ファーストキス-13


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――第十三幕『もっと、もっと、翼をひろげて』――

★六月三十日(月曜)晴れ、ときどき、くもり――

「はい! 15分、休憩!」
 高岡キャプテンの声が広がると、一年生部員はすぐさま、ボールを持っている先輩たち
に駆け寄り、ボールを受け取った。
 比呂美と朋与は、スポーツ・ドリンクとタオルを持って、勝手口へ向かう。
「比呂美ぃ、なんか調子、よくない?」
 朋与は、今日のバスケの練習での比呂美のプレーを振り返りながら、比呂美にいった。
「先週は、妙に気合入りまくりだったしぃ、その前は、妙に荒れてたし。分かりやす~い
人」
と朋与はからかい交じりにつづけると、比呂美に顔を近づけ、目を据わらせた。そして、
「きのう、したでしょう」といい放った。
 比呂美は、不覚にも、スポーツ・ドリンクの入ったプラスチックの容器を落とし、中身
をぶちまけてしまう。
「そこまで動揺しなくても……」
「手が滑っただけよ」といいながら、比呂美は素早く拾った。
 比呂美は、本当に手が滑っただけだったが、動揺したと勘違いした朋与は、その比呂美
の反応が意外だったらしく目を丸くした。でも、追及の手は緩めない。
「で、どんなだったの?」
 一年生の一人がスポーツ・ドリンクの代わりを届けようと比呂美たちに駆け寄ってくる
のを、比呂美は、手で制しながら、朋与に呆れた顔を向けた。
「あなた、人の恋路に首つっ込んでないで、自分の方を心配しなさいよ」
「だから訊いてんじゃない」
と当たり前のように朋与は返した。
「えぇ~?」
 比呂美は、こんどは本当にびっくりして容器を落としてしまった。
「それって……朋与……あんた……」
 比呂美は、すぐ容器を拾わず、朋与の言葉の真意をくみ取ろうと、朋与の顔をすみずみ
まで舐めるように見つめた。でも、朋与は少しも動しず、
「きのう、デートしたんだ~。ま、一応デートだよねっ」
と少し頬を赤らめて答えた。
「なにそれ?」と早口に言葉を飛ばす比呂美。
「なにそれって、デートっていってるじゃん。男女がおててつないで出かけるデートよ。
比呂美の方が詳しいでしょっ?」
「だれと?」
「なんでそんな顔をするの。まるでわたしが銀行強盗でもしたみたいじゃん」
 あきらかに尋問モードに入った比呂美に、朋与はむっとしたが、比呂美は、
「だれ?」と構わず繰り返した。
 朋与は、観念したように、は~、と大きく息を吐いた。
「蛍川の14番。ほら、次期キャプテン候補みたいな一年生がいたじゃん? あの子」
 比呂美は、その男のことを思い浮かべた。この前の蛍川高校との練習試合で、男子バス
ケ部の一人を指して、あの子かわいいよね、と朋与がいってたのを思い出した。背はそん
なに高い方ではなかったが、サルのようにコートを縦横無尽に飛び跳ねているのが印象的
だった。
「年下? 年下好み?」
「べつにそんな拘りないけど」
「あんたから誘ったの」
「まさかっ」
 かわいい、と口にしたからといって、朋与が一目惚れをしたとは限らない。いつも女同
士で話すように、男の子の印象を口にしただけに過ぎなかった。比呂美もそう思っていた。
「いきなり、電話がかかってきてさ……」
 朋与は、比呂美から顔を背けると、珍しくしおらしくなった。
「スリーオンスリーの大会があるから見に来ませんかって。わたしも、見に行くつもりだ
ったし、軽い気持ちでOKしたわけよ。そしたら、告られちゃったぁ。あはは……」
 朋与は、親指を立て、にっと笑った。
「それって、もしかして、運動公園?」
「そう」
(あ~ぶね~、ニアミスだったんだ)
 比呂美は、朋与に気づかれないように心の中で冷や汗を掻いたが、浮かれモードの朋与
は、比呂美の様子にまったく意識がいっていない。
「だから、今後のためにもいろいろとね」
といって朋与は比呂美の肩をポンと叩いた。
「マジで付き合うの?」
「マジで告白されたから、マジで考えたよ、ちゃんと」
 朋与の真っ直ぐな瞳が、交際をはじめるという意思表示の表れだった。
 見た目が和風美人の朋与なので、決して男どもに人気がないわけではなかったが、朋与
の男っ気を知ると、その蛍川のサルくんは、どう思うだろうかと比呂美は思った。
「でも……恋愛って、人それぞれだし、お互いにいろいろ思って、気遣って、考えていく
のも恋愛の内だから、あまり他人のアドバイスは参考にならないよ。眞一郎くんは、真っ
直ぐだけど、どこか鈍いところもあるし……」
 比呂美の口から、ようやく『眞一郎くん』という愛称が出てきて、朋与はなにかを思い
出したように比呂美の言葉を頓挫させた。
「そういえば、仲上君、妙に疲れてない?」
「え?」
「ちょっと、やつれてるように見えるんだけど」
 朋与は、珍しく眞一郎のことに対して心配するような顔を作った。それだけ、眞一郎の
様子が尋常じゃないように映っていたのだった。だが……。
「まさかっ、比呂美っ、あなた毎晩、なかがむっ」
 比呂美は、朋与がすべてをいいきる前に、右手一本で朋与の口を塞いだ。朋与の顔は、
握りつぶしたあんパンのように潰れる。
「それ以上いったら、どうなるか、わかってるわよね、朋与ちゃん?」
「んー、んー」
 朋与は、もういいません、という目をして、頭を縦に振った。
 比呂美は、手を離してあげる。
「部活がらみでなにか取り組んでるみたい」
「なにか? なにかって、比呂美、知らないの?」
 朋与は、息を整えながら、比呂美の顔を覗き込んだ。
「教えてくれないの。ううん、教えられないの」
 朋与はしばらくその言葉の意味を考えた。それは、眞一郎が比呂美を驚かせようとして
いるか、男として何かと戦おうとしているかのどちらかだと思った。
「ふ~ん、男の子ってそういうことあるでしょう? 好きな子に見られたくないときっ
て」
「わたしも、それは分かってる……。例えば、どんなとき?」
「そうね~己に負けそうなときなんじゃない? ふつうは」
「己か……」
 比呂美は、空を見上げて、その言葉の意味をかみ締めた。
「あと、オナニーしているときとか」
 その直後、勝手口から響いてきた、どすっという鈍い音に一年生は全員、体をびくつか
せた。

 眞一郎の壁絵の作業は、昨日の午後から格段に速くなっていた。迷いを振り切り、ひた
すらゴールへ一直線に向かっている感じだった。精神と肉体が、本当の意味で一体となり、
眞一郎は、かつてヒロシも感じたトランス状態(なにかに取り憑かれたような忘我の状
態)へと突入しつつあった。
 先週の金曜日に、背景の塗りに一区切り置くと、その翌日の土曜日に、その状態をデジ
タルカメラで撮影して、その画像データをデザイン部のパソコンに取り込み、一日、検討
に費やした。人物と背景のバランス、色調、細かなディテールを念入りに画面上で確認し
た。
 残された時間は、月曜から金曜までの五日間。土曜日は、最終仕上げと色剥げ防止の保
護剤の塗布で一日取られてしまう。ここでいったん、完成までのステップを整理して、一
気に進めたかったのだ。それに、ようやく自分の絵に足りなかったものが見つかった。眞
一郎の予想通り、比呂美とのデートの中で発見できたのだ。言葉にすると恥ずかしいが、
『ときめき』というやつを……。
 この間の日曜日、比呂美と砂浜で別れたあと、眞一郎は学校に行き、新たなポーズの人
物の絵をパソコンに取り込んで、背景の画像と合成した。それを確認した眞一郎は、心の
中に突き上げてくるような高揚感を感じ、これでいける、と確信した。
 それから、合成した画像をモノクロの線画のような状態に画像処理して、OHP(※)
用の透明フィルムに印刷した。そのあと、OHPを車に積んで、西村先生と一緒に現場に
移動した。
(※オーバーヘッドプロジェクタのこと。透明のフィルムに光を当て、レンズで縮尺を変
えて壁などに投影することができる装置)

 日曜日の駅前商店街は、相変わらず賑やかだった。半ば洪水のように流れる人の波は、
それぞれの店舗の前で渦を巻いているような感じだった。眞一郎たちは、そろりと道の端
っこを台車を押して進んだ。
 ブルーシートをくぐるなり、OHPを設置して、画像を投写する。
 背景だけ描かれた壁に人物の線が浮かび上がると、西村先生は唸った。
「う~ん、なかなかいいバランスだ。おまえより年上の娘がいるというのに、むかし感じ
た甘酸っぱさがこみ上げてきたよ。それが狙いか?」
「ま~これが俺なりですから。おれは比呂美のために描くだけです」
と眞一郎は頭を掻いた。
「そのくらい生意気がいい」
 西村先生は、ふんと鼻で笑った。
 早速、眞一郎は、色鉛筆を取り出し、壁絵に投写された線を元に印を付けていった。
 まず、人物。ふたりの人物の頭の位置、目、顎のライン、肩、腕、腰、足、つま先、女
性の方のスカートの裾のライン。そのあと、手前の草原に咲く花の位置。要所を素早く記
していった。
 眞一郎の目には、もうすでに完成された状態の壁絵が映っている。あとは、実際にその
通りに色を塗り、乾くのを待つという作業を、繰り返すだけだった。
 いよいよ、人物の色付けだ。
 背景を描くときは、エアーブラシを使う割合が大半だったが、ここからは、刷毛を使う
割合が増える。眞一郎の一番得意とする筆遣いが披露されることになる。
 眞一郎の印付けの作業が終わると、西村先生は、OHPを返しに学校に戻っていき、眞
一郎は、ペンキ調達のため西村先生の旧友の経営するペンキ屋に赴いた。父・ヒロシのこ
とをそれとなく尋ねてみようかと思ったが、今はそんなことどうでもよかった。自分の取
りかかっている絵に完全に夢中になっていたからだ。

 そして、月曜日――。
 西村先生が現場へ顔を出したときには、すでに、人物が大まかに塗られていた。
 背景の色が肌の色に影響しないようにまず下地を塗ったあと、眞一郎は、一気に刷毛を
動かし色を塗っていった。段階的に陰影の付いたアニメのセル画のような状態にみるみる
うちになっていく。いったんペンキが乾くのを待ってから、さらに細かく塗っていく。
 西村先生は、その眞一郎の姿を後ろで黙って見つめていた。眞一郎の背中に、父・ヒロ
シの姿が重なっているように見えていた。
 黙々と、なにかに取り憑かれたように作業をする眞一郎――。とても声のかけられる雰
囲気ではなかった。眞一郎の目は、女を犯しているときのようにぎらぎらしていて、口元
は少し笑っているようにも見えた。声をかければ、今にも飛びかかってきそうたった。野
生の虎のように……。
 西村先生は、できるだけ音を立てないように、ブルーシートくぐって外へ出て、たばこ
をふかした。
(親子っていうか、なんていうか……)
 西村先生は、自分の子供時代のことを思い浮かべては、自分はもう子供の頃には決して
戻れないのだ――という感傷にしばらく浸った。
 夜九時五十分――。
 ブルーシートの中から、アラーム音が聞こえてくると、すぐに、眞一郎がブルーシート
をくぐって這い出てきた。
「ああ~空気、うめぇ~」
 眞一郎が思いっきり背伸びをすると、ぽきぽきと数回骨がなる。
「やけにスピードがあがったな」
「やることが見えてますから……」
「ほれ、コーヒー」と西村先生は、渡し損ねた缶コーヒーを渡す。
「どうも、すみません」
 眞一郎の目には、もう、覇気はない。あどけない17歳の少年に戻っていた。
 眞一郎は、黙ってコーヒーを飲みながら、作業の余韻に浸る。
 西村先生もそういう眞一郎に声をかけずに、そっとしておいた。
 徐々に興奮状態から覚めていった眞一郎は、自分の体が鉛のように重たくなっていくの
を感じた。そして、その重みに耐えられなくなると、眞一郎は、しゃがみこみ、両手をつ
いて四つん這いになった。それから、大きく、は~、と息を吐いた。
「大丈夫か?」
「はい……大きい絵って、やっぱ疲れますね。比呂美に鍛えてもらおうかな」
 眞一郎は無理して、へへっと笑ったが、その痩せ我慢はどう見てもバレバレだった。
「まだ、そんな冗談がいえれば大丈夫だが……」
 そのあと、眞一郎を放って置けなかった西村先生は、眞一郎を車で家まで送った。

「眞一郎くん、大丈夫?」
 さすがに比呂美も、憔悴しきった眞一郎の体を心配せずにいられなかった。
「……うん」
 眞一郎は、重たく感じる体をどうにか動かし、靴を脱いで板張りへ上がった。比呂美は、
肩を貸そうとしたが、眞一郎は応じなかった。
 眞一郎は、軽い酸欠状態に陥っていたのだった。初めて到達したトランス状態に全身の
酸素を急激に奪われていた。だが、現場から離れて新鮮な空気を吸っていくうちに、眞一
郎の体は徐々に回復していった。
「ごはん、食べれる?」
 比呂美は、あまりいい返事を期待せずに眞一郎に訊いた。
「う~ん」としばらく眞一郎は考えたが、少し無理してでも食べた方がいいと思い、
「食べる」
と返すと、比呂美の顔は、途端に明るくなった。
「用意するね。さ、来て」
 比呂美は、ふらふらな眞一郎の腕を取って、居間へ引っ張っていった。
 居間に入るなり、眞一郎は比呂美に座らせられたが、比呂美に甘えられないと思い、す
ぐ立ち上がって台所に入った。てきぱきと準備をする比呂美の後姿が、眞一郎の目に飛び
込んでくる。体に溜まった疲れが洗い流されていくのを感じた眞一郎は、しばらく、比呂
美の背中を見つめた。
「なに作るの?」
「豚のショウガ焼き。焼くだけだから」
と比呂美は、フライパンに油を引きながら答えた。
「食欲が出そうだ」
 油が熱せられたところで、醤油だれに浸かった豚肉をフライパンへ持っていく。じゅー
っと音ともに香ばしい匂いが一気に広がった。比呂美は、火加減を調節するとすぐフライ
パンに蓋をして、平皿にキャベツの千切りなどの野菜を盛りつけだした。味噌汁の鍋にも
火を入れる。
「へ~ずいぶん、手際がいいんだな~、お袋と変らないよ」
「そうよ。わたしが毎日がんばっていることだから」
 比呂美は、眞一郎に振り返ると自慢げに胸を張った。そして、
「眞一郎くんが稼いでくれれば、いつでもお嫁さんになってあげられるよ」
と堂々いい放った。眞一郎は、思わず、咳き込む。
「プ、プレッシャーかけるなよ」
と眞一郎は、気の早い比呂美の発言にそっぽを向いて照れた。それでも、比呂美は、容赦
なくつづけた。
「あら、プレッシャー感じてもらわないと。一人の女を自分のものにするんだから」
 さらに眞一郎は、苦笑いと共に咳き込んだ。
「疲れきった男にいう台詞か?」
 眞一郎は、少し語気を強めていうと、
「ごめん、励ましたつもりだったんだけど……」
と比呂美は怯えたように肩をすぼめ、調子に乗ったことを謝った。
 眞一郎は、急に比呂美の威勢がしぼんでしまったことに、比呂美が相当自分のことを心
配していたと感じた。そして、眞一郎も比呂美に謝った。
「ごめん、心配かけて……」
 比呂美は目を細め、黙って首を小さく横に振って、謝る必要ないよ、と伝えた。

 眞一郎は、お茶を一気に飲み干すと、比呂美の用意してくれた料理を、一週間お預けを
喰らった犬のようにがつがつと食べだした。酸欠状態から開放されると、急に空腹感が襲
ってきたのだ。そんな眞一郎の様子に、比呂美はふきだしかけたが、そのうち眞一郎は喉
を詰まらせるだろうとはらはらさせられた。
 それでも、比呂美は、嬉しかった。自分の料理を味わうように食べてくれなくても、眞
一郎の自分に対する信頼感みたいなものが感じ取れたからだ。いま目の前にいる眞一郎は、
自分だけに見せてくれる眞一郎の姿であって、決して石動乃絵には見せたことのない姿な
のだ。
 しかし――。
 比呂美は今でも、眞一郎が、笑う度、冗談をいう度、絵本の話してくれる度に、どうし
ても石動乃絵の姿を感じていた。数回体を重ねても、それは消えてくれなかった。恋愛に
おける嫉妬とは別の感情だと比呂美は分かっていても、眞一郎の石動乃絵との時間が、眞
一郎の成長の一端を担っているということに、異物感みたいなものを感じていた。
 そして、このことを解消するには、眞一郎にどうにかしてもらうのではなく、自分自身
の心の成長が必要だということに気づいていたが、まだ、どうすることもできなかった。
 眞一郎は、相変わらず食べることに忙しくしていた。眞一郎の口元に、お約束のように
くっついた白い粒に気づいた比呂美は、
「ちょっと、ストップ」と眞一郎に声をかけた。
「っん」
 眞一郎は、まともに返事ができなかったが、手を止め、比呂美を見た。
「ほら、ここ」
と比呂美はいうと、眞一郎の口元のごはん粒に手を伸ばしてつまんだ。そして、それを躊
躇いなく自分の口へ持っていった。比呂美は、ごはん粒一つなのに、おおげさに口をもぐ
もぐさせて、眞一郎を少し睨んで、ふふっと笑った。
「あ……」
 急に恥ずかしさがこみ上げてきた眞一郎は、照れ隠しに、また黙々と食べだした。
 こういうの、悪くない……と思いつつも、比呂美のいきなり懐に飛び込んでくるような
態度に、眞一郎は少し困惑させられた。

 それから眞一郎は、5分で比呂美の料理をきれいに平らげた。
「ちょっと、速すぎ。胃に悪いよ。野良犬じゃないんだから」
 比呂美は、眞一郎にお茶を淹れてあげながらいった。
「比呂美を早く家事から解放させてあげようと思って」
「バカね~、そんなこと考えなくていいの」
 比呂美は、理恵子の口調を真似ていった。
「そういえば、お袋、きのうから機嫌が悪くないか?」
「そう?」と比呂美はとぼけた。
「おまえ、なにかしでかしたんだろう」
 珍しく眞一郎の推測が的中して、比呂美は息を呑んだ。
「なんにもしてないよ。おじさんと喧嘩でもしたんじゃないの?」
 ウソでも本当でもある言葉を比呂美は返した。
「お袋、最近、どう? 比呂美に対して……」
 比呂美は、昨日もヒロシに同じこと訊かれたのを思い出し、目を丸くして、笑いだした。
「やっぱり、親子だ」
「なんだよ、いきなり」
 父親と比べられるのがあまり好きではない眞一郎は、少しむっとする。
「な~んにも」
 おとぼけを決め込む比呂美の態度にかちんと頭にきた眞一郎は、からかい気味に、
「おまえ、親父に抱きついたりしたんじゃないのか? お袋がキレそうなのは、そういう
ことぐらいだもんな」

 ドキッ!

 眞一郎の冗談まじり台詞は、事の真実をすべて語っていた。
「おれ、また氷河期みたいな生活は嫌だからな。いつも優しい母親ぶってるけど、内心は
すっげ~対抗意識燃やしてると思うぜ。比呂美、比呂美の母さんにそっくりだからさ」
 そのとき!
「だれが優しい母親ぶってるって?」
 居間の廊下側の扉が開き、その声の主の女性が姿を現した。
 眞一郎は、理恵子の方を振り返るよりもさきに、理恵子から少しでも離れようと、這っ
てその場を飛び退いた。
「おかえり」と浮気の現場を押さえたような理恵子の冷たい声。
「た、だいいま」と浮気の現場を見られたときような眞一郎の怯えた返事。
「比呂美、あと、わたしがするから部屋に戻っていいわよ」
 理恵子は、いつもの優しい口調に切り替えてそういった。
「でも……片づけまで……」
「あなたがいつまでもそばにいると、眞一郎が休めないでしょ?」
 理恵子の冷静な言葉に、はっとなった比呂美は、後ずさるように座っている眞一郎に申
し訳なさそうな目を向けた。すぐに「ごめん……」と謝って、次の言葉をいいかけたが、
理恵子は眞一郎に向けた言葉でそれを遮った。
「あなたもお風呂入って、早く寝なさい」
「う、うん」
 眞一郎は、いつもの母親の口調に緊張を解いて体勢を戻した。
「それじゃ、わたし……おやすみなさい」
 比呂美は、名残惜しそうに眞一郎を見ると、居間を出て部屋に戻っていった。
 眞一郎は、お茶を一気に飲み干して、居間を出ようとすると、理恵子が呼び止めた。
「眞ちゃん……」
 眞一郎が振り返ると、理恵子は、茶碗や皿をおぼんに乗せながら、
「そろそろ、比呂美のペースに合わせるの、止めなさい」
と、やさしく諭すようにいった。
「なにが、いいたいんだよ……」
 眞一郎は、顔をしかめた。
 理恵子のこの言葉は、自分と比呂美の仲を案じて出てきたのだろうが、眞一郎には、そ
の言葉の意味がすぐ理解できなかった。比呂美にペースを合わせるという自覚がなかった
からだ。
 「比呂美もあなたのことばっかり考えていると、そのうち疲れちゃうわよ。そういう気
遣いも覚えていかないと……」
「……うん……」
 眞一郎は、曖昧な返事をした。
 眞一郎は、まだ、壁絵のことを、比呂美に詳しくは話していない。
 眞一郎が比呂美を遠ざけてまでひとりきりで壁絵に立ち向かわなければならないのか。
比呂美はこのことを頭では理解していても、心の奥底では納得できず、それが理恵子との
普段のやり取りで噴き出してきているのだろう。それで、理恵子が心配しているのだと眞
一郎は思った。
「母さん、もう少しだから……でも、比呂美にも堪えてほしい……」
「何に意地になっているかはしらないけど、比呂美は、あたなにしか甘えられないのよ」
 こうもはっきりと、理恵子が眞一郎に、比呂美との関係について口を出したのは初めて
だった。眞一郎は、少し面食らい、自分が家にいない間に何かあったのではないかと考え
たが、理恵子の言葉をもう一度思い返すと、漠然と理恵子の言わんとすることが頭の中に
浮かんできた。

『比呂美のペースに合わせるな』
『そのうち比呂美は疲れてしまう』
『比呂美は、自分にしか甘えられない』

 つまり、『比呂美を、今の状態から少し、心の自立の方へ追いやれ』ということなのだ
ろう。眞一郎が思ったのは、そういうことだった。

「これからしばらく店、来れないんだけど……」
「えぇ?」
 三代吉の声に思考を中断された愛子は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「聞いてなかったのかよ~」
「あ、うん、ごめん。で、なんだっけ?」
 テーブルを拭いている愛子は、椅子を片付けている三代吉に、おどけて訊き返した。
「だから~、草取りのシーズンでさ~、親戚総出でやるんだよ。うち、田んぼとか畑とか
多いからさ。去年もそうだったろう?」
 田植えが終わり、梅雨に入ってしばらくすると雑草が急激に伸びだす。梅雨が明けると、
雑草たちは手がつけられないほどにしこるので、毎年、梅雨の間に雑草の芽をつむのだ。
「うん、そうだったね」
 三代吉は、ここ数日間、愛子の様子がおかしいことに気づいていた。深刻な悩みを抱え
ている風ではなかったが、なにかいい出すタイミングを計っているように見えていた。
「愛ちゃん。なんか、最近、考えごとしてねえ?」
「え?」
 愛子は手を止め三代吉を見た。三代吉は心配そうな顔をしている。それに、なにか感づ
いているような目。
「うん、ほら、わたし、いろいろと仕事多いから。夏祭りの実行委員にも入っているし」
 愛子はとりあえずごまかしてみたが、三代吉は表情を変えなかった。演技のあまり得意
ではない愛子。意外に繊細で鋭い三代吉。たいてい愛子のウソは、三代吉に見抜かれてし
まうのだ。
「無理して訊かないけど……」
 愛子が困った顔をすると、いつものように、すぐ追求をやめる三代吉。しかし、今回の
場合は、先々まずいことになると愛子は予感した。
「ち、ちがうの。他のこと考えてたんじゃないよ。三代吉のことだよ」
 愛子は本当のことをいったのだが、このタイミングでいわれてもさすがに三代吉は素直
に信じることができない。
「無理しなくていいって。話、変えようぜ。そうだな~次のデート、どこにいこうか?」
 三代吉の変に優しい態度に、いつも愛子は胸が締め付けられる。そして、罪悪感みたい
な感情が重くのしかかる。一度関係を切ってやり直したふたりは、他愛のないことではよ
く喧嘩をするのに、肝心なことでは急に臆病になるのだった。
 でも、いい加減潮時だと愛子は思った。ふたりの間にあるこの『しこり』みたいなもの
を早く取り除かないと先に進めないのではないだろうか。そう思った愛子は、恋愛事に関
して不器用なのにもかかわらず、思いきった行動を取ろうとした。
「あの、あのね……」
 急にもじもじしだした愛子に、三代吉は、目を丸くした。愛子は、そろりと三代吉に近
づいていく。
「なに?」
 三代吉は、カウンターを背に立っている。
「目、つぶって……」
「え?」
「いいから……」
 三代吉は、しばらく、愛子の様子を伺っていたが、ん、と発して目を閉じた。
 三代吉が素直に従ったのを確認すると、愛子は、三代吉のそばにより、三代吉の両肩に
手をかけ、上へ目いっぱい背伸びをして、唇を押しつけた。三代吉と愛子の身長差は、2
5センチくらいあるので、普通に直立した状態の三代吉にキスするのは至難の技である。
だから、この体勢は長くつづけられない。

……唇を離したら、いおう。あのことを。
  眞一郎とのキスのことをいおう……

 愛子は、そう心に決めた。
 眞一郎も、決着つけようとしている。自分も遅れを取るわけにはいかないと思った。
唇を離したら、まず笑顔を見せよう。愛子は、そう思って、ゆっくり三代吉から離れた。
三代吉は、まだ愛子の言い付けを守り、目をつぶっている。
「三代吉……」
と愛子が囁くと、三代吉は、ゆっくり目を開いたが、顔は照れるどころか、みるみるうち
に険しくなっていった。
「なんだよ……」
 三代吉は、あきらかに怒っていた。
「なにって……」
 愛子は、背筋が凍りつくのを感じた。どうして、怒るの? といいかけだが、三代吉の
顔があまりに怖くて、その言葉は喉を通り過ぎてこなかった。
「どうして、おれの気持ちを無視するんだよ」
「え……」
 愛子は、三代吉の言葉がすぐに理解できなかった。
「無視って、わたしたち、恋人同士なのに……」
 自分からキスをしてはいけないというのか……。
「おれ、ちゃんと大事にしたいんだ……キスでも。……そんな……ごまかすようなキスは
嫌だ」
 悩みを打ち明けなかった償いとして愛子はキスを捧げた――。三代吉はそう考えたのだ。
「ちがう、絶対にちがう! わたしだって、大事におもっ……」
 愛子は、そういいかけだが、止めた。

……ほんとうに、大事にしていただろうか?

 自分のしてきたことを考えると、とても「大事にしている」とはいえなかった。いつも
なにかの衝動にかられてキスをしてしまう。眞一郎のときも、今も。よく考えてみると、
三代吉と気持ちを確かめ合ってキスしたのは、一回しかなかった。愛子は、急に自分が恥
ずかしくなり、知らぬ間に、三代吉を傷つけてしまっていたことに、いたたまれない気持
ちになった。
「愛ちゃん、そんな顔するなって」
 さらに、三代吉の優しさが、愛子には、鋭い槍となって飛んでくる。
 顔を蒼くしている愛子に、三代吉はいつもの笑顔作って見せたが、愛子はそれを見れな
かった。
「おれ、そんな愛ちゃんも好きだぜ」
(わたしは、そんな三代吉のやさしさが嫌い!)
「優しくしないで! 優しくしないでって、何回わたしに言わせるつもり?」
 愛子は、三代吉の発言を奪い取るように叫んだ。
「何回でもいわせるさ! おれには、それしかないもんな!」
 三代吉も負けじと愛子に吼えた。
「三代吉ぃ……」(わたしは、そんな三代吉のやさしさが、好き……)
「ご、ごめん、大声出しちまって」
 愛子が少し怯えたのを見て、三代吉はすぐ、取り繕った。
「ごめんは、わたしの方だよ。わたしずっと、三代吉に言いたかったことを考えていたの。
他のことを考えてたんじゃないの。キスだってごまかすためじゃない!」
「愛ちゃん、わかった、わかったから」
 愛子が食ってかかるのを、三代吉は、おさえておさえて、と両手でなだめようとした。
「わたし、ちゃんと話すから。今は、ちょっと興奮しているし、あれだから。もう一回、
気持ちの整理したら話すから」
 愛子は、涙の溜まった目を真っ直ぐ三代吉に向けた。
 三代吉は、その真剣な眼差しにたじろいだが、
「ああ、まってるぜ」
というとに歯を見せてにかった笑った。
 三代吉のこういう物分りがいいところを、愛子は気に入っていたが、そういうところに
すぐ甘える自分が嫌いだった。
 その後、三代吉は、会いたくなったらいつでも電話しろよ、といって帰っていったが、
愛子は、カウンターに突っ伏して頭を抱えた。
「なにやってんだろう、わたし……」

 ドン

 愛子のカウンターを叩いた音が、虚しく響いた。

☆七月二日(水曜)くもり、のち、雨――

 眞一郎の壁絵の制作は、日曜から人物に取り掛かり、月曜と火曜で背景以外の部分の色
付けがほぼ終わった。ちょうど予定通りに進行していた。今日と明日の木曜日で、人物の
仕上げをして、金曜日に光の反射などの処理と最終仕上げ、土曜日には、保護剤の塗布、
というスケジュールだった。
 現状でも充分、絵として見れる状態なのだが、眞一郎は、1ランク上のことに挑戦しよ
うとしていた。人物や草花のひとつひとつを刷毛で丁寧に描いても、見た目はきれいでも、
どうしても平面的な感じになってしまい、奥行きが損なわれてしまう。大きなサイズの絵
だとそれがより顕著に表れる。そこで、エアブラシなどを駆使して、フォーカス(焦点)
をぼかしたような処理を施そうとしていたのだ。でもこれは、遠くのものを単純にぼかせ
ばいいというものではなく、陰影や輪郭、色合いなどを段階的に計算しなければならない
ものだった。だから、眞一郎は、一日かけて、できるだけ短時間で作業したかったのだっ
た。
 眞一郎は、朝学校へ来るなり。西村先生に相談をし、今日一日だけ朝からの作業を許し
てほしいと頼み込んだ。鬼気迫る眞一郎の訴えに、西村先生は、もう、眞一郎を止めるこ
とはできなかった。
 一時限の開始のチャイムがなっても姿を現さない眞一郎に、比呂美や三代吉らは、だれ
か事情を知っている者がいないかと顔を見合わせた。
 授業をしにきた数学の先生も、眞一郎の席が空白なのに気づくと、日直に事情を訊こう
とした。ちょうどそのとき、西村先生が教室に現れ、手招きをして教壇にいる数学の先生
を廊下に呼んだ。数学の先生がすぐ戻ってくると、
「仲上君は、欠席だそうだ」
と日直に教えた。
 比呂美は、いてもたってもいられず、教室を飛び出した。
「比呂美ぃ」と朋与。「湯浅、どこいく」と先生。
 比呂美は、西村先生を追いかけた。すぐにその背中を見つけることができた。
「西村先生!」
「こら、教室に戻らんか」
「しん……、仲上君は?」
「おまえには、話してないのか?」
 西村先生は、きょとんとした顔をした。
「はい、なにも、聞いていません」
「心配するな。仲上が壁絵の制作で朝から作業したいと言いだしてな。病気や事故じゃな
いから心配するな」
 西村先生は、心配そうに目を震わす比呂美に優しく微笑んだ。
「壁絵?」
「ん? そのことも話してなかったのか、あいつ」
「……はい……大きな絵とは聞きましたけど、部室で描いているものとばかり」
「仲上がおまえに話していないのなら、そういうことだ、湯浅、あいつの気持ちを尊重し
てやれ。どういうことなのか分からんおまえではなかろ? さ、戻りなさい」
 眞一郎以外の人間にこうもはっきりいわれると、比呂美は、自分が理解のない小心者の
ように感じてしまう。眞一郎が比呂美に対して、はっきりと「ひとりで向き合わなければ
意味がない」と伝えていても、その言葉だけでは比呂美の心は、平静ではいられない。眞
一郎の見ているビジョンを、比呂美はまだ、はっきりと見ることができないでいたからだ。
 比呂美は、とぼとぼと教室へ向かった。その背中に、西村先生は、なにか嫌な予感のよ
うなものを感じ、顔をしかめた。

 一時限が終わり、比呂美はすぐ、眞一郎にメールを出そうと、教室のロッカーに置いて
いた携帯電話を取りにいった。すると、眞一郎の方からメールが来ていた。

『ごめん
 絵の制作で学校
 休むことにした
 母さんには
 連絡してある
 いよいよ仕上げにかかる
 この前 おまえがいった
 プレッシャーを
 感じているよ
 でも 苦しくないよ
 苦しくない』

 比呂美は、慌てて教室を飛び出し、トイレの中で、静かに泣いた。そして、メールを返
した。

『わたし 早く
 眞一郎君の見ているものを
 早く 見たい
 見れるようになりたい
 どうしたらいい?』

『比呂美のままでいいんだよ
 そういう比呂美が
 僕は好きなんだから』

「それじゃ、わかんないよ、眞一郎くん……」
 比呂美は、眞一郎に些細なことでもいいから書いてほしかった。毎朝、太陽に向かって
手をかざせっというのならそうする、毎日、海を見ろっというのならそうする、パンツを
履くときは必ず左足からというのならそうする、とにかく自分なりの努力がしたかったの
だった。
 でも、眞一郎が、比呂美のままでいい、今の自分のままでいいというのなら、比呂美は、
今の自分に正直に行動してみようかと思うのだった。

 放課後――。
 眞一郎は、当然のことながら、今日一日学校に姿を現さなかった。特に変わりもしない
一日であったが、昼休みに、乃絵が教室の中を覗き込んでは、すぐ去っていった。そのと
き、比呂美と乃絵は顔を見合わせたが、お互いなにも話さなかった。乃絵は、眞一郎が学
校を休んでいることは知っていたが、乃絵が気にしていたのは、三代吉の方だった。

 比呂美たち女子バスケ部は、練習を終えた後、シャワーを交代で浴び、着替えていた。
 今日も眞一郎の帰りは遅くなるのだろうか、ごはんをどうしようか、と比呂美がひとり
思いにふけっていると、朋与が一年生部員の一人を比呂美のところへ引っ張ってきた。
「ひ・ろ・み・さん」
と意味有りげにいう朋与に腕をつかまれた一年生は、怯えたように肩をすぼめていた。
「なに」
「比呂美に、ビッグ・ニュースを持ってきたんだけど」
「ビッグ・ニュース?」
「例の、あ・れ・よ」
 朋与は、片方の眉毛をぴくっと上げてみせた。
「あれ?」
「愛しのダーリンなかがむっ」
 比呂美は、朋与がいいきる前に朋与の口を片手一本でロックした。そして、もう片方の
手で、後ずさりをする一年生を腕をつかんで引き寄せた。その一年生は、あまりの怖さに
立っていられなくなり、しゃがみ込んでは、ごめんなさい、と念仏にように唱えた。
「なに、話って」
 比呂美は、一年生の肩に手を置きやさしく促した。
「あ、あ、あ、あの」
「落ち着いて、朋与みたいにしないから」
 比呂美は、少し呆れて微笑んだが、そんなこといわれれば、逆に震え上がるのが一年生
というもの。朋与は、近くの椅子に口を塞がれたまま座らせられた。
「ひ、ひろみ先輩は、ご、ご存知だろうと、お、思って、お話ししなかったのですが……
わたし、み、見たんです」
「見た?」
 朋与は、ようやく解放される。
「は、はい。この前の日曜日に、駅前の商店街を歩いていたんです。そしたら、せ、せ、
先輩の……」
 その一年生はそういうと、顔を赤らめ俯いてしまった。朋与が、顎をさすりながらその
後をつづけた。
「仲上君がいたんだって。あの噴水のところに」
「噴水のところ? ちょうどアーケードの中間のところの?」
「そう、そこ。去年からすっと工事してたでしょう。そこの絵を描いているんじゃない? 
仲上君」
 西村先生も、確かに壁絵という単語を口にした。比呂美も、噴水のところで憩いの空間
を作ろうと工事していたのは知っていた。真っ白のブロック塀に囲まれた円形の空間が、
脳裏に浮かんだ。そのブロック塀に、眞一郎が絵を描いているというのか。今までつかん
だ情報を整理してみると、それで間違いないようだった。
「ありがとう、教えてくれて」
 比呂美は一年生にそう声をかけると、ブラウスのボタンを急いで留め、自分の荷物をつ
かんで部室を出ようとしたが、朋与がそれを許さなかった。
「待って!」
「冗談なら明日にして」
 比呂美は、朋与の体を押しのけようとしたが、朋与は、がんと動かなかった。
「仲上君が、比呂美に話さなかった、ということは余程のことなんじゃない? それを無
視するの? 仲上君の考えを受け止めずに……」
「わたしに説教する気?」
「バカッ!」
 朋与の怒号が部室に響き渡る。すると高岡キャプテンが比呂美たちに近づいてきて、
「喧嘩したら、一ヶ月謹慎だからね」
と冷たくいった。
 それから、比呂美と朋与は声を落として話した。
「もう限界なの……」
「比呂美の気持ちも分からないわけじゃないけど、ここは我慢しなくちゃいけない気がす
んだけど……仲上君もそれを望んでるんじゃないの?」
「そんなこと、分かってるよ」
 比呂美は、吐き捨てるようにそう呟いた。
「学校休んでまでやってるんでしょ? 半端じゃないと思うな。それは、あんたも知って
るんでしょ?」
「…………」
 比呂美は、黙りこくっている。そんな比呂美に前を向かせようと、朋与は話の切り口を
変える。
「じゃ~比呂美、仲上君の立場になって考えてみようよ」
「え?」
「もし、わたしだったら、たぶん、絵を描いてるとこに比呂美が来たら、ひっぱたいて追
い返すと思うな。はっきりいって邪魔だから」
 朋与は、親友として容赦のない言葉で自分の場合をいった。そして、比呂美に尋ねた。
「比呂美は? あんただったら、どうする?」
「わかんないよ、そんなの……」
と比呂美は首を小さく横に振ってそう答えた。だが、朋与は、比呂美の言葉に目を輝かせ、
つっこんできた。
「そう! それよ! それだからいけないのよ」
「え……」
「比呂美は、仲上君のことを考えているようで考えていない。自分の気持ちしか考えてい
ない!」
「そんなことない!」
「じゃ~わかんないっていう台詞はなによ! 仲上君が聞いたら結構ショックだよ」
「…………」
「バスケでもひとりで練習したいときってあるでしょう? 試合で負けたあと、ひとりに
なりたいときってあるでしょう? そういうときってだれでもあるのよ。でも、それでも、
比呂美が仲上君のところに……、絵を描いているそばにいきたいとういうなら、わたしは
もう止めないけどね」
といって朋与は、比呂美をつかんでいた手を解き、ドアの前からのいた。
「比呂美のしたいようにすればいいわ。でもね、人の気持ちを無視すると必ずしっぺ返し
がくることを忘れないでおいて」
 比呂美が相当ストレスを溜めていることに、朋与は気づいていた。比呂美のはやる気持
ちも、もっともだと思ったが、自分にはどうしてもやれないことにやるせなさを感じた。
あとは、眞一郎に任せるしかない。たとえ、自分が想像したように、眞一郎が比呂美を遠
ざけても、比呂美に失望しても、逆に今のふたりには、それが必要なのだろうと、朋与は
そう思ったのだ。
「朋与、ありがとう……でも、わたし、いってみる。様子をみてくる。近寄れそうになか
ったら、声かけずに帰る」
「うん……それで、いいんじゃない」
 朋与は、目を細めて頷いた。
 部室の中は、しんと静まりかえっていた。隅の方で、一年生が感極まって声を上げずに
泣いていた。比呂美の上履きの音が数回鳴り響くと、ドアが開き、比呂美は、部室から出
ていった。
 比呂美が昇降口を出たとき、校門までの道程に色とりどりの傘がまばらに咲いていた。

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