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 温暖な気候に恵まれた冬木は一年を通して過ごしやすい土地だ。海に面し山に囲まれた立地でありながら、気候も相まって一都市としては破格の急成長を遂げている。

 特に古くから残る深山町の対岸、冬木大橋を挟んだ向こう側は現在進行形で大規模な開発事業が組まれており、そこかしこに建設途中のビルディングが目に止まる。
 流石に駅前は既に整地され多くの賑わいを見せているが、少し奥まったオフィス街はまだまだコンクリート仕掛けの摩天楼が互いに鎬を削りながら背を伸ばしている。

 ワンボックスカーに乗り込んだ切嗣達は空港から新都へと入り、そんな街並みをすり抜けながら目的の場所を目指し車を走らせる。

「……随分以前とは様相が違うな。後で実際に歩いて調べてみなければいけないか」

 助手席に座った切嗣が天を目指して伸びる灰色の塔を見上げながら呟く。
 事前に舞弥に用立てた見取り図は最新のものであるから問題はないとしても、平面上のデータと立体の街並みには相応の違いがある。特に切嗣のように身を潜め敵の背後を衝く戦闘術を主とする者にとって、地形の把握は最優先事項だ。

「私が実際に確認した主だった狙撃ポイントについての委細は手元にありますが、今ご覧になりますか?」

「いや、いい。それは後で見せて貰う」

 ハンドルを握る女性──久宇舞弥の問いかけにも切嗣は冷淡に答えるのみ。

 この街に入った瞬間から戦端はいつ切られてもおかしくはない。いや、血気盛んな輩ならば今なお何処かで敵影を捜し求めているかもしれない。
 だからこそ無駄な会話は必要ない。これより必要なものは戦略に関する用件のみ。この日の高い時間帯ならばそこまで警戒する程でもないかもしれないが、最初こそが肝心なのだから。

「それよりも舞弥。ここ数日、他のマスター連中に動きはあったか?」

 今現在拠点の判明しているマスターはこの地に根付く遠坂とマキリのみ。外来である他のマスター達は各々独自の工房を敷設し身を潜めているだろう。
 言峰綺礼についても教会が彼の父が監督する中立地帯である以上、別の拠点を設け時を待っている筈だ。

 聖杯戦争の緒戦は互いに腹の探り合いだ。こちらの手札を切らずに、いかにして相手の手札を暴くか。マスターの力量、サーヴァントの能力、必ずある拠点。暴き出すものは幾らでもある。

「いえ。遠坂、間桐両家に使い魔を放ち監視をしていましたが、一切の動きはありませんでした」

「そうか」

 切嗣達の入国より大分早い段階で冬木に潜入させておいた舞弥は切嗣仕込みの魔術を習得し、特に低級の使い魔の扱いについては目を見張るものがある。
 斥候として切嗣の指示を受けながら実際の行動に移したのはほとんどが彼女だ。文句の一つもなく、切嗣の急な作戦転換に素早く対応し、彼の来日に間に合うように全ての下準備を済ませていた。

「なら後は拠点に向かうだけか」

 参加者らには具体的な開戦の時期は把握できない。七人七騎の駒が出揃う瞬間を確認できるのは監督役である者のみだ。
 つまり事実上の戦端が切られた瞬間こそが参加者達にとって開戦の合図となり、緒戦が起こる時までは誰もが派手な動きを見せはしまい。

 実戦としての緒戦はどうしようと注目を集める。そんな中で己がサーヴァントの能力を披露するという事は他の参加者全てに筒抜けになる可能性を孕むという事。

 そんな愚かな真似をする者がいるとすれば、余程自信のあるカードを引き当てた強者か何も考えていない愚者のどちらか。
 切嗣にしてもセイバーを引き当てていたのなら存分に戦い注目の的になって貰う腹積もりであったのだが、如何せん当ては外れたのだ。

 故に静観が第一手。騎士と名乗る者達が戦場で華々しく戦うその裏で、切嗣達は情報の収集とチャンスを待つ。

『切嗣』

 黙考に耽る切嗣の脳に直接響く声音。霊体化し常に切嗣の傍らに存在していたアーチャーが長い旅路を終えてようやく口を開いた。

「なんだ」

『私は一足早く戦場の把握に努めたいと思うのだが』

「ああ、構わない。だが、一切の戦闘行為は厳禁だ。尾行にも細心の注意を払え。特にアサシンは気配遮断の特殊能力を持っているからな、気が付かないうちに跟けられていた……では話にならない」

『了解している。霊体化していれば相手に感知はされても知覚はされまい。それに我がクラスはアーチャー。索敵は、むしろこちらの領分だ』

 話し終えると同時に気配が遠ざかっていく。アーチャーは切嗣の傍を離れ霊体のまま冬木の地へと降り立ったようだ。

「いいのですか切嗣。サーヴァントを野放しにして」

「そこまで愚かではないさ。監視は付けさせて貰う」

 薄汚れたコートのポケットから取り出した極小の使い魔に魔力を篭めると、切嗣はそのまま窓の外へと放り投げた。
 霊体化したサーヴァントの速度に低級の使い魔では追いつく事など不可能だが、切嗣とアーチャーはレイラインで互いの存在を感知出来る。ある程度までなら後を追える。

 切嗣は未だアーチャーを完全に信用していない。信用という観点から見る限り、舞弥の方が余程深い信頼を託されていると言っても過言ではない。

「しかし、これはこれで都合が良い。あの隠れ家を使用するに当たっては、サーヴァントの気配など無用の長物だからね。
 さて……そろそろ冬木大橋か。この橋を超えれば深山町だ」

 冬木市を二分する未遠川に架かる冬木大橋を越えれば周囲の風景は一変する。建設中の塔が乱立する新都とは違い、古くからその様相を変えない深山の町並みは古き良き日本の住宅街だ。

 平屋か二階建ての建物が主立って軒を連ね、時代に取り残された趣深い家屋が大半を占める。純和風造りの邸宅と洋風建築が綺麗に分かれて同じ町内にあるというのも、この町の特徴の一つと言えるのかも知れない。

 橋を渡り切り程なく車を走らせた先で舞弥はブレーキをかけた。立派な門構えの武家屋敷の前でワンボックスカーは停止した。

「さあ到着だ。アイリ、降りてくれ」

 後部座席にて流れゆく景色にずっと見惚れていたアイリスフィールを切嗣の声が現実に引き戻す。
 降り立った場所は閑静な住宅街の一角であり、右を見ても左を見ても似たような家屋が軒を並べているだけであって、アイリスフィールが予想していた拠点とはまるで違う場所だった。

「切嗣。ここが拠点なの? 確かこの街を外れた森の中にアインツベルンが用意した城があった筈だけど」

「ああ、知ってるよ。けど元から向こうを使うつもりはなかったんだ。所在の知れている拠点は扱いが難しい。
 結界を敷き敵を迎え撃つならまだしも、僕らがこれから行う戦いは迎撃戦じゃなく殲滅戦だ。背中の心配は出来る限り排除しておきたい」

 その為の新しい拠点。しかもこの場所は遠坂や間桐の目と鼻の先だ。わざわざ郊外の森を買い取り私有地として拠点たる古城を丸ごと持ってきたアインツベルンがこんな場所に拠点を構えるとは誰も思えまい。灯台下暗しを狙ったものであろう。

 荷を降ろした切嗣と舞弥の後に続いて、アイリスフィールも固く閉ざされた門を潜り抜ける。横に視線を滑らせればそれなりに手の行き届いた庭が目に留まった。
 アインツベルンの邸宅と比べれば明らかに格を落とす敷地面積だが、これはこれで趣深いものがある屋敷だった。

「指示の通り出来る限りの整備は施しました。離れの方までは手が廻りませんでしたが、母屋の方は概ね使用可能です」

「分かった。無理を通して貰って悪いと思っている。だが、必要な事だった。僕達はあくまでこの町に偶然このタイミングで越してきた一派だ。ただ買い取っただけのボロ屋じゃ敵の目を欺けないからね」

 発展途上である冬木にあっては人の出入りは日常茶飯事だ。逐一そこまで気を廻している物好きな輩もいまい。仮にいたとしても、舞弥の名義で買い付けたこの家からアインツベルン、ひいては切嗣に結び付けられる可能性は皆無に等しい。

「さて、アイリ。当分はこの家を拠点として活動していくつもりだ。あの城で過ごした君にとっては手狭かも知れないが我慢して欲しい」

「ううん、大丈夫。貴方が生まれ育った国ですもの。その国に根付く造りの家に住むのなら何の不満もないわ。ただ……この造りだとアインツベルンの魔術式を敷設出来そうな場所がないわ」

「それなら庭の隅にある土蔵を使うといい。かなり年代がかったものだが、使用には問題ないな?」

「はい。造りの頑強さと内部は既に検めてあります」

 切嗣の問いかけに答える舞弥に滑らせた視線を庭の一角に向け大体の目処を付けてアイリスフィールに目配せする。

「というわけだ。舞弥、例のものの準備は?」

「滞りなく」

「アイリ。済まないが僕は舞弥と今後についての打ち合わせがある」

「ええ。私はこの家を見せてもらうわ。その土蔵というのも確認しておきたいから」

「じゃあまた後で。荷物は一度居間……リビングに置いておく。必要なものがあれば探して使ってくれ。それとこれが土蔵の鍵だ」

 鍵束の中から一つだけ異質な輝きを放つ鍵を示し、束ごとアイリスフィールに預けて切嗣は舞弥と共に玄関口を開け中へと入っていった。
 一人取り残されたアイリスフィールは伸びをし息を大きく吐いた。

「じゃあ少し、見て廻ろうかな」

 何処か翳りのある表情でアイリスフィールは呟き、開いたままの玄関を潜った。




 切嗣が買い付けた屋敷の中を見て廻っていたアイリスフィールにとって、この家は余りに奇妙な造りとしか思えなかった。
 アインツベルンの古城は由緒正しい中世の城を現代まで存続させ、修復を繰り返し使用している為か、広大でありながらも一つ一つの部屋はしっかりと区切られ部屋から部屋へと渡る為には一度廊下を通らなければならない。

 しかし、この家の造りは全くの逆。薄い仕切り一枚を隔てるだけの部屋が諸々に繋がっており、適当にぶらついていただけだというのに一体今自分が何処にいるのか危うく分からなくなりそうだった。

 ただこれはこれで理に適った造りなのだろう。東洋文化には疎いアイリスフィールであったが、この造りは面白いものだった。何より全ての部屋を開け放てば風が通り抜けていくのは目に見えて心地よい。

 基本的に閉塞を旨とする魔術師の拠点としてはおよそ考えにくい建築構造だが、逆にそこが盲点となる。
 正統な魔術師ならばまずこんな家に魔術師が住んでいるなどとは思わない。なるほど、切嗣はその辺りの事も考えてこの家を購入したのだろう。

「切嗣は私が言った事覚えててくれたのかな……だとしたら嬉しいけれど」

 いつか切嗣が話してくれた故郷の話の中でアイリスフィールは日本様式の屋敷に住んでみたいと切嗣に告げた事を思い出していた。

 一通り見て廻り、大体の構造も把握したアイリスフィールは一番奥にある和室にまで辿り着いた。この部屋だけが襖を締め切られており、奥からは人の息遣いが感じられた。
 考えるまでもなく、切嗣と舞弥だろう。打ち合わせがあると言っていたし、二人きりで屋敷の奥へと入っていったのだから。

「…………」

 告白するのなら、アイリスフィールは悔しかった。こと戦いにおいて、切嗣がパートナーとする女性が自分ではない事が。

 切嗣はいつでもアイリスフィールを気に掛けてくれる。けれどそれは妻として、聖杯の守り手として身を案じているだけだ。彼の舞弥に対する態度を見れば歴然で、切嗣と舞弥の間にはアイリスフィールにはない絆があるのだ。

 舞弥とも何度か面識はあるが、そこまで深い関係ではない。アイリスフィールの知らない切嗣を知る舞弥。これより臨む闘争の場で、切嗣の隣に並び立つ資格を持っているのは舞弥だと知って嫉妬に駆られたのかもしれない。

 だからその行動を、一体誰が咎められようか。切嗣と舞弥の打ち合わせ。ほんの少しの好奇心と乙女心。
 二つの感情に衝き動かされたアイリスフィールが僅かに開いていた襖の隙間から覗き込んで見たものが、愛する夫と唇を交わす女性の姿であることを。

「────っ……!」

 喉を出掛かった声を押し殺して、アイリスフィールは逃げるようにその場を去った。足音を立てないように気を付けて。気付かれないように。

 何処をどう通って辿り着いたのかは本人にも分からなかったが、気が付けば縁側へと躍り出ていた。そのまますとんと腰を落として空を見上げた。
 空の色は、何処から見ても変わらない。アインツベルンの本拠地は雪に閉ざされほとんど澄み渡った空を見ることなど叶わないが、それでも何度か見上げたことがある。

 あの時と同じ色。あの時と同じ広さ。世界はかくも美しく。ただ美しくあらんと願われて世を包む。
 この空の大きさに比べれば、人などなんと小さき事か。

 先ほど見た光景が、一体どんな意味を持つかなどアイリスフィールには分からない。それでも彼女は夫を愛し、夫は彼女を愛してくれた。ただ聖杯の守り手としての役目を与えられた存在に、生きる意味を教えてくれた。

 だから──彼女はこんなところで立ち止まってなどいられない。

 舞弥が戦場で切嗣に並び立つのなら、自分は後方よりのサポートに務めよう。出来る事はきっとある。考えれば幾らでも思い浮かんでくる筈だ。
 いつか誓った想いがある。彼が遠くを目指し歩くのなら、自分は彼の足元を見て進むのだと。だから今は、この拠点を磐石の状態にしよう。切嗣が背中を気にせず戦えるように。今自分に出来る精一杯を……

「────よし……っ!」

 ぱぁんと頬を叩いて立ち上がる。まずは切嗣が言っていた土蔵の確認をしよう。工房の敷設をして、それからもしもの襲撃に備えての結界も構築しなければならない。ほら、考えれば出来る事など山ほどある。

「夫を陰から支えるのもまた妻の役目だもの。さあ、やろう!」

 自らを鼓舞し、アイリスフィールは土蔵を目指し庭へと駆け降りた。




 アイリスフィールが土蔵に自らの簡易工房を敷き、屋敷の敷地全域を覆うように結界を張り巡らせ終えた頃、切嗣が縁側へと顔を出した。

「ん……結界まで張ってくれたのかい?」

 切嗣がぼんやりと茜色に染まり始めた空を見上げながら呟く。

「ええ。でも簡易なものよ。外からは意識されず、内部へと害意を持って侵入すると警報を鳴らすというだけの」

「いや、充分だ。身の危険に晒される可能性を少しでも減らせればそれでいい。あくまでここは魔術師の工房ではなく一般的な家庭を装っておく必要があるからね」

「じゃあ工房は簡易なままの方がいい? もう敷いちゃったけど」

「外に漏れるほど強力なものでなければ構わない。アイリはこれから何かと重荷を背負う事になるからね。休息を行える陣は必要だろう」

 アイリスフィールには切嗣の心遣いが胸に痛かった。あんな場面を盗み見たなどと言えるわけがなかった。
 だから彼女は話題を変える事にした。

「……ところで舞弥さんは?」

「居間で色々と準備をして貰っている。まだ戦端は開かれていないようだが、万端を期しておいて損はないし」

「ああ……あれね」

 先ほど居間に工房敷設と結界展開の道具を取りに行った時に見た光景はアイリスフィールには不可思議にしか映らなかった。一体何をする為のものなのかも分からない機械類が所狭しと並べられ配線が乱雑に畳の上に散らばっていたのだから。

「アイリにも渡しておきたいものとか、使い方を覚えて欲しいものもある。一応の目処は立ったんだろう? 一息いれよう」

 切嗣の言葉に頷きアイリスフィールは縁側を上がり居間へと向かった。

 二人が居間に入ると舞弥は忙しなく機器の操作に当たっていた。アイリスフィールが見たことがあるものは切嗣が冬の城に持ち込んだパソコンだけであり、その他の諸々は大小の違いこそあれ同じ箱物にしか見えなかった。

 舞弥が今現在目を向けているものはアイリスフィールの知るパソコンであり、アイリスフィールには用途さえ分からないその他の電子機器は所謂ところのテレビ、ビデオ、携帯電話の類である。
 他にも小型カメラや盗聴器、発信器といったものも準備されている。

「調子はどうだ、舞弥」

「問題ありません。全て正常に稼動しています」

 テレビやビデオの類はさして重要なものではない。主立って使われるものは情報の収集と整理に当てられるパソコンであり、

「アイリ。君にはこれを持っていて欲しい」

 携帯電話はアイリスフィールの為に用意されたものだ。

「これは……何に使うものなの?」

 あの山奥の古城には切嗣が迎えられるまで電話の一つとして存在しなかった。電気さえ通わず全て魔術で賄われた城は、なるほど千年を純血で保ち続けたアインツベルンらしいと言える。

「それは携帯電話だ。簡単な通話ならこの街の何処からかけても僕に繋がる。傍受の心配はあるが、魔術師連中が注意を払うのは同じく魔術だけだ。
 僕のような存在がいないとも限らないが、同じ魔術で会話を交わすよりも手軽で安心だろう。まあその分、使い方を覚えてもらわなきゃいけないんだけど」

「分かったわ。じゃあ覚えるから、教えて」

「ああ。じゃあ……」

 そう言って未だ困惑顔のアイリスフィールに腰を据えて懇切丁寧に説明を始める切嗣。と言っても、覚えてもらうものは通話の要領だけだ。
 さして難しくもないものであった筈だが、こういうものに疎いアイリスフィールにとってはそれだけでも悪戦苦闘の対象だ。

 口の中で切嗣に教えられる内容を反芻しつつ手元の小さなボタンに苦戦しつつもなんとかものにしようとする様が余りに微笑ましく、切嗣は少し笑いを零した。

「むぅ……切嗣。貴方、私の事バカにしてるでしょ?」

「違う違う。そんなつもりじゃないよ」

 まだ半眼で睨んでくる妻から視線を逸らし切嗣は舞弥の方を見る。情報は早さと鮮度が命だ。
 リアルタイムで流れる情報の渦の中から少しでも有益な情報を見つけ出そうとキーボードを叩く舞弥と、携帯電話の一機能に苦戦するアイリスフィールのギャップはやはり微笑ましい。

 切嗣に馬鹿にされたと思っているアイリスフィールは半ば意地になって使い方を反復している。そしてとうとう納得がいく理解が得られたのか、ディスプレイを睨んでいた瞳を切嗣に向けた。

「もう覚えたわ。いつでも貴方にかけられるし、いつかかってきても出られ──」

 その瞬間、アイリスフィールの手にした携帯電話がけたたましい音を鳴り響かせ、突然の音響に驚いたアイリスフィールは『きゃっ』と、か細い悲鳴を上げながら手の中の電話を取り落とした。

「あれ、アイリ。もう使い方は覚えたんじゃなかったっけ」

 目の前の夫の手の中には同機種の携帯電話。発信中の画面が浮かび、アイリスフィールの電話を呼んでいる。

「もうっ、切嗣のバカ」

 電話を取り通話ボタンを押しすぐさま電源ボタンを押して通話状態を切ったアイリスフィールは怒りも露にそっぽを向いた。そしてその先には、くすくすと肩を揺らすもう一人の女性。

「舞弥さん……貴女もなの……」

 この際先ほど垣間見た二人のやり取りは頭の片隅に追いやって、ここにも自分をおちょくる者がいたかと睨みを利かせるアイリスフィールに、舞弥は視線を少しだけ傾けて首を振った。

「すみません、マダム。私にも切嗣と同じように他意はありません。ただ、こんなにも楽しそうな切嗣は初めて見たものですから」

「────ぁ……」

 アイリスフィールが九年前に切嗣に出会う以前を知らないように、舞弥もまたアインツベルンに迎えられた後の切嗣の全てを知るわけじゃない。
 アイリスフィールにだけ向ける切嗣の笑顔。イリヤスフィールと楽しそうに遊び顔を綻ばせる切嗣の姿。アイリスフィールだけが知っていて、舞弥が知らない切嗣もまた確かに存在しているのだ。

 そう理解した時、アイリスフィールは少し肩が楽になった気がした。舞弥という女性の内側を少しだけ垣間見れたような気がして。

「やはり貴女は切嗣の伴侶に相応しい」

 その言葉に何処かムズ痒くなった切嗣とアイリスフィールは互いに顔を背けたまま虚空を見上げていた。
 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、カチャカチャと舞弥がパソコンを叩く音を耳に、切嗣は一つ咳払いをした。

「まあ、何はともあれこれで使い方は覚えたね。じゃあ次に行こう。こっちは発信器といって、所有者の居場所を知らせるものだ。こっちはさっきの携帯電話より簡単だからすぐに覚えられるだろう。
 使い方は────」

 アイリスフィールが身を乗り出して切嗣の手の中にある携帯電話よりなお小型の物体を見ながら切嗣の説明を待ったが、終ぞ続きは語られず、訝しみながら面を上げた。

「切嗣……?」

 切嗣の表情は硬く、視線は虚空の彼方へと向けられている。恐らく、彼が今瞳に映している風景は庭ではなくそのもっと先。昼間に放った使い魔の眼を通した情景を映しているに違いない。

「アイリ。説明はまた後で。状況が早くも動いたようだ」

 未だ帰らないアーチャーに跟けた使い魔が捉えた情報。そして流れていく魔力の先で昂ぶる従者の気配。

「どういう状況なの? まさかアーチャーが既に他のサーヴァントと?」

「いや、違う。どうやら、誇り高い何処ぞの騎士様達が勝手に戦端を開いてくれたようだ」

 つまりアーチャーはその対決を見守れるポジションにあるという事。但し、視覚の共有をしていない切嗣ではアーチャーの見ているものは追えない。せいぜいが使い魔を操作し戦場の近くに潜ませる程度だ。

「舞弥。君の使い魔は今何処に放っている?」

「間桐邸と遠坂邸の監視の為の二匹だけです」

「もう一匹いけるな?」

「はい。問題なく」

「じゃあ今から飛ばしてくれ。カメラを忘れずにな」

 返事を一つ返し舞弥は即座に作業に取り掛かる。
 その後ろで切嗣は顎に手を当てながら思案する。この場所から戦場までは随分と距離がある。舞弥の使い魔、自分の使い魔の二匹分でも充分に情報を得られるだろうが、やはり肉眼に敵う情報源はない。

 しかし露骨に車を飛ばせば同じく観戦に赴くだろう他のマスターに気取られる可能性がある。現段階で切嗣の存在を知られるのは避けたい。

「…………」

 最善はこの場所から動かぬ事。敵は狩れないが、こちらが狩られる心配もない。まだアサシンが健在の現段階において、功を焦った行動は危険極まる。
 暗殺者にとって大切なものは待つ事。敵が油断する瞬間、隙を見せる瞬間を待ち、背後より一撃で仕留める。

『切嗣』

 使い魔を放ち、現状を維持する選択をした切嗣の脳に突然響いたアーチャーの声。この距離で念話は行えない。
 ならばこの声は切嗣の使い魔を通じアーチャーが語りかけてきているのだ。

「……ほう。そこまで頭が廻るか」

 この通信方法の欠点はこちら側から相手に意思を伝える手段がない事。それでもアーチャーが切嗣の使い魔の存在を既に感知しており、更に仲介させて己が声を伝えてきた事には意味がある。

「…………」

 幾らかの話を聞き終えて、切嗣は手元よりもう一匹の使い魔を空に放った。既に放たれた舞弥の使い魔を追う形で戦場へと飛翔していく。

「アイリ、舞弥。僕達はこの場から動かない。緒戦は見送る」

 切嗣の決定にアイリスフィールも舞弥も異議は挟み込まない。切嗣こそがアインツベルン陣営の司令塔であるのだ。その指示に致命的な間違いを認めない限り二人は了解する。

 使い魔の放出、アーチャーの存在、戦場の位置、敵の姿。統合された情報から切嗣の中で緒戦における意義が組み上がった。
 遥か彼方──薄暗闇に覆われ始めた空を見やり、切嗣は呟いた。

「見せて貰うぞ。おまえの実力をな」

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最終更新:2010年07月10日 10:12
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