ファーストキス-14


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――第十四幕『最初に、見せたかったんだ』――

☆七月四日(金曜)くもり――

 眞一郎の壁絵制作もいよいよ最終段階に入った。一昨日と昨日の二日間で細部の仕上げ
をほとんど済ませていた。今この絵を見た人の誰もが、完成された作品だと見まごうだろ
う。それほどの仕上がり具合だった。
 学校の授業を終え、急いで現場に駆けつけた眞一郎は、絵を一通り見渡して、気になっ
た部分に細かな修正を加えたあと、作業スペースの床の片づけをはじめた。いろいろなも
のが散乱している。ペンキの缶、スプレーの缶、刷毛、パレット代わりのプラスチックの
トレイ(四角い平皿)、エアブラシの洗浄用のバケツなどが、自然災害の跡のように散ら
ばっていた。眞一郎は、それらを分類しながら壁から遠い方向へ放り投げだり、転がした
りしていった。その度に、床に敷き詰めたベニヤ板に跳ね返り、様々な音を発した。軽く
て心地よい音がするものもあれば、中身がまだ残っているペンキのように、ぽよんとコミ
カルな音を立てるものもあった。どれもが、眞一郎の情熱に吸い尽くされたモノたち。眞
一郎は、そいつらを愛しく思った。
 使ったものが整理され、壁絵の前のスペースが空くと、眞一郎の目に、刺激的なものが
飛び込んできた。床の模様である。それを表現するのに『模様』という単語は、不適切か
もしれないが、眞一郎には、『模様』に映ったのだった。眞一郎が壁にペンキを塗るとき
にこぼしたものだったり、試し塗りのときに吹き付けられたものだったり、それらの無数
の痕跡の集合が、床のベニヤ板の上に、抽象絵画ような色の躍動を形成していた。あまり
もの迫力に、眞一郎は、自分の仕業とはいえ、感服させられた。

 片付け終えてから、眞一郎は、お弁当を食べることにした。このお弁当は、朝、比呂美
と理恵子が作ったものではない。比呂美が、昼休み、料理研究部に頼み込んで、調理場を
使わせてもらって作ったものだった。お弁当箱には、にぎりめし、玉子焼き、ウサギさん
に細工されたリンゴが入っていた。
 眞一郎は、それらを大切なもののように見つめる。
「ひとりで向き合うとかいっておきながら、結局……比呂美に頼ってるな……おれ……」
 涙が出そうになるのを堪えながら、眞一郎は弁当を食べだしたが、食べ終わるまで涙を
堪えることはできなかった。両親のいない比呂美に、こんなにも優しくされて、感極まっ
てしまったのだ。
 乃絵から電話があってから今まで、比呂美にどれだけ涙を流させてしまっただだろうか。
眞一郎は、そんなことを考えながら食べた。
 考えてみると、『最悪』の二文字が浮かんだ。
 乃絵とのキスを目撃しては泣き、自分にひとりにしておいてくれと突き放されては泣き
……。もっともっといろいろあったはずだ、比呂美に涙を流させたことが……。一昨日だ
って……。
 それらひとつひとつ思い起こす度に眞一郎は、ハンマーで頭を殴られたような眩暈を感
じたが、比呂美にもどっしり構えたところがほしいと思った。

 しばらくすると、西村先生が現場に現れた。
 西村先生は、作業スペースが片付いるのを確認するなり、「できたのか?」といって絵
をまじまじ見つめた。
「まだです。これから最後の作業に取りかかります」
 眞一郎の言葉に、西村先生は、え? と声を漏らし、信じられない、といった表情をし
て眞一郎の顔を見た。
「白一色で、これから描きます」
 眞一郎はそういうと、エアブラシのノズルを念入りに洗浄しだした。西村先生は、なに
をするのだろうと、首を少し傾げた。
 それから、眞一郎は、新しい、白ペンキの缶の封を切った。『新しい』ことに意味があ
った。『新しい――穢れていない』ことに。
 エアブラシの塗料タンクに白ペンキを注ぎ込み、床に吹き付けてみては、噴射の加減を
ノズルの先端部をいじって何度も調整した。そして、鞄から厚紙を取り出し、はさみとカ
ッターナイフで幾つかの切込みを入れて、型紙を作った。エアブラシは、ただ吹き付ける
だけでは、霧状にペンキが噴射されるだけで輪郭がぼやける。そこで、型紙を使って噴射
の範囲を制限することで、はっきりとした輪郭を作ることができる。また、いろいろな形
の型紙を使ったり、型紙をわざと塗布面から浮かせたりすることで、いろいろな表現が可
能となる。手描きではできない細かなこともできるのだ。
 眞一郎は、壁絵から少し離れたところで、しばらくじっと絵を見つめた。時折、自分の
手を目線の途中に割り込ませ、縮尺を確認した。それから、これから描こうとするものの
要所となる位置に白い点を吹き付けていった。それは、絵の中の人物の左右のスペースに
それぞれ十箇所くらい付けられた。そして、もう一度、ノズルの先端部をいじって噴射の
具合を調整すると、型紙を手に取って、本格的に吹き付けだした。西村先生は、眞一郎か
らゆっくり離れていった。
 どんどんと浮かび上がっていく輪郭。
 西村先生には、それが何なのか、すぐに分かった……。

……天使の翼である。

 絵の中のふたりを大きく包み込むように、その翼は描かれていった。それは、はっきり
したものではなくて、うっすらとしたもので、どこまでも、どこまでも繊細だった。ふっ
と息を吹きかければ、揺らぎそうなくらいに……。それほど、眞一郎の作業は、細やかで
素早く、神業に近かった。ただ、眞一郎にとっては、頭の中のイメージをそのまま具現化
しているだけ。そのために、手や足や、全身を動かしているに過ぎなかったが、傍目には、
得体の知れない何者かと交信しながら描いているようにしか見えなかった。
 天使の翼の輪郭が、描き終わると、細部に取りかかった。ここからは、頻繁に型紙を取
り替える作業がつづいた。何種類かの格子状に切り込みを入れた型紙を駆使して、羽のふ
わふわ感を出していく。眞一郎の描いている天使の翼は、写実的な感じではなかったが、
存在感と温かみが確かにあった。特に細かく描き込むわけではなく、要所要所に、白が吹
き付けられていくだけなのに、人の頭の中にある『天使の翼』の印象に限りなく近いと西
村先生は思った。
 その天使の翼は、やっとこの世の彩(いろどり)を見ることができるようになった赤ち
ゃんから、もうじきこの世の生を全とうしようとするおじいちゃんやおばあちゃんまで、
間違いなく『天使の翼』だと感じさせるだけの『チカラ』があった。
 人の夢の象徴であったり、優しく包み込む愛の象徴であったりする『天使の翼』。
 しかし、眞一郎は、この天使の翼を初めから描くつもりではなかった。西村先生に最初
に見せた下絵には描き込まれていなかった。
 眞一郎がこの壁絵とひとりで向き合い、自然と湧き起ってきた発想だった。これを描く
べきだという強い想い。それは、乃絵との今までのことが影響しているかもしれない。比
呂美とのことかもしれない。父や母かもしれない。眞一郎の中の様々な記憶と感情が醸し
出した衝動だった。これを描きたい、描かなければこの絵は完成しない。眞一郎の衝動は、
至って単純なものだったが、眞一郎がこの世に生を享けてから今日(こんにち)までの凝
縮によって生まれたものに他ならなかった。
 眞一郎がこの天使の翼を描き出して、二時間が経とうとしていた。その間、眞一郎は、
一回も休憩を取らず、作業に没頭した。西村先生も声をかけなかった、いや、かけれなか
った。ラストスパートしている者に声をかける者などいないだろう。たとえ力尽きて倒れ
ようとも、じっと見守るのが人としての暗黙のルールだと、西村先生は思っていたからだ。
 やがて、西村先生が静かに見守る中、眞一郎の描く天使の両翼は、完成を迎えた。それ
から間を空けずに、眞一郎は、絵の中央付近に風に流れるに天使の羽のひとつひとつを散
りばめていった。すこし大きなもの、小さなもの、はっきりとしたもの、ぼかしたもの、
と様々だったが、そのひとつひとつに思いを込めるように、眞一郎は、手に持った細筆で
描いていった。
 天使の翼と、風と戯れる天使の羽が見事に描かれて、眞一郎の『17歳の挑戦』は、ゴ
ール・テープを切ることとなった。

 ようやく壁絵が完成したというのに、眞一郎は、泣かなかった。
 眞一郎は、エアブラシのノズル、刷毛、型紙を床に置くと、頭のゴーグルとマスクを外
して、西村先生に体を向けた。そして、
「ありがとう、ございました」
といって、深々と頭を下げた。
 西村先生は、眞一郎へ歩み寄り、頭をぽんと叩くと、
「おまえは、間違いなくヒロシの子供だ」
という言葉を贈った。
 それから、ふたりは、黙って絵を見ながら、比呂美が眞一郎に持たせたコーヒーを飲ん
だ。とっくに冷めてしまっていたが、眞一郎には、『命の水』のように感じた。テレビの
CMで、うまそうに缶コーヒーを飲む中年の俳優の気持ちが少し分かったような気がした。

 もう夜の十時前だというのに、金曜日ということもあって商店街はまだまだ賑わってい
た。行きかう人の足音、配達業者の車の音、酔っ払いの戯言……眞一郎にとっては、どれ
も新鮮な音に聞こえた。約二週間、この場所に通い詰めたというのに、全神経は壁絵のこ
とに集中していたので、背後の雑踏に耳を貸す余裕などなかったのだった。
 今だから思えることかもしれないが、一回でも比呂美をこの場所に連れてくればよかっ
たと眞一郎は思った。そして、絵のことを話したり、一緒にコーヒーを飲んだり――そう
いう時間を共有することは、決して作業に対してマイナスに働かないのでは、と思った。
ひとりで向き合うということは、心の中でのことであって、ひとりで作業しなければなら
ないということとは違う。そばに親しい人間がいれば、泣き言をいったり、弱音を吐いた
りするかもしれないが、この絵をひとりで描くと決めた時点から、ひとりで向き合うとい
うことになるのだ。たとえ身の周りの状況が変わろうとも、その決意を曲げない限りそれ
は変わらない。眞一郎は、そのことにようやく気づいたのだった。それが、作家であるた
めの試練だと。
(そうでないと、絵を描く度に比呂美を遠ざけなければならないではないか)
 眞一郎は、今まで小さな殻に閉じこもっていたような自分に苦笑した。

 壁絵完成の余韻を十分に満喫した眞一郎と西村先生は、これからことを確認した。
「明日は、保護剤の吹き付けだな」
「はい……」
「そのあと、ここをきれいに片付けよう。軽トラを借りてくるから、学校に全部運ぼう」
と西村先生は、辺りを見渡しながらいった。
「それで、あの、日曜のことなんですけど……」
「うん?」
 なんだっけ? という顔をする西村先生。
「日曜の午前三時に、比呂美に見せたいんですけど……」
「ああ、そのことか。どうせ、前日から徹夜だからな、構わんよ。写真、撮らないかんし
な。ブルーシートとこの柵は、明日の夜十時から撤去することになっている。その前に、
壁絵の方には暗幕をかける。だから、だれの目にも触れることはない。照明の電源もすで
に引っ張ってきているやつでいけるから、問題ないよ。おまえらが来るまで、おれはここ
でいろいろと作業している」
「そうですか……よろしくお願いします。それと……父と母もそのあと見に来るんですが
……」
と眞一郎がおそるおそるいうと、西村先生は、バツが悪そうに頭を掻いた。
「そりゃ一緒に写真撮らんといかんな~。おまえの母さん、老けてないよな?」
「まだ現役ばりばりって感じです。制服は無理ですけど……」
 西村先生は、腹を抱えて大笑いした。

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