ファーストキス-2


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――第二幕『気をつけるのよ』――

 比呂美は、バスケットの練習を終え、夜七時前に帰宅した。
 居間に入ると、食卓の眞一郎と比呂美のところだけに食事が用意してあった。
 比呂美は、すぐ台所へ向かう。
「ただいま」
「おかえり。眞一郎は一緒じゃないの?」
 理恵子が食器を洗いながら訊いてきた。
「はい」
「なにやってるんだか……」
と理恵子は少し不機嫌にぼやいた。これは単に帰りが遅いということだけではないらしい。
「あの……」
「……ん?」
 なにか切りだそうとしている比呂美に気づいた理恵子は、比呂美に顔を向けた。
「あの……わたし、これから出かけたいんですけど」
「え?」と手が止まる理恵子。
「なにか買ってくるものがあれば、ついでに……」
「今から? こんな時間に?」
 理恵子は、手についた洗剤を素早く落とし、手を拭きながら、比呂美に近寄った。今朝
のこともあってか、いつもより慎重に比呂美の様子を探っているようだった。
「ちょっと、愛ちゃんのお店に……」
 大した用事ではないんです――という感じに、比呂美は外出先をいった。
「それは、いいけど……」
 理恵子はそういったものの、当然のことながら、心配そうにした。
「あの、眞一郎くんも多分いるはずですし、帰りは一緒に……」
「多分って、あなた……」
 理恵子の表情は変わらない。しばらく、比呂美をじっと見ていた。
 理恵子は、眞一郎と違って、夜に比呂美が外出することに少しうるさかった。年頃の女
の子なので、それは決して度の過ぎた干渉ではないのだが、あのバイク事故のようなこと
は二度とごめんだった。だから、比呂美には、出かける前にしっかりと説明をさせるよう
にしていた。眞一郎とデートがしたいというのなら、それならそれでよかった。理恵子は、
比呂美にはもっと堂々としてほしかったのだった。
「夕飯、食べていくんでしょう?」
 理恵子は、軽くため息をついてそういうと、また洗い物にとりかかった。
「……はい、いただきます」
と比呂美は軽く頭を下げて、居間に入ろうとしたとき、理恵子が背中越しに声をかけた。
「気をつけるのよ」
「……はい。ありがとう、おばさん……」
 外出の度に少し緊張したやり取りが行われたが、今まで一度も比呂美の外出を理恵子が
許さなかったことはなかった。それが返って、信用されているのか――呆れられているの
か――比呂美の気持ちを複雑にさせるのだった。

 比呂美が仲上家を出たのは、七時四十分を過ぎたころだった。少し早足で歩けば、愛子
の店に、ちょうど八時には着く。だが、比呂美は、時間の計算をしていたところで、はっ
と気付く。夜八時に会う――ということは自分は知らないことになっている。ちょうど夜
八時に愛子の店に現れるのは、不自然ではないか。盗み聞きのことが、バレるかも。乃絵
にまた、見抜かれてしまう――そう思ったのだ。

……なにかのついででバレちゃうと、嫌われるかもね……

 比呂美の心に刺さった朋与の言葉が、檻の中の動物のように震えた。
 比呂美は、歩くスピードを落とし、下唇を噛んだ。さっきまで軽快だった足取りも、今
は鉛の玉がくっついているように重かった。
 比呂美は、車道に出て少し進んだところで、とうとう足を止めてしまった。
 この時間はまだ、帰宅途中の車が多い。排気ガスの匂いが鼻をつく。

……わたし、なにやってんだろう……

 平日は部活、休日は部活と家事の手伝いで忙しい比呂美が、愛子の店を訪れることはほ
とんどなかった。理恵子に、遊びに行きたい、といえばおそらく簡単に許してくれるだろ
うが、なかなか甘えることが比呂美にはできなかった。
 仲上家にお世話になっているから、という建て前を口にする以前に、理恵子という女性
は、とにかく忙しい人だった。超人的だった。いきなり自分と背格好の変わらぬ娘の面倒
を見ることになって、その世話だけでも大変だというのに、同じく思春期真っ只中の自分
の息子との関係に気を配らなければない。お店の経営に加え、その心労は相当なものだろ
うと比呂美にも容易に想像がついた。
 同じ『女性』として、とにかく理恵子の手助けがしたかったのは本当の気持ち――最初
のうちは、そう思っていた。しかし、その気持ちは徐々に変わっていった。
 食事、掃除、洗濯、酒店の経営、地元地域の行事、親戚との付き合いなど、あらゆるこ
とに見事な立ち振る舞いでさばいていく理恵子を間近で見ていて、一種のライバル心が湧
き起こってきたのだ――この人に負けたくないと。比呂美と理恵子の年齢と経験の差を考
えれば、それはあまりにも無謀なライバル心にも思えたが、負けず嫌いな性格に加えて、
それらの差を理由に簡単に対抗意識をしぼめるほど、比呂美は物分りがよくなかった。
 それともう一つ――比呂美の中には大きな存在があった。比呂美の母親である。

……くやしいけど、わたしのお母さんは、こんなに凄くなかった……

 自分の母親と比べてみても、理恵子の凄さは圧倒的だった。
 母親の娘である自分が挫ければ、自分の母親の負けをも認めざるを得なくなる。それが
嫌だった。
 そんな気持ちの状態がしばらくつづき、比呂美は理恵子に対して闘志をむき出しにして
いたが、眞一郎との交際がはじまると、その気持ちが徐々に変化していった。
『ライバル心』から『向上心』に切り替わっていったのだ。
 もともと努力家の比呂美は、それからというもの、理恵子の様々なノウハウの吸収に夢
中になり、それが楽しみに変わっていった。
 でも、比呂美はまだまだ高校生――遊びたい年頃。たまには外で友達と気軽に騒いでも
いいのではないか、と考えなくはなかった。
 眞一郎と乃絵が愛子の店でどんな話をするのか――比呂美がそんな好奇心に取り付かれ
たのは一度や二度のことではない。乃絵のように無邪気に、眞一郎に会いに来ました、と
振る舞えば、心のモヤモヤなんか吹き飛んでしまって、眞一郎との、皆との楽しい時間を
過ごすことができるというのに……。
 しかし――今、比呂美は大きな爆弾を抱えていた。
 乃絵に近づけば、暴発しそうな爆弾。
 比呂美は、踵を返し、家に戻ろうとして、また足が止まった。戻るにしても、眞一郎に
会いに行くといって飛び出してきた手前、すぐに帰宅すると、逆に理恵子に怪しまれてし
まうだろう。眞一郎を途中で待っていようか――それも、眞一郎にあとで知れれば、不思
議がられてしまうだろう。
 比呂美は、全身をぶるっと振るわせ、二つの拳を作り、そこに歯痒さを閉じ込めるよう
に力を入れた。
 比呂美の選択肢は、一つしか残されていなかった――眞一郎に会わずに時間をつぶすと
いう道。昨日から比呂美は、ミステイク(誤った選択)の連続だった。もうこれ以上の失
敗は、比呂美のプライドが許さなかったが、今は、こうするしかなかったのだ。
 比呂美は、またゆっくりと歩き出した。目的地を知らされないまま、足だけが、躊躇い
ながらも主人のために体を支えて進ませた。しばらくして、交差点にさしかかった。
 真っ直ぐ行けば、愛子の店。左へ行けば、海岸沿いの道へつづいている。
「…………」
 信号の点滅が比呂美に最終決断を求めた――信号が変わるまでに決めろと。
 やがて、歩行者用の信号が、青に変わる。
 比呂美は、横断歩道を渡りだした。夜の海へと向かったのだ……。

「クォッケッ、クォッコォーーーーーッ」
 夜なのに、愛子の店で鶏が鳴いた。
「あはははははッ」
 赤いバンダナを額に巻いた愛子が、その鶏を両手で頭上へ掲げて大笑いした。
「愛子さん、鳴きマネ、うまぁーい」
 乃絵がきゃっきゃと喜ぶ横で、眞一郎は、首(こうべ)を垂れて肩をすぼめた。

……やっぱり……

 乃絵が眞一郎へ返すといった物は、眞一郎の予想したものと同じだった。
 それは……眞一郎が乃絵と初めて喋った日の次の日に、乃絵が自分にかけた呪いを解い
てもらおうと生贄として贈った、ティッシュ・ペーパーの箱で作った『ニワトリくん』だ
った。乃絵には、幸か不幸か、大変気に入られたやつだ。
 眞一郎は、この場に比呂美がいなくて心底ほっとしていた。昼間、学校で乃絵が比呂美
の目の前でこの約束のことをいきなり暴露したので、間違いなく比呂美はついてくるだろ
うと思っていたが、逆にそのことが、比呂美に釘を刺すことになった。勿論、乃絵がそこ
まで計算していたことに考えが及ぶほど、眞一郎は鋭くない。
 この『ニワトリくん』は、眞一郎にとって、自分の裸を見られるよりも恥ずかしいもの
といっても過言ではなかった。比呂美への性の衝動の代わりに作ったこの『ニワトリく
ん』を生贄として捧げれば、当時の比呂美との関係を好転させることができるのでは、と
考えたからだった。
 だから、比呂美には、いえないだ。説明できないのだ。訊かれれば、ごまかさなければ
ならないのだ。また、ごまかしきる自信も当然ないのだ。
「いやぁー感動だわ」
 愛子は、『ニワトリくん』を自分に向け、まじまじと観察しだした。
「ティッシュ・ペーパーの概念を覆すってこのことよね」
「愛ちゃん、もういいから、紙袋にしまえよ」
「あんた、自分で作っといて、この凄さに気づかないの?」
「知るか、そんなの……」
 乃絵は、眞一郎と愛子の漫才に黙って微笑んだ。
「なぁ~に、その態度ッ!」
 いきなり愛子の目がすわる。
「あんたの目の前にいる『かよわいふたり』の女の子は、あんたにこっぴどくフラれたっ
てことを忘れたわけではないでしょうね?」
 そういって、愛子は眞一郎の胸をつついた。
「ふたり? ひとり、の間違いだろ?」
 眞一郎は、両手を広げて、オーノーというポーズをした。
「このへらず口めッ」
 そう吐き捨てると、愛子は乃絵に話しだした。
「この『ニワトリくん』、ギタンギタンに踏んづけて燃やしちゃえばよかったのに。その
方がすっきりするよ?」
「ひでぇー」と眞一郎。
「わたしもそうしようとちょっと思ったけど、それもらったの、好きっていってくれたと
きよりも、だいぶ前の話だし、それはちょっと筋違いかなって」
「乃絵ちゃん、健気だねぇ~」
と愛子は涙目になって乃絵の頭をよしよしした。
 乃絵の言葉に、ちくっと胸が痛む眞一郎だった。いっそうのこと愛子のいう通りにして
くれた方がいくらか気が楽だと思った。
「でも、仕返しは考えたわ」と乃絵。
 眞一郎と愛子は、ギョッとして乃絵を見た。
「なに? それ。わたしにも教えて!」
 愛子は、乃絵の肩をつかんで顔を近づけた。
「新聞に投稿したの」
「は?」と眞一郎と愛子の声が、きれいにハモる。
「明日の朝刊に掲載されるって電話があったの。それで、仲上君に連絡したの」
 眞一郎と愛子は、まだよく事態がつかめずポカンと口を開けたままでいた。
「あ、でも安心して、真面目な内容だから。それに、仲上君の名前は載らないし」
「それって、どういう記事なの」と愛子。
「う~んとね、発想の転換っていうやつ。ちょっとした発想で、身の周りのものが素敵に
大変身――というテーマで応募したの。それで入賞しちゃった、この『ニワトリくん』。
ノエルっていうペンネームで応募したから仲上君の名前は出ないわ。ごめんね」
「それって○○新聞?」
「うん」
「うわっ、全国区だわ」
 観念するしかなかった。眞一郎は、がっくし肩を落とし頭を抱えた。本気で比呂美への
説明を考えなければならなかった。オナニーの代わりに作りましたと悟られないように。
 さすがに、そんな眞一郎の心中まで乃絵は察っせないけれど、すこし同情の念に駆られ
た乃絵は、決して悪ふざけではないということを語りだした。
「さっきの仕返しっていうのは冗談よ。ただ……自分が感じた感動を他の人にも分け与え
たかっただけ。この『ニワトリくん』をもらったとき、心を閉ざしていたわたしの心に光
が射したのを感じたの。それは、お兄ちゃんにもできなかったこと……。そして、最近よ
うやく気づいたの。それは物凄いことなんだって。だから……」
 そういうと乃絵は、眞一郎の目を見つめた。そして最後にこう付け加えた。
「ありがとう……」
 乃絵がその言葉を口にしたとき、愛子は、乃絵と出会ってから今までのことを思い出し
ていた。
 眞一郎の隣を歩く乃絵――嫉妬、失恋、入院、心の交流――。
 愛子はそれらを想像すると辛くて、涙をこぼさずにいられなかった。

愛子は、入院した乃絵を幾度となく見舞っていた――。
乃絵の回復の過程を一番近くで見ていたのは愛子かもしれない。
 三代吉から乃絵の入院のことを聞いた愛子は、少なからず眞一郎が関係していると思っ
た。そのことを考えると、いてもたってもいられず病院へ向かったが、面会謝絶で会えな
かった。数日後、お店に来た生徒から面会謝絶が解かれたことを聞くと再び病院へ。そし
て、思ったより明るい乃絵にほっとしたのだった――そう、眞一郎が乃絵に、絵本を見せ
た後のことだった。それから、愛子が頻繁に病室を訪れ、気遣っていくうちに、乃絵も愛
子に心を開いていくようになった。
 乃絵が退院してからは、二人が会う機会は減ったが、しばらくして足も良くなり、兄の
純が3月末に上京して、乃絵が家に独りぼっちになると、愛子は、乃絵にお店に遊びに来
るように誘った。独りでなにかと大変な乃絵に、おかずを作ってあげたり、家に泊めてあ
げたりと、二人の関係は、姉妹のように親密になっていった。同じ失恋の痛手を味わった
ふたりだからこそかもしれない――。

 しばらく三人の悪ふざけ交じりの談笑がつづき、やがて、時計は八時半を回った。
 そろそろお開きにしようかというとき、愛子が用を足しに奥へ引っ込むと、乃絵は眞一
郎に本当の本題に触れてきた。
「わたしが、先にお店出るから、しばらくして、仲上君も出て。外で待ってるから」
「え?」
「もう一つ大事な話があるの。こっちが本題」
 乃絵の大事な話というのを、てっきり『ニワトリくん』のことだと思っていた眞一郎は、
不意を突かれたように体がしびれ、急激に鼓動が高鳴った。
「ここじゃ、だめなのか?」
「今日、なぜ、わたしが、湯浅比呂美を寄せつけなかったと思っているの?」
(なんだって!)
「……おまえ……わざと……」
「この話を聞かないと、あなたはいずれ、湯浅比呂美と別れることになるわ」
 乃絵はそういうと、鋭い眼光で眞一郎を貫いた。眞一郎も乃絵の鋭い視線をつかみ返し、
乃絵の真意を探った。眞一郎が、乃絵の奥深い瞳に吸い込まれないのは、逆に乃絵のこと
を心の奥底で信用しているからかも知れない。
 決して、嘘を言わない乃絵。
 呪う、と口にしても心底そう思っているわけではない。
 あいつは、綺麗なんだ――兄の純が、乃絵のことをそういっていたのを眞一郎は思い出
していた。
「どうする?」と決断を迫る乃絵。
 眞一郎は、ゆっくりと首をたてに振った。
 乃絵は立ち上がり、鞄をつかむと、黙って店を出ていった。
 そのあとすぐに愛子が、奥から戻ってきた。
「あれ? 乃絵ちゃんは?」
「帰ったよ……」
「ええ?……今日泊まるっていってたのにぃ」
 愛子は、眉毛を八の字にして駄々っ子のように口を尖らせた。

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