ファーストキス-14B


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 それから、西村先生に車で送ってもらった眞一郎は、先生を見送ると、すぐ家の中に入
らず、道路から自分の生まれ育った家を懐かしむように見回した。今朝も、ここから学校
へ向かったというのに、何十年も前のことのように感じた。本当に何十年も経っているの
ではないだろうかという錯覚に見舞われる。少し髭を生やした自分が家の中から出てきて、
その後、髪の長い落ち着いた女性が現れる。そして、高校生の男の子と女の子がついてく
る。眞一郎の脳裏にそういう光景が浮かんだ。

……この家って、こんなにもでかかったんだな~

 今から約二年前、今眞一郎が立っている場所で、セーラ服姿の比呂美は深々と頭を下げ
た。笑顔を作るための筋肉をすべて失ってしまったような比呂美の青い顔。眞一郎が、そ
の顔を見た瞬間から、今日描き上げた絵の挑戦がはじまっていたのかもしれない。
 比呂美の涙を拭いたいと思いつづけながらも、比呂美に笑顔を取り戻させるために、結
局、二年もの時間がかかってしまった。比呂美のことはずっと好きだったが、そのためな
ら、自分の恋心を諦めてもいいとさえ思った。
 正直、苦しかった。心が痛かった。今まで感じたことのない悲しみだった。
 自分の不甲斐なさを恨んだ。
 比呂美の『生活』を支えることのできる父に歯痒さを覚えた。
 そして、乃絵の元へ逃げた。
 だから、乃絵を傷つけた。
 同時に、比呂美を傷つけた……。
 眞一郎の心の中で、消化したはずの気持ちが湧き起ってきたが、それはすぐに、遠い彼
方へと消えていった。

……どうして、なにもかも、新鮮に映るんだろう……

 眞一郎は、心の中でそう呟いた。壁絵に打ち込んでいた時間は、実働時間で一週間程度
だった。その間に眞一郎の体の全細胞が入れ替わったのではないかと思うくらい、見るも
の、聞くもの、嗅ぐもの、全てが新鮮に感じられた。
 家の中の灯りに目をやりながら、眞一郎は、比呂美のことを思った。
 比呂美も新鮮に映るのか?
 比呂美は、変わってしまっていないだろうか。
 そう思うと、いてもたってもいられなくなって、眞一郎は、足早に進んでいった。
 眞一郎が、勝手口を開け、ただいま、と発すると比呂美は、部屋から飛び出てきた。そ
して、開口一番がこれだった。
「お弁当、食べた?」
 比呂美の取り戻した笑顔は変わっていなかった。
 眞一郎は、長い時間旅行から帰ってきたような気分だった。ようやく、肉体と精神が落
ち着ける場所に帰ってきたような……。
「食べたよ」
 壁絵の方には関心がないのかよ、と眞一郎は、心の中で苦笑いしながら靴を脱ぎ、板張
りに上がった。
 そして、途端に胸に熱いものがこみ上げてきて、比呂美にしがみついた。決して抱きし
めたのではなく、しがみついたのだ。急に立っていられなくなって……。
「眞一郎くん?」
 比呂美も抱きしめられたのではないと感じた。
 比呂美の体の柔らかさを感じて、眞一郎の中の今まで張り詰めていた緊張の糸が、とう
とう切れてしまった。
「……ぅ………………ぅ…………ぅ………………ぅ……ぅ…………」
 眞一郎の体は、小刻みにひくつきだす。
「眞一郎くん……」
 比呂美は、眞一郎が泣きだしたことに気づくと、ぎゅっと眞一郎を抱きしめて支えた。
 比呂美の腕に力がこもったのを感じた眞一郎は、心が破裂したように声を上げて泣きだ
した。
「おれ…………ぅ………………………く……………くるし、かった…………」
 眞一郎は、それだけしか言葉にすることができなかった。あとは、わんわん泣いた。
 さらに眞一郎を強く抱きしめる比呂美。
 そこに、理恵子が近寄ってきた。
「どうしたの?」
 ふたりがいちゃついている風ではなかったので、理恵子は心配そうに声をかけたが、眞
一郎がどうして泣きだしたのかは、分かっているような口ぶりだった。
「あの、緊張が切れたみたいで……それで……」
 比呂美がそう説明すると、理恵子は、やれやれ、といった表情をして、二階の寝室へ上
がっていった。
 それからしばらくの間、比呂美は、眞一郎の体を支えつづけた。眞一郎は、泣くのが治
まっても黙って比呂美に体を預けた。
 今、比呂美は、ようやく眞一郎と肩を並べることができたのだと感じた。肩を並べて同
じ景色を見ることができるようになったのだと。
 眞一郎と比呂美は、あの竹林でお互い『好き』という気持ちを伝え合ってからしばらく
の間、気持ちのぶつけ合いがつづいた。中学生以来、お互いに相手を目で追うだけで、ま
ともに話をしてこなかったので、それは当たり前の衝動だった。怒ったり、怒らせたり、
泣いたり、泣かせたり。その中でも、ちょっとずつお互いの本性を確認していっては、
『恋ごころ』を膨らませていった。
 でも、ふたりはもう『男』と『女』。それに、将来を想像しはじめる年頃。
 眞一郎は、衝動的に発した自分の発言の重たさに気づき、焦った。比呂美もそれを感じ
た。そして、まだひとりで生活していくことのできないふたりは、途端に将来への不安を
感じずにはいられなくなった。
眞一郎は、比呂美を幸せにするための『力』を、手にできるだろうかと。
比呂美は、そんな眞一郎の心の支えになれるだろうかと……。
 そういうときに、眞一郎の壁絵の話が、なにかに引き寄せられたように舞い込んだ。眞
一郎は、とにかくスタートラインに立った。そうしなければ、自分の実力を知ることがで
きなかったからだ。そして、この絶好のチャンスを作ったのが、比呂美ではなく、またし
ても乃絵だったが、比呂美もただ指をくわえて見ているだけではなかった。
 比呂美は、こうして眞一郎が自分に寄りかかってくれることが堪らなく嬉しかった。眞
一郎が何かに落ち込んだとき、自分の元に来てくれなかったことに絶望を感じた。心のず
っと奥では、眞一郎と乃絵がまだつながっているとさえ考えた。眞一郎が自分に向ける優
しい眼差しは、表面的なもののように思え、眞一郎の顔を見るのが、しばらく辛かった。
 でも、今は違う。
 眞一郎は、今、比呂美の元にいる。
 眞一郎は、比呂美の元で、緊張の糸を切った。
 このことの意味の深さを、比呂美は知っている。
 比呂美は、過去に乃絵が担っていた役割をようやく自分が手にしたのだと感じた。
「眞一郎くん……わたしの部屋……いこうか……」
 比呂美は、すっかり泣きやんでいる眞一郎にそう声をかけた。
 比呂美は、眞一郎から体を離し、眞一郎の腕を引っ張って歩きだした。眞一郎も、黙っ
て抵抗することなくついていった。
 比呂美は、自室のドアを開けると、眞一郎を先に中へ入れた。それから、自分も入り、
ドアを閉め……鍵を、かけた。
 眞一郎は、その音に、びくっと反応して比呂美の顔を見た。
 比呂美の部屋にはもう布団が敷いてあった。比呂美も半袖のパジャマを着ている。
 比呂美は、眞一郎の怪訝そうな視線にまったく気遣わず、部屋の中央へ歩むと部屋の電
気を消して、敷布団上へちょこんと座った。眞一郎は、ただ、そんな比呂美を目で追うし
かできなかった。
「荷物、置いて、座って……」
 眞一郎は、なにかいいかけたが、比呂美の指示に従って、ドア近くに座った。
 部屋の電気を消したといっても予備灯が点いているので、お互いに顔の表情は分かる。
 比呂美は、ドアの近くに座った眞一郎に苦笑した。
「そばに、きてよ」
「おまえ……」
 眞一郎は、こんどは、比呂美の言葉に従わなかった、
「抱いて……いいよ……」
「バカッ、そんなことできるわけないだろう」
 眞一郎は、小声で怒鳴って、立ち上がろうとしたが、比呂美はすぐさま眞一郎の行動を
察知して「待って」と叫び、眞一郎の動きを必死に止めた。
 そのあと、しばらく睨み合いがつづいた。睨み合いといっても、お互い険しい顔をして
いるのではなく、眞一郎の方は、困った顔をしていて、比呂美の方は、懇願するような顔
をしていた。
 いくら今まで数回体を重ねたことがあるとはいえ、親たちがそばにいるところで、しか
も比呂美の部屋でそういう行為に及ぶことは、眞一郎にはできなかった。勇気があるとか
ないとかそういうことではなく、眞一郎の心の純粋さからくる礼儀のようなものだった。
だが同時に、眞一郎は、比呂美の気持ちにも応えてやらなければならないと思っていた。
そんなジレンマに苦しんでいる眞一郎に半分痺れを切らした比呂美は、パジャマのボタン
に手をかけた。
「ば、バカ、やめろって」
 眞一郎は、慌てて近寄り、比呂美の手をつかんで止めた。
「やっと、そばにきてくれたね」
「比呂美……」
 比呂美は、眞一郎がそばに来てくれたことに嬉しそうにしたが、眞一郎の表情を間近で
見たことで、眞一郎を相当困らせていることに気づかされた。だから、セックスを本気で
求めれなくなった。
「抱きしめてくれるだけで、いいの……それだけで、いいの」
 比呂美は、そういって眞一郎の両腕にすがったが、眞一郎は、いたって現実的なことを
いって返した。
「風呂、入ってないし、ペンキ臭いし」
「眞一郎くんは、こんなときに……わたしを抱きたいと思わないの?」
「まずいだろう。時と場合ってもんが、場所とか……あ~頭がまわんね~」
「また、わたしを泣かすのね……」
「おまえ、それ、わざといってるだろう」
 眞一郎は、勘弁してくれといわんばかりに頭を掻いた。
「抱きしめてくれるだけで、いいの……ううん、抱きしめてあげたいの、あなたのこと」
 眞一郎は、この言葉にはっとした。
 比呂美は、性衝動に駆られてしきりに自分を誘惑してくるのではなく、あくまでも自分
の心の落ち着きを計るためにそうしているのだということに、眞一郎は気づいたのだった
が、やはり、この状況はまずいとしかいいようがなかった。でも、あまり長居もしていら
れない。
「わかった……」といって眞一郎は、比呂美の肩に手をかけようとしたが、こんどは、比
呂美が、「待って」といって眞一郎を制した。
「なに?」
 比呂美は、眞一郎の問いかけになにも答えず、パジャマのボタンを素早く外しだした。
「わっ、ちょ、ちょっと」
 眞一郎の手が、わらわらと空中を右往左往する。そうこうしているうちに、比呂美は、
全部ボタンを外してしまい、パジャマの上を脱いだ。純白のブラジャーが、まるで蛍光色
のように浮かび上がる感じだった。
 眞一郎は、思わず手で両目を覆ったが、比呂美は、構わず次の動作に入った。両腕をく
りっと背中に回すと、背中の中央付近にある、ブラジャーのフックへ手をかけたのだ。
「それも、取るのかよ!」
 眞一郎は、声を落とすのを忘れ、素っ頓狂な声を上げる。
 比呂美は、眞一郎の声に一瞬手を止めたが、少し目を泳がせながらフックを外すと、ま
た手を体の前に戻して、ブラジャーの上から自分の胸を押さえた。そこで眞一郎を見た。
「脱いで……」
 眞一郎は、その言葉の意味がすぐ呑み込めず、へ? と声を漏らしたが、比呂美の格好
をもう一度凝視すると、比呂美が自分も上半身裸になれといっていることにすぐ気づいた。
 眞一郎は、急いでカッターシャツのボタンに手をかけたが、疲れきっていて、思うよう
に手を動かせなかった。
「慌てないで」
「いや、そうじゃないんだ。疲れで、痺れが残ってて、力がうまく入らないんだ」
と眞一郎がいうと、比呂美は、自分の胸を抑えていた手を眞一郎のシャツのボタンへ伸ば
した。拘束を解かれたブラジャーは、重力に従って、少しずり下がり、胸のカップの部分
は体から離れて、ぷらぷらと遊んだ。
「胸、押さえてろよ」
「いいから」
 比呂美は、自分の乳房の状態に構わず、眞一郎のシャツのボタンを外していった。
 その途中で、ブラジャーの肩紐が比呂美の肩を滑り落ち、比呂美の形のいい乳房は、見
事に晒された。眞一郎は、天井を見て顔をしかめた。
 シャツのボタンを全部外した比呂美は、眞一郎の体からシャツを引っぺがすと、下に着
ているTシャツの胴体の裾を手繰り寄せ、上へ一気に引き上げた。
「はい、バンザイして」
 比呂美は、なんだか楽しそうにやっている。
 眞一郎も素直に従ってバンザイのポーズをすると、Tシャツがすぐ頭を通過していった。
その直後、眞一郎は、絶句することになる。Tシャツを脱がすために膝立ちになっていた
比呂美の胸が目の前に来ていたからだ。少し上を向いた乳房の突先が、お辞儀をするよう
に何回も揺れたが、比呂美がTシャツを眞一郎の腕を滑らせて脱がすと、すぐに乳房はそ
のTシャツで隠された。
「えっち」
「おっ、おまえがッ……」
 眞一郎は、思わず叫んだが、「で、どうすんだよ」と比呂美にふてくされていった。
「このままで、いい?」
 比呂美は、子供がお菓子でもねだるような顔をしていった。つまり、上半身だけ裸にな
って、お互いの体をくっつけたいということらしい。
「いいって、おまえがそうしたいんだろう?」
「この状況で…………その……………………したくならない?」
「おまえ、パンツまで脱げとかいいだすんじゃないだろうな?」
「べ、べつに…………そこまで……」
 さきほど、威勢良くぽんぽんと上半身裸になった比呂美だったが、急に恥ずかしさが押
し寄せてきているようだった。
「わかったから、おれを、包んでくれ……比呂美……」
 眞一郎も照れくさそうにそういうと、比呂美は、「うん」と楽しそうに返事をした。
 それから、比呂美は、ゆっくりと、まるで月で隠された太陽が再び顔を覗かせるみたい
に、Tシャツをずらしていった。やがて現れる桃色の突先。Tシャツとブラジャーを自分
の脇に置いた比呂美は、眞一郎を真っ直ぐ見た。自信に満ちているとも恥じらいに満ちて
いるとも取れる複雑な色をした比呂美の瞳に、眞一郎は、心と体が吸い込まれそうになる
のを感じた。見ているだけで、体の芯が急に熱くなるのを感じた。だが、この至近距離で
比呂美の体をじろじろと観察することは、なにか不謹慎に思えた。
 ふたりは、申し合わせたように、同時に膝立ちになり、体の距離を縮めていった。お互
いに呼吸の音を聞き取れるくらいの距離に近付くと、眞一郎は、比呂美の肩の下辺りの腕
を両手で支えた。そして、比呂美の体を自分の方へ傾けた。
 眞一郎は、まず、比呂美の乳房の二つの突先の感触に心地よさを感じた。一瞬、指先で
胸を突付かれたような感じだったが、すぐに乳房の弾力が面で伝わってきた。比呂美の体
は、温かかった。お互いが呼吸で胸を上下させる度に、胸を小さくすり合わせることにな
る。ふたりともその感触に体の芯がくすぐられた。
「いい匂い」
 眞一郎は、比呂美の髪に鼻を突っ込み、洗い立ての髪の匂いと、ほのかに感じる女の匂
いに酔いしれた。
「ペンキ臭い……汗臭い」
 比呂美は、正直にそう返したが、比呂美の背中に回した眞一郎の腕の力は緩むどころか、
逆に力が入った。
「く、くる、しい」
「がまんしろ……」
 比呂美は、冗談交じりに訴えたが、眞一郎は、素っ気なく返した。
 そのあと、ふたりは、10分くらいこのままの状態で抱き合っていた。時折、手の位置
を変えては、お互いに骨の位置を確認し合ったりして遊んだが、眞一郎の意識は朦朧とし
てきていた。
 比呂美は、急に眞一郎の体重が自分にかかってきたことで、眞一郎のその変化に気づい
た。眞一郎が、いつのまにか眠っていたのだ。

……この状況で眠れるってなんなの? バカじゃないの?

 比呂美の頭の中にお得意のフレーズが飛び出したが、今回のは、眞一郎を軽蔑している
のではない。
「眞一郎くん、眞一郎くん」
 比呂美は、眞一郎から体を離し、眞一郎の肩を揺すった。眞一郎はすぐ目を覚ました。
「あ……ごめん……」
「早く休んだ方がいいね。ごめんね、わがままいって……」
「いや…………」
 眞一郎の極度の疲労を肌で感じた比呂美は、眞一郎を困らせたことに申し訳なさそうに
肩をすぼめた。そして、ブラジャーと脱いだパジャマの上をつかむと、眞一郎に背を向け
て、身に着けだした。脱ぐときは、あんなに堂々としていたのに、着るときは、恥ずかし
いらしい。そんな比呂美の子供っぽいところに、眞一郎は黙って微笑んだ。そして、少し
からかってやろうと思った。
 比呂美は、ブラジャーの肩紐を腕に通して、背中にあるフックの位置を確認していると
ころだった。眞一郎は、そろりと比呂美に近付き、比呂美の腰の上辺りの脇に両手を進ま
せ、一気に比呂美に覆いかぶさった。比呂美が眞一郎の行動に気づいたときは、もうすで
に比呂美の乳房が眞一郎の両手にしっかり捕らえていた。比呂美は、眞一郎のいきなりの
行為に声を出すことができず、固まった。
「自分だけ満足して、なにさっさと服を着てるんだよ」
 眞一郎は、優しくいったつもりだったが、比呂美は怯えたように肩を震わせた。
 本当の意味で、男の扱いにまだ慣れていない比呂美は、どうやってこの状況を進めたら
いいのか、あるいは止めたらいいのか、すぐには思いつかなかった。なので、まるで反応
を示さない比呂美に対して、眞一郎は、一気に焦り、比呂美の胸を弄っていた手を素早く
離した。比呂美は、すぐに胸を隠す。
「ご、ごめん、そんなに驚くとは……」
 比呂美は、黙っている。
「比呂美?」
「……いいの。ちょっと、びっくりしただけ……」
 比呂美は、ようやく、なんとか声を絞りだすと、眞一郎を気にしながら、ブラジャーを
付け直した。
「比呂美……怒った?」
 比呂美は、黙って首を横に振ったが、眞一郎は、比呂美が黙ってそう答えたことに、自
分に対して何がしかの恐怖を感じたのだと思った。そして、比呂美のことが分からなくな
った。キスは平気でしてくるし、冗談交じりに「えっちしよう」と口走るくせに、何かを
切欠に、急に慎重になる。キスとセックスとでは雲泥の差があるとはいえ、お互い初体験
も済ませているもの同士。やぱり、自分が吐いた言葉のように、時と場合があるというこ
となのだろうか。
 比呂美は、まだ慎重にパジャマのボタンを留めている。
「比呂美、いやだったら、いやっていってほしい」
「ううん、ほんとにびっくりしただけだって」
 比呂美は、自分を傷つけてしまったと勘違いしている眞一郎に慌てて、そのことを否定
しようとした。
「眞一郎くん、いつもいきなりなんだもん。初めてしたときも、わたしにボディアタック
かませたでしょう? 覚えてる?」
「す、すまん」
 眞一郎は、顔を真っ赤にして、俯いた。
「あれから、トラウマになっちゃったな~」
と比呂美は冗談交じりにいったが、半分は本当のことだった。
「これからは……やさしく……して、ね……」
 比呂美はそういうと、眞一郎の頬にキスをした。

 そのあと、眞一郎は、睡魔と疲れで重たくなった体をどうにか引きずって風呂に入った。
幸い、さきほどの比呂美との抱擁は理恵子には気づかれていないようだった。
 自室に戻った眞一郎は、ようやくベッドに心と体を埋めれると思ったが、そうはいかな
かった。
 仲上眞一郎の長い一日は、まだ終わらないのだった。

 ピルルルルル ピルルルルル

「あーあああー」(だーれだよー)
 眞一郎には、もう不満を言葉にする元気すらなかった。
 その着信音を聞いた途端、眞一郎の体にどっと疲れがぶり返し、眞一郎はその音を無視
して必死に自分の世界に潜り込もうとした。しかし……。
(比呂美か? お袋になにかいわれたのか?)
 眞一郎はそう思うと、自分の体に鞭を打ってベッドから這い出し、机の上の携帯電話を
目指した。
 携帯電話の小ディスプレイには、『愛子のケイタイ』と映し出されていた。
「はい」
 眞一郎は、ストレートに不機嫌をその言葉に乗せたが、その言葉を一気に蒸発させるよ
うな愛子の悲痛な叫びが、眞一郎の耳を突き破ってきた。
『しんいぢろうーーーーッ!』
「なんだよ!」
と眞一郎も叫び返したが、すぐに受話器の向こうの様子に神経を尖らせた。
『……ぅ…………ぅ……ぅ…………ぅ……ぐすっ……』
「泣いてんのかよ」
 愛子の嗚咽に、さすがに顔をしかめた眞一郎は、机の椅子に座り、蛍光灯を点けた。
「愛ちゃん、どうしたの。外なのか? 家にいるんだろう?」
 最悪の事態ではないことを祈りつつ、眞一郎は、まっさきにそう尋ねた。
『……んぐ……』
 鼻水を垂らしているのだろう、愛子は、うん、といったようだった。眞一郎は少しほっ
とした。
「おれに電話してきたってことは、三代吉と喧嘩でもしたのか?」
『……んん……』
 愛子は、否定しているらしい。
「じゃあ~……」
 愛子の泣きじゃくる原因が他に思いつかない。眞一郎の声がそこで途切れてしまうと、
愛子の方から、切りだしてくれた。
『やっぱり、わたし、こわいよ~。…………三代吉、ピュアすぎるんだもん…………』
「ピュアって……。まだ、話してなかったのかよ。キスのこと……」
 愛子は、「ん」といって、うん、と答えた。
 愛子はそのことを話そうとしたけども、なにか三代吉とすれ違いがあったのだろう。も
しくは、いざ話すというときになって、愛子に恐れが殺到したのだと、眞一郎は思った。
 そのとき、眞一郎の部屋の扉がゆっくりと開かれていった。眞一郎が振り返ると、比呂
美が立っている。比呂美の表情が明るいものではなかったので、母・理恵子となにかあっ
たと思った眞一郎は、比呂美に向けた視線に力を込めて小さく頷き、部屋へ入るように合
図を送った。比呂美は、扉を閉めるとベッドの端に腰掛けた。
 よりによってこのタイミングで比呂美が部屋に来るとは……。眞一郎は、天井を向いて、
あ~と、声を出さずに嘆いた。でもすぐに、自分にとっても、ここが潮時だと感じた。比
呂美がすでに愛子とのキスを知っているとはいえ、自分の口からもそのことを言わなけれ
ばいけないと思っていた。それで、壁絵を比呂美に披露するときに、話そうと考えていた。
でも、そのためだけに、この状況を取り繕ったところで何の意味もないように思えた。そ
れは、単なる自己満足に過ぎないと……。

『眞一郎、どうしよう~ 。そういえば、眞一郎、なにかいってたよね?』
「愛ちゃん、そのことなんだけど……」
 眞一郎は、わざと愛子の名前を口にして、比呂美に電話の相手を伝えた。
「……おれ、でっかい絵を描いてるっていったろう? 先週だったかな? きょう、よう
やく完成したんだ。それで、こんどの日曜の早朝、早朝っていっても深夜に近いんだけど、
そのときに比呂美を連れていって見せるんだ。愛ちゃんたちも、見に来なよ。いいだす切
欠くらいにはなるだろう?」
 比呂美は、少し驚いたように目を丸くしていた。
「なにがあったかは知らないけど、今の愛ちゃんの気持ちが三代吉に向いていれば、あい
つだって絶対分かってくれるって。確かに、おれの所為で一回失敗しちゃったけど、失敗
は成功の元っていうじゃん?」
 比呂美は、少し首を傾げ苦笑した。
『…………とにかく……………………誘ってみる』
 愛子は、渋々と答えた。眞一郎の手は借りない、と一度口にした手前、素直に手助けを
受けることができないのだった。
「よし! そうだな……、愛ちゃんたちは、四時ごろ来てくれよ。場所は、駅前商店街の
噴水広場があるところ。そこ、知ってるだろう?」
『四時? 四時って夕方じゃなくて、朝の四時だよね?』
 愛子は、声を裏返して眞一郎に訊き返した。
「そうだよ。おれたちは、三時にそこに行くことにしている」
 愛子は、よくやるわ~という感じに、あははは、と笑った。
『分かった……』
「うまくやれよ~ 。こんど言えなかったら、おれが直接、三代吉を引っ張っていくから
な」
『あんたの方が、喧嘩弱いくせに』
 愛子は眞一郎の強がりを軽くあしらったが、その口調には、感謝の気持ちが込められて
いた。眞一郎もそれを感じ取っていた。
 そこで、愛子との電話は終わった。
 さて、こんどは、眞一郎の番である。
「比呂美……っとその前に、おふくろとなんかあった?」
「ううん。どうして?」
「そっか~」
 眞一郎が、ほっとしていると、比呂美の方から話しだした。
「さっき眞一郎くんに電話したの。それで話中だったから、なんだろうって思って……」
「それで変な顔してたんだ……」
「……それに、キスって、聞こえちゃったし……」
 眞一郎は、もう、ここで話さなければいけないと思った。
 いざいうとなると、こんなにもドキドキするんだな~と眞一郎は、愛子の気持ちが少し
分かったような気がした。
 そして、眞一郎は、意を決して口を開くと、比呂美も同時に眞一郎と同じ言葉で口を開
いた。
「あのねっ」
 あまりにもぴったりなタイミングだったので、ふたりとも、相手の声が自分の声のよう
に聞こえた。でもすぐに、眞一郎は自分から切り出さなければいけないと思い、机の椅子
から飛びのくと、比呂美の目の前の畳の上に正座をして、
「すまない」
と頭を下げた。
「な、なんのこと?」
 眞一郎のいきなりの土下座に、悪いことを想像するどころか、ただただびっくりした比
呂美は、思わず後ずさりをした。
「おれ、愛ちゃんとキスしたことがあるんだ……おれにとって、初めてのキスだったよ…
…。…………愛ちゃん、おれのことが好きで……気持ちをずっと押し殺していて……乃絵
と付き合うって聞いた途端、その気持ちが抑えきれなくなったみたいで、それで…………
…………」
 眞一郎は、顔を上げずにいった。
 比呂美は、眞一郎の姿を見ていられなくなり、目をぎゅっと瞑った。
「でも、謝らないよ」
 眞一郎は、そういうと顔を上げた。比呂美も眞一郎を見た。
「いや、さっき謝ってしまったけど、キスしたことは謝らないよ。根にもつなら持っても
らって構わない。比呂美に隠していたことを謝りたいんだ。いや違うな、比呂美に隠し通
そうと思ったことを謝りたいんだ。話さない方が、比呂美とって幸せなんじゃないかって、
思って……」
「勝手に決めないでっ!」
 比呂美のその言葉は、言い方は鋭かったが、眞一郎に対して怒っている感じではなかっ
た。眞一郎の反省の気持ちをしっかりと受け取って出てきた言葉だった。
「うん、そうだよな。…………おまえの、そういうところ好きだよ…………」
 しばらく沈黙がつづいた。
 比呂美は、眞一郎がいつからこんなに物事をはっきり言う人になったのだろうと思った。
「……それで……」と眞一郎の口が開いた。
「ひとつ、大切な記念を壊してしまった代わりに、あのデートを思いついたんだ。比呂美
には、辛い思いをさせてしまったけど……」
 比呂美は、ベッドから下り、眞一郎の横に座った。眞一郎は、それを見て、比呂美の方
に向き直る。
「あれ……ほんとうに嬉しかった。小さいころ、夏祭りで眞一郎くんと一緒に歩いたこと
よりも嬉しかったよ。大切な記念になったよ」
「……そっか……よかった……」
 比呂美の優しさに満ちた眼差しに、眞一郎は胸の空く思いだった。
「わたし、知ってたんだ……」
 比呂美は、ぽつりと呟いた。愛子のキスのことだ、と眞一郎は思った。
「愛ちゃんから直接聞いたの」
「おれも、比呂美が知ったこと、知ってたよ……」
 比呂美は、少し上体を反らし、え、と意外そうに声を漏らしたが、眞一郎が自分の口で
キスのことを伝えようとしていたことに、眞一郎らしさを感じた。
「だったら、いいじゃない……。わたしも、眞一郎くんのそういうところ、好き……」
 ようやく、微妙にずれていたふたりの気持ちが、きれいに重なり合った瞬間だった。
 しっかりと相手の想いの大きさと形を確認してきた結果だった。
 このとき、ふたりとも、珍しく「好き」という言葉を直接相手に使った。
 しかし、ふたりは、その言葉以上のことを眞一郎の壁絵を通じて学んでいた。
 それは……。
 自分たちが、「好きだ」とか「愛している」とかという言葉を口にしたところで、何も
解決しないということ。自分たち以外の人間が、解決へ導くことだってあるということ。
逆にそれが普通なのだということだった。
 眞一郎は、比呂美のことを真剣に考えているからこそ、作家として未熟だと思い知らさ
れたとき、自分の将来の姿に底知れぬ不安を感じ、苦しんだ。だが、その苦しみのトンネ
ルから導き出してくれたのは、比呂美ではなく、乃絵や西村先生だった。
 比呂美の場合も同じだった。眞一郎の心の支えになりたいと強く願っていた比呂美は、
そのヒントを、眞一郎からではなく、母・理恵子から得ることになった。
『愛』というのは、相手のことだけを想うのを、『愛』というのではない。
 相手の今まで積み重ねてき時間や、取り巻く人間関係や環境も愛してこそ、本当の
『愛』といえる。
 そのことに、ふたりは、ようやく気づいたのだった。特に、比呂美は……。
 時計を見ると、もう日付が変わっていた。
 虫たちの愛の囁きは、相変わらずうるさかった。
「おれ、もう~限界」
 眞一郎は、ベッドに手をかけ、軟体動物のようにくねくねとしながらベッドに上がって
いった。
「おつかれさま……」
 比呂美は、そう呟くと、机の蛍光灯を消し、部屋を出ていこうとしたが、いったん扉の
ところで立ち止まった。
「眞一郎くん……」
 比呂美の呼びかけに対し、眞一郎は「ぐがーっ」とわざとらしくいびきを立てて応えた。
 少しむっとした比呂美は、眞一郎に言おうとした言葉を変更した。
「……いっしょに、ねようか……」
「こんどな」
 比呂美は、少し慌てる眞一郎を期待したが、眞一郎は、さらりとそういった。
「……うん。おやすみ」
 比呂美は、囁くようにそういうと、静かに扉を閉めた。
 比呂美が言いたかった言葉は……。

  ありがとう

 比呂美も、その言葉を自分の口から伝えないといけないと思った。
 眞一郎の長かった一日の終わりは、延長戦の末、さよならヒットで試合終了となったよ
うな感じだった。

ツールボックス

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