ファーストキス-9


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――第九幕『それだけでいいの』――

 虹が消えたあと、眞一郎は比呂美と別れ、デザイン部の部室へ向かった。
 部室には、二年生が数人残っていて、作業をしていた。西村先生はまだ帰宅はしていな
いということだったが、工作室にはいなかった。西村先生に礼を言うのは明日にしようと、
眞一郎が帰りかけたとき、先生はちょうど部室にやってきた。
「おっ、やっと帰ってきたな。仲上、ちょっと……」
 西村先生は眞一郎の姿を見つけるなり、人差し指をくいくいっと曲げて工作室に来るよ
うに合図した。
「どうかしたんですか?」と眞一郎は先生についていきながら訊いた。
 二人は工作室に入り、眞一郎が工作室のドアを完全に閉めると、西村先生は話しだした。
「仲上。早速チャンス到来だ」
「え? それって……」
「おまえの戦場さ」
「戦場って、なにかのコンテストとかですか?」
「ま、似たようなもんかな」
 西村先生は、ガラス瓶に残っていたコーヒーを紙コップにそそいだ。
「駅前の商店街の壁絵の話が、やってきた。おまえにとっては、このタイミングが怖いだ
ろう?」
と西村先生は、にやっと笑った。
「まだ、よくわかりません。……それで壁絵って?」
「あぁ。一番街と二番街のアーケードのつなぎ目のところでずっと工事してただろう?」
「はい。なんか噴水ができていましたけど……」
「うん、そこだ。そこの広場のブロック塀に絵を描くんだ。全部で八面あって、大きさが
だいだい縦2メートル、横4メートル。大学のサークルの連中とかが描くんだけど、辞退
したとこがあってな。おれに話が回ってきたんだ」
「なにか裏工作したんでしょう。話がうますぎます」
 眞一郎は、じとっと冷たい視線を西村先生に送った。いろいろと付き合いの広い西村先
生なので、そういう憶測を呼ぶのも仕方がない。
「ばかだな~おまえ。おれは、そんなに腹黒くないぞ。そんことより、どうだ? 描いて
みらんか? いや、描け」
「描けって……命令ですか」
と眞一郎は、呆れた。
「あんまし時間なくてな。明日までに返答するようになってるんだ、事務局に」
「でも、これって、麦端高校で申し込んだんでしょう? それを僕ひとりがやるっていう
のは、ちょっと……先輩たちに……」
と眞一郎は、少し考え込んだ。
「それは、心配ない。おれの個人名義で申し込んだ。確かに、うちの部の連中に手伝わせ
るつもりでいたが、実際やれそうなのは、おまえだけだ。三年生は、いろいろ忙しいし、
二年生でまともに絵が描けるのはおまえくらいだからな」
「先生の名義だったら、なおさら、おれ……」
 眞一郎の煮え切らない様子に西村先生の目が途端に鋭くなる。
「仲上。……おまえ……作家を目指しているんだったら、どんなチャンスでも、物にする
くらいの貪欲さを持っていないとやっていけないぞ」
 西村先生がの口調が変わったことに、眞一郎は、はっと顔を上げた。
「社会に出れば、一分一秒を争うことはいくらでもある。それによって、人生が大きく狂
うことだってある。迷う暇さえ与えられないことだってある。そういう中で、みんな生き
てるんだ。おまえの数年後の世界はそんな感じだ」
 眞一郎は、西村先生の容赦ない言葉に、なにも返せなかった。
 眞一郎もある程度は感じていることとはいえ、こうもはっきりと言葉にされると、寒気
がし、逃げ出したい気持ちになった。
 眞一郎の頭の中で、情熱と恐怖が激しく渦を巻く。そのとき、比呂美の顔が一瞬、脳裏
に浮かんだ。
 比呂美の笑った顔、怒った顔、泣いた顔、悔しがる顔、恥ずかしがる顔。
 そして、なにかに立ち向かっているときの凛々しい顔。
 両親を失っても、勉強も、部活も、恋も頑張っている比呂美。それを思うと、眞一郎は、
自分の甘さ加減に吐き気を感じた。でもすぐに、必死に自分を見つづける比呂美の信頼を
裏切ることはできないのだ、という強い気持ちが湧き起こった。

……おれも、なにかに立ち向かう姿を、比呂美に見せてやりたい……

 眞一郎の決断は、早かった。昔みたいに遅いままではいられないのだ。
「おれ、やります! 先生の手助けもいりません」
 眞一郎の態度の急変に、こんどは西村先生が面食らったが、すぐいつもの調子に戻ると、
逸る(はやる)眞一郎を落ち着かせるようにいった。
「ま~そういうな。絵の内容に口出しする気はないが、技術的な部分は、少しレクチャー
させてもらうぞ。おまえなら、基本的なことは熟知しているから心配してないが、裏技を
教えてやる。ヒロシの秘密がバレてしまった償いとして、素直に受け取っとけ」
「……分かりました。よろしくお願いします」
 眞一郎は、深々と頭を下げた。
 西村先生は、眞一郎が素直に受け入れたことに安堵し、鼻で大きく息を吐いた。
「ところで、仲上。」
「……はい」
 西村先生は、また、にやっと笑ったが、こんどは、少し、いやらしさがあった。
「湯浅の立看(たてかん)、いるか?」
「はぁ?」
 眞一郎は、素っ頓狂声を出し、
「立看って、立て看板のことですよね? 電気屋とかにあるイメージキャラの……」
と当たり前のことを訊いた。
「ほれ、あれだ」
というと、西村先生は、ダンボール紙に包まれて壁に立てかけられたものを指差した。昼
休みにもあった。床には、カーリングの駒のような重石が転がっている。
「比呂美の立看って……。なんでそんなもの作ったんですか? 比呂美は知ってるんです
か?」
「湯浅は、たぶん知らない。黒部のやつがな、バスケ部の勧誘のために、こっそりおれに
頼みに来てな。いざお披露目ってときに、高岡のダメ出しを喰らったそうな。それで、そ
こにあるというわけだ。邪魔だから、おまえ、持っていけ」
 西村先生は、投げやりにいった。
「持っていけって、こんなの持って帰れませんよ」
「じゃ~今から、おれの車で運ぶか?」
 そういうと、西村先生は、帰り支度をはじめた。

 眞一郎の部屋に、今、三ヶ月前の比呂美が、いた。
 結局、比呂美の立看は、眞一郎の部屋に運ばれていた。とりあえず、比呂美に正直に話
そうと眞一郎は思ったが、間が悪かった。眞一郎が、家に帰り着いたとき、比呂美は風呂、
ヒロシは酒蔵、理恵子は近所に出かけていて、だれの目にも触れずに、立看は、眞一郎の
部屋までスルーしてしまった。
 比呂美を呼んでから、覆っているダンボール紙を外せばいいものの、とにかくどんなも
のか見たかった眞一郎は、ひとりで中身を取り出してしまった。
 立看の比呂美は、麦端高校の制服を着て、バスケットボールをドリブルしながら向かっ
てきていた。体全体が凛々しさに包まれ、腰まで伸びた髪とスカートが、フレアのように
広がり、まるで戦う女神のようだった。
 おそらく、新入部員獲得のためのパンフレット用に取った写真を、朋与が西村先生に横
流ししたのだろう、と眞一郎はそう推測した。
 眞一郎は、しばらく、この女神を眺めた。
「この戦う目が、たまらないんだ」
 眞一郎は、昔を懐かしむようにそう呟くと、机に向かい、壁絵のモチーフを考えだした。

 夜十時を過ぎた頃、誰かが階段を上がってくる気配を感じた。
 比呂美だ、と思った眞一郎は、咄嗟に振り返ると、立看が部屋のど真ん中に置きっ放し
になっていたことに慌てた。急いで、椅子から立ち上がり、立看を重石から引き抜き、右
往左往した。
 ちょうどそのとき、扉の向こうで比呂美の影が揺らいだ。
 眞一郎は、咄嗟にベッドの掛け布団をはぐり、その中に立看を潜り込ませ、それと同時
に、重石を机の下に蹴り入れた。それから、自分も掛け布団に潜った。
「疲れた」とかなんとかいって、比呂美をさっさと追い返そうと考えたのだ。
「眞一郎くん」
 まもなく比呂美が呼んだ。
「んあ」
 まずい、変な返事をした、と眞一郎はさらに焦った。
 比呂美は、扉を開けて部屋に入ってきた。
「寝てたの? 電気つけっぱなしだよ」
 比呂美は、すたすたと歩き、机の蛍光灯を消してから眞一郎を見た。
 眞一郎は、夏なのに、掛け布団から首だけ出している。立看がある所為で、ベッドの端
の方で横になるしかなく、そのため、比呂美の腰掛けるスペースがない。
 比呂美は、じっと眞一郎を見た。なにかおかしいと感じた。
 眞一郎は、ずっと寝たフリをしていたが、比呂美が、なかなか部屋から出ていかないの
で、どうしたのだろうと、薄目で比呂美を見た。
 比呂美と目が合う。思わず目を逸らす眞一郎。
「なに……オナニーでもしてたの?」
「ば、ばかっ、ちげーよっ!」
 眞一郎は、顔を赤くして、壁の方に寝返りを打つと、ばふん、と音が鳴った。
 眞一郎の全身に、どっと冷や汗が噴き出す。
「お、おれ、疲れてるんだ。ね、寝かせてくれ」
 眞一郎がそういっても、比呂美は、部屋を出て行く気配を見せない。
 諦めたように眞一郎が目を閉じると、その隙に、比呂美は目にも留まらぬ早業で掛け布
団を引っぺがした。
宙を舞う布団。
綺麗な放物線を描き、空飛ぶ絨毯のようにベッドの外へ落ちていく。
そして、ベッドの上の情事が露になった。
「…………」
「…………」
 そこには、眞一郎と女神のような女性が抱き合うようにして寝ていた。
 比呂美は、目をまん丸くして、どうしてこんな状況になるのかしばらく考えた。
「いや、これは……その……」
と、放心状態の比呂美に説明しようと眞一郎がおそるおそる口を開くと、比呂美の顔は、
途端に鬼のような形相になり……。

 パシンッ!!

 比呂美の平手が、これまた目にも留まらぬスピードで眞一郎の頬に炸裂した。
「好きな子の立看作って一緒に寝るってなんなの! バカじゃないの!」
 そして、比呂美の罵声も炸裂した。
「違うって! これは黒部さんが……」
 眞一郎は、頬をさすりながら、必死に身の潔白を訴えたが、比呂美はそんなことはお構
いなしに、次の行動に移った。
「ちょっと離れなさいよ」
と、比呂美は、眞一郎の腕をつかみ、ベッドから引きずり下ろそうとする。
「わっ」
 もともと不利な体勢の眞一郎は、簡単に床に転がされる。
 比呂美は、自分の立看をいとおしそうに抱きかかえると、ずんずんと扉へ歩き出した。
 比呂美の激昂ぶりに、間違いなくその立看は燃やされると思った眞一郎は、思わず、
「あぁ~」と名残惜しそうな声を上げてしまう。
 その声が、また比呂美の癇に障る。
「なに? その未練たっぷりな声は」
 比呂美は、素早く振り返って、どすの利いた声で眞一郎を威嚇した。
「いや……なんでも」
 眞一郎は、しゅんと縮こまったが、そう簡単に諦め切れなかった。そして、ダメもとで、
部屋を出ていこうとする比呂美に再度お願いした。
「比呂美ぃ、頼む! 燃やさないでくれっ」
「…………」
 比呂美はぴたっと動きを止め、ゆっくりと体を眞一郎の方へ向けると、にやっと笑った。
 眞一郎には、その笑顔がとても怖いものに見えた。

★六月二十日(金曜)晴れのちくもり――

 翌朝、眞一郎が居間へ下りていくと、ヒロシと比呂美がすでに朝食を取っていた。
「おはよう」
 眞一郎が、朝の挨拶をすると、二人は、静かに「おはよう」と返した。
 比呂美は、普段と変わらないように見えたが、眞一郎にまだ目線を向けていない。その
ことが、比呂美がまだ怒りの中にいることを物語っていた。
 昨日の立看騒動は、比呂美にとっては浮気の現場を目撃したようなものだった。眞一郎
も、半分はそういう男の心境というものを味わった。
 他の女性の立看ならまだしも、自分の立看を持ち込まれたからといって、そこまで怒ら
なくてもいいのではないか。それに、朋与の仕業だということに疑う余地はないはずだ。
心の中で自分をそう弁護していた眞一郎は、比呂美が自分の器にご飯と味噌汁を装うのを
じっと見ていた。比呂美は、しらんぷりしている。
 とにかく、あんまり下らないことで喧嘩を長引かせたくなかったので、眞一郎は、思い
切って話を切りだした。
「比呂美、昨日のことだけど、分かっていると思うけど……」
 眞一郎が最後まで言いきる前に理恵子が、廊下から入ってきた。
「あら、眞ちゃん、おはよう」
「お、おはよう。あの、比呂美……」
 眞一郎は、再び比呂美に声をかけようとしたが、席に座った理恵子がそれを遮った。
「比呂美。洗ったユニフォーム、部屋に置いてきたわよ」
 比呂美は、一瞬ぴくっとして、
「あ、す、すみません」
と軽く頭を下げた。
 眞一郎と比呂美の様子がいつもと違うのを感じた理恵子は、あらかたその原因を推測し
つつ、比呂美の部屋で見た立看のことについて触れた。
「あ、そうそう、比呂美。部屋のあれ、なんなの?」
 眞一郎と比呂美は、びくっと体を震わせる。
 二人の反応が気になったヒロシも「あれって、なんだ?」と興味を示した。
 眞一郎は、自分が説明すべきかどうか、比呂美の顔をおそるおそる伺うと、比呂美は、
氷のような冷たい声で、
「髪の長かった私が忘れられなくて、どこかの誰かさんが作ったんです」
と説明した。その説明は、決して間違いではないのだが、眞一郎は頭を抱えた。
 比呂美のその口ぶりに、その犯人を特定した理恵子は、臭いものを見るよな顔をして、
「眞一郎……」
と、嘆いた。
「お、おれじゃねーって」
「おまえ、なにしたんだ」
と、ヒロシは新聞を脇に置いた。

 昼休み――。
 工作室で、今年最大の笑い声が炸裂した。
「あははははははははッ、おまえ、バカだな~」
 西村先生は、涙を流して、腹を抱えた。
「そりゃ、湯浅のやつ、怒るのも無理ないな」
「おれ、どうしたら……」
「知るかっ、自分で考えろ。あははははッ、あ~腹いて~」
 西村先生は、しばらく体を痙攣させていた。
「おれ、黒部さんに話してきます」
 西村先生に見放された眞一郎は、立看の張本人である朋与に、比呂美との和解を手助け
してもらおうと考えた。
「あ、こらっ、止めておけ! 余計こじれるぞ」
「なんでですか~?」
「今頃、あいらも、やりあってるんじゃないのか?」
「あっ、そうか」
 比呂美にとっては、朋与も裏切りの主なのだ。
「ところで、仲上」
「はい」
「早速、例の壁絵の現場、見に行くぞ」
「今日ですか?」
「今日、明日、おれがダメなんで、日曜日にしよう。午後三時な。ここに来い」
「はい、わかりました」
「それにしても、湯浅も許してやればいいのにな~。浮気したわけじゃないんだから……。
もうひとつ、立看作るか? 画像あるぞ」
「いいです、でも画像はください」
「やっぱり、浮気か……」
 西村先生は、また、盛大に笑った。

 放課後――。
 眞一郎は、デザイン部に少しだけ顔を出したあと、校内の図書館にいた。そこで、壁絵
の参考になりそうな写真集や画集などのチェックに没頭していると、囁くような声で背中
から名前を呼ばれた。
「仲上君」
 振り返ると乃絵が立っていた。乃絵の手には、文庫本が5冊ほど納まっていた。
「乃絵……」
 乃絵は、眞一郎のとなりの席にちょこんと座り、眞一郎が見ていた本に目をやった。
「新しい絵、描くの?」
「ま~な」
 眞一郎は、ページをめくりながら答えた。
 邪魔してはいけないと思った乃絵は、眞一郎の横顔をじっと見つめた。
 眞一郎の横顔――。
 かつて自分のために絵本を描いてくれたときの面影はまだ残っていたが、その瞳の奥に
は、もう、湯浅比呂美しか映っていない。眞一郎の瞳は、自分の笑顔を求めていない。乃
絵はそう感じた。
 比較的長いまつ毛、澄んだ黒い瞳、少し子供っぽい顎のライン、少し跳ね上がった柔ら
かい髪の毛――乃絵の心に、懐かしさが込み上げてくる。
 自分の涙の秘密を知っていた少年――。
 なぜ、今となりに座っている少年に、自分が泣けなかったことを打ち明けたのだろうか。
 この少年との出会いは、自分にとっては大したものではなかった。いきなり、頭が軽そ
うだとアホ呼ばわりされたりして、逆に最悪だったといえる。
 しかし、この少年に驚かされたことが一つあった。それは、自分の発した言葉を、一つ
も無視しなかったことだった。そのことは、自分の実の兄、純を除いては、この少年、仲
上眞一郎が唯一だった。
「なに?」
 乃絵の視線に堪らなくなった眞一郎は、乃絵にちらっと目をやった。
「ねぇ、一緒に帰っても、いい?」
 乃絵は、落ち着いて、丁寧にいった。
「えっ……」
 瞬時に全身が固まらせた眞一郎は、そのあとゆっくりと乃絵を見た。
 乃絵は、にっこりと笑う。
 その笑顔を見ると断り難くなる眞一郎だったが、
「わ、わるいけど、それは……」
とぼかして断った。すると、乃絵は少しむっとして、
「あなたたちの関係って、わたしが近くに寄っただけで壊れちゃうようなものなの?」
と返した。
「そんなことないよ」
 眞一郎は、周囲を気にしながら、むきになった。
「じゃ~いいじゃない。それに……」
「それに、なんだよ」
「もう……『乃絵』って呼ばないで」
「えっ……」
 眞一郎は、絶句した。

……もう、乃絵って呼ばないで……

 乃絵の顔には、今、彼女には珍しく、表情がなかった。
 眞一郎の背中にどっと冷や汗が押し寄せる。
 眞一郎は、乃絵があのバス停の待合室で絵本を見たのを最後に「しんいちろう」と呼ば
なくなったことに気づいていたのに、乃絵の呼び方を変えることができなかった。眞一郎
には、とても残酷のことのように思えたのだ。いつまでも呼び捨てのままじゃいけないと
思っていても、もう少し時間を置いた方がいいような気がしていた。そんな中、乃絵が愛
子と仲良くなり、愛子の店で昔ほどではないにしても無邪気に接してくる乃絵を見ている
と、このままの方が自然なのでは、と思えてきたのだった。
 でも、乃絵は、いつも天使のように振舞っていても『女』であった……。
「べつに、あなたを責めているわけではないわ、ただ……」
「乃絵。おれ、今まで…………ごめん……ほんとに、ごめん」
 眞一郎は、心の底から搾り出すように、声を落として謝った。
「わたしが、いけないの。わたしが、甘えていたの」
 乃絵の顔をまともに見れない眞一郎の肩に、乃絵はそっと手を置いた。
「……ほんとに、ごめん」
「わたし、大丈夫だから……」
 乃絵は、その言葉を静かにいったが、力強さがあった。そのことを不思議に思った眞一
郎は乃絵の顔を見た。乃絵は、比呂美が見せるような大人っぽい笑顔をしていた。いつも
の天使のような無邪気さはそこにはなかった……。

 そのあと、ふたりは、一緒に本の貸出し手続きをして、昇降口へ向かった。
「愛ちゃんの店、一緒にいくよ」
 眞一郎は、靴を履きながら、となりの列の下駄箱にいる乃絵に声をかけた。
「うん、ありがとう」
 乃絵はそう返すと、子犬のように眞一郎に近づいていった。

――ちょうどそのとき、二階からの階段を下りてきていた『麦端の9番』が、ふたりを射
抜くような目で見つめていた――。

「乗り越えたみたいね」
 乃絵は真っ直ぐ前を見たまま、そういった。
「え?」
 眞一郎は、咄嗟に訊き返したが、乃絵の言葉の意味にすぐに思い当たると、
「あぁ」
と大きく頷いて、つづけた。
「でも、本番はこれからさ。スタートラインに立っただけ。まだ、走り出していない。飛
び出してもいない」
「そうね……」
 予想通りの眞一郎の言葉に、乃絵は口だけ微笑んだ。
「おまえも、見たんだってな、あの絵」
「あ……うん」
 乃絵は眞一郎の顔を見たが、こんどは、眞一郎が前を向いたままだった。
 眞一郎は、乃絵が絵の感想を話しだすのをしばらく待ったが、乃絵の口はそのために開
かなかった。
「おまえさ……」
「なに?」
「……比呂美と、喧嘩、したんだって?」
 乃絵は、ぴたっと足を止める。
「愛子さんから、聞いたの?」
「いや。きのう、比呂美が話してくれた」
「そう……」
 乃絵は、比呂美との間に誤解が生じれば解決に尽力すると約束したのに、売られた喧嘩
を買ってしまったことに、後ろめたさを感じていた。眞一郎には、そのことを謝らなけれ
ばならなかったが、比呂美の逆上ぶりから、しばらく眞一郎に近づかない方がいいと考え
ていたのだった。
「おれ、比呂美に話そうと思う」
「…………」
「愛ちゃんとのキスのこと……近いうちに話すよ。いまさらだけどな……。比呂美も感づ
いているかもしれないけど、自分の口でいわなきゃいけないんだ。だから……そのことを、
…………比呂美に悟られないようにしようとして、喧嘩になったんじゃないのか?」
 乃絵は、珍しく的を射た眞一郎の言葉に少し驚いた。いつもこんなに鋭かったら、自分
も比呂美もこんな辛い思いをしなかっただろうな、と思った。
「その通り。み~んな、あなたが悪い」
「前にもそんなこと言われた気がするよ……」
と苦笑する眞一郎。
「ちゃんとしてよね」
と眞一郎の背中を叩く乃絵。
「ちゃんとするさ」
 ふたりの背中が並んで坂道を下りていく。
 そのあと、ふたりは、兄妹のようにじゃれあったが、そこには、しっかりとした分別の
壁があった。
 兄の純が上京して家にひとりぼっちになった乃絵は、いままで純に対して行ってきたス
キンシップを誰にも求められずに、ずっともやもやしていた。だが、この時間だけは、久
しぶりに満たされたような気分になった。
 もう決して、自分のことを『恋愛の対象』として見てくれないと分かっていても、不思
議と寂しさは、乃絵には訪れてこなかった。

「比呂美ぃー!! 仲上君が!」
 体育館に朋与の鬼気迫る声が響き渡ると、体育館にいる全員が、朋与に注目した。
 朋与のただならぬ様子に、比呂美は慌てて朋与に近寄り、勝手口の外に引きずっていっ
た。
「ちょっと、こっち……」
…………。
「なに? どうしたの」
 比呂美が覗き込んだ朋与の目は、珍しく細かく泳いでいた。
「比呂美、落ち着いて聞いてね」
 えらく慎重な朋与の態度に、比呂美は、少し身を引き、最悪の事態を考えた。
「仲上君、石動乃絵と一緒に帰ってたの」
「え?」
 比呂美は、正直ほっとした。
「もう~びっくりさせないでよ~事故にあったかと思っちゃったじゃない」
 比呂美は、体育館の中へ戻ろうとしたが、朋与は比呂美の腕をつかんで引き止めた。
「だってぇー」
「たまたま一緒になっただけでしょ?」
と呆れた顔を朋与に向ける比呂美。
「気にならないの?」
「じゃあ、なに? 今すぐ追いかけていって引き剥がせっていうの? ばかばかしい」
 比呂美は、少し乱暴に朋与の手を解く。
「そこまでは、いってないけど……」
「あのふたり、部活とかで顔合わせているし、別に気にしてないよ」
「そう……」
 平然としている比呂美に、朋与は顔をほころばせたが、朋与が地獄を見るのは、これか
らだった。
「それより、朋与ぉ」
 比呂美は、朋与に背を向けたまま切りだした。
「なに?」
「あれなに?」
「あれって?」
「立看」
「あっ……」
 朋与は、すり足で片足を一歩引き、比呂美の攻撃レンジから逃げる体勢へ移った。
「な~んのことかなぁ~」
 それを察知した比呂美は振り返ると、朋与の肩をがしっとつかみ、朋与を固定した。
 その直後、なにかの残像と共に鈍い音がする。

 ドスッ

「あぅッ」と声をあげる朋与。
 比呂美が、朋与のみぞおちに拳をねじ込ませていた。
「はーい、一年集合!」
 集合をかける比呂美の後ろで、朋与は床に突っ伏していた。
 この後の練習で、一年生がビクビクしていたのはいうまでもない。

「待ったぁ?」
 自転車のブレーキのキーッという音が鳴り響いたあと、愛子の声が境内に広がった。愛
子は境内へ上がる階段の手前に自転車を置くと、眞一郎に駆け寄った。
「なによ、こんなところに呼び出して。それも、こんな夜遅くに」
 もう夜九時を回っていた。神社の境内には、もちろん人っ子ひとりおらず、閑散として
いたが、夏の虫がケタケタとうるさく鳴いていた。
「わるい。どうしても、ふたりきりで話したくてさ」
 眞一郎のこの台詞にはもう特別な意味がないと分かっていても、愛子は、一瞬ドキっと
した。
「な、なによ……」
「その……愛ちゃんに、事前にいっといた方がいいと思って」
 いきなり真面目な顔をする眞一郎に、愛子は、比呂美がらみの話だと感じた。
「比呂美ちゃんになにかあったの?」
 愛子の口から先に、比呂美の名前が出てきて、自分の用件を話す前に、比呂美と乃絵の
喧嘩の様子について聞いておいてもいいかな、と眞一郎は思った。当の本人たちから直接
話を聞いたとはいえ、どちらも、喧嘩のことを話す口ぶりが非常に重かったので、あまり
触れないでおこうとしていたが、愛子なら公平な立場で話してくれるはずだと考えた。
「そういえば、あのふたり、喧嘩したんだって?」
と、あまり深刻そうにしないで眞一郎は訊いた。
「比呂美と乃絵のこと?」
「うん……」
「でも……もう大丈夫だと思うな、あのふたり……」
 愛子がいきなり結論から話したので、眞一郎は、ちょっと拍子抜けしたが、あまりお互
いを傷つけ合うようなことがなかったのだと、愛子の口ぶりから感じたが……。
「ほんとうに、そうか?」
「比呂美ちゃんから聞いたの?」
「うん、まぁー。乃絵からも少し聞いた」
「喧嘩が、どんなだったか、聞きたいの?」
と愛子は、少し気を利かした。
「いや、それは……。でも……関係なくはないんだけど……」
 眞一郎がごにょごにょと口ごもったので、どういう話のために自分が呼び出されたのか、
愛子は察した。
「…………」
「おれ、比呂美に話そうと思う。キスのこと……」
「あっ……」
(やっぱり。……でも……)
 でも、眞一郎はまだ、比呂美から肝心なことを聞いていない、と愛子は思った。比呂美
が、自分と眞一郎のファースト・キスのことをすでに知っている、ということを。
 愛子は、眞一郎と三代吉の男性陣が蚊帳の外に置かれていることに不憫に思いつつも、
眞一郎の言葉のつづきを待った。
「いまさらなんだけど……乃絵に、前、いわれたんだ。初めてのキスと思わせておくのは、
裏切りだって。それに、比呂美には秘密を作りたくないし。あいつ、たまにおかしくなる
ことがあって……」
 眞一郎が急に表情を暗くしたので、愛子は、比呂美に暴露したことを早く教えてあげな
いとまずいと思った。
「あのっ、あのねっ、眞一郎」
「え? どうしたの?」
 愛子が突然、語気を強めたので、眞一郎は、目を丸くして愛子を見た。
「そのことなんだけど……」
「ん?」
 眞一郎は、急にもじもじする愛子の顔を覗き込む。
「は、話しちゃったの……比呂美ちゃんに」
「は……は?」
 愛子の言葉がすぐに呑み込めなかった眞一郎は、急いで頭の中で話の流れを遡った。
 そしてすぐに、比呂美が愛子と自分のファースト・キスのことを愛子の口から聞いたの
だということに辿り着くと、まるで『空飛ぶニワトリ』でも目撃したような奇声を発した。
「けえっ!!」
「ご、ごめん。なんていうか……その……勢いっていうか……成り行きっていうか」
 愛子は、独断で喋ってしまったことを謝ろうとしたが、眞一郎には、愛子の謝罪なども
うどうでもよくて、眞一郎は、すぐに湧いてきた疑問をぶつけた。
「いつ?」
「喧嘩のあと」
「……そ、そうなんだ……」
 比呂美が、乃絵とのキスではあんなに逆上したのに、愛子とのキスでは逆上しなかった
のだろうか、と眞一郎は気になった。
「喧嘩のとき、比呂美ちゃん完全に切れててさ。乃絵ちゃんをぶっ叩いて店から叩き出し
たの」
「比呂美が?」
 眞一郎は、愛子が話す内容に、口をあんぐりと開けたが、険悪な状況だったことを理解
すると、顔をしかめた。
(比呂美が、言い辛そうにするわけだ)
「もう、凄かったんだから。それで、このままじゃいけないと思って、わたしの部屋につ
れていって……。ずぶ濡れだったし。乃絵とあんた、キスしたんでしょう? それを比呂
美ちゃんが見ててさ……」
「それ、比呂美から聞いた」
「そ、そう、比呂美ちゃん話したんだ……。それで、乃絵がどうしてキスしたのも、なん
となく分かったし、眞一郎とのキスのことをいわないと収まりがつかないような気がして
……それで…………。ごめん……」
「いや、べつに、謝らなくても……話すつもりだったし……」
 眞一郎は、ようやく話の全貌をつかんだ。
――乃絵からの電話をたまたま聞いてしまった比呂美は、自分が比呂美だけに何か重要な
ことを隠していることに感づき、焦る。
 それで、比呂美は、『自分と乃絵の待ち合わせ』に堂々と立ち会おうと考えたが、乃絵
のカムフラージュに惑わされたりして、それから逃げてしまう。それが裏目に出て、自分
と乃絵のキスを目撃。
 さらに、乃絵が自分にキスしたことを、女として納得できなかった比呂美は、何か隠さ
れたことがあると疑念を膨らませる。おまけに、自分に、ひとりで向き合わなければなら
ないことがあるから、と言われて遠ざけられてしまったことに、疎外感を感じる。
 それから、父の絵に打ちひしがれた自分の様子を見た比呂美は、その落ち込みの原因を、
乃絵を締め上げて吐かそうとする。キスのことも。それで、乃絵と喧嘩に。
 その場にいた愛子は、乃絵がキスした意味と、比呂美が逆上した理由をおおかた察する
と、自体を収拾するには大元にある自分らのファースト・キスのことを話さなければなら
ないと思い、それで、比呂美にそのことを告白――。
 やっと、眞一郎、比呂美、乃絵、愛子のそれぞれの持つ情報が揃いつつあったが……。
「それじゃ、三代吉は?」
「……まだ、知らないと思う」
 やはり、と眞一郎は、小さく頷く。
「だったら、おれ……」
「待って。…………眞一郎の手は借りない。わたしから、話す」
 力強さと底知れない不安が入り交じった愛子の宣言。
 キス問題の原点は、他のだれでもなく愛子自身で、愛子は大きな二つの負い目を胸の奥
にずっと抱えていた。
 一つは、眞一郎の本当の気持ちはともかく、ちゃんと交際をスタートさせた眞一郎と乃
絵のことを知りながらも、眞一郎の唇を奪ってしまったこと。
 それと、そのとき、愛子の本当の気持ちはともかく、三代吉と交際をしていたにもかか
わらず、別の男と唇を重ねてしまったこと。
 そのふたつのカップルは、もうすでに消滅しているので、キスのことはご破算になった
といえる。しかし、眞一郎の相手だけが比呂美に変わって、それらのカップルが復活した
ことで、愛子と眞一郎のファースト・キスの事実がそれぞれの心を再び突付きだしたのだ。
「あいつは、そんな……、大丈夫だとは思うけど……」
 眞一郎は、三代吉の貞操観念を量りかねていた。普段はエロ話にニヘラヘラとする三代
吉だったが、愛子のこととなると、人が変わったように真面目になる。それが返って不気
味だった。
 それに、眞一郎と三代吉は、お互いカノジョを持つ者同士でも、ほとんど、男女交際の
イロハについて真面目に話すことはなかった。それは、二人が根っからの照れ屋だったこ
とに加えて、眞一郎が、比呂美のことで頭がいっぱいだったからだった。
「三代吉、けっこう、繊細だよ。勘もいいし……」
「へ~三代吉のこと、よく分かってるんだ」
 自信たっぷりに答える愛子に少し眞一郎は、ほっとする。
「そりゃね、もう半年くらいになるし……」
「もう、したの?」
「え?」
 年頃の女の子のほとんどは、眞一郎のこの質問に、肉体関係のことを連想させられるだ
ろう。愛子も当然。
「キス」と眞一郎。
「あ、あ~キスね。うん、したよ」
 愛子は、少し目を泳がせて答えたが、暗いので眞一郎にはそれが分からなかった。
「そっか……あいつ、おれより懐広いし……、大丈夫だよ」
 まるで自分に言い聞かせているような眞一郎に、愛子は、まだまだ頼りないなと感じな
がらも、愛子もまた自分に言い聞かせていた。
「……うん、わたしも、心配はしてないけどね……」
 一見単純そうに見えて実際のところはよく分からない三代吉。眞一郎と愛子は、そんな
三代吉に完全に不安を拭うことはできなかったが、ようやくトンネルの出口を見るような
気分だった。
 眞一郎の場合は、比呂美に対して、キスしたこと自体は謝る筋合いではないものの、若
い男女の大半が特別に思うファーストキスを、ずっと誤解させたままだったことは、乃絵
の言う通り裏切りに等しいだろう。
 愛子の場合は、自分の気持ちを偽り、他の男と衝動的にキスしてしまったことは、三代
吉に対して、正しく裏切り行為だった。
 愛子は、三代吉の屈託のない爽やかな笑顔を思い浮かべると、自分の悪女ぶりに気が変
になりそうだったが、そのとき、眞一郎がさきほど言いかけたことを思い出した。
「それより、比呂美ちゃん、たまにおかしくなるってなんなの?」
 眞一郎は、自分が漏らしてしまったこととはいえ、愛子のいきなり質問に固まってしま
う。
「い、いや~その~」
「べ、べつに、無理に話さなくてもいいけど、プライベートなことだし」
 エッチがらみだな、と思った愛子は、追及を止めようと思ったが、眞一郎から衝撃的な
一言が返ってきた。
「少し、凶暴になることがあって……」
「きょうぼう? きょうぼうって凶暴? 眞一郎に殴りかかってくるの?」
 眞一郎が、「凶暴」という単語を使ったことに、愛子は思わず身を乗り出した。
「い、いや、そこまでは……きのう、叩かれたけど……」
といって、眞一郎がへへっと笑うと、愛子の想像はさらに膨らむ。
「おじさんやおばさんたちにも?」
「いや、それはない。お袋たちとは、仲良くやっているよ」
 眞一郎がきっぱりといいきったので、愛子はほっとした。だが、愛子も、乃絵とやりあ
った比呂美の逆上ぶりがずっと気になってはいた。
 比呂美は、子供ころ泣き虫ではあったが、すぐ立ち直り、何事にも向かっていくような、
感情のストレートな女の子だった。いわゆる、めそめそタイプではなく、自己解決タイプ
だった。だから、比呂美の乃絵をいたぶるような態度は、にわかに愛子には信じれなかっ
た。
 まだ比呂美の中に、乃絵との恋愛感情のもつれが残っているのかもしれないが、それと
は別の不安定な渦のようなものを、愛子は、この間、自分の部屋で比呂美と話していたと
きに感じていたのだった。
「それって、あれじゃないかな……」
「あれって?」
「ほら、比呂美ちゃん、中三のときに両親亡くなっちゃったでしょう? 中三のころって
さ、反抗期真っ只中じゃん、ま、わたしたちもだけど。反抗期って心の成長に伴って起こ
る、一種の脱皮っていうか軋みっていうかさ。比呂美ちゃんの場合、ちょうどその時期に、
精神的ショックが起こっちゃって、心の成長のレールから吹っ飛ばされた感じじゃん? 
ずっと心の安らぐ場所がなかったはず……。あんたの家に引き取られても、仲上家という
家柄にプレッシャー感じるし、あんたは不甲斐ないし……。比呂美の性格からして、おじ
さんやおばさんには甘えられない。学校の友達にも心配かけるから、弱いところは一切見
せれない。ようやく、あんたと両想いになって、いい合える相手ができて、いままで溜め
てきたものが吐き出されてるんじゃないのかな? 思い当たること、あるでしょう?」
「ある。おれも、それ感じてたよ。単純におれがだらしないってこともあるだろうけど、
それだけじゃ説明つかいないことが、結構ある」
「ほらね」
「眞一郎だけなんだよ、比呂美ちゃんが自分の弱いところ見せれるのは」
「でも、ほんとうにそれでいいんだろうか?」
 眞一郎は、愛子の推察には、ほとんど同感だったが、そういうことなら、心の不安定な
比呂美の根本原因はおのずと、本当の両親がいないというころにすぐ行き着いてしまう。
 そして、現在、その代わりに自分が選ばれているということに。それを考えると、眞一
郎は、いたたまれない気持ちになった。
「もう少し時間が経てば、治まっていくんじゃないの? あんたが、ちゃんとするってい
う前提だけど」
「そりゃ、おれだって、比呂美のことずっと受け止めててあげたいよ。でも、手に負えな
いこともあるし……」
 ちらっと弱音を見せた眞一郎に、愛子は間髪を入れず釘を刺す。
「ダメよ。絶対、突き放したりしてはダメよ」
「しないよ、そんなこと!」
 眞一郎の大声に、周りの虫たちの鳴き声がふっと静かになる。
「眞一郎が、どっしり構えてる姿を見せれば、比呂美ちゃん、安心するんじゃないか
な?」
「なんだよそれ、結婚もしてないのに……そんな、大黒柱みたいな……」
 愛子のいいたいことは分かっていても、眞一郎は少し照れた。
「あら、その点、三代吉は、しっかりしてるわよ。あいつ結構まめだし。電話でちょっと
弱音吐くとすぐ飛んでくるし。……あななたち、一緒に住んでるから、その点は心配ない
わね」
「どうだろうな……」
 自信を持って答えられない眞一郎。比呂美の気持ちに気づくのに、比呂美が仲上家に来
てから一年以上かかったことがどうしても引っかかった。
「とにかく、あんたが動揺したらダメってこと。たまに、黙ってぎゅっと抱きしめてあげ
るの。それだけでいいの」
 愛子の少女漫画のような台詞に、ほんとにそうなのかよ、とふきだしそうになったが、
でも、核心をついている感じもした。ふっと、三代吉が愛子をぎゅっと抱きしめている姿
が頭の中をよぎって、やっぱりふきだした。
「よくそんな恥ずかしいこと平気でいえるな~」
 からかい気味の眞一郎に、
「あんた、強引にエッチしようとしてないわよね?」
と、愛子もやり返す。
「するか! そんなの。……逆に、おれの方が襲われているよ……」
「わおっ!」
 愛子の好奇心に火が付く。スポーツ万能の比呂美が、どんな風に眞一郎に襲いかかるの
だろうか。そのことが気になってしようがない愛子は、
「比呂美ちゃん、体力あるからな~」
と興奮しながらいうと、眞一郎は、えらく現実的なことを返した。
「あいつの平手、見えないくらい速いんだよ」
「ご愁傷様」
 そのとき、どこかで、ふくろうが、ほっほーと鳴いた。

「ただいま~」
 眞一郎が勝手口で靴を脱いでいると、比呂美の部屋のドアが慌てたように音をたて、比
呂美が、駆け寄ってきた。
「おかえり、遅かったね……」
 比呂美は、手を体の後ろで組み、顎を引き気味にして、眞一郎が板張りに上がるのを見
つめた。つまり、仲直りしたい、というオーラを発しているのだ。
 眞一郎に対しては、比呂美は、態度が先行する。それが、比呂美の癖の一つだった。
 眞一郎も比呂美のその態度に気づいてはいたが、昨晩いきなり殴られたこともあって、
気づかないフリをしようかなと思ったが、逆に驚かせてやることにした。
「ただいま……」
 眞一郎が普段の調子で返事し、比呂美の横をすり抜けると、比呂美は、少し悲しそうな
顔をして、眞一郎についていった。
 眞一郎は、比呂美がついてきているのを気配から感じると、足を止め、くるっと比呂美
へ向き、比呂美をいきなり抱きしめた。
「やっ……」
 比呂美は、びっくりして反射的に身を逸らしたが、一歩遅く、眞一郎の胸で羽交い絞め
にされた。
「ど、どうしたの? なにか、あったの?」
「……いや……」
 眞一郎が廊下のど真ん中で堂々と比呂美を抱きしめるのは、初めてのことだった。
 だから、比呂美は、逆に不安になったが、眞一郎が自分を抱きしめながら、声を出さず
に笑い出したので、からかっているのだということにすぐ気づいた。
「おばさんに見つかったら、大変よ~」
と、かつて口にしたフレーズを比呂美はわざといった。
「見つかったらね」
とおどけて、眞一郎は返した。
 その直後――眞一郎の背後から、一気に氷河期に突入しそうな声がふたりを襲った。
「見つけたわよ」
ふたりは、反射的に飛び上がり、体を離した。
 理恵子は、半目でじっとふたりをしばらく見た後、
「仲直り……したのね。……つまんないわ……」
といって去っていった。
 絶対理恵子に説教されると思ったふたりは、目を丸くして、顔を見合わせた。

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