はじめての外泊-2


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《 二 忘れちゃった……》

「眞一郎くんのところに行ってはダメですか?」
 比呂美が理恵子にそう訴えたのは、昨日の夕飯前のことだった――。
 帳簿を付け終わって、台所に入るなり比呂美はいきなり切り出した。何度も何度も葛藤し、よ
うやくそれらを打ち破った末に決意したらしく、比呂美のその真剣な眼差しに理恵子はたじろい
たが、驚きはしなかった。そのときの理恵子の感想は、やっぱり、我慢できなかったのね――だ
った。それもそのはず、眞一郎が金沢に発ってから、比呂美が妙に考え込むようになっていたか
らだ。帳場でパソコンのキーボードを打つ手が止まったまま、15分間くらいじっとしていると
ころを何度も理恵子は目撃していた。
 ただ、眞一郎と離れ離れになって寂しさを募らせているという感じではなかった。むしろ、作
戦を練っているような感じ……。理恵子は最初、インターハイ予選後に比呂美がキャプテンに就
任した女子バスケット部のことでも考えているのだろうと思っていたが、日を追うごとに、比呂
美の黙考の中身が理恵子にもだんだん分かってきた。だから、理恵子が比呂美に対して思った
『我慢できなかったのね』の意味は、眞一郎に会えない寂しさのことではなく、それとは別のこ
とだった。
「ちょ、ちょっと、待って……」
 比呂美の先制攻撃に、理恵子は慌てて『待った』をかけた。比呂美は理恵子のその様子に少し
驚く。滅多に慌てない人なのだ、理恵子という人は。ガス台には何も煮炊きしているものがない
のに、どうして理恵子はすぐ話しに応じてくれないのだろうと比呂美は歯痒く思ったが、理恵子
が一瞬ちらっと居間の方に目をやったことで、その意味を悟った。となりの居間にはヒロシがい
るのだ。比呂美の方はそれでもかまわなかったが、理恵子の方はそういうわけにはいかなかった。
 理恵子は布巾で手を拭くと、比呂美の肩に手をやり、比呂美を回り右させ、「あなたの部屋
で」といって軽く背中を押した。比呂美は納得して廊下へみずから進んだ。
 比呂美の部屋には、先に比呂美が入り、そのあと理恵子がつづいた。比呂美は、理恵子に勉強
机の椅子に座ってもらうように手で案内したが、理恵子は応じず、「こっちに座りなさい」とい
って畳の上に正座した。比呂美も理恵子と向き合って正座した。そして、理恵子が最初に口を開
いた。
「こうして面と向かって話すのは……あの時以来ね……」
『あの時』というのは、『比呂美の父親はヒロシかもしれない』という嘘を理恵子が謝罪した日
のこと。理恵子が第一声でこう切り出したことには、もちろん意味がある。このことで比呂美は、
自分がすっと抱いてきた感情を理恵子がもうすでに察しているのだと感じた。そうでなければ、
わざわざ『あの時』のことを蒸し返すようなことは言わないはずだと。比呂美は、もう一度覚悟
して理恵子に求めた。さきほどよりも強い口調で……。
「わたしも、金沢に行きたいです。行かせてください」
 理恵子は微動だにせず、比呂美の目を見つめた。まるで心を読むように、じっと……。だが、
その状態はそれほど長く続かなかった。理恵子は、軽くふっと息を吐くと、諦めたように顔の硬
直を解いた。
「それで、わたしに宿を手配してほしいって言いたいの?」
「……はい。……わがまま言ってごめんなさい……」と、比呂美は申し訳なさそうに俯いた。
「それは、いいけど……」
 さっきの威勢はどこいったのよ、と理恵子は斜め上の何もない宙を見つめて苦笑いした。同時
に、「あなたの考えていることはお見通しよ」という無言のメッセージが比呂美に届いているこ
とを確認した。このあと、理恵子は比呂美に対して一切容赦はしなかった。それは、比呂美の気
持ちを理解している証拠だともいえる。なぜ、比呂美がいきなり困った要求をしてきたのか。そ
れは、もちろん眞一郎と一緒にいたいということもあるのだが、理恵子の比呂美への『ある態
度』に対する反抗でもあった。それを理恵子はくみ取っていたのだった。
 比呂美は、顔を上げ、理恵子の返答を待った。
「宿を探したって、あなた……」理恵子はいったん間を置いて――さらに続けた。
「どうせ、抜け出して眞一郎のところに行くんでしょう?」
「い……いえ……」と、反射的に視線を斜め下に落とし、再び俯く比呂美。
 理恵子の顔をまともに見ることの出来ない比呂美は、そう答えるのがやっとだった。しかしこ
れでは、言葉では否定していても、全身で「あなたの言うとおりです」と答えているようなもの
だった。比呂美もすぐに、「まずい」と思い、取り繕う言葉を必死に探したが見つけられない。
その心を映し出したように目が泳ぐ。いつの間にか、星に願いでもするように指を交互に絡めて
組んでいた両手を、慌ててほどくという有り様だった。事前にこのときのことをしっかりとシミ
ュレーションしてきたとはいえ、現実は空想とはかけ離れて違うのだと知ることになる。この部
屋に入ってから大して言葉を交わしていないのに、比呂美はすでに理恵子の迫力に押されていた。
 だが、理恵子は比呂美にかまわず話を進めていく。意外な方向へ。
「お金がもったいないわ。眞一郎のところに泊まればいいじゃない」
「へっ?」
 今この人は何て言ったんだろう? 比呂美は自分の耳を疑った。記憶をほんのちょっとだけ遡
ってみる。眞一郎のところに泊まればいいじゃない――確かにそう言った。でも、もう一度訊き
直した方がいいだろうと思っていると、理恵子は、その必要はないわよ、と言うように繰り返し
てくれた。
「個室をひとりで使ってるんだから問題ないわよ。眞ちゃんのところに泊めてもらいなさい」
「いえ……。あの、それは……」
「それは、なんなの? あなた、いやなの?」
「い、いえ、そのぉ~」
 まさか理恵子の方からこんな提案してくるとは思わず、比呂美は混乱したが、このことで、自
分の中でずっと抱えていた気持ちに理恵子が気づいてくれたのだと確信できた。
「もう。はっきりしなさい」
 とがめるような口調でも、理恵子の顔は優しく微笑んでいる。
「許していただけるのなら、わたしは、それで……かまいません」
 比呂美は頑張って理恵子の顔を見つめ返したが、比呂美のその言葉を聞くなり理恵子はまた真
顔に戻って、比呂美の気持ちに冷水を差した。
「ひとつ、条件が、あるわ……」
「え……」
 これは意外だった。比呂美は、理恵子のこの言葉をすぐには信じられなかった。理恵子が交換
条件を持ち出すようなことを言うなんて――。でもすぐに、現実的に物事を考えることが出来た。
案外、大人同士のやり取りでは当たり前なのかもしれないと。とういうことは、このあと理恵子
は強烈なことを言ってくるということなのか。そう思わずにいられなかった。おそらく、『あの
時』の嘘のことよりも強烈なことを……。
 比呂美は顔を引き締め、理恵子に、どうぞ言ってください、と合図を送った。それを受け取っ
た理恵子はいったん目を閉じ、再びゆっくり開いてから口を開いた。
「ひとつ、わたしの質問に正直に答えてくれたら、許してあげる」
 臨むところだ、と比呂美は思い、静かにはっきりと「はい」と答えた。
 このとき理恵子の方は涼しい顔をしていたが、比呂美の方は、背中に冷や汗をびっしょりかい
ていた。バスケットの試合でもこれほどの緊張は滅多に感じない。だが、両親の死という絶望を
味わった比呂美にとって完全に冷静さを失うほどのことではなかった。比呂美は、この部屋に入
ってからの理恵子の言葉を思い返した。そのことから推測されることは……あのことしかない。
「眞一郎とは、もう、したのね?」
 理恵子は静かにそう言った。問いかけるというよりも、事実を確認するように――。
 この瞬間、比呂美は、何か呪縛のようなものが解かれるのを感じた。そう感じたということは、
理恵子の意思がはっきりと比呂美に伝わったということなのかもしれない。
 もう、『あの嘘』の罪滅ぼしのために眞一郎との仲を応援しているわけではないのだと……。
 比呂美は、視線を理恵子の瞳に固定したまま、小さく縦に首を振った――。

                   ◇

 比呂美の澄んだ瞳が「どうしたの?」と問いかけるようにまばたく。
 大切な人がそばにきていても、その実感がすぐに感じられないことは、こういう状況において
よくあること。ずっと遠くの場所に居ると思い込んでいたのだからしかたがないが、あまりにも
嬉しすぎる状況に、浮かれるな、と理性がブレーキをかけているせいもあるのかもしれない。こ
の実感を確かなものにするには、時間と、ふたりのどちらかの努力が必要だ。ドアを手で支えた
まま呆然としている眞一郎に、比呂美は顔を近づけ口づけした。とびっきり優しく唇に触れよう
としたが、両手に持った荷物の重さで体のバランスをうまく保てず、結局眞一郎に片方の肩を支
えながらの短いキスだった。
「あがっても、いい?」
「あ、うん……」
 比呂美の催促の言葉でとりあえず眞一郎は現実に引き戻され、ドアをさらに押し広げながら体
を壁に寄せて比呂美を招き入れるスペースを作った。そこへ滑り込んだ比呂美は素早く靴を脱ぐ
と、まるで我が家に帰ってきたようにすたすたと奥へ進んでいった。初めての場所で警戒する感
じも男の部屋を訪問したときの恥じらいもない。そんな比呂美の後姿を目で追いながら眞一郎は
ドアをロックした。
 比呂美の足取りはいつも軽快だ。乃絵の無邪気さとは違って躍動感がある。その歩くときの振
動は、長い髪や身に着けている衣服にしっかり伝わり、体の柔軟さと運動神経の良さを自然とア
ピールした。一緒にあそぼ、と今にも話しかけてきそうに三つ編みが揺れるのは比呂美ならでは
だろう。他の女の子ではこんな揺れ方はしない。
 比呂美は、モデルルームを視察するときのようにあちこちと目を配らせながら歩んだ。明らか
に築20年以上経っていて真新しいものが何一つないというのに、まるで新築の家に上がりこん
だときのようだ。あっという間に台所を通り抜け、液晶テレビのある洋室に入ったところで、比
呂美は感心したように声を上げた。
「へ~。もっと狭いところだと思った」といって、比呂美は右側から眞一郎へ振り返ろうとした
が、その途中、90度向いたところで和室への二枚の木戸が目に留まり、「こっちも部屋?」と
さらに驚きの声を上げ、両手の荷物をとりあえずその場に置いてから、その戸を開けた。その直
後、比呂美からさっきまでの心が弾んだ感じがふっと消えた。
――――――――――――――――
     部屋の間取
  ┏━┳━━━┳━━━┓
玄関┃ ┃ 台所  洋室┃
  ┣━┻┳━━╋━━━┫
  ┃WC┃風呂┃ 和室┃
  ┗━━┻━━┻━━━┛
――――――――――――――――
 消えたといってもほんの一瞬の間だけだったけれど、何一つない和室の真ん中に敷かれた布団
に目を奪われたのだ。白くて薄っぺらな敷布団、その上に折りたたまれたタオルケットと枕。
(わたしたち……これから、ここで、するんだ……)
 比呂美は喉の奥が乾くのを感じ、静かに生唾を飲み込んだ。
「わたしの部屋も、もうひとつ部屋あったらな~。ま、贅沢は言えないか……」
 心の内を眞一郎に知られないように比呂美はぼやいてみせた。その必要があるのかどうかは別
にして、あからさまにセックスのことに触れるのを眞一郎がいつも快く思わなかったからだ。そ
れに、比呂美はすでに眞一郎の様子が普段とは少し違うなと感じ取っていた。だから、無邪気に
振舞いつつも、少し緊張していた。眞一郎が洋室に戻ってきたところで比呂美はいったん眞一郎
の顔に目をやり、自分の荷物を和室の入ったところに移動してから、窓のそばまで寄って外の夜
景を眺めた。そのとき眞一郎は、ちゃぶ台の手前で比呂美を観察するようにじっと見ていた。
「高台になってるから、見晴らしもいいね」
 この窓から繁華街の灯りが一望できた。耳をすませば、街のノイズも聞こえてきそうだったが、
ここでは虫たちの合唱の方がはるかに優勢だった。
 比呂美が目を閉じて光から音の方へ意識を集中していると、眞一郎が「おまえ……」と戸惑っ
たように声をかけた。家出少女が突然兄のところに転がり込んできて、その兄貴が心配そうに迷
惑そうに事情を説明しろと切りだすときのような感じだった。そうそう、眞一郎くんは、そう簡
単に有頂天になるような男子ではないのだ、と比呂美はあらためて思い、眞一郎の顔から怪訝そ
うな表情を取っ払おうと、振り返ってから頬の膨らみをを左右に思いきり張り出してニコッと笑
った。
「ごめんね。電話、待ってたんでしょう? 心配した?」
「……心配するよ……」と口を最小限に動かしてぼそっと返した。
「わたしのほうから約束したのにね。わたしもすっぽかしちゃった。九時ちょうどに来ようと思
ったんだけど、ちょっと迷っちゃって。それで」
「電車で来たのか?」眞一郎は比呂美の言葉を最後まで聞かずに尋ねた。
「うん」
「駅からここまで歩いてきたのか?」
「うん」と比呂美が答えると、眞一郎は目を閉じ、眉間に皺を寄せて辛そうな表情をした。しば
らくの間、眞一郎はすぐに目を開かずにその状態でいた。その様子を見て比呂美は、眞一郎が
「心配するよ」と言ったのは単に電話がかかってこなかったことだけではないと悟った。前もっ
て連絡なしにいきなり訪ねてくれば、嬉しさよりもまずびっくりする方が普通だろう。おまけに
こんな時間だ。眞一郎がなかなか目を開けてくれないので、比呂美は少し困惑した。とにかくも
う一度ちゃんと謝らなくてはと思い、「ごめんなさい」と眞一郎にはっきりと伝えた。それでよ
うやく眞一郎は目を開けて顔の硬直を少し解いた。比呂美は内心ほっとしたが、まだ眞一郎の心
の内を正確に把握できていなかったため、このあと、思わず軽はずみな行動を取ってしまった、
もちろん、比呂美はふざけるつもりはなく、この年頃の女の子としてはごく当たり前の欲求とい
ってもおかしくないのだが、今の眞一郎にはそれが通じなかったのだ。
「ねぇ、眞一郎くん。ちゃんとキスしてくれる? さっき、あまりうまくできなかったから気に
なっちゃって……」
 比呂美は眞一郎のそばまで、ほんの50センチメートルくらいのところまで近づき、目を閉じ、
両手を後ろで組んで軽くあごをつき出した。これで眞一郎の気持ちが鎮まってくれることを願っ
て。それを信じて。
 だが、それは、部屋に響いた乾いた音と共に見事に打ち砕かれた。左頬の痛みを伴って。
 眞一郎は軽く叩いたつもりだったが、掌と比呂美の頬が思いのほかきれいに合わさって見事な
音を響かせたので、比呂美と同様に眞一郎自身もびっくりしてしまった。その平手は、単なる悪
ふざけでは? と比呂美が思うほどの弱いものだったが、「なんで、電話しなかったんだよ」と
そのあと眞一郎が呟いたことで、眞一郎の心配度を推し量ることができた。
「なんで、駅から電話しなかったんだよ。迎えにいったのに……」
 やはり、そうだ。夜道歩いて、ここまでひとりでやって来たことに対して眞一郎は怒っていた
のだった。駅からこの建物まで約3キロメートルはある。駅周辺の繁華街をはじめ、人通りの少
ないこの建物の周辺も、女性にとって危険エリアだ。取り返しのつかないことになり兼ねない。
 比呂美は、何も言葉を返すことが出来なかった。「あなたを驚かせたかったの」などとかわい
いことを言っても、眞一郎は間違いなく顔をさらに険しくするだろう。
「もし何かあったとき、父さんや母さんや、おれが……どんな思いをするのか考えないのか!」
 比呂美は俯いたまま、眞一郎の怒りの声を全身で受け止めた。辛さを感じた。自分を恥ずかし
く思った。でも、こんな状況で不謹慎だとは思うけれど、ほんの少しだけ嬉しさを感じた。自分
のことを真剣に叱ってくれる人がそばにいる。恋愛感情に流されずに本人のためを思って行動し
てくれる恋人がいる。比呂美は、今の眞一郎を頼もしく思った。そして、金沢へ発つ前より何か
一回り大きくなったように感じた。痛いというほどではなかったが、比呂美は左頬に手を当てた。
熱かった。腫れているということではなく、恥ずかしさで顔全体が熱かった――。だから、顔を
上げて眞一郎のことをまだ見れなかった。その代わりに、だんだんと焦りが出てくる。せっかく
ここまで来たのに、喧嘩したままだったらどうしようと。17歳の夏の思い出にしようと思った
のに、みずから墓穴を掘ってしまうなんて。情けなかった。なんか泣きわめきたい気持ちになっ
てきた。そんな風に比呂美が自己嫌悪に陥っているときだった、何かに包み込まれたような感触
を感じたのは――。
 背中に回された二本の腕。Tシャツ越しに伝わってくる肌の温もり。懐かしいにおい――。
「ごめん」と耳元で聞こえたので、比呂美は反射的に「うん」と返した。その「ごめん」の意味
を確かめもせずに――。今は何も言わない方が、この温もりを、優しさをしばらくの間感じつづ
けられると思ったからだ。叱られたばかりなのにすぐに優しくするなんて卑怯よと、思わなくも
なかったが、とにかく眞一郎に対して申し訳なさでいっぱいだった。比呂美は左頬から手を下ろ
して、眞一郎の腰に手を回した。「ごめんなさい」と「ありがとう」の意味を込めて、その手を
眞一郎の背中に滑らせていき、自分も眞一郎を抱き返そうとしたとき、眞一郎の異変に気づいた。
 それは、「ぐすっ」と洟をすする小さな音だったが、眞一郎の顔がそばにあるのでとてもはっ
きりと聞こえ、眞一郎が泣いていると断定することができた。比呂美は眞一郎から身を離して顔
を覗き込むと、眞一郎は歯を食いしばり、口元を細かく震わせながらぽろぽろと涙をこぼしてい
た。その表情を見て、比呂美はいたたまれない気持ちになった。こんなにも眞一郎を心配させて
しまったのかと――。でも、顔を比呂美から背けて声を上げないように我慢しながら泣いている
眞一郎を見ていると、何か違和感のようなものを比呂美は感じた。眞一郎の感情に一貫性がない
というか、あまりにも唐突というか……。比呂美が眞一郎の泣き顔を滅多に見たことがなかった
とういうこともあるかもしれないが、逆に眞一郎の方に非があるように辛そうにしているのはな
ぜだろう、と比呂美は思った。
「なにか、こっちであったの?」と、眞一郎が少し落ち着いてから比呂美は尋ねた。
「……いや、なんでもないよ」
 眞一郎はそう言いながら手の甲で涙を拭って、ちゃぶ台の前に腰を下ろした。それから眞一郎
は大きく呼吸をして高ぶった気持ちを落ち着かせようとしていたが、どう見ても何か辛いことが
あったようにしか比呂美には見えなかった。
「ちゃんと話して」
 比呂美も眞一郎のとなりに座り、眞一郎の腕をゆすって話を求めた。
「い、いや、ほんとになんでもないんだ」
 眞一郎は、こんどは逆に比呂美を必要以上に心配させていると思い、必死に笑顔を作って全身
で否定をした。それでも比呂美は、いたずらをした子供を叱るような目で眞一郎をじっと睨んだ。
いきなり泣きだしたのだから無理もない。眞一郎は、とりあえず心の中の状況を正直に話した。
「な、なんかさ。急に、わーっとなっちゃって、はは……」眞一郎は照れくさそうに笑い、鼻水
をずーっとすすり上げた。
「バイク事故のこと、思い出したの?」
「ま…………まぁ~、それもあるかもしれないけど……急に比呂美が現れたもんだから、びっく
りしたというか、驚いたというか……。ほんとに、なんでもないんだ。大丈夫」
「でも、眞一郎くんが急に泣きだすところ初めて見たような気がする」
「そ、そうか? それより、おまえ方こそどうしたんだよ。こんな時間にやって来て」
 眞一郎のしゃべり方がいつもの調子に戻ってきたようなので、比呂美は内心ほっとし、座りな
おしてから体の前にきていた三つ編みを後ろにはらった。
「え、えっと~、ちゃんとおばさんたちに話してきたよ」
「おれ、あした帰るんだぜ」
「うん、知ってる」
「泊まるところは?」
「え、えっとね」
「それよりも……」と言いながら眞一郎はちゃぶ台の上の携帯電話をつかんで筺体(きょうた
い)を開いた。
「ほんとに、ちゃんと話してきたってば」
「うん、分かってるよ」
 眞一郎は携帯電話を操作するのをいったん止め、比呂美の顔を見てから「それでも、こっちに
無事着いたことを連絡しとかなくちゃ」と諭すように言って、また携帯電話に目を戻した。
「……うん」と比呂美は返事したものの、昨日、理恵子とひと悶着あったもんだから、電話で話
すのが正直恥ずかしかった。でも、この際仕方がなかった。確かに眞一郎の言うとおりなのだか
ら。
 眞一郎は、家の番号を発信してから15秒くらいじっと待っていた。「あれ? いないのかな
~?」と呟いた直後、電話がつながった。
『――はぁーい、仲上でぇーす』
 いきなりキャバクラ嬢(もちろん眞一郎はキャバクラ嬢なんか知らない)のような声が耳に飛
び込んできたので、眞一郎は「だれ?」と思わず訊き返して顔をしかめた。
(誰だ、この女)
 愛子には失礼な話だが、愛子が電話に出たのかと眞一郎は思った。声の明るさ、テンションが
眞一郎の記憶の中ですぐに愛子と結びついたからだ。それで、電話をかけ間違いたのだと思い込
み、電話の相手を確認しようと、愛ちゃん? と声に出しかけたところで眞一郎はふと気づく。
仲上です、と名乗ったことを――それで、かけ間違いではないと。冷静になってみると、今電話
の向こうにいる女性の声は、明らかに愛子よりももっと年上という感じがする。意表をつかれて
眞一郎は混乱してしまったが、やはりあの人しか考えられないという結論にたどりつく。
『――眞ちゃんなの?』
 それにしても、まるで恋人でも確かめるような甘い口調に眞一郎は頭を抱えたくなり、「かあ
さんなのかよ……」と不満をぶちまけるみたいにぼやいた。
『――あら、一週間、顔合わせないだけで母親の声が判らなくなったの? この子はっ』
 眞一郎は比呂美を見て、眩しいものを見るように目を細めて携帯電話を握りなおした。どうし
たの? と比呂美は目だけで返したが、眞一郎はそれに対して何も答えず電話に集中した。
「酔ってるのかよ」――眞一郎のこの言葉が、比呂美への説明となった。理恵子が他人に酔っ払
っていることを指摘されるなんて珍しいと比呂美は首を傾げたが、眞一郎がどうにもこうにも困
った顔をしているので、苦笑いせずにいられなかった。
『――酔ってるわよ。さっきね、おとうさんとワイン飲んじゃったの。うふふふ……』
(なにっのん気にワインなんかっ飲んでるんだよっ!)
 ごきげんな理恵子の声が今の眞一郎には癇に障り、眞一郎のこめかみをぴくぴくさせた。
『――ところで、比呂美は着いたかしら?』いくらかまともな口調に戻って理恵子が訊ねてきた。
「あ、うん。さっき着いたよ」
『――そ。よかった』と理恵子は大して関心なさそうに言ったが、途端に明るくなって『眞ちゃ
ん、あとはよろしくぅ』とカラオケで次の人にマイクを渡すみたいにおどけた。
「はぁぁぁー?? よろしくって、どうすんだよッ?」と眞一郎は理恵子の悪ノリに対して怒鳴
らずにはいられなかった。すると、理恵子の方もすごいけんまくでやり返してきた。
『――あなた! まさか! 比呂美を追い返すつもりじゃないでしょうね? いくらなんでも、
それは比呂美がかわいそうよ。眞ちゃんはそんな冷たい人間じゃないわよね? 今晩、そこに泊
めてあげてちょうだい!』
「かあさん! 本気で言ってんのかよッ!」
 すかさず大声で眞一郎が返すと、比呂美は慌てて立ち上がり、眞一郎が携帯電話を持っている
腕のそばに座り、携帯電話に耳を近づけた。眞一郎は一瞬身を反らしたが、比呂美が理恵子の言
うことを聴きたがるのも当然だろうと思い、携帯電話から漏れる音声を比呂美に聴き取りやすく
するために、携帯電話を耳から少し離して頭を比呂美に寄せた。
『――当たり前じゃない。この時間に比呂美をひとり放り出せるわけないでしょう。眞ちゃんの
そばにいるのが一番安全じゃない。その方が、かあさんも心配しなくてすむわ』
「そりや、そうだけど……」と尻すぼみ気味に眞一郎はいうと、「もうひとつ心配なことがある
だろう」とごにょごにょっと呟いた。この後半のセリフが理恵子に聞こえたかどうか分からない
が、そばにいる比呂美には聞こえたので、比呂美はいったん目を真ん丸くしてから、あれあれ
~? と意地悪する風に眞一郎の顔を覗き込んだ。眞一郎は、んんっ、とひとつ咳払いをして電
話に集中しなおすと、『――いまさら何言ってんだか……』とぼそっと吐き捨てるような声が耳
に入ってきた。
 理恵子が発したこの言葉の本当の意味を、眞一郎が理解できるわけなかった。比呂美が理恵子
に眞一郎とのエッチのことを白状したことをまだ知らないのだから。理恵子としては、当然、眞
一郎がこの言葉の意味を分かるわけないとふんで、個人的にスリリングを楽しむために、『比呂
美の処女を奪っておいて何言ってんだか』という意味であえて言ったのだが、眞一郎としては、
『比呂美とは一年以上も同じ屋根の下で暮らしておいて……』という意味で捉えてしまう。ただ、
この言葉が比呂美に聞こえてたらどうなっていたか、というところまで理恵子の考えは及ばず、
幸いにもといったらいいのか、比呂美の耳にはこの言葉は入らなかった。
「と、とうさんは、何か言ってた?」とおそるおそる切り出した眞一郎に、ほらきた、と理恵子
は思う。
『――あら、気になる? 知りたい?』
「そりゃ……、そうだろう。……あんなこと、あったんだし……」
『――そうね……』
 眞一郎が途端に真剣な表情になったので、比呂美はさらに携帯電話に顔を近づけ、横目で眞一
郎の表情の変化に注意を払う。比呂美の視線を感じながら眞一郎は理恵子の言葉を待つ。
『――比呂美を泣かしたら、ぶっとばすって言ってたわよ。おとうさんと電話、替わる?』
 理恵子の最後の言葉に、眞一郎と比呂美はごくりと生唾を飲み込んだ。ほぼ同時に。ふたりに
とって、眞一郎の父・ヒロシは『威厳』のそのもの。実の息子の眞一郎はそれを意識的に感じて
しかるべきなのだが、比呂美も同じように感じているのは、比呂美が小さいころからヒロシに対
する眞一郎の態度を見てきたせいがあるのかもしれない。それに、比呂美にとっては今は経済的
な柱なのだ――だから、この人の言うことはちゃんと聞かなければいけないと誓っている――比
呂美の両親の名誉のためにも。ただ、ヒロシは見かけの雰囲気とは違ってそれほど厳しい父親で
はない。どちらかといえば、優しい親・甘い親の部類に入るだろう。そんなヒロシが、一度だけ
眞一郎を半ば感情的になって殴りつけたことがあった。理恵子と比呂美の目の前で――。そのこ
とがずっと、眞一郎と比呂美の頭の中に残り続けている。
 そのときのことを思い出した眞一郎は、携帯電話を持ったまま固まってしまった。その硬直の
様子が、どうやら理恵子にまで届いたらしく、容赦なしに大笑いした。
『――あははははっ、バカね~。冗談よ』
「へっ?」と眞一郎は素っ頓狂な声を上げ、比呂美も理恵子の冗談にずっこけて眞一郎にどんと
頭をぶつけてしまった。それで眞一郎は携帯電話を落としてしまい、比呂美と同時に慌てて拾う。
『おとうさんは特に何も言ってないわよ。安心しなさい』
 眞一郎の動揺ぶりに少しかわいそうに思った理恵子は、同情交じりに優しくそう伝えた。
「そ、そうなんだ……」と大きく胸を撫で下ろす眞一郎。その横で比呂美は、砂浜に打ち上げら
れたクラゲみたいにちゃぶ台に突っ伏している。
『――でもね、眞ちゃん』
 眞一郎を甘やかすばかりではいけない。理恵子の声が、水晶のように冷ややかで透きとおった
声に変わる。電話越しでもそういう印象がほとんど劣化なしに伝わってきたので、眞一郎は心の
中で静かに固唾をのんだ。
『――おとうさんが、あのとき、なぜ殴ったのか……。その意味を考えなきゃダメよ』
(殴った、意味……)
『自分なりに答えを見つけなきゃダメよ』
(自分なりに……)
 眞一郎は、理恵子の言葉を頭の中で反復した。眞一郎だって、比呂美と付き合うと打ち明けた
あとに父・ヒロシから殴られたことをずっと考えてきた。ヒロシの行動を比呂美との交際を認め
ないという意思表示だと当然理解したが、それ以降、ヒロシがそのことについて一言も触れない
のと、眞一郎と比呂美がお互いに真剣な気持ちで付き合うと確認し合っていることで、なんとな
く今までずるずると『父の拳』の意味を深く考えずに来てしまった。もちろん、比呂美との交際
をつづけたまま。
 眞一郎は、ちゃぶ台に突っ伏したまま顔を横に向けて自分を見ている比呂美を見た。比呂美は、
眞一郎が理恵子に何か言われたんだと感じ、少し目を細めた。
『――かあさんは、もちろんその意味が分かってるし、たぶん、比呂美も分かってると思うわ』
「比呂美も?」と比呂美を見たまま眞一郎は訊き返した。自分の名前を聞いて比呂美は体を起こ
し、また眞一郎の腕のそばまで近寄った。
                             はじめての外泊-3 へつづく

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