第二回 True Tears 比呂美ショートストーリー
『仲上比呂美の第一歩・後編』
作 レンビンダミナ
「眞一朗!」
俺の名前を呼んで、勢いよく背中に抱きついてきた少女――訂正――女性は石動乃絵だ。
高校の頃のごたごたで一時疎遠になっていたのだが、比呂美と一緒に進学した大学でなぜか乃絵とばったり再開。
俺と乃絵の学部が同じだったこともあって、俺達はまた自然と話しの出来る関係へと戻っていった。
大学卒業後の乃絵は、どういうわけか大手の出版社に就職。そこに俺の作品を売り込んだのも、実は乃絵だったりする。
乃絵のおかげで運良く作家としてデビューできることになったのはいいが、俺についた担当編集者は、まるで狙ったかのごとく
石動乃絵そのひとだったわけで……。
「ばっか! 離れろ、乃絵!」
「いやーよ。眞一朗の背中を見ていたら、なんだか突然くっつきたくなったんだもの」
悪びれる様子もなく、乃絵はすりすりと俺に体を寄せ付けてくる。
初めてあった頃から、ほとんど身体的な成長がない乃絵なのだが、ほんのりとはいえ背中に当たる微妙に柔らかい感触は、
筆舌につくしがたいものがある。実際には服越しでほとんど感触はわからないのに、あの部分が当たっているという事実だけで
胸が高鳴るこの感覚は、男ならではのものにちがいない。
「いいから離れろ、服がシワになるから」
「あら、そんなの私がツバつけて治してあげるわ。だからダイジョブ!」
「はぁ……」
正直、乃絵にはかなわない。
俺がなにを考えているのか。何をしたいのか。何に悩んでいるのか。とにかく色々なことを見透かされているような気がする。
こうして俺が文句を言っていても、俺が本気で嫌がっていないのがわかっているから、こうして甘えた態度を見せてくるのだ。
そして、こうして駄駄をこねる乃絵に対して、最後に俺がかならず折れることも知っている。
「わかったから。ほれ、足だせ」
「はぇ?」
「足を前に出せって言ってんだよ。このままじゃ疲れるし、おんぶのほうがいくらかましだ」
「ん!」
それでいいのだ、といわんばかりの満面の笑みを浮かべて、足を腹のあたりにかけてくる。
(おんぶなんて、随分してなかったっけ……)
曇りガラスの向こう側のように、もう朧気にしか見えなくなった過去を振り返る。こんなこと、前にもあったかもしれない、と。
若草の匂いをたっぷりとふくんだ、爽やかな風が吹く。
あたり一面に広がった満開の桜。
季節は春。
俺と比呂美の結婚を祝うかのような暖かな陽光に照らされて、木漏れ日の下を歩いていく。
先に見えてくるのは、まだ出来たばかりの真新しい教会。
こうして、俺達の長い一日は始まる。
「行けー! ライゴーマルー!!」
…………背中に、乃絵を乗せながら。
「比呂美!」
控え室の扉を開けて入ってきたのは、私の大親友である黒部朋与。ひさしぶりに見た親友の姿に、涙が溢れてきそうになるのを
必死で堪える。
「朋与、来てくれたんだね」
「あったりまえでしょ! 仕事があったって、比呂美のためならいくらでもサボれるっての」
高校卒業後、県外の体育大学に進学した朋与は教員免許を取得。今は千葉のほうにある高校で、体育の先生をしながら
女子バスケ部の顧問もやっているらしい。定期的に出会いがないと電話ごしに愚痴る朋与は、私達の式で良い男を見つけるのだと
言って、気合いの入ったメイクとドレスで着飾っている。眞一朗のお仕事関係の人達や、仲上の親族の中には若い男性も多いので、
本当に良い出会いがあるのかもしれない。あるといいね。
「ありがと。でも、本当に大丈夫だったの? バスケ部の試合があるって――」
「ああ、だいじょぶよ。他の暇そうな先生に頼んでおいたからって、そんなことより! ようやくここまでこれたんだね、おめでと」
急に真面目な顔で朋与が言った。
私達の間にあった事や事情を、少なからず知っていて応援してくれた親友からの祝福の言葉は、本当に嬉しいものだった。
「うん。あのときの事を考えると、いまこうしてここにいる事が奇跡みたいに思えるの」
「そう? ま、あたしは最初からこうなるって気がしてたけどね」
「はいはい。そういうことにしておきます」
「なんかひっかかる言い方だけど……ま、いいわ。ところで彼は?」
彼――というのは、もちろん眞一朗くんの事。
「桜を見てくるって、さっき外に」
「へー。こんな綺麗な花嫁さんをほったらかして、あいかわらずなやつね~」
「そんなことないよ! すごく優しくしてくれるし、私のことを愛してくれるし、えっと……それから」
「わかったわかった。お惚気ならまたこんどにしてよね、電話で散々聞かされてるこっちの身にも――」
朋与が言い終わる寸前、コンコンとドアをノックする音が聞こえてきた。
「――っと、旦那様のお帰りかな?」
朋与がからかうように笑って言った。私はそれを無視して、ドアの向こうに声をかける。
「どうぞ」
「入るぞー」
聞こえてきた声は、眞一朗くんだった。ガチャリと遠慮がちにドアを鳴らして入ってくる。
「おかえりなさい。しんいち……ろ――」
入ってきた眞一朗くんは、外でつけてきたのか桜の花びらを頭にいっぱい乗せて、なぜか石動乃絵を背負っていた。
私の時間が一瞬止まった。
「げ」
朋与が頬を引きつらせて言った。一言だけの感想だったけど、概ね私も同じ意見だ。
「ん、誰かいるのか? ――て、なんだ黒部か」
「ちょっと、なんだってことはないんじゃないの? 仲上君の最愛の人の大親友に向かってさ」
「へいへい、悪うございました。遠いとこからわざわざありがとうな、黒部」
「わかればいいのよ」
二人が話している間、眞一朗くんの背中の上で、石動乃絵は無言で私に微笑んでいた。まるで、「おめでとう」って言うみたいに。
私と石動乃絵との関係はとても珍妙なものだ。
私と彼女は同じ人を好きになった。一時は本気で奪い合いをしたし、それに私が勝った後はほとんど話すこともなかった。
普通なら、このままフェードアウトしていく存在。私と眞一朗くんが歳を重ねたとき、そんなこともあったねって思い出したりする。
そんな存在だったはずの石動乃絵は、なぜか大学で鉢合わせ。おまけに眞一朗くんと同じ学部だ、なんて聞かされたときは
本気で泣きそうなくらいに嫉妬してしまった。なぜかといえば、私は眞一朗くんとは別の学部だったからだ。
はじめは気まずそうにしていた眞一朗くんと石動乃絵だったけど、近くにいる時間が増えたせいなのか、二人はまた話せるくらいの
関係になっていった。私と眞一朗くんの食事にも顔を出すようになったり、時々彼に甘えるような仕草を見せることもあった。
眞一朗くんと付き合うようになる前だったら、本気で彼女を排除しようとしていたような気もするけど、この時の私は眞一朗くんに
愛してもらえる事と、仲上の家でとても良くしてもらっていたことで幸せのまっただ中におり、心がとても寛大になってしまっていた。
思えば、この時の油断こそが最大の失敗。
その後はもうずるずると石動乃絵の侵略を許してしまい、眞一朗くんの創作活動の良き理解者といった感じで、
しっかりと自分の席を用意してしまっていた。その上、出版社に就職して眞一朗くん専属の担当者にまでなっていたりで。
もしかしたら生涯切れることのない位置にまで自分の力でやってきたのだから、たいしたものだと思ってしまう。
眞一朗くんが作品のことで深く悩んでいるときも、彼女がきて少し話しをしたとおもったらすっかり立ち直っていたりして。
私の見ていない、見ることのできない眞一朗くんのことを、すべて見て知っているような石動乃絵の存在は、私を酷く不安にさせる。
「私は眞一朗のファンなの。大空を飛んでいく彼を見守って、私は彼をもっと高くへ昇らせる風になりたいって思うの。それだけ。
だから、あなたが心配しているようなことは何もないから、安心して。私は眞一朗を見上げているのが大好きだから」、
と石動乃絵は言っていた。
(今は、まだ見逃してあげる。だけど、いつかきっとあなたの席も私のものにしてみせる)
負けるものか、という意志を込めて石動乃絵の視線に対抗した。理解したのかどうなのか、彼女は一度小さく頷いて微笑んだ。
「――じゃ、俺はそろそろ行くわ。みんな集まりだした頃だから、軽く挨拶してくるよ」
「うん、行ってらっしゃい」
「じゃ」、と言って控え室を出ていく眞一朗くん。その背中で、石動乃絵が手をバイバイの形で振って、二人の姿は消えていった。
「しっかし……ふつう結婚式当日に、元カノおんぶして花嫁の前に現われたりする? ありえないわよ、あいかわらずのおぶん野郎ね。
比呂美もさ、もっと何か言ってやったほうがいいんじゃな――」
朋与の言葉が途切れた。
「どうしたの?」
「気持ちはわかるけど、やきもち焼くならもっと素直に焼いたほうが彼も喜ぶと思うわよ……」
そう言って朋与は、私の手元に視線をおとした。手元を見ると、持っていたなくなりかけのペットボトルがボコボコに変形している。
嫉妬心を覚えると、理性の一部がどこかに飛んでしまう私の悪い癖がでてしまったらしい。
「う……」
朋与は「はぁ」、と溜め息をこぼして言うのだった。「あいかわらずだよね、あんた達」、と。
乃絵をおんぶしたまま外に出ると、教会の前には今日の出席者達が集まり始め、それぞれに談笑したりしていた。
ほんの少し周囲を見渡すと、すぐに見慣れた幼馴染の姿を見つけることができた。
「愛ちゃん!」
離れたところから手をあげて名前を呼ぶと、向こうの手をあげてこちらに駆け寄ってくる。
「眞一朗――っと、乃絵ちゃん?」
「こんにちは」
驚いた顔で乃絵を指さす愛ちゃん。乃絵はそれに挨拶で応えた。
「三代吉は?」
てっきり愛ちゃんと一緒にいるものと思っていた、俺の親友の姿をさがす。
「今きたばかりだからね。まだ駐車場で車入れてると思うよ」
「そっか。んじゃ、俺はちょっとそっち見てくるわ」
「ん、わかった。私は先に中入ってるって言っておいて」
「わかった。――じゃあ、そういうわけで降りろ、乃絵」
「どーして?」
「お前も愛ちゃんと一緒に中入ってろ。俺も三代吉と話したら比呂美のところへ戻るから」
俺が手を離してかがむと、不承不承乃絵もそれに従い、地面に降りた。
ずっと密着していたせいもあって、背中がすーすーとして心もとなかった。
「よし。それじゃあ愛ちゃん、乃絵をよろしくな。こいつほっとくとすぐどこかに行っちゃうから」
強引に愛ちゃんに乃絵の見張りを頼んで、三代吉のいるほうへ向かうのだった。
「え!? ちょっと眞一朗?」
眞一朗は、わたしに乃絵ちゃんを押しつける形で行ってしまった。このために私を呼んだのだろうか。
私は目の前にいる乃絵ちゃんを見る。だんだんと遠ざかる眞一朗の背中を一心に見続けている姿は、愛しい人を見つめる女の子
そのもののようだ。
あの時、私達の運命がはっきりと分かれてしまった、あの出来事からしばらくたって。互いに落ち着いて話せるようになったときに、
眞一朗から簡単にだけど、あの時の事を聞くことができた。話の中でも特に気になったのは、私とほんの少し似た立場にいた、石動乃絵
という女の子の事。
同じ人を好きだったからわかる。彼女は、乃絵ちゃんはきっとまだ、眞一朗に恋をしている。
(強いな……)
成就しないと知りつつも、好きな人を支えるために側に居続ける乃絵ちゃんの姿は、私には眩しくて、そして妬ましい。
「行こっか」
「ええ」
どこかなつかしい、焦燥にも似た感情を振り切って、私は乃絵ちゃんを促して教会の中へと向かって歩いた。
「すごーい……」
教会に入って奥の礼拝堂まで入ると、壁一面にはめ込まれた青や緑の雅なステンドグラスが目に入った。
そして、新郎新婦の通るバージンロードには、白や淡いオレンジ、ピンク色の綺麗な花びらの絨毯がしかれている。
今年の初め頃にできたばかりだというこの教会は、結婚式専用につくられたものらしく、そこで初めての式をあげるカップルに
眞一朗たちが選ばれたとのことだ。宣伝用のパンフレットに使われるかわりに、タダで利用させてもらえるらしい。
「本当。とっても綺麗ね……」
私達は、しばらく中の様子に見とれた後、新婦側の席に腰を降ろした。
「ずっと、聞いてみたいって思ってたんだ」
まわりには誰もいない。ずっと興味を持っていた石動乃絵という人物と話せる絶好の機会だと思った。
「私?」
「うん。答えたくなかったら別にいいんだけど……眞一朗の側にずっと居て、辛くないの?」
「…………」
乃絵ちゃんは、驚いたように目を大きく開いてこちらを凝視している。
「ごめんね! すごく失礼なことだと思ったんだけど、ずっと聞いてみたいって思ってて――」
あわててフォローに入った私を見て、乃絵ちゃんはクスっと笑った。
「別に気にしないわ。……そうね、好きな人の気持ちを独占できないのは寂しいって思う事もあるけど、もしかしたらこの先、
眞一朗が気まぐれをおこすときがあるかもしれないでしょ?」
悪戯っぽく微笑みを浮かべて言った、目の前の幼げな容姿の乃絵ちゃんの顔は、ドキリとしてしまうほどに妖艶で、女の顔をしていた。
「乃絵ちゃんって、悪女の素質があるかもね……」
「そうかしら? でもあくまでそうなっても私はかまわないって気持ちなだけよ。眞一朗は綺麗な心の持ち主だって知っているから。
眞一朗が私にたいして、この先も友情以上の気持ちを抱かなかったとしても、私は一生そのことを後悔したりなんてしない。
そう決めてるの」
いつもか細くて儚げに見える乃絵ちゃんの姿は、眞一朗のことを語っているときにはまるで別人のように輝いていた。
(うらやましい)
心の底からそう思った。これだけ想われている眞一朗も、これだけ一人の人を想い続ける事のできる乃絵ちゃんも。
だけど、私の欲しているものは、きっと私のすぐ近くにあるものなのだ。だから今日、この日で色々な気持ちにきちんと整理をつけよう。
私がささやかな決心を胸に抱いたのとほぼ同時に、式のはじまりを告げる鐘の音が聞こえてきた。
「もうすぐだね……」
「……ええ」
入場。誓約の言葉。指輪の交換にヴェールをあげてのキス。すべてが順調に終わって、今は教会の前にいる。
俺達を祝福してくれる参列者達の目が、一斉にこちらに向けられる。
比呂美が涙で少し赤くはらした目をこすり、ブーケトスの準備をしている。
式の最中、意外にもいつも仏頂面をしている父さんが、声をあげながら最前列で泣いていた。
それにつられたのかどうかはわからないが、母さんの目もどことなく腫れぼったい感じを引きずっている。
ウェディングドレスに身を包んだ比呂美は、見る人すべてを魅了してしまうほどに綺麗で、こんな人を花嫁にすることのできる俺は、
この世界で一番の幸せものなんじゃないかと思う。
指輪交換のときに泣いてしまった比呂美と、その後にしたキスは、ほんのりと涙の味がした。
「準備、できたか?」
「うん!」
子供のように無邪気な笑顔で、元気よく比呂美が頷く。
「俺、ちゃんと出来てたかな?」
「とっても格好良かったよ。こんな人を旦那様にできるんだって、みんなに自慢できて、とっても嬉しいの」
はにかんで微笑む比呂美。いつもならここで照れて目線をそらすのだが、今日の比呂美は積極的に俺と視線を合わせようとしている。
「俺、ちゃんとお前のこと幸せにしてやれてるかな? 時々不安に思うんだ、俺なんかよかったのかって――んっ!」
話の途中で、比呂美に熱のこもったキスをされた。時間にして約一分ほど。まわりからはひゅーひゅーやら色々な、からかいや
祝福の言葉が聞こえてくる。
「――比呂美?」
「私の幸せは、眞一朗くんの幸せなんだよ? だからね、これからは私が全身全霊であなたを幸せにしてみせる。だから、そんな
後ろ向きなことは言わないで」
幸せすぎて、順調すぎて。そうなると、こんどはそれを失うのが恐くなる。
だけど、俺の手の中にある愛しい人の笑顔を見ていると、この先もなんとかなるんじゃないかって、そう思える。
「あ! でもね、一つだけ私のお願いがあるんだけど、いいかな?」
「もちろん! なんでも言ってくれてかまわないぞ。なんなら世界一周旅行にだって――」
比呂美は、俺の耳元まで口をよせ、小さな声でこう言った。
「はやく、眞一朗くんとの赤ちゃんが欲しいです」
「い!? が、がんばらさせていただきます。はい」
「それでは、花嫁のブーケトスの時間とさせていただきます」
ウェディングプランナーの声がそう告げる。
参列者の中の独身の女性達が黄色い声をあげて最前列のほうへ押し寄せた。
桜の花びらが舞う天空に、花嫁の手を離れた純白のブーケが舞いあがる。
――とある、春の日の出来事。
あとがきもどき
前回、結婚式前日のお話を書かせていただいたので、予告していた通りに今回は後編の式当日のSSを書いてみました。
実際には、もっと書きたい場面が多数あったのですが、さすがにそこまで描写していると恐ろしく長くなってしまいそうでしたので
今回はある程度端折って書いてしまいました。
乃絵の位置付けには非常に迷ったのですが、おもいっきりポジティブに自分なりに思考した結果がこれでした。
眞一朗にとっては、随分と都合の良い話だなぁとは思ったのですが、色々なことが円満に進んだハッピーなエピローグがテーマでしたので、
今回はこんなところで決着させたいと思います。(乃絵ファンの方、ごめんなさい)
これを書いている間、何度も「仕事もせずに何やってるんだ……」と自問自答を繰り返していました。(数時間程度のことなんですけどね)
だので、次回また書くことがあるかどうか微妙なのですが、もしまた書くようなことがあれば、
次回は、比呂美の妊娠発覚SSをコメディータッチで書けたらいいなぁ、なんて思ったりしてます。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
最終更新:2008年03月26日 20:23