3メン&ベイビー 


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「それじゃあ、理香ちゃんの事、よろしくお願いしますね」
 和服に身を包んだ理恵子が言った。
「ああ、わかった」
 ひろしが短く返事をする。
「本当に頼んでしまっていいんですか?妹に来てもらってもいいんですけど」
 尚も心配そうな理恵子に、ひろしは自信ありげに請合った。
「心配するな。お前が風邪を引いた時、誰が眞一郎を見ていたと思っているんだ?」
「お義母様ですよね」
「…………」
 即答され顔をしかめるひろしを見て、理恵子が口元に手を当てて笑う。
「冗談ですよ、頼りにしています。それでは行って参ります」
 そう言い残して理恵子は待たせてあったタクシーに乗って行った。
「……さて、と」
 ひろしは居間に戻り、愛しい孫娘の様子を見た。
 理香は静かな寝息を立てて眠っている。
 理恵子は高校時代の友人の娘の結婚式に出席するために出かけたのであった。比呂美は
産後の母親のためのエアロビ教室のレッスン日ということで午前の部に通っている。比呂
美本人はそのような場所に興味もなければ行く気もなかったのだが、理恵子がいつの間に
か入会手続きを済ませ、問答無用で放り込んでしまった。
 比呂美は一度流産をしかけた事から妊娠中はほとんど安静にしており、産後に身体を動
かす事はスタイル以前に衰えた体力を回復させる意味でも有効で、今では比呂美も来春の
大学復帰までに完全に結婚前のコンディションに戻す事を目標にしている。
 ちなみに、レッスン風景は眞一郎もひろしも一度も見ていない。
 理香の寝顔を見て安心したひろしは、新聞を広げようとして、上を見上げた。
「しかし、あいつはまだ寝ているのか。今日は母さんも比呂美もいないのは知っているだ
ろうに」
 あいつ、とは勿論眞一郎の事である。十九歳、大学一年にして父親となった不肖の息子
は、出版社から依頼された仕事の締め切りで大分遅くまで起きていたらしく、この時間に
なっても起きてこなかった。
「夜遅くまでやってても昼近くまで寝てたら同じじゃないのか」
 ひろしはそう思ったが、大学に通いながら締め切りのある仕事をしている以上、日曜の
朝くらいはゆっくり寝かしておいてあげたい気もする。
「ま、よかろう」
 理香が起きないよう、あまり大きな音は立てたくない。ひろしは居間でのんびりと新聞
を読んでいた。
 無意識に手がテーブルに伸び、何もない空間を掴んで、ひろしはお茶もないことに気付
いた。苦笑して新聞を脇に置くと、台所に行ってやかんに水を入れ、湯を沸かし始める。
 ひろしは普段あまり立ち入らない台所を見回した。
 食器の数などはそれほど増えていない。比呂美を引き取って育てると決めた時にある程
度の食器は入れ替え、買い足したので、基本的にはそのままだ。明らかに最近増えたもの
と言えば、哺乳瓶と消毒器具だろうか。理恵子は眞一郎の時にも哺乳瓶の消毒で随分神経
質になっていた記憶がある。
 ひろしはその消毒液のボトルを手に取り、説明を読んだ。要は哺乳瓶を使ったらよく洗
ってこの薬の中に漬けておけばいいらしい。ボトルの傍らにある水色の水槽のようなもの
のふたを開けると、中には哺乳瓶が沈んでいた。
 ひろしは顔を近づけてみた。かすかに薬臭い臭いがするが、それほど気になるものでも
ない。説明書には「すすがずそのままご使用になれます」とあるが、赤ん坊にはこの程度
の匂いはどうということはないのだろうか?
 そんな事をしているうちにお湯が沸いたので、ひろしは哺乳瓶の観察をやめてお茶を淹
れ始めた。理香の口に入れるものに比べ、なんとも雑な衛生管理に見える茶箪笥から湯呑
と急須を取り出し、葉を入れて湯を注ぐ。
 丁度その時になって、二階から眞一郎が降りてきた。
「ふわーあ。おはよう。お袋は?」
「もう出た。比呂美もエアロビ行ってる」
「そっか。理香は居間?」
「起こすなよ。あやし方がわからん」
「大丈夫だよ、そう簡単に起きやしな……ぅわ!?」
 眞一郎の声が裏返った。半分寝ぼけた頭で理香に近づこうとして、床に置かれた新聞を
踏んで足を滑らせたのだ。
 派手な音を立てて尻餅をつく眞一郎。更に悪い事に、その音で理香が目を覚ましてしま
った。
「…………ふぎゃああああああああああああああああ」
 驚いて火の点いたように泣き出す理香。彼女の父親と、その父親はお互いが助けを求め
るように互いを見た。
「うわっしまった」
「……だから起こすなと言ったろう……」
「ごめんな理香。びっくりしちゃった?」
 できるだけ優しく言いながら娘を抱き上げる。まだ首が完全に座っていないが、風呂に
入れるのは眞一郎の仕事なので抱き方は慣れている。
 しかし、あやし方についてはそれほど慣れていない。あまり夜泣きもせず、基本的には
手のかからない子である。
「は~い理香ちゃん、パパですよ~。もう大丈夫ですからね~。いないいないバー」
 眞一郎は様々な顔芸で笑わせようとするが、愛娘は一向に泣き止む様子はない。
「オムツかミルクじゃないのか?」
 ひろしが遠巻きに見ながら眞一郎にアドバイスする。眞一郎は恐る恐る理香の足の間を
触り、首を振った。
「オムツじゃないなあ。じゃあミルクか。親父、作ってもらえる?」
「……俺がか?いや、しかし――」
「俺はこのまま理香あやしてるから、手離せねえよ。親父だって俺の時に作ったことくら
いあるだろ?」
「それは、まあ。しかし、もう十何年も前の話だぞ」
「じゃあ、親父が理香抱いててくれよ、俺が作るから」
 理香を抱えたまま眞一郎がひろしに近寄ると、ひろしも恐々と眞一郎から孫を受け取り、
大事に抱きかかえた。
 ひろしは眞一郎よりも大柄で、赤ん坊を抱きかかえた時の安定感も眞一郎より高いはず
なのだが、腰が引けているのが伝わるのか、理香は更に激しく泣き始めた。
「何やってんだよ、親父」
「いや、何もやってないんだが……」
「ごめんね、理香。やっぱりパパがいいよね~」
 そう言いながら眞一郎が理香を受け取り、ゆっくりと揺らす。声は少し落ち着いたが、
すぐにまたむずがる。
「やっぱり俺が抱いてた方がいいみたいだ」
「む。そうか、なら、俺がミルクを作るしかないか」
 そう言うとひろしは台所に戻った。とりあえず哺乳瓶を取り出そうと水色の水槽のふた
を開け、手を入れようと腕まくりをした。
「親父、哺乳瓶はそこに挟むのがあるよ」
「ん?」
 ひろしが水槽の周りを探すと小さなトングがあった。ひろしはそれを使って哺乳瓶を取
り出し、振って水気を切った。
「おい、眞一郎」
「ん?何?」
「粉ミルクはどこにある?」
「え?」
 眞一郎は台所を覗いた。見える範囲には粉ミルクの容器らしきものは見つからない。
「……そこの戸棚かな?」
 眞一郎が目線で指した戸棚を開けたが、調味料が入っているだけで粉ミルクはない。
 ひろしはなんとなく中身を取り出した。昆布茶だった。
「理香はまだ飲まないぞ」
「わかってる」
 ひろしは元に戻した。
「ここじゃないとすると、一体どこだ……?」
 うろうろと台所を歩き回るひろし。母さんも母さんだ。なんでオムツとミルクくらい見
える場所に置いていかないんだ。
 そこに、杜氏見習いの少年が不思議そうな顔をしながら近づいて来た。
「どうかなさったんですか、坊ちゃん、あ、いや若旦那さん」
「いや、その……」
「なあ、母さんは粉ミルクをどこにしまうかなんて、知らないよな?」
「粉ミルクっスか?それなら多分――ちょっと失礼します」
 少年は台所に入ると、ひろしが探していたのとは逆の、米櫃の隣の扉を開け、そこから
粉ミルクの缶を取り出した。
「やっぱりここっス。奥さん、よく使うものはここに片付けるっス」
「…………」
「あ?社長、ミルク用意しないうちに哺乳瓶出しちゃったんスか。駄目っスよそれじゃ。
哺乳瓶は使う直前まで殺菌しておくもんなんです」
「そ、そうだったか」
「冷蔵庫にミルク用の蒸留水が入ってると思うんで、それを使って下さい。瓶があるはず
ですよ」
「お、おう」
 ひろしが冷蔵庫を開けると、赤ん坊の絵のかかれたペットボトルが入っていた。
「これか?」
「それっス」
 眞一郎が思わず口に出した。
「そんなものまであるのか。水道水でいいと思ってた」
「別に大丈夫とは思いますけど、うちはは井戸水なんで……」
「井戸水だと問題でもあるの?」
「ミネラルが多いと赤ちゃんがおなか壊すっス」
 ひろしがぽかんと口を開けていた。
「うちで酒造りに使う水の硬度なら平気かもしれないけど、奥さんが気にして買ってまし
た」
「知らなかった……」
 眞一郎が呟いた。
「お前、家内と買い物に行ってそんな話してるのか」
 ひろしが少年に訊ねる。少年は申し訳なさそうに
「最近は最初から最後まで理香ちゃんの話しかしてないっスよ」
 と、答えた。
――その後、湯を沸かすやかんは普段使っている物でいいのかとか、調乳されたミルクの
濃さは本当にこれでいいのかとか、大騒ぎの末にようやく哺乳瓶にミルクが満たされた。
「出来たぞ、眞一郎。ところでお前、飲ませた事あるのか?」
 眞一郎の顔貌が引きつった。
「あ、あるよ、そりゃ。ミルクくらい……」
 そう言うとひろしから哺乳瓶を受け取り理香の口元に近ずける。しかし、理香は嫌がっ
て咥えようとせず、なんとか口に触ったと思ったら今度はえずき始め、眞一郎がビクッと
哺乳瓶を遠ざけてしまう。
「何してるんだ、おい」
 たまらずひろしが口を出す。
「そんな事言っても……なあ、理香、何が嫌なんだ?」
 困った様子で理香を見る眞一郎。それを見ていた少年がたまらず口を出した。
「あの、若旦那さん、えっと、理香ちゃんは普段右手で抱かれてるから、それで落ち着か
ないんじゃ……」
「え?」
 眞一郎が思わず我が身を見る。少年の言う通り、眞一郎は娘を左腕に抱き、右手に哺乳
瓶を持っている。眞一郎は一度哺乳瓶を置き、理香を右腕に抱き直して左手で哺乳瓶を差
し出した。今度は理香は素直に飲んだ。
「……本当だ」
 信じられない、と言うように顔を上げる。ひろしはただ口を開けてその光景を見ていた。
「…………よく、気付いたな」
 ようやくひろしがそれだけを言った。
「いや、奥さんも若奥さんも右で抱きかかえてたな、と思い出しただけっス」
「…………俺、全然気付かなかった」
 眞一郎が呟いた。なぜかわからないが、猛烈に負けた気分がする。
 ひろしも同じ気持ちなのだろう。なんとも複雑な顔貌で理香を見ていた。
 そうしている内に理香がミルクを飲み終わった。空になった哺乳瓶を置く。
「よ~し、おなか一杯になったかな?」
「眞一郎、げっぷ、げっぷ」
 ひろしが言った。眞一郎は怪訝な表情でひろしを見た。月賦がどうしたって?
 すぐに思い出した。首を支えたまま背中を軽く叩き、理香にげっぷをさせる。
「これでよし、と」
「泣き止んでくれた……な?」
「多分、これで後はおとなしく寝てくれると思う」
 満腹になった理香は周りに愛嬌を振りまく余裕を取り戻したらしく、パタパタと手を振
り回している。こういう仕草をしている姿は天使にしか見えない。これが親馬鹿というも
のだろうか。
 ひろしと少年が覗き込む下で、理香は機嫌よく笑っていた。このまま静かにしていれば
寝てくれるだろう。全員声を出さずに目配せで会話していた。
 と、再び理香の表情が険しくなり、ぐずり始め、やがて大きな声で泣き始めた。誰が泣
かしたと三人が互いを責めるように睨み合う。しかし、理香を抱いていた眞一郎が原因を
察知した。
「……そうだよな。おなか一杯になったら次は『これ』だよな』
「え、と……それは、まさか」
「……オムツならベッドの脇だ、眞一郎」
 こうしてひろし、眞一郎、少年の三人は、今度はオムツの取り替え方で大騒ぎをするの
である。



「――ただいま帰りましたあ」
 比呂美が玄関から入ってきた。理恵子もいなくて男二人で娘を見ている事が判っていた
ので、エアロビが終わった後新米母仲間からのお茶の誘いも断り――そもそもダイエット
のためのエアロビではないのか――真直ぐに帰宅したのである。
「眞一郎くん、お義父さん、すいません、理香を任せてしまって――え?」
 居間に入ると、眞一郎、ひろし、それになぜか杜氏見習いの少年がごろ寝していた。
 比呂美はベッドを覗き込み、理香が静かな寝息を立てて寝ているのを確認した。
「――お疲れ様です。パパ」
 比呂美は畳の上で大の字になっている眞一郎に呼びかけ、二階の寝室へ毛布を取りに上
がっていった。


                       了


ノート
3メン&ベイビーと言うタイトル(古い映画のタイトルです)とひろしメインのコメディという構想だけ
6月には決まっていて、プロットが思い浮かばず放置していたネタです。
トイザらスに行った時、ベビー用品に調乳専用水というのを見つけていくらなんでも神経質すぎるだろう
と思い、これを買うのはどんな親だろうと想像してみたら、

①過保護である
②水道の水が信用できない
③水道水で平気だと言ってくれる親がいない

こんな姿が思い浮かび、比呂美やなによりママンが①に該当するではないかと思いついた次第。②は富山
の名水の水質なら使って問題ないそうですが、それでもミネラル分の高さを心配する母子が買ってしまう
画が浮かんで以下略。
ただ、比呂美や眞一郎が高校卒業していたら、丁稚はもう少年ではないような……。
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