「今週、進路希望調査を行います」
担任の森先生がそう告げる。
そうか。もう、そんな時期だったか。
「今週末までに、第3希望まで書く欄があるから、
おのおのよく考えて記入してくること」
勿論、現時点での希望で構わないから、と先生は付け加えてHRは終了となった。
「で、どうするんだ?
眞一郎は?」
鞄に教科書などを揃えてしまっていた俺に、後ろから声が掛かる。
三代吉―――野伏三代吉だ。
「ん。
まあ、それなりに考えるところはあるけどさ」
と答えはしたものの、その答えが三代吉には想定通りだったのか、柔らかい顔になった。
「そっか。お前さんには理想があるものな」
―――理想。理想、ねぇ。
三代吉や父さんや母さん―――ましてや比呂美にもまだ告げてはいないが、
俺の中では、既に一つの考え方が出来上がりつつあった。
「……まあ、まだ高2だからな」
「そそ。まだ2年もあるさ」
ひょいっと鞄を持った三代吉と、いつも通り比呂美の部活が終わるまで学校にいる俺は、
片手を上げて挨拶を交わすと、それぞれの放課後に戻る。
やりたいことは決まっていた。
絵本を描くこと。作品を見て貰うこと。
そして見てくれた人に、何か感じて貰うこと。
それが出来れば、作り手としては至高の喜びだ。それを求めていければ、と思う。
でも、でもな。
「簡単じゃない、さ」
重くなりつつある気持ちを払おうと、校舎の外に視線が向かう。
判っているだけに、その山は高く、険しいのだと、思う。
まるで、目の前に広がる白山の峰峰の様だ、とも。
「よっ、仲上じゃないか」
その数週間前のこと。
放課後の俺は、基本的には図書室で時間を過ごすか、放課後の校舎でスケッチをしているか、
そのどちらかだったのだが、この日は図書館で過ごすことを選択していた。
「ああ、佐伯か。ご無沙汰だな」
そこで会ったのは、佐伯貫太郎。
もの凄い名前に思うが、三代吉を含めた周囲の面々に言わせると、
俺の“仲上眞一郎”とレベル的には変わらないぞ、と言われる。
貫太郎とも小中高と一緒の学校に通っており、
一緒のクラスになったことこそないが、普通に顔なじみよりも仲は良い、と思う。
「たく、“ご無沙汰”はないだろう。
隣のクラスなのにさ」
苦笑混じりに、俺の座る席の隣にかけてきた彼は2年C組。
俺の居るB組の隣のクラスだ。
確かに、ご無沙汰な距離ではないかもな。
「そっか。でも体育はA組と一緒だからさ」
体育の男女別実習では、我がB組は反対側のA組と一緒になるからだ。
故に、C組とは意外と疎遠だ。
「ま、そうか。
で、仲上家の次期御当主様は、将来に向け勉強中でしたかな」
「――止せよなぁ。
勉強してないの丸わかりだろうが」
人の読んでいる本を覗き込みながらそう言っている貫太郎だが、
実はこの嫌みに聞こえそうな言葉。
結構気さくな人柄でもある貫太郎が言うと、そう聞こえては来ない。
得なやつだと、俺は思う。
ちなみに、俺が今読んでいるのは『麦端の郷土史』である。
表題の通り、麦端の歴史が載っているのだが、
昔の説話なども多く、俺の中では一応物語を作る上での重要な参考文献となっていた。
だが、学校の勉強、特に受験勉強とはかけ離れている本には違いはないし、
俺の目標のことを知る人間は少ないだろうから、そう貫太郎は言ってきたのだと思っていた。
しかし、彼は不思議そうに、こう問い返してきたのだ。
「いや、絵本作りの勉強だろう。
将来のための勉強に間違いは無いだろう?」
と。
「えっ?」
驚いた。
絵本作りの話を、学校で出すのは比呂美や、あって乃絵くらいであり、
他の人が知っているはずがないと思っていたのに。
だから、何で知ってるんだ、と俺が問うのも無茶な振りではない。
「親父が話していた。
仲上の長男坊はそう言った夢を持っているそうだぞ。お前にはそう言ったものはないのか、だって」
これは……驚いた、と言うより呆れた。
どうやら、麦端の町内では隠れて結構俺の絵本作家志願は知られているようで、
しかも佐伯の親父さん、―――貫太郎の父は、それを支持してくれているようなのだ。
「お前も、うちを継ぐなんて発想力の欠片もないこと以外に、夢はないのか、ときた」
カラカラと笑いながら、彼は話しているが、
それはもの凄く理不尽な問いかけを佐伯は親父さんにされている、と俺は思う。
「いや、結構ガツンと来たんだよなぁ。
俺、家を継ぐ以外のことなんて考えてこなかったからさ」
貫太郎の家、佐伯家。先祖代々、白山麦端神社の神主の家柄である。
父親も現職の宮司で、貫太郎は一人息子だ。
「でも、家を継ぐってこと、お前にとって消極的選択だったのか」
「まあ消極的に考えたつもりはなかったんだけれど、今考えれば、そうなのかもなぁ」
腕組みしつつ考え込む貫太郎に、自分は気後れする思いを感じていた。
そう。普通に考えれば、俺は仲上家を相続し、仲上酒造を継ぎ、家を守らねばならない立場なのだ。
それが当たり前に思ってきた佐伯にとって、俺なんて存在は論外なのではないのだろうか。
「いや、さっきも言ったけど、俺はガツンって来たよ。
確かに、硬直して考えることでもないなって、思えてきた」
「良いのかよ」
「別に、継がないとか言い出すつもりもないけれど、
他に自分のやりたいことはないのか、とか考えるきっかけにはなった」
感謝してるんだぞ、と頷きながら言われたとき、
俺は何故かそこで、―――救われる思いがした。
「ああ、そうだった。
親父から、近々眞一郎に会えたら伝えて欲しいって言われてたんだ」
「えっ?」
いきなりの話題振りにいきなりの伝言。
しかも驚くのはまだ早く、その伝言から派生するその事柄は、
もの凄いきっかけを俺にもたらすものとなる。
この日もそれ以外の出来事はいつも通りで、
やはりいつも通り昇降口で待ち合わせて、比呂美―――湯浅比呂美と一緒に俺は帰る。
並んで一緒に比呂美と帰ることが、今の俺たちには普通で、そして一番幸せなことだ。
この時間を得るまでに、ずいぶん遠回りをしたな、とも思うが、
それはいずれゆっくりと振り返る時間が来るのだとも、思う。
学校から彼女のアパートまでの距離はそんなにあるわけでもなく、
名残惜しそうにする比呂美を、きゅっと軽く抱きしめて、
「また明日な」
と告げると、彼女は笑みを浮かべてくれる。
階段を上りきるまで見送ったあと、家路につく俺だった。
その数日後の休日。
「すまないね。遠路来て貰って」
ニッコリと笑みを浮かべて迎えてくれたのが、貫太郎の父、
白山麦端神社の宮司、佐伯幸司郎さんだ。
勿論、街の有力者であり、俺ですら顔と名前が一致し、
かつ直接話をしたことのある人である。
ここは街の中心からは少し離れたところに位置する神社だが、
うちから自転車で15分もあれば到着するので、遠路という言葉にかえってこっちが恐縮する。
「いえ、こちらこそ、わざわざお招きいただきまして」
「いやなに。
うちの馬鹿息子に、爪の垢を煎じて飲ませたいと思ってな」
「そ、そんな」
この会話文に俺は正直、狼狽した。
自分でも忸怩たる思いを抱えてはいるのだ。
父さんは寛容にしてくれてはいるが、
母さんからは、家のことをちゃんと考えるように言われているし、
―――第一、今は俺一人の将来ではない。
「人に言われるままに、人生を決めるのは、
本人のためにはならないのだよ」
とりとめのない話から始まった宮司さんとの会話は、
やがて核心部分に入り、そして。
「あやつも、色々考えてはおるようだから。
その上で、神職を目指してくれるなら、それもよし」
「息子の選択肢を親の手で狭めるような真似は、
いくら何でもいたしかねる、と思っていたのでな」
頷きながらも、考えこまざるを得ない。
何故、自分にこの様なことを話してくれるのだろうか。
何故、自分の息子が継いでくれると言っているのに、他の選択肢をことさら見せようとするのだろうか。
言葉に出せずに思う疑問に、宮司さんは笑みを湛えて答えてくれた。
「自分で選んだことは、如何なることとなろうとも自分の責任であろう。
そしてそれは決して人様……他人様の責任にはならない、そう私は思っているのだよ」
――ああ―――。なるほど。
そうなのかも知れない。
自分で能動的に選び取ることと、受動的に選択することとは、全く違う。
今ここで、迷っているうちに俺が仲上酒造を継いでも、
そのときに母さんがやれと言ったから、と言い訳が出来てしまうことだろう。
でも、自分で選び抜いて継いだのなら、―――それは自分の責任だ。
「いや、おじさんの長話に付き合わせてしまったね」
優しく頭を振られる年長者に、俺は畏敬の念すら覚える。
自分のぶち当たっていた壁に、一筋、光が見えたように思ったからだ。
「あやつに、その覚悟が欲しいと思ってしまった。
そのいらぬ親心に、つい仲上君のことをあやつに告げてしまって、
巻き込んでしまった。すまなかったね」
「巻き込んだなんて、とんでもありません。
こちらこそ、ありがとうございます」
頭を下げるのはこちらこそ、だと思った。
あの日から―――あの竹林の中で比呂美を抱きしめたあの日から、
少しずつ、自分の考えを、自分が納得できる結論を求めようと、思い始めている。
そこに光明が、一筋でも目の前から差し込まれたのだから。
「いや、私からのせめてのお詫びだ」
しかしそう言ってきかない幸司郎さんに根負けして、俺は頷いた。
「ありがとう。でな、こちらへ出かけてみてはくれないかな」
「えっ、これは―――」
差し出されたのは一枚の名刺だった。書かれている名前は……。
富山射水絵本館。館長東保宗一。
射水絵本館―――。
富山で絵本に興味のあるものなら、知らないものはいない。
毎年、手作り絵本コンテストなども行っており、出品は全国各地から集まる。
図書施設なども充実しており、俺も行ったことは何度もある。そんな、場所。
「ここの館長をやっている東保とは高校以来、旧知でな」
「そうなんですか」
聞けば、呉西高校で一緒だった、という。
―――呉西って、旧制呉西中学から改組して出来て以来の名門進学校だ。凄い。
「それで、お節介ついでだと思って紹介してみたんだよ。
麦端に将来有望な絵本作家の卵がいる、とな」
「えっ……?!」
“将来有望”は、でまかせに近い。慌てる自分に、佐伯さんはにこやかに続ける。
「そう話したら、興味を持ってくれてね。
是非、会う機会を設けてくれないか、と言われている」
これは。途方もない話になっている。そう、思わざるを得ない。
「会ってみてはくれないか」
「こ、こちらこそ、……ホントに、良いんでしょうか」
「ああ、良いに決まっている。
ただ、過剰な期待はしないでくれよ」
「勿論です」
当然である。名もない、一アマチュア描き手に過ぎない自分に、
館長さんが会ってくれるだけでも、もの凄いことだ。
頬を紅潮させたままで、その日。俺は神社を辞去した。
何度も何度も、にこやかに会釈される幸司郎さんに頭を下げながら。
そして、約束の日。
その日はたまたま、比呂美は金沢で練習試合の日だった。
「頑張って行ってらっしゃい。
でもな、無理はしないでくれよ」
そう告げると、比呂美はちょっと頬を朱に染めて頷いたのだが、
「わぁ。旦那様の一言は効くわ」
と茶化した黒部さん―――黒部朋与の一言で、周囲からからかわれた。
こうして集合場所の麦端駅で見送って、女バスの面々は普通列車で金沢に向かっていく。
「さてと」
列車が出た後、こっちも行動を開始した。
絵本館まではバスで行くこととなる。館長さんとのアポイントは、既に取ってある。
こっちはもうドキドキもの……を通り越して、正直感覚がなかった。
まあ、そうこう言っているうちに、バスは最寄りの停留所に着いてしまう。
視線を上げると、見慣れたはずの建物が目に入る。
思わず、ふはぁー、と息を吐く自分。たく、緊張しすぎだ。
「いらっしゃいませ」
入ると受付の女性が、にこやかに会釈された。
「えっと、あのですね。
俺、じゃなく、私は仲上眞一郎と申しますが……館長さんは、いらっしゃいますか」
「はい、館長にご用でいらっしゃいますね」
そのままの笑みで電話を取ると、
「館長、仲上様がお越しです」
と受付の人は繋いでくれていた。
って、――様付けで呼ばれる。……プレッシャー、だ。
「こちらへどうぞ」
そして通されたのは、館長室。
「失礼します」
「ああ、いらっしゃい。どうぞ」
俺が入って早々に、椅子から立ち上がって手招きをして下さる小柄な紳士がいた。
「私が、ここの館長を務めている東保です。
宜しく」
穏やかな笑み。その中から見える意思。……どこの面接会場だ、ここは。
「じ、自分は、仲上眞一郎と申します。えっと、このたびは」
「佐伯から聞いていますよ。
絵本作りを頑張ってくれているとのことですね」
「はい」
それには間違いはない。絵本作家になりたい。その夢は、俺の中では潰えてはいない。
だけれども。
そう思いつつ、今までの絵本への自分の思いや、描き方をお話ししていく。
そして―――館長さんとのお話は、そんな和やかなものだけでは終わらなかった。
「正直に言って、将来を約束できる仕事ではありません」
判っていた。いや、いるつもりだった。だが、東保さん口から言われると、重みが違いすぎた。
「つまり必ず生活を担保できるものでもないですし、
芸術の分野ですから、評価も数学や物理のように答えがあるものでもありません」
確かに。俺の中でも、こうじゃない、こうしたい、という葛藤とせめぎ合いは日常茶飯事だ。
「だから、兼業の方も多いのですよ」
兼業。生業を兼ねる。……だが、それは。迷いが確実に、俺の中にある。
仲上の家を継いで、仲上酒造を継ぐ。ううむ。父さんを見ていれば判るが、
片手間なんぞで出来る家業ではない。それは、判っているつもりだ。
だが、絵本作家を片手間で出来るかというと、それも答えは不明確だ。
その迷いが、顔に出てしまったのかも知れない。館長が敢えて口調を変えて仰る。
「厳しいこと言ってしまったかも知れませんが、
現実を知ってなお、この世界に身を投じてくれれば、と思うのですよ」
「はい。ありがとうございます」
ありがたいお話だと思う。高校生の、しかも2年生に成り立ての自分に、
東保さんは、しっかりと教えて下さっている。
自分で、ちゃんと選ばなければいけないことがある、と。
「正直、周囲を犠牲にするかも知れませんよ」
頷きながら、俺は言う。
「私は、もう自分だけの人生ではないんです。
守りたいものがありますから」
相手は遠慮するかも知れないが、もはや俺は彼女なしの人生を設計するつもりはない。
「それでも……自分の想いも、捨て去りたくはないんです」
贅沢だ。そう思う。無茶苦茶だ。確かに。我が儘だ。全く、その通り。
「そうですか」
でも、東保館長は穏やかな笑顔で頷いて下さった。
「頑張ってみたいと思います」
だから、俺はそう告げることが出来た。
「ええ、頑張ってみてください。
勿論、私に出来ることがあればいつでも言って下さい。
協力ができる限りは、いたしましょう」
「ありがとうございます。―――でも、宜しいんですか」
望外の栄誉というものだろう。だが、この様なことを言ってくる人間は、
俺の他にもいくらでもいると思う。
自分で言うのも何だが、俺のような存外他力本願な人間は、枚挙に暇など無いと思うし。
「無論、佐伯からの紹介という面もありますが、
人の縁は大切なものですよ」
「人の縁、ですか」
えにし―――縁、か。
「ええ、袖摺りあうも多生の縁、ですから」
にっこりと笑まれる紳士に、俺も確かに、と素直に頷けた。
縁―――。
その言葉を胸に、館長さんへご好意に礼を述べ、辞去する。
そのまま帰路に着きつつ、考える。
そして、今日の結論。
「比呂美、お帰り」
「あっ、眞一郎くん」
駅に迎えに来ていた。彼女は微笑んでくれている。
9年前の祭りの日。
その日から自分の人生は変わったんだと思う、と比呂美は言う。
でも、それは俺も同じ。
一緒なんだよ、比呂美。
君の涙を、拭いたいと思う。
―――そして、君の笑顔を守りたいと思う。
それが、今の俺の生きる糧。
あれから、俺の人生は変わったんだろう。
君と生きていくための、人生へ。
それを俺は積極的意思を持って、選んでいる。
いつかちゃんと、そのことを伝えようと思う。
あれがプロポーズでは、ちょっと誤解があるから。
あれが全てでも、勿論一部だけでもないのだから。
君だけに伝えよう。
愛している、という気持ちを乗せて。
「さあ、帰ろうぜ」
「うんっ」
「って、もしもぉ~し、お二人さん?」
って、後ろから黒部さんの声が――した。そういえば、……女バスの皆さんも一緒だった、な。
「二人の世界に突入中、ね」
後ろでは高岡先輩が、呆れ半分苦笑半分な声で腕組みされていて。
「あうぅ……」
ああ、綺麗には終わらせてくれないのかよ。はぅ。
(後書き…というか、言い訳)
ああああああああ。やってしまいました。
ええ、比呂美さんの明確な台詞は「あっ、眞一郎くん」と「うんっ」だけです。(こら)
いや、だって眞一郎くんに厳しいんですもの、皆様。
ちょっとは能動的に…こんなに自発的か?な位に頑張る眞一郎くんも、見たかったのです。
ごめんなさい。もう、しないから…。さよぉならっ。
最終更新:2008年08月05日 09:46