春雷-4


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――第四幕『こっちを向きなさい』――

「今の仲上家と比呂美の間に何か問題があるだろうか?」
 眞一郎は自室のベッドの上で現状を整理していた。

……比呂美はしっかりしている。料理は出来るし、掃除や洗濯もまめにしている。
  だらしないところは何もない。
  ただ16歳の少女の一人暮らしは、とにかく物騒なのは変わらない。
  幸い比呂美のアパートは、近い。走って10分もかからない。
  何かあったときの合鍵も預っている。
  経済的にも問題はないはず。

……比呂美の気持ちは?
  比呂美にとっても『ひとりの空間』は、一番安らげる場所であろう。
  母と打ち解けている今でも、
  仲上家より断然、羽が伸ばせるのは間違いない。
  比呂美の友達も気兼ねなくアパートに呼べる。
  比呂美を支えてくれるの何も俺だけじゃない。

……俺の存在は?
  相思相愛とはいえ、
  同い年の男に見られたくない、知られたくないことは幾らでもあるだろう。
  例えそれが相手に嫌われることではないと分かっていても。
  そういう障壁がなくなるのは、結婚してからの話。
  だが、俺らは若い、未熟だ。
  自分を抑えきれずに淫らな行為に走るかもしれない。比呂美も同じはず。
  でも俺らは抑えきれている。
  離れている分、恋しくなることはあるが、
  逆にこの距離が理性の介在をしやすくしている。
  何も問題無いではないか。

……でも何か、引っかかる……

……じゃあ、なぜ比呂美は最初から一人暮らしをしない? 仲上家に来ないで。
  親父とお袋は何故何も言わない。
  比呂美の精神の安定を最優先に考えている?
  親父達は、俺にはまだ分からない『何か』を理解しているというのか?
  もしそれが分かったとしても、今の俺にはどうすることも出来ない気がする。
  そんな気がする。
  今の俺には、今の俺に出来ることで、比呂美を守ってやるしかないんだ。
  俺に出来ることで、比呂美を……

 嵐の次の日、学校での比呂美は特に変わった様子はなかった。眞一郎も落ち着いていた。
 それぞれの心に、いろいろな思いが渦巻いていても、現状を壊してまで解決への糸口を
探すという結論には至らなかったのだ。
 このように、ふたりの間に一回激しい波が押し寄せたはしたものの、またいつもの平穏
な関係に戻りつつあった。
 しかし、そこに大きな一石が、またしてもこの人によって投じられた。

 この日、比呂美は夕食を仲上家で取った。食後、お得意様から頂いたアップルパイを比
呂美と一緒に居間のテーブル並べた後、理恵子は前触れもなく話を切り出した。このとき
ヒロシは不在だった。
「いただく前に、お話があります」
 無表情な理恵子の声に反応した眞一郎と比呂美は、おそるおそる理恵子の顔を伺った。
「これなんだけど……」
と言いながら理恵子は、スカートのポケットから例の『鍵』をテーブルの上に置いた。
 ハートの『輪っか』の付いた『鍵』、比呂美のアパートの『合鍵』。
「!!!!」
 眞一郎は全身硬直し、比呂美は両手で口元を押さえた。
 そして、ゆっくりお互いの顔を見た。比呂美は、「どうして?」と目で眞一郎に尋ねた。
 その様子を伺っていた理恵子は、この『鍵』の張本人が比呂美だと確信すると、比呂美
に向かって説明を求めた。
「比呂美……どういうことなのか、話してくれるかしら」
「母さん、それは!」
 眞一郎は、とにかく自分に矛先を向けさせねばと必死に割り込んだ。
「あなたは、少し黙ってなさい」
 叱りつける様な理恵子の声が部屋に響く。
 そのあと、沈黙を経て、理恵子は優しい口調に変わった。比呂美がガタガタ震えはじめ
ていたからだ。
「比呂美……」
「……ごめんなさい」
 俯いた比呂美がなんとか声を絞り出すと同時に、涙が一つ、二つ落下した。
「これが、どういう意味なのか、分かっているわよね?」
「……はい……ごめんなさい」
 もう声になっていない比呂美の返事。
「謝っているってことは、『そういう気持ち』があったってこと?」
「母さん!」
 これ以上はダメだと思った眞一郎は、理恵子の追及を制した。
「……ご…めん…な…さい」
 比呂美は両手で顔を隠し、本格的に泣きだした。眞一郎はすぐに比呂美の傍により肩を
抱く。
 思いの外早く崩れてしまった比呂美に呆れ半分同情半分で、理恵子は優しくつづけた。
「……比呂美。あなたたちのこと、今更とやかく言うつもりはないけど、まだ高校生でし
ょう? 少し行き過ぎじゃないかしら。そりゃ……私にも身に覚えの一つや二つはあるけ
ど……親としては見過ごせないわね」
「……ウッ……ゥッ……」
 比呂美は、変わらずヒクヒク泣いている。
 理恵子は、比呂美に自分の気持ちを何でもいいから話して欲しかった。眞一郎を誘った
なら、誘ったでいい。ただ、このまま放って置いては、比呂美がどんどん大人になるにつ
れ、取り返しのつかない大きな障害になりそうな気がしていたのだった。『本音』が言え
ないという……。親として見過ごせない、というのはそういう意味もあった。
「何か思っていることがあったら言ってちょうだい」
「母さん! もう、いいから……」
 そこへヒロシが帰って来た。
「ただいま。……ん? どうした」
 居間の戸を開けて入ってきたヒロシは、比呂美の泣き声に顔が険しくなった。
「いえ……そのぉ……」
 比呂美がまだ落ち着いていなかったので、理恵子は曖昧な返事をしてしまう。
「眞一郎、何があった」
 ヒロシは眞一郎に説明を求めた。眞一郎は、比呂美から離れ、自分の決まった位置に正
座した。
「あ……その……俺が……」
 眞一郎は、自分に矛先が向く言い訳を考えていたが思いつかず、しどろもどろになった。
 そんな眞一郎に痺れを切らしたヒロシは怒鳴った。
「ちゃんと話さないか」
 このままでは、比呂美がまた泣き出してしまうと思った理恵子は、ヒロシにお茶を入れ
はじめた。
「あなた、座ってください」
 ヒロシも深刻な内容だと感じて、しばらく誰かが切り出すのを待つことにした。
…………。
「あなた、これなんですけど……」
 理恵子はヒロシが帰って来た時に慌てて隠した『鍵』を再びテーブルの上に出した。
「これは?」
 もっと重大な事だと思っていたのだろう、ヒロシはこの可愛らしい『鍵』を見てきょと
んとした。
「比呂美が、眞一郎に……」
と理恵子がつづけると、意味が分かったらしく顔色が少し渋くなった。眞一郎も比呂美も
ヒロシが事態を呑み込んだことを感じた。
 ヒロシ以外誰一人として動かなかった。いや、動けなかった。だが、眞一郎はヒロシの
顔をずっと見ていた。
 比呂美は、ようやく落ち着きつつあったが俯いたままだった。頬に髪の毛が張り付いて
いる。
 ヒロシは、しばらく比呂美を見つめていた――優しく深い眼差しで。そしてお茶を一口
すすった後、比呂美に言葉を発した。
「比呂美、こっちを向きなさい」
 とうとう来たと、居間に再び緊張が走る。
 比呂美は、もう泣いてばかりではいられないと思っていた。先ほどの理恵子の言葉を思
い出し、叱られてもいい、とにかく自分の気持ちを伝えようとした。
「ぉじ…さん……ぉ…ばさん……ご…めん…なさぃ……わた…し……」
 だが、比呂美の口はガクガク震えて、まともに喋れなかった。
 比呂美のそんな様子に苦笑したヒロシは眞一郎の顔を見た。息子の顔を。自分と妻が1
7年間育ててきた魂。眞一郎もヒロシを真剣な顔で見つめ返す。決して目を逸らさない。
比呂美は責められることは何一つしていないと目で訴える。自分も同じだと。
 その訴えが伝わったかどうかは分からないが、ヒロシはその『鍵』を手に取ると、その
手を眞一郎へ差し出し、こう言った。
「おまえが、持っとけ」
「!」
 その言葉に信じられないというような顔をした理恵子は、ヒロシに叫んだ。
「ちょっと、あなた!」
「自分の息子が信じれないのか!」
 ヒロシも理恵子の勢いをそっくりそのまま返した。
「そんな……」
 半立ちだった理恵子の腰がガクッと落ちた。
 そんな理恵子の様子に構わず、ヒロシは、理恵子が聞きたくない言葉を言った。
「どうして比呂美の気持ちを信じてやらないんだ」
 理恵子は、その言葉に無性に腹が立った。
「そういう話では……」
「そういう話だ。今の比呂美の心の支えは眞一郎なんだ。おまえも分かっているだろ
う?」
「それは……」
 理恵子の苛立ちは、ヒロシへではなく自分自身に方向転換させられた。ヒロシの言うこ
とは分かっていた、最初から。でも女として、母親としては、『合鍵』のことは見て見ぬ
振り出来ないのた。自分に向けられたヒロシの言葉に、事態の収拾は、理恵子の範疇を越
えてしまったことを、理恵子は納得せざるを得なかった。
 呆然としている眞一郎と比呂美。
「ほら、受け取れ」
 ヒロシは軽く腕を上下させ、眞一郎に受け取るよう促した。
 チャリッと音を立てて眞一郎の手に渡る『鍵』。
「父さん」
 そう眞一郎が呟くと、二人の動作がピタッと止まり、無言の沈黙が続いた。
 その親子の姿を真横で見ていた比呂美は、今何か『誓い』みたいなものが、男同士の間
で交わされているのだと感じた。

……比呂美を絶対傷つけたりしないよ……

 眞一郎はそう誓ったのだった。

 ヒロシと理恵子の夫と妻のやり取り、ヒロシと眞一郎の父と子のやり取りを間近に見せ
つけられた比呂美は、自分はとんでもない間違いをしたのではないかと感じていた。ヒロ
シが言ったように、比呂美にとって眞一郎が心の支えであることは間違いない。比呂美自
身も自覚している。だからこそ、仲上家に来たのだ。

――両親を一度に失った比呂美は、その時、自分の目に映るすべてのモノが絶望に彩られ
た。何を触っても次の瞬間粉々に砕け散る錯覚に見舞われたのだった――。

……私は、今、立っているの?
  私は、今、息をしているの?
  私は、今、生きているの?
  私は誰?
  私の親は誰? 何処に居るの?
  私は誰の子供?
  誰と誰の愛の結晶。
 『愛』?

……私を愛してくれるのは誰?
  私が愛しているのは誰?
  私の『好きな人』は?

……仲上くん
  7年間想い続けた想い。

……仲上くん
  眞一郎くん。

 当時の比呂美の心に1秒先、1分先を考える余裕などある筈が無い。とにかく絶望に彩
られていないモノが、何か一つ、たった一つあれば良かった。

……この想いだけ。
  仲上眞一郎くん。
  会いたい。
  会って確認したい、絶望に彩られていないことを。
  彼がその一つであることを。

「比呂美……」
 照れくさそうにする彼。
「あの……」
 モジモジする彼。
「みんな……そばにいるから……」
「!」

……みんな……そばにいるから……

 比呂美の両親が亡くなったあと、眞一郎が比呂美かけた最初の言葉がそれだった。

……絶望に彩られていない。
  私には、まだ、ある。絶望に彩られていないモノが。
  わたし、ここなら、前を向いて、生きていける。
  みんな、そばにいるから。
  みんな……

 あの日から、もう二年になろうとしていた。
 今までどれだけの愛情が比呂美に注がれただろうか。
 一日一日、一つ一つ希望に彩られていくのを確認しながら、心の落ち着きを取り戻して
いった比呂美は、今、冷静になって考えてみた。

……私が、生きていかれるのは、誰のお陰。
  私が、毎日、ご飯が食べれるのは?
  私に、毎日、帰れる場所があるのは?
  私が、毎日、眠られるのは?
  私が、毎日、学校へ行けるのは?
  私が、眞一郎くんと出会えたのは?
  誰のお陰?
  そう、目の前に居るこの二人。『仲上寛』と『その妻、理恵子』。
  私が、今しなければならないことは、
  この二人の自分への愛情に対して素直になること。
  私を、子供として叱ってくれる理恵子さん。
  私を、信じれと言ってくれる寛さん。
  ごめんなさい、寛さん、理恵子さん。そして……。
  ごめんなさい、お父さん、お母さん。
  ごめんなさい。
  ありがとう……

 眞一郎とヒロシの親子の誓いのあと、比呂美は、仲上家の人に今まで見せたことのない
清々しい顔を眞一郎へ向けた。
「眞一郎くん、鍵、返して」
「え?」
「ごめんなさい、返して」
 透き通っていて力強い比呂美の声に、眞一郎は一瞬と惑ったが、比呂美の考えに気づく
のにさほど時間を要しなかった。
「比呂美……わかった」
 優しく微笑みながらゆっくりと鍵を返す。
 鍵を受け取った比呂美は、すぐさまヒロシに向き合うと深々と頭を下げた。
「寛さん、理恵子さん、何かあったときこの鍵を使ってください。よろしくお願いしま
す」
 そうして鍵をヒロシの前へ差し出した。
 ヒロシと理恵子は、初めて比呂美が自分の名前を呼んだことに目を丸くした。二人は、
お互いの反応が気になって、ほぼ同時にゆっくりとお互いの顔をみた。理恵子が先に表情
を柔らかくすると、ヒロシは比呂美に手を伸ばし軽くポンと頭に触れた。
「……わかった。預らせてもらうよ」
「よろしく、お願いします」
 比呂美、さらに頭を下げる。
 この時、ヒロシと理恵子は、比呂美の『父と母』のことを思った。
 ようやく、一つ、クリア出来たかな? 二人は、天国にいる彼らに向かって心の中で報
告した。
 そして、この場を和ませにかかったのは意外にもこの人だった。
「母さん、ケーキ、俺の分はないのか?」
「ぇ、あ、はい、持ってきます」
 ヒロシは、理恵子が立ち上がろうとするときに鍵を渡し、比呂美を優しく気遣った。
「比呂美、顔、洗って来なさい」
 比呂美はすぐ立ち上がった。
 眞一郎は、比呂美が脇をすり抜ける時、自分が比呂美を好きな理由の一つを確認してい
た。
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