魔法のクッキー


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「お台所を?それは別に構わないけど」
 眞一郎の申し出に理恵子はそう答えた。理恵子自身は男が料理できる事に意味があると
は考えていないが、「男子厨房に入らず」の格言に従うほどに古い人間ではない。
「でも、何をするの?」
「うーん、ちょっとクッキーでも焼いてみようかと」
 意外すぎる単語に理恵子ばかりか、ひろしまでが新聞から目を離して眞一郎を見たが、
すぐに理恵子は真意に思い至った。
「ああ、ホワイトデーね?でも、眞ちゃんが作るの?」
 比呂美に手伝わせては本末転倒であるからおそらくそうであろう。ホットケーキも作ら
ない眞一郎には少しハードルが高いのではあるまいか?
 眞一郎の答えは予想と少しだけ違っていた。
「三代吉も一緒に作るんだ。クッキーまとめて焼けば義理チョコのお返しにも使えるしさ」
「義理チョコに手作りクッキーなの?」
 それは妥当なのだろうか?
「三代吉も愛ちゃんへのお返し作りたいって言ってたからさ。いいかな?」
「別にお母さんはいいけど……」
 理恵子はちらりと比呂美を見た。
 比呂美は理恵子の視線に気づいたが、小さく肩をすくめて
「義理返しなら出来損ないになる可能性の高い手作りより、市販のお菓子の方がいいとは
言ったんですけど」
 とだけ言った。
「いや、まあ、比呂美にはたまには手作りで何か贈ろうと思ってたから、そのついでにと
思ってさ」
 まさか比呂美とその他大勢に同じものを作るとは、いくら眞一郎もしないだろうとは思
うが、それにしても、手作りと言うものは予告せずに渡す方が喜ばれるのではないだろう
か?
「それで、いつにするの?」
「明後日にしようかなと思うんだけど」
「わかったわ、道具は出しておいてあげる」
「ありがとう」
「今でもホワイトデーなんて習慣残ってたのか」
 それまで黙っていたひろしが呟いた。
「ホワイトデーっていつ頃からあったんですか?」
 理恵子が記憶を辿るように少し上を見上げながら考え、
「私が中学の時には、もうあったと思うのだけど」
「え、そんな大昔から?」
 眞一郎の迂闊な発言に理恵子の視線が刃物のように鋭くなる。危険を察知した比呂美が
慌てて話題を戻す。
「その頃からもう倍返しとかもあったんですか?」
「……最初はそうでもなかったような気がするわね。でも、実質的に女の子より安いもの
は買えないでしょ」
「俺が最初に聞いた時は、違う名前だった気がする」
 ひろしが言った。比呂美がそれに乗る。
「何て言ってたんですか?」
「マシュマロデー、だったかな?」
「バレンタインと違って特に由来のない便乗企画だから、基本的に節操がなかったのよね」
 バレンタインデーは昭和五十年代前半に義理チョコと言う概念が生まれてから急速に広
まっているが、実際は戦前から神戸の洋菓子屋が二月十四日を愛の確認をする日として広
告をうっており、それなりの歴史がある。それに対してホワイトデーはその義理チョコと
期を同じくして登場した商法で、基本的に何を贈るべきかすら足並みが揃っていなかった
のである。
「お菓子もマシュマロだったりキャンディだったり、下着を贈るなんていうのが流行った
時期もあったわねえ」
「あ、俺その話聞いた事ある。恥ずかしくなかったのかね」
 眞一郎が言うと、ひろしが新聞を上げて顔を隠してしまった。それを見て理恵子が笑い
をかみ殺すような顔貌をする。比呂美はそれに気づいたが、敢えて何も言わなかった。
「じゃ、明後日って事で」
 ひろしには気づいても理恵子には気づいていないらしい眞一郎が、呑気にそう念を押し
た。



「………ねえ、ひとつ、確認したいんだけど」
 同級生、蒲生美紀子が重々しく口を開いた。
「何だ?言ってみろ」
 三代吉が軽妙に応じた。
「今日は、あなた達がホワイトデーのお返しを作るのよね?」
「そうだ」
「で、なぜそれに私を巻き込むの?」
「そりゃお前、俺にも眞一郎にもチョコよこしてねえし」
「だから、せっかく無関係でいた私を巻き込まないでって言ってるの」
 美紀子の主張は正論ではある。しかし、三代吉には三代吉の正論がある。
「俺達だけで作ったクッキーなんてみんなに配ったら、惨劇が起きるぞ。それでもいいの
か?」
「その脅迫は、ちょっと情けないぞ……」
 ようやく、眞一郎が口を開いた。
 この手作りクッキーのアイデアを持ち出したのは、三代吉だった。
 お菓子なんて作った事はない、という眞一郎に「俺に考えがある」と請合うので、最終
的に了解したのだが、これ程安直な手段に訴えるとはさすがに予想外だった。
「大体、あなた達にチョコあげなかった女子なんて他にもいるでしょうに」
 美紀子は、特に眞一郎が今の言葉に居心地の悪そうな反応をしている事に気づいた。
「え?嘘、まさか……」
「クラスではお前だけだったんだよ、俺はともかく、こいつに義理でもチョコ渡さなかっ
たの」
 まるで私が変人みたいじゃない、と美紀子は思った。別に他人と同じ事をしないと落ち
着かない、とは言わないが、進んで名誉ある孤立を選びたいわけでもない。
「頼むよ、蒲生さん。義理返しはともかく、比呂美には作ってあげたいものがあるんだ」
 眞一郎は自分のアイデアを美紀子に伝えた。
 美紀子は話を聞くと、少し呆れたような、それでいてわずかに頬を赤らめた顔貌をした。
それから考えるように腕を組み、十秒ほど経ってから返事をした。
「仕方ないわね。あなた達、朋与うああさみよりはできるんでしょうね?」
「俺は今川焼きの生地なら作った事があるぜ」
「お菓子は作った事ないけど、比呂美の料理を手伝った事なら……」
「……ふぅ。仕方ない、さっさと作って私は帰るわよ」
 美紀子は不承不承、コーチを引き受けた。



「まだクッキー出来てないんですか?」
 比呂美が訊いた。
「作ってるみたいね」
 理恵子が答えた。
「今日、ご飯どうするんですか?」
「仕方ないわね、出前をとりましょう。比呂美ちゃんも食べていくでしょ?」
「はい、ご馳走になります」
「それじゃあお寿司にしましょう。今来てる子も少しくらい食べてもらえるし」
「そうですね」
 理恵子は美紀子には最初に挨拶したきり、台所には近づいていない。なんとなくだが、
自分は比呂美の友人によく思われていないと思っているため、あまり顔を出さない方がい
いと思っているのだ。
「でも、なんで急に手作りなんて?学校でそんな流行りでもあったの?」
「さあ?少なくともそんな流行はないと思うんですけど」
 ひろしが仕事場から戻ってきて、茶を頼んできた。
「あ、すいません、今すぐに」
 珍しく、理恵子が慌てた様子でお茶の準備をする。ひろしは特に何も言わなかった。比
呂美と話が弾んでいたのなら、お茶くらいどうという問題ではない。
「俺はここで飲んでいこう。仕込みのみんなには後で持って行ってくれ」
「はい」
「眞一郎はまだクッキーを焼いているのか?」
 ひろしも同じ事が気になるらしい。
「どんなクッキー焼く気なんだ?もしかして似顔絵のクッキーなんて考えてるのか」
 ひろしの想像を理恵子は一瞬考え、首を振った。
「もしかしたら最初はそのつもりもあったかもしれませんけど、誰だかわかるように作る
のはかなり難しいですよ。よほど特徴のある子ならともかく」
「よほど特徴がある」顔として、比呂美が思い浮かべたのは広いおでこに青い髪留めを着
け、顔の下半分が全て口になったクッキーだった。同時に自分の顔がクッキーになってい
るところを連想して、複雑な気分にもなった。
「そうか、それもそうだな」
 そう言えば、理恵子の話ではひろしは眞一郎以上に人気があったという。彼の性格上お
返しをしないはずがないが、どんなお返しをしたのだろう?
「おじさんは、例えばどんなお返しをしたんですか?」
「――普通に売られているキャンディを配ったな。キャンディと言うか、ゼリービーンズ
をよく選んでいた気がする」
「プレゼントに手紙が添えてあった時は、必ずお返事も書いてましたね。腱鞘炎になりそ
うになりながら」
「そんなにたくさん書いたんですか?」
 思わず訊いた。
「……ただのファンレターだ。そんな本気の手紙は、ほとんどなかった」
 少しはあったのか。眞一郎にも手紙は届いているが、既に校内で比呂美の事は公然の秘
密となっているためか、その数は片手で数えられる程度だった。
「下着を贈ろうとしたのは大学の時でしたっけ?」
 笑いながら、理恵子がさりげなく爆弾を落とした。ひろしが飲みかけの茶でむせ返る。
「おじさん、買おうとした事があるんですか?」
 先日の反応はこれか。ひろしは珍しく、理恵子に恨みがましい視線を送った。
 気づかない振りで理恵子が説明する。
「私のところに来てね、『下着を贈るのが今年の流行らしいが俺はとても近づけないから
自分の分は自分で選んでくれ』って。しかも大真面目な顔で」
 二十年前のひろしが、同じく二十年前の理恵子にむかって下着の名前を連呼している光
景を想像してみた。ひろしの前で噴出してはいけないと必死で堪えた。
 ひろしが不機嫌に茶を飲み干しながら、一言だけ反論した。
「……俺にその素晴しい考えを吹き込んでくれたのは、お前の父親だぞ」
 比呂美は二の句が次げなかった。



 当日、眞一郎と三代吉は自信作をクラスで配っていた。
「あさみさんこれね」
「ありがとぉー。これ、仲上君の手作り?」
「そうだよ。まあ、本当の事言うと蒲生さんに手伝ってもらったんだけど」
「筋がよかったわよ。少なくともあさみより」
 美紀子が請合った。朋与が大笑いする。
「あさみ言われてるねー」
「朋与、あんたも同類」
 場が笑いに包まれた。
「きれいに焼けてるね。おいしそう」
 真由が褒めた。三代吉も上機嫌で
「だろ?新たな才能に目覚めちゃったかな、俺」
 と胸を張る。やはり愛子の店で手伝っている事が大きいのか、眞一郎より飲み込みが早
く、仕上がりもきれいだった。惜しむらくは、三代吉にチョコを渡したのが、クラスでは
真由、あさみ、比呂美、朋与しかいない事だろう。
 眞一郎は一通りに配り終わると、最後に比呂美の席に行き、
「比呂美、お前には帰りに渡す」
 と言った。比呂美は内心ではなぜ今じゃないのか、と思ったが、表面的には微笑んで
「うん、わかった」
 とだけ返事をした。
 放課後、二人は学校から帰る途中海に立ち寄った。
「――はい、比呂美、ホワイトデー」
 海に着くと眞一郎は比呂美に袋を渡した。口を閉じるリボンが水色から紫に変わってい
る以外は、特に同級生へのクッキーと変わるところはない。
「ありがとう。大変だったみたいね、作るの」
「ちょっとね」
 眞一郎は苦笑した。そして
「な、食ってみてくれよ」
「え?今?」
「うん」
 比呂美はリボンを解くと、中身をひとつ取り出した。
「それじゃ、いただきます」
 口に放り込む。口の中でクッキーが砕けると、中から何かが出てきた。
「うん?」
 比呂美は口から異物を取り出した。小さな紙が丸められていた。
「フォーチュン・クッキーにしたの?」
 そう言いながら紙を広げる。中には

『いつもありがとう。愛してる』

 と書かれていた。比呂美は頬を染めながら、
「どういたしまして」
 と答えた。それから
「でも、たまたま当ったからいいけど、外れだったらどうするつもりだったの?当るまで
食べさせる気?」
 比呂美は眞一郎の表情に思うところがあった。
「――もしかして、これ」
 別のひとつを手に取り、割ってみる。『これからもずっと一緒にいよう』と書かれてあ
った。
『俺はお前だけを見てるから』『もう一人にはしない』『お前を幸せにしてみせる』……。
 比呂美は眞一郎を見た。眞一郎は少し照れながら、
「中々、面と向かっては言い難いから」
 と言い訳した。
 比呂美は最後のひとつを割ってみた。紙ではなく、指輪が入っていた。
「今はそんな安物しか買えないけど、いずれ必ずもっとちゃんとしたのを買うから……」
 比呂美は指にはめた。それから黙って眞一郎に近づき、少し背伸びをして、眞一郎への
「お返し」をした。



ノート
バレンタインデーの豆知識の補足
wikipediaを見ると、最初のバレンタイン広告が神戸の「モロゾフ」である事は記載されています。
もう少し細かく言うと、創業者の一人がバレンティン(バレンタイン)・モロゾフと言う人で、ロシア正教では
自分の名前の由来になっている聖人の日を誕生日の守護聖人とは別に祝う風習があるため、広告をうった最初と
されるより前から2月14日に限定商品としてハートのケースに入れたチョコレートやハート型の型で焼いた菓子
を販売していました。
これを「愛を伝える日」として宣伝するようになり、その後戦後になって大手の菓子メーカーが女性からの告白、
と言うギミックを加えたのが今のバレンタインデーです。
ちなみに365日全部に守護聖人はいて、誕生日にちなんだ聖人の名前を子供に付けることは割りと普通にやっています。
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