ファーストキス-5


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――第五幕『ちょっと用があって』――

★六月十八日(水曜)雨、ところにより一時、雷――

 翌朝は、早朝から冷たい雨だった。
 眞一郎は、いつもより一時間も早く目覚め、居間へ下りた。比呂美の噛み付き騒動で忘
れかけていたが、紙袋に入れたままだった『ニワトリくん』を部屋で見つけると、乃絵の
投稿のことを思い出したのだった。それで、とりあえず、本当かどうか確かめようと。
「おはよう」と眞一郎が居間へ入ると、さすがのヒロシも眞一郎の時間の早さに、滅多に
崩さない新聞の城壁を下ろした。
「おはよう、早いな」
「うん」
 眞一郎は、照れくさそうに返事をすると、すぐに城壁は元の佇まいに戻っていった。な
かなか次の会話に進展しないのが、仲上家の父と息子では当たり前だったが……。
 仲上家の取っている新聞は、乃絵のいっていた○○新聞。
「親父、ちょっと新聞、いい?」
「後にしろ」
「いや、すぐ済むから」
「天気か?」
 ヒロシは、簡単に引き下がらなかった眞一郎に、新聞を開いたまま渡した。
 眞一郎は、急いでページをめくると、真ん中らへんのページに乃絵の記事をすぐ見つけ
ることができた。小さなスペースだったが、カラー写真が付きで載っている。それを確認
すると、すぐにヒロシへ新聞を返した。
 親の見ているところに割り込んで見たいと思った記事がなんなのか――ヒロシが眞一郎
に訊こうとしたとき、台所から理恵子と比呂美がお盆を持ってやってきた。理恵子は、眞
一郎の姿に驚くと、
「あら、雨はあなたの所為だったの?」
と語尾を上げて朝から嫌味をいい放った。

 この日は久しく、四人揃って食前の合掌をした。
 食事中、比呂美は、いつになく眞一郎を気にした。汁物をすするとき、傷が沁みている
ように顔を歪めていたからだ。
 理恵子もすぐにそれに気づいた。
「眞ちゃん、どうかしたの?」
「ん……口の中、切ったみたいで……大丈夫、大したことないよ」
 半分は比呂美に向けて、眞一郎はそう答えた。
 理恵子は、眞一郎の返答にごまかしの色を感じると、比呂美を見て、原因はあなたね?
と少し睨んだ。まだまだ理恵子をごまかせない比呂美は、目を泳がせ、肩をすぼめるしか
なかった。でも、理恵子はそれ以上追及をしてこなかった。
 それから、仲上家のいつもの朝食の沈黙がつづいた。
 食後に眞一郎の唇の傷に薬を塗ってあげようと考えた比呂美は、眞一郎のペースに合わ
せて、食事をした。
 やがて、眞一郎が先に食後の合掌をして立ち上がると、比呂美もすぐ合掌をして眞一郎
の後を追った。もう見抜かれているのだから、比呂美は堂々とした。
 理恵子もさりげなくふたりを目で追った。
「眞一郎くん、わたしがする」
 比呂美は、流しの前に立っている眞一郎を押しのけるようにして、その場所に滑り込む
と、食器を奪い取った。そして、
「歯、磨いてきて」
といった。
「え?」
「薬、塗ってあげる」
「あ、いいよこんなの、放っとけば治るって」
「見せて」
 比呂美は、手についた洗剤をさっと洗い流し、手を振って簡単に水切りすると、その手
のまま眞一郎の下唇をめくった。
「あっ……いっつー」
と痛みに顔をしかめる眞一郎。
「ほら、昨日より腫れてる。さ、磨いてきて」
「……うん」
 眞一郎は、まるで恥じらいのない比呂美の態度に、なんだかお袋みたいだな、と思った。
 それから、眞一郎が5分くらいして台所へ戻ると、とっくに洗い物を終えた比呂美が、
台所のテーブルの上にハチミツの入った瓶と小皿とスプーンを用意して待っていた。
「薬って、ハチミツ塗るの?」
「うん」
「洗面所で自分でするよ」
「いいから、もっと寄って」
 比呂美は、眞一郎の腕をつかんで、テーブルのそばまで引っ張った。
 眞一郎が間近に来ると、比呂美は、突然なにかに思いあたったように動きを止め、眞一
郎の頭の天辺付近をじっと見つめた。
「どうした?」
「背、伸びた?」
「え?」
「身長」
「どうかな」
 比呂美は、自分の頭の天辺に右手を載せ、そのままの高さで眞一郎の顔の方へ平行移動
させていった。
「3センチくらい伸びてるかも」
「そんなんでわかんのかよ。おまえ、いくつだった?」
「163センチ」
「おれ、確か、4月に測ったとき、171だったかな……」
「じゃあ、174くらいか……。眞一郎くんは、もう少し伸びるかもね」
 比呂美は右手を戻すと、小皿に取り出していたハチミツを人差し指につけた。
「はい、いーってして」
 比呂美は、前歯を磨くときのように前歯を合わせて唇を開いてみせた。
「んー」
 比呂美の真似をして、「はい、したぞ」と返事をする眞一郎。
 比呂美は、左手で下唇をめくり、右手の人差し指のハチミツをそっと傷口に被せた。
「はい、おわり」
 その様子を理恵子が近くまで見に来ていたが、比呂美は構わず人差し指をぺろっと舐め、
「できるだけ、そこ、舐めないようにしてね」
と眞一郎にいった。
「うん」
 理恵子は、顔をしかめて比呂美になにかいいたそうにしたが、比呂美は、それを無視し
てハチミツを片付け、作りかけの弁当に取りかかった。
 そのころ、ヒロシは、扉の開け放たれた居間で、理恵子たちのことにはまったく気にも
留めずに、新聞のある一点を凝視していた。
「………………」

 放課後――。
 朝からの雨は、依然とつづいていた。鳥肌が立つほど気温も下がっている。
 眞一郎は、乃絵のいっていた絵のことを西村先生に聞こうと、デザイン部の部室に行っ
たが、先生はあいにく不在だった。念のため西村先生に確認しておきたかったが、比呂美
を早く安心させたかったので、部活を休んで、乃絵のいった例の場所に行くことにした。
部室を後にした眞一郎が昇降口のロビーのところを歩いていると、ジャージ姿の比呂美が
駆け寄ってきた。
「眞一郎くん、もう帰るの?」
「うん、ちょっと用があって」
「そう」
 比呂美は、少し寂しそうにしたが、近くに人がいないことを確認すると、
「ねぇ、唇、どう?」
と少し声を落として眞一郎に訊いた。
「あぁ、ばっちり効いたよ。ありがと」
「よかった」
 眞一郎は、ハチミツの塗り薬に半信半疑だったが、唇の傷は比呂美の作った弁当を食べ
る頃には、すっかり腫れが引いていた。
「マイ・ハニー・パワー、なんちゃって」
「それ、寒すぎ。二度といわないで」
「はいはい。じゃあ、おれ、そろそろ……」
 比呂美に駄洒落を軽くあしらわれた眞一郎は、苦笑いしながら下駄箱へ向かった。
 比呂美も踵を返して廊下へ向かおうとすると、柱の影から『うるさい女』が姿を現した。
 こういうときは、下手に動かない方がいい。
 比呂美はそう判断すると、まるでその女がそこにいないかのように、平然とその女の前
を通り過ぎた。その女も、比呂美の対応を悟ると、黙って比呂美の後ろをついていった。
「…………」
「…………」
 先に口を開いた方が負け、と思ったふたりは、意地になって黙って歩いた。
 無言のふたりが、職員室の前にさしかかると、職員室から西村先生が出てきた。
 軽く会釈して通り過ぎるふたりに、先生は声をかけてきた。
「黒部。おまえ、あれ、どうする?」
 西村先生はそういうと、ちらっと比呂美に目をやってから、朋与に目を戻してニヤニヤ
した。西村先生の問いかけに、朋与は、人差し指を立て「しーーーッ」と小さく叫んだ。
「なに?」と比呂美。
「一番喜ぶ奴にあげるかな~」
と口笛を吹きながら先生は廊下を去っていった。
「…………」
「…………」
 こんどは、朋与がつけられる番となった。

 学校を出た眞一郎は、役場へ向かった。
 ずっと降りつづいている雨の所為で、どこもかしこも足場は悪い。学校の正門を出たと
ころから国道へつづいている長い坂道は、滝のように雨水が流れていた。現在、雨の勢い
は弱いものの、その雨水は、意思を持ったように坂道を転がり滑り、眞一郎の靴に衝突し
ては、一気にその中に進入してきた。
 なにもこんな日にいかなくてもいいか、と眞一郎は何度も断念しかけたが、乃絵のいっ
た「今だから……」というフレーズがすぐ頭の中をよぎった。

……今だから、知らなくてはいけない話……

 いつも、ポップコーンのように言葉を飛ばしてくる乃絵。一昨日の電話以来、乃絵には
珍しく言葉を慎重に選んでいるな、と眞一郎は思っていた。そして、乃絵との初めてのキ
ス……。
 小さい体、小さい顔、たった今下界に降り立ったような純真さ。それとは反対に、洞察
力が人一倍鋭い乃絵。正直、眞一郎は、乃絵と出会ってから、乃絵の生い立ちにずっと興
味があった。しかし、比呂美と同じように、乃絵も父と祖母を亡くして心の傷を持ってい
るように思えたので、気軽に乃絵の過去には触れられなかった。
(そういえば、おばちゃんの話をするのは、自分が初めて――とかいっていたよな)
 眞一郎が乃絵の過去の告白のことを思い出した途端、眞一郎は大きく首を振り、乃絵の
残像を振り払おうとした。

……なに、乃絵のことを考えているんだ。
  おれは、昨日、比呂美と約束したじゃないか。

 眞一郎は、急に歩くのを止め、靴を脱ぎ、さらに靴下も脱ぎ、それをぎゅっと絞って、
また靴を履いた。そして、大股で歩き出した。
 早く乃絵の話の正体をつかまなければ、また人を、比呂美を傷つけてしまうかもしれな
い。眞一郎はそう思うと、さらに足に力をこめた。

 それから――時計は、もう午後四時半を回っていた。
 まだ、雨雲に厚く覆われている所為で、夏至前とはいえ、辺りは暗く、車道を通る車の
半分は、ヘッドライトを点していた。
 国道を歩くこと20分、麦端町役場の白い建物が見えてきた。愛子と同じ制服の女子高
生数人とすれ違いはしたが、他に通行人の姿はなかった。
 役場ということろは、学生にはほんとど用のない場所だが、眞一郎は、今年の初めに、
麦端踊りの花形を紹介するための写真を、ここに撮りに来ていた。

……麦端踊り。絵本。ニワトリくん。キス。そして、これから見る絵……

 眞一郎が校庭の隅の木の上で乃絵を初めて見かけて以来、あらゆることに乃絵が絡んで
いた。半年以上たった今も、その糸は完全に解けきっていないように眞一郎には思えた。

……ほんとうに、呪いがかかってんじゃないのか? 乃絵……

 眞一郎は、乃絵と自分の因縁めいたものに顔をひくつかせて笑った。

……確かに、比呂美とっては、こういうの、おもしろくないよな……

 比呂美は、乃絵と自分の因縁を感じて、それで苛立っているのだろうか。
 比呂美は、以前とは違って、仲上家にいるときでも明るく笑うようになったが、最近、
急に人が変わったように感情をむき出しにすることがあった――眞一郎だけに。その度に、
眞一郎はどう対処したらいいのか分からず、ただ堪えることしかできなかった。
 比呂美のことを一番に想っていながら、結果的に比呂美に対して自分は冷たい――この
ことが、眞一郎には心苦しかった。そして、次の言葉がいつも浮かんだ。

 包容力――。
 相手の言動や行動に左右されずに、相手を広く受け入れ対処する能力。

 眞一郎は、まだ17歳。包容力が足りないと非難を浴びるには、随分と早い年齢。
 しかし、周囲の目は、そうではないのだろう。
「恋愛から一歩進んだ関係になりつつある」
 眞一郎は、乃絵のこの言葉に、かなり応えていた。
 比呂美との恋愛事情に浮かれていたわけではないが、比呂美の笑顔を取り戻したあと悠
長に構えていたことは否定できなかった。だから、眞一郎は、乃絵の言葉に現実を突きつ
けられたような感覚に見舞われ、ぎゅっと胸が締め付けられてしまった。

――果たして、これから目にする絵は、
 さらなる現実を突きつける大きな壁となるのか。
 はたまたそれを打破するための希望の扉となるのか、
 あるいは、そのどちらともなり得るのか――

 今、眞一郎の心を襲うものは、まぎれもなく恐怖だった。
 そして、その心は体全体へ次第に伝わり……眞一郎の雨に塗れた足先が氷のように冷た
くなり、周囲の雑踏がフェードアウトするにつれ、鼓動が高鳴った。

 役場のとなりに位置するその建物は、役場の建物に比べるとこじんまりとしていた。赤
レンガが壁の装飾に多く使われていて、古い日本家屋の多いこの地には、少し浮いた感じ
がした。案内看板に横文字でも目に付こうものなら、オランダかどこかの国を連想させら
れただろうが、玄関の自動扉の横に、見事な筆字体で、『麦端商工会館』という看板が掲
げられていたので、少し妙な感じだった。
 眞一郎は、玄関扉の前まで進んで、傘を置き、自動扉を開けた。奥にもうひとつ自動扉
があった。
 そのガラス扉に映った自分を見た眞一郎は、大きく深呼吸をして、乃絵の忠告を確認し
た――今、自分はひとりであると。隣に比呂美はいないと。
 二つ目の扉を抜けると、二階まで吹き抜けのロビーが広がっていた。ロビーには灯りが
点けられておらず、非常口の案内の灯りが目立った。白い蛍光灯の点いている右手の奥に
は、銀行のカウンターのような窓口があり、その奥に事務机が整然と所狭しと並んでいた。
 眞一郎は、カウンターの方へ足を向かわせた。事務員が数人しか、座っていない。
 ぐちょっと雨に塗れた靴音が響くと、机に向かった事務員全員が、一斉に眞一郎を注目
した。すぐに、一番奥に座っていた白髪の年輩者が立ち上がって、机の間をすり抜けてき
た。たぶん、偉い人なのだろうと、眞一郎は思った。
「あの、すみません」
 その偉い人は、カウンターで止まらずに、眞一郎のそばまでやってきた。
「やっぱり、そうだ。きみぃ、仲上さんとこの坊ちゃんやな」
「あ、はい。仲上眞一郎です」と眞一郎は丁寧に頭を下げた。
「親父さんのお遣いか?」
 偉い人は、孫でも見るような笑顔を眞一郎に向けた。
「い、いえ……あの……」
「麦端踊り、がんばったな。見ていたぞ」
と偉い人は、眞一郎が用件を言おうとしたのを遮った。
 眞一郎は、すこし衝撃を受けていた。自分が初めて訪れた場所で、自分の話題がされる
とは思ってもみなかったからだ。
「ヒロシくんに、負けてなかったぞ」
「そ、そんな、無我夢中で、その……」と頭を掻いて照れる眞一郎。
「若いうちは、それでええっちゃ」
 このまま自分の踊りの話がつづきそうだったので、眞一郎は、すぐに用件を切りだした。
「あの……すみません」
「うん、なにかな?」
 おっとすまん、といった感じに、偉い人は目を丸くした。
「絵を、見に来ました」
「おっ……」
 偉い人は、何かに思い当たったように全身を固まらせたが、すぐにほぐれると、
「学校でなにか噂になっているのかな?」
と、眉毛を持ち上げて、眞一郎に尋ねた。
「え?」
「こないだも、麦端高校の生徒さんが見に来ていたよ。ちっちゃい女の子だったが」
と偉い人はいうと、事務机に座っている女性に振り返って、いつだったっけ? と声をか
けた。

……乃絵だ!

 眞一郎は、そう思った。
「それで、よろしければ、見せていただきたいのですが……」
「あぁ、構わんよ」
といって、偉い人は、カウンターと向かい合っている壁の方へ歩き出した。つまり、玄関
から入って、左手奥の壁である。その壁には、暗幕が下ろされていた。この向こうに絵が
あるのだろう。
「ここで、待ってなさい。今、電気点けてあげるから」
 さらに、偉い人は、壁から5メートルくらい離れたところにいろ、と付け加えた。
 偉い人がロビーの隅にある小部屋に姿を消すと、ロビーに一斉に灯りが点けられた。そ
れから、その壁に向けられた照明の幾つかも点けられた。
 そして、ヴーというモーター音と共に暗幕が上がりはじめた。

 緑。
 黄と黒。
 獣。

 その絵は……。
 虎の絵、だった。
 鬱蒼と茂った竹林に、一匹の虎が真っ直ぐにこちらを睨みつけ、今まさに跳びかかろう
としていた。

 眞一郎の全神経はいっぺんに支配された――その虎に。
 どこかの神話のように石にされてしまったようだった。
 だから、握り締めていた鞄の落ちた音など、耳に入るはずもない。自分の鼓動さえ感じ
ることができない。息もできない。
 しかし、虎は、眞一郎の眼球の自由だけを、僅かに残していた。自由といっても、それ
も虎の策略の内で、虎は、眞一郎の視線を強引に引きずりだしたのだ。
 己の目。目から鼻。口と牙。顎の輪郭から耳。前足、横腹、後足、尾っぽ。
 ほれ、よく見ろ、ほれ、よく見ろ、と眞一郎の目は、虎に嬲られた。
…………。
 視線を一通り引きずり回された眞一郎は、ほんの少しだけ、拘束が緩まって、僅かな自
由を得た。徐々に、虎の見えない圧力によって、背中へ体が押されだしたのだ。しかし、
まだ、眞一郎の感覚は、それを察知しすることができない。体が普通の状態なら、反射的
に片方の足を引いてバランスを保とうとしただろうが、それができないのだ。
 虎は、まったく圧力を緩めようとしない。
 眞一郎の体は、背中の方向へさらに加速しだした。そのとき……。
 背中に柔らかな衝撃を感じた。
 眞一郎は、びくっと体を震わせ、ようやく、足をずらすことができた。
「おい、大丈夫か?」
 偉い人が、倒れる眞一郎の体を背中に回って支えてくれたのだった。眞一郎は、すぐに
両肩をつかまれ、体を真っ直ぐに戻された。虎の支配の糸はいったん切れたようだった。
「す、すみません」と眞一郎は、慌てて謝る。
「凄い迫力だろう?」
「はい、息が止まりました」
「そうか……止まったか」
 偉い人は、目を細め、大きく頷いた。そして……。
「こないだ、見に来た女の子は、涙を流していたな……」
「え!」
 眞一郎は、思わず声を上げ、偉い人に顔を近づけた。
「……知り合いの子なのか?」
「…………はい……彼女から、聞きました……この絵のこと……」
「そうか……そりゃ、坊ちゃんのこと惚れてんだな~」と偉い人はしみじみいった。
「…………」
 眞一郎は、なにも答えることができなかった。
 眞一郎のそんな様子におおかた察しのついた偉い人は、それ以上つっこまず、
「気の済むまで、気が済むまで見ていけばいい」
といって、カウンターの方へ歩いていった。眞一郎は、偉い人の背中に深々と頭を下げた。
そして、再び振り返り、虎と対峙した。
 また、眞一郎めがけて、ドッーーンという容赦のない圧力が襲ってきたが、こんどは、
眞一郎は、なんとか自力で踏ん張ることができた。
 それから、半歩ずつ、その虎に近付いていった。その度に圧力がどんどん増していく。
 まさに虎に食べられそうで、眞一郎は、へたり込みそうになったが、間近までどうにか
辿り着くと、圧力がふっと和らいだ。台風の目でも入ったように。
 眞一郎は、大きく深呼吸して、絵の細かな部分を観察しだした。
 まず、大きさ。畳を横にして、それを三段積み上げ、それを横に三列作った大きさ。お
およそ、横6メートル、縦3メートルの大きさだった。
 使われている絵の具は、日曜大工の店ですぐに手に入る、速乾性の水性ペンキ。
 ほとんど刷毛(毛先の平たい筆)で描かれていたが、ところどころ、ペンキをそのまま
叩きつけたような箇所があった。
 全体的にとても荒々しいタッチだったが、少し離れてこの絵を見ると、そのひとつひと
つのタッチが、大胆かつ巧妙で、計算され尽くされたものだった。
 ペンキの色の混ざり具合から、刷毛による『かすれ具合』を見事に織り交ぜ、虎の毛並
みや、肉付き、立体感、竹の葉っぱの鋭さや揺れ具合などを表現していた。
 眞一郎もデザイン部に入部して以来、西村先生にさんざん看板など描かされていたので、
この圧倒的な卓越した技術と神がかったタッチの凄さに気づくことができ、舌を巻いた。
 それに、もうひとつ、この絵を描いたスピードである。
大きいサイズを描く場合は、全体のバランスを見ながら進めていくので、どうしても、
ちまちまとした作業になりがちだが、そんな感じがまるでないのだ。ひとつひとつのタッ
チから作者の心の迷いを微塵も感じない。相当なスピードで描かれたに違いない、と眞一
郎思った。
 一通り観察し終えた眞一郎は、自分の体の変化に気付いた。
 体の芯が炎で焼かれているみたいに熱くなり、血流が物凄く速くなっているのを感じた。
 血液が、沸き起こっている感じだった。
 そのときだった。眞一郎の頭の中で何かが弾けたのだった。

……これ、親父が描いたんだ……

 疑いようがなかった。
 今まで、美術館などでたくさん絵を見てきて、感動することはいくらでもあった。急に
鼓動が高鳴ったり、ぐっしょりと汗を掻いたりすることはざらだった。しかし、今日のは、
それの比ではなかった。次元がまるで違っていた。だが、決して、今まで見てきた絵がこ
の虎の絵に格段に劣っているというわけではないのだ。
 ようするに、今、眞一郎の体の中で起こっている現象は、眞一郎でしか起こりえない反
応。それは、つまり……。

……血が騒いでいるんだ。親父の血を引いているおれの血が……

 初めての感覚だった。
 眞一郎の体のひとつひとつの細胞が、この絵を感じている――視覚を飛び越えて。
 眞一郎は、もう一度、絵から5メートルくらい離れ、見た。
 眞一郎は、驚き、そして、すぐに納得した。
 最初、あれほど攻撃的だった虎が、とても深い優しさに満ちたものに見えたからだった。
 そして、自然と、眞一郎の目から、涙が頬を辿りだした。眞一郎は、肩を震わせずに、
いつのまにかに泣いていた。
…………。
 さきほど眞一郎の応対をした岡田さんは、眞一郎の変化を、遠くから見つめていた。
 そして、近くの女性職員にひと言声をかけた。
…………。
「あの……」
 眞一郎は、背後からの声に、はっと我に返り、慌てて涙を拭った。
「あの、お茶、どうぞ」
 色白の女性の細い両手に湯呑みが乗っていた。
「あ、あの、すみません、ありがと、ございます」
 眞一郎は、なんとか取り繕ってお礼をいい、湯呑みに手を伸ばしたが、手が震えて湯呑
みがつかめなかった。あれ、あれ、と照れ笑いしてなんとか平静を取り戻そうとしたが、
手の震えは増すばかりだった。
 そんな眞一郎の様子に気づいた岡田さんは、慌てて駆け寄った。
 岡田さんは、女性職員から湯呑みを受け取ると、眞一郎の肩を抱いて、ロビーの隅のソ
ファーへ連れていき、眞一郎を座らせた。
 眞一郎の目からこんどは、大粒の涙がこぼれだした。
「す、すみ、ません」
眞一郎は、声をしゃくらせながら、なんとか声を出した。
「はずかしがることないよ。涙が出るのは、君が優しい心を持っている証拠さ」
といって岡田さんは、眞一郎の肩をポンと叩くと、つづけて話しだした。
「もう、20年くらい前になるかな……。ちょうどこの建物を改築した後だった。当時の
ここの館長が、麦端高校の体育祭の来賓で呼ばれて、そこで、この絵を見つけ、惚れ込ん
だんだ。やぐら(※)の看板絵だった。そのとき、まだこの壁には飾り物がなくてな、グ
ッド・タイミングというやつだ。館長は、すぐ学校側に申し出て、生徒達には一切手伝わ
せずに、職員総出で運んだんだ。わたしも、手伝ったよ」
(※競い合うチームの本拠地、そこで応援合戦が繰り広げられる)
「あの……これ、描いた生徒とは……」
 作者とは話したんですか? と眞一郎は尋ねようとした。
「うん……それが、美術部の二年生の連中とかで描いたっていっていたな。だから、作者
は、麦端高校美術部ということにしてある。ほれ、お茶、飲め」
「あ、すみません。いただきます」
 眞一郎は、湯呑みを受け取り、一口すすった。

……親父が絵を描いていたとは、聞いたことがない……

「そういえば、年末の大掃除のときに、西村君が見に来るな、毎年。何回か絵を保護する
塗料を塗ってもらったことがあるよ」
「え? 西村先生が……」
「そうそう、先生」
「西村君とかが描いたんやろう」
「……そうですか」
 眞一郎は、複数の人数では、こんな絵は描けないと思ったが、そう相槌をうった。
「……それから、わたしは、この絵を見ながら、朝、ラジオ体操するのが、日課になった
よ。朝っぱらからニンニク食べた気分になってな、お陰で風邪を引いたことがないよ」
といって岡田さんは、はっはと笑った。眞一郎も釣られてふふっと笑った。
「老いも若きもない。魂のこもったやつは、だれの心にも届くんだな……17歳の少年が、
60過ぎた老人の心を射抜くんだぞ、凄いってもんじゃない。つくづく人間といういう生
き物が可笑しく思えるな、仲上君」
 また、岡田さんは盛大に笑った。

……17歳。
  今だから、知らなくてはいけない話……

 眞一郎は、乃絵のその言葉を静かにかみ締めていた。

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