東京の空の下で


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「――眞ちゃん、また出版社に行くの?」
 理恵子が訊いてきた。
「うん、ちょっと打ち合わせをしたいって言われてさ」
 眞一郎が答えた。ひろしが新聞から目を離した。
「打ち合わせなんてするのか」
「うん、雑誌の挿絵の仕事だから、サイズの確認だけじゃなく元の原稿のどこを題材に使
うかも確認しておきたいしね」
「そうか。それなら、土曜から行くのか」
「学校終わったらすぐに出ようかと思ってるけど」
「準備はもうしたのか?」
「あ、行くのはまだ来週なんだ。だからまだ何もしてない」
「……そうか」
 ひろしは一度新聞に目を戻した後、暫くしてまた眞一郎に顔を向けた。
「比呂美は連れて行かないのか?」
「え……えぇ!?」
 眞一郎の声が裏返った。見る間に顔貌が紅潮していく。
「お前は今までも打ち合わせとかで何度か上京しているが、比呂美はまだ行った事がない
だろう。いい機会だから連れて行ったらどうだ」
「い、いや、でも……俺は打ち合わせで案内できないし……」
「一日中打ち合わせでもないんでしょ?だったらその間はどこかで時間を潰してもらって
ればいいじゃない」
 理恵子がひろしの側についた。眞一郎としても考えた事がないわけではない。半分は仕
事とは言え、泊りの小旅行である。しかし、そこまではさすがに思い切れない。
「ほ、ほら、やっぱりさ……世間体、てものが……ふ、二人で、その、泊りなんてのは、
さすがに……」
「世間体?」
 眞一郎の両親は顔を見合わせ、再び眞一郎を向くと、
「何を言ってるんだ、今更」
 と真顔で訊いてきた……。



「東京!?」
 朋与の裏返った声が部室に響いた。比呂美は指を口に当て
「シーッ!」
 と朋与を黙らせ、周囲を見回した。何人かが振り向いていたが、すぐに興味なさげにロ
ッカーに向き直った。もっとも、聞いていないふりを装うだけで耳はこちらを向いている
のだろうが。
「そんな大声出さないでよ。あまりみんなには知られたくないから」
「あは、ごめんごめん。でも、どうしたの急に。仲上君が東京に行くのなんてこれが初め
てじゃないんでしょ?」
「そうなんだけど、おばさんから電話があって『次の日曜日一緒に行ってらっしゃい』て。
どうしてそういう話になってるのか、わからないんだけど」
 比呂美としても都会への憧れは人並みにはあるので、眞一郎のお伴に東京見物を考えな
いではなかったのだが、そんな出費をするほどの経済的な余裕はない。今回理恵子から旅
費を出すと言ってくれたのは嬉しかったが、同時にそこまで甘えていいのかという気分に
もなる。
「堅いわねぇ。素直に甘えちゃえばいいのに」
 朋与はそう言ったが、
「でも、今はバスケの合宿とか遠征のお金も出してもらってるし……」
「気にしない、気にしない。その分仲上君は部活やってないんだから」
「言ってる事無茶苦茶よ」
 比呂美は苦笑する他ない。朋与が無神経から言っているのではない事はわかっている。
厚意を素直に受ける事の大切さを彼女なりの言い方で表しているのだ。
「でも、初めての婚前旅行が彼氏の出張のついで、て言うのも色気がないわね」
「朋与……言い方がいちいちいやらしい」
 務めて意識しないよう努力してきた単語に比呂美が赤面する。朋与はやめるどころかま
すます調子に乗って、
「あらー、違いますのー?惚れた二人が手に手を取って、手荷物一つで夜行列車に飛び乗
って、連れて逃げてよ、着いておいでよ――」
「朋与さーん、帰ってきてー」
 それじゃ駆け落ちだ、と突っ込むのも面倒くさくなって比呂美は控えめに朋与の精神を
現実に引き戻した。
「じゃあ、もう部屋は予約してあるんだ?」
「うん。普通のビジネスホテルを――もちろん部屋は別よ。……ちょっと、何よその顔!」
 心の底から失望したような朋与が深いため息を吐いた。
「そりゃそんな事だろうとは思ってましたけどね」
「当たり前でしょ。いくらなんでも同じ部屋なんてそこまでするはずないじゃない」
 実はひろしも理恵子も部屋の事は深く考えていなかったのだが、眞一郎が断固として別
部屋を主張した事までは比呂美は知らない。
「……まあ、ものは考えようか。シングルベッドに二人の方が密着度も高いし」
「と・も・よ~!」
 比呂美はもう一度親友を睨んだ。



「それじゃ、行ってきます」
 乃絵が台所の母親に声をかけた。
「純には連絡してあるの?」
 紗絵は手を止めて玄関まで出てきた。
「うん。迎えに来てくれるって」
「そう、じゃ、安心ね」
 紗絵の言葉に乃絵は笑って
「もう何回も行ってるじゃない」
「でも、今までは新幹線だったでしょ?なんで今度はまた夜行バスなんて……」
 若い娘がわざわざそんな疲れるものに、と紗絵は言いたげだ。
「節約、節約」
 乃絵は気にした風でもなくそう言って笑った。純は乃絵を部屋に泊めようとしないので、
日帰りとなると自ずと東京にいられる時間は限られてくる。夜行バスで朝に到着すればそ
れだけ純の部屋の掃除や買い物なども出来ると言うものだ。
「あ、そうだ。乃絵、ちょっと待ってて」
 紗絵が奥に下がり、何か戻って戻ってきた。
「これ、純に持っていってあげて」
「何、これ?」
「沖漬よ。あの子、これは好きだったのよ」
「向こうでも買えるんじゃないの」
「そこはそれ、本場の味の方がきっと美味しいわよ。お米はこの前送ったばかりだから、
まだいいわね」
 言われても米は断るわ、と乃絵は即答した。
「じゃ、もう行くね」
「行ってらっしゃい」
 乃絵は兄の住む東京へと足を向けた。



 新宿駅の前でバスを降りると、石動純が立っていた。
「お兄ちゃん!」
 ぴょこん、と跳ねるように兄の下に駆け寄る乃絵。純は軽く右手を上げ、微笑んで見せ
た。
「身体、痛くなってないか?狭くてよく眠れなかったろ?」
 自身も同じ夜行バスで上京した純が乃絵を気遣う。
「平気よ。私にはそんなに狭くなかったわ」
 乃絵は平然と答えた。純はまた笑って
「そうか、そうだな」
「それよりお兄ちゃんこそごめんなさい。せっかくの日曜日に早起きさせちゃて」
「それこそ気にするな。俺はお前と違って朝は強いんだ」
 荷物を持とう、と純が申し出るが、乃絵はほとんど荷物を持ってきていなかった。
「身軽なもんだな」
「どうせ日帰りだし。そうだ、これ、お母さんから」
 母親に預けられた土産を差し出した。
「母さん?」
「沖漬だって。 お兄ちゃん、好きでしょ?」
「沖漬か。久しぶりだな」
「こっちに来てからあまり食べてないの?」
「……塩辛なら普通に見つかるんだけどな。沖漬はあまり置いてないな」
「そうなんだ」
「こいつがあると飯が進むんだ。ありがとう」
「うん」
 乃絵もにっこりと笑った。
 純は訊いた。
「で?どうする?まだこの時間じゃ買い物しようにも店が閉まってるが――」
「最初はお兄ちゃんの部屋のお掃除って決めてるの。行こ」
「いいのかよ、そんなんで」
「いいの。掃除が終わる頃にはお店もみんな開いてるでしょ?」
「まあ……な」
 今ざっと周囲を見渡しても二十四時間営業の店がいくつか開いている。というより、今
ここで営業中の店だけで麦端全体で営業中の店の数を超えていそうだ。
「早く、お兄ちゃん!」
 乃絵は早くも歩き出している。純は苦笑した。
「乃絵、そっちじゃない、バイクはあっちに置いたんだ」
 純はそう言って反対方向を指差した。



「悪いな、ここから暫く別行動だ」
 眞一郎が言った。本当にすまなそうだった。
「ううん、最初からわかってたし」
 比呂美が軽く答える。
 前日の夜に東京に着いた二人はそのまま予約していたホテル――当然別部屋だ――に泊
まり、チェックアウトを済ませてから朝食をとっていた。眞一郎はこれから出版社の担当
と打ち合わせ、比呂美はその間一人で東京見物となる。
 打ち合わせをする出版社が渋谷に近いため、とりあえず比呂美が退屈する事はないとい
うのが救いだった。
「担当さんも眞一郎くんに合わせて日曜にしてくれたんだし、そのおかげで私も渋谷見れる
んだから気にしないで」
「うん、悪いな。なるべく早く終わらせるから」
「だーめ。しっかり打ち合わせして来るの。お仕事なんだから」
 比呂美が少し怖い顔で睨んだ。眞一郎は比呂美のこの顔に弱い。
「わかったよ」
「うん」
 一転にっこりと微笑む。眞一郎は別の意味でこの顔にも弱い。
「私なら一人で色々回ってるから、気にしないで」
「お前も気をつけろよ、ほら……変な男に声かけられたり、とか……」
 比呂美はようやく眞一郎が何を気にしているのか気が付いた。要するに一人で歩いてい
てナンパやスカウトに声をかけられるのを想像したくないのだ。
「大丈夫よ。こんな垢抜けない田舎者、誰も声なんかかけたりしないよ」
 比呂美は自分の容姿に対しては正当に評価している。しかし、それでも渋谷の街を闊歩
するような、洗練された少女達に勝るとまでは思っていない。
 しかし、眞一郎から見た比呂美の評価は比呂美自身より遥かに高く、さらに今までにも
何度か上京した折に見た東京の少女達――実態は千葉や埼玉も多いのだが――について、
年齢の割に厚化粧と言う以上の感想がなかった。眞一郎の不安は全く晴れる事はなかった。
 眞一郎はそれから八回も
「気をつけろよ」
 と繰り返しながら、打ち合わせに出て行った。



 乃絵は表に干していた布団を取り込んだ。
「はい、これで終り!」
「ありがとうございます」
 純はおどけて頭を下げ、冷蔵庫からジュースを取り出した。
「ほら」
「ありがとう」
 蓋は純が開けてから渡す。まだ一緒に住んでいた頃からの習慣である。
 乃絵はテーブルに座るとジュースをコップに移し、口をつけた。
「うん、一仕事終えた後は美味しい」
「悪いな、やっぱり俺とは掃除の仕方が違う」
 純も男の一人暮らしとしては片付いている方だったが、乃絵は窓の桟(さん)や棚の後
ろなどの見えない部分まで行き届き、すっかりきれいになっていた。
「これで今日から気持ちよく住めるようになるわ。お布団も干したしね」
 純も自分のジュースを飲みながら乃絵のはす向かいに座った。
「そろそろ昼だな。飯はどうする?」
「お兄ちゃん、いつもはどうしてるの?」
「大抵は外で食ってる。ハンバーガーとか、牛丼とか」
「えー」
 乃絵は抗議するような声を上げた。いかにも乃絵の嫌いそうな食べ物ではある。
「けど、今家に大した物置いてないぞ。夜だって作るとは限らねえし」
「うーん……」
 乃絵は不満げだった。純はある提案をした。
「なあ、せっかくだからさ、ちょっと足伸ばしてみないか」
「どこかに行くの?」
「ここからなら渋谷も近いし、行ってみようぜ」
「渋谷?」
 乃絵が少しだけ反応した。
「お店に心当たりとかあるの?」
「俺もあまり行った事はねえけど、評判の店ならいくつか聞いてる。一人で行く気はしな
いが、お前と一緒なら行きやすそうだ」
 言ってから純は少し後悔した。乃絵が自分を警戒していないか探ったが、乃絵は気付か
なかったか、あるいは気にしないようにしたのか、提案を素直に考えていた。
「……おいしい?」
「多分な。有機野菜のイタリアンとか本格的なフレンチとかはよく聞く」
「じゃあ、そうしようかな」
「よし」
 純と乃絵は部屋を出ると、駅に向かって歩いていった。
 純は乃絵と他愛無い話をしながら、あることに気が付いた。
 以前は肘が当たるほど近くを歩いていた妹が、今は乃絵の肩幅の半分ほどの距離を置い
ている。手をほんの少し伸ばせば届くし、常識的にはこれで当然の兄妹の距離。しかし、
確実に変わった二人の距離感。
 それが今の二人の距離。
 純は少しだけ、寂しげに笑った。乃絵がそれに気付き、首を傾げる。
「お兄ちゃん?どうかした?」
「……いや、なんでもない。少し急ぐぞ」
 純は少し足を速めた。



 ……甘かった。
 眞一郎と別行動をとって一時間、比呂美は自分のしい部矢に対する認識の誤りを認めた。
 一人になった比呂美はとりあえず109で洋服を見ようと思った。愛子から有名な店に
ついてのレクチャーも受けていたし、普段シンプルな服を着ているからと言ってお洒落に
興味がないわけでもない。
 愛子は比呂美から東京行きの話を聞くと大げさなほど羨ましがり、三代吉に向かって何
か東京に行く用事を作れと無茶を言った。三代吉の返答はたった一言、
「あるかそんなもの」
 ひとしきり三代吉に向けて罵詈雑言を浴びせた後、ようやく落ち着いた愛子は
「この愛ちゃんが特別に渋谷オススメショップを伝授してあげよう」
 と、雑誌の切抜きとともに店を教えてくれたのであった(この時、三代吉の「自分も行
った事ないくせに」との呟きは幸いにも愛子の耳には届かなかった)。
 愛子から渋谷の地理については聞かされていたが、人の数は聞かされていなかった。
 スクランブルでは市民マラソンと見紛うような人の波が大移動を起こし、しかも歩くス
ピードが滅法速い。このスピードでこの人ごみの中誰も肩もぶつける事なくすれ違ってい
く様はある種の感銘すら受けた。
 さらに比呂美を驚かせたのは――
「君、高校生?どこから来たの?」
「突然すいません、実はモデル事務所の者ですが」
「芸能関係の仕事に興味はない?」
「一人?カラオケでも行かない?」
「聖書の教えを広めるためにお声をかけました」
 それだけせわしなく動く人の中で、比呂美に声をかける人物の多い事!百メートル歩く
間に、数えるのも面倒になるほどの男に呼び止められ、半ば無理矢理渡された名刺だけで
も十枚を超えていた。中には芸能界に疎い比呂美でも知っているような、大手プロダクシ
ョンの名前が印刷されていたものもあったが、その名刺を渡したのがどんな人物だったか
比呂美は思い出せなかった。
「女の子なら誰でもいいのかしら?」
 比呂美は本気でそう思っていた。
 ブティックに着いたら着いたで、年齢不詳の、髪を金というより白金に染めた店員がや
って来て、驚くほど馴れ馴れしい口調で服を薦めてくる。
「でも、こんな短いスカート……」
「大丈夫、せっかく脚も長くてきれいなんだからァ、もっと見せてかないともったいない
っしょ?あたしもこれよく穿くけど結構お気に入りィ」
 比呂美にはこの店員と自分の趣味が一致するとはとても思えなかった。
 結局、店員が薦めてきたものよりは丈の長い、それでも比呂美としては精一杯冒険した
スカートと、愛子の見せてくれた切抜きにもあったサマージャケットとインナーを買って
店を出た。
 今、比呂美は眼鏡をかけていた。とりあえず眼鏡をかけて下を向いていればさらに地味
な印象になって声をかける男も減るだろうと期待しての事である。
 それでもコスメショップの前で足が止まるのは少女の本能のようなものだろう。ルージ
ュをいくつか手に取り、色を確認したりしていた。
 当然の如く店員が声をかけてきた。
「何かお気に入りのものがあればご試用下さい」
 さっきのブティック店員よりは丁寧な接客である。
「あ、いえ……ありがとうございます」
 身だしなみとして唇にグロスを塗る程度の事はするが、それほど化粧をするわけではな
い。自分に似合うメイクというものも実はそれほどわかっていない。
 店員も比呂美の肌を見て化粧の経験の少なさを見て取ったらしい。
「よろしければ、私がお客様にお似合いのメイクを無料で診断させていたしますが」
「え?いえ、そこまでは――」
「きっとご自分でも驚かれるくらいに変わりますよ。あまりメイクはされたことがないよ
うですし、何と言っても素材がよろしいですから」
 ストレートに言われてさすがに頬を赤らめた。
「さ、どうぞこちらに」
 比呂美は鏡の前に座らされた。



「乃絵?おい、乃絵」
 純は妹の名前を呼びながら通りを歩いた。
(しまったな。完全に見失った)
 純は音に出して舌打ちした。乃絵が本屋で何か雑誌を立ち読みしている間、彼も久しぶ
りにバスケの雑誌をぱらぱらと流し読みしていたのだが、気が付くと乃絵の姿が見えなく
なっていたのである。
 今までは純が乃絵を見失う事などなかった。純が目を離さないのはもちろんだが、乃絵
が純から離れる事がほとんどなかったためでもある。子供の頃の夏祭りでも、もっと大き
くなってからの今日のような買い物でも、乃絵は純の服の袖や手を掴んで離れなかった。
 電話などで話をしていても、同級生の友達ができたとか、生物部に入ったとか、その生
物部長がとてつもない変人だとか、以前は考えられないほどに学校生活を楽しそうに話し
ていた。
 それは乃絵の協調性のなさを心配すると同時に自分が乃絵の傍に居続ける口実にもして
いた純にとって、自分が居なくても元気であると安心するのと同じくらい、自分の存在が
乃絵の中で小さくなっていると寂しい思いにもなっていた。
(だが、あいつのおかげなんだよな)
 純はそれが仲上眞一郎との出会いが乃絵を変えたのだと認めている。今でも名前を口に
したいとすら思わないが、あの二人との出会いによって乃絵は純の元から飛び発つことが
出来た。あるいは純の方が乃絵から飛べたのかもしれないが。
「とはいえ、こんな所で糸の切れた凧みたいになられてもな……」
 乃絵は馬鹿な男のナンパや怪しげなスカウトに引っ掛るような妹ではないが、そういう
相手に対する反応が罵るか、逃げるかの二択なので、無用なトラブルを増大させる危険も
ある。面倒に巻き込まれないうちに見つけないと。
 純は一本内側の通りも見ることにした。



「まったく、お兄ちゃんたら……」
 乃絵はむくれて道玄坂を歩いていた。目に留まった雑誌を少しの間手に取り、それを買
っていただけなのに、兄は勝手にどこかへ行ってしまったのだ。
「なんでこっちに住んでるお兄ちゃんが迷子になるの……?」
 乃絵の想定する可能性の中に「自分が迷子になる」と言う項目はない。
 さらに乃絵を不機嫌にさせるのは、順とはぐれて以降、急に自分に声をかけてくる男が
増えた事だった。どの男も軽薄で中身のない笑いを顔に貼り付けたような連中で、乃絵は
片っ端から呪いを飛ばすことになった。
「それにしても人がたくさん」
 乃絵は改めてすれ違う人の数に感嘆した。
 乃絵は比呂美と違い元はそれなりの都会から引っ越してきた。日常的に人の多い街並は
見慣れているのだが、それでも日曜の渋谷は別格だ。
「なんだかお祭り見てるみたい」
 だが、祭りのような高揚感は乃絵には感じられない。乃絵から見ればこの賑やかさは惰
性の成分があまりにも多く、例えば麦端祭のような熱は全くない。乃絵から見た渋谷は、
昨日を忘れるための雑踏であって明日を迎えるための活力とは思えなかった。
 また前から男が来た。今度は二人組だ。
「ねえ、ちょっと道を聞きたいんだけど――」
「知らない」
 相手に言い切らせもしない乃絵の返答に男達は曖昧な笑いを浮かべた。
「じゃあさ、逆にどこか行きたい所ある?俺達が案内するけど――」
 男達の言葉が止まった。乃絵の言葉ではなく、乃絵の冷たい視線によって。
「あなた、人に道訊いておいて今度は自分が道案内?」
「あ、いや、まあ、……」
「どうすれば自分も知らない場所で人を案内できるの?ねえ、教えて」
「……ち、なんだよこいつ、うぜえ」
 男の一人が逆切れした。
「うざい?私は疑問を口にしてるの。答えられるのなら答えて。答えられなくても別に咎
めはしないわ。その代わり私にはもうあなた達に用はないからどこかへ行って」
「何だと、この……」
「おい、よせよ」
 もう一人の男が逆上しかけた男をなだめ、その場から立ち去った。
「あの二人に不幸が訪れますように!」
 乃絵は小声で呪いをかけた。
 そうこうしているうちに乃絵は大きなレコード屋の前に着いた。
「お兄ちゃん探すより、こういう所で動かない方がいいかな」
 乃絵はそう判断してタワーレコードに入った。



「……おかしいな、比呂美、何で携帯出ないんだ?」
 眞一郎は首を傾げた。
 担当と挿絵のレイアウトや構図について打ち合わせを済ませ、終わった後の食事の誘い
も断りすぐに比呂美に連絡を取ろうとしたのだが、比呂美の携帯は電源が切れているのか、
それとも地下深くで電波が届かないのか、そういうメッセージが返ってくるのみだった。
「とっとと飯でも食いたいんだけど……」
 なんとなく、周りを見回す。ナンパとかスカウトとか、そんな光景があちらこちらで見
られた。
(まさか、変なのに絡まれたんじゃないだろうな)
 眞一郎の想像は何故か悪い方向にばかり進んでいく。自然、急ぎ足になってきた。比呂
美を信頼してはいるが、性質の悪い連中に目を付けられると面倒だ。
 歩いていると眞一郎は、地元から遠く離れた地で見知った顔を見た。ただし、決して愉
快な顔ではなかった。
「何してんだ、こんなとこで」
 相手も全く同じ事を考えていただろう事は一瞬の間の表情の変化から見て取れた。
「こんなとこって、俺は今こっちに住んでるんだぜ。俺の方が訊きたい事だぜ」
 石動純の言う事は正しい。眞一郎は最低限の理由だけを答える事にした。
「出版社の人と打ち合わせに来たんだよ」
「出版社?ああ、まだ続けてたのか」
 眞一郎が絵本作家を目指している事だけは乃絵から聞いていた。今も続けていて、しか
も上京までして出版社と話をしているとは少し意外だった。
「やめねえよ。俺だって本気なんだから」
 やめるものか。眞一郎に絵本を描き続ける事を決意させたのは乃絵である。たとえこの
先二度と交わらない人生だとしても、確かに重なり合ったあの一瞬を無にしないためにも
この夢を捨てる気はない。とは言え、そこまでこの男に説明する気もない。
「すまん、茶化したつもりはないんだ」
 意外にも素直に純は謝ってきた。眞一郎もそれ以上は言わない。
「いいさ」
 眞一郎はそのまま歩き去ろうとした。ところが、純も同じ方角に歩き出してきた。
「何で付いて来るんだよ?」
「歩く方角が同じなだけだ。気にするな、どうせ俺の方が歩くのは速い」
「俺の脚が短いって言いたいのか!?」
「言わねえよ」
 完全にそのつもりで言ったのだが、余裕を持ってそう答えてみた。眞一郎はますます機
嫌が悪くなった。
 二人が互いに望まないまま並んで歩いていると、突然少女の二人組から声をかけられた。
「あの……」
「うん?」
 眞一郎が振り返ったが、少女の視線は完全に純を向いていた。
「お店を教えて欲しいんですけど……」
「――どこかな?」
「えっと――」
 少女は見せの名前らしき単語を口にしたが、眞一郎には全く聞き覚えがなかった。
「ああ、それならそこの道に入って、二つ目の角を左、次の角で右に曲がれば着くよ」
「ありがとうございます!」
「あの、もしお時間あったら案内してもらえると……」
 もう一人の少女が厚かましい頼み事をしてきた。困ってるとか、不安とかではない。眞
一郎にはその少女の目がハート型に見えた。
「すまない、一緒には行けないんだ。本当にすぐだから判ると思うよ」
 一人はなおも未練がありそうだったが、もう一人の少女に引っ張られるようにして去っ
ていった。
「相変わらずもてるな、おい?」
 眞一郎が皮肉ぽく言った。
「そうでもないさ」
「いやいや、長身でスマート、涼やかな目元。ホストにでもなれば大成功じゃねえの?」
 さすがにカチンと来たらしい。純も言い返した。
「いやいや、田舎に引っ込んだお前にはわからんのも無理はないが、俺くらいの男前はこ
っちじゃざらにいるよ。こっちにいたらお前の彼女も目移りしたりしてな」
 純は比呂美が来ている事はまだ知らないが、眞一郎はその一言で激しく動揺した。早く
見つけないと。
「そうだな、乃絵も今なら東京の格好いい男ならなびくかもしれないな。あの部長じゃさ
すがにないだろうが」
 悔し紛れに言い返したが、想像以上の効果を挙げた。純の顔色が一瞬変わった。
「なんだ?生物部の部長ってのは乃絵に気でもあるのか?」
「さあ?よく部の買い物は一緒に行くみたいだけど?」
「…………」
 乃絵の話を信じるなら、部長と言うのは女子にショートパンツ穿かせて喜んだり、蛇の
色を見て可愛いとか言う変人と言う事だ。乃絵に恋人ができても受け入れる覚悟はとっく
についているが、眞一郎みたいな男ならまだしもそんな変人じゃ乃絵が可哀想ではないか。
 もうどちらも隣の男の事より別の問題で頭が一杯になっていた。想像が妄想を呼びまず
自分の大事な存在を保護しようとそれだけしか考えられなくなっていた。二人は無言で足
を速めた。
 二人はそれぞれ別のビルに目を留めた。純は107と大きくディスプレイされたビルを
見た。
(ひょっとして、ここで小物でも見てるのかも)
タワーレコードを見上げるのは眞一郎だ。
(ハードロックのCD、探してるかもしれないな)
 二人は互いの動きを気にも留める事なく、それぞれが目を付けたビルに入っていった。



 眞一郎はレコード店に入るとまっすぐに洋楽のフロアーに向かった。初めての店でしか
も広いので、なかなか目指すジャンルの棚が見つからない。ようやく見つけたが、そこに
比呂美の姿はなかった。
「ここにもいないか……どこに行っちまったんだ、全く」
 眞一郎は比呂美の行動パターンについてはある程度把握している自信があったが、どう
やらそれは麦端限定だったようだ。
「あとこの中だと……」
 眞一郎は案内を見て、映画DVDのフロアーを覗く事にした。そこにもいなければここに
はいないだろう。

「はい、これで結構ですよ」
 店員がメイク道具を置いた。
「…………」
「いかがですか?」
 店員の声は自信に満ちている。滅多に出会えない上質なモデルに店員のモチベーション
も上がり、改心の出来映えと断言できた。
 決してコントラストが濃いわけでもなく、ナチュラルな方向のメイクだ。それでいて目
も口も素顔の自分より確実に整っている。比呂美が日頃イメージして、しかし技術的に出
来なかったメイクだった。
 比呂美は暫く無言だった。不満があるはずはないが、どんな感想を言えばいいのか。
「すごくきれい」ではナルシストのように見られないだろうか?
「ありがとうございます」
 それくらいしか言えなかった。
 比呂美は周囲からの視線を意識した。周囲を見回すと先程までより明らかに人の数が増
え、比呂美を注視しているのであった。多くは比呂美と目が合うとそっぽを向いたが、同
年代の少女の中には構わず凝視し続ける者も少なくなかった。
 比呂美は気恥ずかしくなって下を向いた。
「お客様、下を向かずに自信をお持ちください」
 店員が優しく言った。
 比呂美はもう一度顔を上げてみた。その視線の先に見知った顔があった。

 乃絵は洋画DVDのフロアーで一本の映画を手に取っていた。
『WATARIDORI』というタイトルのドキュメンタリー映画で、パッケージには月
をバックに飛翔する白鳥の一群が映されている。
 裏のあらすじによれば百種類以上の渡り鳥を三年に渡って追跡した感動のドキュメンタ
リーとある。鶏はいないものの、雛鳥が懸命に飛ぶことを覚え、親鳥と共に北極目がけ羽
ばたく姿はあの絵本を想起させた。
「うん、決めた。これにするわ」
 乃絵はケースを天井に透かすように両手で掲げたり、胸に抱きしめたりしながらレジに
向かった。
「えぇ!?」
 店内の客の一人が妙な声を上げた。失礼な、と乃絵は相手を睨みつけようとして――そ
のまま固まった。
 仲上眞一郎がそこにいた。
「眞……一郎、どうして……?」
 あまりにも予想外の時と場所に、乃絵はうろたえそれだけ言うのが精一杯だった。
 眞一郎も驚いていたが、こちらは多少ショックが小さかった。先に4番――純に会った
事もあるが、その時の様子から誰かを探しているように見えた。その姿から無自覚に乃絵
の存在を予感していたのかもしれない。
「い、いや、ちょっと、雑誌の挿絵の仕事でこっちに打ち合わせに来ててさ……そういう
お前は、どうしたんだよ?」
 しかし、乃絵は眞一郎の言葉の後半部分は聞こえていなかった。
「雑誌!それじゃ、また眞一郎の絵が載るの?」
「ああ、何ヶ月か先になると思うけど――また?」
 乃絵の顔が見る間に赤くなっていくのが見えた。乃絵は自分の左腕に下げた書店の袋を
それとなく身体の後ろに隠した。
「ほら、えーと、ああ、そう、桜子!桜子から聞いたの。ほら、あの子のお姉さん、最近
お母さんになったから、そういう雑誌もよく見るんだって」
「いや、俺、他のクラスの女子はよく知らないから」
 眞一郎が戸惑ったように言った。
「そ、そう、そうよね、無理ないわ」
 しどろもどろになりながら取り繕う。そして、乃絵は話題を強引に変えた。
「お兄ちゃんと一緒に来ているの。でも、お兄ちゃんたら、私が少し目を離している間に
どこかにふらふら行っちゃって。しっかりしているように見えても、そういう変なところ
でどじなんだから」
 乃絵の言葉にもかかわらず、眞一郎は事の真相に思い至った。
「お前…迷子か?」
 乃絵の顔がますます赤くなった。ウィンナーみたいだ、と眞一郎は思った。
「あ、あなたに不幸がおと――」
「お前の兄さん、107に行ったぞ」
 呪いの言葉の腰を折った眞一郎だが、乃絵はようやくつかんだ手掛りで怒るどころでは
なかった。
「ホント?ホントにホント!?107にお兄ちゃんいるの!?」
「ああ、ついさっきまで同じ道歩いてたから間違いないよ」
「連れてって。私を案内して」
「案内って、すぐそこ…おい、押すな」
 乃絵に押し出されるように出口に戻されながら、比呂美はここにはいないのかと見渡し
ていた。

 107に入っても心当たりなどあるはずもなく、純はきょろきょろしながら妹を探して
いた。
(まいったな)
 どうもこういう店は苦手だ。こういう場所が似合わないわけではないが、本人に全く興
味がないのだから近づくはずがない。長身の純はその場の少女の目を惹きやすく、居心地
悪い事この上ない。
(こんな所に乃絵はいないな、他を当るか)
 半ば言い訳のようにそう断言し、表に出ようとした時、すれ違うカップルの会話が聞こ
えてきた。
「おい、怒るなよ」
「いやらしい、じーっと見ちゃってさ」
「お前だって見てたじゃないかよ」
「彼女の前で他の女の子に見とれるって最低よ!」
 その言葉を聞いて二人の来た方向へ向かったのは野次馬根性ではない。根拠もなく、そ
んな噂になるほどの美少女がいるならそれは乃絵に違いないと確信したのである。
 場所はすぐにわかった。明らかに異質な人だかりが出来ていた。純は人垣をかき分け、
噂の少女の顔を見ようと前に出た。
 乃絵ではなかった。乃絵より髪が長く、やや髪の色は明るく、しかし彼の知る顔だった。
「あ……」
 何故ここにいるんだ?と考え、先ほどまで悪態を吐き合っていた男のことを思い出した。理由はともかくあの男に付いてきたのだろう。
 その時比呂美が周囲を見回し、彼と目を合わせた。
「あ……」
 比呂美も純に気が付いた。驚いた顔貌はしているが、以前のような困った表情ではなくなっていた。それだけで、なぜだか純は救われた気がした。
「あんたも来てたのか」
 店から出た比呂美にそう言った。比呂美は言葉の意味をすぐに把握した。
「眞一郎くんにも会ったの?」
「ついさっきな。タワーレコードに入っていったぞ」
「もう、終わったなら連絡くらいくれたって――あれ?」
 比呂美は自分の携帯を見て、電源が入っていないことに気付き声を上げた。電源を入れ
直したがすぐにバッテリー切れの表示。充電を忘れていたようだ。
「あいつ、絵で仕事を始めてるんだな」
 純が言った。諦めて携帯を戻した比呂美が柔らかく笑う。
「うん、雑誌の挿絵だけど、絵本を送った出版社で目に留まったらしくて」
「そうか。よかったな」
「ありがとう」
 自分の事を言われたように嬉しそうな返事。改めて今が幸せなのだと純は確認した。
「あなたはどうなの?バスケ、続けてるの?」
「いや、今はやってない。周りがおっさんだらけでさ」
「ひどい言い方」
 また笑う。
「……そんな風に笑うんだな」
「え?」
「あの時、俺、あんたがそんな風に柔らかく笑うの見た事ない」
「ああ」
「あんた、笑うと可愛いんだな」
 眞一郎は絶対にこんな事は言わない。絵本では歯の浮くような詩が添えられている事も
多いが、こういう気の利いた科白は一切出てこなかった。もちろんそれは比呂美にとって
何の不満にもならないが。
「――連絡がつかないんじゃ、あいつも探してるだろ。早く行ってやりな」
「そうね。教えてくれてありがとう」
 比呂美は階段に向かって歩いていった。



 出るとすぐ、眞一郎と彼を後ろから押す乃絵の姿を見た。
「眞一郎くん!」
「あ、比呂美、よかった、探した……」
 眞一郎が絶句した。コスメショップ店員渾身のメイクは、比呂美がもっともきれいに見
られたい人物からの高評価を勝ち取る事に成功していた。
「そこのお店の人にやってもらったの。似合うかな、眞一郎くん……?」
「に、似合う!凄くきれいだ!」
 文学的表現とは対極に位置する言葉で褒める眞一郎。比呂美もほっと安心する。
「よかった」
「ね、私のお兄ちゃん見なかった?」
 二人の世界から見事に弾き出された乃絵が比呂美に訊いた。
「さっき二階で会ったわ。石動さんも探してたの?」
「こいつ、迷子になったらしいんだ――いてっ!」
 最後の悲鳴は乃絵が腰めがけて正拳突きを見舞った事によるものだ。
「二階ね、ありがとう」
 そう言うと乃絵はさっさとその場を離れ、107に消えていった。
 眞一郎は腰をさすったまま言った。
「どうする?何か食いたいものあるか?」
「ピザ食べない?さっき見かけたの」
 比呂美は眞一郎に寄り添った。



「少し目を離すとすぐこれなんだから」
 乃絵が言った。
「悪かった、すまん」
 純も逆らわない。
「しかし、何買ったんだ?わざわざこっちで買うようなものだったのか?」
「そういうわけじゃないけど」
 乃絵は袋の中の育児雑誌を見ながら答えた。
「中の絵に才能を感じたの」


                了

ノート
乃絵と4番の距離が少し広がったように感じるのは、単純に乃絵が成長して兄離れをし始めているだけです。アニメ12話が
わだかまりとして残っているわけではありません。ただし、4番は部屋に妹を泊めないなど、まだ気にしています。

最初はメイクをするのが乃絵で、レコード屋に入るのが比呂美で話を書いていたのですが、乃絵が言われるがままメイク
などさせるかという疑問と、比呂美がレコード屋にいたら眞一郎が一発で見つけるだろうと言う事で変更。

『WATARIDORI』はフランスのドキュメンタリー映画で、新宿タイムズスクエアの単館上映だったと思います。
ドキュメンタリーなのでそれほど盛り上がる映画ではありませんが、大画面で何千羽という鳥が撮影用の飛行機と並んで
飛んでいく姿は結構圧倒されます。家庭だとホームシアターの設備が揃っているかどうかで評価が大きく変わると思います。
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