比呂美のバイト その13

【わかるな、眞一郎】 比呂美のバイト その13


「比呂美!」
 眞一郎が走り寄り、10歩ほどの位置で止まった。
「眞一郎くん…」
 比呂美はその姿を見てハッとし、目を伏せた。石動純と一緒にいる所は、ど
うもあまり見られたくはなかったらしい。
「あのさ…」
 眞一郎が近づこうとした所で、比呂美が言った。
「何でもないから。4番はちょっと用事があって、伝えにきてくれただけで…」
 少し慌てたその言葉は、今の眞一郎の耳には言い訳めいて聞こえていた。

(4番…だと…?)
 態度には表さないが、石動純は甚大な精神的ショックを受けていた。
 4番である、4番。石動さんでも純くんでも、乃絵のお兄さんでもなく、4
番。いくらなんでもそれはないだろう。
 純は、有体に言ってよくモテた。言い寄って来る同年代の女の子には不自由
した事がなく、乃絵に抱いた禁断の想いと性欲を、それらを適度につまむ事で
発散してきたほどだ。
 そのせいで、『女なんてこんなもの』という屈折した、侮蔑のような感情を
育ててしまってもいた。彼にとって、大事にすべき女性は乃絵だけだった。他
の女性はどうでも良かったからだ。
 その自分に対して「4番」である。
 何度かデートもし、仮にも付き合ったとされる間柄だというのに。今までに
経験した事のない、酷い扱いであった。
(この女…)
 考えてみれば、湯浅比呂美は自分の事を一度たりとも名前で呼んだ事はなか
った。いつも『あなた』だった。もちろん親愛のこもった『あなた』ではない。
距離のある他人に対する呼び方でしかなかった。
 だが、湯浅比呂美に対して、彼は悪い感情は持っていなかった。それどころ
か、一種の敬意のようなものまで抱いていた。
 彼女は全てを見抜き、この自分に対して叱咤したのだ。「あなたが好きなの
は私じゃない」と。
 あの言葉は痛かった。全ての仮面が剥がされ、口説きの技術も無効化され、
純は自分に向き合う以外になくなった。その結果は玉砕だったが、少なくとも
積年の想いに決着はつけられた。
 だからこそ彼は、それを投げ掛けた湯浅比呂美に敬意を持ったのである。こ
れは同年代の女の子の中では初めての事だった。
 それゆえに、「4番」扱いが余計にショックだったのだ。彼女の中に、自分
が一片たりとも残っていないと感じさせる言葉であったから。

 ある意味、女の子から好意を寄せられるのに慣れきっていただけに、余計に
ショックが大きくなっている。それは驕りなのだが、その事を素直に認められ
るほど、彼は大人でもなかった。
 カチンと来た純は、密かな憤りをもって眞一郎を見た。
 この男には別の意味で複雑な感情を持っていた。(その大半が自分にも責任
のある事だという自覚はある上で)乃絵を弄んだ男に対して、単純な好意をも
てるはずがなかった。もっとも、乃絵と上手くいったらいったで、強烈な嫉妬
に身を焦がす事になっていたのだが。
 石動純は、2人の間に少しだけ毒を混ぜてみる事にした。無論、八つ当たり
と承知の上で。

「俺は湯浅比呂美と二人で話しにきたんだ。お前は呼んでない」
 純は、比呂美と眞一郎の間に体を割り込ませ、少しぶっきらぼうに言った。
 仲上眞一郎が、他の一般的な男子生徒のように自分にコンプレックスを感じ
ているならば、これは諍いの種になるかもしれない。さすがに二人が別れる事
まではないだろうが、ささやかな意趣返しにはなるだろう。
「邪魔だ」
 朋与と比呂美の顔が真っ青になった。

 眞一郎は純に気圧され、一歩退いた。
 比呂美を見る。彼女は青い顔で口を小さく開け、呆然としていた。
(逃げちゃだめだ…)
 眞一郎は、心の中で自分を叱咤した。ここで逃げたら、自分の意地と誇りが
砕けてしまう。比呂美への想いが嘘になってしまう。絶対にひいてはいけなか
った。
「比呂美は」
 眞一郎は小さく言った。
 気圧されている眞一郎を見て、石動純は、僅かにニヤリとした笑いを浮かべ
た。自分の勝ちだ。せいぜい、疑って、喧嘩でもしてくれ。
「比呂美は…」
 もう一度言う。
「なんだ?」
 純の顔には、見下ろしたような表情が表れていた。
 それは半ば自分に向けられていたものだった。こんな男に乃絵を託そうと考
えたとは…。そういう自嘲の笑みであった。
 つまり、彼は仲上眞一郎を知らなかったのだ。もちろん、眞一郎の中にある、
彼の芯についても。


 眞一郎の行動は予想を裏切った。彼は4番の目を正面から見据え、怒鳴った。
「比呂美は俺の女だ! 帰れッ!」


(おい、待てよ…)
 全てのコトが終わって初めて、石動純は仲上眞一郎という人間を『認める』
事になった。仲上眞一郎がこれほど芯のある男だったとは。
 これを乃絵に発揮してくれていたならば、何も言う事はなかったのに。だが、
それは済んだ事であり、もう戻らない。
 大失敗したせいで、この場所には、もはや自分の居場所はなかった。
「…わかった」
 石動純は、両手を降参の形で上げ、振り返らずに去って行った。
 妙な事をせずに普通に話していれば、これほど立場を失う事も無かっただろ
うと思うと、彼は自嘲を自分に向けざるを得ない。
 そしてこの事は、これから彼を襲う悲喜劇の序章にすぎなかった。


『比呂美は俺の女だ!』
 比呂美の頭のなかで、その言葉が何度も何度もこだましていた。それは今ま
でに彼から聞いた、最も激しい告白だった。胸がキュンとする。息が苦しい。
 時間がたつほどに、ドクン、ドクンと心臓が強く脈打ち、身体が熱くなって
くる。首筋から耳まで、真っ赤になっていく。
「比呂美…」
 眞一郎が比呂美に向かって歩を進めてきた。
「あの、そんな変な話じゃなくて…」
 実際、話の内容は単純な連絡事項に近かった。
 だが比呂美は、眞一郎が4番に何らかのコンプレックスを抱いている事に気
づいていた。だから、話している所をあまり見せたくなかったのだ。それだけ
だった。
 それなのに、何を思ったか4番が眞一郎を挑発して…。
 が、もうそんな事は頭から吹き飛んでいた。
 何か言わなきゃ、と思うのだが、逆に言葉が出ない。それは緊張のためでな
く、4番への配慮でももちろんなく、激しい鼓動のせいであり、完全に血が昇
ってしまった頭のせいだ。比呂美は焦った。
「あの…」
 眞一郎は、それ以上の言葉を待たず、比呂美を抱き締めた。
「ぁ…」
 吐息が漏れる。体中を何かがさざなみのように駆け抜けていく。いつもそう
だ。眞一郎に抱き締められると、なぜこんなに心地良いのだろう…。
「大丈夫か?」
 眞一郎は聞いた。
「うん…。ごめん…」
 涙が出てくる。まただ。
(私、泣き虫じゃないのに…)
 泣き虫じゃないはずなのに。眞一郎はいつもこうして自分を泣かす。こうし
て強く抱き締められると泣いてしまうのだ。
 恥ずかしかった。が、嬉しかった。激しい鼓動は止む気配もない。身体は熱
いままで、身体の芯が疼くようだ。でも、ずっとこうしていてほしかった。
 『比呂美は俺の女だ』か。
(うん、そうだよ…)
 比呂美は、心の中で眞一郎の叫びに返事をした。


 朋与は息を飲んでいた。身体を動かす事もできない。
 初めて見る眞一郎のこの態度に、気障な4番に、真っ赤になる比呂美に目を
瞠り、一種の感動まで覚えていた。これは…ドラマだ!
(すごい、仲上君ってこんな人だったんだ…)
 朋与が初めて見る眞一郎である。その眼光は強く、態度も、言葉も、「男」
そのものだった。
(これなら比呂美も惚れるよね…)
 普段の優柔不断な眞一郎とはまるで別人に思えた。だが、これはまぎれもな
い仲上眞一郎の一面である事を、朋与も理解している。
(いいなあ…)
 他人事であるはずなのに、一瞬だけ、眞一郎にポーっとなってしまった。
 さすがにその気持ちはすぐに消す。比呂美の横合いから手を出すつもりは全
くないし、何よりもこれは比呂美のものだ。比呂美のためだからこそ、眞一郎
は『男』になれるのだ。そんな事はすぐわかった。
(あたしにも、こんな人がみつかるといいな)
 朋与は、自分に誓った。絶対、良い恋愛をしてみせると。
 だが、見惚れながら、心の中でツッコミを入れざるをえない朋与だった。
(でもこの二人、いつまで抱き合ってるんだろうね…)

                 ◇

 朋与には囃し立てられ。神社の人々には散々冷やかされ。
 仕事が終わって二人が家に帰ると、居間では両親がそろって二人の帰りを待
っていた。まだ食事の支度はされていない。いつもなら母が厨房にいるはずの
時間だったのだが。
「ただいま…」
 なんだろう、と不思議に思いながら、眞一郎は自分の席についた。比呂美も
それにならう。
「お疲れさま。今日で終わりね」
「二人ともよくがんばったな」
 両親がねぎらいの言葉をかけた。その顔は明るかった。
 眞一郎と比呂美は安心し、お互いの顔を見合った。互いの眼が『良かった』
と語っていた。
 そうやって眼で語り合う二人の子供を、両親は微笑しながら見ている。もと
もと強かったはずの二人の絆には、この一ヶ月弱で奇麗な形ができてきていた。
 形のない関係が、形のある関係に。それはこの4人にとって、大切な変化だ
った。

「どうだ、家の外で働いた感想は」
 父であるヒロシが、まず声をかけた。
「色々と勉強になりました」
 比呂美の答えは事実だった。短期間のバイトではあったが、家にいるだけで
は知る事のできない、様々な経験ができたのだ。それだけでもプラスになった
と思う。
「良い経験になったわね」
 子供二人の顔には自分の労働を評価された自信が浮かんでいた。楽しいばか
りでない『労働』が、少しだけ二人を大人にしている。理恵子も喜んでいるよ
うだった。
「はい。…あの、おばさん」
「なに?」
「習っていた経理、役に立ちました」
 そう、良かった。と理恵子は言い、すました顔でお茶を飲んだ。
 おばさんらしいな、と比呂美は思う。決して誇る風ではない。
「いくらになったの?」
「ここまでのアルバイトと、今度の成人の日で、二人で18万円ほどになります」
「立派な額ね。二人の初めての共同作業よ」
 比呂美の頬がうっすらと色づく。二人でやった、という事が、彼女には何よ
り嬉しかったのだ。

 ところで、と父親は切り出した。
「お前達には黙っていたが、実はもう石動の家とは話がついていてな」
 さらりと出たヒロシの言葉は、眞一郎には驚くべきものだった。
「えっ?」
 思わず声が上がる。これは、どういう事だ?
「あの、それは私から」
 そこに比呂美が入った。
「おじさん、おばさん。私のかわりに弁償して下さって、ありがとうございま
した」
 比呂美は、深々と頭を下げた。

「あら。知っていたの?」
 これは逆に理恵子が驚いたようだ。
「今日、石動の息子さんに聞かされたんです」
「じゃあ、あいつはその話をしに?」
 比呂美は眞一郎の顔を見てうなずいた。
「あの事故の直後に、あちらの親御さんに会いに行ってな。迷惑をかけた事を
お詫びした。バイク代も全額払ってある」
「そんな…」
 つまり、自分たちがバイトを始めた頃には、すでに支払いは終わっていたと
いうことになる…。
「良くできた親御さんでな。最初は丁重に断られた。『未熟な息子の起こした
事故で、自業自得だ。むしろ大切な娘さんを夜中に連れ出して危険な目にあわ
せた』と、逆に謝られたよ」
 ヒロシは淡々と説明する。
「だが、仲上の名にかけて、最後は折れてもらった。あちらは、しかるべき時
にご子息に話すとおっしゃっていた。だから金銭的にはもう終わっているんだ」
 誇るでもなく。偉ぶるのでもなく。事務処理報告でもするような、ヒロシの
口調だった。

「石動の息子さんから、仲上家にお礼を伝えてほしいと」
 比呂美は、先に知っていたせいか、動揺してはいないようだった。
「わかった」
 ヒロシは伝えられた礼を受ける。
「立て替えて頂いたお金の残額については、改めて仲上家にお返しします」
 比呂美の言葉を聞いて、ヒロシは笑顔でうなずいた。
「その気持ちが、大事だ」

 そして、ヒロシと理恵子が目を交わす。
「比呂美ちゃん。あなたの気持ちは受け取りました。残りのお金は必要ないわ」
 理恵子が言った。
「でも、それでは十分に責任を果たしていない事に」
 さすがに比呂美が焦る。別に免除してもらいたいわけではない。
「今後はアルバイトの時間分、きちんと勉強しなさい。今は何万かのお金より、
学生としてすべき事に集中するほうが大切だわ」
「でも、これは元々私の問題です。仲上家に迷惑はかけてはいけないんです。
だから…」
 比呂美としては、石動家にも、そして仲上家にも、借りは作りたくないのだ。
「比呂美。娘が何か問題を起こしたならば、それは家族の問題だよ」
 ヒロシが遮った。
「いえ、私は…」
 自分は、この家の娘ではない。比呂美はそう考えている。
 ただでさえ世話になりっぱなしだというのに、このままでは頭が上がらなく
なってしまう…。
「お前のご両親が存命なら同じ事をしたはずだ。それが親というものだ。違う
か?」
「でも…」
 実は涙が出るほど嬉しい。でも、困るのだ。それでは…。
 仲上の両親が、いくら家族だと言ってくれても。自分は本当の家族ではない。
自分の家族は亡くなっているのだから。
 そこに眞一郎が口をはさんだ。
「なんで先に言ってくれなかったんだ。先に言ってくれていれば…」
 比呂美を働かせずに済んだし、働いていたとしても、4番のためという重さ
はなくなっていたのに。
 眞一郎の考えは、比呂美のシビアさとはまた違う。親を亡くした比呂美と違
い、そこはまだ16歳の少年である。両親への甘えがあり、比呂美の事しか見え
ていなかった。

「お前達がこの件をどう解決するのか、見ていたんだ」
 ヒロシが言った。その目は真剣だった。
「世間一般的には、運転した男の責任を重く見るかもしれない。半々と見るか
もしれない。責任の押し付け合いをするでしょうね。でも、うちは仲上なのよ」
 夫の言葉を受け、理恵子が続ける。
「自分のした事の責任は、自分から取るのが仲上家です。貴方達が仲上酒造を
継ぐどうかはわからない。それでも、責任から逃げる人間に仲上の姓を名乗ら
せるわけにはいかない。だから、二人がどうするかを見ていたの」
 バイク事故の処理は済ませた上で。子供達を計り、教えるために。
「それは比呂美にだけじゃない。お前に対してもだ。わかるな、眞一郎」
 眞一郎は黙った。甘い自分の考えを恥じる。比呂美が働いて返そうと考えた
事は、正しかったのだ。
(責任か…)
 よく考えてみれば、自分が事故でも起こしたら、両親は必死になって相手方
に謝りに行くだろう。弁償だってするだろう。そういう親であり、そういう家
なのだった。それと同じ事を比呂美にもした。それだけといえばそれだけだ。
(本当に、比呂美を家族として扱ってくれているんだな…)
 それは嬉しいが、もし事故が自分だったとして、比呂美と同じように働こう
としただろうか…。
 眞一郎は自分の甘さと心得の悪さを認めざるを得なかった。

「比呂美ちゃん」
 理恵子は比呂美をまっすぐに見た。
「はい…」
「あなたは誰にも頼らず、大きな負債を自分の力で解決しようとしたわね。合
格よ」
 口元に僅かな笑みが浮かんでいる。
「おばさん…。それって」
「試してごめんなさいね。アルバイトを言い出してくれて良かった。あなたに
は、仲上の姓を名乗る資格があるわ」
「おばさん…」
 比呂美は理解していた。なぜあの時、眞一郎をくれると言ってくれたのか。
許してくれたのか。それは、自分が働いて責任を取る姿勢を見せていた事に応
えての事だったのだ。
 そうでなければ、甘えようとしていたなら、わからない。だからこれは優し
さであり、厳しさだ。まるで本当の親のような。
「眞一郎も、よく比呂美を助けて働いたな。それでいい」
 さきほど厳しくは言ったが、ヒロシの眼差しは柔らかかった。
「父さん、俺は…」
 そういう話なら、俺、失格しかけていたじゃないか。
「なんだ?」
「いや…」
 父は気付いている。それでも、褒めてくれていた。結果として共に働いたか
らだろう。やはり少し悔しかった。
(次は必ず)
 眞一郎は、自分の心を叱咤した。悔しいままで終わってはならなかった。

「弁償をしておいたのにはもう一つ理由があってな。こんな事で比呂美が石動
の家に借りを作り、事故をずっと引きずってしまうのは良くないだろう」
 次の問題の根を断ち切っておいた、という事だった。
「あ…」
 比呂美が両手で口元を押さえた。
 ただ、立て替えてくれたわけではない。
 仲上の両親は、なぜ比呂美がバイトをし、なぜ全額払おうとするか。どこで
悩むかを理解した上で、それをしてくれていたのだ。
「なんで、そこまで…」
「比呂美。大切な人間を見捨てない。けっして見捨てない。それが仲上だ。ま
してお前はうちの子なんだよ」
 ヒロシの言葉は、比呂美の母が遠い昔にヒロシから贈られた言葉だった。そ
の誓いは今でもヒロシの中で生きている。
 仲上家としての考え方。仲上家としての誇り。生き方。つまりはどういう人
間であるべきか、その支柱。これは生きる姿勢の問題なのだ。
 古臭い事かもしれないが、そういったものが失われつつある今だからこそ、
大切にしなければならないものだと、この両親は考えていた。
「でも…」
 渋る比呂美に、理恵子が提案する。
「なら、うちの手伝いをもっとしてちょうだい。経理から料理まで、遠慮なく
こき使うわ。それから眞ちゃんの勉強をこれからもきちんと見てあげて。時給
で計算したら、負債どころかお釣りが来るでしょう。それでどう?」
「はい…」
 あまりの好意に、比呂美は涙が出そうだった。
(もう、好意どころじゃない…)
 『嫁』としての扱いをしてくれているということなのだから。

「ところで、二人とも」
 ヒロシがチラっと妻の方に視線を走らせる。
「神社の方から連絡がありました。仕事中に痴話喧嘩して、抱き合ってたんで
すって?」
 理恵子が引き継ぎ、おかしそうに言う。
(げっ!)
 眞一郎が固まる。あの神社で何かあれば、両親に話が行くのは当然だった。
その事を今まで完全に忘れていたのだ。
 さすがに声が出ない。
「ごめんなさい、私が…」
 比呂美が消え入りそうな声で言った。
「気持ちはわかるが、そういう事は人目のないところでやるように」
 特に怒った風でもなく、やはり淡々とヒロシが言う。
 だが、真の爆弾はこの後だった。
「眞一郎」
「…はい」
 すっかり意気消沈している眞一郎である。
「きちんと婚約していない女性との外泊は、絶対に認めんからな。覚えておけ」
 この晩、一番厳しく響いた、父親の言葉だった。

(ああ、比呂美とセックスとかするな、って事か…)
 さすがに神社のアレを出されての上では、そういわれるのは仕方ない。あま
りにタイミングが悪かった。
 性急にコトを運ぼうとは考えてはいないし、顔に出すわけにもいかないが、
さすがにガックリと来る。
 比呂美は家との繋がりが深い。比呂美の立場がただの被保護者である以上、
両親の不興を買ったらタダでは済まないのが現実である。
 隠れて何かをして、見つかった時のリスクが、そこらの女の子とは比べ物に
ならないのだ。こんな事を言われては、諦めるか、完全に家を出る以外になか
った。
「今ここで婚約するって言ったらどうするんだよ…」
 さすがに反論するわけにもいかず、ボヤくしかない眞一郎だった。
「それなら仕方がないな」
 ヒロシの言葉はそれだった。

(はぁ? なんだそれ)
 そう心の中で突っ込んだ後、眞一郎は不思議な居心地の悪さを感じた。父、
母、比呂美、3人の視線が集中している。真剣な眼差しだった。
 なんだよ…、と考えかけて、彼はその理由に気付いた。
(ちょっと待て、そういう事か?)

「眞一郎くん…」
 しばらくの沈黙の後、比呂美が呼びかけてきた。
 緊張で、彼女の顔も少し強ばっている。
「比呂美…。いいのか?」
「はい」
 眞一郎の中にはためらいがあった。
 その言葉…。比呂美へのプロポーズ。その誓いは、すでに二人だけのときに
は済ませた事だ。それでも、その事を両親に言うのには、少なからず勇気が要
った。
(言うしか、ないよな)
 両親の前で『婚約』してしまえば、比呂美の立場はただの被保護者ではなく
なる。例えば弁償話にしても、将来の嫁であるならば、遠慮する事もない。比
呂美に正式なバックを与えてやれるのだ。
 眞一郎は大きく息を吐いて、吸い、深呼吸を済ませる。
 彼は二人の両親に向かって、全身の勇気を総動員して言った。
「おやじ、おふくろ。比呂美との結婚を前提とした交際を認めてくれ」

「…駄目だ」
 数秒の沈黙の後、ヒロシが答えた。
「おい!」
 眞一郎は転げそうになった。ここまで言わせておいて、それはないだろう…。
「今のお前に、大事な比呂美はやれん。頼りなさすぎる。婚約だけは認めてや
るが、せいぜい仮免という所だな」
 ヒロシは大真面目な顔で言う。声は冷静そのもの。だが、目だけは笑ってい
た。
 理恵子と比呂美は吹き出した。
「娘の親とは、こういうものだろう?」
 3人は、やがて大きく笑い出した。眞一郎は安堵で力が抜けている。
(親父…。)
 自分に力がないのは良くわかっている。その上で父は『婚約』を認めてくれ
た。だからこそ、本当に力をつけて見せなくてはならない。まったく、食えな
い父親だった。
 比呂美は目尻に涙を貯めて笑っていた。眞一郎は本当に良かったと思う。考
えてみれば、両親の前でこんな無防備な笑顔を見せる比呂美は初めてだ。
 色々とまだ、苦労しなければならない事は多い。だが眞一郎は、比呂美の笑
顔を、ついに取り戻す事ができたのだった。

「さあ、ご飯にしましょう。皆、お腹すいてるでしょう。今日はお赤飯も用意
してあるわよ」
 理恵子は手を叩いた。ごはん、ごはんとせきたてる。
「なんで赤飯なんか…」
 今日はなんだか、散々な目にあっている眞一郎が言った。
「あら。あなたたちが婚約した、記念の日でしょう」
 理恵子の口調は、さも当然といわんばかりだ。
「だから、なんで赤飯が用意してあるんだよ!」
「わかっていたから。何かおかしい?」
 比呂美の将来の義母は微笑んだ。
「…。」
(勘弁してくれ…)
 父といい、母といい。地面にめりこみそうになる眞一郎だった。

「比呂美ちゃん、支度手伝って」
「はい」
 女性二人は、厨房に向かった。ヒロシは脇にあった新聞を手に取る。
 今までと同じに見えるが、これから仲上家の新しい歴史が始まる。
 その中で、眞一郎は一人、頭を抱えていた。
 未熟な彼にとって、両親という壁はまだまだ大きい。特に、父親という壁が、
今までになく大きく見えてきていた。

「眞一郎」
「なんだよ…」
 父親は、この日一番大事な事を、新聞から目を上げずに伝えた。
「比呂美を大事にするんだぞ」





『比呂美のバイト』長々と付き合ってくださって、ありがとうございました。

せっかく出てきた4番は、一撃で蹴散らされ。
弁償は最初から終わっていたという…。

ひどいオチですがこれは当初の構想通りです。
ある程度成長した眞一郎(2や12での争いが向かない男→13で一喝)。
2でバイトを言い出した時の親父の反応(実は処理済みだったから)。
伏線はあったので、たぶんわかっていた人はいるかと。

父親であるヒロシは壁役として、眞一郎を鍛えようとしはじめています。
TV本編よりは、直接、眞一郎と対峙する傾向が出てきていますね。

前から「仲上家」、そのプライドについて書きたいと思っていました。
が、少し力不足ではあったようです。少し疲れたかな。
そこは少し休みを頂いて、『バイト』が頭から抜けてから
第三者視点で全体に手を入れようかなと思っています。
(ちょっと疲れましたので…)

比呂美とママンの和解
比呂美と眞一郎の『婚約』レベルでの公認
4番との完全精算(事故の事)
というわけで、完全に障害がなくなりました。もう二人は自由です。


あと1回、エピローグが存在はします。一応。
13ラストがなんだか綺麗になったので、ここで終わらせてもいいのですが…。

とりあえず、無心で書いてから考えてみます。



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最終更新:2008年05月30日 01:29
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