比呂美のバイト その10


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【問題は彼女じゃない。夫でもない】 比呂美のバイト その10


「後になって、二人の関係は、そんなに継続的なものではなかった事がわかっ
たの。でも、あなたが家に来た頃は、まだ確かではなくて…」
 理恵子の声は、沈んでいた。比呂美を苦しめた自覚があるからだろう。
 間違いではあっても、「嘘」ではなかった。当時、彼女は本当にその疑惑で
苦しんでいた所だったのだ。
 だがそのせいで、比呂美は自分の想いを過度に封じた。仲上の人々とぎこち
ない関係を築くことになった。イスルギノエに入られもした…。
 単なる間違いで済まされる問題ではない。
 だからといって、理恵子の立場や心情を考えれば、簡単に確かめ、信じられ
る問題でもないはずだ。夫が「あの時だけだ」と言ったところで、どうしてそ
れを信じられるだろう…。
 理恵子はそれ以上は語らない。比呂美に時間を与えてくれているようだった。
受け入れるにも、考えるにも、時間が必要な問題だからだろう。

(何が悪かったんだろう…)
 比呂美は、複雑な問題を必死に考え続けた。
 実際のトリガーは、自分の父が早死にする事で引かれた。父が生きてさえい
れば、ここまでややこしい事にはならなかった。だが、それは責めるべき事で
はない…。
 では、自分の母と別れたヒロシが悪いのか。
 自分に心が向いていないと疑いながらヒロシと結婚した理恵子が悪いのか。
 ショック状態でヒロシを求めた母が悪いのか。
 母を放置せずに、全力で助けようとしたヒロシが悪いのか。
 そのどれもが違う。誰か一人を責めてどうなるものではない。
 皆それぞれに、しかも善意で、自分の役割を全うしようとした。
 何かを選択し、その選択で別の誰かを傷つけざるをえなかった。その傷がま
た別の人を傷つけた。それだけだ。

 理恵子による比呂美の扱いは、良いものではなかった。正直、つらかった。
 しかし、それも冷静に思い返してみると、理恵子が厳しく当たるのは、自分
が眞一郎やヒロシに近づく様子が見えた時。その前後だけなのだ。
 あれは牽制だ…。理恵子は、比呂美に眞一郎を奪われたくなかったのだ。
 自分だって眞一郎に近づく女の子をさりげなく牽制してきたではないか。そ
れは眞一郎を奪われたくなかったからだ。
 夫を奪った女の娘が、自分の息子を奪いに来る。そう考えれば、牽制しよう
とする気持ちは自然だ。
 そして、理恵子の危惧と牽制は、実は間違ってはいなかった。
(私は、眞一郎くんが欲しかった…)
 ある意味で、比呂美は眞一郎を奪いたかったのだ。
 眞一郎に近づきたかった。眞一郎も自分を望んでくれた。自然に惹かれあっ
ていた。だから頻繁に、理恵子の牽制を誘発する事になってしまったのだ。

(もし私が、眞一郎くんを望まなければ…?)
 これほど厳しく当たられる事はなかったのではないか…。
 湯浅の家財一式についても、立派に管理されていた。どこも傷んではいなか
った。手間も暇もかかっただろうに。自分などは、つらくて"倉庫"に寄り付か
なかったのに。不倫相手の家財の管理など嫌であろうに、それをし続けてくれ
たのは、理恵子だ。
 経理の仕事を教えてくれたのも理恵子だ。あれで学んだ事が、今後社会に出
て役立つ事は間違いない。人に仕事を教えると、最初は逆に効率が落ちてミス
が増えるものだ。自分でやったほうが面倒がない。決して人手不足だから手伝
わせたわけではない。
 家の手伝い、掃除や料理などにしても、過度な要求とは思わない。母の生前
にもしていた事だ…。

 つまり理恵子は、葛藤しながらも、極力公平に接するよう、努力はしてくれ
ていたのだ。
 すべき事はきちんとしてくれていた。すべきこと以上にしてくれた。
(何で自分は、それをわかろうとしなかったのだろう。見ようとしなかったの
だろう?)
 比呂美の頭の中に、光が差した。


「あの…」
 比呂美はついに、ある事を認めた。認めてしまった。少し、心の奥が痛い。
「あの、たぶん…。結果的には良かったんだと思います」
 つらく、寂しいが、この判断が間違っているとは思わなかった。
「え?」
 理恵子には少し意外だったらしい。
「兄妹だと思っていなければ、私は図に乗って、余計にご迷惑をかけていたか
もしれませんから」
 理恵子はたっぷり一分ほど、黙っていた。
「あなた、良い子ね…」
 気のせいかもしれない。理恵子の声が揺れたように、比呂美には思えた。


 車内の会話が途絶えたままで車は進んで行く。
 ついさっきまでと違うのは、車に方向性が見えてきている事だった。適当に
ぐるぐると回っているわけではなくなっている。速度も若干上がり、明らかに
どこかの目的地を目指している。。
「この辺りよね」
 車が止まった時、比呂美は目を見張った。見覚えのある場所…忘れもしない
場所だった。
 アスファルトに残る、炎の跡。そこは比呂美の事故現場だった。

 理恵子は車の外に出て焼け跡を見つめている。比呂美は理恵子の横顔と、道
路の焼け跡を、交互に見ていた。
 この家出は、比呂美にとってはつらい記憶だった。
 眞一郎を失い、帰る家も亡くし、死のうがどうなろうが、どうでも良いと思っ
た。自暴自棄になって、眞一郎に捧げるはずだった操まで投げ捨ててしまった。
もしウサギが飛び出して来なければ、事故を起こさなければ、自分は汚されて
いただろう…。
 だから、少しでも早く精算したかった。お金を払って貸し借りをなくし、自
分と4番の中から、この事故を完全に消し去りたかった。眞一郎と心が通じた
今は、なおさらあの時の自分が許せなかったのだ。無理矢理バイトを始めたの
はそのためだった。
 比呂美には、理恵子がなぜここに自分を連れてきたのかが、わからない。実
のところ、この現場にいるのは不快だった。
 だが、わざわざここに来たというなら、何か意図があるのだろう。彼女は黙っ
て理恵子の言葉を待った。

 やがて、理恵子が口を開けた。
「馬鹿な話よ。私は彼女に夫の心を奪われ、貴方に夫と眞一郎の心を奪われる
と思い込んだ。あなたが、身よりのない、行くあてのない、ただの子供である
事に気付いたのは、この事故の時だった」
「…。」
 比呂美は無言で理恵子の口元を見ていた。
「親同士でどんな事情があっても、子供に罪はない。あるわけがないわ」
 焦げたアスファルトを見つめながら、理恵子は自分を呪うように言った。
「それにね、問題は彼女じゃない。夫でもない。私が夫を信じられなかった事
だったのよ。夫なりに私の事をずっと愛してくれていたのに、待っていてほし
いと土下座までして彼女の所に行ったのに、私は夫の気持ちを信じようとしな
かった。その心の弱さが、あなたをここまで追いつめた。死なせてしまう所だっ
た…」
 理恵子は、自分の罪を認めるために、この現場に比呂美と共に来たのだった。
「ありがとう、ここから無事に帰ってくれて。憎まれていてもいい。無事でい
てくれてよかった。あなたに何かあれば、私は自分を許せなくなるところだっ
たわ」
 それは、飾る事のない、自責と懺悔の言葉だった。

「違うんです」
 言わなければならなかった。今、ここで。
 全ての転換点となった、ここで。ウサギに助けられたこの場所で。
「おばさんが悪いわけじゃない。理由はどうあれ、不倫なんかされたら苦しん
で当然だから。その娘を好きになれないのだって、当然だから。その気持ち、
わかるから…」
 堰を切ったように言葉が出てきた。車の中で、考え続けていた事だった。
「私、認めたくなかったんです。母の不倫を。死んだ母を侮辱するようで。認
めちゃいけなかったんです。だから私にとって、おばさんは故なく虐めてくる
人でした。そう思わなきゃ…、そうじゃなきゃ、お母さんが汚されちゃうから…」
 感情が昂ぶる。
「でも、認めたら、認めてしまえば、おばさんのつらい気持ちが良くわかって…」
「あなた…」
(お母さん、ごめんなさい…)
 自分は母を見限ったのだろうか。違うと思う。違うと思いたかった。事実を
認めただけなのだ。認めないと、理恵子の優しさにも、配慮にも気付く事がで
きないから。気づいてはいけないから。
(ごめんなさい…)
 それでも、つらかった。自分自身の手で母を切り捨ててしまった気がしてい
た。
「好きな人、取られちゃうの、ほんとにつらいから…」
 眞一郎を奪われたと思った時、自分がどれほどつらかったか。
 気が付くと、比呂美の頬を涙がつたっていた。

「ほんと、仲上の男って、どうしようもないわね…」
 理恵子は、ふっと息を抜いた。
「ねえ、比呂美ちゃん」
「…はい…」
 比呂美は両手であふれる涙を拭っていた。
 理恵子はそっとハンカチを取り出し、その手に握らせる。
「眞一郎はあなたにあげるわ。育てなさい。男を育てるのは女なのよ」
「え…?」
 比呂美は耳を疑った。
(今、なんて…?)
 あまりの事に、頭が働かない。
 続く言葉も、信じられなかった。
「それから自分のお母さんの事、悪く言うのはおよしなさい」
 理恵子は微笑んだ。
「彼女と私は天敵のようなものだった…。最初から仲上ヒロシを取り合う関係
だったから」
 遠くの星を見るような目で、彼女は言う。
「でも、憧れてもいた。彼女の心をよく理解もできた…。もしそういう立場で
なければ、親友にだってなれたはずだった…」
 その声は、驚くほど優しかった。
「母を、許してもらえるんですか?」
 まさか、そんな。
 でも、今晩。理恵子は母の悪口を、母を責めるような言葉を、一言も口にし
なかったのだ。
「あなたにつらく当たった事は、今さら謝って済む問題じゃない。だから謝ら
ないわね」
 理恵子は悪びれずに言った。笑みまで浮かべている。そのことが逆に、心か
らの謝罪を比呂美に伝えていた。
「あ…。その言葉…」
 そしてそれは、比呂美の記憶を鋭く刺激した。
「死ぬ前に、母が…。理恵子さんには謝りようがない、だから謝らないと」
 母も同じ事を言ったのだ。新たな涙が出てきた。
「彼女らしいわね」
 理恵子は楽しそうな顔をした。
 比呂美は、亡き母と理恵子が和解した事を、知った。

「あの…、おばさん」
「なに?」
「私の家の、家具とか、服とか…。ずっと守って下さって、ありがとうござい
ました」
 理恵子に渡されたハンカチで涙を拭いながら、比呂美は礼を言った。
「するべき事をしただけよ」
 確執があっても、感情的に反発を感じていても。きちんとすべき事はする。
それが理恵子だ。
 比呂美と理恵子の間の過去は、消えたわけではない。
 だが、お互いを理解しあっている。共感もできる。認め合いもできる。問題
を問題のままで維持する意味が消えてしまったのだ。
 あとは勇気。過去を認める勇気が持てれば、未来に踏み出す勇気も持てるは
ずだ。
「1つ聞いていいですか?」
「ええ」
 少し緊張しながら、聞く。聞いておかねばならない事だった。
「今、おじさんの気持ち、どうお考えですか」
「気持ちも何も」
 理恵子は笑った。
「『今の』あの人は私が育てたのよ。今さら誰も割り込んでこられないわ。た
とえ、あなたのお母さんでもね」
 そう言ってウインクした理恵子は、何より素敵だと比呂美は思った。

                  ◇

 仲上家の居間の空気は、未だ重いままだった。
 性格の違いかもしれない。男性と女性の違いなのかもしれない。女性陣に比
べると、父親は息子に対して理解を求めようとしないし、息子は父親を理解し
ようとする意思に欠けている。そのせいかもしれない。
 だがヒロシには、息子がなぜこれほど反発するか、実のところ理解ができて
いる。息子の反応は非常に純粋で潔癖で、それは男の子が男になる過程で通る
道である。自分が通ってきた道でもあるからだ。

「…やっぱり俺は納得いかない。そもそも俺なら、比呂美の母さんと別れたり
しない」
 息子は言った。
「そうか」
 ヒロシは答える。

 顔にも口にも出さないが、息子のこの部分だけは非常に好ましいと考えてい
た。
 自分の選べなかった道。恋愛のエゴのために、割り切って周囲を犠牲にして
でも大切な相手を選び、貫く道。どうやら息子はそれを選ぶ事ができるようだ。
 自分はそこが甘かった。その甘さが二次被害につながるとわかっても、それ
でも甘さを捨てきれなかった。理恵子はそこが好きだと言ってくれるが、そこ
に自分の限界がある。
(比呂美のおかげだな…)
 息子の現在の能力、勉学への姿勢には、不満がないわけではない。
 だがここ数カ月、恋愛がらみでもまれた事で、息子は大きな成長を遂げてい
る。眼の光が変わっている。それは見ていてわかるのだ。
 比呂美への一途な想い、それを貫くならば。何かを徹底して貫く事ができる
ようになれば、他の事もできるようになる。
 息子の器は理解していたが、器だけでは流される。自分の力で何かを為すた
めには、引っ張っていく意思、選択する強さ、そしてエゴも必要だ。眞一郎に
なにより不足していたそれが芽生えてきているならば。
 自分にある限界が、眞一郎にはない。自分の背中を越えていく息子の姿が、
少しだけ感じられるようになってきた。男親にとってこれほど嬉しい事がある
だろうか。

 ヒロシの携帯電話に着信が入った。
「そうか…。わかった、ゆっくりしてこい。気をつけてな」
「母さんから?」
「二人は温泉に寄ってから、帰るそうだ」
 さすが理恵子だ。よく心得ている。
「えっ? なんで…。大丈夫かな…」
 眞一郎は、さっぱりわからないようだった。未だに二人の間を心配している。
「眞一郎。女同士というのは、男同士とはまた違う」
「でもさ…」
 なんだか不満そうな眞一郎である。
「男女関係だってそうだ。頭で考えるほど、簡単に割り切れるものじゃない」
「…。」
 また少し反発している。だが、それでいい。
「女の事は、これから比呂美に教えてもらえ」
 しばらく後に、眞一郎の顔が赤くなった。

 男の子にとって、父親など、反発し、否定し、乗り越えようとする対象でちょ
うどいい。皆、そうして大人になる。
 もちろん方向性を間違えば空回りして芽をつぶすが、幸い眞一郎には比呂美
がいる。彼女が眞一郎を上手く導くだろう。引っ張ったり、寄り添ったりしな
がら。天の与えたような、良い伴侶になってくれるだろう。
 ならばこれからの自分は、良い壁であることを心掛けれていれば良いのだ。
眞一郎もぶつかり、もまれて、20代後半にでもなれば、良い酒が飲める関係に
なるだろう。
 かつて自分がそうであったように。



バトル、決着です。

ある種の罪を認め、それを見据え、罪悪感に流されすぎずに、
向き合って生きていく。13話最終回はそこに落ち着いています。

ゆえに、ママンや親父、比呂美や眞一郎が罪悪感で抑圧され、
罪悪感等を引きずったままで長い時間を過ごす話にするのはやめました。
それでは1話の抑圧比呂美と同じだからです。
13話終了後に、抑圧者を出したくなかったのです。

お互いの心情が、つらい気持ちが、大体判っているのですから。
歩み寄ろうとしているのですから。
実質それで問題は終わりです。後はキッカケだけなんです。
なので「その9話」で色々話した時点で、ほぼ終わっていました。

8や9と書き方が変わったのは、同じことを話していないためです。
決着も違います。比呂美とママンは共感。ヒロシと眞一郎は平行線。
お互いの関係と成長のためには、これで良いはずです。
男の子には試練が必要ですからね。


前後しますが、11で比呂美がえらく張り切ってるのはこのせいでした。
もらっちゃったんですもの。そりゃ頑張りますよ(笑)




比呂美のバイト その10…の2


 温泉で家族風呂なるものに入るのは、比呂美にとって初めての経験だった。
 大きめの露天風呂に、家族だけで入る事ができる。時間で借りるために高く
はつくが、他人の目を気にしないですむことはありがたかった。特にこうして、
二人きりで話すために来た場合には。

 少し気後れしている比呂美と違い、理恵子はさっさと服を脱いでかかり湯を
し、浴槽に身を沈めた。
 慌てて比呂美も脱ぎ、後を追った。タオルで身を隠し気味に、温泉に入る。
理恵子と服もなく接する事には、まだ少し抵抗と緊張があった。
「綺麗ね」
 理恵子が言った。
「え…?」
「あなたの身体。すごくスタイル良いわ」
「あ…」
 恥ずかしくなって、比呂美は顎まで沈んでしまう。
「若いっていいわよね…」
 理恵子は純粋な賞賛の目で、比呂美を見ていた。
「あの、でも、おばさんも綺麗です。大人っぽくて…」
 慌てて言った比呂美の言葉も、嘘ではなかった。
 理恵子も40になったとは思えないほどのプロポーションを保持していた。胸
にも張りがあり、下も綺麗に手入れされている様子など強く女を感じさせるも
ので、とても魅力的だった。
「そう? ありがとう」
 理恵子は素直に礼を言った。
「比呂美ちゃん、上がりなさい。背中流してあげる」


「男って別の生き物なのよ」
 比呂美の背中をタオルで流しながら、理恵子はしみじみと言った。
「え?」
 気恥ずかしくはある。だが、この理恵子に急速に慣れていく自分を、比呂美
は感じていた。
 一度心を開きさえすれば、彼女は親しみやすく、親切ですらあった。
「似ているけど違う。同じ所にいて、同じ物を見ていても、感じる事や考える
事が違う。女同士なら通じる話が全く通じないの」
「ああ…」
 わかる。本当に良くわかる、と思った。
「だから、きちんと話さなければ駄目。細かい事でも話したくない事でも、恥
ずかしい事でも。何でも話しておかないと、誤解が積もって取り返しのつかな
い事になる。言わずにわかってくれるなんて思ったら大失敗するわ」
 肩から腕、足まで、比呂美は理恵子に任せていた。
 とても気持ちが良かった。優しく柔らかい掌だと思った。
「そうですね…。そうかもしれませんけど…」
 そのことは、身に覚えがありすぎる。
「私なんか、この年になってもそれでいつも失敗してるわ」
 後ろで理恵子がくすっと笑った。
「そうですか?」
「そうよ。でも、いくら恋人でも、何でも話すのって難しいのよね」
 本当に、そうだ…。眞一郎ともっときちんと話せていたら、これほどややこ
しい事にはならなかったのだ。
「あの、代わります。私に背中、流させて下さい」
「ありがとう」
(こういうの、いいな…)
 比呂美は、理恵子と接する中で初めての、安らぎを覚えつつあった。


 身体を流しあい、ちょっとした満足感を得た後、二人は並んで湯を楽しんで
いた。先ほどは対面だったから、また少し距離が縮まっている。
 お湯の温かさが、全てのわだかまりを溶かしていくようだった。沈黙でさえ、
今は痛くはなかった。
「ねえ、比呂美ちゃん。どんな事でも話せる時があるの、知ってる?」
 露天の上、遠くの星を見ながら、理恵子は言った。
「いえ。それは?」
「教えてあげない」
 彼女はいたずらっぽく笑う。その笑顔は、魅力的だった。
 考えてみれば、比呂美は理恵子の笑顔を、これまでほとんど見たことがなかっ
たのだ。
「おばさん、ずるい」
 少しだけ、クレーム。甘えてみる。
 軽い冒険ではある。でも今は、これが許してもらえそうな気がしたのだ。
「ほんとに可愛いわ。あの馬鹿息子のどこがそんなにいいんだか…」
 理恵子はそれを受けてくれた。嬉しかった。
「安心して。その時が来ればわかるわ。でも」
「でも?」
「安売りは絶対しちゃだめよ。これがヒント」
 理恵子は頤を上げ、心地良さそうに眼をつぶった。

(その時…? 安売り…?)
「あ…」
 つまり、そういう事なのだろう。比呂美は真っ赤になった。
「あの…それ…えーと…」
 しどろもどろになってしまう。
 そんな比呂美に理恵子は近付き、その身を抱き寄せた。
(あ…)
 肌と肌が触れ合い、包み込まれる感覚に、ドキりとする。
 気が付いたら、ごく自然に抱き締められていた。さっきの話で動揺して、隙
だらけになってしまったせいだ。比呂美は一瞬、緊張で身を固くした。
 ――だが、なぜか悪い気分はしなかった。あれほど対立してきた理恵子だと
いうのに…。
 比呂美は少しだけ勇気を出して、身体の力を抜いた。
 その様子を見て、理恵子の腕が頭に添えられた。その腕に頭を預け、導かれ
るままに理恵子の胸に頬を預けた。理恵子の胸は、やはり心地良かった。
 眼を閉じて、理恵子の鼓動を感じる。母にこうして抱き締められてから、何
年たっただろう…。子供の頃以来かもしれない。

「おかあさん…」
 失われた母を思い、知らず、比呂美の口からつぶやきが漏れた。
「まだ何年か早いわよ」
 理恵子がおかしそうに突っ込んだ。
「あ、あの…! 今のは…!」
 比呂美は慌てて眼を開けた。
「わかってるわ。今までの事、ごめんなさいね」
 ごく自然に出た、何も構える事のない、心からの謝罪だった。
 さっき、謝らないと言っていたのはもうどこかに行っている。いい加減なも
のだが、それでいいのだと思う。
「はい…」
「今度、一緒にお墓参りに行きましょう。あの人に、立派になった娘の姿を見
せてあげたいから」
 はい、と答えたはずの声は、涙で詰まって言葉にならなかった。
ツールボックス

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