ファーストキス-15


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――第十五幕『お邪魔します』――

 噴水広場で行われた身内だけのささやかなセレモニーは、やがてお開きとなって――。
 比呂美は、ヒロシと理恵子と一緒に家へ帰るため駐車場に向かった。乃絵もその車で家
まで送ってもらうことになった。眞一郎は、壁絵に再び暗幕を縛りつけると、照明器具な
ど返却や学校の部室の片付けのため、西村先生と行動を共にした。愛子と三代吉は、だれ
にもいえない秘密の時間を過ごすため、どこかへ自転車を走らせた。
 そして、夜明けを迎えた。

 眞一郎は、結局、夜の九時過ぎに帰宅した。
 部室の片づけをしたあと、学校の宿直室で仮眠を取らせてもらい、午後から、明日の噴
水広場で行われる壁絵の披露式典の打合せ、その後、壁絵制作者が集っての前夜祭に参加
させられていたのだった。
 眞一郎が家の中に入ったとき、中は静かだった。比呂美の部屋の灯りもすでに消えてい
た。無理もない、結局徹夜をさせてしまったのだから。もう比呂美は休んだのだろうと眞
一郎は思った――母の理恵子も同じように。
 眞一郎は、鞄などの荷物を部屋に置くとすぐ風呂場に向かった。風呂は沸かしてあった。
 湯船に浸かると、一気に眠りに落ちてしまいそうになったが、冷水を顔にかけ、必死に
堪えた。
 眞一郎の全身はまだ、興奮で細かく振動しているようだった。
 この二週間、いろいろ思いが錯綜した。
 眞一郎と比呂美の恋愛感情。それを越えた心の絆。
 乃絵の眞一郎に対する、いまだ消え去らぬ思い。
 比呂美の乃絵に対する、恐れと対抗心。
 愛子の三代吉に対する、罪悪感。
 三代吉の愛子に対する、信頼。
 ヒロシの息子に対する、期待。
 理恵子の子供たち対する、性の心配。
 まだ、もつれた部分はあるかもしれないが、また、もつれるかもしれないが、眞一郎の
壁絵の完成と共に、ひとつ大きな結び目が解けたのは間違いなかった。
 眞一郎は、比呂美の両親が亡くなって以来初めて、心の落ち着きというものを感じてい
た。ずっと比呂美を見つづけ、いつも心のどこかではらはらしつづけていた。それからい
ったん開放させたような気分だった。
 しかし、まだ、眞一郎には、比呂美に対して、ひとつ気がかりがあった。
 それは、愛子のいっていたこと――。

 風呂から上がった眞一郎は、部屋に向かっていた。比呂美の部屋の灯りは、消えたまま
だった。やはり、もう寝ているのだろう。眞一郎は、十五段ある階段をあがり、部屋の扉
を開けた。
 暗い――風呂に入る前に部屋を出たときよりも暗い。予備灯が消されている。
 それに……あれはなんだ? ――部屋の真ん中に人影らしき黒い影。
 眞一郎は、反射的に後ろへ飛び退き、尻もちをついてしまった。
「ひ、比呂美か?」
 その人影には、見覚えがあった――比呂美のシルエットだ。しかし、今の姿とはあきら
かに違っていた。
 部屋からはだれの声もしない。
 眞一郎は、四つん這いになって、おそるおそる部屋の中へ入っていった。
 人影は、微動だにしない。
 次第に暗闇に目が慣れてくると、ようやくその正体が判明した。
(比呂美の立看だ……)
「まったく、驚かせやがって……」
 自分が風呂に入っている隙に比呂美が忍ばせていったのだろうと眞一郎は考えた。
 眞一郎は、安堵して部屋の灯りを点けたが、部屋の中が蛍光灯の光に照らされると、ま
たもや異変にドキッとさせられた。
 それは、眞一郎がいつも心と体を休める場所で起きていた――そう、ベッドの上で。
 夏用の薄手の掛け布団が、ちょうど人の大きさほどに盛り上がっているのだ。それに、
その布団の山脈は、微かに、息をしているかのように上下している。
(比呂美だ)
 彼女しかいなかった――こういうことをするのは。母の理恵子だったらもっと大変なこ
とになるのだが、眞一郎の頭の中には、そのケースは微塵も浮かばなかった。
 ここ一週間、眞一郎と比呂美のふたりがゆったりと過ごす時間はなかった。眞一郎が、
壁絵制作の虜のようになっていたからだった。それからようやく開放された今、比呂美は、
嬉しくて堪らないのだ。たとえ、眞一郎が壁絵制作を通してずっと自分を見ていたという
ことを知っていても、とにかく、再び日常に戻ることが……。
 眞一郎だってそうだ。比呂美へ逃げ出したくなる気持ちを、自分で自分に噛みついて、
その痛みで心を奮起させ、踏ん張ってきたのだ。何度比呂美の声が聞きたく電話をしよう
と思ったか分からない。眞一郎も、比呂美のために一緒の時間を過ごしてあげたかったが、
あの大きな絵を完成させた今、その充足感にひとり酔いしれたい気分でもあった。
 眞一郎は、立看の比呂美の髪を撫でてあげた。その手は、頭のてっぺんから徐々に腰の
辺りの毛先へ移動していく。そして、その比呂美の唇へ手を持っていった。
 眞一郎が一番好きな比呂美の姿。恐れの知らない真っ直ぐな目。少しつりあがった眉毛。
気持ちの高揚を冷却するように開かれた口。空を飛ぶための翼のように広がった髪。まっ
たく無駄のない筋肉をまとった手足。そして、唯一、その美しくも凛々しいオーラを和ら
げてくれるブルーのスカート。だが、この姿にあまりいい思い出が詰まってないのも事実
だった。比呂美自身のことはともかく、この姿を見ると不甲斐なかった自分を思い出して
しまうのだ。
「……湯浅さん……やっぱり、いいよな~」
 眞一郎は、そう呟いた。
「バスケットしている姿、一番カッコいいよな。……中学のときは、あんまししゃべんな
かったけど、高校になってからは、すこし話せるようになって…………昔は、けっこう遊
んだのにな。泣き虫だったけど、こんなにカッコよくなるなんて……。おれ、どうして、
もっと早く、好きだっていわなかったんだろう……。いえるわけないか、玉砕だったろう
からな……自分に……。でも、勇気を出していれば、湯浅さんも勇気を出してくれたかも
しれない…………たとえ、好きになってもらえなくても、湯浅さんのためになったかもし
れない……。あんな暗い顔をしつづけなくても済んだかもしれない……おれ、バカだ」
 比呂美は、じっとしていた――微かに胸の辺りを上下させる以外は。
「でも、バカといえば、よくこんなの作ったよな~。だれが、お金出したんだか。黒部さ
んが自腹切るわけないし。結局クラブ紹介で使わなかった、てことは、部費でもないだろ
うし……。やっぱ、あれだな、西村先生が裏取引したんだな、黒部さんと。湯浅さんの生
写真と引き換えに……。へへ~じつは、おれ持ってたりしちゃったりして。ユニフォーム
姿の方が無難でカッコいいと思うんだけどな~。なんで、制服にしたんだろう。うちの制
服、あんま色気ないんだよな~。愛ちゃんとこの制服の方がいいよな~スカート短いし。
こんどパソコンで合成してみるかな~」
 例の山脈は、ぷるぷると全体が震えだした。
(堪えてる、堪えてる)
 眞一郎が、声を上げずににっと笑った。
 そして、眞一郎は、立看を部屋の隅に移動すると、ベッドの端の真ん中にわざとどすん
といわせて腰を下ろした。比呂美は、全身をびくっとさせたが、まだ這い出す気配はない。
 眞一郎は、人差し指をたて、そっと、その山脈をつつこうとした――が止める。もっと
面白いことを思いついたのだ。
 眞一郎は、前へ向き直ると、上体を背中の方へ重力に任せて倒していき、その山脈を枕
にしたのだ。
「ゃ……」
 布団の中から、驚きと、こそばさと、恥ずかしさの入り交じった子猫のような声が、飛
び出だしてきた。だが、中のものは、頑固にもじっと堪えていた。
「あ~、この枕、きもち~。このまま、眠っちゃいそうだな~」
 眞一郎は、頭を山脈へ埋めるように、首を数回小さく振った。ちょうど比呂美の腰の上
の辺りだろう、そこの横腹のくぼみに眞一郎の首がきれいに収まった。比呂美は、二、三
回、体をぷるぷるっと震わせたが、すぐにまた堪えた。やけに今回は頑固だな、と眞一郎
は思った。
「ちょっと、こつこつしたことろがあるけど、そこがまた刺激になってもう……」
 眞一郎は、比呂美の腰骨を意識して、首をすりすりするように動かしたが、比呂美は、
もうこの感触になれたのだろう、まったく動かなかった。そんな比呂美に、眞一郎は、観
念したようにふっと息を吐いた。
「比呂美……君のその愛と勇気に免じて、比呂美に質問することを与えよう」
 眞一郎は、神様のみたいな口調でそういうと、比呂美は、しばらく黙っていたが、質問
の内容が整理できたのか、ようやく口を開いた。
「ありがとう、ございます、神様……そのご厚意を有り難くお受け致します」
「ふむ。眞一郎とやら、素直に答えるのじゃぞ。…………はい……」
 最後の、はい、はもちろん眞一郎の声で。
「いくつでもいいの?」
「ああ、おまえの気が済むまで……」
「じゃ~ね~」
と、比呂美は、布団の中で質問の順番を考えた。
「どうして、あなたは、石動乃絵に惹かれるの?」
「――それは……」
 いきなり凄い質問が来たなと、眞一郎は、言葉を詰まらせたが、この質問は、比呂美の
関心の度合いの順番でトップなのだろうと思った。
「それは……小さい頃の比呂美に似ているからかな……」
 その答えは、比呂美とって意外だった。言葉で飾るとこのしない眞一郎は、笑顔がかわ
いいとか、発想が面白いとか、そういう直接的な表現で彼女の印象を語ると思っていた。
「似てないと、思うけど……無理していってない?」
「そんなことないよ。おれ、小さい頃から、比呂美のこと好きだったみたいだからさ」
「みたい?」
「今思えばってことだよ。おまえ、むかしは、豪快に笑い、豪快に泣いてたよな。周囲を
どんどん引き込んでいく純粋さがあった。そういうところが、乃絵と似ていると思ったん
だ」
「裏を返せば、わたしがすれちゃったと?」
「そんな言い方するなよ」と眞一郎は、むっとしていった。
「どうせ、心も体も、もう純粋じゃないしー」
 比呂美は、「体も」を強調して冗談っぽくいうと、眞一郎は、ははは、と笑った。
「それって……もう~その……経験済みってことをいってるの? おれが、なんか比呂美
を穢したみたいであまりいい気分しないな~」
 比呂美は、照れながらも眞一郎がそうはっきりいったことに驚いたが、あまりからかう
話でもないなと思うと、ごめんごめん、と謝った。
「でも……湯浅さんモードのときは、すげ~感動したよ」
「湯浅さんモード? それって、このあいだのデートのこと?」
「そう。やっと、むかしの比呂美に戻った感じがして、胸が張り裂けそうだった」
「ふふっ、泣いてたよね、眞一郎くん、バスの中で……」
「あっ、バレてた?」
「当たり前じゃない、となりに座ってたんだから」
「そっか……」
「でも、なんか複雑だな~そんな風にいわれちゃうと。ちょっと湯浅さんに嫉妬、感じち
ゃう」
「そのうち、ふたりはひとつになるさ」
「眞一郎くんは、湯浅さんを演じてほしいと思ってるの?」
「そんなこと思ってないよ。前にもいったかもしれないけど、比呂美は、今のままでいい
って。おれが言いたいのは、比呂美は、本来、そういう明るくて純粋なところを持ってい
るってこと。おまえの両親が亡くなったあと、ずっと抑圧されたところにいたから、まだ、
それから完全に開放されていないだけなんだよ。……それより、おまえ、暑くないのか? 
布団被ったままで。顔をくらい出せよ。苦しいだろ?」
 眞一郎は、比呂美を枕にするのを止めると、比呂美は、顔だけ出し、
「お邪魔します」といった。
「バカなやつ。汗掻いてんじゃん」
 比呂美の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「バカってなによ。そんな眞一郎くんだって、さっき、麦端高校女子全員を敵に回すよう
なこといってたわよね。わたしの写真持ってるって本当なの?」
「立看の画像は持ってるよ」
「へんたい……」
「もう、質問はないのかよ」と眞一郎は、話題を変えようとした。
「あ~待って。いっぱい聞きたいことあるから。今晩は寝かせないわよ、うふ」
 比呂美がわざと妖艶を放っていうと、眞一郎は、あほ、といって、また比呂美を枕にし
た。
「わたしね、眞一郎くんの好きな人、愛ちゃんだと思ってたこともあるの」
「へ~どうして」
「どうしてって、愛ちゃんの店、その……通ってたじゃない」
「そ、そうか。そういえば、そうだな」
「眞一郎くんが、愛ちゃんに野伏君を紹介したことを知って、驚いたけど、正直ほっとし
たの。ほんとうはどう思ってたの?」
「比呂美って、愛ちゃんに対してコンプレックスってあるの?」
「……どうかな~、全然ないっていったらウソになるけど、やっぱりどこかお姉さんって
いうところがあって、割り切っちゃってるのかもしれない。石動さんみたいに気にならな
かった……」
「おれも、おんなじだよ。……でも、愛ちゃんは、違った…………」
 眞一郎の声のトーンは、明らかに落ちた。
「あの…………眞一郎くん…………その、訊いてもいいかな…………愛ちゃんとキスした
とき、どういうやり取りがあったのか…………いいたくないだろうけど…………わたしに
話したほうが気が楽になるんじゃないかな?」
 眞一郎は、体を起こし、比呂美の顔を見た。
「比呂美、おまえ……おまえも、聞くのは辛いぞ…………」
「ここで、きっちり、終わりにしよ?」
 眞一郎は、比呂美から目線を外し、しばらく考えたが、今さら考えるほどのことでもな
かった。
「ああ~わかった」
 眞一郎は、静かに頷くと上体を真っ直ぐに戻して、しばらくそのときの状況を思い出し
た。
「前に話した通りなんだけど……乃絵と付き合うことになった、とおれが言うと、愛ちゃ
んがおれにタオルを投げつて、そこでもみ合いになって、そのときにキスされたんだ。…
………愛ちゃんは、顔を離すと、わたしのことも見てほしいっていったんだ…………」
「なんて、答えたの」
「……ずっと、幼馴染の姉ちゃんと思ってた、そんな風に見れない……………………」
 眞一郎の言葉は、そこで途切れた。が、比呂美は、その先があることを感じた。
「あの、もう…………いいよ、ごめん。眞一郎くん…………話さなくていいよ」
「最後までいうよ、おれ……………………そのあと、きょうのことはなかったことにして
くれって、いったんだ」
 比呂美の予想通りの言葉だった。眞一郎は、そういう言い方しかできない人間なのだ。
愛子がそのあと、どれほど泣いただろうかと思うと、息をするのが辛くなるくらい胸が締
めつけられた。また、その言葉は自分にも向けられたかもしれないと思うと、寒気を感じ
た。
 比呂美は、掛け布団から手を出し、眞一郎の背中に優しく触れた。
「おれ、大丈夫だよ…………今思えば、確かに酷い言葉だったと思うけど、乃絵みたいに
引きずらなくて良かったって思っている」
「……うん……」
「さ、次の質問、質問」
 眞一郎は、明るくそういうと、また、比呂美を枕にした。比呂美も、楽しそうに体をく
ねらせ、きゃっ、と声を上げた。
「石動さんの話って、結局なんだったの? もう全部、解禁してもいいでしょう?」
「うん、そうだな」
と眞一郎は返事すると、起き上がって机の引き出しを開け、乃絵に虎の絵を見た後に読め
といわれた手紙を取り出した。
「なーに、それ」
「乃絵からの手紙」
といって眞一郎が渡そうとするその手紙を、比呂美は、掛け布団から手を出し受け取ろう
としたが、そのとき、眞一郎は比呂美の格好に驚愕した。
 掛け布団からはみ出した比呂美の肩は、二本の白い紐がある以外は、素肌そのものだっ
たのだ。
 つまり、それは、パジャマを着ていない!
 眞一郎は、慌てて比呂美がもぐっている掛け布団を、一気に引っぺがした。
 上半身は予想通り、比呂美はブラジャーしか身に着けていない。さらに、なんと下まで
白の下着だけ。ベッドの奥の壁の手前には、パジャマらしきものが丸めてある。
「バカか、おまえ!」
 眞一郎は、小さな声で叫ぶと、比呂美は、物凄い勢いで、また掛け布団を首まで被った。
「すけべ」
「どいういうつもりだよ! って、そういうつもりか……」
 眞一郎は、自分の質問が愚問であることに気づくと、比呂美に呆れて床にへたり込んだ。
 比呂美は、眞一郎の様子をじっと伺っていたが、眞一郎がなにも喋ってこないことを感
じると、眞一郎に求めた。
「おばさんは、祭りの会合でいなし…………だから、チャンスだよ。…………あれも、枕
の下にあるから……」
「お袋だって、もう帰ってくる時間だろう。まずいよ……比呂美……べつの、ときに…
…」
 眞一郎は、大きく横に首を振った。どうりで比呂美がなかなか布団から出てこないわけ
だと思った。
 比呂美は、眞一郎を駄々っ子のような目でじとっと見ていた。
 比呂美からずっと目をそらしていた眞一郎は、一瞬だけ比呂美の顔を伺った。そのとき、
その表情に気づくと、
「キスじゃ……だめなのか?」
と懇願するようにいった。
「わたしが、こんなに頑張っているのに、眞一郎くんは、わたしと、したいと思わない
の?」
「そりゃ、したいさ。おれだって男だからな。でも、おまえのは、無茶入ってるよ」
「……この家に帰ってくるんじゃなかった……そうしたら、毎日、できたのに……」
「比呂美! いい加減にしろよな」と眞一郎は怒鳴った。
 比呂美は、一瞬だじろいだが、すぐに目を据わらせると、
「……わかった、いま、ここで、ひとりでする」
といって眞一郎とは反対の壁の方へ体を向けた。
「ちょ、ちょっと、待てって。わかった、わかったから、落ち着けって」
 眞一郎はそういって、掛け布団をはぐり、体を滑り込ませようとしたが、比呂美は、体
を眞一郎の方へひねり、眞一郎の下腹を蹴って掛け布団から追い出した。
 どすんっと眞一郎の尻もちの音が部屋に響き、眞一郎は、身を屈めた。
「いってぇ~な~、蹴るなよ」
 比呂美の蹴りは、眞一郎にかなり効いていて、眞一郎の声もかすれてしまった。
「とにかく、パジャマ着ろよ。おれ、出ているから」
 そういうと、眞一郎は、部屋の扉へ這い出した。
「待って」
「おれに、どうしてほしいんだよ!」
といって眞一郎は立ち上がると、ベッドにそばにいき、比呂美を見下ろしてこういった。
「もう最後だ! 黙って、パジャマを着るか、今すぐ、部屋から出ていくか。どっちにす
るか決めろ!」
 眞一郎の落ち着いた低い声に、比呂美は、完全に眞一郎を怒らせてしまったと感じた。
そして、どうして、眞一郎に悪態をついてしまったのか、わけが分からなくなったが……。
「このままでいたい」
「じゃ~パジャマ着ろ」
「もっと、いっぱい、いっぱい話がしたい」
「だったら、パジャマを脱ぐ理由がないじゃないか!」
 眞一郎はそういって、掛け布団をまた豪快にはぐった。
 比呂美は咄嗟に上体を起こして、両腕で胸を隠す。
 眞一郎は、比呂美のその仕草に、比呂美をベッドから引きずり下ろすのを躊躇ったが、
このままじゃ埒が明かないと思うと、比呂美の両腕をつかんだ。
「いやっ」
「部屋に戻れって……」
 比呂美は、すぐに眞一郎の手を振り解き、レスリングをするみたいに身構えた。
 しばらくその状態で睨み合いがつづいたが、眞一郎は、ベッドの脇に落ちている手紙に
気づくと、それを拾って、机の椅子に座った。
「乃絵の話は、もういいのか?」
「あした、聞く」
 眞一郎は、そこで、ひとつため息。
「おまえ、ほんとうに、おれとエッチしたいのか?」
「え…………」
「セックスなんて、その気になれば、どこでもできるさ。でも、あえて、おれたちが困る
状況で求めるのは、なんでだ?」
「それは…………」
 比呂美は、眞一郎の真剣な問いかけに、すぐ言葉が出てこなかった。眞一郎と体を合わ
せたいと思ったのは本当のことだが、眞一郎にそういわれと、そう疑問を持たれても仕方
がないなと思った。比呂美は、自分の気持ちを考えてみた。眞一郎も、比呂美の気持ちを
考えてみた。そして、眞一郎の方が先に思い当たったことを口にした。
「おまえ、母さんに叱られたいんじゃないのか?」
「え? おばさんに?」
「うまくいえないけど…………ほら、子供のころ、よくあるんじゃん……その~……」
 眞一郎がそのつづきをいいかけたとき、部屋の外で理恵子の声がした。
「眞ちゃん? 帰ってるの?」
 その声で、眞一郎と比呂美は、一瞬で凍りついた。
 理恵子の足音は、すぐ近くなり、理恵子の影が扉に映ると、
「眞ちゃん? 開けるわよ」と声がして、眞一郎の返事を待たずに扉が開けられた。
 理恵子の声に固まった比呂美は、下着だけの上半身を隠すのを忘れていた。
 理恵子は、ベッドの上の比呂美の姿が目に入ると、やっぱり、という表情をして、部屋
の扉を静かに閉めた。そして、ふたりに近づいた。
 比呂美は、理恵子に、すぐにこの部屋から引っ張り出されると思った。半裸状態だった
し、この部屋は自分の部屋ではない。自分の部屋に戻ってから叱られると思った。
 しかし、理恵子は、椅子で固まっている眞一郎のところにいき、眞一郎の腕を無言で引
っ張った。
「お袋……その……おれたち、べつに……」
 眞一郎は慌てて、感情をぐっと押し止めている理恵子に弁明を試みたが、理恵子は、ま
った聞く耳を持たず、眞一郎を部屋の外へ放り出した。そこで、ようやく理恵子は、眞一
郎に静かにいった。
「あなたは、出てなさい。下へいってなさい」
「お袋、比呂美は、何もしていない、何もしていないったら。叱るならおれの方だろ
う?」
 理恵子が部屋の扉を閉める瞬間、理恵子の猛獣のような眼を眞一郎は見た。それは、こ
のあと理恵子が比呂美を激しく叱責することを物語っているように思えた。眞一郎は、理
恵子にもう一度事情を説明しようと扉に手を伸ばしかけたが、そのとき、眞一郎の頭の中
に父・ヒロシの言葉がよぎった。

……女は、女同士の方がいい……

 以前のこの言葉をいわれたときは、眞一郎は比呂美のバイク事故に冷静さ失いかけてい
たので、その言葉の意味をじっくり考えることはなかったが、今は違った。
 その言葉は、眞一郎の中で、比呂美に対する様々な疑問をつなぎとめていったのだ。そ
して、その言葉を裏付けるかのような理恵子の態度。男である自分を引き離し、比呂美と
一対一で話そうとする母・理恵子。それに、比呂美は理恵子になにか求めているのではな
いか、という眞一郎の仮説。
 いい機会かもしれない。理恵子が、激しく比呂美を叱責するなら、すぐ部屋へ入って理
恵子を押さえつければいい。眞一郎は、そう思い、部屋の扉から少し離れて、中の様子に
耳を澄ませた。

 理恵子の足が、静かに比呂美に近づく。比呂美は、理恵子の顔を見れなかった。慌てて
パジャマを着ることもできなかった。理恵子は、今、物凄い形相で自分を見下ろしている
だろう。そう思うと、比呂美は、ただ縮こまるしかできなかった。だが、理恵子の比呂美
に向けられた第一声は、比呂美の想像とは、遠く離れたところにあるようだった。
「するつもりだったの?」
 意外にも、理恵子の優しい声。
 比呂美は、理恵子のその優しさに、顔を背けていては失礼だと思い、慌てて理恵子の顔
を見た。感情の色が非常に薄い顔だった。比呂美は、その表情から理恵子の心情をくみ取
ることはできなかった。それくらい、無表情に近かった。そして、逆にお恐ろしくなった。
「ぁ……ぇっ……その……」
「はっきりいいなさいッ!」
 口ごもる比呂美に、理恵子は一転して激しく言葉を飛ばした。
 比呂美は、理恵子のこの言い方に『自分にぶつかってきなさい』という明確な意思を感
じた。目の前にいる女性は、自分よりも十枚も二十枚も上手なのだ。だから、比呂美は、
正直に「はいッ」と叫んだが。

 ビシッ!!

 比呂美が声を発した直後、鋭い音が部屋中に響いた。
 なにが起こったんだろう。比呂美がそう考えたのは、その音から30秒くらい経ってか
らのことだった。理恵子の右腕が微かに揺れたかと思ったら、そのあとすぐに、自分の首
は横に向けさせられていた。それから、左頬に、熱さと痛みが徐々に増してきた。ドライ
アイスが直接皮膚に張り付いたような、じりっとした痛みだった。
 比呂美は、理恵子に叩かれたのだった――比呂美が、仲上家に来て初めて……。
「あなたの母親でも、こうしたでしょうね。ちがう?」
「…………」
 比呂美は、ゆっくり頬を押さえた。
「あなたたちのこと応援したくても、これじゃできないじゃない……」
「…………」
「早く服、着なさい」
 理恵子の口調は、穏やかだった。とても叱責するときのものとは思えなかったが、理恵
子の言葉は、比呂美の心に深く刺さった。
 比呂美は、パジャマをつかむと、ベッドから這い出て立ち上がり、理恵子に背を向けて、
パジャマを着た。理恵子は、黙ってその様子を見つめていたが、比呂美の後ろ髪が上着の
中に入ったままなのに気づくと、そっと手を伸ばし、髪を掻きだしてあげた。比呂美は、
すみません、といって恐縮すると、すぐ理恵子の方に向き、
「ごめんなさい」と頭を下げた。
「なにを謝っているの? 悪いことしてないんでしょ?」
「え……その……」
 じゃ~どうして叩いたんですか、といいかけたが、今の比呂美にはそんな度胸はなかっ
た。
「お互い好きなんだから抱き合って当然じゃない…………あなた、そう思ってるんじゃな
いの?」
「いえ……そんな……」
「わたしがあなたの頃は、そう思っていたわ」
「……そ……そうですか……」
「眞一郎とは、もう…………眞一郎に体を許してるみたいだけど…………今の時代じゃ、
早いことではないわよね。…………だって、お互い好きなんだから、周りがどうこういっ
たって、してしまうでしょ?」
「…………」
 比呂美は、もう理恵子の顔をまとも見ることができなかった。だが、叱るにしても、理
恵子の喋り方に違和感を感じた。
「そういう、年頃ですもの。お互いに、どんどん相手の体のことが気になってしまう。今
だから、はっきりいうけど、あなたにはこの家に来てほしくなかったわ。べつに、あなた
や、あなたの母親を憎んでいるということではないわ。あなたの面倒は、みるつもりだっ
た。でも、アパートに別居してほしかった。その方が、眞一郎も、あなたも、素直に育っ
ていけると思ったけど、あなたは、この家に来たいとはっきり意思を示したし、主人もあ
なたを独りにはできなかった。……まあ、それは無理もない話だけど」
 理恵子は、そこで一呼吸置いた。
「あまり、若いうちからセックスに溺れてもいいことないわよ。…………でも、体の疼き
は止まらないのよね。そして、眞一郎をどんどん誘惑してしまう。眞一郎も、よく堪えて
るわよ。あなた、どうして眞一郎が堪えられるか考えたことがある?」
「……それは、まだ、わたしたちが、自立していないから……」
 理恵子は、比呂美の返答を、ははっと笑い飛ばした・
「眞一郎はもう、あなたが自分のものになったと思っているからじゃない。まだ、子供だ
からそういう素振りは見せないけれど、男の本心というものは、そういうものよ。いつで
も、この女とはやれる。焦ることはないと」
「そんな言い方、酷いです!」
「今のままだと、眞一郎に飽きられるわよ、あなたがどんなに可愛くても。大人になるに
つれて、眞一郎もそういう態度を表に出していくようになる。そうなると、あなたは焦っ
て、眞一郎をつなぎとめる手立てをどんどん考えなくていけなくなる。眞一郎が、喜ぶこ
とを、眞一郎の体が興奮することを」
「……もう、やめてください。そんな話……」
 比呂美は、耳を覆った。
「眞一郎の妻に本気になる気なら、聞かなきゃダメよ。それとも、眞一郎とのことは、そ
の程度の気持ちでしかないの? それこそ、ふしだらよ」
「どうしたらいいんですかッ! 淫らな姿なんか眞一郎くんに見せたくないッ! 自分で
も分からなくなることがあるんです」
「だったら、我慢するしかないわね。それしかないのよ。眞一郎がひとりで戦ったように、
あなたも自分と戦うしかないのよ」
「…………負けたら終わりなんですね……」
「……眞一郎しだいね」
 理恵子の突き放すような言い方に、比呂美は下唇を噛んだ。
「…………わたしのこと……責任もって育てるっていったじゃないですか? それもウソ
だったんですか?」
「……確かにいったわ。でもね、わたしがしてやれるのは、これくらいしかないの……」
 理恵子は、そういうと比呂美を抱きしめた。
 比呂美は、なぜ自分の体が傾いたのか、すぐには分からなかったが、理恵子の体の柔ら
かい感触を確かめると、素直に体を預けた。
「ごめんなさいね……。わたしが、こうしてやらなければいけなかったのね。眞一郎では
無理だったのね」
「眞一郎くんは、いつもわたしを受け止めてくれました」
 そういっている途中から、比呂美の目に涙が溢れ出てきた。
 理恵子は、そんな比呂美の体をぎゅっと引き寄せた。
「無理して、あなたの母親になろうとは思わなかった。……まだ、早いと思った。比呂美
に母親のことを忘れさせているようで…………あなたとの距離を縮めることに抵抗があっ
たわ…………」
「……いいんです……いいんです……そんなこと」
「さ、比呂美、顔を上げて」
 理恵子は、比呂美の肩を押さえ、比呂美の体を引き離した。比呂美は、もう少し体を預
けていたい気分だったが、理恵子が自分の前髪を掻き上げると、そんな気分は吹き飛んで
しまった。
 そのあと、理恵子が、比呂美のおでこに唇を押し付けたのだ。
 比呂美の全身に、額から首へ、それから脊髄を通って電気が走り、比呂美は、目を見開
いたまま、その行為の意味を考えた。いや、考えれなかった。理恵子の甘い香りに。
 比呂美の記憶は、まっさきに二年前に飛んだ。
 ちょうど同じ七月。中学生の比呂美は、比呂美の母親に同じようにおでこにキスをされ
たことがあった。反抗期真っ只中の比呂美は、そのことをただ単にむずがったが、そのと
きの母親の香りは、今となっては大切な記憶となっていた。
 理恵子の匂いは、母親のそれとは違ったけれども、そんなことは問題ではなかなった。
要は、心がくすぐられたかどうかだ。
 理恵子は、比呂美のおでこから唇を離すと、男の子と初めてキスしたときみたいに照れ
て笑った。比呂美が今まで見たこともない理恵子の仕草だった。比呂美も同じように照れ
て俯いた。
 そんなふたりを、そっと扉を開けて、眞一郎は優しい眼差しで見守っていた。

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