true MAMAN 最終章・私の、お母さん~第五幕~


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 病院の前に車を付け、ひろしが中から飛び出す。
 あせる気持ちと懸命に闘いながら手術室に向かう。手術室の前には、既に何人も集
まっていた。
 自宅で連絡を受けた理恵子と眞一郎、友人経由で報告を受けたらしい愛子とルミ、
見慣れぬ中年男性は担任だろうか。
 ひろしは理恵子に問いただした。
「どうなんだ、容態は?」
 理恵子は蒼白になった顔貌を上げることも出来ずに、それでも必要な答えは返した。
「脳波に異常はないそうです。・・・・ただ、その・・・・赤ちゃんの方が・・・・・・・・今、そのた
めの処置をしてくれているのですけど」
「・・・・そうか」
 ひろしはそれだけ答えた。組合の会合先に連絡が入った時、既に比呂美の妊娠につ
いても聞いていた。
「それで、そっちは、どうなんだ?」
「まだなんとも。・・・・ずっと誰も出てこなくて・・・・」
 理恵子の声が徐々に細くなる。ひろしは病院に搬送された時の比呂美の状態を察し
た。
「すいませんが、一度朋与の様子を見てきます」
 ルミがそう断って、その場から離れた。ひろしは理恵子を見たが、何も言わない。代
わって愛子が説明するには、比呂美以上に朋与が強いショックを受けており、錯乱状態
になった為、今は比呂美同様鎮静剤で眠らせており、三代吉とあさみがついていると
いう事だった。
「そうか、その娘にも礼を言わないとな」
 迷惑をかけた、とは、ひろしは言わなかった。間違いなく迷惑をかけているが、言えば
比呂美を追い込むような気がした。
 手術が終わったらしい。ランプが消え、術着姿の医師が出てきた。
「先生――」
「なんとか母子共に助ける事が出来ました。当面は絶対安静で様子を見なければなり
ませんが、胎児も脈拍を確認しています」
 一同に安堵のため息が漏れる。安心した理恵子がしゃがみこむのが視界の端に映った。
「ありがとうございます」
「――とは言ってもまだ予断を許しません。興奮状態が酷いので鎮静剤も使いましたし、
少なくとも二、三日、出来れば一週間は入院していただきたい」
 受験は受けられないか。ひろしは現実的なことを考えようと務めた。確実にわかって
いることだけを相手にしなければ、不安が増大していく気がした。
 中年の男が進み出た。
「担任の佐々です」
 男性が自己紹介した。
「どうも、仲上です」
「まあ一命に関ることにならなくてよかった。幾つかお聞きしなければならない事はあり
ますが、それは後日にしましょう。それでは、家族の方も揃ったようですし、私はこれで」
 そう言って佐々と名乗る男は一礼し、その場を去っていった。朋与の様子を見に行く
のだろう。眞一郎の横を通り過ぎる時、肩をポンと叩いていった。
 ひろしは眞一郎を見た。
 眞一郎の顔色は蒼を超えて白かった。世の中の不幸や、絶望が、全て自分に向かって
来ていると被害妄想に陥っているような顔だった。
「眞一郎、お前は戻れ」
 ひろしは眞一郎に命じた。眞一郎は愕然とひろしを睨んだが、その目に力はない。
「なんでだよ?俺は――」
「比呂美が目を覚ました時、お前はそんな顔貌で比呂美の前に出る気か?鏡で見てみろ」
 眞一郎は反論しようと試みるが、言葉にならない。そのまま下を向いてしまう。
「愛子ちゃん、すまないが三代吉君が戻ってきたら、二人でこれを家まで送って欲しい」
 愛子は黙って頷く。
 実際のところ、比呂美に眞一郎を会わせない事が正しいのか、ひろしにも自信はない。
比呂美が誰よりも会いたいのは、眞一郎である筈だった。だが同時に、一番会いたく
ないのもまた、眞一郎ではないかと思ったのだ。
 現在の眞一郎では、会わせても比呂美の心が安らぐとは思えない。
 三代吉と、ひろしの知らない少女がこちらに歩いてきた。愛子の話から考えて、あさみと
いう娘だろう。
 少女がひろしに気付き、一礼する。
「ええと、あさみさん、かな?」
「あ、はい、浅海 絹といいます。仲上君の同級生です」
「そうか。君も学校から比呂美に付いてきてくれたんだね。ありがとう」
「い、いえ・・・・」
 あさみが目を逸らす。高校生にはショックが大きすぎたのだろう。ひろしには詫びる言
葉もなかった。
 ひろしは三代吉に向き直り、
「三代吉君、すまないが、眞一郎を家に連れて行ってもらえないだろうか。私と家内はこ
こに残るから」
 三代吉は何か言おうと口を開きかけたが、何も言わずに頷き、眞一郎に近づいた。
「行くぞ、眞一郎」
「・・・・・・・・いやだ」
 三代吉は構わず眞一郎の腕を掴むと、そのまま歩きだした。眞一郎は多少抵抗して
いたが、そのまま引っ張られるように歩いていく。愛子も後を追い、あさみも立ち去って、
後にはひろしと理恵子だけが残った。
「病室は、立ち入り禁止か?」
「はい?あ、いえ、そういうわけでは・・・・」
「なら、入ろう。目を覚ました時、誰もいないのでは不安がる」
 病室に入ると、比呂美はまだ目を覚ましてはいなかった。隣で理恵子が息をつくのが
わかった。
 ひろしも内心では同じ気持ちだった。正直に言って、今は何と声をかけていいのかわ
からない。
 ベッドの脇にいすを並べ、二人で座る。
 頭に包帯を巻いているものの、比呂美の寝顔は穏やかだった。顔には涙の跡が幾筋
も走っていたが、今は泣く事もない。
 不意に香里の死に顔を思い出し、ひろしは慌てて目を背けた。あまりにも不吉な連想
だった。
「私、気がつかなかった・・・・」
 理恵子が呟いた。
「お前だけが気付かなかったわけじゃない」
「でも、私が気付かないといけなかったのに。私が気付いていれば、こんな事にはなら
なかったのに――」
「落ち着け。お前が気が付いたとしても、今日の事は想定外だ。お前がどうにか出来る
事じゃない」
 こんな時、ひろしは自分の言葉の足りなさを痛感する。こんな通り一遍の科白しか思
いつかない事に、妻を安心させる事も出来ない自分に苛立つ。
「――とにかくだ。今は比呂美が無事だった事を喜ぼう。子供の話は俺も驚いたが、こん
な形で駄目にならなくてよかった。後は比呂美が回復してから話し合おう」
 それが問題の先送りでしかない事は承知の上で、理恵子を思い詰めさせないために
そう言った。
 効果があったかはわからない。理恵子は比呂美の手を取り、祈るように頭を垂れていた。



 眞一郎と三代吉、愛子は家路を黙って歩いていた。
 眞一郎と三代吉が並んで歩き、愛子は二人の後ろに付く。
 空気が重い。愛子は何度か話題を振ろうと思案したが、何も思いつかなかった。
 その内、眞一郎が呟いた。
「俺、知らなかったんだ・・・・」
 誰に向かって発しているわけでもない、返事を求めているわけでもない独白だった。
「俺が気付かなきゃいけないのに。俺が気付いていれば、止めようがあったかもしれな
いのに・・・・・・・・」
 病室での彼の母親の後悔の言葉と同義であることは、勿論誰も知らない。
「お前が知ってたところで、雪が積もらないようには出来ねえよ。それに、湯浅が気付か
れないようにしてたんだから、お前が鈍いわけじゃない」
 届いていない事は承知の上で、三代吉が慰めの言葉をかける。虚しく言葉が通り過
ぎていく感覚は、病室のひろしと同じ気分だ。
 後ろからおずおずと愛子が訊ねる。
「あの・・・・こんな時だけど、明日の東京行きは・・・・?」
 突然、感情が爆発したように眞一郎は目を瞑り、激しく頭を振った。
「こんな事になって・・・・行けるわけないだろ!」
「・・・・・・・・そうだな」
 愛子が何か言う前に、三代吉が同意した。正論としては予定通り美大を受け、比呂美
にこれ以上の負い目を感じさせないようにするべきだろうが、これだけ動揺してはどの
道受験したところで受かるまい。
 何よりも、恋人がこんな大変な時に受験を予定通り受けて、しかも合格するような男で
あれば、三代吉はその男と親友にはなっていないであろう。
「飯、どうする?食いたくないと思うけど、少しは食っておかないともたないぞ」
 三代吉はあえて現実的かつ即物的な提案をした。こんなことで気を紛らわせる事がで
きるとは思わないが、「空腹感は全ての理性に優先する」という曽祖父の言葉を思い出した。
「それじゃ、うちへ寄りなよ。焼きそばくらいなら店でも作れるから」
 三代吉の意図を察した愛子が、無理に明るい声を作る。愛子とて大事な幼馴染が入
院して、動揺していないはずがないが、それ以上に「眞一郎のお姉さん」としての意識
が愛子を強くしていた。
「・・・・いらない・・・・」
 眞一郎が弱々しく拒絶する。
「愛子、俺に作ってくれ。俺が食うわ。眞一郎、食いたくなったら分けてやるから、ちょっと
寄り道させてくれ」



「はい、お待たせ」
「おう、サンキューな」
 愛子の出した焼きそば――本来は賄いとして自分が食べる為に置いてあるものだ――
とコーラで三代吉は遅い昼食を始めた。
 眞一郎を一人にせず、かつ食べる気が出たら食べさせられるように、との配慮が第一
義だが、実際に三代吉も昼食を摂り損ねて空腹だった。
 愛子は、三代吉の隣で死人のような顔で座る眞一郎を見た。焼きそばには目もくれ
ず、時折強く頭を振る動作を繰り返している。
 おじさんの判断は正しかったかもしれない。目を覚ました時、恋人がこんな顔で立っ
ていたら自責の念が強くなるだけだ。
「三代吉、あの・・・・朋与ちゃんは、どうなったの?」
 愛子が病院に着いた時には、もう朋与と比呂美は別の部屋に分けられていた。愛子は
比呂美ばかり看ていた為、朋与の様子は知らないのである。
「俺が行った時には、もう薬が効き始めて大分おとなしくなってた。浅海の話では直前ま
で比呂美の所にいると言って全力で暴れてたらしいがな。
「それでも、眠るギリギリまで比呂美に謝ってたよ。ごめんねってな・・・・」
「そう・・・・」
 比呂美の怪我そのものはそれほど深刻なものではない。女子バスケ部エースの運動
神経は十分に発揮され、むしろ事故状況を考えればよくこの程度で済んだと思われる
ほどだった。
 問題はお腹の子である。朋与が比呂美に駆け寄った時、出血が始まっており、それが
朋与を恐慌に陥れた。
 結局、校医の応急処置の迅速さが功を奏し、母子共に大事には至らなかったが、朋
与は足の滑る石段に連れて行った自分を責め、完全に錯乱したのだった。
 朋与に責任がない事など全員がわかっている。わかってはいても、朋与を説得できる
者などいなかった。
「俺、大学は行かない」
 唐突に、眞一郎が宣言した。愛子と三代吉は顔を見合わせ、次いで眞一郎を見た。
「ちょ、ちょっと眞一郎!?」
「すぐに働いて、比呂美と結婚する。比呂美にも、子供にもちゃんとする」
「眞一郎!落ち着いて考えよ?すぐに結論出す問題じゃないよ?」
「じゃあ他にどんな責任の取り方があるんだよ!?」
 眞一郎がダンッ!とカウンターを叩く。愛子が怯んで言葉を飲み込む。
「俺は何にもわかってなかった。この何ヶ月か、比呂美がどれだけ悩んでいたのか、一
人でどんなに苦しんでいたのか、まるで知らなかったんだ。これからは俺が守る。俺が
比呂美の傍に付いていてやる。それが俺に出来るせめてもの償いだ」
 一気に捲し立て、眞一郎は荒く息をついた。愛子が助けを求めるように三代吉を見る。
 三代吉はそばを突きながら暫らく考えていたが、
「で?今からどこで働くんだ?」
 と訊いた。
「それは・・・・これから考えるさ・・・・」
「高校新卒の募集なんて半年も前に終わってるぜ?今残ってるのは中途採用か、バイト
か。バイトじゃ湯浅を守るなんて出来ねえだろう?」
「・・・・最悪は、家を手伝いながら・・・・・・・・」
「お前の親父さんが、そんないい加減な理由で家業やらせてくれると思うか?」
「いい加減だと!?どこがいい加減なんだよ!」
「その場の思いつきで受験やめます、仕事が見つかるまで腰掛で家業手伝わせてくだ
さい、がいい加減じゃないと?」
「う・・・・」
「いいから落ち着いて考えろ。飯食って、一晩寝るくらいの時間はあるだろ」
 眞一郎が席を立った。一瞬、店を出て行くのでは、と警戒したが、トイレに入っただ
けだった。
 愛子がふうっ、と息をつく。
「ありがとう、三代吉」
 頭に血が昇った者を冷やすには、道義的な正論よりも鼻白むようなつまらない現実を
語る方が、しばしば効果的である。三代吉にはそれがわかっていた。
「俺は、眞一郎だけ考えればいいからね」
 自嘲気味に三代吉は言った。仲上家の三人や愛子ほどには、三代吉は比呂美との
付き合いが深くない。比呂美との付き合いが深ければ眞一郎の決断を「いい加減」とは
言えなかっただろう。部外者だからこそ言えた科白であると同時に、自分がアウトサイダ
ーに過ぎないことを自覚する行為でもあった。
 その時、三代吉の携帯が鳴り出した。ルミからの電話だった。三代吉はその場で電話
に出た。
「もしもし」
『もしもし?ごめんなさい、電話して。もう家には着いた?』
「いえ、まだです。先輩はもう病院を出たんですか?」
 三代吉が朋与の元を離れる時、ルミはまだ残っていた。
『ええ、朋与のお母さんが見えられて、朋与も目を覚ましたから』
「そうですか。あいつ、目を覚ました後どうでした?」
『すぐに比呂美を探して出て行こうとしたけれど、お医者さんから説明を受けて、今は
会わないほうがいいって言う事には納得したわ。比呂美がまだ眠っているから、病室
に顔を見に行ったのだけれど、そこでまた泣いちゃって・・・・仲上君のご両親に何度も何
度も謝ってやっと帰ったわ。一応三代吉君にも報告しておこうと思って』
「そうですか・・・・。ありがとうございます。気になっていましたから聞けてよかったです」
『安藤さんにも伝えておいて。仲上君にも・・・・今の仲上君に、比呂美以外を案じる余裕
があるとは、思えないけど』
「伝えておきます。本当にありがとうございます」
 電話を切り、愛子に電話の内容を伝えた。愛子は三代吉の携帯にルミが掛けたことに
微妙な表情を浮かべたものの、朋与については素直にほっとしていた。
 トイレから眞一郎が出てくる。顔色は相変わらず蝋のようだが、幾分かは冷静さを取
り戻したようだった。
 三代吉はルミからの電話の内容を繰り返した。
「黒部さん・・・・何も悪い事なんかしてないのに」
 ルミの予想は外れ、眞一郎は朋与を案じるだけの優しさを残していた。5分前はとも
かくとして。
「黒部には後で謝っておくんだな」
 三代吉もこの程度しか言えない。
「うちに泊まれよ、眞一郎」
 先程から考えていた事を、口に出した。仲上夫妻は今夜は帰ってこない。
 眞一郎を一人にしておくのは、過ちを犯す事はないにせよ、建設的な思考に有用とは
思えなかった。
「・・・・すまない」
 眞一郎もわかっていたのだろう。素直に提案を受け入れた。



 ひろしは、病院の外のコンビニにいた。
 おにぎりとお茶のペットボトルを買いレジに通す。
 その時、煙草が売られていることに気付き、マルボロを一箱買った。ライターも付けて
もらう。
 店を出ると、その場で煙草の箱を開け、一本火を点ける。深く吸い込み、ゆっくりと吐
き出した。
 煙草はもう随分長いこと吸っていない。学生時代には吸っていたが、家業を継ぐ際に
仕事中の喫煙がなくなり、眞一郎が出来た時から家でも吸うのを止めた。
 最後に吸ったのは・・・・そうか、湯浅の葬式だ。葬式の後、一人であいつの好きだった
煙草を吸って、香里に飛びついて消されたんだっけ・・・・。あの時以来か。早いものだな。
もう14年になるのか。
 その香里ももういない。自分の両親も逝った。自分と想い出を語れる人々が減っていく
中で、比呂美が新しい命を宿した。しかも、眞一郎との間の子ときた。俺達の物語が俺
達の子へ、更にその先へ進んでいく素晴らしいニュースなのに、ほんのわずかタイミン
グが悪いだけで何故こんなにも大事になるのだろう。
 眞一郎は今夜は三代吉の家に泊まると、三代吉から連絡が入った。眞一郎を一人に
しない方がいいからと、三代吉は言っていた。
 そこまで考えていなかった。冷静を装ってはいても、思慮を持って判断する限度を超え
ていた。そこに配慮を回してくれた三代吉に感謝した。
 明日東京には行かないだろう。そのことに一切触れなかったのも有難い。もしも電話
で言われれば、立場上眞一郎に東京行きを命じなければならない。聞かされなければ
黙認できる。
「眞一郎には過ぎた友人だな」
 いや、過ぎたと言えば比呂美もか。あれこそ眞一郎にはもったいない。その比呂美に
も、病院まで同行してくれた友人がいる。どうやら自分の子供達は、友に恵まれるとい
う幸運と才能に恵まれたらしい。
「親である俺が立ち尽くしているだけというわけには、いかんよなあ」
 煙草が丁度終わった。吸殻にお茶をかけ、火を消してゴミ箱に放り込んだ。
 ひろしは病院に帰っていた。



 比呂美が目を覚ましたのは、もう日付が変わろうかという時間だった。
 鎮静剤の効果だけでなく、それだけ心身共に無理を重ねていたのだろう。理恵子には
それがわかった。
「目が覚めた?」
「ここは・・・・?」
「病院よ。学校で転んで、それで運ばれたの」
 理恵子はこれ以上簡略に出来ないほど簡略に事実のみを伝えた。
 比呂美は目を泳がせ、記憶を辿っていたが、突然
「あ、あの――私の、私の――」
「大丈夫だから落ち着いて!赤ちゃんなら大丈夫だから。ただ、あんな事があったか
ら安静にしてないと、ね?」
 理恵子の言葉を聞いて比呂美は安堵の表情を見せた。が、次の瞬間には再び目を
見開き、怯えたように理恵子を見る。
「あの・・・・」
「いいから。あなたは何も心配しないで。今は身体の事だけ考えなさい」
 理恵子は精一杯優しい声で比呂美に語りかける。比呂美はみるみる目に涙を溜め、
理恵子から目を逸らした。
「・・・・・・・・ごめんなさい」
「うん、うん、いいから。大丈夫だから・・・・」
 理恵子も他の言葉が浮かばない。ひろしは外にジュースと、何か食べるものを買いに
行っていた。二人とも、ここまで何も口にしていなかった。
「・・・・眞一郎くんは?」
「眞ちゃんは、その・・・・別の部屋で寝てるわ。さっきまではいたのだけれど」
 理恵子は思わず嘘をついた。比呂美の目から涙が落ちる。
「私、迷惑かけちゃいましたね・・・・眞一郎くん、一番大事な時だったのに・・・・・・・・」
「今はあなたも大事な時期よ。他の事は考えないで」
 これじゃいけない。理恵子は自分の言葉が比呂美を追い詰めていく焦燥感に囚われ
た。この娘にとって必要なのはこんな言葉じゃない。
「考えるのは後にしましょう。比呂美ちゃん一人の身体ではないのだから、赤ちゃんの
為にもまずは休まないと」
 これも違う。こんな事言われても休めないのは私がよく知ってる。
「眞一郎くんも怒ってるでしょうね・・・・私のせいで・・・・大事な日を・・・・・・・・」
「怒ってなんかいるもんですか。誰もあなたを責めてなんかいないわ」
 事実には違いないが、眞一郎が言わなければ効果も半減だ。眞一郎を帰すべきでは
なかったかもと後悔した。
 だが、今は私しかいない。眞一郎も、香里もいない。私がこの娘を励まさないといけ
ない。私なら出来る。この娘と同じ経験は私しかしていない。私は香里にはなれないが、
香里よりも今の比呂美の気持ちはわかるはずよ。
「・・・・ねえ比呂美ちゃん。新しい命を授かるというのは素晴らしい事よ。好きな人との間に
出来た子供が、責められたり、怒られたりするなんてありえないわ」
 こんな一般論じゃ慰められない。思い出さなければ。私は何と言って勇気付けられた?
「今のあな・・・・比呂美ちゃんは、急にこんなことになって、それに怪我が重なって、弱気
になってるだけよ。暫らく休んで、元気になれば悩みなんてなくなるわ」
「・・・・堕ろした方が、いいですよね」
「なにを・・・・何を馬鹿なこと言ってるの!」
 思わず語気を荒げた。比呂美がまた怯えたように肩を震わせる。理恵子がハッと我
に返り、なだめるような口調に戻る。
「ごめんなさい。――でも、お願いだからそんな事を言わないで」
 思い出さなきゃ。私が言って欲しかった事はなんだった?
「でも・・・・・・・・こんな事になって、おばさんにもご迷惑かけて・・・・」
「迷惑だなんて――」
「こんなふしだらな娘、家にも傷が付きますよね」
 絶句した。
 二年半前、理恵子が比呂美をなじるのに使った言葉だった。あの頃は比呂美の一挙
一動に苛立ち、自分が言われて一番辛かった言葉が口をついてしまった。
 やはり、比呂美は自分を許していなかったのだ。私に言われた言葉は忘れられる事
なく、この娘の心を膿ませ続けていたのだ。
 すぐに否定しなければいけなかった。そんな事断じてないのだとわからせなければな
らなかった。だが、理恵子は言葉が出なかった。
 理恵子の心は折られていた。


                          了


ノート
向き合うべきは未来

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