true MAMAN 最終章・私の、お母さん~第九幕~


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 再び、四日目の夜。
 朋与はルミらに付き添われて家に帰ると、そのまままっすぐに自室に篭り、中から鍵をか
けてベッドに臥せっていた。
 部屋は妹と共有であり、本来なら鍵をかけるのはルール違反なのだが、それを破ってでも、
独りになりたかった。
 眞一郎を殴った手が痛む。
 朋与にしても、眞一郎が比呂美の為に何もしていなかったとは思っていない。停学騒ぎの
際に比呂美を侮辱した男子と取っ組み合いの喧嘩をした事も知っているし、家庭の問題が眞
一郎の母親との関係であるならば、眞一郎がでしゃばれば事態が悪化するだけだったろう事
も察している。
 それでも、眞一郎には強く、比呂美を任せられる男であって欲しかった。
 比呂美はそれほど強い娘ではない。両親を失った比呂美は、辛い現実から守ってくれる存
在も、現実からの逃げ場所も必要としていた。
 朋与は自分が守る存在になれない事は知っていた。学校はともかく、家の中の事は朋与の
手は届かない。だから、自分は避難所になろうと決めた。自分と一緒にいる間だけでも、家
の中の事や、もういない両親の事を忘れられる様にしてやろうと決意した。
 それは想像以上に辛い日々だった。
 比呂美の表情が曇った時も、それを気にかけたそぶりを見せてはならない。比呂美は朋与
が自分の変化に気付いているとは思っていない。だからこそ家庭の事を忘れ、昔のままの比
呂美にに戻る事が出来るのだ。もし朋与が比呂美を心配しているとわかれば、比呂美は朋与
の前でも家での悩みを考えてしまう。比呂美に一時でも嫌な事を忘れてもらう為には、自分
が思い出させるような事は決して口にしてはならない。
 だからこそ、自分の手が届かない所では、眞一郎が比呂美の力になって欲しかったのだ。
朋与から見て、眞一郎はいつも比呂美の事を過大評価し、「自分がいなくても大丈夫」とた
かを括っているようにしか見えなかったのである。
 ドアをノックする音で、朋与は現実に引き戻された。
「朋与、お客さんよ。仲上さんの息子さんが、話をしたいって」
「・・・・出たくない」
「でも、どうしても会って話をしたいって。聞くだけでもしてあげたら?」
 朋与はドアを開け、階段を下りた。
 玄関には眞一郎が一人で立っていた。
「すまない、こんな時間に」
「・・・・いえ」
 朋与も渋々挨拶を返す。そして眞一郎の、まだ黒ずんだ唇の端を見つめ、再び目を逸らす。
「・・・・腫れちゃったわね」
「ああ」
「・・・・・・・・謝らないわよ」
「いいよ。おかげで眼が覚めた」
 朋与は眞一郎の目を正面から見据える。眞一郎はたじろぐことなくその視線を受け止めた。
「何をするか、決めたの?」
「決まった」
「それで、もう比呂美は泣かないで済む?」
「わからない」
 眞一郎は正直に答えた。比呂美の為に心を痛め、涙を流してくれた親友に対し、眞一郎は
比呂美に対するのと同じ誠実さで相対していた。
「俺の決断は、かなり虫のいい話だ。世間じゃ、非難する奴も出てくるだろう。もしかした
ら、比呂美はそのことを悲しむかもしれない。でも、他人の目からは俺が守ってやれる。今
は比呂美の目から比呂美を守る事が必要なんだ。その為なら、後ろ指くらい好きなだけ指さ
せてやる」
 眞一郎は目を逸らさない。身体も微動だにせず、言葉に気負いもない。覚悟を決めた人の
あるべき姿だった。
 朋与はなおも暫らくは眞一郎を正視していた。と、突然破顔し、声を上げて笑い出した。
「そうかそうか、よしよし。それならあの娘の事は仲上君に任せちゃおう。他人の事は気に
しない!それならあたしだって、野伏君だってついててやるから、あなたは比呂美を守るこ
とだけ考えてなさい」
 ここ数日の朋与を知らなければ、いつも通り、と思うであろう。逆に知っている者ならば、やっと立ち直った、と胸を撫で下ろすであろう。そこには常に笑顔を絶やさない、比呂
美の相棒としての朋与がいた。
「ああ、頼りにさせてもらうよ」
「そうと決まれば、さっさとあんたの女房と未来の子供を安心させてきなさい。あたしより
そっちが先でしょうよ」
「黒部さんにも会っておきたかったんだ。心配かけたお詫びと、目を覚まさせてくれたお礼
を言いたくて」
「・・・・馬鹿」
 朋与は苦笑して、病院へ向かう眞一郎を見送った。



 三代吉と別れた眞一郎は、家に帰ると、そのまま酒造所に足を向けた。
「父さん、話、聞いて欲しいんだ」
 ひろしは何も言わずに眞一郎を見、近くにいた従業員に指示を出すと、眞一郎と共に家に
戻った。
「母さんは?」
「比呂美の所だろう」
「そう・・・・」
 眞一郎としては両親が揃ったところで話をしたかったのである。戻ってくるのを待つべき
だろうか?
「今後の事だな?」
 ひろしが訊いてきた。ようやくか、と言われたように思った。
「う、うん。だから、母さんも一緒の方が――」
「母さんなら心配するな。俺と考えは同じだ。後で俺から伝えればいい」
 ひろしはそう断言した。
 眞一郎はそれでも暫らく迷っている様子だったが、ついに意を決し、
「そ、そう。わかりました。それでは」
 そう言うと、眞一郎は座布団を外し、畳の上に正座をした。
 ひろしも居住まいを正す。
「――俺、比呂美と結婚しようと思ってます」
 眞一郎は一語一語はっきりと口にした。
「俺は比呂美を真剣に愛しています。今、このような事になったのは、俺が軽率だったせい
です。比呂美に責任はありません。そして、結果は軽率なものであっても、決していい加減
な気持ちで比呂美を愛したわけではありません。比呂美も、お腹の子も、俺にとってはかけ
がえのない人です。これから一生、俺は彼女達と一緒に生きていきます」
 一度言葉を切る。ひろしは黙ったまま、次の言葉を待っている。
「けど、俺は絵本作家になる夢も、同じように真剣です」
 俺は自分勝手な事を言おうとしている。だが、自分勝手ではあっても、無責任に言ってい
るわけではない事を、父親にわかってもらわねばならない。
「ずっとその夢を追ってきました。自分の才能に自信がある、などと言うつもりはありませ
んが、才能がないと見切りをつけられるほど、思い知らされてもいません。技術的にもまだ
足りない点がたくさんあって、まだ、勉強を続けたいです。
「それに、俺は、比呂美達にも胸を張っていて欲しいんです。俺が今、絵本を描く事をやめ
たら、自分のせいでやめたのだと思ってしまいます。何年かしてまた俺が筆を持つことが出
来たとしても、それまでの間、ずっとあいつはそうやって自分の責任を感じるのだと思いま
す。比呂美にはそんな風に思ってもらいたくないんです」
 もどかしい。自分の思っている事の半分も伝わってないのではないかという焦りが湧き上
がる。父は無言で、目を閉じて聞いている。
「・・・・自分勝手なお願いである事は承知でお願いします。俺の大学進学を許して下さい。そ
して、俺が大学に行っている間、比呂美と、俺達の子供をここで預かってください」
 ついに言ってしまった。結婚はするが、養う事が出来ない、代わりに食わせてやって欲し
いと、ありえないほどの勝手な頼みを口にしてしまった。
「これは全て俺のわがままです。学費は自分でどうにかします。でも、俺じゃどうやっても、
大学行きながら女房と子供を養うほど稼ぐ事が出来ないんです。後で時間がかかっても必ず
返します。だから、だから俺の最後のわがままを聞いてください!」
 最後は頭を深々と下げ、ほとんど土下座のようになった。
 ひろしはなおも目を閉じたまま、じっと黙っていた。眞一郎が息苦しく感じるほどの沈黙
が続き、眞一郎がまだ何か言うべきかを考え始めた頃、ようやくひろしが口を開いた。
「・・・・・・・・確かに、虫のいい話だな」
 眞一郎の肩がピクリと動く。
「結婚するが進学もしたい、女房子供は養えない、自分で稼いだ分は学費に回す。常識でそ
れが世間に通ると思うのか」
 今度は眞一郎が沈黙する番だった。ただし眞一郎の場合、何も反論できない為である。
「世の中のほとんどの人は、大事なものを全て持ち運ぶ事が出来ずに、一つずつ置き捨てて
いく。だがお前は、自分の家族を持つという時に、まだ不確かな自分の夢を追おうとしてい
る。随分、身勝手な話じゃないか」
「・・・・はい」
「だが、今の話を聞いて、俺が何より許せないのは――」
 ひろしはここで一度言葉を切った。怒鳴りたい衝動を抑えているかのようだった。
「お前が、俺達はお前を応援しない、と思っていることだ」
 眞一郎は一瞬、彼の父親が何を言っているのか理解できなかった。
「俺にはお前の才能などわからん。大学に4年通ったからといって、それがお前の夢に役に
立つのかも知らん。もっと言ってしまえば、母さんは今でも、お前が酒造業を継がないと言っている事を、よくは思っていない。だが、うちは、金だけはそれなりに持っている。お
前達を大学に通わせ、食わせていくには十分な程度にな。赤ん坊の分の出費が増えるだけな
んだ。出費という意味ではな」
 ひろしは再び言葉を切った。眞一郎を正面から見据えるが、眞一郎は初めて、ひろしが
笑っているように見えた。
「・・・・三つ、約束しろ」
 ひろしは指を立てた。
「一つ、浪人は認めない。もう後は前期と後期しか残っていないが、必ずそこで受かれ。
「二つ、学費はこっちで出してやる。初めからその予定だからな。その代わり、赤ん坊のミ
ルク代や、おむつ代はお前が稼げ。子供を養うのは親の義務だ。
「三つ、これが一番大事な事だ」
 ひろしは殊更に強調するように間を置いた。
「比呂美を不安にさせるな。お前が愛しているのは比呂美だけだという事を、いつも比呂美
が感じていられるようにするんだ」
 ここで初めて、ひろしがはっきりと笑みを浮かべた。不器用な、笑い方を思い出しながら
のような笑み。
「眞一郎、知っているか。『おっと』とは、良い人と書くことがあるんだぞ」
 理恵子の良人は、また笑顔を消した。代わって、詫びるような、物悲しげな願貌となった。
「俺は、少なくともあれにとって良い人ではなかった。お前の母さんは、いつも俺が離れて
いく事を心配していた。母さんがお前を溺愛したのも、この家で本当に裏切らないのが、お
前しかいないと思ったからだ」
 ひろしの母親は、結婚当初は理恵子を無視していた。徹底的に無視することで、その存在
そのものを否定していた。彼の父親は意見することもあったが、ひろしは自分が理恵子をか
ばう事で、更に母親から不興を買ってはいけないと、沈黙を守っていた。
 そんな日々が続いた後、母親が彼に言った言葉は、今でも忘れられない。
『お前は本当にあの子を愛しているのか。何故私に気を遣ってあの子には遣ってやらない』
 ショックだった。理恵子を敵視する人物からすら、理恵子の味方と見做されていない事に
衝撃を覚えた。理恵子が比呂美の父親について疑ったのも、眞一郎と親しくなる事を過剰な
までに嫌ったのも、全てはそこに行き着いている事を、ひろしは知っていた。
「お前はそうはなるな。比呂美の良人になれ。比呂美の誇りになれ。それが俺達からの、結
婚の条件だ」
「・・・・わかりました」
 眞一郎は答えた。自分の理不尽な願いを聞いてくれた事、自分や比呂美の事を真剣に考え
ていてくれた事、そして、何よりも、常に堂々として、何恥じることなく生きているように
見えた彼の父親が、彼と同じように悩み、悔いる人生を歩んでいる事がわかった事。その一
つ一つが、彼に前に進む力を与えていた。
「約束します。必ず守ります」
「・・・・そうか」
 ひろしはまた、微笑を浮かべた。
「なら、早く伝えてやれ。誰よりもその言葉を欲しがっている人に」



 ひろしと話した後、眞一郎はすぐには出かけなかった。
 自室に戻り、スケッチブックを開いて、描き込みを始めた。
 三時間後、眞一郎は満足げにスケッチブックを閉じ、カバンに入れた。
 そして、自分の目を覚ましてくれた恩人の家に寄ってから、病院に向かった。


                                         了


ノート
この眞一郎の決断は、皆さん色々な意見を持つと思います。
ひろしが指摘する通り、極めて虫のいい、甘い考えです。自分の夢は10数年後回しにして、、自分の家族の為に生きる覚悟を決める話に変更するべきではと、随分悩み
ました。
これで行こうと決めたのは、映画「最高の人生の見つけ方」で、カーター(モーガン・フリーマン)の妻、ヴァージニア役を演じたビバリー・トッドの言葉です。

「ヴァージニアは、自分のせいでカーターが夢を叶えられなかったと思われる事に怯えているの」

カーターは貧しいながらも優秀で、大学で博士号を取り、研究者として生きたいとの希望を持っていましたが、21歳の時にヴァージニアが妊娠し、自動車整備工となって
45年間、家族の為に働いてきました。彼は間違いなく幸せでしたが、ヴァージニアはずっとそのことを負い目に感じているのだと、演者は考えて芝居をしています。
驚くほどに僕の書く比呂美の心理状態と合致していました。そして僕は、比呂美にはそんな思いをさせたくないと思いました。
またこの映画のもう一方の主役、ジャック・ニコルソン演じるエドワードの台詞には、こんなものがあります。

「俺は金だけはたっぷりあるんだ」

確かに、眞一郎のとった手段は、親の金をアテにしていると非難されても仕方のないものです。しかしながら、金で解決できる問題を、解決できる財力を持ちながら、それ
はアンフェアだからと金を使わないというのは、むしろ傲慢というべきものです。最初に眞一郎にこの道を指し示した三代吉は、まさにそのように考えてのアドバイスだった
のです(第七幕を書いた後も、上記のような逡巡は何度も繰り返したのですが)
ともあれ、トッドの言葉で、僕は当初の構想どおりのこの展開で進める覚悟が決まりました。眞一郎はヘタレなのではありません。比呂美の為に、使うべきもの、捨てるべき
ものをきちんと選んだ、立派な男です。彼は、批判される事を承知で、男としての面子を捨てる覚悟を持ったのです。

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