ファーストキス-4


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――第四幕『わたしをおもちゃにしないで』――

 そのあと、家に戻った眞一郎は、鞄と『ニワトリくん』が入った紙袋を廊下に放り投げ、
比呂美の部屋へ直行した。比呂美の部屋の灯りは点いていたので、比呂美は部屋にいるよ
うだ。部屋の前で、眞一郎は、軽く握った拳をドアへ伸ばしかけたが、いったん胸の前で
止めてしまった。これから自分のもたらすことに、覚悟をしなければならなかったのだ。

……おれは、また、比呂美を泣かしてしまうのか……

 それを思うと眞一郎の胸はぎゅっと締めつけられたが、乃絵とのキスのことは、比呂美
に話さないわけにはいかなかった。浮気心がなかったとはいえ、比呂美と交際中の出来事
なのだ――愛子の場合とは状況が違った。だから、たとえ、比呂美を怒らせてしまっても、
泣かせてしまっても、早くその事実を過去の過ちとして葬ってしまいたかった。愛子との
ことは、ずっと打ち明けられずにいたが、乃絵とのことは引きずらせてはいけない、と眞
一郎は強く思った。

 コン コン

 反応がない。
「比呂美」
 眞一郎は、名前も呼んでみたが、部屋の中から返事はない。もう一度、ノックをしてみ
た。
「比呂美、いないのか?」
 さらに声を上げて呼んでみると、こんどは部屋の中で微かに気配を感じた。
 ドアの向こうで畳を歩く足音がしだいに大きくなって、ドアが、静かに開けられた。
「比呂美……大事な話がある」
と悲壮感たっぷりな眞一郎に、比呂美は、びくっと体を震わせた。
「…………」
 だが、さきほどの事実を知らないことになっている比呂美は、驚いた素振りを見せなけ
ればならなかった。
「中に入れてくれ」
と眞一郎はせっかちにいうと、比呂美の返事を待たずにドアノブに手をかけ、ぐっと手前
へ引いた。
 比呂美は、慌てたように、あっと声を漏らしたが、眞一郎は構わず部屋の中に入った。
――部屋に入れたくなかったのに――と比呂美は顔をしかめたが、比呂美に背を向けてい
る眞一郎にはその様子が分からない。比呂美は、仕方なくドアを閉め、とぼとぼと部屋の
中央へ歩んだ。
 眞一郎が、どの場所に立ったらいいのか部屋の中を見回すと、液晶テレビが音を消され
て点いていたので、すぐに比呂美の勉強机の上のリモコンを手に取り、テレビを消した。
 比呂美は、眞一郎のこの行動に、嫌な予感を感じさせられた。――これから、少なくと
も自分にとって悲しい話がされるのだと、それは、さきほど眞一郎が乃絵と話していたこ
とに違いないだろうと、比呂美は思った。
 リモコンを置いた眞一郎は、立ちつくした比呂美の方へ向くと、目線を落としてすぐに
切りだした。
「乃絵と……石動乃絵と……その……………………キスをし」

 パシッ!

 眞一郎が最後までいいきる前に、比呂美の平手が眞一郎の頬を打ちつけた。眞一郎は、
一瞬、なにが起こったのは分からなかったが、すぐに比呂美の険しい表情に気がつくと全
身が凍りついた。
 眞一郎の開口一番の言葉は、確かに比呂美とってはショッキングなことに違いなかった
が、比呂美が間髪いれずに逆上するとは、眞一郎は予想していなかった。比呂美なら、ち
ゃんと話を聞いてくれると思っていたからだ。だが、違った。
 眞一郎は、焦った。次の言葉が出てこない。比呂美もいまにも噛みつきそうに睨みつけ
ている。
 乃絵とキスをした――たった8文字の言葉で、比呂美がここまで豹変したことに、恐怖
さえ感じた。それと同時に、自分のキスに対する認識の甘さを思い知らされた。
 男と女とでは――特に思春期の女の子とでは、キスという行為の受け止め方に、相当な
違いがあるのだと考えざるを得なかった。
 この先、どういう順序で、どういう言葉を用いて比呂美に説明しようか――と眞一郎の
頭の中で様々な言葉が渦を作ってぐるぐる回った。
 比呂美は、次の言葉をじっと待ったが、一向に言葉をつづけられない眞一郎に、眞一郎
が自分の平手の意味を勘違いしているのではと思った。キス自体に腹が立たなかったわけ
ではないが、眞一郎の態度にもっと怒りを覚えていたのだ。
「眞一郎くん、わたしの目を見て、ちゃんと話して……」
「あっ……」
 眞一郎は、その言葉の意味に気づくと、ごめん、と呟いて唇を噛み、俯いた。確かに眞
一郎は、比呂美を真っ直ぐ見れていなかった。比呂美にすぐ謝らなければと思ったものの、
比呂美に対して態度で誠実さを欠いていたことに、反省の念に駆られた。
「わたしを見て」
「……わかったよ……ごめん……」
 比呂美がかすれた声でいったその言葉に、眞一郎は、比呂美の冷静さを感じたが、それ
は、すぐに崩れ去ってしまう。
「……それって、わたしより、あの子が好きになったって言いたいわけ?」
「ちがうよッ!」
「じゃーなにッ!」
 部屋に広がった悲痛な叫び。比呂美の気持ちは、落ち着きとは無縁なところにあった。
 だが、比呂美が心中を外に露にしたことによって、眞一郎の方が逆に冷静さを取り戻し
た。
 比呂美は、顔を真っ赤にし、目尻をつり上げた。そして、眞一郎の言葉を待たずに、吐
き捨てるようにいった。
「あなたは、この部屋へ入ると、碌なことを口にしないよね。いやみ?」
「比呂美、ちょっと座ろう」
 とにかく比呂美を落ち着かせるのが先決だと思った眞一郎は、比呂美の両肩をつかんで
座らせようとした。比呂美は、顔を横へ背けて嫌がったが、しぶしぶそれに従った。
「べつに、別れ話をしにきたんじゃないよ。ごめん、おれの言い方がまずかった」
 眞一郎は、なんとか笑顔を作り、柔らかくいった。
「君に、謝らなければならないことを、最初に言おうと思ったんだけど、とりあえず、順
番に話すよ。いいか?」
 眞一郎が頬をさすりながらそういうと、比呂美は黙って頷いた。
 眞一郎は、比呂美の目から怒りの色が薄まるまでしばらく待った。
 比呂美も、眞一郎の胸の辺りをじっと見つめながら、自分の激昂ぶりに驚いていた――
眞一郎は、正直に話そうとしていたのに、抑制の利かなかった自分に――。
 やがて、眞一郎が口を開くと、比呂美は目線を上げ、眞一郎の顔を見た。
「昨日の夜、乃絵から電話が、突然あった――。今日の夜、愛ちゃんの店で大事な話があ
るから、来いって」
 それは、防波堤で話されたんだでしょ?――と比呂美は思ったが、今はつっこまず、素
朴な疑問をぶつけた。
「学校でいってた、渡すってなんだったの?」
「ああ~それは、ちょっとあんまし関係ないんだ。そのことは今は気にしなくていい」
 比呂美は、やっぱり乃絵のカムフラージュだったんだと思い、つづきを促した。
「それで?」
「で、その電話で、比呂美にはこのこと知らせるなっていったんだ。その意味は、あとで
説明する。――で、とりあえず乃絵に応じることにしたんだ。乃絵の真意も知りたかった
しね」
 比呂美にはよく分からなかった――分かるわけがなかった。いくら愛子の店で乃絵とよ
く顔を合わせていたにしても、眞一郎が、なぜ、自分に秘密にすることを躊躇いもなくす
ぐ承諾したのかが。
「それだけ? 電話でなにか決定的なことをいわれたんじゃないの?」
「あ、うん。それは……おれにも、まだ、意味は分からないんだけど……今だから、今だ
から、おれが知らなくてはいけない話があるって……」

……今だから、知らなくてはいけない話?

「今だから? なにそれ?」
「よく分からないだろう? でも、妙に気になってさ、このフレーズが」
 眞一郎は、比呂美に自分の疑問に対して同調を求めるようにいった。
 比呂美も確かに気になる言葉だとは思ったが、その言葉だけで眞一郎の心が大きく揺れ
たことには、過去の『眞一郎と乃絵の時間』が少なからず影響していると感じた。その時
間に築き上げられた眞一郎と乃絵の信頼関係が、眞一郎を素直に従わせたのだと。
「それで、愛ちゃんたちの前でその話を聞いたの?」と比呂美。
「い、いや、それが……店を出て、海岸線の防波堤のところまで行って、話を聞いた」
「なぜ?」
「……情けないけど……脅されたからかな」
「なんて?」
 比呂美は、なにか尋問しているみたいで嫌な気分になってきた。
「いずれ、比呂美と別れることになるって」
 比呂美は、朋与が昼間に発した『乃絵の逆襲』という言葉を思い出したが、乃絵が眞一
郎に対してダイレクトにそんな言葉を使ったとは、にわかに信じられなかった。
 本当に眞一郎を取り戻す気でいるなら、まず、自分に喧嘩を売ってくると、比呂美は乃
絵という人物をそう認識していた――裏でこそこそしない『女』だと。
「……あの子のいいそうなことだわ……」(あの子がほんとうにそんなこといったの?)
 比呂美は、目線を斜め下に落とし、そう吐き捨てた。
「それで、本題がここからなんだが……ここから先は、比呂美にはまだいえない」
「ここまで話しておいてなんなの」
 比呂美は、また怒りが湧き起こると同時に笑いたくなるような気分になる――この男は、
いったいここに何しに来たのだと。
「だから、ここからが本題なんだって。ただ、今のおれには具体的なものが何ひとつない
んだ。だから、いえないというより、説明できないんだ。とにかく、確かめなければなら
ないことがあるんだ」
「……たし、かめる? それって……」
 比呂美は、さらになにかいいかけたが止めた。
「乃絵からは、サイコロを渡されたようなもんなんだって。なんの目が出るのかは、これ
から振ってみないと分からない」
「バクチ? 他人任せ?」
 比呂美は、眞一郎の話を聞く気が失せてきていた。
「いや、サイの目を決めるのは、おれしだいだってことさ。ただ……」
「ただ、なに?」
「乃絵のいっていた、比呂美と別れることになるっていうのは、おれ……十中八九、当た
っているような気がする。単なる脅しで使った言葉じゃない――そう思っている。比呂美、
ここから、ちゃんと聞いてほしい」
(今までも、ちゃんと聞いてるわよ)
 眞一郎の顔つきが極端に変わる。比呂美に告白したときの目をしていた。やっと眞一郎
が自分を満足させる言葉をいってくれると、比呂美は期待を膨らませた。
「……うん」
「乃絵の話に、おれ、今、ひとりで向き合わないと、向き合って乗り越えないといけない
気がする。そうしないと、おまえを幸せにしてやれない気がするんだ。そういう予感がし
ている。あいつは、そういうとこ、鋭いんだ。――だから、さっきのことを確かめて、お
れの気持ちに整理がつくまで、待っていてほしい。必ず、おまえに、ちゃんと話をするか
ら。約束する」
 嬉しいやら、悲しいやら、比呂美とっては、微妙な言葉だった。
 もっとちゃんと説明して、という意味を込めて、
「いやよ……」と比呂美は呟いた。
「……比呂美」
「……一緒に、知りたい……ひとりぼっちに、しないで……」
と比呂美は眞一郎に正直な気持ちをぶつけた。
「……比呂美……おれ……おまえに……逃げたくないんだ……」
と眞一郎も比呂美に正直な気持ちをぶつけた。
「…………」
 お互いの目が見つめあったまま潤んだ。
「両親を亡くして、力強く振舞うおまえを見ていると、おれ、挫けそうになる。おれ、も
う、それじゃ、いけないんだ……だから……待っていてくれ……」
 お互いこんなに想い合っているのに、いまさらなにを待てというの――比呂美の頭の中
は、混乱した。
 でも、ここで彼のいうことに受け入れなければ、自分はいずれ嫌われるのだと、比呂美
は予感めいたものを感じていた。
 とにかく嫌われたくなかった。我慢するしかなかった。素直なフリをするしかなかった。
「……ん……わかった……」
 比呂美は、自分の涙と一緒に心の中の寂しさも一生懸命に呑み込もうとした。
 しばらくの間、ふたりは、黙って泣いた。
……………………。
「それで?」と比呂美から口を開いた。
「ん?」
「キスっていうのは?」
「あっ、その話はおれたちにはどうでもいい話なんだ」
「最初に謝らなければならないっていったじゃない」
と比呂美は呆れたが、こういうときの眞一郎は、不思議と安心できるのだ。
「最後までエッチしたわたしたちにとって、キスなんかどうだっていいってこと?」
といじめてみた。
「そういう意味じゃない。気持ちの通ってないキスなんか、キスじゃないってことだよ」
 眞一郎は、真顔で返した。やっぱり大丈夫だ、と比呂美は思った。
「石動乃絵に面と向かって、そう言える?」
「当たり前じゃないか」
 比呂美はその言葉を聞くと、眞一郎の胸に顔を埋め、首を小さく左右に振り、さらにね
じ込もうとした。
「眞一郎くん、あのね……あなた……ウソついたでしょう」
「え?」

 グゥゥ~

「あっ、お腹が鳴った」
 とりあえず、第一ラウンド終了ということなのだろうか。
「そういえば、腹減ったな~」
 ふふっと比呂美は笑い、眞一郎も、へへっと笑った。ようやく部屋の中の緊張が解けた
瞬間だった。
 そのとき、部屋のドアの向こう側で、理恵子の口元も緩んでいた。

 天井からの雫が一滴、眞一郎の額に落ちた。すぐに、また一滴、湯船に落ちた。
「すーぐそこーの、おなべのそこにも、あぶらむしぃ~。…………あいつ……歌わなくな
ったんだな……」
 眞一郎が乃絵と二人きりで話をしたのは、バス停の待合室であの絵本を見せてあげたと
き以来だった。松葉杖で不慣れな乃絵を幾度と助けてあげたときは、ほとんど比呂美がそ
ばにいた。愛子の店で顔を合わせるときも、愛子がいつも間に入っていた。
(おれは、なに、乃絵のことを考えているんだ)
 眞一郎は、乃絵のことを頭の中から必死に振り払おうとしたが、今日感じた乃絵の変化
に衝撃を感じていて、簡単に消し去ることなどできなかった。
 比呂美と乃絵――。まるでタイプの異なるふたり。
 比呂美のことを考えると、乃絵の特徴が浮かび上がり、
 乃絵のことを考えると、比呂美の特徴が浮かび上がる。
――まるで、シーソーだな、と思った眞一郎は、あの時を境に変わった乃絵の言葉につい
て考えた。

……乃絵は、おれのことを「しんいちろう」とはもう呼ばない。
  徹底して「仲上君」と呼ぶ。躊躇いもない。

 乃絵なりの、一つのけじめなのだろう。比呂美のこともフルネームの呼び捨てから「湯
浅さん」と呼ぶようになった。バス停の出来事のあと、乃絵が眞一郎と比呂美に配慮して
決めたことなのだろう、と眞一郎は思った。今まで、乃絵が自分のことを名前の呼び捨て
にしていたことに違和感は感じなかったが、こうして呼び方が変わると、否応なしに自分
らの関係をきっちりさせられているようで、あまりいい気分ではなかった。でも、乃絵の
決めたことに、眞一郎が口出す資格はなかった。

……「飛ぶ」という言葉を使わなくなった。
  愛ちゃんの店にいるときも、そういえば聞いたことがない。

 眞一郎と乃絵が付き合っていた頃は、「飛ぶ」という言葉は、お互いの関係を繋ぎとめ
る重要なキーワードだった。「逃げる」の反義語として頻繁に使われてきたが、乃絵にと
っては、皮肉にも「逃げる」という意味で一度だけ使われたことがあった。
「飛ぶ」とは「地面から離れる」、つまり「現実から離れる」という意味で……。

……それに、「信じる」という言葉も使わなくなった。

 眞一郎は、ふっと昨日の電話のことを思い出した。
 確か、わたしを信用して――といったはずだと。
『信じる』と『信用する』
 乃絵はこの言葉を意図的に使い分けているはずだ――と眞一郎は思った。
 どういう違いがあるのだろう。
「信じる」は、「そう願う」という意味に近いだろうし、「信用する」は、実害どうこうと
いう話がくっついてきそうな気がする。いわゆる、乃絵の『絵』の話というのは、自分に
対して、とてつもない現実を突きつけるのではないのか、と眞一郎は考えた。単なる気持
ちどうこうの話ではないのだと――。
 眞一郎は、湯船から右手を持ち上げ、その掌を見つめた。
――そう考えると、正直、怖くなったが。
 掌に汲まれたお湯は、なんの抵抗をもなく、指と指の間から下へすり抜けていき、ぽと
ぽとと音を立ててこぼれ落ちたが、感触と音の記憶は確かに残った。

……手で何かを掴むには、その正体を掴まなければいけない……

 眞一郎は、お風呂で疲れと体の汚れを落としたが、その湧き起こった気持ちだけは、洗
い流さなかった。

 風呂から上がった眞一郎は、明日の学校の準備をしていた。
 時計は、十一時半を指していた。そのとき、
「眞一郎くん……」
と、部屋の外で比呂美の声がした。
 眞一郎はすぐ扉を開けたが、ちょっとまずいよ、という口調で、比呂美を軽くとがめた。
「あ、あんまり遅い時間は……」
「…………」
 比呂美は、少し不機嫌な顔をして、眞一郎を押しのけるようにして部屋の中につかつか
と入り、ベッド端の真ん中に少し乱暴に腰掛けた。パジャマを着ていたので、二つの乳房
の揺れによって生まれた衣服の躍動が、露骨に眞一郎の目に飛び込んだ。
 眞一郎は、肩で大きくため息をついて、机の椅子に座った。
「眠れ……ないのか?」
 明日の授業で使うノートを確認しながら、眞一郎は、まだ憮然としている比呂美に声を
かけた。
 返事がない。
 眞一郎は、比呂美を気にしつつ、床に転がっていった鞄を拾い上げ、教科書とノートを
しまうと、椅子をくるっと回して、比呂美の方へ向いた。
 そこでようやく、比呂美は口を開いた。
「石動乃絵とのキスは、どんな感じだった?」
「え?」
 比呂美は、眞一郎を見ずに真っ直ぐ壁を見ている。
「さっきもいったろ、あんなのキスじゃないって、あいつが勝手にしてきたんだ」
と眞一郎が答えると、比呂美は眞一郎の顔を見て、さらに尋ねた。
「意味もなく、ふつう、する?」
 比呂美の深い眼差しが、眞一郎を見つめた。
 女の子は意を決したときにしかキスをしない。ましてや、嘘の嫌いな乃絵のことだ、き
っと特別な意味がある、とでも比呂美はいいたいのだろうと眞一郎は思った。
「おれには、分からないよ……」
 眞一郎は、この話題を早く終わらせた方がいいと思った。しかし、比呂美は、執拗に追
及しだしたのだ。
「ねぇ、どんな感じだった。正直に話して……」
「おまえ……」
 いい加減にしろといった感じに、眞一郎は首を横に向けた。
 比呂美は、乃絵のキスのことを、自分なりに考えても、どうしても理解できなかったの
だ。乃絵が無意味なスキンシップをするはずがない。まだ隠された事実がある、と疑わざ
るを得なかった。それを探り出したのだ。
「……話して、聞きたいの……」
 比呂美は、背筋を伸ばし、目を閉じて眞一郎に話を求めた。この仕草は、比呂美にとっ
て我慢の限界に近いことを意味していた。そんな比呂美に眞一郎は折れた。
「……思い出したくないけど…………じゃあ、いうよ……」
「うん、ごめん……」
 比呂美は、眞一郎を見て薄く笑ってみせたが、泣きそうな顔だった。
 眞一郎は、どういう言葉が適当なのかしばらく考えた。そして……。
「まるで感触が残らなかった。心にもなにも残らなかった」
 比呂美は、眞一郎の容赦のない言葉に、背中を少し反らし、顎の筋肉が緩んだように口
をぽかんと開けた。比呂美にとって想像をはるかに超えた言葉だったのだ。
「……ひどい、言い方……」
「酷いことされたのは、おれの方だ……」
 眞一郎は、ははっと軽く笑ってそう返すと、比呂美は立ち上がり、眞一郎の左腕を両手
でつかんでベッドへ引っ張った。
「わっ、ちょっと、比呂美っ」
 一気に上体をぐらつかされた眞一郎は、咄嗟に左足を出して踏ん張り、右手で椅子が倒
れないように押さえた。
 比呂美は、さらに引っ張りつづけ、椅子から離れた眞一郎をベッドへ横たわらせた。
 うつ伏せにさせられた眞一郎は、すぐに左腕を突っ張り、自分の体を比呂美の方へねじ
ると、比呂美は、眞一郎の開いた肩に手をかけ、仰向けにして、眞一郎に馬乗りになった。
 あまりの比呂美の早業に、眞一郎は、わけが分からなくなった。
 ベッドに対して斜めに寝かされた眞一郎。眞一郎の右足は、膝から先がベッドからはみ
出し、かくんと垂直に折れている。
 そして、眞一郎の上に、まさに獲物を捕らえた格好の比呂美。
 比呂美の顔が、眞一郎の顔から30センチくらい離れたところにある。
 比呂美の顔は、陰になって暗いが、目がどことなく光っている。
 比呂美の髪が、眞一郎へ突き刺さるように垂れている。
 比呂美の唇は、寝言を言っているように動いていたが、ようやく音を発した。
「しんいちろう……しんいちろう…………」
 一回目は、甘えるように、二回目は、威嚇するように。
 その音は、眞一郎にとって、おまえを喰うぞ、という意味に聞こえ、鳥肌立った。
「な、なんだよ、おまえ……」
 恐怖と好奇心が入り交じりつつある眞一郎は、比呂美を退かそうと全身に力を入れるが、
比呂美はすぐにそれを察知し、眞一郎のその力を打ち消すように踏ん張った。
 簡単に体勢を変えれないと思った眞一郎は、自分と比呂美の体の重なり方に焦った。比
呂美が、自分の性器のある部分に構わずまたがっていたのだ。少し勃起しだしている。比
呂美もそれを感じているように思えた。
 眞一郎が、比呂美の悪ふざけに、目だけを怒らせて気持ちを伝えると、比呂美は、馬乗
りになった理由を口にした。
「わたしが、きれいにしてあげる」
「え?」
「口を少し開いて……」
「え……」
 眞一郎は、比呂美の要求に応じたのではなく、訊き返すために口を少し開いたのに、比
呂美は構わず、その口に吸い付いた。
 比呂美は、両手を眞一郎の頭の両脇につき、眞一郎の顔に対して自分の顔が、ほぼ90
度の角度になるように上半身と首をぐっと捻った。唇を合わせいるというよりは、唇を交
差させるといった感じだった。それに、今まで幾度と重ねてきた乙女ちっくキスではまる
でなかった。
 比呂美の口は、眞一郎の口からなにかを吸い出すように、広げたり狭めたりした。その
度に、唾液の粘性によって生み出される細かな小さな破裂音が紡がれた。それは、眞一郎
がはじめて聞く音だった。そして、行為も。以前、比呂美と体を合わせたときは、お互い
に下半身のコントロールに必死でそれどころではなかった。
 眞一郎は、この音に耳を澄まして、しばらく比呂美の行為を受け入れた。
 眞一郎の目には、比呂美の右耳が大きく映っている。今の体勢では、比呂美の目の表情
を確認することができない。比呂美の気持ちをくみ取れるものは、自分に押し付けられて
いる比呂美の口の動きと、くちゃくちゃと弾ける唾液の音と、比呂美の鼻息しかない。
 眞一郎も、比呂美がするように口を動かすと、比呂美のそれは、いっそう激しさを増し
た。眞一郎が、本当に喰われるのではないかと心配するほどに。
 それから眞一郎は、あまり変化をみせないこの行為を先に進めようと、このままの状態
で、比呂美を抱きかかえて上体を起こすことを考えた。
 比呂美は、それを無意識に察知したのか、口の動きを止め、顔を少し離し、上体の捻り
を元に戻した。
 眞一郎は、慌てて確認した比呂美の表情に恥じらいの色が微塵もなかったことに驚いた。
 比呂美は、まだ足りないといった不満の表情を見せたが、瞳の奥に眞一郎への愛おしさ
がまだ残っていて、眞一郎を少しほっとさせた。
 眞一郎の顔からゆっくりと顔をずらしだした比呂美は、眞一郎の肩に自分の額をいった
ん預けたが、すぐに首を捻ると、ドラキュラが血を吸うように眞一郎の首筋に唇だけで、
はむっとかぶりついた。
 こそばゆさと、生理的な気持ち悪さで全身をぶるっと大きく振るわせた眞一郎は、
「くあッ……」と思わず発してしまう。
 比呂美は、身悶える眞一郎に構わず、先ほどと同じように何かを吸い出すかのように口
を動かした。そして、徐々に比呂美の口は耳の方へ近づいていった。
 眞一郎は、比呂美を引き剥がそうかどうか迷ったが、比呂美の中の何かが爆発しそうな
気がしてじっと堪えた。乃絵が自分の体に接したことが、生理的に気に入らなかったのだ
ろう。眞一郎は、比呂美のしたいようにさせた。
 だが、すぐ限界を感じてしまった眞一郎は、解放されている右腕を、比呂美の背中に回
して、右手だけに意識を集中させた。
 比呂美は、この眞一郎の動きまったく反応を示さず、とうとう眞一郎の耳たぶをしゃぶ
りだした。ぴちゃぴちゃと弾ける唾液の破裂音が、こんどはダイレクトにやってくる。眞
一郎は、全身鳥肌たち、痙攣したように体を震わせた。
 そして、眞一郎は、自分の耳たぶをおいしそうにしゃぶっている比呂美に、お返しをし
てやろうという気になった。
 眞一郎は、比呂美に気づかれないように、右手をゆっくりを比呂美の背中に沿って下ろ
していき、やがて、その手はパジャマのズボンの腰口のところに突き当たった。比呂美は、
まだ耳たぶをおもちゃにしている。
 その手を比呂美の腰の部分からさらに進ませ、おしりの領域に突入させた。柔らかな感
触が、微かに増した。
 比呂美は、まだこのことにまったく反応を示さない。
 柔らかな膨らみの中央を目指して、その手を進めると、ある段差に差しかかった。おし
りの中央に斜めに走っている下着のラインである。
 眞一郎は、親指と人差し指でその下着のラインをつまみ上げ、比呂美の素肌と下着の間
にパジャマの布越しに中指を入れ込んだ。
 すると、比呂美は、その手を虫でも払いのけるように叩き落した。
「わたしをおもちゃにしないで」
 明らかに軽蔑な眼差しを送りつける比呂美。
――おまえのしていることに比べれば、なんてことないだろう――と眞一郎はいいかけだ
が、堪えて横を向くと、比呂美は、眞一郎の顔を両手で挟んで自分へ真っ直ぐ向かせ、下
唇にかじりついた――今度は歯を立てて。
 最初は、甘噛みするように力を加減していたが、徐々にその力は強まっていき、眞一郎
は、はっきりとした痛みを感じた。比呂美に教えようとしても、比呂美が唇に吸い付いて
いてうまく声が発せられない。
 そうこうしているうちに、比呂美の噛む力はエスカレートしていき、とうとう、ぷちっ
と僅かな音を立てて、下唇の内側を引き裂いてしまった。
 眞一郎は堪らず、右手で拳を作り比呂美の横腹を少し力を入れて殴った。
 すると、比呂美は、雷でも打たれたみたいに全身をびくっとさせ、上半身を起こした。
「い、痛いよ、比呂美」
「…………」
 眞一郎がかすれた声で訴えると、ようやく比呂美は恥じらいの顔を見せ、うろたえた。
「少し切ったぞ」
 眞一郎の口の中に血の味が広がる。
 眞一郎がその痛みに顔を歪めていると、また比呂美の顔に不満の色が復活してきた。
「私ばっかりね……」
「え?」
「私ばっかり求めてる……」
「…………」
 眞一郎は、目を閉じ、頭の中の邪念を払うように鼻で大きく息を吐いた。
 もうどうしていいのか分からなかった。お手上げだった。
 いきなり噛みついたり、スキンシップに応じれば、すぐその手を払いのけるし、おまけ
に自分から求めろといってくる。こんな比呂美は、初めてだった。
 あからさまに困った表情を見せる眞一郎に、比呂美は、途端に寂しさに襲われ、こんど
は、子犬のように「眞一郎くん」と鳴いた。
「おれが本気で求めたら、困ったことになるだろう?」
「いつも、本気で相手してくれてないの?」
「そういうこと言ってるんじゃない」
と声を荒げ、顔を横に向ける眞一郎。
「なってもいいよ」
「え?」
「困ったことになってもいいよ……妊娠しなければいいんだし……」
 なにが、こんなに比呂美を追い詰めているというんだ。今ここで、比呂美のパジャマを
脱がし、ぎゅっと抱きしめれば比呂美は満足するとでもいうのか。本当に性欲だけの問題
なのか? それならばそうと、「エッチがしたい」といえばいいじゃないか。
 眞一郎の頭の中は混乱した。
「ちょっと、降りてくれ」
 眞一郎は、比呂美の腰に腕を伸ばして抱き寄せ、ベッドの端に腰掛けさせた。眞一郎も
となりに引っついた。
 そして、眞一郎は、右手を比呂美の背中に回して体を支え、左手を乳房の上にあてた。
 比呂美は一瞬、びくっとして背中を反らしたが、ゆっくりと目を閉じ、眞一郎の行為を
受け入れた。
 ブラジャーの感触がパジャマ越しに伝わってくる。あまりごわごわとした感触ではない。
夜寝るときは肌触りのよい柔らかい布地のものを着けているのだろう。
 左の乳房から右の乳房へ手を滑らせる途中で、ちょうど体の中心付近で、何か柔らかい
塊がある。装飾のリボンか何かなのだろう。眞一郎は、比呂美にの下着で何度か目にした
ことがあった。
 それから、右の乳房を優しく、輪郭をなぞるように愛撫した。
 徐々に比呂美の全身にいつもの優しさが戻っていく。
 比呂美の呼吸は、寝息を立てているときと同じくらい穏やかになっていき、しばらくす
ると、大きく鼻で深呼吸をした。そして、行為の終了を求めた。
「もう大丈夫……落ち着いた……ごめん……」
「…………」
 眞一郎は、ゆっくりと手を離した。
「口、見せて」
「あ、いや……」
 比呂美は、眞一郎の顔を覗き込み、下唇に手を伸ばしてめくった。
「……少し、切れてる……ごめん」
「うん……大丈夫……」
 眞一郎がそういうと、比呂美は、手を離し、静かに立ち上がった。
「じゃ、わたし……ごめんね……おやすみ」
「うん……おやすみ」
 比呂美は、扉へ歩き出し、扉を開けると、すぐ出ていかずにくるっと眞一郎へ体を向け
た。そして、両手をクロスさせて自分の胸を覆い隠すポーズをすると、さきほどの眞一郎
の胸タッチの感想を述べた。
「ちょっとエッチだった」
「な!」
 比呂美はそういうと、子猫のように階段を下りていった。
「甘えんぼうめ……」
 眞一郎は、そう呟くと、唇の内側の傷を指先でそっと撫でた。

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