・・・・(絶句)

1.未来予想図

「あの、安藤、愛子、です。お初に、お目に、かかり、ます」
 愛子の第一声である。
 愛子は今日初めて、三代吉の家に遊びに来たのだった。
 勿論、両親は留守にはしていないが、農家に日曜日という概念は意味を成さないので、
実質的には姉とその子供くらいしかいないらしい。
 とはいえ、「彼氏の家に初めて訪問」であることは変わりなく、愛子としては心音が周
りに聞こえるのではと思うほど緊張して、挨拶をしているのであった。
 幸いにして、三代吉の姉――一枝はさばけた人柄で、そんな愛子を歓迎してくれた。
「そう、あなたがあの今川焼き屋さんの。私には気にせず、ゆっくりして行ってね。どう
せお父さんもお母さんも夕方まで戻らないし、私の亭主も接待ゴルフだし。
「ほらミヨ。ぼさっとしてないで部屋に案内しなさい。あんたの彼女でしょ」
「今しようと思ったところだよ。そんなポンポン言われても」
 三代吉が顔をしかめる。確か十歳ほど歳が離れているという事だったが、両親が留守が
ちの家庭で、この姉が母親代わりをしていたのだろう。彼女の前で子供扱いされるのは、
本人にとってさぞや恥ずかしいに違いない。
「じゃ、上がれよ」
「はい、お邪魔します」
「そんな緊張しないで。普段通りにしてればいいから」
 そう言って愛子が三代吉の後を歩いていくのを見送った一枝が、思い出したように
「三代吉が変な事しようとしたら大声出してね」
「・・・・・・・・」
 三代吉の部屋は一見きれいに片付いていた。しかしよく見ると本棚の脇には漫画の雑誌
が順不同で積み上げられており、この整然が急ごしらえである事を窺わせる。
「アイスコーヒーでよかったかな」
 三代吉が盆の上にアイスコーヒーを乗せて運んできた。
「うん、ありがと」
「悪いな。口の悪い姉貴で」
「ううん、そんなことないよ。あたし、一人っ子だったから、ああいうお姉さん羨ましい
な」
「そうか?」
 この先お前の小姑になるんだぞ、と言う言葉が頭に浮かんだ。口には出さなかったが、
その未来図はすぐに追い出すにはあまりにも魅力的であった。
「どうしたの?そんな所に突っ立って」
「ん?いや、何でもねえ・・・・」
「なーに?顔赤くしちゃって気になるわねえ。あ、わかった。ホントに変な事考えてたん
でしょ?」
「な!?ち、違えよ、変な事なんて考えてねえよ」
「怪しいなあ~。大声出さなきゃいけなくなっちゃうかな~」
「そんな事しねえよ!ただそのうちお前の姉貴になるんだよなって思っただけだ!」
 あっ、と三代吉が口を押さえる。
 一瞬、ポカンと口を開けたまま三代吉を見上げていた愛子の顔が、見る間に耳まで赤く
染まっていく。
「・・・・・・・・」
「・・・・えーと・・・・」
 なんとも言えない空気が部屋を覆う。次の言葉次第でこれ以降の展開が180゚変わる。そ
の共通認識が二人の間にあった。
「随分・・・・先の話だね・・・・」
「そう・・・・でもないさ」
「だって、私達まだ高校生だよ?結婚なんてそんな・・・・」
 結婚、という単語が出た事に自分で驚く。もう三代吉をまともに見ることが出来ない。
「眞一郎は――」
「え?」
「眞一郎は、もう湯浅とそうなるつもりでいるぜ」
「あの二人は・・・・特別だよ」
「俺達だって特別なはずだ」
「特別?私達が?」
「恋人同士ってのは、みんな特別な存在さ」
 愛子が少しぎこちなく微笑んだ。
「何格好つけてんのさ・・・・らしくないよ?」
「こんな時くらい格好つけさせろ」
 三代吉が近づき、愛子の髪に手を触れた。そのまま顎に指を掛け、軽く上を向かせる。
 愛子の目が潤んでいる。三代吉は固い動きで愛子を引き寄せ、顔を近づける。愛子の目
が自然に閉じて――。
「チュッチュするの?」
「うわぁ!?」
 三代吉と愛子が同時に声をあげ、愛子は三代吉を力の限り押し返した。
 二人の隣に、小さな女の子が立っていた。
「みみみ美鈴、なななな何してるんだ、ここで?」
 美鈴と呼ばれた幼女は悪びれもせず
「ミヨ兄、チュッチュするの?」
「ななな何をいい言うのかな美鈴ちゃん。兄ちゃんは別に――」
「美鈴もする!」
「するかボケェー!」
 その時、確かに二人の耳に聞こえてきた。
「チッ」
 という舌打ちの音が。
「――か・ず・え・姉ちゃんんん!?」
 三代吉がドアの外に向かって射殺すような視線を向ける。柱の影から一枝が現れ、わざ
とらしく口に手を当てて笑う。
「あら、美鈴。駄目じゃないの、ミヨ兄の邪魔したら」
 そう言いながら三代吉の長姉は自分の娘を抱き上げると、
「それじゃ、ごめんあそばせ。オホホホホ」
 と足早に退散していった。
 後に残された三代吉は
「なんなんだちくしょぉぉぉぉ!」
 と叫び、愛子はただ絶句していた。
「・・・・・・・・」



2.G線上のアリア

「ねえ、この小麦粉をにミルクを入れながらかき混ぜればいいの?」
「待って、先にふるいにかけて均一に慣らして」
「美紀子ぉ、この生クリームいつまで泡立てればいいの?なんか固くなってきたんだけど」
「え?――ああー!クリームがバターになってる!なんで機械使わずにかき混ぜてここま
で出来るの?」
「フッ、バスケ部の腕力なめちゃいけないわね」
「自慢するところじゃないでしょ、そこ」
「ごほっごほっ。助けて美紀子、前が見えない」
「ふるいに粉全部乗せちゃ駄目!落ちないから振るうと外に飛び出だしちゃう」
――さながら戦場のような騒ぎは、美紀子の自宅のキッチンで繰り広げられていた。
「ひとつくらい女の子らしい趣味を持ちたい」
 という朋与とあさみが、美紀子にケーキ作りを教わりに来ているのだ。
「・・・・ひとつ訊きたい。あなた達、今までに何か食べ物を作った事は?」
「・・・・ラーメン?」
「お餅を焼いた事なら」
 美紀子ががっくりと肩を落とす。
「あら?どうしたの、美紀子」
「もしかして今日、具合悪かった?」
「いえ・・・・体調はよかったはずなんだけど、なにやら虚無感が・・・・」
 朋与とあさみが不思議そうに顔を見合わせる。
「ちょっとこれ一度やり直そう。朋与、その棚にホットケーキミックスがあるから取って。
もっと簡単なところからはじめよう」
「はーい」
 言われたとおりに朋与が棚を開ける。その直後、朋与が朋与とも思えぬ女の子らしい悲
鳴を上げた。
「きゃあああああああああ」
「どうしたの、朋与?」
 答えはすぐにわかった。棚の中から体長約5㎝程の黒い生命体が高速で飛び出してきた。
 黒い悪霊は着地と同時に六本の脚を動かし、曲線を描きながら美紀子に突撃してきた。
「ひゃぁあひゃあ!?」
 意味不明な寄生を発しながら美紀子が逃げ惑う。
「さ、殺虫剤!殺虫剤!」
「美紀子こっちに来ないで!奴が追ってくる!」
 キッチンに広がる阿鼻叫喚。その中で、あさみは黙ってスリッパを片方脱ぐと、黒褐色
の災厄を一撃の下に屠り去った。
「もう大丈夫だよ」
 何事もないかのようにキッチンペーパーを取り、残骸を包んで捨てるあさみ。
「・・・・凄いのね、あさみ・・・・」
「ん?ほら、あたしの部屋散らかってるから、一々怖がってたらとてもじゃないけど部屋
で寝られないもん」
「・・・・・・・・」
 この悪鬼殺しの女傑を黙って見つめながら、美紀子はあのスリッパ捨てたほうがいいか
しら、と考えていた・・・・。



3.常連客

 4番こと石動純が東京の印刷会社に就職して、まもなく四ヶ月になろうとしていた。
 職場の先輩にも恵まれ、休みはないが充実した生活を送っていた。
 彼の職場は小口の個人客が多いが、まだ見習いの石動は完成品の配送の手配や仕分けな
どが仕事の中心で、印刷の現場には入った事がなく、従って自社の印刷物を見ることは少
なかった。
「すいませーん。印刷をお願いしたいんですけど」
 この日、昼休みに来た客も、そんな個人客の一人だった。
「石動君、すまん、ちょっと出てくれないか」
 出前の昼食を食べながら、課長が声をかけた。
「え、俺ですか?受付なんてした事ないですけど・・・・」
「ああ大丈夫。あの子ならもう常連さんだから、記入用紙は家で書いて来てるはずだから。
出来上がり十日でいいかどうかだけ訊いておいて」
「はい」
 石動が出て行くと、声の主が立っていた。歳は彼と同じか少し上、悪趣味ではないが、
本人に合っているとは思えないファッションの女性だった。
「この原稿をお願いしたい・・・・んです・・・・け、ど・・・・」
「はい、それでは申し込み用紙はお持ちいただいてますでしょうか?」
「・・・・・・・・」
「あの、お客様?」
「え?あ、はい。申し込み用紙ですよね」
 客の女性は石動を見るとしばし呆然としていたが、我に帰ってごそごそとバッグの中を
かき回し、申し込み用紙を差し出した。
 石動は用紙を確認する。とりあえず、記入漏れはないようだ。課長の言う通り、もう手
馴れたものなのだろう。
「結構です。出来上がりは十日という事でよろしいでしょうか?」
「はい、よろしくお願いします」
「承知いたしました。それではお預かりさせていただきます」
「えっと、あの」
「はい?」
「すいません、お名前は何と?」
「名前?」
 言われて石動も気がついた。受け付けた担当が名乗らないのはおかしい。
「失礼しました。石動と申します」
 営業スマイルを浮かべて名乗る。高校時代、言い寄る女子生徒をあしらうために覚えた、
相手に譲歩を迫る時の笑顔だ。今まででこれが通じなかったのは一人だけだ。
「石動さん、今度、モデルになってもらえませんか?」
「モデル!?俺が?」
 営業スマイルも吹き飛んで、石動は訊き返した。今までいろいろな誘いを受けてきたが、
これは初めてだ。
「お願いします!石動さん、私の作品のイメージにぴったりなんです!そちらの都合のい
い時でいいので、是非!」
「え、ええ、まあ、考えておきます・・・・」
 申し込み客が帰った後、原稿を持って石動が事務所に戻ってきた。
「預かりました。出来上がりは十日でいいそうです」
「ああ、ありがとう。悪いが原稿を封筒から出して、注文票のコピーを添付してトレイに
乗せておいてくれるか」
「はい」
 言われたとおりに原稿を封筒から出した石動は、そこに描かれているものを見た。
「うぉ!?」
 思わず原稿を取り落とすところだった。
 原稿は石動も名前くらいは聞いたことのあるTVアニメのキャラクターと思しき人物が描
かれている漫画だった。いわゆる二次創作と言うものだろう。かなり自己流にアレンジさ
れているが、石動にも辛うじて判別できた。
 彼が驚いたのはそんな事ではない。漫画に登場する男二人が、ほとんど何の脈絡もなく
絡み合っている画だったからだ。
「なんだ、原稿見るの初めてか?」
「何ですかこれは?」
「同人誌と言う奴だ。そんなので驚いてたら身がもたんぞ。この時期うちの常連客はそう
いうのばかりだ」
「はあ・・・・」
「その人は特に印刷部数が多くてな。相当人気があるらしい。そういや石動君、彼女の描
く男に似てるな。そのうちモデルでも頼まれるんじゃないか?」
「・・・・・・・・」



4.Gの食卓

 理恵子は夕食の準備をするべく、台所に立っていた。今日は比呂美もうちに食べに来る。
 最近はかなり暑いし、今日も練習がある日のはずだ。比呂志には悪いが、少しだけ塩味
を濃くしてあげよう。
 大根を厚めのいちょう切りに切っていく。今日の献立は豚肉の角煮だ。眞ちゃんもそう
だが、若い子は肉のほうが喜ぶ。
 材料を切り終え、鍋に肉と調味料を入れ、火にかける。準備が終わったところで、ご飯
を炊くべく、米櫃へ。そこで理恵子は、視界の端に見てはならない禍々しい魔物の姿を見
た・・・・・・・・。

「えっと・・・・これでいいのかな・・・・?」
 ひろしの下で修行にいそしむ少年は、薬局にいた。殺虫剤コーナーで、スプレー式殺虫
剤を手に取る。缶には邪悪な黒い生物がリアルタッチで描かれている。
「しかし、奥さんこいつが苦手だったんだ・・・・」
 昨夜仕事を終えて部屋に戻ろうとした彼は、そこで青ざめた顔をした理恵子に呼び止め
られた。
『明日、お休みの日だったわよね。何か予定あるかしら?』
『俺ッスか?特にないッスけど』
『あの、それじゃあ、もし明日外出する事があったら、私に声をかけてもらえないかしら。
ちょっと、買い物を頼みたいのよ』
『買い物ッスか?それだったら行きますよ。何買えばいいんスか?』
『アレをやっつけられるものを・・・・』
『アレ・・・・アレ?』
『だから・・・・あの台所に出てくる・・・・』
 かくして、少年はここにいるのである。
「まさか、この絵を見るのもいやとはねえ・・・・」
 ただ名前を口に出来ないだけでなく、商品に描かれたイラストすら駄目という徹底振り
らしい。
「奥さん、可愛かったよな」
 少年は理恵子の様子を思い出して一人で笑い出した。何も知らずに傍から見ても、何を
考えて笑っているのか知った上で見ても、極めて不気味である。
「あの・・・・お客様?」
 心配した店員に声をかけられて、少年は我に帰った。
「え?あ、はい」
「どうかなさいましたか?」
「い、いえ、なんでもないッス。えーと、そう、ゴキブリ退治にどれがいいかなと思って、
ちょっと考え事を」
 ゴキブリを退治する瞬間を想像してニヤついていたならそれこそ危険人物だが、店員は
そこには言及しない。
「それでしたらこちらのスプレー式がお勧めですよ。噴射力も強くて離れた所から狙う事
も出来ますし、あらかじめ通り道に噴きかけておいても効果がありますから」
「そうッスか。こっちよりいいッスか?」
「そちらは本体に直接かけて動きを封じないといけないので、怖がりながら闇雲に撒き散
らす方には向きませんね。確実に当てられる距離まで近づける人でないと」
「なるほど。色々違いがあるんスねえ」
 店員は彼の感想を興味を持ってくれたと思ったらしい。日頃勉強していながら披露の機
会のない商品知識を説明できる喜びに目が輝いた。
「他にも色々あるんですよ。例えばこれなんかはノズルがついていて家具の隙間に逃げ込
んだ標的も追い詰められるんです」
「はあ・・・・」
「スプレー式以外でも、この毒餌タイプは古くからあるホウ酸団子の応用で、家から群れ
丸ごと追い出せる事が売り文句になっていますし、こちらは設置が簡単でテープで天井裏
に固定する事も出来るんですよ。他にも昔からあるホイホイ型も今は色々進化していて・・・・」
「・・・・・・・・」
 少年はその後、店員から一時間近くに渡り、商品の説明を聞かされる事になるのであった。



5.宿題

「桜子、これどう訳すの?」
「え、そこ私も今訊こうと思ってたのに」
「何よ、役立たず」
「何逆ギレしてるのよ。大体日登美さっきから全部訊いてばっかりじゃない」
「いいわよ。乃絵に訊くから。ね、乃絵、ここなんだけど」
「どこ?――ああ、それは普通に頭から訳して平気。関係代名詞を気にすると却って意味
がわからなくなるから、whatの前と後で別々に訳して、後の文章は前の文章を補足してる
だけって考えると、どう文に起こせばいいかわかると思うわ」
 乃絵の説明はある程度和訳の出来る人間には通じるが、出来ない人間には何の事やらさ
っぱりわからない。日登美も桜子も乃絵の説明を聞いてもう一度原文を眺めてみたが、相
変わらずアルファベットの羅列以外には見えなかった。
 わからないと言うのも何か悲しい気がして、日登美は話題を変えてみた。
「でも、ちょっと意外。乃絵が宿題一緒にやりに来てくれたの」
「え?そう?」
「なんとなくだけど、誘ったら『宿題は自分でやらないと意味ないものでしょ』とか言わ
れると思ってた」
 日登美の言葉に、乃絵は曖昧に笑った。
 正直に言えば、乃絵の本心では今でもそう思っている。一緒にやると言っても、実質は
一人にその他が答えを訊くだけで、教える側の利にならないのは勿論、教わる側のために
なるとも思えない。現実に今も集まって二時間以上経っているが、半分以上は雑談に費や
されている気がする。非効率的という他ない。
 それでも今日ここに来たのは、その非合理的な行動が、最近の乃絵には居心地がいいか
らであった。かつての乃絵ならそう感じる事も「堕落の始まり」と否定したかもしれない
が、眞一郎と出会い、桜子や日登美と知り合って、乃絵は確実に変わっていた。
「ね、そろそろお茶にしない?アイスあるからカキ氷に乗せて食べよ」
 桜子が提案し、そのまま部屋を出て行った。
 日登美は乃絵が部屋をきょろきょろと見回していることに気がついた。
「どうしたの乃絵?ありふれたつまんない部屋よ」
 さも自分の部屋のように桜子の部屋を酷評する。
「そんなことないわ。私、あまり他の人の部屋って見たことないから、興味あるわ。部屋
って、その人の信条や理念が反映されると思うの。そう思わない?」
「さ、さあ・・・・?そんな風に考えた事もないけど?」
「例えばこの部屋。たんすも、机も木目調でとても暖かい感じがするわ。逆に白黒のモノ
トーンの家具が一つも置いてない。きっと桜子は何かをきっちり線引きしていくよりも、
流れのままに緩やかに変化していく事柄を好むのね」
「へぇ・・・・」
「日登美の部屋ってどうなの?やっぱりこんな感じ?ううん、きっと違う。日登美の部屋
はスチール素材を使って、もっとシンプルな部屋になってるんじゃないかしら」
「うん、そう、かな」
「やっぱり!そんな気がしてたの。日登美はきっと部屋のオブジェは少ないんじゃないか
なって。少しは日登美の事わかってきたかもしれない」
 なぜか嬉しそうな乃絵。日登美はなんとなく、乃絵の頭を撫でた。
「うん、よくわかってきてる」
「・・・・・・・・」
 乃絵は黙って頭を撫でられている。
「・・・・何してるの?あなた達」
 カキ氷の機械を持って戻ってきた桜子が、不思議そうな顔で見ていた。
「なんでもない。何、カキ氷ここで作るの?」
「その方が気分出るでしょ。ちょっとテーブルの上どけてもらえる?」
 乃絵と日登美がテーブルの上のノートを片付け、桜子が機械を置いた。電源を差込み、
氷を入れ、スイッチを押す。ガリガリと氷を削る音と共にカキ氷が下の器に降り注がれ、
一杯になったところでシロップをかけ、仕上げにアイスを乗せて完成する。
「さ、これ乃絵の分ね」
 桜子が乃絵の前にカキ氷を置き、次の器をセットする。
 乃絵は人数分のカキ氷が揃うまでじっと待っていた。その間にもカキ氷は少しづつ溶け
始めている。
「乃絵、先食べてていいよ」
 日登美が声をかけるが、乃絵は
「いいの。みんなで一緒に食べるの」
 とスプーンを取ろうとしない。そのうちに、三人のカキ氷が作りあがり、桜子は機械を
下ろした。
「よし、じゃあ食べよう」
「いただきます」
「いただきます!」
 乃絵は猛然とカキ氷をかき込んだ。アイスもわずかに溶け始めていたので、遅れを取り
戻さんばかりの勢いである。
「乃絵、そんなに急がなくても平気だから」
 桜子の注意も聞こえないかのようにほおばる乃絵。すると突然、頭を抱えてのたうち回
り始めた。
「・・・・・・・・!」
「ど、どうしたの、乃絵?」
「急ぎすぎて頭にキーンと来たんでしょ」
 うっすら涙目になってようやく動きを止める乃絵。罪もないカキ氷を威嚇するように睨
み付けている。
「・・・・ホント、見てて飽きないわ、乃絵って」
「・・・・・・・・」
 日登美の感想に、桜子は異議を唱えなかった。



6.着物

「ねえ、眞一郎くん、この着物、どう?」
 比呂美が眞一郎の部屋に和服姿で入ってきた。菫色の、上品な紬である。
「いいんじゃないか?どうしたんだ、それ?」
「おばさんにもらったの。せっかく着付け覚えたんだから手元に気軽に着られるような着
物を持っておきなさいって」
「お袋が?へ、へぇ・・・・」
(気軽って言っても、結構高いんじゃねえの、それ)
 眞一郎は思った。
 最近の理恵子は外出に比呂美を連れて行く事が多い。得意先への遣いだけでなく、買い
物や催事などでも比呂美と出かけている。その都度食事をしたり、服を買ったりしている
ようだ。一年前を思えば、仲がよくなった事は大いに喜ばしいが、最近俺より贔屓されて
ないかと複雑な気分でもある。
「ね?この色いいでしょ?おばさんも似合うって言ってくれたし、お気に入りなの」
 しかし、この比呂美の喜ぶ姿を見ていれば、
(ま、いっか)
 と、そんな瑣末な事は気にならなくなってくる。恐らく、彼の母親も同じ気持ちなのだ
ろう。あまり甘やかしてはと思いつつも、ついこの笑顔を見るために余計な買い物をして
しまうのではないだろうか
「お袋、過保護だからな」
「ん?眞一郎くん、なんか言った?」
「いや。で、お袋は?」
「お夕飯の買い物をしてくるって」
「そうか。よく似合ってるよ」
 本心である。比呂美はフフッと口元を押さえて笑う。
「ありがとう。眞一郎くんに言われるのが一番嬉しい」
「それ、もう自分一人で着付けたのか?」
「え?うん、そうだよ」
「随分上手いな。まだ練習して半年くらいだろ?」
「最初は少し大変だったけど、でも、十二単みたいなのならともかく、庶民が日常で着る
ような服だもの、そんなに大変じゃないよ」
「ふーん、そんなものか」
 確かに、王侯貴族のように召使が着せてくれる身分ならともかく、町娘が着るのに特殊
技能を要するような衣類は、発明されても継承されないだろう。
「ただ、きれいに着るのが難しくて。お着物って少し崩れただけでものすごくだらしなく
見えちゃうから」
「きれいに着られてるよ。一人で着たって言えばみんな驚くんじゃないかな」
「よかった、嬉しい」
 再び、袖で口元を隠して笑う比呂美。眞一郎は改めて、この少女の恋人である事を誇り
に思った。
「それで、眞一郎くんは?絵本描いてるの?」
「うん。この前編集さんと話して、ちょっと動物をメインで描いてみてる」
「順調?」
「ぼちぼちかな」
「ふーん」
 比呂美は部屋の入り口のところから眞一郎と話していた。比呂美は自分から眞一郎の絵
本を見ることはしない。見るのは眞一郎が見て欲しいと言った時だけであった。未完成品
や、眞一郎が納得していないものを見たがるのは、眞一郎に悪いと思っていた。
「眞一郎くん、お茶、持ってこようか?」
「ああ、うん、頼む。少し休憩しよう」
「うん、ちょっと待っててね」
 比呂美が階段を下りていく間に、眞一郎は机の上を片付け、比呂美のためにいすを用意
した。
「お待たせー」
 ほどなく比呂美がよく冷えた麦茶を盆に乗せて戻ってきた。
「おう」
「はい、どうぞ」
「いす出しておいた。座れよ」
「うん」
 比呂美は勧められるままにいすに座った。眞一郎は改めて比呂美の着物を間近で見るこ
とになった。
「――近くで見るとごわごわした感じがするな、紬って」
「え?ああ、糸がでこぼこしたものを使ってるから、それでかもね。でも、着てみるとそ
れほどでもないのよ」
「そうなのか」
「おばさんが若い頃着てたものだから、それで生地がこなれてる事もあるんだろうけど、
そんなに硬くも、痛くもないわ」
「ああ、言われてみればそれ、幼稚園の頃よく見たな。あの頃のお袋、普段から着物着て
た」
 紬というのは元を辿れば、農夫が屑糸を撚り合わせた紬糸で自分達の衣類を織った野良
着を出自とし、その独特な風合いから都市部で流行したものである。故に現代でも正装と
しては用いられない。野良着が出自らしく生地が異常に丈夫で、親子二代に渡って着る事
が出来るが、硬くて着始めにはあまり着心地がよくないなど、ヴィンテージのジーンズと
共通する所がある。
 その紬を着心地がよくなるまで使っていたという事は、理恵子にとってはお気に入りの
一品だった事が窺われ、それを比呂美に譲るというのはそれなりの意味が込められている
のだが、今の二人にはそこまでの知識はない。
「私とおばさん、背格好が近いから、お直しもお端折りもしないで着られるの」
 無自覚に自分と理恵子の共通点に喜ぶ比呂美。それだけで眞一郎は嬉しくなってくる。
「そっかー」
「夏休み、しばらく着続けようかしら。そうすればもっと様になってくるだろうし」
「いいんじゃないか。それなら外出てもおかしくないし」
「眞一郎くんもそう思う?じゃ、そうしようっと」
「着物って脱ぐのは楽なのか?」
 眞一郎としては深い意味もなく訊いただけなのだが、比呂美の目が少し冷たくなった。
「・・・・なんか今、いやらしいこと考えてない?」
「え、あ、いや、何にも、考えて、ない」
「・・・・・・・・ホントに?」
 眞一郎が目を逸らす。
「あー、目を逸らした。やっぱり変な事考えてたんだ」
「変な事ってなんだよ!ただ、俺は・・・・」
「俺は?」
「・・・・時代劇でよく見る、帯掴んでグルグル廻しって、本当に出来るのかな、て」
 比呂美の顔が心底呆れた表情になる。
「・・・・そんなこと考えてたの?」
「そんな目で見るなよ!ああ悪かったよ、おっさん臭え妄想してたよ!ただ、ちょっとお
約束を・・・・」
「試してみる?」
「そりゃ試せるもんなら試して――ェエ?」
 眞一郎は思わず比呂美を見た。比呂美は悪戯っぽい笑顔を向けている。
「今、試すって――?」
「訊き直さないで。こんな顔貌してるけど凄く恥ずかしいんだから」
「い、いいの・・・・か?」
「・・・・帯くらいなら、ね。すぐ直せるようになったし」
 眞一郎はゴクリと生唾を飲み込んだ。滑稽極まりない姿だが、少なくとも当事者は真剣
である。
「じゃあ・・・・お言葉に甘えて・・・・」
 比呂美は黙っていすから立ち上がり、部屋の真ん中に立った。
 眞一郎も立ち上がり、帯に手を掛ける。
「いくぞ、比呂美」
「・・・・眞一郎くん、凄く嬉しそう」
「中途半端に照れたらもっと恥ずかしいじゃないか。もうノリノリで行くぞ」
 比呂美がまた呆れた気がするが、気にしない事にする。
「ほーれ、よいではないか、よいではないか」
「なりませぬ、なりませぬ」
 始まってみると比呂美も乗ってきた。乗らないと馬鹿馬鹿しくてやってられないのかも
しれないが。
「よいではないか、よいではないか!」
「なりませぬ、なりませぬ!」
 言いながら眞一郎は帯の結び目を何とか解くことに成功した。端を持ち、一気に引っ張
る。
「そ~ら!」
「あ~れ~」
 帯は意外にもよく滑り、眞一郎が引っ張るだけでは比呂美の胴が締め上げられるだけで
廻らない。この構図が女性の協力があって初めて成立するものである事を眞一郎は知った。
「ほれほれぃ」
「あ~れ~、ご無体な」
 帯がほぼ完全に解け、比呂美が引き寄せられるように眞一郎に寄りかかってきた。眞一
郎が彼女を受け止める。
「おい、眞一郎、出版社から電話が入ってるぞ。誰も出ないから、工場に転送されてきた
――」
 作業着を着たひろしが階段を上がってきた。
「え・・・・」
 と比呂美。
「あ・・・・」
 と眞一郎。
「う・・・・」
 とひろし。
 室内に沈黙が流れる。
「・・・・・・・・すまん、邪魔をした」
 そのままひろしが階段を降りていく。
「わー、待て、父さん!違、これは違う!電話、俺の電話!」
 眞一郎が大慌てで父を追っていく。
「・・・・・・・・」
 一人残された比呂美は、その場にへたり込んで部屋の入り口を見つめていた・・・・・・・・。


               了


ノート
今まで思いついたネタで、1本に仕上げるのが難しかったり、そもそも需要がなさそうなネタを、逆に可能な限りディテールを切り詰めてオムニバスに仕立てた作品です。
一応のテーマとして、全てラストが主役の絶句で締める終わり方、で統一しています。
なるべく全員出そうと思っていたのに、6本も書いてキャプテンと真由が出せず・・・・ttってこんなに登場人物いたっけ?

1.未来予想図
もとはAmour~で考えてみた案。本編が今更この路線に戻しにくくなってきたため、こちらで。僕のSSでは三代吉と愛子のキスがまだ済んでない設定になっているため、こんな話になってしまいます。

2.G線上のアリア
美紀子がパン屋の娘の設定を活かしたくて考えた話。ちなみに朋与とあさみがケーキ作りなんて始めたのは、比呂美が着物の着付けをマスターした事に刺激を受けたから。美紀子もまさかここまで出来ないとは思わなかったようですが

3.常連客
多分、4番が東京の印刷会社に就職と聞いて、多くの人が同じネタを考えたのではないでしょうかw4番一人の話を発表できる場などあるわけもなく、ほったらかしにしていたのですが、今回にぴったりな話なのでサルベージ

4.Gの食卓
2話との天丼ネタ。ママンの意外な弱点発覚。少年はとりあえず名前は決めていません。ムック待ちです。薬屋の店員を当初真由で書いていたのですが、必然性が低いため名無しのモブキャラに。真由ごめんね

5.宿題
今後の展開のため、日登美と桜子のキャラを僕なりに整理したくて書いた話。基本は乃絵が弄られキャラで、日登美が弄り役、桜子はブレーキ役で構成されています。カキ氷を人数分揃うまで食べずに待つ乃絵はお気に入りのシーンです

6.着物
比呂美は眞一郎を少し神格化して見ていて、眞一郎も比呂美を裏切らない努力はちゃんとしてる男なので、まずシチュエーションを成立させるのに一苦労。当初この話、2年目の麦端祭の日を舞台にするつもりだったんです。他の5話が全て夏の話なので、統一性を持たせるために夏に変更しました。
鰤大根が「息子の嫁」に対するエールなら、紬の着物は「自分の娘」に対する贈り物です。眞一郎は母親が自分のお下がりをあげた程度にしか考えていないし、比呂美もこれがママン
が気に入って大事にしていた着物とまでは思っていないですが

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最終更新:2008年08月25日 01:10
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