ある日の比呂美7


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比呂美が目を覚ますと、時計の針は七時を差していた。
シチューの仕込みを終えたあとで時間を持て余し、ウトウトし始めたのは六時過ぎ……
どうやら一時間ほど、テーブルに突っ伏して眠ってしまったらしい。
「………………」
覚醒しきらない頭に、先ほどまで見ていた夢の断片が浮かぶ。
……誰か……自分の大切な誰かが泣いていた……気がする……
(……眞一郎くん?…………それとも他の……誰か……)
それが何者だったか考えれば考えるほど、夢の記憶は心の内へと落ち込んで行き、やがて気にならなくなってしまった。
…………
すっかり暗くなっていた室内に明かりを点けようと、座椅子から立ち上がる比呂美。
ふと、窓の外を見ると、街灯に照らされて舞い降りる白いモノが目に入る。
(……雪……)
……またか、と比呂美は思った。
良くも悪くも、自分の気持ちを掻き乱す何かが起こる時、……必ず……必ず雪が降る。
冬の富山では、降雪など当たり前の日常なのに、比呂美にはそう思えてならなかった。
(また……嫌いになりそう……)
そう心で呟いて手を蛍光灯のスイッチに伸ばした時、テーブルの上に置いておいた携帯が震え出した。
「!」
眞一郎からの着信…… 何の疑いもなくそう思った比呂美は、反射的にそれを手に取って開く。
……だが…… 液晶画面に浮かび上がった送信相手の名前を見て、比呂美の身体は硬直した。
(……朋与)
……どうして…… 自分に連絡をしてくるなんて、一体どういうつもりなのか……
着信拒否に設定しておかなかった己の迂闊さを呪いつつ、比呂美は通話終了ボタンを押して受信を止める。
朋与と話しをするつもりはない。答えは眞一郎から聞きたい。……比呂美はそう考えていた。
しかし、電波の向こうにいる恋敵は、諦めるつもりはないらしい。
再び、手の中の携帯が振動し、ダイオードの青いランプが点滅する。
「…………」
何度切っても同じだ、と気づいた比呂美は、下唇をキッと噛み締めてから通話ボタンを押した。
「…………もし…もし……」
《あ、比呂美? 今、わざと切ったでしょ! ひ~ど~い~!》
携帯から聞こえる明るい調子の朋与の声に、比呂美は面食らった。
「え?……あ、あの……」
一瞬で毒気を抜かれて戸惑う比呂美を無視し、朋与は機関銃のような勢いで話しはじめる。
《ちょっと聞いてよ~ 私さぁ~今日フラれちゃった~ アハハハハ》
最初の一言に衝撃を受けて、比呂美は黙り込んでしまった。それに構わず、朋与の告白は続く。
つい先刻、その身に起きた出来事を、まるで他人事のように……比呂美には関係ない事のように話す朋与の声。
《とどめにさぁ~『俺が愛してるのは、お前じゃない!』とか言いやがってさぁ~ ま…………参っちゃっ……》
軽快だった朋与の舌が、込み上げてくるモノに邪魔されて急停止した。
(……朋与……)
携帯の向こう側から聞こえるすすり泣きを耳にして、比呂美はようやく、何物にも代え難い親友の気持ちを知った。
夢の中のイメージが、自室で一人、涙に暮れている朋与と重なる。
…………今までのことは全て……全て…………
…………
「……朋与……あの…………」
伝えたい、自分の今の気持ちを…… そして……朋与から一番大切な人を奪い取る罪を少しでも……償いたい……
比呂美がそんな思いを音に乗せようとした時、気配を察した朋与の声がそれを遮る。
《やめて! ……謝ったら……謝ったら……私、比呂美のこと一生許さないから!》
私は私の恋に、自分自身で決着をつけただけ。比呂美のせいじゃない。比呂美は関係ない。
毅然とした声で伝えられる朋与の意志。それが比呂美の心を鷲掴みにし、震わせる。
……『謝る』…… それは朋与の想いを侮辱することなのだと、比呂美はすぐ気づいた。
「……ぅ……うぐっ……」
両手で携帯を壊れそうなほど強く握り締めながら、比呂美は泣いた。
《アンタが泣いて、どうすんのよ》と言いながら、朋与の声も再びうわずる。
……一人の少年に想いを寄せる二人の少女は、切れかかった友情の糸を再び繋ぎ合わせた。
「……謝らないよ……私……謝らない……」
《……うん……》
たった一言の……満足そうな朋与の声…… それが比呂美の耳朶を打ち、もう一滴、涙を頬へと流させた。

《捜してあげて、『仲上君』のこと》
朋与の部屋を眞一郎が去ったのは、かなり前のことらしい。
しかし朋与は、眞一郎はまだ比呂美の元へ帰ってはいないだろうと見抜いていた。
《仲上君はね、比呂美が思っているほど強くないの……》
分かって欲しい…… 眞一郎はいつでも、比呂美を捜せる王子様ではいられない。
彼は……比呂美と同じ、弱い一人の人間……
だから、今は比呂美が眞一郎を捜して、そして見つけてあげて欲しい。
…………傷ついた彼の心を……包んであげて欲しい…………
自分の知らない眞一郎を語る朋与の言葉。 きっと昨日までの自分なら、嫉妬で身を焦がしていただろう。
…………でも、今は違う…………
自分の為に眞一郎が流した涙を朋与が拭ってくれたのなら…… 今度は……
…………
「…………うん……ありがとう……」
短い単語に決意と感謝を込める。すると、朋与は的確にそれを読み取ってくれた。
「……それでこそ、私の『親友』!……」
朋与はグスッと鼻を啜り、「暫く休むから、部の方もヨロシク」と明るく告げて電話を切った。
比呂美は携帯を折り畳んだ後、それを胸の中心にあて、瞼を閉じて祈るように静止する。
それはまるで、朋与の想いを自分の身体に取り込む儀式のようにも見えた。
…………比呂美がそうしていた時間は、一分にも満たない。
コートとマフラーを手に取り、手早く身支度を整えると、比呂美は部屋を飛び出していく。
粒を大きくする雪にも構わず、比呂美は眞一郎を捜して駆け出した。


眞一郎の性格からして、そのまま自宅に帰ったとは思えない。
仲上の家への連絡は無駄だろうと比呂美は思った。
同様に、携帯にかけても、おそらく応答しないに違いない。脚で捜すしかないのだ。
思い当たる場所、眞一郎の居そうな所を片っ端から走って巡る比呂美。
学校の鶏小屋、海岸通り、神社、竹林…… どこにも眞一郎の姿はない。
(眞一郎くん…………眞一郎くん……)
走る、走る、走り続ける……眞一郎だけを捜して…………
……そして……
麦端高校一の俊足を誇る両脚に疲れが見え始めたその時、比呂美の眼の端に、明るい緑の点が捉えられた。
(!!)
噴水公園の奥……昨日、比呂美が座っていたベンチに、眞一郎はいた。
街灯の明かりが眞一郎の姿だけを、風景から切り取るように照らしている。
肘を膝にもたれ掛け、打ちのめされたボクサーの様にうなだれている眞一郎。
肩と背中に降り積もる雪にも、全く構う様子がない。
(…………)
雪が舞い始めてから、公園には眞一郎以外、誰もやって来なかったのだろう。
一面が白で薄く塗られ、足跡一つない道を、比呂美は呼吸を整えながら眞一郎に近づいていく。
ブーツが雪を踏み鳴らすサク、サク、という音が耳に入ったのか、眞一郎がハッと顔を上げた。
「……風邪……ひいちゃうよ」
赤く腫れた目尻から流れ出る涙…… それを隠すように、眞一郎は声を掛ける比呂美の視線を避けて、顔を背けた。
「に……人間ってさ……こんなに長く……な、泣いてられる……もんなんだな……」
所々、裏返ってしまっている声が、眞一郎から吹き出す悲しみの深さを物語る。
何も言うべきではない、と思った比呂美は、その眞一郎の言葉には答えなかった。
(……あ…)
眞一郎の額にある赤いものが、比呂美の目に留まる。
(……怪我……してる)
それは何かがぶつかった様な小さな裂傷だったが、外気の湿度が高いせいか、まだ生乾きの状態だった。
ポケットからハンカチを取り出し、その傷に当てようとする比呂美。
だが、その気配を感じた眞一郎は、咄嗟に視線を戻して、迫ってくる比呂美の手首を掴み、動きを止めた。
「っ!」
男の握力で思い切り握られた細い骨が軋み、比呂美の口から思わず声が漏れる。
それに気づいた眞一郎は、申し訳なさそうな顔をして力を緩めたが、掴んだ手を離しはしない。
「……ゴメン…… この傷だけは、お前に触らせる訳にはいかないんだ……」
そう、消え入りそうな弱々しい声音で呟き、眞一郎はまた視線を比呂美から逸らしてしまった。

比呂美はその理由を訊くことはしなかった。
なぜ触れてはいけないのかは……すぐに思い当たったから……
これは朋与を傷つけた証として、眞一郎が望んで受けた傷…… その事にすぐ気づいたからだ。
(…………)
少しだけ寂しい気持ちに囚われ、比呂美も眞一郎から目を逸らす。
だが、自分がそんな風に感じるのは、朋与の想いに失礼だと思い直し、比呂美は眞一郎に向き直った。
「……部屋……来て。……本当に風邪ひいちゃう」
まだ比呂美を見ることが出来ない眞一郎は、嗚咽を噛み殺すような声で言う。
「先に……行っててくれ……」
あと一時間……いや、三十分でいい。一人にして欲しい。
すぐに追いかけるから…… すぐにお前を……『湯浅比呂美』を見つける『仲上眞一郎』に戻るから……
「……頼む……」
そう言って、更に深く比呂美から顔を背けた眞一郎の耳に、比呂美の静かな声が届く。
「…………嫌……」
彼女は自分の願いを聞き届けてくれる…… そう思い込んでいた眞一郎は驚いて、泣き濡れた顔を比呂美に向けた。
「……比呂美……」
「嫌ッ!」
もう一度、今度は力強く言い放つと、比呂美は眞一郎の座るベンチ……その空いている所に積もった雪を払い除ける。
そして、眞一郎のすぐ横に腰を下ろすと、冷え切った眞一郎の掌を自分の手で包んで握り締めた。
尚も視線を泳がせて自分を見ようとしない眞一郎。その耳に、比呂美は今の想いを音にして送り出す。
「…………『僕の中の君は、いつも泣いていて……君の涙を、僕は拭いたいと思う』」
比呂美の口が紡いだそれは、かつて眞一郎が、悲しみの中で暮らしていた比呂美に送ったフレーズだった。
背けられた頬に、空いている方の手を添え、ゆっくりと眞一郎の顔を自分へと向けさせる比呂美。
その手を当てたまま、親指で涙に濡れている眞一郎の目尻をスッとなぞる。
「…………あなたの涙を……私も拭いたいと思う…………」
「…………」
眞一郎は比呂美の眼を真っ直ぐ見据えたまま、一言も発することはなかった。
その眞一郎に、比呂美は想いを込めてもう一度、言葉を重ねる。
「……あなたの……涙を…………」
「…………」
握られているだけだった眞一郎の手が、比呂美の手の中で向きを変え、意志を持って指を絡めてくる。
溢れる涙はまだ止まらなかったが、瞳の奥にある光が、また輝き出したように比呂美には思えた。
二人の間に空いていた隙間を埋めようと、眞一郎の側に身を寄せる比呂美。
ライトグリーンのコートに薄く積もった雪を払い、少し逞しくなった肩へ頭をもたれさせる。
「…………」
眞一郎も無言のまま、同じ様に冷えた頬を比呂美に預けてきた。
雪と冷気が全身に降り懸かってくる中で、眞一郎と比呂美は、黙って身を寄せ合う。
…………
(……私にも出来る……出来るよ……)
……眞一郎が辛い時、悲しい時、大切な人を想って涙を流す時……それを拭うのは自分……
もう、眞一郎に涙を拭ってもらうだけの『湯浅比呂美』じゃない。
助けを求めるだけじゃない…… 救いを求めるだけじゃない……
『湯浅比呂美』は『仲上眞一郎』と共に並んで歩く…… あの時に決めた……その誓いのとおりにする。
……眞一郎が自分にしてくれたように…………同じ様にする。
それが彼の救いになると信じるから。 自分自身がそうしたいから。
この先……眞一郎と歩む長い時間……こんな事が何度もあるのだろう……
間違い、迷い、傷つけ合って、自分たちは何度もすれ違うだろう……
…………でも…………
最後はこうして寄り添える…… 眞一郎と自分は寄り添える…… 
その思いに理由は無い。 それが二人の愛の形なのだと、訳も無く思うのだ。
僅かに接した眞一郎の肌から伝わる熱も、「そうだよ」と言っている。 そんな気がする……
…………
(……あ……)
空を見上げると、本降りになるかと思われた雪が、段々とその粒を小さくして弱まってきた。
「やんできたな」と呟く眞一郎は、もう泣いてはいないと分かる。……見なくても分かる。
……朋与の想いと思い出を心の中で消化して、眞一郎は、また高く飛ぼうとしている……
眞一郎の変化……いや、『成長』を彼の一番近くで感じる喜びに、比呂美は身体と心を震わせていた。


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