はじめての外泊-1


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トゥルー・ティアーズ サプリメント・ストーリー

 『 は じ め て の 外 泊 』

 ―― all night long ――




《 一 きちゃった……》

「じゃ~留守番、お願い。すぐ戻るから」
 比呂美は靴を履きながらそういうと、少し急いだ様子でドアを開けて出て行った。明らかに小
走りになった比呂美の足音がすぐ小さくなって消えた。ひとときの別れ――。とても『別れ』と
は言えないほどのちっぽけな『別れ』でも、比呂美の部屋にひとりで取り残されると寂しさが襲
ってくる。比呂美のいない比呂美の部屋――。比呂美は、この部屋で毎朝ひとりで起き、毎晩ひ
とりで眠る。その寂しさに比べれば、こんな『別れ』なんか『別れ』のうちに入らないというの
に……。眞一郎は自嘲気味に顔をゆがめると、ドアの鍵をかけ、リビングに戻っていった。
 眞一郎は後悔していた。
「シチューが食べたい」と思わず口に出してしまったせいで、比呂美がひとりで買い物をする羽
目になったからだ。冷蔵庫を開けて食材が足りないことに困っている比呂美に、「一緒に買い物
にいこう」と眞一郎はフォローしたが、比呂美はその提案をかたくなに拒んだ。
 なぜ? と眞一郎が訊くと、「セフレで一緒にいるところ、見られたくないし……」と比呂美
は眞一郎を傷つけないように気をつけて慎重に答えた。その一言で眞一郎は妙に納得させられた。
もし、『セフレ』という名のスーパーに一緒にいるところを目撃され、その噂が妙な方向に膨れ
上がったら、『セフレ(エッチ友達)がセフレ(というお店)でお買い物』というレッテルを貼
られかねない。それは、ラブホテルからふたり一緒に出てきたところを目撃される恥ずかしさに
匹敵するだろう。そして、この手の噂は当の本人たちにはどうすることもできないほどの化け物
に変貌を遂げるというのが、人の世の法則だ。つまり、一度しくじれば万事休すなのだ。
 そうなると、思春期の女の子にとっては耐え難い日々が続く。ボーイ・フレンドとの仲がいい
ことを冷かされるならまだしも、『ふしだらな娘』、『もう処女じゃない』と言われ続けるのだ。
男には想像もつかない精神的苦痛である。おまけに比呂美は一度、石動純との逃避行でさんざん
な目に遭っている。比呂美がそういうことに人一倍気にするのも無理からぬ話。
 しかし、出かける準備をしている比呂美は、なぜだかウキウキしているようだった。人目があ
って眞一郎と一緒に出かけられないことを残念に思っているはずなのに、これから恋人との約束
の場所に向かうような感じだった。それに、さきほど冷蔵庫の中をのぞいていた比呂美の顔は一
瞬くもったが、すぐに一転して、これはチャンス! と言わんばかりに明るさを取り戻したのだ。
比呂美にしてみれば、こういうシチュエーションを楽しみたかったのかもしれない。恋人を自分
の部屋に残して自分ひとりだけ買い物に出かけ、戻ってくれば恋人が自分の部屋の中から迎えて
くれる――そういう『恋人との時間』を味わいたかったのかもしれない。
 比呂美と付き合いだしておよそ半年――。眞一郎も比呂美のそういう女心にほんのちょっと、
思いを巡らすようになっていた。
 相変わらず、比呂美の部屋は白とピンクの世界だった。眞一郎は腰を下ろさずに比呂美の部屋
をひと通り見渡した。ピンクのカーテン。白い整理ダンス。階上のベッドの手すりにかけられた
制服のブルーがやけに目立った。ティッシュペーパーの箱も白かピンクしか見たことがない。お
そらく比呂美の母親の趣味が少なからず影響しているのだろうと思っていたので、眞一郎は色の
趣味について特に触れないでいた。
 眞一郎は腰を下ろし、テーブル上のテレビのリモコンに手を伸ばしかけて、視界の端に違和感
を覚えた。それは眞一郎が座っている場所から右斜め方向の壁際に置かれた白い整理ダンスの引
き出しのひとつ。1センチあるかないかだけ引き出しが飛び出している。眞一郎はその引き出し
を奥まできっちり入れてあげようと思って、そのタンスのそばまで行きかけたとき、強烈にそれ
を自制しようとするものを感じる。重大なことを思い出して、彼が彼自身を引き止めたのだ。お
そらく、無意識のうちに自分と比呂美の仲を揺るがしかねないと判断したのだろう。
 その白い整理ダンスの引き出しのどれかに比呂美の下着が収まっていることを眞一郎は知って
いた。下着が収まっている状態を直接見たことはなかったが、この部屋での比呂美の挙動から総
合的に判断して容易に推測できた。五段ある引き出しの上から四番目は、ブラジャーとショーツ
が収まっている。間違いなかった。その引き出しが、今、ちょっとだけはみ出しているのだ。
(罠か? 比呂美のいたずらかもしれない……)
 眞一郎は、整理ダンスに伸ばしかけたままだった手を慌てて引っ込めた。
 今さらながら、比呂美の下着に特別な興味はなかった。この部屋で比呂美を愛撫しつづけてい
るうちに、比呂美の下着を十種類くらい知ることになった。まだ見たことのない下着はいくらか
はあるだろうが、いずれお目にかかれるだろう。わざわざ信頼を裏切ってまで未だ見ぬ下着を見
ようとは思わなかったが、ただ、そのこととは別に気になることはあった。
 それは、この引き出しにはコンドームが隠されているということだった。過去一回だけ、『行
為』の最中に眞一郎をベッドに寝かせたまま比呂美がフロアに下りたことがあった。引き出しを
開閉する短い音がしたあとすぐに比呂美はベッドに戻ってきたが、今思えば、あのとき、枕元に
準備しそこねたコンドームを比呂美は取りにいったらしかった。比呂美はそのことに一言も触れ
なかったので、眞一郎も何事だったのか訊かないのがエチケットだろうと思って黙っていた。
 ただ、やはりこのことは男として確認しておいたほうがいいだろうと眞一郎は思った。コンド
ームを『どこにしまっているのか』ということを。比呂美にコンドームを取りに行かせるような
ことは二度とさせてはいけないだろう。眞一郎の男としての責任感が、一度引っ込めた手を再び
引き出しへ向かわせた。
(下着を物色するわけではないんだ。比呂美に恥ずかしい思いをさせないための下調べなんだ)
 とにかく頭の中で何でもいいから理屈を繰り返して自重しようとする自分を押さえつけ、眞一
郎は四番目の引き出しに手をかけ、開けた。
 うわっと漂ってきた甘い香りに、眞一郎は魂が抜けてしまうような感覚に見舞われた。心と体
が離れていくような感覚……。やばい、と思い、まだ神経がつながっていた両腕で整理ダンスを
力強く突いて、開け放たれた引き出しの中に視線を落とした。幸いにも、眞一郎を現実に引き戻
すモノがすぐに目に留まった。眞一郎は、それを見てほっとした。下着をかき回さずに済むと思
った。引き出しの一番手前の内壁に、掌の半分くらいの大きさのコンドームの箱が二つ、下着と
内壁との隙間に滑り込まされていた。ひとつは、黒と金のデザインの箱。もうひとつは、赤と銀
のデザインの箱で、これは眞一郎が調達して比呂美に渡したものだった。
 それにしても、あの香りは何だったんだろうか。たしか、比呂美の体を抱きしめるときにほの
かに匂う香りだった。こういう拘りは、男には到底理解できない『女の嗜み』なのだろうと眞一
郎は思った。三代吉も同じようなことを言っていた気がする。愛子を抱きしめるといい匂いがす
るんだ~って。
 拘りといえば、女性にとって下着のデザインも、妥協の許せぬものだろう。眞一郎は、いけな
いと思いつつも、引き出しの中に詰められた比呂美の下着を改めて観察した。ほとんどが白とピ
ンクのものばかりで、紺色や例の縞模様のものが数種類あるだけ。全体的な印象としては、いた
ってシンプルだった。おそらく、この年頃の女の子にしてみれば下着の枚数は少ないだろう。欲
しくても買えないという現実が、この引き出しの中に映し出されているようで、眞一郎は少し切
なくなった。比呂美だって表に見えないところのおしゃれもしたいはず。それなのに……。眞一
郎は振り返り部屋を見渡す。これが女の子の部屋だろうか。ベッドの手すりにかけられた制服が
なければ、ビジネスホテルと変わらないではないか。ぬいぐるみひとつ置いていない。かわいい
小物がひとつくらいあったっていいじゃないか。前々から比呂美のそういうところが気になって
いた。
 眞一郎は、もやもやとした思いを振り切るように引き出しをきっちり閉めた。下着を覗いたと
比呂美に疑われてもいいと思った。正直にコンドームの場所を確認したと言おうと思った。そし
て、ちゃんと謝ろうと。
 いろんな葛藤があったせいで喉がカラカラだった。眞一郎は、コーヒーの入った自分用のマグ
カップに手を伸ばした。そのときだった。来訪を知らせるチャイムが鳴った。
 あまりにも予期せぬことに、眞一郎の鼓動は息苦しくなるほど急に乱れた。
 比呂美がこの部屋を出てから15分くらいしか経っていない。『セフレ』までは少なくとも片
道20分はかかる。途中で引き返してきたのだろうか。
 眞一郎は、気を落ち着かせながら、音を立てずにそろりと玄関のドアへ歩み寄った。靴脱ぎ場
の手前まで来たところで、もう一回チャイムが鳴った。そのことで、眞一郎は一気に警戒心を強
めた。
(比呂美じゃない。比呂美なら、ドアをノックするはず)
 ドアを開けるわけにはいかなかった。もし、比呂美の友達だったら、とんでもない騒ぎになる
だろう。とにかく誰だか確認しよう。眞一郎は、ドアの中央にある防犯窓に物音を立てないよう
に慎重に近づき、そっと覗いた。体の右側が少し見えた。スカートらしきものを穿いている。た
ぶん、女性だろう。誰だか分からないが、仕方がない。居留守を決め込むしかなかった。だが、
眞一郎がリビングへ戻ろうと体重を移動しかけたとき、訪問者がドア越しに声をかけてきた。
「眞ちゃん。居るのはわかってるのよ。開けなさい」
 母・理恵子だった。
(タイミング悪く、比呂美とばったり会ってしまったのだろうか……)
 もしそうなれば、比呂美はおそらく眞一郎が部屋にいることを隠すだろうが、理恵子に簡単に
見破られて白状させられたのかもしれない。人付き合いが豊富な理恵子を騙すなど容易なことで
はないのだから。それにしても、比呂美がいないと分かっているのに、なぜ理恵子はアパートに
来たのだろうか? 眞一郎が留守番しているのが完全にバレている?
 眞一郎は観念して、ドアのロックに手を伸ばしかけたが、はっと気づいて再び息をころした。
(母さんのことだ。カマかけてるのかもしれない)
――――――――――――――――――――――――――
 チャイムを鳴らしても比呂美がすぐに出てこない
    ↓
 何かやましいことがある
    ↓
 眞一郎が部屋にいる
――――――――――――――――――――――――――
……という論理なのだろう。簡単だ。
 理恵子の罠を見破った気になった眞一郎は、ほっとため息をついたが、『ウラを取る』ことが
物事をうまく運ばせるためのコツだ、ということに眞一郎が気づくのにはもう少し時間を要した。
 ドアの向こうの理恵子は、沈黙を保っていた。二度目のチャイムが鳴ってから3分は過ぎた。
それでも理恵子は一向に帰る気配を見せない。
 確たる証拠を握っているのだろうか。眞一郎が今この部屋の中にいると――。これだけ部屋の
中から反応がなければ諦めてよさそうなものだが。もし、理恵子が比呂美と近くで出くわしてい
れば、そのことを話してくるだろう。でも理恵子はまだ一言しか言っていない。やはりおかしい。
これは理恵子の作戦だ。眞一郎がそんなことを考えていたときだった。
 ピルルルルルル――
 眞一郎のズボンのポケットの中にあった携帯電話が鳴ったのだ。
 眞一郎は、「わっ!」と思わず声を上げて飛び上がり、着地のときに床をドスンと言わせてし
まった。間違いなくドアの外まで伝わっただろう。
 ドンドン
 間髪入れずに理恵子がドアを取立屋みたいにノックしてきた。
「眞一郎ッ! 早く開けなさい。お父さんに言いつけるわよ」
 ここにいるという証拠を眞一郎は自ら提供してしまった。理恵子にウラを取られたのだ。携帯
電話の電源をまっ先に切ることを思いつかなかった歯痒さが込み上げてくる。眞一郎は、少し投
げやりな気持ちになってドアのロックに手を伸ばした。
 そのときだった。眞一郎の背後から――リビングの奥から「いやっ!」という悲痛な叫びが弾
丸のように飛んできた。眞一郎の全身はそれに激しく揺さぶられた。その音の弾丸が眞一郎の心
臓に命中したのではないかと思うくらいに激しくだ。だが眞一郎は、どうにか振り向いてその叫
びの主を確認できた。その叫び声が比呂美の声に非常に似ていたからだ。
 栗毛色の、腰まで伸びた長い髪――。比呂美だった。
 比呂美が顔を伏せて床にうずくまっていた。
 なぜ、比呂美がここにいる? 眞一郎は当然のことながら混乱した。今から20分くらい前に
買い物に出かけたではないか。少し冷静さを取り戻しかけた眞一郎は、この状況について考え出
したが、すぐに心臓が破裂しそうな衝撃を覚えた。その原因は比呂美の格好だった。比呂美は、
上半身裸だった。正確にはブラジャーを着けていたが、肩ひもは完全に垂れ下がり、両腕には赤
いみみず腫れがいくつもあった。下のほうは、スカートがびりびりに破かれていて、膝頭を擦り
剥いていた。まさに乱暴されたあとの様だった。
(どうしてこんな……)
 眞一郎は、ドアの外にいる理恵子のことなんかきれいに忘れてしまい、怒りを増幅させながら
比呂美のほうへ足を運ばせた。自然と大またで歩き、握りこぶしにさらに力がこもって振るえた。
(だれが、こんなことをっ!)
 すでに怒りが頂点に達した眞一郎は、床をどすんどすんと言わせた。眞一郎の目には比呂美し
か映っていない。だが、リビングに入りかけたところで、眞一郎は自分の右手に違和感を覚えた。
怒りに硬直している体とは対照的に、柔らかい感触。それがなんであるかは今はどうでもいいこ
とだったが、眞一郎はちらっとそれに目をやった。眞一郎の右手の握りこぶしから白いものがは
み出している。あまりにもまぶしい白さだったので、眞一郎は少しそれに興味が湧いた。立ち止
まり、右手をゆっくり開いた。
 白いもの。白い布切れ。小さな花の刺繍が施されている。ショーツだ。比呂美のショーツだ。
(まさかっ!)
 眞一郎は、慌ててもう一度比呂美を見た。比呂美は顔を伏せて泣いている。肩を怯えたように
震わせ、鼻水をすすり上げて泣いている。
(おれが、はぎ取ったというのか?)
 そんなはずはない。そんなことをするわけがない。眞一郎は必死に自分にそう言い聞かせた。
だが、それを裏付ける確たる証拠は眞一郎には何もなかった。逆に、眞一郎が犯人だと疑う証拠
は眞一郎自身が握り締めていた。こういうとき、『比呂美を愛している』という強い想いは、眞
一郎を勇気づけてはくれない。そっぽを向いたままで事態を変えてくれない。どう行動してきた
か、どう行動するのかが今の眞一郎を救うのだ。比呂美に事の真相を訊くしかない。それはとて
も辛いことだと分かっていても、そうしなければ、ぼろぼろな姿の比呂美を目の前にして眞一郎
は気が変になりそうだった。
「比呂美……」
 眞一郎が重い口を開くと、比呂美は意外にあっさりと顔を上げた。だが比呂美の視線は、眞一
郎を突き抜けていって、眞一郎の背後にいる人物に定まっていた。
「……ヒロシくん……」と、かすれた声で比呂美が何かを求めるように囁いたあと、部屋全体を
響かせるほどの低い声が眞一郎の背中に襲いかかってきた。
「涼子を泣かしやがって」
 眞一郎は、後ろの人物が誰だか考えるよりも先に、反射的に振り向いた。だが、眞一郎が半分
ほど振り向いてようやくその人物が視界の端に見えてきたところで、左顎に強い衝撃を受け、気
がつけば部屋の天井を見せられていた。
 時が止まっているみたいだった。いや確実に、仰向けにさせられ宙に浮いている眞一郎の体は
重力に従って落ちていっていたが、1秒が10秒になったようにゆっくりだった。この落下スピ
ードなら床に到達するまでに自分を殴った相手を確認できると思った眞一郎は、顎を引いてその
人物を目で捉えた。
 まず、前に突き出した右腕が目に留まった。眞一郎に強烈なパンチを見舞った拳。その拳から
腕を辿っていくと顔がある。仁王のような形相でまだ眞一郎を睨みつけているその顔は、眞一郎
にどことなく似ていたが、眞一郎よりも顔が細かった。大きなメガネもかけている。若かりし日
の父親、ヒロシだった。そうなると、このヒロシが「涼子」と呼んだ比呂美は、比呂美の母親と
いうことか。まだ宙に浮いている眞一郎は体をひねって、床にうずくまっている比呂美にそっく
りな女性を見た。よく見ると、比呂美よりも痩せている感じだ。顔は双子のようにそっくりだっ
たが、頬のあたりが細い。
 そうこうしているうちに、眞一郎の体はまもなく床に衝突する。眞一郎は、後頭部を打たない
ようにもう一度顎を引き、両腕を開いて柔道の受身の姿勢を取った。
 衝撃はすぐ来た。だが、それは衝突したときの衝撃ではなった。
 眞一郎の体が床に到達すると、周囲は一気に真っ暗になって、眞一郎は床よりもさらに下へ引
っ張られていったのだ。落下するというよりも、下へ向かって重力よりも速く加速するといった
感じだった。ものすごいスピードだった。何か目に留まるのだが、どれもが白い光の線にしか見
えない。どこまで、落ちるのだろう。いや、進むのだろう。底知れぬ不安が眞一郎を襲ったが、
眞一郎は、まもなくこの急下降劇が終わるのを感じた。そして、その予感どおりになった。
 こんどは衝突のときのような強い衝撃だった。眞一郎は一瞬息が詰まって気を失いかけたが、
なんとか堪えることができた。やがて、音を感じた。テレビの音声。眞一郎はうっすら目を開け
た。見えた世界が斜めになっている。体を起こすと、正常な水平の世界に戻った。眞一郎は、ゆ
っくり辺りを見回した。比呂美は、いない。比呂美に似た女性もいない。後ろを振り返った。ヒ
ロシもいない。だんだんと眞一郎の頭の中に記憶が蘇っていく。殺風景な部屋。自分の部屋でも
比呂美の部屋でもない。部屋の真ん中に置かれたいかにも古そうなちゃぶ台。そして、その古さ
とは対照的に今風な液晶テレビ。ちゃぶ台の脇に目をやると、大きなスポーツバッグがある。そ
れを見て、眞一郎はすべてがはっきりした。
「夢か……」
 眞一郎の口から大きなため息がこぼれ落ちた。怒りと、追い詰められた気持ちと共に……。
 眞一郎は今、マンションの一室にいた。先週より金沢に来ていて、ここでずっと寝泊りしてい
た。今日で七日目だった。
 もうひとつため息をつくと、眞一郎は立ち上がり、ガラス窓を開けた。すぅーと爽やかな風が
秋の虫の声と共に滑らかに入り込んでくる。状況把握のためにフル回転していた眞一郎の脳が正
常運転にだんだんと戻っていくと、全身の神経からのフィードバックを感じるようになる。左顎
に痛みを覚えた眞一郎は、そこに手を当て、振り返ってちゃぶ台を見つめた。どうやら、ちゃぶ
台の角で顎を強打したらしい。父親に殴られた、左顎――。夢の中でなくても、比呂美を泣かす
ようなことがあったら、ヒロシは間違いなく眞一郎を殴るだろう。父親としての感情とは別の感
情を、おそらく抱きつつ……。
 左顎は、ずきんずきんと疼いてかなり痛かった。そんなに強く打つものだろうかと眞一郎は少
し不思議に思い、夢の中に陥る前の時点のことを思い出してみた。
 テレビを見ていた。今日は金曜日。夜九時から洋画がはじまり、それを頬杖をつきながら、ぼ
ーっと見ていた。ちょうど『ロッキ○』だった。それで、夢の中で親父に強烈な右ストレートを
食らうことになったのか。眞一郎は苦笑した。いつの間にか、そのままの姿勢で眠りに落ち、し
ばらくして頬杖から顎が外れ、支えを失った眞一郎の頭部が落下する。この落下のときが、夢の
中での、あの強烈に下へ引っ張られる落下のときだったのだろうか。そうなると、現実と夢の中
での出来事の順番が食い違うことになるが、そもそも夢というものは時間軸に縛られないのだか
ら、そういう矛盾を考えても仕方がないだろう。大事なのは、夢の中で起こったひとつひとつの
出来事。内容が内容だっただけに、さきほどの妙にリアルな夢のことが眞一郎は気になった。リ
アルだっただけに、その記憶も鮮明だった。現時点でも夢の中の出来事をひとつも忘れてはいな
いはずだ。
 忘れていない? そういえば……。
 眞一郎は、ちゃぶ台の上の携帯電話で時間を確認した。二十一時三十三分。
 眞一郎がこのマンションで寝泊りするようになってから、毎日夜九時ごろに比呂美が電話をか
けてきた。今日まで一日も欠かしたことがない。ここへ出発する日に眞一郎は、自分から電話を
かけるから――と比呂美に約束したが、その日、見事にすっぽかしたもんだから、比呂美は頭に
きてしまって、眞一郎を当てにしないことにしたのだった。
 ただ、眞一郎は比呂美との約束をないがしろにしていたわけではない。確かに、約束どおりに
電話をかけなかったが、眞一郎がここへ来た目的と、ここでの初日に受けた衝撃のことを考える
と、それは致し方ないのかもしれない。
 明後日の日曜日より一週間にわたり、金沢の県立総合体育館で『世界の絵本の見本市』が開催
される。いわゆる、絵本のオリンピックである。その開催準備のボランティアとして眞一郎はお
盆のあとここへ来ていた。全国各地より絵本ファンがボランティアとして集まったが、せいぜい
三日間準備を手伝って帰ってしまう。眞一郎のように一週間手伝える人間は少なかったので、眞
一郎は準スタッフ的な待遇を受けて、宿泊場所としてこのウィークリーマンションの一室を与え
られたのだった。もともと多めに確保していた宿泊用の部屋がかなり余っていたらしかった。食
事についても事務局から弁当が支給された。
 ボランティア作業は、興奮と肉体労働の連続だった。世界の絵本の見本市というだけあって、
とにかく会場作りが大変だった。まず、二つある会場の床にシートを敷き詰める。そのあと、
延々と折りたたみ椅子と机を運び込んだ。ここまで丸三日を要した。盆休みを過ぎて多少涼しく
なったとはいえ日中の気温は夏さながらに上がった。おまけに体育館という建物の中だ。蒸し風
呂状態だった。こんな過酷な労働条件でも、わくわくすることはあった。日本全国を飛び越え各
国から続々と集まった絵本作家たちが設営を手伝いはじめるのだ。そのときに当然、絵本の状態
を確認してから展示の仕方を検討しだす。休憩時間にボランティア・スタッフは彼らと交流する
ことができ、作家みずから絵本の解説を賜るという至極のひとときに、体の疲れを癒され、新た
にやる気をみなぎらせていった。
 しかし、体力の消耗は確実に蓄積されていった。眞一郎は、作業を終えてこのマンションに戻
ると、すぐお風呂に入り、ちゃぶ台に突っ伏して夢うつつの状態で比呂美からの電話を毎日待っ
た。比呂美に心配かけないように電話では明るく努めたが、おそらく隠しきれなかっただろうと、
眞一郎は感じていた。
 きょうは、どうしたんだろう、電話――。
 もうすぐ夜十時だ。比呂美の声を聞かないと眠れないとかそういう寂しさに取りつかれている
わけではないが、約束事にきっちりとしている比呂美の性格からすると、何かあったのだろうか
と心配になる。夢の中で乱暴されていた比呂美の母親の若かりし姿が脳裏をよぎった。
 そういえば、比呂美は買い物に出かけたっきり、あのあとどうなるんだろう。
 夢の中の出来事なので考えてもしようがないのだが、実際に、比呂美は眞一郎と一緒に買い物
することを拒むのだろうか。眞一郎はそのことだけが気になった。
 ほんとうに、比呂美はどうしたんだろう――。
 こちらから電話をかけてみようかと思った眞一郎は携帯電話を取り、アドレス帳で比呂美のペ
ージを開いた。あの竹林で撮った比呂美の笑顔が映し出される。比呂美を仲上家で預かってから、
丸々一週間、眞一郎が比呂美の顔を見なかったことはなかった。もちろん、比呂美のほうも同じ
だ。
 あいつは、どう思ってんだろう。案外、けろっとしているのかもしれない。両親と二度と会え
ないということに比べたら、どうってことないのだから。
 最後にキスしたのは、夏祭りのあとだった。二週間前のこと――。浴衣姿の比呂美が脳裏には
っきりと焼きついている。
 眞一郎の頭の中で、比呂美の存在が急激に膨れ上がってきた。やがて、体のラインが作られて
いく。最初はぼんやりと、そしてだんんだんはっきりと。すでに比呂美の体のすべでを知ってい
るのに、眞一郎の妄想は裸体の状態で止まらず、ちゃんと比呂美に服を着せた。
 眞一郎は、ちゃぶ台の上にあるティッシュペーパーの箱を手元に引き寄せ、二枚だけ中身を引
き出した。そのときだった、玄関のチャイムが鳴ったのは――。夢の中でもそうだったが、眞一
郎はまたしてもびっくりさせられた。まだ夢を見ているのだろうかとさえ思った。眞一郎がここ
で寝泊りしだしてから、この部屋のチャイムの音を聞くのは初めてだったからなおのこと、心臓
が止まりそうだった。
 事務局の人だろうか。眞一郎はテレビの音を消してからゆっくり立ち上がった。明日、眞一郎
は、この部屋を出ることになっている。その確認かもしれない。それだったらまず、携帯電話に
連絡があるはずだと思い、眞一郎はおそるおそるドアに近づいていった。
 ドアのそばまで寄って、とりあえず、「どちらさまですか?」と訊いた。
「あっ、眞一郎くん。比呂美です」
 なんだって!
 ドア越しから聞こえてきた懐かしい声に全身が鳥肌立った。ずっと受話器越しの劣化した比呂
美の声ばかり聞いていたので、ドア一枚挟んでいても比呂美の声の生々しさに眞一郎の胸はくす
ぐられた。さっさとドアを開けてあげればいいものの、眞一郎は、まだ夢のつづきではないかと
少し疑っていたので、防犯窓から比呂美と名乗る女性を確認した。夜なのではっきりとは分から
ないが、シルエットは比呂美に限りなく近かった。
 眞一郎は、急いでドアロックを解除してドアを開けた。ドアという隔たりがふたりの間で取り
払われ、一瞬、あの甘い香りが漂ってきた気がした……。
 眞一郎は、比呂美の全身を見渡して、もう一度、比呂美であることを確認した。赤いスポーツ
バッグとバスケット(籠)を持った比呂美が目を細めて笑っている。後ろの長い髪は、三つ編み
にされていて、体の前で揺れた。
「えへっ、きちゃった……」
 うっすら頬を赤らめ、わざと子供っぽくそう言った比呂美は上目づかいでぺろっと舌を出した。
「……ひ、ろみ……」と、眞一郎がかすかに声を漏らすと、比呂美は、わたしだよ、と大きく頷
いた。

                             はじめての外泊=2 へつづく

――次回予告《 二 忘れちゃった……》
 大はしゃぎの比呂美とは反対に、眞一郎はあることが気になって……。
 理恵子に電話して、比呂美もこの部屋に泊まることになったが、
 バスルームから出てきた比呂美の格好に眞一郎は唖然とする。

ツールボックス

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