと言ってくれたの。なんの力にもなれなかっ
たのに、嬉しかったと言ってくれたの。
「だから、私はあの娘を守ると決めたの。あの娘を傷つけた罪は、あの娘を誰からも傷つ
けさせない事で償うと誓ったの。そのためなら、他人からどんなに理不尽と言われても構
わない!」
 比呂美は自分のした事を生涯忘れないだろう。今でも全ては許してくれていないかもし
れない。
 それでも、比呂美は関係を築きなおそうとしてくれている。こんな自分に歩み寄ってくれ
る。それが嬉しく、そしてその優しさが苦しかった。
「――そうだ、もっと早くに見せたかったのだけれど」
 そう言うと、理恵子はバッグから細長い箱を取り出した。蓋を開けると、中に青磁のペン
ダントが入っていた。
「もう去年になるけれど、修学旅行のお土産に比呂美ちゃんが買ってくれたものよ。本当
は、あなたが貰うべきものなのだけど」
 理恵子はまだこれを一度も着けていなかった。気に入らないのではない。自分が香里を
差し置いてこれを着けることが、重いのだ。
「こんな物を貰っちゃうと、変な期待をしちゃうのよ。比呂美ちゃんが私を、『お母さん』と呼
んでくれる日が来るんじゃないかって。そんな筈ないのにね。ねえ、私はちゃんと、比呂美
ちゃんの味方になれてるのかな。私は本当に比呂美ちゃんを守れてるのかな。ねえ・・・・
香里。私、あなたの代わりに、なれてるのかな」



 墓地を抜け、寺を出ると、見慣れた車と、見慣れた人影がいた。
 ひろしだった。
「あなた。・・・・どうしたんですか?」
「飯、一緒に食おうと思ってな」
 不器用な、しかし優しい微笑み。変らないひろしの笑い方だった。
「・・・・そうですね。たまには2人で美味しいものを食べましょう」
「じゃ、行こうか」
「どこに行くか決めてます?」
「いや、取り合えず、駅前に行けば何かあるだろうと」
「駅前はファミレスと回転寿司ばかりでしたよ。麦端まで戻って、坂井さんのお店にしま
しょう。2人くらいなら、急でも座敷を用意してくれると思いますし」
「そ、そうか」
 2人を乗せた車は、まっすぐに走って行った。


                        了


ノート
true MAMAN史上最長編です。前編としたものを修正・再録しています。
命日ではなく湯浅夫妻の結婚記念日としたのは、命日だと比呂美も気付いて寺に来そうだからです。眞一郎含め4人揃うラストもよさそうでしたが、ここはひろしだけが理恵子を理解する、と見せたかったので、こういう形にしました。
あと、予定外ですがここでシリーズのメインテーマバラしてます。
true MAMANは「理恵子と比呂美が、本当の親子になる物語」をテーマにしています。「お義母さん」ではなく「お母さん」と呼ばせたいのです。
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