true MAMAN特別編  自分の親に出来なかった事を


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「行ってきます」
 眞一郎が学校に向かい、ひろしも酒造所に戻って行った。残った理恵子は食器を洗おう
と台所に運ぶ。
 床が柔らかくなったような感覚に足下を見た。何も変わっていない。二、三度足踏みし
てみたが何も起こらない。特に床が腐っているわけでもないようだ。
 首を傾げながら洗い物を続ける。蛇口から流れる水を見ながら洗っていると、水が二重
にぶれて見えた。目を瞬(しばたた)かせてもう一度見直す。最初は普通に見えた水道水
がまた二重になった。次いで軽い頭痛。ようやく理恵子にも事態が飲み込めた。
 理恵子は風邪を引いていた。



「――三十七度七分か。今日は寝ておけ」
 昼に戻ってきたひろしは理恵子が居間で横になっているのを見ると、何も言わずに体温
計を持って来た。
「すいません。お昼も作らないで」
「いい。上で寝てろ。昼は適当に食う」
 それから一瞬間を置いて
「風邪薬はあったか?」
「朝はもう飲みました。けど残りが少なくて……」
「そうか。ついでに、それも買ってこよう」
「本当にすいません。少し寝れば夕方には治ると思いますから」
「今日一日は寝ておけ。眞一郎に連絡して、夕食は比呂美にでも頼むさ」
「そんな。比呂美ちゃんだって部活で疲れてるんですから――」
「ふむ、それもそうだな。まあ、どちらにせよ眞一郎には言っておこう。比呂美の所で飯
を食わせて、俺たちは旨い物でも出前してもらおうか」
 珍しく冗談めいた事を言ってひろしは昼食と薬を買いに出た。理恵子は言われた通り二
階に上がり、着替えてベッドに横になった。
――比呂美ちゃんも部活で疲れてる、か。
 理恵子は自分の言葉を胸の内で繰り返した。その部活で疲れて帰ってきた比呂美に配達
や、帳簿付けを命じていたのは自分なのだ。自嘲の笑いも出ない。
 ほぼ確実に、比呂美は眞一郎の嫁としてこの家に戻ってくる。客観的に見て比呂美以上
の娘などそうはいない事は判っているつもりだ。頭の回転が速いだけでなく、気配りも出
来て人当たりもいい。理恵子の眞一郎への評価は恐らく誰よりも高いが、それでもこの先
比呂美と別れてもそれ以上の女性を連れてくることは出来ないだろう。
 そうなった時、自分は比呂美と上手くやっていけるだろうか。比呂美が一人暮らしを始
めたのは理恵子より眞一郎と距離を置こうとしての決断だったようだが、結果として理恵
子と比呂美はお互いの生活に干渉しあう必要がなくなった。だから上手くいっている面は
間違いなくある。再び同居した時、些細な事が気になったりはしないだろうか?それに対
して比呂美は息苦しさを感じたら?比呂美が戻ってきて、ようやく修復されつつある今の
関係がまた悪化する事を理恵子は恐れていた。



 目を覚ますと夕方だった。
「いけない、もうこんな時間」
 身体を起こそうとして、額に冷たいタオルが乗せられている事に気づいた。
 タオルを手に階段を降り、台所に入ると、比呂美が夕飯の支度をしている所だった。
「あ、おばさん。お邪魔してます」
「……比呂美ちゃん、早いのね」
「え?ああ、今日部活お休みなんです」
 比呂美は屈託なく笑って見せた。その後すぐ真剣な顔になり
「あの、熱は下がりましたか?」
 と訊いてきた。
「ええと……大分楽になったわ」
 比呂美はにっこりと笑って
「よかった。――あ、お水ですか?」
「そうね。一杯いただくわ」
 比呂美がコップに水を汲んで理恵子に渡す。理恵子は受け取るとテーブルの椅子を引い
て座った。
「――今日のお献立は何かしら?」
「里芋の煮物にしようと思ってます。おばさんにはお粥を用意しますね」
「いいわよ、普通のご飯で。それじゃ、私もお手伝いするわね」
 実はまだ身体は重いのだが、全て任せるのも悪い気がしてそう言った。
 比呂美が遠慮するだろうとは思っていたが、表情が厳しくなるのは予想外だった。比呂
美はむしろ怒っているのではと思う硬い表情で、断固拒否したのである。
「駄目です。病気なんですから安静にしていてください」
「え?いやね、大袈裟よ、たかが風邪で」
「風邪を甘く見ないで下さい。出来たら部屋に運びますから、上階(うえ)で寝ていて下
さい」
 今まで見た記憶のない比呂美の様子に戸惑っていると、眞一郎が台所に顔を出した。
「あれ、母さん、起きてたの?」
「ええ、ちょっとお水を飲もうと思って」
「ふうん。で比呂美、風呂掃除したぞ。他に何かある?」
「ありがとう。……えっと、うん、大丈夫。こっちは一人で出来るから」
「そっか。じゃ、部屋に戻ってる」
 眞一郎が台所からいなくなると、理恵子もこれ以上比呂美と話題もなくなり、部屋に戻
った。
 とりあえず横にはなってみたが、既にたっぷりと寝たせいか眠気はこない。かといって
だるいのは変わりなく、身体を起こしているのも辛いのでそのままにしていた。
 暫くして窓の外が暗くなった頃、ふすまをノックして比呂美が入ってきた。
「失礼します。お粥、持ってきました」
「出来た事を教えてくれれば降りていったのに」
「階段の上り下りも結構体力奪われますから」
 そう言いながら配膳を進める比呂美。理恵子の分だけでなく自分の分も持ってきていた。
「ご一緒させてもらっていいですか?」
「私の事は気にしないで、階下(した)で眞ちゃんと一緒に食べてていいのよ」
「眞一郎くんもそうするように言ってくれました」
 ベッドサイドのテーブルに配膳を終えて
「さ、どうぞ」
 理恵子は粥に口をつけた。卵でとじた粥は理恵子の感覚で言うと、少し味が薄かった。
しかし、熱のある今はこのくらいの方がむしろ刺激が少なくていいかもしれない。
「おいしいわ」
 比呂美から感想を求められる前にそう言った。比呂美はほっとしたような笑顔を浮かべ
た。手を合わせてから自分の膳に箸をつける。
 理恵子は里芋の煮付けも口に入れた。やはり薄味だが芯はなく、だからと言って煮崩れ
する事もなく、程よく出来上がっていた。
「あの、初めて作ったんですけど……どうですか?」
「上手く煮えてるわよ。初めてでこれならすごいわ」
 理恵子は素直に評した。
「……里芋は柔らかくて煮崩れしやすいから、面取りはきちんとした方がいいわね。手間
だけど、崩れると煮汁も濁ってくるから見た目がかなり悪くなるわ」
「はい」
「でも初めてにしては本当に上手く出来ているわ。お母さんから習ってたの?」
 比呂美は首を振った。
「いえ、料理の本で……」
 母子家庭で外で仕事をしていた香里のために比呂美は食事の支度もしていたが、シチュ
ーやカレー、ハンバーグなど、若い娘の定番的な料理が多かった。母の生前あまり料理を
一緒に作ったり教えてもらったり出来なかった事は、比呂美にとって後悔の一つだった。
 そう言えば、と理恵子は思った。比呂美と料理を一緒に作ったのはあまりないな。去年
の麦端祭りの時に手伝ってもらった事はあるが、材料を切ってもらう程度で肝心な部分は
教えていない。同居していた時にも朝食を何度か任せていたが、包丁などの一通りの技術
は持っていたし、味付けについては湯浅家の流儀で注文をつける気はなかったので特に何
かを指導する必要もなかった。
「お茶、お替りしますか?」
「え?ああ、そうね、いただくわ」
 比呂美がお茶を淹れ直し、理恵子に差し出す。
「水分はしっかり摂って下さいね」
「ありがとう」
 一口付けた。少し熱すぎると思った。比呂美も自分の茶を飲んでいるが、彼女にとって
はこれが普通のようだ。
「――ご馳走様でした」
 理恵子が手を合わせた。比呂美が薬と水を用意する。
「じゃあ、お薬置いておきますね。飲んだらまた少し休んでください」
「ええ、ありがとう」
 そうして比呂美は部屋を出て行った。



 薬を飲み、暫くベッドに腰掛けたままでいるとひろしが部屋に来た。
「調子はどうだ?少しはよくなったか?」
「ああ――ええ、今お薬も飲みましたから、すぐによくなると思います」
「そうか」
 そう言うと部屋に入り、理恵子の前の床にあぐらをかいた。
「今夜は比呂美はこちらに泊まるそうだ」
「ええ?どうして……」
「明日の朝食と眞一郎の弁当、それに多分、お前がよくなった事を確認したいんだろう」
「そんな大袈裟な」
 驚いたと言うより、呆れた。少し心配性に過ぎないだろうか。
「そう言ってやるな。お前の心配をしているんだから」
「それにしたって、たかが風邪くらいで――」
 理恵子は言葉を切った。思い当たる事があった。
「香里は、あの娘の前ではギリギリまでただ疲れただけだ、と強がっていたんだ」
 ひろしの短い言葉もまさに同じ点を指摘していた。
 そうだった。
 比呂美の母、香里は夫の死後十年以上も女手一つで比呂美を育ててきた。多少の無理を
押して働き続け、職場で倒れて病院に運ばれた時にはもう手遅れの状態であった。
 比呂美は母の異変に気づいてやれなかった事を強く後悔していた。その姿は理恵子も見
ていたのだが、少なくともその想いが自分にも向けられるとは思っていなかった。
「眞一郎から聞いたんだが、俺があいつに電話をした後、比呂美はその場で友達に部活を
休むと伝えたそうだ。医者には診せたのかとかちゃんと寝ているのかとか、眞一郎よりよ
っぽど心配していたらしいぞ」
「あの娘が……」
「食事も消化がよくて負担の少ないものを、と思って、慣れない和食の煮物にしたそうだ。
比呂美は否定していたが、何度も味見していたらしい」
「…………」
「一人で食べるのはあまりに味気ないからと言って自分も二階で食べると言って聞かなか
ったとも言っていた。まあ、結果眞一郎が一人で食う羽目になるわけだが」
 ひろしは柔らかく笑った。
「お前には逆に迷惑かもしれないが、あれの好きなようにさせてやってくれないか。自分
の親に出来なかった事を、今お前にしてやりたいんだろう」
「……わかりました。もう暫く聞き分けのいい病人でいる事にします」
 理恵子は良人にそう答えた。



「よかった、熱は下がったみたいですね」
 翌朝、朝食の粥と体温計を持って上がってきた比呂美は理恵子の体温を測るとそう言っ
た。心から安心しているようだった。
「お昼は用意しておきますから、申し訳ないですけど降りて食べて下さい」
「ありがとう」
「洗い物は学校から帰ったらやりますから、そのままにしておいて下さいね」
「それくらい――」
 もう平気よ、と言いかけて、理恵子は言葉を止めた。ひろしの言う通りここは比呂美の
気の済むようにしよう。
「わかったわ。じゃあ、水に浸けておくだけにしておくわね」
「お願いします」
 自分の朝食を食べ終えた比呂美が理恵子の食事の様子を見ていた。理恵子は膳を下げる
ために待っているのだと気づいた。
「お昼をいただく時に持って降りるわ。眞ちゃんと一緒に学校に行ってきなさい」
「え、あ、はい」
 比呂美は立ち上がった。
「じゃあ、よろしくお願いします」
「それと、比呂美ちゃん」
「はい?」
「……私がよくなったら、一緒にお夕飯作りましょうか。私、洋食が得意ではないの。教
えてもらえる?」
「私がですか?そんな、私なんて人に教えるほど上手くないし――」
「その代わり、と言ってはなんだけど、和食なら少し自信があるから、憶えたい料理があ
るなら教えてあげるわ」
 すぐに付け足した。
「もし、比呂美ちゃんさえよかったら、だけど」
「よかったらなんて……こちらこそ、お願いします」
 比呂美は深々と頭を下げた。



               了


ノート
比呂美をママンが看病する話は書いた事が在りますが、その逆はどうなるかな、と思いながら書いた話です。
ここではっきり決めておかなくてはならないのは比呂美がママンの事を本気で看病するのはセオリーとして、
「好きな人の母親として病気を心配する」のか「自分の2人目の母親と思ってかんびょうする」のかという点。
一応自分の中では軸を立てつつ、描写上はどちらに解釈しても違和感がないように、と思って書いてみましたが、
果たして上手くいったかどうか……。
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