ファーストキス-序


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「トゥルー・ティアーズ・アフター ~ファースト・キス~」
 true tears after ―the first kiss―







――『目次』――

 はじめに
 前作あらすじ
 予告文
 序幕  『大事な話があるの』(石動乃絵)
 第一幕 『嫌われるかもね』(黒部朋与)
 第二幕 『気をつけるのよ』(仲上理恵子)
 第三幕 『キスの、呪いか?』(仲上眞一郎)
 第四幕 『わたしを、おもちゃにしないで』(湯浅比呂美)
 第五幕 『ちょっと用があって』(仲上眞一郎)
 第六幕 『ひとりにしといてくれ』(仲上眞一郎)
 第七幕 『やっぱり、こわいんだと思うの』(湯浅比呂美)
 幕間  『ほら、ここにいるよ』(男の子)
 第八幕 『勘違いしないで』(石動乃絵)
 第九幕 『それだけでいいの』(安藤愛子)
 第十幕 『邪魔されたくないときもある』(仲上眞一郎)
 第十一幕『なにトキめいてんだろう』(湯浅比呂美)
 第十二幕『そんなの関係ないよ……』(湯浅比呂美)
 第十三幕『もっと、もっと、翼をひろげて』(石動乃絵)
 第十四幕『最初に、見せたかったんだ』(仲上眞一郎)
 第十五幕『お邪魔します』(湯浅比呂美)
 終幕  『帰れなくなりそう……』(仲上眞一郎)
 あとがき


――『はじめに』――

※※※ 18歳未満の方は、お読みにならないでください ※※※

 このテキストファイルをWordに読み込み、フォントの大きさを12、A4サイズの用
紙を横にして、縦書き40文字×40行になるように設定すると文庫本感覚で読むことが
できます。


――『前作あらすじ』――

「トゥルー・ティアーズ・アフター ~春雷~」
 true tears after ―rumble in their hearts―

 湯浅比呂美の誕生日は、まだ仲上家で祝われたことがなかった――それに、眞一郎の誕
生日も祝われなくなっていた――。比呂美の両親が亡くなってから、まだ二年と経ってい
ない。比呂美の目には、『家族』というものがどのように映るのだろうか。
 眞一郎が『飛ぶ』ことのできた麦端祭りから約二ヶ月。長い雪の季節はとっくに終わり、
桜の開花のピークも過ぎようとしていた頃のお話――。
 眞一郎が乃絵との約束を果たした後、眞一郎と比呂美は交際をスタートさせたが、どこ
かぎこちない関係のまま高校二年生になった。
 ふたりの心には、『しこり』があったのだ。
 そんなふたりの関係を見抜いた母・理恵子は、今年の眞一郎の誕生日を仲上家で祝うと
突然言い出した。ふたりきりで密やかに祝うつもりだったふたりは、残念な気持ちになっ
たが、同時に理恵子の優しさを感じ、その提案に賛同した。
 そして、四月十六日――眞一郎の十七歳の誕生日。
 小さなデコレーション・ケーキが食卓に置かれた以外は、普段の夕食とあまり変わらな
い質素なお誕生会だったが、理恵子の粋な計らいがふたりを待っていた。ケーキには、可
愛らしいローソクが三本だけ。その意味を理恵子から聞いたふたりは、心を震わした。
 一つは、眞一郎の、十七歳のお祝い。
 一つは、眞一郎の、十六歳のお祝い。
 一つは、比呂美の、十六歳のお祝い。
 つまり、去年のふたりの誕生日も一緒に祝おうということだった。
 だが、比呂美が眞一郎へのプレゼントに「ある物」を忍ばせていたことで、仲上家に暗
雲が立ちこめることになった。
 そのある物とは、比呂美が一人暮らしをしているアパートの『合鍵』で、すぐに理恵子
に見つかってしまったのだ。
 母親としては、当然見過ごすことのできない比呂美の『行い』だった。心を鬼にする理
恵子。その心は空へ伝わり雷鳴を轟かせた。
 この合鍵を巡って、眞一郎、比呂美、理恵子のそれぞれ思いが回り出した。
 雷が激しく鳴る放課後。眞一郎と比呂美は、ふたりきりの体育館でフリースローゲーム
をすることになったが、比呂美から伝えられたゲームのルールに眞一郎は眉をひそめた。
 シュートが成功するごとに、『お願い』ができるというのだ。
 比呂美の真意を量りかねながらも、そのゲームに挑む眞一郎。そして、眞一郎は、たっ
た一つだけその権利を獲得した。
「戻ってこないか? 仲上家に」
 眞一郎の『お願い』は、比呂美に仲上家へ帰ってきてほしいというものだったが、比呂
美は、それを固く拒否した。眞一郎は、困惑した。
 比呂美にその理由を訊きたくても訊けない――そのことが、眞一郎の心の『しこり』だ
った。
 訊いてはいけないことを訊いてしまったと後悔の念に駆られた眞一郎は、比呂美にキス
をしてその場をゴマカしたが、比呂美は、眞一郎が自分に対して無理をしていることを思
い知らされたのだった――キスを重ねても、いまひとつ眞一郎をそばに感じない。眞一郎
はまだ、石動乃絵に向けていたような笑顔を自分には見せてくれないと――。
 そのゲームの後、ふたりは自分らの関係について省みて、これからのことを考えていた
矢先、理恵子に合鍵のことを問いただされた。
 打ち解けていても肝心なところで口を閉ざしてしまう比呂美――理恵子の追及を受けた
比呂美は、泣き出してしまった。合鍵を渡して眞一郎を誘惑しようとしたことは、親とし
て見過ごせない『行い』だったが、理恵子の本当の気がかりは、比呂美のそういうところ
にあった。
 しかし、ずっと「本音」を言えずに苦しんでいた比呂美の心の支えは眞一郎であること
を、理恵子はすでに理解していた。同じように考えていた父・ヒロシも、ふたりの気持ち
を信じ、ふたりの気が済むようにしようとしたが、比呂美は、理恵子たちの自分への愛情
に気付き、ヒロシに合鍵を預けるべきだったと反省した。
 合鍵が収まるところに収まり、これで一見落着したようだったが、眞一郎と比呂美の心
の『しこり』はまだ残ったままだった。
 比呂美を送るアパートへの帰り道、比呂美は、いまだに孤独感に苛まれ、悪夢を見るこ
とがあると眞一郎に告白した。が、その恐怖に震える比呂美を何とか救い出したいという
気持ちが、眞一郎の心の底で眠っていた欲心に火を点けてしまった。
 比呂美の部屋に入るなり、比呂美を押し倒す眞一郎。比呂美を傷つけない、と強く思っ
てきた眞一郎は、その気持ちとは裏腹に比呂美の体を激しく求めたのだ。女なら普通、こ
の乱暴な行為に恐怖するはずだが、比呂美は、眞一郎の本当の感情を見たいという思いか
ら抵抗を止め、眞一郎に身を委ねた。
 だが眞一郎のそれは、今までの抑制の『たが』が外れるという単なる若さゆえの暴走だ
った。こんな形で体を繋げては、眞一郎との間に深い心の溝ができてしまうと思った比呂
美は、一転して必死に抵抗。眞一郎は、なんとか正気を取り戻したが、自分の暴走に恐怖
し、比呂美の誘いをほったらかしにして、その場から逃げてしまったのだ。
 大切にしなくてはいけない存在を傷つけようとしたことに落ち込む眞一郎。
 比呂美に対していつも優しく、一生懸命な眞一郎――そんな眞一郎に、自分に乱暴を働
いたことを許すと比呂美は言葉で伝えたが、眞一郎は立ち直りを見せないままそのことを
引きずった。早く断ち切らないといけないと思った比呂美は、自分の女としての欲望を曝
け出すことによって、眞一郎の目を開かせようと考えた。
 そして、あの砂浜で対峙するふたり。
 激しい口喧嘩の末、『比呂美を大切にする』意味を履き違えていた眞一郎は、比呂美に
とって何が苦痛で、何が幸せと感じることなのかをようやくを知るのだった。
 やっと心の呪縛を取り払われた眞一郎は、比呂美に面と向かって「裸が見たい」と男の
本心を口にした。その後、ふたりは、傷つけることを恐れずに気持ちをぶつけ合っていこ
うと誓い、体を重ねた。
 そして、比呂美は、仲上家で再び暮らすことを決断し、過去の悲しみの中にいた自分で
はなく、今の自分を愛してもらうために、ずっと伸ばしていた髪を切った。
 仲上家の食卓をまた四人で囲んだ。いつも無口な食事の時間でも、それぞれへの愛情は
確かにそこにあった。
 新緑の五月。ふたりの笑顔が学校へつづく坂道を駆け上がるのを、透き通った青空が見
守っていた。
 しかし、ふたりの本当の戦いは、このあと待ち受けていたのだった……。


――『予告文』――

 愛子と眞一郎は「ファースト・キス」を隠したまま、
 それぞれの恋愛模様を描き続けていた。
 ある日、乃絵から呼び出された眞一郎は、
 心揺さぶられる事実を知ることになる。
 いずれ直面するはずの試練に、悶える眞一郎。
 二人の居場所を侵されたと、苛立つ比呂美。
 まだまだ大人になりきれない二人に、理恵子は……
「あなた、カノジョ、失格よ」
 今だからこそ、眞一郎は、比呂美にラブレターを出す。

「トゥルー・ティアーズ・アフター ~ファースト・キス~」

「春雷」続編。本編のその後を描いた、こころ温まる物語。
……どうしても、最初に、見せたかったんだ……









――序幕 『大事な話があるの』――

「帰りに……眞一郎くんに会ったのよ。背が伸びていて、最初だれだかわかんなかった。
いつ以来かしら……」
 母は、買い物袋から食材を取り出し、まるでおもちゃを片付けるみたいに冷蔵へ放り込
みながら楽しそうに話した。その姿を、比呂美は恋敵を見るような目で見下ろしていた。
「小学生の頃は、比呂美とあんまり背が変わんなかったけど……やっぱり男の子よねえ~
どんどん逞しくなってく……。母さんが、あなただったら、絶対、恋しちゃうな~。……
顔の形は、お父さん似、目とか鼻とかは、理恵ちゃんに似。ああいう子って母性本能くす
ぐられちゃうのよね、うふふふ……聞いてるの?」
 そういって、母は、顔をくりっと比呂美に向けると、比呂美もくりっと顔を背けた。
「べつに、どうだっていい」
 比呂美は、ぶっきらぼうに答えると、母は苦笑いした。
「まったく、かわいくないんだから」
 顔を戻しながら呆れたようにいった母は、食材をしまい終えると立ち上がり、鍋に水を
入れて火にかけた。
 それから、コーヒーを淹れだした。
「眞一郎くん、あなたのこと……なんていってたか聞きたくない?」
「え?」
 母の突然の問いかけに、比呂美は、ひとつ大きく瞬きをした。母は、そんな比呂美の僅
かな反応を見逃さなかった。そして、上目遣いで比呂美を見て、取調室のベテラン刑事の
ように、にやっと口元を動かした。
「べつに……」
「べつにっていうの止めなさい。癖になるわよ」
「…………」
 比呂美は、むっとして黙りこくる。あまりにもふてくされた比呂美の態度に、母は少し
心配になった。
「あなたたち、学校じゃ話さないの?」
「ほとんど……」
「ふ~ん。……で、知りたくない?」
「話したいんでしょ?」と比呂美は、母に下駄を預けようとするが、
「べ~つに~。母さんは、どちらでもいいのよ~」
と、とぼけた口調で、母は『べつに攻撃』をやり返した。さらに、
「あんまし素直じゃないと、嫌われるぞぉ?」
とまるで他人事のようにふるまう比呂美に対して、女としての忠告をした。
「なにそれ。……お風呂、入る」
といって、むくれながら台所から立ち去ろうする比呂美に見兼ねた母は、比呂美をからか
うのを止め、眞一郎からの言葉を伝えてあげた。
「バスケの試合、がんばれって、眞一郎くんが……」
 比呂美は、おもむろに立ち止まった。立ち止まってしまったが、振り返れなかった。母
に自分の気持ちを見透かされてしまうと思い。
 母は、まるでトンボでも捕まえるように静かに比呂美に近づき、比呂美を自分に向かせ
た。背丈も同じ、髪の長さも同じ。向き合ったふたりの女性の違うところいえば……。
 頬の赤みが違うだけ――。
 そして母は、俯く比呂美の前髪をかき上げ、そのおでこに唇を押しつけた。
 コーヒーの匂いと母の匂いに、比呂美の鼻と心は、くすぐられた。でもすぐに、比呂美
の中の恥ずかしさが反発心へと変わってしまう。
「もう、子供じゃないんだから……」
 比呂美は首をひねり、母から離れようとしたが、母は、比呂美に諭すようにこういった。
「あなたは、一生、わたしたちの子供よ」
 このときの比呂美には、この言葉の重みが、どれほどのものか分からない。
 無情にも、この言葉の発せられた一ヵ月後、比呂美の両親は、冥路を辿ってしまった。

 それから約二年の月日が流れようとしていた――。

★六月十六日(月曜)くもり――

――かつて、カレのとなりにいた女の子。
『……乃絵……』
 その名前が、目の前の扉を突き抜け鼓膜を揺らしたとき、比呂美の全身は硬直した。
 心臓の鼓動が、ムチを打たれたみたいに急に早くなり、周囲の音が一斉に、ドクッ、ド
クッという音に置き換わる。
 そして、聴覚が、過度の指向性を持ったようとぎすまされていく。
 扉の向こうにいる、彼の口元に……向かって――

 比呂美は、いつものように眞一郎の部屋に向かっていた。
 もう夜の十時を過ぎている。
 風呂も済ませ、髪も乾かし、パジャマに着替えた比呂美は、できるだけ足音が響かない
ように歩く。もちろん、夜遅いときはスリッパは使わない。
 今まで何度も、眞一郎の部屋に行く途中で理恵子と遭遇することはあったが、特に理恵
子からとがめられることはなかった。なにかいわれても、早く寝なさい、という程度だっ
た。それに物足りなさを感じた比呂美は、わざと背徳的な気持ちみたいなものを背負い込
んで、カレの部屋へおそるおそる向かうことに、ちょっとした快感を覚えつつあった。

……夜這い、みたい……

 まさしく、そんな気分だった。
 眞一郎の部屋を訪ねるからといって、何か後ろめたいことをするわけではない。せいぜ
い、短い時間のキスどまり……。
 お互い別々の家に住んでいれば、それはそれで別の楽しみがあっただろうが、眞一郎と
キスを重ねていくうちに、その短いキスをもっと味わい深いものにしようと考えたうちの
一つがそれだった。もちろん眞一郎と一緒に考えたわけではない。
 それは、比呂美のささやかなお遊び、楽しみ――。
 気分は夜這いだというのに、比呂美は、堂々と廊下を進んでいく。
 外の方に目をやると、廊下のガラス戸に映る自分。
 その姿に、今まで何度も、わたしバカだわ、と呟いたことがあった。しかし、その言葉
は比呂美の心にとどまらず、鏡の向こうの世界へ吸い込まれてゆき、『女』である自分を
再確認するのだった――この高揚感と共に。
 やがて比呂美は、階段の手前で立ち止まる。視界には最後の難関、十五段ある階段がそ
びえている。比呂美は、この階段のきしみ癖をすでに把握していた――何段目と何段目が
きしみ音を発しやすく、体重を右端や左端にかけなければならない段があるというように。
 そういったデータを再確認すると、心の中で数を唱えて、階段を上がりはじめた。
 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ、七つ、八つ、九つ、十。
(よし、ここまで完璧)
 十一、十二、十三。

 ピシッ!

「あっ」
 十三段目で音が鳴ってしまう。お腹の辺りが、ぱこぱこと笑いだす。比呂美は、必死に
笑いをこらえる。なにひとりで遊んでいるんだろう、と比呂美は自分で自分を罵るように
して冷静さを取り戻そうとする。そして、息を止めて、どうにか気持ちを静めて……。
 大きく深呼吸――。
 十四、十五。二階へ到着。それから、Uターンして眞一郎の部屋へ一歩、二歩……。
 あと三歩で到着というときに、眞一郎の部屋の中から、携帯電話の着信音が漏れてきた。
 思わず立ち止まる比呂美。
(だれからだろう?)
 一歩進み、首を少しひねり、右耳を扉へ近づける。
「はい」と眞一郎の声。
『……………………』
「え、乃絵……」
(いするぎ、のえ!)
『……………………』
「いいけど……なに? こんな時間に」
(眞一郎くんの、ふつうの声。あっ、盗み聞きよくない)
『……………………』
「あした、愛ちゃんの店?」
(愛ちゃん? 今、扉を開けて入らなきゃ。今なら、まだ)
『……………………』
「なんだよ、それ」
(少し怒ってる?)
『……………………』
「おまえ……」
(何か疑っているような声。あれ? 体が動かない、まずい)
『……………………』
「おれの……」
(少し驚き? 聞いちゃいけない)
『……………………』
「今だから?」
(さらに驚き? 聞いちゃいけない、もう、なんで体が動かないの? ……でも知りた
い)
『……………………』
「別に……そんな心配……いいよ……」
(ん? なに言ったんだろう、聞き取れなかった)
『……………………』
「うん、わかった、八時な、じゃ」
(八時――夜八時に愛ちゃんの店で、会うってこと?)
『……………………』
(あぁ……電話終わったみたい……全部、聞いてしまった……)

……盗み聞いてしまった。どうしよう……

 比呂美は、口だけではぁはぁと息をし、なにかに怯えるように瞳を細かく振るわせた。
 そして、口を真一文字に固く結び、眉間にぐっと力を入れる。そして祈るように……

……眞一郎くん、ごめんなさい。
  お願い、眞一郎くんから、このこと話してきて。
  いつものように、話してくれるよね? おねがい……

 こんな他力本願じゃいけないと分かっていても、比呂美に襲ってきていた『全身の支
配』というものは、それを上回っていた。それでもなんとか、比呂美は、すぐその現状を
打破しようと抵抗を諦めなかった。
 前へ進もうと、進んで扉を開けようと、体に力を入れる。
 だが、比呂美の体は一向に思い通りに動いてくれなかった。
 前がダメなら、右、右がダメなら、左と試してみるが、まだ動かせない。押してもダメ
なら引いてみろ、という言葉を思い出し、後退を試みる。
 比呂美の左足は、自然とすっと下がった。
 なぜ? と比呂美は、自分に疑問を機関銃のようにぶつけた。
 そんな中、比呂美の右足も、すっと下がった。それが、今の自分から返ってきた答えだ
った。
 比呂美は、自分のこの体の反応の原因を、次々と言葉を当てはめていった。
 良心、理性、責任感、罪悪感、恐怖、嫉妬、防衛本能、等々……。
 どれもかすめているように思えた比呂美は、なにかに観念したように首をがくっと垂ら
した。浮かれていた比呂美にとっては、この電話が、強烈に急所をついたような一撃に感
じられたのだった。やがて呼吸が苦しくなり、この場にいることが耐えられなくなる。
 そして、比呂美の影は、眞一郎の部屋から徐々に離れていった――

 ピルルルルル ピルルルルル

――画面に表示される11桁の番号。おそるおそる通話ボタンを押す。
「はい」と眞一郎は、かしこまって答えた。
『――いするぎのえです』
「え、乃絵……」
『――いま、話しても大丈夫?』
「いいけど……なに? こんな時間に」
『――あした、夜、愛子さんのお店に来てほしいの』
「あした、愛ちゃんの店?」
『――その方がいいと思って。返したいものがあって。それと、お話が……大事な話があ
るの……』
「なんだよ、それ」
『――直接会って、話すわ』
「おまえ……」
『――あ、勘違いしないで、恋愛とかそういう話じゃないから。あなた自身の話』
「おれの……」
『――うん……。考えたんだけど、やっぱり、知っておいた方がいいと思って。……そう
ね、今だから、知らなくてはいけない話……』
「今だから?」
『――そう……。あの、このことだけど……湯浅さんには知らせないでね。その方が、あ
なたにとっていいと思うから。わたしを、信用して……』
「…………」
『――もし、湯浅さんと喧嘩になったら、わたし、ちゃんと説明するから。とにかく、湯
浅さんには、わたしと会うまでは伏せておいて。なにかあったらちゃんとするから、安心
して』
「別に……そんな心配……いいよ……」
『――それじゃあ、いいかしら?』
「ああ」
『――じゃあ、八時に、愛子さんのお店で』
「うん、わかった、八時な、じゃ」
『――じゃ』
 眞一郎は、椅子に座ったまま、頭の後ろで手を組んで天井を見つめた。
「……なんだよ、あいつ……意味深なこといいやがって……」
 6月中旬、乃絵からの突然の電話だった。

……知らなくてはいけない話、ってなんだ?

 この夜、眞一郎と比呂美は、いつもの短いキスを交わさなかった。

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