ファーストキス-8


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――第八幕『勘違いしないで』――

★六月十九日(木曜)雨のちくもり、夕方から晴れ――

 朝方までつづいた雨は、正午前に止んだが、まだどんよりとした雲が残っていた。
――体育館の勝手口を出たところで、二人の少女が対峙していた。
 二人の身長差は、10センチだったが、気迫は五分五分だった。
 やがて、小さい方が、頭を下げた。すぐに大きい方も、慌てるように頭を下げた――

 午前の最後の授業が終わり、終了のチャイムが鳴り終わる前に、眞一郎は、教室から飛
び出していった。なにごとか? と比呂美は眞一郎を目で追ったが、今朝のことがまだ治
まっておらず、ぷいっと体を前へ戻そうとしたとき、眞一郎が消えていった扉の向こうに、
乃絵が姿を現した。
 今朝、眞一郎の夢に登場した女――。
 乃絵は、黙って、比呂美を見つめたまま、歩み寄ってきた。
「話があるの」
 比呂美は、その言葉を聞いた途端、顔をしかめた。乃絵には、弁当を食べたあと謝りに
いくつもりでいたのに、またしても乃絵に先を越されてしまったからだ。
「……わたしも」
 比呂美は、立ち上がると、朋与に声をかけずに、乃絵の後ろをついていった。
 そのとき、比呂美の背中は、「ついてくるな」と朋与に告げているようだった。
 二人が教室から消えると、いつもの休み時間の賑わいが戻ってきたが、三代吉と朋与は
それに加わらず、お互い顔を見合わせ、どうする? とアイコンタクトを交わした。

 眞一郎がデザイン部の部室の扉を開けると、予想通り誰もいなかった。
 そもそも、ペンキやらニスやらの匂いが充満している部屋で誰も弁当を食べようとは思
わない、ただ一人を除いては。
 眞一郎は、扉を閉め、奥に進む。さらに隣室へのドアがある。その部屋は、工作室と呼
ばれ、簡単な工作機械を扱う場所だったが、半ば、西村先生のプライベートルームと化し
ていた。非常勤講師である西村先生の事務机は、職員室にはないので、麦端高校に来てい
るときは、ここで昼食を取るのが常だった。

 コン コン

 おうっ、とドアの向こうからおっさんのような返事が返ってきた。
「仲上です」
といって、眞一郎は、ドアを開け、西村先生の居場所を確認した。
「忘れ物かー?」
 西村先生は、窓際の作業台で弁当とカップ麺を食べている。
「いえ……」
 眞一郎の様子が普段とは違うことに気づいた西村先生は、すぐ箸を置いた。そして、し
ばらく黙って眞一郎を観察すると、眞一郎がここに来た訳を確認した。
「石動に、聞いたのか?」
「……はい……」
 西村先生は、あちゃーと頭を掻いた。

                  ◇

 乃絵は、体育館の勝手口の扉のロックを外し、重そうに扉を開け、外に出た。比呂美も
あとにつづき、扉をゆっくり閉めた。
 比呂美は、乃絵が自分に振り向いたら、まず謝ろうと思っていた。が、乃絵はすぐに振
り返らずに、背を向けたまま、「ごめんなさい」と発して、その後すぐに振り返り、深々
と頭を下げ、もう一度、「ごめなさい」と謝った。
 なぜこうも、いつもいつも、わたしの先手を打つんだ――比呂美は、乃絵に対して意地
になり、乃絵よりも頭を深く下げ、乃絵よりも大きな声で、「ごめんなさい」と謝った。
 二人の間にさわやかな風が吹き抜ける。やがて、二人は示し合わせたように、ゆっくり
と頭を上げた。それから、次に口を開いたのは、比呂美だった。
「昨日は、ごめんなさい。殴ったりして、ごめんなさい」
 比呂美が顔を上げると、乃絵は、比呂美の目を黙って見つめた。
 比呂美も、乃絵の瞳を見つめ返した。
 乃絵の瞳は、深く、深く、どこまでも沈んでいくような奥深さがあった。比呂美は、本
当の乃絵の瞳を見た気がした。まだ、子供っぽさが抜けきらない顔に、なぜか目だけは大
人びている。
 比呂美には、乃絵が今、何を考えているのか分からなかったが、必死になって、乃絵の
瞳に吸い込まれそうになるのを堪えると、僅かに乃絵の口元が緩んだ。
「仲上君、羽ばたく準備をしたみたいね」
「え?」
 眞一郎の心の状態を自分の瞳から汲み取ったというのか――そう思うと比呂美は、少し
気持ち悪くなったが、今はめげてはいられなかった。
「きのう、あのあと、愛ちゃんと話したの……そして、聞いたわ……」
 途端に乃絵の目が、ぱっと見開いた。そして、すぐに比呂美を慈しむような目に変わっ
た。
「わたし、いやだったけど、くやしかったけど、あなたを責める気には、もうなれない」
 乃絵は、黙って比呂美の次の言葉を待った。
「だけど……だけど……眞一郎くんを、甘くみないで」
 こんどは、乃絵の顔が驚きに変わる。
 それは、比呂美が乃絵の心の奥底を見抜き、貫いたからだった――乃絵がはっきりと自
覚していなかった気持ちを。
「あなた、心のどこかで、眞一郎が自分の思い通りになると思っているでしょう?」
と問いかけた比呂美は、愛する者を守ろうとする女の目をしていた。

                  ◇

「それで、見に行ってきたのか?」
「はい……」
「そうか……」
と呟いた西村先生は、遠くを見るような目をした。
「……教えてください」
「ん?」
「教えてください、父のこと」
「……」
 西村先生は、黙って鼻ひげをもてあそんだ。

                  ◇

「デザイン部は?」
「いなかった」
「ニワトリ小屋は?」
「いなかった」
 昇降口で出くわした朋与と三代吉は、眞一郎と比呂美の捜索情報を交換していた。
「あいつらなら大丈夫だよ、黒部さん」
「あいつらって誰のこと指してんの? 比呂美と仲上君? それとも石動乃絵」
「湯浅さんと石動さんだけど……」
 朋与は、目を丸くした。三代吉は間違いなく『比呂美と仲上君』という組み合わせを答
えると思っていたからだ。眞一郎と親友の三代吉が、眞一郎の名前を外すのがにわかに信
じられなかった。
「大丈夫って……石動乃絵、比呂美を呼び出したのよ! 弁当も食べさせないで。あなた、
見てたでしょう?」
 朋与は、話を戻して、三代吉の「大丈夫」発言に食ってかかった。
「あ~、そのことなんだけど……」
「なに?」
「あいつら、きのう、一戦交えたんだ」
「ええーーッ!」
 昇降口で朋与の素っ頓狂な声がこだまする。
 朋与は身をかがめ、三代吉ににじり寄った。
「いつ? どこで? どんな風に? 他だれがいたの? あなた見てたの?」
 三代吉は、朋与の機関銃のような質問攻撃に対して二歩下がったが、朋与も二歩近づい
た。
「愛ちゃんの店でだよ。おれが店いったとき、もう三人がいて、ちょっとやばいな~って
感じだった」
「そ、れ、で」
 先をさっさと言えと、朋与は顎をしゃくる。
「おれが知っているのは、そんだけだよ。女同士の話だから、首突っ込むわけにもいかね
~しぃ」
「役立たず」
 朋与は、顎に手をあて、なにか考えだした。
「でも……」
 朋与は、その声にすぐ反応し、また三代吉を睨む。
「愛ちゃん、大丈夫だって、いってたぜ。たぶん、今ごろ仲直りしてんじゃねぇーの?」
 そんな言葉で朋与が納得するわけもなく、朋与は、携帯電話を取り出した。
「比呂美に電話する」
「やめとけって」
 三代吉は、朋与の手首をつかみ、それを制した。
「湯浅さん、黒部さんに声かけずに出ていったろ? 親友の無言のメッセージを無視しち
ゃいけねぇーよ、な?」
 三代吉のことを喧嘩バカだと思っていた朋与は、三代吉のこの気の利いた台詞にまた目
を丸くした。
 呆気に取られていた朋与に、三代吉は白い歯を見せてにかっと笑った。
「それにしても、眞一郎は、どこいったんだぁ~?」

                  ◇

 乃絵は、今まで感じたことのない恥ずかしさに支配されていた。裸にされるよりも、恥
ずかしいことなのではないかと思うほどだった。
 目の前に立っている凛々しい少女は、確かにこういった。

……心のどこかで、眞一郎が自分の思い通りになると思っているでしょう?

 もう、眞一郎の隣にいることは許されないというのに……
 それは分かっていることなのに……
 そんなこと考えてもどうしようもないのに……
 それなのに……乃絵は、その言葉を否定することができなかった。

……眞一郎を思い通りにしようなんて、思ってない。
 どうしてその言葉が出てこないの!

 乃絵は、自分に必死に問いかけた。
 しかし、自分からは、なにも返ってこなかった。

……どうして応えてくれないの!

 急に激しい不安に駆られた乃絵は、立っていられなくなったが、でも、踏ん張った。こ
の女を見ていると踏ん張らずに入られなかった。両親を亡くして、たくさん傷つくことが
あっただろうに……それなのに、この女はこんなに清々しい目をしている。
 綺麗だった。美しかった。負けたくなかった。ふつふつとライバル心が湧き起こった。
 そして、乃絵も、自分の中の清々しいものをこの女にぶつけてやろうと思った。
「わたし、あなたが、嫌いよ!」
 比呂美は、突然のその言葉に目を真ん丸くして驚いたが、すぐに返した。
「……ありがとう、好きっていわれたらどうしようかと思っちゃった」
 比呂美は、ふふっと笑うと、優しい眼差しを乃絵に送った。それは、決して勝者が敗者
に送る同情ではない。乃絵の姿に、かつての自分を覚えた慈しみだった。
「眞一郎くんは、まだ、全部話してくれないけど…………でも、なんとなく分かる。なぜ、
話してくれないのか」
「…………」
「わたしの知らないことを、あなたと眞一郎くんが共有しているのは、あまり気分よくな
いけど、このさき、こういうことは、たくさんあると思う。だから、もう、あなたに腹立
てたりしない」
 比呂美は、きっぱりとそういったが、乃絵は、すぐ否定した。
「それは、違うわ」
「え?」
「わたしと仲上君だけの秘密じゃないわ。勘違いしないで」
「わたしには、同じようなものよ」
「それに、あなたが腹立てているのは、わたしにじゃない。自分自身にでしょ? だって、
あなた、私のこと眼中にないもの。わたしを通して仲上君をずっと見ている。ちがう?」

……いするぎのえを通して眞一郎を見ているだって?

 こんどは、比呂美の方が声が出なかった。その言葉を否定できなかった。確かにそうだ
と思った。
 眞一郎の電話を盗み聞きしたのは、話の内容を知りたかったからではない。乃絵の言葉
に対する眞一郎の反応が知りたかったから。
 昨日家を飛び出し、乃絵に食ってかかったのも、乃絵を疎ましいと思っていたからでは
ない。眞一郎が何に苦しんでいるのか手がかりが欲しかったから。
 確かに、比呂美は、乃絵を通して、眞一郎をみているところがあった。それが、いいこ
となのか、いけないことなのか、比呂美には、まだ分からなかったが……。
「そうね……そうかもしれない……ごめんなさい」
 比呂美は、乃絵の言葉を素直に認めた。
「人を好きになると、もっともっと知りたいと思うよね……手段を選ばずに。気にするこ
とないわ……」
 そう呟いた乃絵に、ようやく天使のような笑顔が戻りつつあった。
 その笑顔を見た比呂美は、いつかその笑顔以上の笑顔を、眞一郎に見せてやるのだと、
ライバル心を燃やすのだった。

                  ◇

「おまえ、昼飯は?」
「いいです……」
 西村先生は、肩を揺らして大きく息を吸って吐いた。
「こっちきて座れ。コーヒー飲むか?」
「……はい、すみません」
 西村先生は、立ち上がり、保温器の上に乗っているコーヒーの入ったビンを取り、紙コ
ップに注いだ。
「砂糖とミルクは、ない」
 眞一郎は、西村先生の向かい側に座った。ぎしっと椅子のきしみ音が恐々しく響いた。
「きのう、見てきたのか?」
「はい」
「どうだった?」
「心臓が止まりそうでした」
 西村先生は、一瞬ぎょっとしたが、眞一郎の正直な感想に、そうかそうかと頷いた。
「親子、だからな。それもアリだろう」
 おっさんの風貌の割には、言い方が今風だった。眞一郎は、自分より一つ上の歳の娘が
いる所為だろうと思った。
「おまえの様子だと、だいたい知っているみたいだな。どこまで知ってる?」
「父がひとりで描いたこと、これは僕の推測ですが、それと……父が最後の絵としたこと
です……」
「そうか……どちらも……その通りだ」
「どうして作者を伏せているんですか?」
 眞一郎がいきなり核心を突いてきたので、西村先生は少したじろいだ。
「ま~待て。順番に話そう。な?」
「はい……」
 二人は、静かにコーヒーをすすった。
「おれとヒロシ、おまえの父と麦端高校の同期なのは知ってるよな」
「はい」
「二年生の時だ。体育祭のやぐらの看板を描くことになってな、おれ美術部だったから。
でも人手が足りなくてな。三年生はめんどくさがってやらないし、一年はまだ足手まとい
になるから、いつも二年生中心で描いてたんだ。あの頃は、デザイン部もないし演劇部も
ない。やぐらの看板だけじゃなくて、仮装行列やらなんやらでやることがぎょうさんあっ
た。そこで、ヒロシに手伝ってもらおうとしたんだ」
「父は、美術部じゃなかったんですか?」
「いや、なんにも入ってなかったが、絵はうまかった。半端じゃなかった。美術の授業に
描いたやつとか全部見たが、当時のおれには、神がかっているようにしか見えなかった。
それで、思い切ってヒロシにお願いしたんだが、すぐに返事してくれなかった」
「どうやって、説得したんですか?」
「いや~、それなんだが……。次の日、ヒロシがおれのところにやってきてな、描くって
いきなりいい出したんだ。おれ、だめかな~って思ってたんだけどな。だけど、ヒロシの
やつ、条件があるっていい出してな」
「条件……」
「あぁ……。おれひとりに描かせろって」
(やっぱりそうだ……)
「おれ、それ聞いて、ぶっ飛んだよ。四人かけても一週間くらいかかるもんなんだぜ。ヒ
ロシのいっていることは無茶そのものだった。でもな、ほんとに人手がいったし、ヒロシ
も一晩考えたことなんだし、やらせてみることにしたんだ」
「それで、ひとりで描いたんですか?」
「その前に、もう一つ、条件があってな」
「もう一つ?」
「あぁ……」
「それって、もしかして……」
「美術部で描いたことにしてくれって、自分の名前は伏せてくれって」
「そんな……」
「そりゃ、そのことは、おれも反論したぜ。美術部をバカにするなってな。でもな、あい
つ、入部届けを握り締めていたんだ」
「え?」
「看板を描く間だけ、美術部に籍を置くって、これなら文句ないだろうって。……で、そ
の売られた喧嘩をおれは買ったわけなんだな」
「それで……」
「うん。それでヒロシに好きにやらせたよ。でもな、やっぱり心配じゃん? ヒロシも意
地になっているところがあったから。だから、いつでもフォローできる体勢で見守ってい
たよ。そして、ヒロシは描きあげたんだ。あの絵を、たった三日で」
「三日でっ!!」
「そばでずっとみていたけど、ヒロシの描いている姿は、正直怖かったよ。何か憑きもの
が憑いている感じだった。全然、迷わないんだ。一筆書きみたいにペンキを乗せていきや
がる。まさに、神がかっていた……」
 眞一郎の手が、いつの間にか震えていた。
「それで、ヒロシが描きあげたあと、もう一回説得したんだ。ちゃんと堂々と名前を出し
た方がいいってな。そしたら、ヒロシのやつ、ようやく訳を話してくれたよ――」

                  ◇

 比呂美と乃絵が昇降口の手前のロビーを歩いていると、朋与が物凄い勢いで駆け寄って
きた。
「比呂美ィ、大丈夫ー?」
「うん、ごめんね」
「仲上君、一緒じゃなかったの?」
 この朋与の質問に乃絵が答えた。
「仲上君なら、西村先生のところよ」
「えぇ?」
 比呂美と朋与は、乃絵を見た。
「午後の授業、出ないかもね」
と乃絵は、ぽつりと付け加えた。
 その後、比呂美たちは教室に戻り、急いで弁当を食べたが、眞一郎は、乃絵の予言通り、
本鈴が鳴っても教室に戻ってこなかった。
 授業のためにやってきた数学の先生は、なぜだか、眞一郎の席を確認するだけで、なに
もいわなかった。
 比呂美が、眞一郎の席を何度見たところで空席は変わらない。もう授業開始から10分
過ぎている。もう一度、眞一郎の席に目をやると、比呂美を見ていた三代吉と目が合った。
(眞一郎くん、どうしたんだろう?)
 比呂美は、表情を細かく動かし、三代吉に訊いた。
 三代吉は、少しにこっとした表情をすると、右手の掌を比呂美に向け、待て、のポーズ
をした。そうすると、三代吉は、なにやらノートに書きだした。書き終わると、ノートの
端をびりっと破って折りたたみ、湯浅さんへ、と書いて、後ろ斜めの席の者に渡した。
次々と、その紙切れは比呂美の席の方へ手渡されていき、5秒もかからず比呂美に届けら
れた。比呂美は、急いで紙切れを広げた。

『しんいちろうは 西村先生の用で外出するって
 昼休みに げたばこで会ったんだ 心配ないよ』

 比呂美は、読み終えると三代吉を見て、ありがとう、と微笑んだ。それを見た三代吉は、
親指を立てて、にかっと笑った。すると、いきなり、
「じゃ~、野伏、これ解いてみろ」
と先生の声が飛んできた。
「げっ」
 後ろの席の連中はくすくす笑った。

                  ◇

 眞一郎が、麦端町商工会館の二つ目の自動扉をくぐると、その場所には相応しくない無
邪気な歓声が、耳に飛び込んできた。それに、ロビーの電気がすでに点けられていた。
 まさか、と思い、左奥の壁に目をやると暗幕が上げられていて、虎がお出ましになって
いた。そして、その手前に、今にも食べられそうな小さな子供たちが、群がっていた。
 その子供たちの後ろで彼らの引率者と話をしていた岡田さんは、眞一郎の姿に気づくと
ニヤニヤしながら近寄ってきた。
「どうした? サボりか?」
「えぇ~まぁ~」
「ははっ、ま~そういうときもあるわな」
と笑い飛ばすと、ゆっくりしていきなさい、といった。
 そのあとすぐに、色白で華奢な女性が、眞一郎に麦茶の入ったグラスを持ってきてくれ
た。
「あ、すみません、お構いなく」
 眞一郎は、グラスを受け取り、ぐびっと飲んだ。
「近くの幼稚園の子供たちでな。年に数回、あの絵を見にくるんだ」
「へ~」
 まだ場を弁えることを知らない子供たちは、動物園のサルみたいにきゃっきゃと声をあ
げている。
「そりゃ~もう、大騒ぎさ」
 岡田さんは、他の職員に申し訳なさそうに頭を掻き、また盛大に笑った。
「あの子達は、まだ本物の虎の怖さなんか知らない。でも、分かるんだな、この生き物が
どういう生き物なのか。それに……」
「…………」
「この絵の凄さに……」
と岡田さんはそういうと、ほれ、見てみろ、というように顎で子供たちを指した。
「え?」
「絵には、絶対、触れないんだ」
「!!」
 確かに、絵と子供たちの間に2メートルくらいの空間があった。ロープも張ってないの
に、ぴたっとそこで止まっている。
「間際までいって絵を見る人は、おまえさんみたいな、絵を描く人間だけさ」
「あ……」
 岡田さんはこの絵の本当の作者のことを知っているのでは?
 眞一郎はそのことを尋ねようとしたが、それは父自身の問題だと思い、出かかった言葉
を押し戻した。そして、西村先生が話してくれた父の言葉をかみ締めた――。

「――いずれ生まれてくる子供の夢を摘みたくないってな」
「え……」
 ある程度予想していた言葉とはいえ、当時の父のことを知っている人物にこうもはっき
りといわれると、眞一郎は息が詰まりそうになった。眞一郎の体に、なにかぞわぞわとし
たものがまとわりつく。恐れや恐怖といった感覚ではない。大きな失敗をやらかしたとき
のような体の痺れだった。西村先生は、眞一郎のその様子に気づいたが、構わずつづけた。
「それは、自分の才能を自惚れていった言葉じゃない……おまえなら、もう分かるな?」
「はい……分かります」
 眞一郎は、なんとか紙コップをつかみ、冷めたコーヒーをすすった。
「予感みたいなものがあったんだろうな~」
「予感?」
「一晩考えて、描かせろといってきたヒロシ……これは、おれの推測なんだが……たぶん、
ヒロシは、その夜、ヒロシの親父さんと話し合っているよ。最後にするから、思いっきり
絵を描かせてくださいって」
「え……」
「もうそのときは、跡継ぎの話が、ヒロシにのしかかっていたのだろう。だが、なかなか
気持ちの整理がつけることができずにいた。仲上家に生まれた以上、跡を継がなければい
けないという使命感みたいなものもヒロシにはあったとは思うが、それでも夢を諦めきれ
ずに悩んでいた。そこに幸か不幸かやぐらの看板の話が舞い込んだ。ヒロシも怖かった思
うぞ、このタイミングの良さに。それで、決断する儀式をこれに選んだんだ」
「決断する儀式……」
「あぁ……全身全霊を込めて絵を描き、それを最後とし、酒蔵の跡を継ぐってな……」
 眞一郎の手が大きく振るえ、紙コップを倒しそうになったので、眞一郎は慌てて手を離
した。
「それで、看板を描きながら、考えていたんだろうな。いずれ生まれてくる子供にも、訪
れるであろうこの時に、自分で考え、自分で決断してほいいと。だから、作者名を伏せた
んだ。……あの虎の絵を描いて、それを最後に跡を継いだということが息子に知れれば、
自ずとそのことに息子が縛られてしまうだろう? ふつう。……親子なんだから……。そ
うしたくなかったんだろう。息子にも、自分で戦場を見つけ、自分で道を見つけてほしか
ったんだろうな~」
 眞一郎の脳裏に、ヒロシの今までの自分に対する言動や態度が思い浮かんだ。その全て
の残像が、鋼のような頑丈な糸で貫かれているような気がした。

……おれの、思ってた通りだった。ずっと待ってたんだ……

「仲上、大丈夫か?」
「……はい、なんとか……」
 西村先生は、ふん、と鼻で息を吐くと、さらにつづけた。
「それで、一切、秘密にしようとみんなで決めたんだ。だから、このことを知っているの
は、この看板に関わった連中しか知らない。おまえのお袋さんも、たぶん知らないだろう。
あ、そうだ、思い出した。おまえが、高校に上がってきたときに、ヒロシから電話がかか
ってきてな、喋るなよって釘を刺されたよ」
「親父が? 電話を?」
「あぁ、だから、黙っていてくれ~」
 西村先生は、両手を合わせて、眞一郎を拝んだ。
「それは、いいですけど。それじゃ、なんで、乃絵に喋ったんですか?」
「う~ん、おまえもなんとなく分かるだろうが、あいつ、仙人のように勘が鋭くてな。バ
レちゃった。あはははははっ」
「笑いごとじゃないっつーの」
 頭を掻いて大笑いする西村先生に眞一郎は呆れた。
「だが、もうバレてしまったものはどうしようもない。仲上も親父の気持ち、分かるよ
な?」
「はい」
「じゃ~おまえなりに道をみつけていけばいいんだ。焦ることはない」
「はい、でも……正直、早く、なんとかしたいです。このままじゃいけないって……」
「焦るなって。ヒロシのときとは時代も違うし、あいつは、ちょっと、いかれていたから
な、まともに向き合うな。おまえなりで、いいんだ。わかったな?」
「……はい」
 眞一郎は、まだ割り切れなかったが、しぶしぶ返事をした。
「よし!」
 西村先生は、自分の太ももをぱんと叩き、気合を入れた。
 そのとき、予鈴が鳴りだした。
「先生、おれ、これから絵を見てきたいんですけど」
「えっ、おまえ、授業あるだろう」
「でも、これが、僕なりですから……」
 眞一郎は、西村先生を真っ直ぐ見た。西村先生も眞一郎を見つめ返した。予鈴の余韻が
完全に消え去るまで、二人は動かなかった。眞一郎の瞳を通して、あのときの親友の眼差
しを見た西村は、本当の大人のすることはなんだろうと考えた。
 少年、少女が、自分の人生を見つめようとしているときに、しっかり尻を叩いてやるこ
とだと思った。背中を押してやることだと思った。そういう大人になってほしいとも思っ
た。
 やがて、西村先生は、顔を緩ませ、
「……わかった、いってこい。先生たちには、おれが都合つけておく」
といって、眞一郎を送り出すことにしたのだ。
「ありがとうございます」
 眞一郎は、立ち上がると、深々と頭を下げた――。

――岡田さんは、眞一郎の肩をぽんと叩き、「ゆっくりしていけ」というとカウンターの
向こう側の事務机に座った。
 眞一郎が、わいわい騒いでいる子供たちの後ろに静かに近づくと、子供たちの引率者の
二人の若い女性が、頭を下げた。眞一郎も、どうも、と頭を下げると、話しかけてきた。
「麦端高校の方ですよね?」
「はい」
「わたしも、麦端高校のOBなんです」
「そうですか。この絵のことは、どこで……」
「父が、ここに出入りしていて、凄いから、子供たちに見せてあげろっていわれて。それ
で、岡田さんに相談したんです」
「そうですか」
「やぐらの絵ってこれ一つしか残ってないですよね」
「ええ、たぶん」
「後夜祭で全部燃やしちゃうでしょ? もったいな~って三年間ずっと思ってました」
「おれもです。でも、写真は、撮ってありますよ、ずっと。歴代のやぐらの絵の写真、ア
ルバムにして、図書館に置いてあります」
「へぇ~そうなんだ~よかった」
 そんなことを話していると、ひとりの女の子がとことこと眞一郎へやってきた。髪を切
る前の比呂美みたいに腰まで伸びた長い髪の女の子だった。
「おにぃちゃんも、これをみにきたのぉ?」
 目がまん丸ですごくかわいい女の子だった。
「そうだよ~。この動物、なんだか知ってる?」
「うん、しってるよ。トラだよ」
 自慢げに女の子は答えた。
「そう、トラだ。よく知ってるね。本物は見たことあるかな?」
「ほん、もの?」
 まだ、『ほんもの――本物』という言葉を知らないらしい。
「生きているトラさ。がおーってね」
 眞一郎は、両手の指を獣の爪みたいに立て、女の子を襲うような格好をしてみせた。
 女の子は、少し身を引いたが、また自慢げに答えた。
「あるよ。どーぶつえんでみたの」
「そうか、よかったね」
「でもね、こっちのトラさんがこわぁい」
 女の子は、眉間に皺を寄せ、口を大きく開けて、こわい、といった。
「え?」
 この歳でもうこんな表情をするんだ、と眞一郎は少し驚いた。
「でも、かっこいい。だから、すきぃ」
 そして、女の子は、こんどは、きらきらした瞳を眞一郎に見せた。
「お兄ちゃんもそう思うよ……」

……親父、すげぇよ。こんな小さい子まで虜にするんだから……

 眞一郎が学校に戻る頃には、断続的に降っていた雨も完全に上がり、青空が覗いていた。
陽がまだ残っていて、薄い夕焼けが出ていた。
 家並には、雨の雫が残っていて、それらが光を受け、ちょっとしたイルミネーションの
ように輝いていた。
 そんな光景に目を奪われながら、学校の正門へ向かう坂道を上っていると、前方から眞
一郎にとって『かけがえのない』女性の姿が目に飛び込んできた。
「眞一郎くん」
「比呂美、今帰りか?」
「うん。ねぇ、どこいってたの? 西村先生と一緒だったの?」
 比呂美は、かなり心配そうな顔をしていた。
「……うん、ちょっとな」
「もう、そればっかり。いい加減、教えてくれてもいいんじゃない?」
 比呂美は、キッと睨み、眞一郎ににじり寄ったが、眞一郎もその勢いに負けじと返した。
「約束したろ? 気持ちの整理がついたらちゃんと話すって」
「でも……」
 眞一郎にきつくいわれた比呂美は、しゅんとなり、目を泳がせた。

……比呂美、ごめん、もう少しなんだ、もう少し……

 眞一郎は、心の中で比呂美に謝ると、誤解を解いて置かなければいけないことを思い出
した。
「……あの……今朝の……」
「わたしね……」
 だが、比呂美にも眞一郎にいわなければならないことがあったのだ。
「ん?」
「石動乃絵と喧嘩しちゃった」
「えっ……いつ? 学校で?」
 眞一郎は、比呂美の肩をつかんで自分に向かせたが、比呂美は、眞一郎の顔を真っ直ぐ
見れなかった。
「きのう、愛ちゃんの店で……」
「愛ちゃんの店? どうして。……あいつ、おまえに何か……」
 眞一郎は、比呂美の顔を必死に覗き込み、比呂美が傷ついてないか確認しようとする。
「心配しないで。もう謝ったし、一応、仲直りしたから」
 比呂美は、一瞬、眞一郎の目を見たが、また表情を曇らせた。
「謝ったって……」
 比呂美の表情を見る限りでは、とても仲直りしたようには見えなかった。
「わたし、叩いちゃった、いするぎのえを」
 今思えば醜い行為だったと思う――比呂美は、とても恥ずかしい気持ちになったが、今、
ここで、正直に吐き出しておかなければ、自分も傷つくし、眞一郎も傷つけてしまうと思
った。
「えっ……やっぱり、あいつ、おまえに酷いこといったんじゃ」
 眞一郎の語気がだんだん荒くなってくる。それを感じた比呂美は、その勢いを止めるよ
うに、眞一郎の言葉に割って入った。
「最後までちゃんと聞いてっ」
「えっ……あ……うん」
 そして、比呂美は、ようやく眞一郎の目を見て話しだした。
「確かに、いするぎのえにはむっとしたけど、腹が立っちゃって……自分に……それで、
いするぎのえにあたっちゃって」
「自分にって……」
「どうすることもできない自分が、悔しくて……悲しくて……」
「比呂美……」
 乃絵とどんな話をしたのか、眞一郎には、想像つかなかったが、また自分が結果的に比
呂美を追い込んだのだと、眞一郎は思った。
「わたし、駄々っ子みたい……」
「そんな……比呂美の……」
 比呂美の所為じゃない――と眞一郎はいおうとしたが、その次の言葉が見つからなかっ
た。眞一郎が戸惑っている中、比呂美は、また眞一郎を驚かすことを口にした。
「わたしね、眞一郎くんの電話、盗み聞きしちゃったの」
「電話?」
 眞一郎は、何の話のことか分からず首を傾げたが、次の言葉で、一気に記憶の連結がは
じまった。
「いするぎのえからの電話」
「えっ!」
「夜、眞一郎くんの部屋の前にいったとき、ちょうど電話がかかってきて、それで……の
えって名前が聞こえて……。……ごめんなさい……」
 比呂美は、まるで泣いているときのように声をかすれさせ、眞一郎に謝った。
「いや……その……」
と口ごもった眞一郎には、比呂美をとがめる気持ちなど毛頭ない。それよりも、ずっと言
い出せなかった比呂美の気持ちを考えると、やるせなかった。
「怒った?」
「そりゃ、あまりいいことじゃないけど、べつに怒ってなんかいないよ」
 ここで優しい言葉をかけると、比呂美がますます罪悪感を感じてしまうと思い、眞一郎
は、敢えてぶっきらぼうにいった。
「ごめんなさい……」
 記憶の整理がついた眞一郎は、新たな疑問が湧き起こり、そして焦った。
「あっ、じゃあー、もしかして、見てたのか? その……えっと……」
「キスのこと?」
「……うん……」
 眞一郎の背中に、どっと滝のように冷や汗が流れた。
比呂美には、正直に告白したこととはいえ、比呂美がその瞬間を見ていたとは……。
もしそうだと知っていたら、眞一郎も比呂美への話し方を考えただろうに。眞一郎は思
いきり顔をしかめた。
「うん、見てた。見てしまったの」
「そっか、それで……あんなに…………」
「でも、後をつけてたんじゃないの。信じて!」

……信じて、だって?

 眞一郎は、比呂美のその言葉に驚いた。
 比呂美は、滅多に「信じる」という言葉を口にしない。
 その言葉は、比呂美と乃絵の違い表す重要なキーワードの一つだった。だが、今、その
言葉を比呂美が使った。
「べつに、疑ったりしないよ」
 眞一郎は、力を込めてそういったが、比呂美は、表情を変えずにそのときの様子を語り
だした。
「愛ちゃんの店にいこうと思ったの。でも、いけなくて……それで……海岸線歩いていた
ら、眞一郎くんたちが現れて……」
「比呂美、分かった。もういい、分かったから、話さなくていい」
 一生懸命、誠実に語る比呂美を見ていると、逆に、眞一郎の方が謝りたい気持ちになっ
た。
「おれが、ちゃんと話さなかったからいけなかったんだ……いや……おれが、比呂美を遠
ざけてたのかもしれない……」
「眞一郎くんは、眞一郎くんで考えたことなんだし……そんなことないよ」
 お互い顔を見合わせ、苦笑したが、最後に眞一郎が、一言「……ごめん」と謝った。
 眞一郎は、比呂美を抱きしめてやりたかったが、下校中の生徒が回りにいる中でそれは
できなかった。やり場のなり恥ずかしさが、ふたりを包んだ。
 そんなとき、携帯電話を弄んでいる生徒が目に留まった比呂美は、ふっと思い出した。
「ねぇ、きのう、あれ、な~に? いいことって」
「あぁ、あれね。いいことだよ」
「だから、いいことって、なによ?」
「教えられないな」
 眞一郎の悪戯交じりの言い方に、比呂美はカチンと頭にきて、
「教えてくれないなら、別れる」
といい放ち、ぷいっと横を向いた。
「お、おまえ、マジでいってんの?」
 眞一郎は、そんなことできるの? とからかう調子で比呂美の顔を覗き込んだが、
「マジよ。だって最近、隠しごと多すぎ」
 比呂美は、本気で睨んできた。
「その方が、いいかもな……」
と眞一郎は、ぼそっと呟くと、比呂美には、逆にそれが心に応え、一気に不安になった。
「え? ちょっと、なにそれ。マジでいってるの?」
「マジだよ」
 比呂美は、急に泣きそうな顔になり、子犬のように、
「眞一郎くん……」
と鳴いた。眞一郎は、この比呂美の声に弱かった。
 眞一郎は、比呂美の頭にぽんと手を乗せると、髪の毛をくしゃくしゃにして、そんなの
あるわけないじゃないか、と伝えた。
 それでも完全に不安を取り除けなかった比呂美は、眞一郎の顔を見上げて眞一郎の言葉
を待とうとしたが、比呂美の視線の向こうに光のハーモニーが浮かび上がってきた。
「あ、虹……」
「え? どこ?」
 眞一郎も、その方向にいったん目をやったが、すぐに比呂美の方へ顔戻すと、比呂美の
横顔をじっと見つめた。
 その直後、眞一郎は、心の奥で何かが弾けるのを感じた。

……いっぺん、最初に戻るのもいいかもな……

 うっとりと虹を見つめる比呂美の横顔に、眞一郎は描きたいものを見つけたのだった。

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