比呂美のバイト その8

【そんなの聞いてない…】 比呂美のバイト その8(ver0.7β)


「ただいま」
 夕方遅く、裏口から眞一郎の声が聞こえた。帰宅したようだ。
 ほんの少し遅れて、表玄関に比呂美の澄んだ声が響いた。そんなに他人行儀
にすることはないのにといつも感じるのだが、今までの経緯を考えると仕方が
ないのだろう。
 迎えに出た理恵子を驚かせたのは、比呂美が普段身につける事のないコート
を着ていた事だった。だが、彼女には見覚えのあるコートでもあった。あれは
湯浅夫人のコートだ。
「お帰りなさい。荷物は運び出せた?」
 コートの事には何も触れず、少女に問う。
「はい。無事に。トラックのおじさんにお世話になりました。鍵、お返ししま
す」
 比呂美は白い手のひらに小さな鍵を乗せて差し出した。
 眞一郎は制服のままだが、比呂美は着替えているようだ。アパートに寄って
からこちらに来たのだろう。
「私から改めてお礼を言っておくわ。鍵は貴方が持っておきなさい。合鍵はこ
っちにもあるから」
「はい、お預かりします」
 依然は"倉庫"の鍵を持つ事を固辞していたというのに、彼女は素直に鍵を受
け取った。
 母親のコートを持ち出した事といい、何かに向き合う事に決めたようだ。
「比呂美ちゃん、ご飯一緒に食べていきなさい。お台所手伝ってくれない?」
「はい」
 ならばすぐに、来るべき時が来るだろう。理恵子は気を引き締めた。


 比呂美を加えた夕食は、和やかなものだった。少なくとも表面上は。
 仲上の父はいつものように新聞を手放さず、それでいてしっかりと家族の様
子に気を配って、短いやり取りを投げる。彼が食卓で手に取る新聞は、本当に
読んでいるわけではない事も多い。言葉少なに見えて意外に家族の様子を把握
し、それとなく気遣いをする男なのだ。近頃の眞一郎には、それがわかってき
ていた。
 当の眞一郎は、両親の前だと言葉は減る。昔のような緊張を感じないのは、
比呂美と親の関係が改善されてきているからだろう。
 母と比呂美のやり取りは、明らかに増えている。差し障りのない世間話や、
料理の話などが主だ。傍から見れば仲の良い親子のようにも見えるかもしれな
い。
 それが装ったものであることは、この場の全員が知っている。関係は良くな
ってきているものの、わだかまりは確実に残っている。二人はお互いに歩み寄
っている最中なのだ。
 眞一郎は自分が"鈍い"自覚があった。
 その彼でさえ、未だわだかまりが解消されたとは感じていなかったし、本当
にそうなるためには、時間といくつかのきっかけが必要な事も理解していた。
同時に、遠からず、必ず氷解するものと信じてもいた。

「おばさん…。お話があります」
 特に気負った様子も見られない、比呂美の何気ない言葉で、一瞬だけ食卓の
空気が変わった。
 眞一郎は自然すぎる不自然さに驚いて、比呂美の顔を見る。父も新聞を読ん
でいるふりをやめ、視線を彼女に向けた。
「…そうね。ドライブしない?」
 比呂美が話しかけたその相手は、奇妙なぐらい動じていなかった。あるいは
最初からわかっていたのかもしれない。
「はい」
 二人の呼吸の一致が親しさを原因とするものでない事は明らかだった。眞一
郎は危険信号を感知せざるをえない。
 比呂美の申し出が、ケンカするためのものとは思わない。何らかの手打ちの
ためのものだろう。だが、もう少し時間を置いてからの方が綺麗に和解できる
だろうに。あまりに時期尚早だ。
「かあさん、ちょっと待ってくれ」
 比呂美、焦るな。ここで失敗すると、取り返しがつかなくなる。
「眞一郎。口を挟むな」
 父が止めた。
「だって!」
「女同士の話だ」
 父もわかっている。理解した上で、二人を止めずにおこうとしているらしい。
 そこまで母を信頼しているのだろうか。なぜ、あの母を。眞一郎は母が比呂
美を虐めていた過去を忘れてはいなかった。忘れられなかったのだ。自分の事
以上に胸が痛んでいたから。
 だが比呂美は…。比呂美はさっきから眞一郎の顔を見ようとはしなかった。
一度たりとも。
 だから眞一郎には、比呂美と母の話し合いを止める事ができなかったのだ。

                 ◇

 12月の麦端の夜は長い。まだ8時だというのにすっかり闇が濃
くなっている。
 理恵子が白いレガシィワゴンのハンドルを握って走り出してから
5分ほど、二人の間に会話はなかった。
 行く先は比呂美にはわからない。そのヘッドライトが照らす方向
は、市街地ではない。もしかしたら行き先など無いのかもしれない。

 今夜の理恵子は、比呂美の目から見ても奇麗だった。
 出る前に化粧をきちんと直し、服も外出着に着替えている。華美
ではないが大人らしい色気がある。デートにでも行くような装いだ。
(おばさんは、何の話かわかっている…)
 服は女の武器であり、鎧だ。理恵子は比呂美のために備えたのだ。
 自分が母のコートを借りたのも、まさにそのためだった。
「そのコート、あなたのお母さんのものね」
 静寂をやぶり、理恵子の口から出た言葉は、それだった。
「はい」
「良く似合っているわよ」 
 つまりこれは、決戦だ。自分が意図した通りの。
 比呂美は少し身震いがした。
「ありがとうございます。あの…」
「何から話しましょうか」
 ハンドルを握り、前を見据えたまま、理恵子が機先を制した。

「私の…母のことについて」
 比呂美は素直に言う。こんな所で飾る気はなかった。
 理恵子の口から、ごく僅かな溜息が漏れた。
「覚悟はあるのね?」
 少しの緊張と、笑みと、倦怠感のような、様々な感情を孕んだ声。
 兄妹疑惑が晴れたあの時、理恵子は「相性が悪かった」と比呂美
に謝った。それが本当なら、全て理恵子が悪かったという事になる。
 だが、そんな話であるわけがなかった。何かもっと複雑な事情が
あるはずだった。
 真相を話すと、お互いを傷つける。だからあの時の理恵子は全て
の罪を被り、他の誰をも責める事はしなかった。
 その後、ぶり大根をもってきた時に、比呂美を応援するために心
の一端を漏らしてくれただけだった。
 おそらく、真相が傷つけるのはお互いだけではない。比呂美の母
も、仲上の父も傷つけるだろう。眞一郎への影響も避けられないは
ずだ。
 何か致命的な結果になるかもしれない。このまま箱を開けないま
まの方が、良いのかもしれなかった。
(今なら戻れる…)
 でも、それでは問題が消えてくれない。
 本当の意味で、仲上家の人達と和解し、家族として接する事はで
きない。今の自分はお客であり、居候であるにすぎない。
 比呂美は深く息を吸い、身を包む母のコートの襟元を、ぎゅっと
掴んだ。
「…はい」
 そして彼女は、はっきりと返事をした。 

                 ◇

「そうね…」
 しばらくして、理恵子は言った。
「主人…仲上ヒロシとあなたのお母さんは――」

                 ◇

      女性二人が出ていった後の居間は、微妙に緊迫した空気が漂って
     いた。
      座卓の上には湯飲み茶碗が2つ置かれ、湯気を立てている。
      父であるヒロシの位置は、いつもと変わらない。父の席だ。だが
     普段手放さない新聞は、今は横に畳まれていた。
      眞一郎は比呂美の席に座って、自分の父に目を向けている。その
     顔は強ばっていた。
      比呂美が連れ出された。自分は止められた。眞一郎としてはそこ
     で素直に引き下がるわけにはいかないからだ。
      もっとも、あの一連の事件の前ならば、引いてしまっていただろ
     う。何が自分を変えたのか、未だ言語化できるわけではない。だが
     引き下がってはいけない時に、引き下がらない事を、眞一郎は学ん
     でいたのだ。

     「俺は大学生の頃、比呂美のお母さんと交際していたんだ」
      父の口から出た言葉は、眞一郎の想像の範囲には無いものだった。
     「それって、恋人同士だったって事?」
      耳を疑うような言葉に、思わず聞き直す。色々な予想は立ててい
     たが、これだけはすっぽりと抜けていた。
     「そうだ」
      返事は明瞭で、疑いの余地はなかった。
      以前解消されたはずの"兄妹疑惑"が再び頭をもたげる音を、眞一
     郎は聞いた気がした。

                 ◇

「…本当ですか?」
 それは、比呂美にとっても寝耳に水だった。
「二人は大学時代、ずっと付き合っていたの」
 母とは色んな事を話してきた。でも、こんな事を想像させる話は
無かったはず…。

                 ◇

     「じゃあ兄妹かもしれないというのは…」
      あったはずの怒気は、すでに弾け飛んでいた。
      元々怒りを持続できるタイプではないが、それにしても意外すぎ
     た。
     「それは無い。お前も比呂美も結婚後に身ごもった子だ」
      眞一郎にかけられた疑いに声を荒げるでもなく、父は淡々と事実
     を述べた。

                 ◇

「父と母は、幼馴染みだったと聞いていました…」
 比呂美の両親は幼馴染みで、そして大学卒業後に結婚した。母か
らは何度もその事を聞かされていた。それだけが真実のはずだった。
「確かに二人は幼馴染みだった。ずっと同じ学校に通い、同じ大学
に入ってきたわ。でも、大学までに交際してはいなかったのよ」
 そんな話は…。
 だが、この話が嘘でない事はだけはわかる。わかってしまうのだ。
「あなたのお母さんは美人で頭も良かったから…。キャンパスのア
イドルになってね。大学のミスコンだってとったのよ」
(そんなの聞いてない…)
 巷のミスコンなど逆に毛嫌いしていたぐらいで、テレビで写ると
すぐにチャンネルを変えていたぐらいだというのに…。
「たちまち争奪戦が起きてね。結局、あなたのお母さんと付き合う
ようになったのは主人だった」
 嘘ではないのだろう。ミスコンともならば、ネットででもすぐに
調べはつくはずだ。
 自分の知らない母の姿を、比呂美は感じざるを得なかった。

                 ◇

     「湯浅は優しい奴だった。優しすぎた」
      父の述懐は、単なるノスタルジーというにはあまりに苦い風味を
     含んでいた。
     「あいつは彼女を大事に思うあまりに、自分の想いを封じ込めてな…」
      眞一郎の鼓動が跳ねる。
     「俺なんかつり合わない、俺では迷惑になると」
      それは一体、誰の話だ。
      比呂美に何もできず、何も言えなかったのは自分だ…。
      比呂美があまりに大事で…いや、それは嘘だ。臆病だっただけだ。
     自信がなかっただけだ。振られるのが怖かったのだ。

     輝く比呂美を見て、くすんだ自分を感じ、俺ではつり合わないって
     何度考えた事か。
     4番とのツーショットを見て、どれだけ絶望的な気分に浸ったか。
     (俺がそのままなら、遠からず比呂美は手の届かない所に行ってい
     た。そういう事なのか?)
      いや違う。4番との結びつきを自らセッティングしたではないか。
      可能性の話ではない。乃絵との一連の事件が無ければ、自分は間
     違いなく比呂美を失っていたという事だ。

     「俺があいつから大事な女性を奪っていたのに気付いたのは、卒業
     間近だったよ…」
      その"奪う"役が自分の父親だったとは…。
      あまりに生々しい「現実」に、眞一郎は息が詰まりそうだった。



比呂美とママンの直接対決です。

本当に申し訳ありません。
これだけお待たせして、まだβ版、しかも前半です。
締め切り破りは得意ですが(自慢することじゃない)、これだけ盛大に破るとは。

課題の大きさと力の無さに、立ちすくむ思いでした。
映像媒体に合うやり方を持ってきて、小説という媒体の特性を無視してみましたが
それだけでは粗すぎて、もう一段重ねて落ち着いたり。

色々と一度に挑戦しすぎて作業が重くなりすぎたのが、遅れに遅れた原因です。
やりすぎました。
(途方にくれて、ttを嫌いになりかけた…w)
でも、やっとこの書き方がわかってきた、かもしれない…。

続きは数日後に。

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最終更新:2008年05月17日 21:01
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