ファーストキス-11B


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★六月二十四日(火曜)くもり、のち、晴れ――

 早朝の体育館にバスケットボールの音が響く。床から1メートルくらいの高さから重力
に従ってボールが落ちただけなのに、床でバウンドする音は、体育館の隅から隅まで支配
する感じがした。
 比呂美は、七時前に学校に着いていた。
 眞一郎の『恋のはじまり作戦』をより完璧なものにするために、比呂美は、今日から金
曜まで、バスケットの早朝練習をすることにしたのだ。朝練は、試合前以外は基本的に自
主参加なので、ほとんど一年生しか顔を出さない。軽いランニングとストレッチ体操で体
を解すと、自分のポジションからのシュート練習を30分くらいして終わるのがいつもの
内容だった。
 だから、部員たちは、七時半くらいから集まりだす。
 比呂美は、ボールかごを倉庫から引っ張り出すと、ひたすらシュートを放ちつづけた。
オールラウンド・プレーヤー(どのポジションでもこなす選手)の比呂美は、縦横無尽に
コートの中を駆け回った。近くにボールが落ちていれば拾い、すぐさまシュート体勢に入
って、打つ。リングからボールがこぼれれば、すぐリバウンドに備えた。その繰り返しが
10分くらいつづくと、いったんボールをかき集めて、またこのワンマンショウーを再開
した。気持ちよかった。普段より体が軽く感じた。
 眞一郎と比呂美は、昨日、ただの幼馴染とクラスメートに戻った。
 比呂美は、眞一郎との恋の営みに、決して不安や息苦しさを感じていたわけではなかっ
たが、なにかから開放されたような気分を感じていた。そのことを比呂美は不思議に思っ
たが、新たな恋の芽生えみたいな感覚に胸が躍った。
 教室でこれからの眞一郎とのやり取りに思いをめぐらせていると、一年生たちがやって
きた。
「あれ~だれかいるよ~」
 体育館の昇降口から声が転がってきた。
 一年生の三人が、比呂美の姿を見つけると、しゃきっと背筋が伸ばし、比呂美の元へ飛
んできた。
「おはようございます!」
 三人は、深々と頭を下げ元気よく挨拶をした。
「おはよう」
「ひろみ先輩、いつからいらっしゃってたんですか?」
 比呂美は、後輩に名前で呼ばせている。
「七時前よ」
「あの~なにか、あったんでしょうか?」
 一年生のひとりが、思わず口を滑らせてしまい、すぐに、しまった、という表情をした。
「え? なにかって?」
 先輩の質問には絶対に答えなければならない、それは、後輩の義務である。
「ともよ先輩が……」
「朋与がなに?」
 三人が、だれかいいなよ、とつつき合いだした。それを見兼ねた比呂美は、早くいいな、
という感じにせかした。
「朋与がなんていったの?」
「ひろみ先輩が、ひとりで練習しているときは、カレと喧嘩したときだから、近づいちゃ
ダメって」
(あのバカ、余計なことを)
「そうとは限らないよ」
 比呂美は、三人に優しく返した。
「そうなんですか?」
 三人は、不思議そうに顔を見合わせた。
「恋したら、分かるわ……」

 教室に入った眞一郎は、廊下側の席に座っている比呂美の横を素通りして自分の席に座
ると、比呂美に心配そうな顔を向けた。比呂美も同じく、眞一郎が席に座ると、眞一郎に
目をやったが、眞一郎が心配そうな顔をしていたので、思わず席から立ち上がろうとした。
だが、すぐその気持ちを押し殺した。作戦中なのだ。比呂美が再び体の重心を椅子に預け
て前を向くと、案の定、朋与が顔を覗き込んできた。
「あれ、あれあれ?」
 いつもと様子が違う比呂美に気づいた朋与は、面白がって絡んできた。比呂美は、デコ
ピンをしようとする手を堪える。
「きのう、ごめんね」
「え? なんのこと?」
 朋与は、比呂美がしおらしく、いきなり謝ってきたので首を傾げた。
「電話」
「ああ~あれね。もう、謝ったじゃん。もういいって」
 朋与が、比呂美の肩をぽんと叩くと、予鈴が鳴りだした。
 眞一郎と比呂美には、この予鈴の音が、『恋のはじまり作戦』の開始の合図のように聞
こえていた。

 昼休み――。
「朋与ぉ、売店いこうか」
「え?」
 比呂美は、朋与にそう声をかけると教室からさっさと出ていった。朋世は慌てて比呂美
を追いかける。
「朝早く来て、朝練してたの。それで、弁当、間に合わなくて」
「それだったら、仲上くんに頼めばいいじゃん」
と朋与は心配そうに返した。
「いっしょに住んでるからって、甘えたくないし……」
「そう……」
 朋与は、今朝の様子から、比呂美と眞一郎は喧嘩しているのではなく、比呂美が眞一郎
になにか気になることを言われたのだろうと推測していた。その割には、比呂美がいつも
より清々しく見えるのはなぜだろうと思った。
 今朝、比呂美はいきなり、理恵子に伝えた。今週一週間は眞一郎の弁当が作れないこと
と、自分の弁当もいらないことを。それを聞いた理恵子は、顔を青くした。比呂美はすぐ、
そうする理由を眞一郎とのことが原因ではないと説明すると、理恵子は比呂美を叱った。
 理恵子は、自分にまず相談しなかったことと、親代わりである自分に変に気を遣ったこ
とを注意すると、明日から比呂美の分の弁当も作るといいだし、比呂美の家を出る時間を
確認した。例の作戦を完璧なものにするためには、理恵子の愛情も少しは遠ざけた方がい
いかな、と比呂美は思ったが、無理いってそこまですることはできなかった。理恵子に心
配をかけると自ずと眞一郎との接点ができてしまいそうな気がしたのだ。
 昼休みが終わり、再び授業が始まる。
 比呂美は、一回だけ、眞一郎を見たが、眠そうな顔をしていた。
 今の比呂美の気持ちは、落ち着いていた。昨日、いきなり、眞一郎との関係を白紙に戻
されたにも関わらず、眞一郎と比呂美は、同じ目標をしっかり見据えていたからだ。眞一
郎が男らしく比呂美に告白し、もう一度交際をスタートさせるという……。テスト勉強を
一緒にした一体感とは、比べ物にならないくらい、比呂美の心は、嬉しさで満たされてい
た。授業に集中できた。部活にも集中できた。
 そうして、何事もなく学校での時は過ぎ、『恋のはじまり作戦』は着々と進行していっ
た。

 眞一郎の背後で、けたたましく唸っていたコンプレッサの音が、ようやく止んだ。
 午後九時を回っていた。
 ペンキまみれの作業服を着た眞一郎がゴーグルを外すと、西村先生が、ブルーシートを
くぐってきた。
「これで、三回目か?」
「はい、今終わりました」
「予定通りだな」
 西村先生は、眞一郎に肉まんと缶コーヒーを手渡す。
 昨日のうちに、ブロックのつなぎ目のでこぼこを滑らかにし、一回目の下塗りが完了し
ていた。眞一郎の独特のタッチがダイレクトに残るように、下塗りを三回施すことにした
のだった。下塗りした後、どうしても、ゴミが付着したり、細かな気泡が発生したりする
ので、ペンキが乾くと、それらの目立つところを削り、もう一度塗り直す。
 これで、ようやく真っ白なキャンバスの完成だった。
「いただきます」
 眞一郎は、肉まんを頬張った。
「ペンキは、二番街にある店に取りに行け。話しをつけているので、おまえが金を払う必
要はない」
「はい、すみません」
「そこの店の主人は、例の秘密を知っている人物の一人だ」
「えっ、マジっすか?」
「ああ、マジだ」
「道具も揃っているから、いろいろと相談に乗ってくれるだろうさ」
「はい……」
 眞一郎と西村先生は、コーヒーをすすった。
「ところで、おまえ、親父さんに話したのか?」
「はい、話しましたけど……この場所のことは、内緒にしてます。比呂美にも。ま、いず
れバレるでしょうけど」
 西村先生は、鼻で大きく息を吐いた。
「そうか……ヒロシから電話かかかってくると思ってたんだけどな」
「おれ、先生が秘密漏らしちゃったこと、いってませんよ」
「ま、そのことは、もういい、気にするな」
 西村先生は、眞一郎の肩を叩き、コーヒーを飲み干した。
「そろそろ、帰るんだろ? 車で送ってくよ」
「はい、すみません」
「いよいよだな」
 西村先生は、白いキャンバスに目をやった。
 その目は、目の前にある現実ともうひとつの時を同時に見るような感じだった。
 眞一郎も、純白のキャンバスを見た。
 眞一郎の見たキャンバスには、もう、しっかりと、完成された絵が焼きついていた。
 そして、その絵に唯一足りないものが、今度の日曜日に、眞一郎の心に届くことになっ
ている。
 眞一郎は、肉まんの包み紙と空き缶を地面に置くと、足を肩幅より少し開き、腰を落と
して、両腕を広げた。そして、雄叫びを上げた。

バッチこい!

 西村先生は、一瞬目を丸くしたが、ふはははははっと大声で笑った。

 眞一郎は、十時過ぎに家に着いた。比呂美は、駆け寄ってこない。
 比呂美の部屋の灯りは点いていなかったが、机の蛍光灯は点いているようだった。
 眞一郎は、今朝、比呂美がいつもより一時間も早く学校へ行ったことが気になっていた。
自分の持ちかけた例の作戦に、比呂美もその意味を理解して、完全に乗ってくれたことに、
嬉しさを感じたが、比呂美の行動がそこまで及ぶとは、予想外だった。初日からこれだか
ら、このさき、比呂美はもっと例の作戦のために徹底した行動を取るのでは、と眞一郎は
心配になった。この作戦のために、比呂美に無理をさせたくはなかった。眞一郎は、比呂
美に自分の部屋を訪れることを自重させることくらいしか実は考えていなかった。あと、
苗字で呼ぶことくらいしか。だけど、眞一郎は、比呂美の徹底した行動に自分の考えた作
戦の本当の意味と効果を再認識させられたのだ。そして、それは、必ず、今取りかかって
いる絵に必要不可欠だと……。
 眞一郎は、鞄からメモ紙を取り出すとペンを走らせた。書き終えると、四つ折にして、
比呂美の通学用の靴の内側に落とし込んだ。

……比呂美は、やっぱり凄いやつだよ。でも、力を抜かせてあげなきゃ……

 眞一郎は、この一回だけ、『比呂美の恋人である眞一郎』として比呂美にメッセー送る、
というルールを犯した。このさき無理するであろう比呂美の姿を見るのは、正直辛かった
からだ。
 翌朝、比呂美は、眞一郎のそのメモに気づく。
「もう、ルール違反だよ」
と比呂美は呆れたように呟いたが、眞一郎の心配を痛いほど感じた。それに、このメッセ
ージで、眞一郎が、自分の行動をまったく予想していなかったことを知ることができた。
 そして、比呂美も、眞一郎の靴の内側にメモを残すことにした。比呂美もこの一回だけ、
ルールを犯かすことにしたのだ。
「これで、帳消しだよ」

眞一郎のメモ『無理するな ふつうでいいんだ』

比呂美のメモ『わたし 全然平気だよ 鍛えてるし
       しんいちろうくん 好き』

 このメモによる会話を最後に、ふたりは、教室以外では顔を合わさなくなった……。

 いよいよ今日から、眞一郎の純白のキャンバスに色が付きはじめる。
 眞一郎の絵の内容は、それほど複雑なものではないが、微妙な色のニュアンスを表現し
ていかなければ、台無しになるようなものだった。
 建物などない背景にふたりの男女がたたずんでいる絵だった。しかし、それを即乾性の
水性ペンキで描くとなるとぐんと難易度が高くなる。背景の微妙な色合い、人物の肌の色、
服の質感など、こだわるところはいくらでもあった。
 まず、背景から取りかかる。下地の色をつけるのである。画面手前から、草原がつづい
てきて、砂浜に変わり、やがて波打ち際がある。そして、地平線と、空。このそれぞれの
部分の色合いをエアブラシで大雑把に色を付けていき、段々と細かくしていく。青や緑系
統の色は、少し薄めて吹きつけ何度も重ねることによって奥行きを出していく。水彩画を
描くのと同じ要領だった。この下地のグラデーションを描くのに一日かかったが、これも
予定通りだった。むしろ早い方だった。

 次の日。背景のディテール(細かな表現)に取りかかる。この段階から、筆や刷毛(は
け)を使うことになる。それらを50種類くらい用意してきていた。色味によって使い分
けるために、どうしても本数が増えてしまうのだが、こういうところにこだわらないと、
刷毛の洗浄に時間を取られ、返って作業が遅くなってしまうのだ。
 絵の中で、遠くにあるものから取りかかる。地平線、空、波打ち際、砂浜、手前の草原
という順番で。光の反射などは、後の作業に回す。
 人物と地平線の位置関係をもう一度正確に測って、バランスをチェックする。地平線の
位置に印をつけると、白色でその場所に線を引いた。いずれ、この線は塗りつぶされるが、
当分の間基準となる。
 もともと背景は、幻想的な感じなので、地平線と空の描写は漠然としていた。それでも、
エアブラシだけの塗布だけでは、味気ないので、刷毛でわざとムラを作っては、エアブラ
シで、塗りつぶすという作業を何回も繰り返し、色合いに深みを持たせていった、少し離
れた場所から見ると、もうすでに絵の中の世界は、立体的になりつつあった。
 次に波打ち際である。優しいさざなみを表現したかったので、ここの部分には、刷毛と
エアブラシの使い方に神経を使った。エアブラシも、粗い粒子と細かい粒子の使い分けを
した。さざなみの部分がほぼ終わったところで、その日の作業は終了となった。

 眞一郎がキャンバスに色を置きはじめてから三日目。
 砂浜の部分と一番手前の草原部分に取りかかる。草原といっても、広々とした空間を絵
の中に描くわけではない。絵の中の二人の人物の手前に『かすみ草』の花が咲き乱れる花
畑があり、そのすぐ奥に二人の人物が立つ砂浜があるという構図だった。いわば、草原と
いうのは、かすみ草の花と砂浜を滑らかにつなぐ下地のようなものだった。だから、草原
の部分は、細かく描き込まずに、極力うすくぼかし、あとで細かく描く花を浮き立たせる
ようにしなければならない。眞一郎は、事前に図書館でカラーコピーを取ったかすみ草の
写真で色調のチェックをしながら、色を重ねていった。
 これで、背景は、とりあえず第一段階終了である。あと、遠近をもっと付けたり、太陽
光の感じは、人物をある程度描きこんでから再調整する。
 もうすでに、絵の中には、独立した時を刻んでいるような空間があった。この状態を、
通行人に見せれば、完成品の絵と見間違えるかもしれない。女子高生たちは、この絵をバ
ックに携帯電話のカメラで写真を撮るかもしれない。それだけの存在感があった。
 眞一郎が後片付けしているところにやってきた西村先生も一瞬、息を呑んだ。眞一郎の
心の中の世界が、狂うことなく映し出されていたのだ。

「金曜日か……」
 眞一郎は、車道をとぼとぼ歩き家に向かっていた。
 自分の背丈よりも高い絵を描いているのだ。高いところを描くには、台に上がったり下
りたりしながら作業しなければならない。だから、眞一郎の全身は、がくがくと軋んでい
て、筋肉はぱんぱんに張っていた。西村先生は、車で送ってやるといったが、眞一郎は、
風にあたりながら帰りたいといってそれを断った。
 予定通り作業は進んでいても、押し寄せてくる不安は拭いきれるものではなかった。商
店街の喧騒から開放されると、眞一郎の心に孤独と不安、そして恐怖が襲ってきた。それ
らに冷や汗を掻き、体が震えるもした。完成するんだろうか、うまく描けるんだろうか、
比呂美は満足してくれるのだろうか。眞一郎の頭の中に次々と負の因子が湧き起こってく
ると、ふと、乃絵の松葉杖をつく姿が目に浮かんだ。紙飛行機にして一枚一枚飛ばした絵
本を拾う乃絵。その姿に、眞一郎の胸は、ぎゅっと締め付けられる思いになった。そして、
眞一郎の口は、命じたわけでもないのに勝手に、あの歌を口ずさみだした。

……しんいちろう~の こころのそこ~に
  しんいちろう~の こころのそこ~に ゆあさひろみ……

 溢れでてきた涙を拭おうと、眞一郎がズボンのポケットのハンカチに手を伸ばすと、紙
切れが手に触れた。取り出して広げた紙切れは、比呂美の書いたメモだった。

……わたし 全然平気だよ 鍛えてるし しんいちろうくん 好き……

 眞一郎の口元だけが、安堵を感じたように緩むと、眞一郎は、その紙切れを力いっぱい
握りつぶし、遠くへ放った。辺りが暗くてそれがどこへ飛んでいったのか分からなかった。
眞一郎もそれを目で追わなかった。
 そして、眞一郎は、低い声で心の底から唸った。まるで、獲物を威嚇する猛獣のように。
「『這い這い』している場合じゃないぞ。さっさと立ち上がれ、眞一郎……」
 眞一郎は、再び、力を込めて歩きだした。
 国道を折れ、しばらく進むと、愛子の店が見えてきた。
 もう十時を回っているので、店の電気は点いていなかったが、二階の愛子の部屋は、灯
りが煌々と点いていた。乃絵が泊りにきているのかもしれないと思った眞一郎は、止まり
かけてた足に力をこめた。20メートルくらい進むと、背後から愛子の声がした。
「眞一郎!」
 愛子は、すぐ駆け寄ってきて、眞一郎の疲れきった様子に気づくと、何もいわず、眞一
郎の腕をつかみ、店の中へ引っ張っていった。
「いつものやつでいい? お金いらないから」
 愛子は、努めて明るくいうと、眞一郎の返事も碌に聞かずに、いつものやつを眞一郎に
差し出した。
「ありがとう……」
 カウンターに座らせられた眞一郎は、なんとかお礼をいうことができた。
 愛子は、眞一郎の横に座って、黙って笑っている。
 愛子も相当なお節介やきなのだ。やつれた眞一郎を黙って帰すわけがなかった。
 眞一郎は、いつものやつを、両手で持って、ちびちび飲んだ。片手だと落としてしまい
そうになるくらい力が入らなかったからだ。
「なんか、食べる? クリーム入りなら残ってるけど」
「いい」
「部活だったの?」
「……ま~そんなとこかな……」
 愛子は、鼻でふんと笑うと、うそばっかり、と小さくいった。
「比呂美ちゃん、その後、どう?」
「……う~ん、特に、変わりもなくっていうか、いつもどおり、かな……」
「うそばっかり」
 愛子は、こんどは、はっきり口に出してそういった。
「噂になってるぞぉ」
「噂?」
 眞一郎は、なんのことなのか皆目見当がつかず目を丸くした。
「あんたたち、別れたんじゃないかって、一部で騒いでるぞぉ」
「あ……」
 もともと学校ではべたべたしないふたりなので、例の作戦のことは、傍目からでは分か
らないだろうと眞一郎は思っていたが、比呂美のそれに対する徹底した行動が、憶測を呼
んだのであろうと、眞一郎は苦笑いした。
「あんたちは、なにかと目立つんだから、ちょっとしたことでも噂になるよ。比呂美ちゃ
んはもともとスーパーガールだし、あんたは、踊りの花形で有名になっちゃったし」
 愛子は、眞一郎へ身を乗り出し、声を落としてさらにつづけた。
「隠れファンがいるらしいのよ」
「ファン? 比呂美の?」
「あんたの」と愛子は眞一郎の胸をつつく。
「おれ?」
 眞一郎は、また目を丸くする。
「この前ね、眞一郎の写真を待ち受け画面にしている子がいたのよ」
「おれの?」
 眞一郎は、自分を指差す。
「だから、あんたっていってるでしょう。お店に来ていた子でね。ちらっと見ちゃった。
で、その子たち、あんたの話をしているみたいだったの。比呂美にはもったいない男、わ
たしの方が相応しいとかなんとか。けっこう可愛い子だったけど」
 半分愛子の冗談が入っているのだろうと思った眞一郎は、
「どうだって、いいよ、そんなの……」
といって立ち上がろうとしたが、愛子は眞一郎の肩を抑えてそれを制した。
「おれ疲れてんだよ。帰るよ」
 少しむっとして、そう吐き捨てた眞一郎に、愛子は少し真面目になった。
「噂になってるのは、ほんとうだよ。でもね、乃絵もね、ちょっと気にしててね。乃絵は、
あのふたりは別れてないって断言してたけど……。乃絵はなにか知ってるの?」
「乃絵とは、最近、話してないよ」
「そう……」
 自分たちの関係がおかしければ、真っ先に気づくのは乃絵だろう、と眞一郎は思った。
 しばらく沈黙がつづいた。
 愛子と乃絵の間で、自分たちのことがいろいろと詮索されているのだろうと思った眞一
郎は、自分の方から比呂美とのことを話すことにした。
「なんていうのか~ちょっと説明しにくいんだけど……冷却期間みたいなものかな~」
「冷却期間?」
 こんどは、愛子が目を丸くした。
「うん。先週、いろいろお互い衝突があって、混乱したから。愛ちゃんも知ってるだろ?
……でも、比呂美と別れるわけないよ。もう一度、恋、しなおすんだ」
「恋、しなおす?」
 なにそれ、という感じで愛子は身を乗り出した。
「このあいだ、愛ちゃんがいったこと、的を射ていると思ってるんだ」
「比呂美の……ことだよね」
 愛子は、一応確認した。
「うん。比呂美が不安定な原因」
「そう、なんだ」
 愛子は、神社で眞一郎と話したとき、一般論をいったつもりだったのだが、眞一郎が真
に受けているのを見ると、少し自分の発言に責任を感じた。
「それで、愛ちゃんの意見を少し参考にして、自分なりに考えたんだ。しばらく、ちょっ
と距離を置こうって……それに、おれ自身も余裕なくて……」
 眞一郎の顔がふっと暗くなると、愛子は、
「突き放したの?」
とすぐ返した。
「ちがう! 突き放してなんかない。比呂美は、分かってくれた」
 眞一郎は、愛子の目をまっすぐ見ると、全身で否定した。
 愛子は、その態度に少しほっとした。
「ま~眞一郎が自信持っていうなら、問題ないけどさ」
「あいつ、しっかりしてるから大丈夫さ。おれの方がまいりそうだ……」
 眞一郎は、ぼそっとそう呟くと自虐気味にへへっと笑った。
「えらい疲れてるけど、なにやってんの」
 愛子は、眞一郎がやつれているのは比呂美とのことが原因ではないと分かると、眞一郎
の体のことを心配した。
「それよかさ、愛ちゃんの方は、どうなんだよ。話したのか? 三代吉に」
「あ、あぁ~ま、まだ……なんだけど」
 いきなり自分のことに話を振られた愛子は、どぎまぎしながらそう答えた。
「大丈夫だって、三代吉、怒ったりしないって」
 眞一郎は、一生懸命そういったつもりだったが、今の眞一郎にいわれても説得力がなか
った。
「三代吉、いつもやさしくしてくれるの。だから、余計切り出しにくくて」
 愛子も愛子なりに悩んでいた。ごめんなさい、と三代吉に素直に謝れば、間違いなく三
代吉は、笑って許してくれるだろう。だが、愛子が頼めば『虎』とでも素手で戦いそうな
三代吉の純朴さに、ほんとうにそれでいいのだろうかと、愛子は思ったのだ。そして、女
なら当然頭の中をよぎってしまうことに、愛子はまだ、躊躇いから抜けきれないでいた。
「おれが、それとなく聞いてみようか?」
「ダメ! それは絶対、ダメ!」
 愛子は全身で拒否した。
「時間が経てば経つほどいいにくくなるぞ~」
 すこし他人事のようにいった眞一郎に、愛子は、ちょっとふてくされて、
「眞一郎は、いいよね。奪われた方なんだから、気楽よね」といい放った。
「気楽なもんか。もう比呂美が知っているとはいえ、おれは、ちゃんと自分の口から伝え
る。そう決めたんだ。そして、フォローも考えた」
 着々と事を進めていそうな眞一郎に、愛子が自分がいやになるのだった。
「あ~も~わたしの、バカバカバカバカッ」
 愛子は、自分の頭を拳でぽかぽか叩く。
「あのさっ」と眞一郎。
「ん? なに」
「おれ、次の次の日曜日に、比呂美に、そのこということにしてるんだ」
「なんで? なにかあるの?」
 愛子は、なにか深く考えている眞一郎の顔を覗き込んだ。
「おれ、今、絵を描いててさ。でっかいやつ。完成させたら、比呂美にいう。だから、一
緒に……」
 愛子は、眞一郎の目を見て、眞一郎がなにを考えているのか見当がついた。
 確かに、眞一郎、比呂美、三代吉、愛子の四人に関係していることなので、いっぺんに
すっきりさせた方がいいかもしれない、と愛子は思ったが、なにか、心の奥の方で引っか
かるものがあった。
 そして、愛子は、「考えさせて……」と保留を求めた。

★六月二十八日(土曜)晴れ、ときどき、くもり――

 夕刻――。
 この日も、眞一郎と比呂美は、まだ顔を合わせていなかった。
 ふたりが近づくことには邪魔が入るのに、離れることには邪魔が入らないなんて、不思
議だ、と比呂美はこの一週間を振り返っていた。結局、ふたりは、靴の内側に忍ばせたメ
モのやり取りを最後に、一度も言葉を交わさなかった。それは、お互いに、作戦の主旨を
共通認識の下で徹底させた当然の結果ともいえるのたが、案外、自分たちは、お互いを求
めなくても生きていけるのでは、という新たな発見もあった。それは、相手が本当に自分
に相応しい人物なのか、と疑問を認識することではなくて、本来、愛を育むときのそれぞ
れの心の在り方を問うようなもので、決して、眞一郎と比呂美の恋愛感情が、薄まってい
るわけではなかった。
 ふたりは、ある種の恋愛に対する心の余裕みたいなものを獲得しつつあったが、まだま
だ若いふたりは、明日のファースト・デートにポップコーンのように心が躍るのだった。
 夕食の後片付けとのときに、比呂美は、理恵子に明日のことを伝えることにした。
「おばさん、今週は、すみませんでした。無理をいってしまって」
「ほんと、疲れたわ。でもね、それだけ今まで比呂美に甘えていたって証拠ね」
 しみじみと理恵子はそういうと、優しく笑った。
「そんな……わたしなんか、まだ……」
「それにしても、あなたたち、なに考えているの?」
 理恵子には、もちろん、お見通しだった。例の作戦のことが。
「部活でいろいろ忙しいのは分かるけど、それだけじゃないわよね? あんだけ、毎晩の
ように眞一郎の部屋に遊びにいってたのに、急に……」
 理恵子は、最後までいわなかったが、比呂美は、思わず顔が赤くなってしまう。
「あの、明日の午前中なんですけど、台所使わせてもらっていいですか?」
 比呂美は、さっそく明日のことを切りだし、これ以上の追及を逃れようとした。
「なによ、改まって……いいに決まってるじゃない。ケーキでも焼くの?」
「いえ、サンドイッチでも作ろうかな~と……」
 理恵子は、ちょっと間を置いてにやっと笑った。そして、なにかに合点がいったように
「それで……」と呟いた。
「材料あるかしら? 買い物、いかなくていい?」
 頭の回転が速い理恵子は、もう次のことを考えだしている。
「はい、大丈夫です」
「そうね~たまには、のんびりしてらっしゃい。気が利かなくてごめんなさいね」
 もうデートのことを理恵子に感づかれていると思った比呂美は、
「いえ……そんな……」
と余計に恐縮してしまった。
「あした、何時に家出るの?」
「十一時過ぎには」
「眞一郎と一緒に出るんでしょ?」
「いえ……」
 理恵子は、比呂美の曖昧な返事に違和感を感じ、その疑問をぶつけた。
「どうして?」
「あの……眞一郎くんじゃ……ないんです」
「え?」
「眞一郎くんじゃ……ないんです……デートの相手……」
 理恵子は、しばらく黙って、目を泳がせている比呂美を観察した。
「だれ、なの?」と理恵子の少し冷たい口調。
 理恵子なら、次の一言ですべてを察してくれるだろうと思った比呂美は、理恵子の目を
真っ直ぐ見て、自信を持ってその名前を口にした。
「仲上君です」

 そして、仲上君と湯浅さんの『恋のはじまり作戦』も最終段階に突入するのだった。

★六月二十九日(日曜)快晴――

ツールボックス

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